日付 2001年1月25日
参加者 愁童、アサギ、オイラ、ブラックペッパー、オカリナ、
スズキ、ウェンディ、ペガサス、裕、トチ、ねねこ、
紙魚
テーマ 姉妹

読んだ本:

『天のシーソー 』
安東みきえ/著   理論社   2000.06

<版元語録>なんの約束もなしにこの世に生まれたことが、たよりなくてしかたがないときがある。―大人と子供のはざまの時間。不安と幸福が隣り合わせだった。大人と子供のはざまの時間を切りとる安東みきえ待望の単行本。


『ジョコンダ夫人の肖像 』
E.L.カニグズバーグ/作 松永ふみ子/訳   岩波書店   1975.12
THE SECOND MRS. GIACONDA by E.L. Konigsburg, 1975(アメリカ)
<版元語録>永遠の謎を秘めた名画「モナ・リザ」。レオナルド・ダ・ヴィンチは、なぜ、フィレンツェの名もなき商人の妻ジョコンダ夫人の肖像を描いたのだろうか。


『ベーロチカとタマーロチカのおはなし 』
L.パンテレーエフ/作 内田莉莎子/訳   福音館書店   1996.03
Belochka i Tamarochka by L. Panteleev, (ロシア)
<版元語録>いたずら好きの女の子のベーロチカとタマーロチカは、おかあさんの言うことをちっともききません。騒動を起こしては、おかあさんを困らせてばかり。ロシアの楽しい幼年童話です。


『天のシーソー』

安東みきえ/著
理論社
2000.06

ペガサス:この作品は、おとなになってから子ども時代を振り返ったときに、よみがえってくる、何か割り切れない感情、いわれのない不安といった感覚をうまく綴っていると思う。なんてことない小さなことだけど、非常に鋭いところを拾いあげてみせる手腕を感じたわ。でも、子どもの目で素直にというよりは、あくまでも、おとなになってしまった者の目から冷静に分析して、感情をおさえて淡々と書くという手法を、非常に意識的にとっていると思う。表現には、これはおとなのものだな、と思わせる視線が多々感じられた。6つのエピソードから成り立っているけれど、最後の「毛ガニ」がいちばんよかったかな。どのエピソードも、明解な答えが出ないまま、割り切れなさを残して終わっているけれど、それでも好感がもてるのは、子ども時代ってそういう割り切れないことがあるものだっていう感覚が、読み手の側にあるからだと思う。そうそう、今回は姉妹というテーマだったけど、姉妹というのは小さい時分には、母親の前で常にライバルで、結構生々しいところがある。家の中ではいやでも一緒にくっついている存在だけれど、いなくなると思うと、とてつもなく不安になるという関係が、よく描かれていると思う。

ブラックペッパー:読んでみておもしろかったけど、どうしてか、淡々としていて薄味という感じだった。きれいな文章だから、するするっと読めちゃったせいかもしれないけど、もうちょっとコクがあってもいいかなと思った。描かれている子どもの遊び方がなんだか昔っぽい。私が子どもの頃とは違ったので、作者自身が自分の子ども時代を書いたのかなと思った。今の子どもたちが読んだら、へだたりを感じるかも・・・。ずいぶん前に読んでから貸してしまって、その後時間がたってしまったので、薄味がより薄味になったみたい。最初の「ひとしずくの海」の中で、目かくし道の場面が好きだったんだけど、なにかで作者が「実際に小さいときやっていた遊びです」と書いてあったのを読んで、ちょっと醒めちゃった。

ねねこ:私は読むのは3回目なんですが、この本は、何が書いてあったか忘れやすいですね。最初に読んだときにはなかなかいい、2回目に読んだときにはそこそこいい、という具合だったんだけど、3回目に読んだときには、評価が下がりました。どうしてかというと、偽善的な匂いが鼻についてきたからなんです。例えば、「毛ガニ」で毛ガニをかわいそうだから返してあげなければと思う部分とか、「天のシーソー」でサノの後をつけていって、シーソーをして仲直りする部分とか。あやまりたいという気持ちがあったら、逆に後なんてつけられないんじゃないかしら。おとなの目で子どもを描いていて、主人公のみおという少女には、感覚的に違和感を感じました。p59の「仕事ってのはきちんとかたをつけなきゃ」とかp75の「ちいさい相手だからという理由で、ウソをいってはいけないときめていた」という箇所などには、作者の安東さんが思う「よい子」というのを感じる。その「よい子」ぶりが、3回読むうちにいかにも作られたもののような気がしてきました。「ひとしずくの海」の目かくし道などはいちばんいいと思ったけれど、佐藤さとるさんの短編に似てたり、「マチンバ」が『夏の庭』に似ているというのも評価が下がった点。この作者は、児童文学をいろいろ勉強しているんでしょうね。

