斉藤洋/作
講談社
1990.08
<版元語録>中学2年の進は、好きな女の子の誕生日プレゼントを買うために、ひと夏でお金が必要だった。夏期講習でいっしょになったクラスメートの直美がすこし気になってもいる。ふとしたはずみで、おじさんからお金を借りて株を買った進だが…。株とプレゼントと揺れる心の行方は。
愁童:2、3年前に図書館の若い男性司書に薦められて読んだことがあったんだね。今回再読して、少し好感度はあがったけど、この本に、この読書会で出会うとは思わなかった。これだけ、あっけらかんと、時代をまるごと肯定されちゃうと、その思い切りの良さに脱帽したくなっちゃう。これ、バブルがはじける直前ぐらいに出た本ですよね。あの頃サラリーマンをやってて、いろいろな経済学者や技術評論家の時代の観測論文を読まされた。例えばニューセラミックのマーケットとして歯科の分野が有望だ。高齢化社会が進むから入れ歯の需要は増加する。口の中の半分が入れ歯になると仮定し、セラミック入れ歯が一本5万から10万とすると、人間1人の口の中に、70万から140万の需要が存在する。車は一家に1台だけど、これは家族全員がマーケットに成りうるのだから、自動車メーカー以上のビッグビジネスが生まれる必然性がある、なんてね。そういう風潮の中で、この作者も同じ視点に立って書いているのね。作家は、そういうのとは違う視点がほしいなんて思うのは古いかな、と思うぐらいに、おもしろく読めるんだけどね。今が書かれているか否かと議論したことがあるけど、こういう今ってありかなって気になった。その作家独自の目がほしいよね。クリストフ的目があってもよかったんじゃないかな。
オカリナ:私は『誰が君を殺したのか』とはわざと違えて、今回はジャンルの違う本3冊になっているのかと思って、まったくのエンターテイメントとして読んみました。会話がおもしろいし、株の仕組みの説明なんかもとてもわかりやすくて、なるほどと思った。ただしバブル期の本ですね。おじさんが100万円貸して、儲かってガールフレンドにプレゼントするなんていうのは、バブルが終わってから読むと、あまりにばかばかしい。読者にも、テレビのバラエティ番組みたいに、おもしろおかしいドタバタとして感覚で受け取られると思う。ただ、女性像が古いなあと思った。言葉遣いもそうだし、女の子は誕生日に金目のものをほしがるものだから稼いでプレゼントするのがいいとか、さちこさんと高杉峰雄さんとの関係にしても、「女というのは金がかかる」だって? ふーん。この作家は、どの作品でも新しい価値観の提示はしてない気がするな。おもしろさで本嫌いの子も惹きつける力をもった作品だと思うんだけど、表面的にはエンターテイメントでも、もう少し芯があるといいな。
ウォンバット:こういう本は、意地悪な気持ちになってしまうと、とめどなくなってしまいそうなので、そうならないようにと注意しながら読んだんですが、出てきてしまったんですね、見過ごせない言葉が。ちょっと今、ここで口に出すのも恥ずかしい単語なんだけど、「ペチャパイ」。アウト! って感じ。今は、誰も使わないでしょ。しかも、女の子が言っちゃうんだもん。「あんまり見ないで。わたしペチャパイだから」なんて、これはないと思う。主人公の願望としてそう言われたい、というのがあるんだろうけれど、「見ないで」という人が、水着になる場所に自分から誘ったりしないでしょ? 本当にコンプレックスがあって、心の底から見られたくない! と思ってたら、男の子とプールに行ったりしないよー。10年前でも、この言葉はなかったと思う。と、まあそういうわけで、ここから先は、もう意地悪な気持ちになってしまって、復活できませんでした。そのうえ、後ろの方でもう1回出てきちゃうのよ、この言葉。(と発言したけど、先日「からくりTV」で浅田美代子がこの単語を口に出しているシーンに遭遇。衝撃を受けました。死語だと思ってたのに・・・。)「楽しめる」っていう意味ではいい作品かもしれないけど、私が「楽しむ」にはちょっと無理があった。服部さんが関西弁こてこてで、楽しいやくざみたいになってるのも、作られすぎの感じ。こういう人が、そんなにぽこぽこいる訳はない。
アサギ:ペチャパイってそんなに古いの? 自分から言うときは何て言うの?
ウォンバット:「胸がない」とか「小さい」とか言うけど、あまり名詞では言わないんじゃない?
ペガサス:斉藤洋は割りと好きな作家。章題のつけ方とかもおもしろいと思ったわ。