ペガサス:私も作為的なものを感じたんだけれど、今回は好意的に受け取ったのよ。おとなから
子どもを見るという手法で、あえてそうしたのではないかと・・・。

ねねこ:どうも淡いスケッチのような、きれいだけど遠い感じなのね。後で出てくるパンテレーエフとはまったく違う。

オイラ:2回読んだのだけど、2回目のほうが評価は高かった。確かにストーリーはどういうのだったか忘れてしまったんだけどね。「この表現、すてきだなあ」という再確認ができたから。この人は比喩がいいんですよ。たとえば、「ローラーブレードをころがして、子どもたちがミズスマシのように鋪道の上をすべっていく」というところなんか、向田邦子作品のような心地よさで、比喩がとってもいい。「毛ガニ」の中での、「カーテンのすきまからのぞき見た」「夜中の町が月光に照らされて」「まるで海の底」に思えたところなんて、スケッチが絶妙だよね。鋭い表現力をもった新人が出てきて、うれしさを感じた。常々いい短編集を作りたいと思っているんだけど、なかなかその思いにこたえてくれる作家がいないんですね。この人はいい。中でも「毛ガニ」がいちばんよかった。他のに比べてストーリーもいい。

スズキ:エピソードの中では、「毛ガニ」が印象的でした。それから当然のことではあるんですけれど、短編集というのは1冊なんだということを実感しました。いろいろなスタイルを持つ物語を、どんなふうに並べるかということが効果につながるんですね。全体的に結論がなくて、もやもやが残ったけど、最後に「毛ガニ」でしめくくられたので結べたという感じ。みなさんからは、けっこうおとなの視点で描かれたという話が出ていますが、私もたとえば小学校高学年あたりで読んだらついていけなかったと思う。あまりにも表現がすばらしく、美しすぎて、作家自身の匂いがしないのが気になりました。大人の視点を貫くという手法もあるのだなあと勉強にもなりました。

アサギ:私はねえ、結論からいうと、この本は好きです。ペガサスさんが言ったように、自分の子ども時代が描かれているようだった。だけど、これが今の子どもに受け入れられるのかというと疑問。文章はうまいし、表現がいいところもたくさんある。なかでもストーリーのおさまりがいいのは、「毛ガニ」ね。姉妹の感じもよく伝わってくる。だけど、表現がよくても忘れちゃうのよ。印象に残らないの。表現力、文章力があるのに、ストーリー性が弱いのよ。なんとか最初の「ひとしずくの海」と最後の「毛ガニ」の両方でしめているという感じ。ねねこさんが言ってたように距離感を感じてしまうのは、おとなになってから子ども時代をふりかえって書いているからじゃないかしら。だから躍動感がないのよね。子どもには受け入れられないかも。

トチ:作家のYHさんに、私の作品について「表現とか形容をブラッシュアップするのもいいけれど、そんなことばかりしていると、せいぜいエセ安房直子的な作品を書いただけで終わってしまう」と言われて、ずしんと心に響いたことがあるの。読みやすいし、うまいし、感じはいいけど、マチンバにしろハーフの兄弟にしろ、どの人も主人公の人生にふらりと交錯して通り過ぎただけなのよね。どの人も本当の意味でコミットメントしていない。サノたちは、この主人公のために存在していたのではないかと思うくらい。ねねこさんが偽善的と言ったけど、「毛ガニ」の中での母親の描き方が共感できない。いただきものの悪口を母親自らが言うなんて。うちでは、子どもの前でいただきもの悪口を言ったりはぜったいしない。この部分は猛烈に腹が立った。すぐ煮て食べて感謝しなきゃ。それに、あの運転手はぜったいに食べたにきまっているわよね。

オカリナ:食べた方がリアルだけど、作者はきっとそうは思ってないはず。そこが困るとこ。

トチ:腹立たしいのは、名簿の話もそう。文章や表現はいいけれど、いらいらするの。前に魚住直子さんの『超・ハーモニー』(講談社)を読んだ時も言ったけど、どうして日本の児童文学の母親像ってステレオタイプなのかしら。元気で小太りか、病弱で美しいかのどちらか。母親像の貧しさったらないわ。どうして、動いているカニくらい始末できないのかしら。小動物ごときを怖がってキャーキャー騒いだり。

愁童:オイラさんが好きっていうのはよくわかる。まー、ぼくも好きなんだけど。この会の最初の頃に、ねねこさんが「この読書会は日本の作品に厳しすぎる」と言われたけど、確かに日本の作品に対しては評価が偏ってるかも。好きなものでもなんだか文句言いたくなっちゃうんだよな。日本人は花鳥風月が好きだけど、この本、確かに描写はうまいんだよね。情景描写がうまくて、場面も残る。読んでいるときは気持ちがいいんだけど、なにか足りないんだ。結局のところ、人なんだよね。この本はしゃれているし、スマートだし、読後感もいいんだけど、登場人物にかける執念がないんだ。おとなとして子ども時代を振り返るのも文学のありかただけど、児童文学として子どもに読ませる覚悟があるなら、こういう書き方はどうかな?「針せんぼん」の姉妹の描きかたには違和感をもったけど、でも帰り道でミオが妹のヒナコ会うところなんかはうまい。出だしの「ひとしずくの海」のマンガ本のお金について姉妹げんかするところも、子どもの神経をうまく書いている。こういうところをふくらましてきちんと書いてくれれば、もっといいんじゃないかな

オカリナ:2回読んで、最初はよかったんだけど、2回目読んでみて、腹が立ったの。腹が立ったっていうのは、自分の中に、こういう世界を心地よいと思う気持ちがあって、そこから抜けださなくちゃって思いもあるからなんだけど。いちばんまずいのは、現実がとらえきれてないところ。唯一ちゃんと書けているのは、妹とのやりとりで、あとは登場人物と真剣にかかわっている感じがなくて、ほかの人たちはみんな背景とか飾りみたいになってる。文章はいいし、こういう心象スケッチって、私もとても惹かれるんだけど、下手すると自己陶酔的なセンチメンタリズムで終わっちゃう。主人公が出会うのは、自分より弱い立場の人ばかり。再婚家庭だったり、一人暮らしのおばあちゃんだったり、父子家庭の幼い子だったり(しかも母親が外国人)、体が不自由な人だったりね。まわりの人たちを上から見て思いをかけ、そういう自分を美しく描いてるって気がする。まわりの人を、無意識的に健気とかかわいそうという対象にしちゃってる。それに、中3の女の子が小4の女の子と手をつないで、「目隠し道」なんてするかな? もっと幼い年齢ならわかるけど?

ブラックペッパー:そうよねー。でも、昔はやったのかも・・・というか、作者はやってたわけだけど。

オカリナ:この作家はやったかもしれないけど、リアルに想像しにくい。「サチねえちゃんがうちに帰れなくなったときには、あたしがつれていってあげるよ、目かくし道で。だから帰ってきて。きっとまた帰ってきて」「涙がつたってくちびるをぬらした」というところなんか、センチメンタルとしか思えなかったけどな。

ねねこ:私も3回目に読んだとき、何となく美しいイメージにごまかれていたんじゃないかと、自分に腹が立っちゃった。

オカリナ:それに「マチンバ」で、最後、おばあちゃんがピンポンダッシュを好意的に受け取っていたということがわかるでしょ。好意的にとるから美しい話になるんだけど、リアルな状況ではまずありえないよね。このおばあちゃん、ぼけてるわけじゃないんだし。

トチ:本当にうまい作家の作品は、たった1行だけで、とてもたくさんのことを言っているのよね。例えば『テオの家出』(ペーター・ヘルトリング.著 平野卿子訳 文研出版)で、テオがパパフンフンに「おじいさんのうちの家族は?」ってきく場面があるでしょう。するとパパフンフンは一瞬だまってしまうの。そこのところのだった1行の描写読んだだけで、それまでのパパフンフンの人生が読者の目の前にぱあっと広がるのよね。

オカリナ:そうそう。さっきローラーブレードの比喩がうまいって話がでたけど、ローラーブレードは水すましのようにはならないんじゃない?

トチ:あめんぼと水すましって、関東と関西で言い方がちがうのよね。

オイラ:水すましっていうのは、足がすらっと長くて、ぴょーんといくのでしょ。(オイラの勘違いでした。ハズカシイ!)

ブラックペッパー:水すましとあめんぼの違いはよくわからないんだけど、ローラーブレードはアイススケートみたいに、縦一列にローラーがついてて、シャーッシャーッとすべるように進んでいくやつのことでしょ。トンッスー、トンッスーというのはローラースケートかも。

アサギ:ところで、さっきの「マチンバ」の話に戻るけど、私は子どもたちのいたずらを好意的に受け取ったのは、そう思いたいほどおばあちゃんが孤独だったからかと思ったわ。

オカリナ:いくら人のいいおばあちゃんでも、ピンポンピンポンあれだけされて、そう思うかしら? 私には、おばあちゃんがお菓子を用意して待ってたなんて書くことが、年寄りをバカにしているようにも思えるんだけど。「針せんぼん」の父子家庭の兄弟の話にしたって、リアリティがぜんぜんないの。お父さんが風邪をひいたからおばあさんのところに預けられてた5歳と3歳の男の子が、随分前にミオと約束したのを思い出して、寒い日に長い道のりを歩いてミオの家に来るのね。それも、親の人形を紙粘土でつくってそれに色づけするからっていうことで、よけい哀れな感じなんだけど。で、ミオの方は約束をすっかり忘れてて、そのまま幼児たちを帰しちゃうんだけど、この子たち、すぐ近くの家にいるお父さんのところには寄りもしないで、また遠い寒い道をおばあちゃんの家まで帰ったという設定なのね。それで、この子たちの哀切感を出そうってことなのかもしれないけど、子どもってそんなもんじゃないでしょ。3歳と5歳の子どもがけなげに会いにいくっていう設定も、嫌らしい感じがして・・・。いい加減にお姉さんぶってるミオの同情なんか、木っ端みじんにするくらい、小さな子だってエネルギーもってると思うのよね。リアリティのない美しさにだまされちゃいけないんじゃないかな。それから、「天のシーソー」でサノが、帰り道お父さんの前を知らん顔して通りすぎるところがあるでしょ。「カタン、オレのしたことが重い? コトン、あたしのしたことが重い?」って、サノは自分の行為を悪いと思ってるっていう設定なんだけど、あの年頃の男の子が、親を避けるのはあたりまえじゃない?

アサギ:お父さんの前を知らん顔して通り過ぎたのは、貧しさが恥ずかしかったってことよね。

ねねこ:シーソーの話は、ミオがサノにあやまろうと後をつけていって、「あたしたちがわるい。ぜったいにわるい」と言うところが、嫌だった。

ペガサス:子どものときには、ああいうことってあやまろうと思わないはず。うしろめたさや罪悪感は感じていても。

オカリナ:おとなが子ども時代を回想して郷愁にひたるのはいいとしても、子どもにそれを押しつけちゃいけないでしょ。

ペガサス:おとな向けか、子ども向けか、わかりにくい体裁なのよね、この本は。それにしても、子どもはあやまろうとなんてしないわよ。

ねねこ:悪いとは思うかもしれないけど、本当に悪かったと思えば思うほど、そう簡単に言えないのが人間じゃないかな。

:技巧的にシーソーを使って、罪が重いというイメージを出そうと、そっちが先行していたんじゃないかしら。作者はそう深くは考えていないかも。

ペガサス:そこに問題があるかもね。

ねねこ:その象徴が「毛ガニ」よね。今さら海に帰っても、毛ガニは生きられないでしょ。

オカリナ:お道具箱につめてわたしちゃうなんて。

愁童:でも、この作家は才能あると思うよ。「マチンバ」の最後の方で、妹のヒナコがぱくっとチョコレートを食べちゃうあたりなんて、よく書けていると思うし、「天のシーソー」で、シーソーをこいでいる描写などもうまいしね。

オカリナ:私もうまいとは思うの。でも、スキルがあって内容がないとしたらもったいない。

愁童:ぼくは、『バッテリー』(あさのあつこ著 教育画劇)は好きじゃなかったけど、兄弟の描きかたは、この作品に較べたら、はるかにいいと思う。うまい下手はともかく、作者が伝えたいと思ってる人物象がきちんとあるもの。

:男の兄弟と、女の姉妹は根本的に違うとは思いますが。

ウェンディ:私は今日ばーっと読んだんだけど、昔の子どもってこんなだったんだと思いました。今の子どもたちに読んでもらえるとは思いにくい。他の学年の人と交じってドッジボールするなんていうのも懐かしい感じ。でも、昔だってこんないい子はいなかったのではないかな。古きよき時代を振り返っての、いい子ども像が描かれているよう。記憶の中の物語というところでしょうか。

紙魚:読んでみて、なんだかこの感じ何かに似ていると思って考えてみたら、そうそう、昔小学校で読んだ、道徳の教科書みたいでした。小さい頃は、この子のどこがいけないのか、どういうところがやさしいのか、この事件を通して気持ちはどのようにかわったのか、などという設問に答えるのはとっても嫌だった。この本は、設問として傍線が引かれるであろうところが見えかくれしていて、好きになれなかった。

:私はまず、なぜ名前がカタカナなのかが疑問。この本は、情緒的なものをコアにしているけれど、情緒的なものに流されないように書いている。ノスタルジーというよりは、ロマン派的子ども像といった感じで、子どもをふりかえるというよりは、理想的な子ども像を構築しているのではないかしら。ハーフの兄弟の面倒を見たりするところは、決してリアルじゃない。シーソーがカタン、コトンというのもやめてほしい。皆さんから出てきた、偽善的、薄味といった印象を私ももちました。ただ、言葉にならないものを言葉にしていく、メッセージにならないものをメッセージにしていくという点で、短編というかたちをうまく使っているとは思う。「毛ガニ」がいいと言える人はえらいと思います。

アサギ:そういえば、カタカナで名前を表記するのは、川上弘美なんかもそうよね。彼女なんか、苗字もカタカナよ。

ブラックペッパー:『少年と少女のポルカ』(藤野千夜著 講談社)もそうだった。

オカリナ:カタカナで表記した方が、記号的になるからね。

ねねこ:作品の中で、憐れみをかけている相手は、漢字で表されているみたいね。

アサギ:カタカナの方が、観念的だからかしら。

ペガサス:それにしてもヒナコっていうのは、カタカナが似合わないと思わない?

一同:そうねえ。

オイラ:いろいろ批判的な意見が出ているけど、表現がうまいという点で、それだけでも評価したいな。確かにストーリーは弱い。人生観には共感しにくい。重松清のように、著者の強い人生観を見せつけるというような面は薄いけれど・・・。

オカリナ:もしかしたら、私も子どものときは、こういうの好きで読んだかもしれない。でも今は、子どもが読むものだったら恐いなと思う。「毛ガニ」なんか特に。

アサギ:「毛ガニ」がだめだっていう人も多いけど、私は寓話的な感じがしたので、気にならなかったわ。

トチ:オイラさんが言ったように「登場人物の人生観を見せつけるというような面が薄い」というわけではないと思うのよ。作者が薄くしようと思っても、濃くしようと思っても、自然にあらわれるものだと思うの。表現がうまいから、なんだかいい声の人のつまらない話を聞いている感じも・・・。

ねねこ:この作品は、悲しみの底が浅いように感じるの。作者の人生の幅が感じられない。どうも頭で書こうとしてる気がする。

ペガサス:表現と内容(人生観)のギャップに気づいちゃうと、もうそこで読み進められなくなるのよ。こういう人は、ファンタジーを書いたほうがいいわ。

オカリナ:ファンタジーだって、世界観がないと書けないでしょ。

一同:(うなずく)

トチ:命の大切さが感じられないしね。カニに対してかわいそうだわ。

愁童:でも、日本人は本質的にこういう本は好きなんじゃないかな。

ペガサス:表現がうまいだけじゃ、子どもは読まないわよ。

トチ:いや、子どもだってうまい表現っていうのを好んだりするわ。吉田弦二郎みたいのを好んで読んだりするわよ。

ペガサス:でも、おとなは表現がうまいってだけで楽しめるからね。

アサギ:たしかにこの人、表現うまいわよ。私、翻訳するときに使おうと思ったところいくつかあったもの。

:では、元気があるうちに、そろそろつぎの本に・・・。

(2001年01月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


『ジョコンダ夫人の肖像』

E.L.カニグズバーグ/作 松永ふみ子/訳
岩波書店
1975.12

トチ:カニグズバーグの作品の中でも、この作品は今回改めて読みなおすまで、よく覚えていなかったわ。『クローディアの秘密』(松永ふみ子訳 岩波書店)の子ども像の描写はとてもうまくて好きだったけれど。これは、子ども像の描き方は巧いんだけれど、もう一つ高尚な世界。芸術の本質を描いているけど、感動はなかった。登場人物が好きになれなかったからかしら。何を語ろうとしているのかわからなかった。この作品、欧米では評価が高いらしいけれど、それはダ・ヴィンチが欧米人にとっては自分の文化に深くつながっている人物だからという面があるんじゃないかしら。あと、翻訳者に感動がなかったからかも。翻訳者自身、カニグズバーグが描こうとしたダ・ヴィンチの本質をわかって訳していたのか、疑問ね。もう少し感動して訳していたら、違った印象になっていたかもしれない。

ブラックペッパー:カニグズバーグは大好きで、子どもの頃ほとんど読んだんだけれど、この作品はイマイチだったんだなー。やっぱり『クローディアの秘密』とか『ロールパンチームの作戦』(松永ふみ子訳 岩波書店)なんかが好きで、これはあまり印象に残っていなかった。ところが、今回読みなおしてみたら、いいなと思って。それはきっと自分が大人になったからだと思うんだ。たぶん子どものアタマ、子どもの感覚には難しすぎたんだろうね。芸術の本質だとか、ミラノの王侯がどうしたとか、小学生にはなんのことやらわからないもの。イザベラとベアトリーチェの確執とか、結婚生活とか、婚姻によって貴族の力を伸ばすとか、そんなことって、子どもの頃は興味がなかったから。でも、今では知識もちょっとは増えてるし、おもしろく読めた。ひょっとして、大人向けに出したら、もっとおもしろいんじゃないかなと思ったな。

オイラ:義務感で読んだだんだけど、途中で投げ出してしまった。

ねねこ:この作品は、20代の頃はじめて読んで、その頃は『クローディアの秘密』のほうがいいと思ったの。でも、今回読んで、おもしろいと思った。教養小説という感じで、14〜15世紀イタリアの知識が得られて、ためにもなった。資料に基づいていかに小説に作るか、わかっていない部分を推理して作り上げることのおもしろさが、小説の醍醐味のひとつだと思うのね。自分自身のイタリアへの興味が、以前より増えたこともあってか、今回は、一気に読んだ。「姉妹」というテーマに沿って言うと、器量はよくないけれど教養が魅力のベアトリーチェ、美貌に頼ったイザベラという構図はありきたりで、深い感動はなかった。それより「芸術とは何か」についての作者の考えがとてもわかりやすく述べられていて、おもしろかった。また、「無責任であることの責任」とか、芸術に不可欠のワイルドさ、野放図さの概念なんか、なるほどと思い、読んで損はなかったな。

紙魚:この作品は初めて読みました。カニグズバーグだし、めくるめくストーリーかと思いきや、神妙な雰囲気でおもしろく読んだの。でも、小学生のときに読んだら、このおもしろさは決してわからなかったんじゃないかな。児童文学をリアルタイムで読んだとき、こういう形式のものは読み取れなかったもの。ストーリーのおもしろさがなければ、仮に頑張って最後まで読んだとしても、印象には残らないんじゃないかな。私はミヒャエル・エンデの『モモ』(大島かおり訳 岩波書店)や『はてしない物語』(上田真而子訳 岩波書店)を読んで、すごく気に入って、エンデのものは全部読もうとしたんだけど、『鏡の中の鏡』は(丘沢静也訳 岩波書店)は、小学校高学年や中学生くらいでは無理だった。この作品も、今読んでみると、それぞれの人物が不条理を抱えつつ生きている。例えば、サライは、しいて分ければ悪人に入るだろうけれど、はじめのうちは人をだまし、人の心を弄ぶ。でも、この本の体裁からは、まさかそんな話だとは思わない。様々な人間模様は、リアリティはないのだけれど、舞台で演じられている劇を見るつもりで想像しながら読めた。その意味で、シナリオを読んでいるような気分だった。シナリオも子どもの頃はうまく情景が想像できないですよね。

ブラックペッパー:アクが強いっていうか、ひとくせもふたくせもあるような人ばっかり出てきて、ちょっとしんどいしね。

トチ:最後まで来て、ジョコンダ夫人の夫がいい人で、ようやっとホッとできるのよね。

オカリナ:ダ・ヴィンチとサライの関係って、他で読んだことがなかったからおもしろかった。ただ、松永さんの訳は、上品すぎるんじゃないかな。

トチ:そう、「若者をベッドへ導いて行った」(p133)という1行も、意味がよくわからないで訳したような感じよね。

オカリナ:ダ・ヴィンチとサライは同性愛だったと思うんだけど、この1行だけで、他の描写からは伝わってこないわよね。それにサライは、最初のうち一見何も考えていない脳天気な少年なんだけど、後のほうでは少しずつ思索的になっていくでしょ。松永さんの訳では、その対比が消えちゃって、ダイナミズムがそがれているような気がする。そのせいで、感情移入しにくいのかな。ベアトリーチェが魚の上に金貨を並べる場面なんか、嫌らしい女性だな、って私なんか思うんだけど、どうしてサライがそんなベアトリーチェにまだ惹かれているのか、というところが出てくると、もっとおもしろいのにな。今のままだとベアトリーチェの人間的な魅力が薄っぺら。サライとベアトリーチェもひょっとして関係していたとしたら、なんて考えると、大人の本として書いたらもっとおもしろいのかな、とも思うけど。

トチ:そのへん、訳者はどう思っていたのかしらね。『彼の名はヤン』(イリーナ・コルシュノフ作 上田真而子訳 徳間書店)でも、上田さんは、官能的なところをセーブして訳してるでしょ。

オカリナ:この本、図書館で借りようとしたら、閉架書庫に入っていて、出してもらわなくちゃならなかったのね。子どもはアクセスしにくい本になっているのかな。

ペガサス:この本が1975年に日本で出たとき、私は図書館に勤めていて、当時、カニグズバーグは昇り調子で、アメリカ現代児童文学の旗手として注目されていたのね。だから旬な作家、旬な作品として非常に楽しみに、おもしろく読んだことを覚えている。でも、子どもたちがこの本を実際に手にとっている姿は記憶にないな。『ロールパンチームの作戦』や『クローディアの秘密』は人気があって、実際に子どもたちがつぎつぎ借りていったし、ブックリストにもよくとりあげたんだけど。外国の、しかも歴史を扱った作品の宿命ということもあるかもしれないわね。ダ・ヴィンチとかモナリザの評価を知らないと無理よね。歴史が舞台になっていても、子どもも楽しめる作品というのももちろんあるけれど、この作品みたいな謎解きのおもしろさは、下地がないと難しいよね。あと、サライの言葉遣いが妙に子どもっぽいのが気になったわ。もう少し大人っぽくてもよかったんじゃないかな。サライの人間像は、ほんとうはもっと生々しく魅力的だったんじゃないかな。この訳だと、無邪気な子どもとしか捉えられていなくて、ちょっと物足りない。

オカリナ:この作品の中で、サライは10歳から20歳まで成長するのよね。

ペガサス:そうそう。なのに、ずっと子どもっぽいままなのよ。この人物の本当の魅力が活かしきれていない気がして、物足りないのよね。

愁童:ぼくもカニグズバーグの作品は全部読んでいたんだけれども、この作品はいちばんつまらなかったね。大人の読者として読めば、すごくおもしろいんだけども、カニグズバーグの作品としては、やや期待外れの感じ。カニグズバーグが作家的成長をめざして、新しい分野にチャレンジするエネルギーとか才能は感じるし、貴重な作品、いい仕事とは思うんだけれど、今読むとカビ臭さは否めないね。少なくとも、日本の子どもにはわからないだろうね。

ねねこ:初版から25年で13刷というのも、岩波の本にしては遅いわよね。

愁童:英語圏の子どもには、身近な題材なんだろうかね。

トチ:日本の子が織田信長を読むようなものでしょ?

スズキ:サライの何にも束縛されない奔放さなんかがおもしろかった。『天のシーソー』の後に読んだから余計そう思うのかも知れないけれど。人物それぞれにクセがあって、それがよく描けていると思ったし、温かさが伝わってきて、のめりこんで一気に読んだわ。ジョコンダ夫人が誰かという落ちにも意表をつかれて、感動して読み終えました。読んでよかったと思った一冊。ダ・ヴィンチについて、これまで、雲の上の人という印象しかなかったけれど、どんな天才にも欠点があって、支えあって生きているんだというメッセージもこめられているんじゃないかしら。カニグズバーグの作品だということを忘れて読んだ。

アサギ:おもしろく読んだけれど、これは子どもの本ではないわね。個人的には関心あるテーマだったけれど・・・。レオナルドのような天才が、サライのような人間を必要としていた、というあたり、すごくおもしろかったわね。ただ、すごく読みにくかったわ。なぜかっていうと、初歩的な翻訳テクニックと言われる話になるんだけど、欧米の作品って、同じ人物を、名前で呼んだり、「誰の弟子」「誰の夫」「誰の娘」といった人間関係を使ったりと、くるくる言いかえるじゃない。それをそのまんま訳しているから、つながりがとてもわかりにくいのね。人間関係を把握しながら読むのに、とても骨が折れたわ。でも、最後のオチなんか、うまい!と思った。実力のある作家よね。うまく訳せていれば、もっと違う作品になったはずよ。

トチ:訳者は、実はこの作品が好きじゃなかったんじゃないかしら?

アサギ:どこかずれているのよね。『ロールパンチームの作戦』とかではそうは思わないんだけれど。訳がよければ、感想も違ってきてると思うのに、とっても残念だわ。

トチ:この時代の訳って、こんな感じだったのよね。

ねねこ:巻き毛を直してやる場面なんかもそうよね。

アサギ:作者がこれだけは絶対言いたいということを、端々で匂わせるような訳を心がけなきゃと思うのね。ベアトリーチェの魅力なんかも、今ひとつ伝わってこないでしょ。でも、それはともかく、芸術の本質を垣間見たという意味ではおもしろかったわ。レオナルドにとってサライがかくも重要だったというあたり、原書はもっとすばらしいはずよ。

:きっちりした小説作法に則った、少し前の作品という感じがしましたね。姉妹の関係が構造的にぴったりはまっているの。つまり、人間の裏と表、光と闇を、2人の人間に分けて描くという形をとろうとしたんじゃないかしら。そういう小説作法の中に位置づけたからこそ、ベアトリーチェはこういう人物として描かれたのではないかと思うの。そして、正反対な2人を芸術が統合する、という構図を、「モナ・リザ」の背景としてもってきているんじゃないかしら。姉妹というテーマから読んでみると、この小説における姉妹の役割は、そういうふうに捉えられると思うのね。
会話のかけあいから物語が展開する話という意味では、最近私が関わった短編集『こどもの情景』(A.A.ミルン著 パピルス)の中にも、まさにそういう作品が収録されてる。幼年文学における兄弟姉妹の役割ということを考えると・・・幼い子どもと“同じ背丈”の兄弟姉妹というのは、幼年文学において、不完全がセットになって、子どもの領域を浮き彫りにするという役割を果たすと思うのね。一人一人の人物が、子どもにとって、自分を投影しやすい存在になっている。その中でも、兄弟と姉妹の役割には厳然たる違いがあって、その組み合わせによって、意味も違ってくるのではないかと思っているの。姉妹ならどうしてもジェンダーの問題がからんでくるし、兄弟なら兄を乗り越えていく弟というテーマがつきまとう。そんな意味から、今回読み返してみて、小説におけるきょうだいの役割という問題に、新たな答えを得られた作品だったわ。

(2001年01月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


『ベーロチカとタマーロチカのおはなし』

L.パンテレーエフ/作 内田莉莎子/訳
福音館書店
1996.03

アサギ:どうもロシア語の発音というのは日本人には異質のようで、この「タマーロチカ」と
いうのを「タマローチカ」と読む人が多いのよね。この本は、幼年童話としてはよくできていると思う。ただ、古いなと思った。この内容で、今の子は共感するのかしら? ちょっと骨董品を読む感じで。というぐらいで、あまりにも問題性がなかった。

愁童:それなりに読ませるんだけど、キノコとか、海水浴とか、状況設定が日本には合わないんじゃないだろうか。ぼくには、今の日本にこれを持ってくる送り手側の意図がわからない。まあ、幼年童話の教科書的存在ではあると思うけどね。

トチ:私は、幼年童話は特に新しくなくていいと思うの。この本は読者が主人公を自分よりちょっと下に見て「この子たち、こんなことやってるんだ。ばかだなあ。でも、おもしろそうだなあ」という、一種の優越感と幸福感が持ち味になっている。私も子ども時代に読んだら大好きになっていたと思うわ。姉妹の着ているワンピースの色なんて、小さい頃に読んだらわくわくしただろうな。

ペガサス:『ミリー・モリー・マンデーのおはなし』(ジョイス・ブリスリー著 上條由美子訳 菊池恭子絵 福音館書店)とか『ジョシィ・スミスのおはなし』(マグダレン・ナブ著 立石めぐみ訳 福音館書店)もそうだけど、幼稚園上級から小学校低学年あたりの子どもに、読み聞かせてあげるととても楽しめるお話のひとつ。エピソードのつみ重ねで、耳から聞くとおもしろい話だと思う。外国の風物なども出てきて、知らない国のお話をちょっと聞かせてもらったという感じね。

ねねこ:よき幼年童話の典型と言えるでしょう。全体的にお父さんのかげがないのが気になったけど、こういった幸せな幼年童話というのは、今やメルヘンに近くなっているのではないかな? 浮浪児だったパンテレーエフは『金時計』など、もっと激しい切ない作品があるけれど、これは53歳のとき、自分に遅くなってやっと子どもができた頃の作品だから、幸福感が流れているわね。

紙魚:私はこの本は大好きです。もし自分がもっと幼いころに出会っていたとしたら、きっと母に枕もとで読んでもらったんだろうなという状況が思い起こされる物語。ベーロチカとタマーロチカの名前のところを、きっと母は、私と姉の名前に置きかえて読んでくれただろうなとか。実際、母が私たち姉妹のいたずらを題材に、手づくり絵本を作ってよく読んでくれていたんですが、なにしろ物語の中で自分たちがしでかすいたずらにどきどきしてたんです。なんてったって最初のページの「ふたりとも、いうことをきかない女の子でした」っていうところで、ぐっとひきつけられる。日本のお話なら『いやいやえん』(中川李枝子著 大村百合子絵 福音館書店)かもしれないけれど、子どものときに「いうことをきかない」ってことは、とっても魅力的だったんです。

スズキ:私は、最後の「おおそうじ」がすごくうまいと思った。子ども独特の、ものごとを大きくとらえられず、ひとつのことしか見えない様子なんかを、うまく出していると思う。古典的な幼年童話というのは、ほめ言葉であるのと同時に、もっと新しい作品をという意見でもあるけれど、幼年童話には安心感があるということが第一条件なのではないかな。もちろん、そうじゃない描き方もあるけど。それにしても、いたずらっていうのはマジックがありますね。つぎつぎとやってくれるというのが、お話をうまく動かしていると思います。

オカリナ:私は、この本は単なる典型的な幼年童話と少し趣が違うと思ってるの。なぜかというと、たとえば森の中でこの子たちが隠れてわざとお母さんを心配させようとするところがあるでしょ。それに対してお母さんは、子どもの声が聞こえなくなっても、立ち止まらずにどんどん先に行ってしまうわけよね。これ、リアルな状況として考えてみると、怖い。子どもは、自分が主人公になって物語に入りこむわけだから、リアルな状況としてとらえると思うの。子どもとお母さんの距離がけっこうある。そんなせいかどうか、福音館でも『ミリー・モリー・マンデー』とか『ジョシー・スミス』はよく売れるけど、これは売れ行きがイマイチらしいのね。

トチ:私も「『ジョシィ・スミスのおはなし』(マグダレン・ナブ著 たていしめぐみ訳 たるいしまこ絵 福音館書店)みたいなのを探してきてって言われたわ。

愁童:ぼくは、なんだかこの本はしっくりこないんだな。どうしてこのような古いものを、わざわざ今の子どもに読ませようとするのかがわからないんだよ。今の子にぴったりくるとは思えないな。

オカリナ:古い感じはしないけど。

愁童:送り手側の思いこみであって、受け手にはどうしてもギャップが生じてしまうように思うんだよね。この病んだ時代、幼稚園だって不登校があるんだ。ここまでハッピーな話っていうのも、どうかと思うけど。

オカリナ:子どもが幼いときには、ハッピーな物語って大切だと思う。生きていていいんだよっていうメッセージを、まわりから受け取って安心する時期があってこそ、次の段階に行けるんじゃないかな。

愁童:でも、どうも嘘っぽいんだよな。この本は、悪くてもいいんだという解放感をあたえてくれるから、おもしろいんでしょう。悪くても社会は受けとめてくれるという安心感があったからだよ。今の時代の子どもたちは、昔よりずっと希薄な人間関係の中にいるんだから、状況は違うと思う。さっき、「いうことをきかない」っていう部分がいいって話が出たけど・・・。

紙魚:「いうことをきかない」っていうのは、時代をこえて子どもに魅力的なことなんじゃないかと思うの。たとえ、社会に受けとめる余裕がなくても、この本の中で、「いうことをきかない」子どもたちがのびのびと動いていることが、読者にとっておもしろいでしょうし、たいせつなことだと思うし。

愁童:物語の中に、自分も同じことをやるかもしれないっていう、ふみこめる領域がないといけないと思うよ。キノコこ狩りや海水浴は、今の子どもたちにわくわくするような機会をあたえられる題材じゃないよ。

オカリナ:幼い姉妹だけで海には行かないかもしれないけれど、子どもって近所の公園の池で遊んだりするときに、そこが海だと思ったりするでしょ。だから、この物語だって、別に遠い話だとは思わないんじゃないかな。

ブラックペッパー:私はほのぼのとかわいらしく、安心感があるこの本がとっても好き。いうことをきかない子がいたずらをするというのは、とってもおもしろくて、読んでてうれしくなる。古いんじゃないかという意見もあったけど、『おさるのジョージ』シリーズ(M.レイ&H.A.レイ作 岩波書店)だって古いけどわからないというわけでもないと思うんです。なかでもくだらない会話がおもしろい。キノコ狩りのところで、お塩をつけるとかつけないとかっていうところが絶妙。こんなにおもしろいのは、なかなかないと思います。

オイラ:読んだ後、幸せになったなあ。子どもの側からすれば、どんないたずらをしても、お母さんには怒られても許してもらえるんだという安心感、お母さん側からすれば、子どもがどんないたずらをしても、容認するということ、この物語には、そうした母と子のとてもいい関係がある。この本を、いらいらしているお母さんが読めば、きっとゆったりとした気分になると思う。

ねねこ:日本の幼年童話のなかにも、松谷みよ子さんとか、いせひでこさんとかに、姉妹を描いたものがありますが、そうした人たちの作品には、どこか、お母さんに不安感や、時代の反映があります。赤ちゃんを迎えにいくところなどでは、お母さんの焦りがこちらに伝わってきます。そういう意味では、松谷さんなんかは時代を描いていたということでしょう。この『ベーロチカとタマーロチカ』は、生活に迷いが生じなかった時代の幼年童話なのでしょうか。子どもからすれば、どちらの類も違和感なく読めるとは思います。ただ、そんなことを考えていくと、今の時代ではどんな幼年童話を作っていけばいいのかと迷います。

オイラ:現実は不幸なので、物語は幸福でいいと思うけど。

愁童:うーん、この物語なんかは、耳から入ったほうがいいかもしれないね。「おおそうじ」でインクがこぼれる部屋のお話なんておもしろいし。ただ、今の時代にこれを読む余裕があるのかということが気になるね。

オイラ:読者からの感想でいちばんうれしいのは、「読んだ後、幸せな気持ちになれた」という感想。この本のように、お父さん、お母さんがゆったりと子どもに読む幼年童話が、もっとできてほしいですね。

(2001年01月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)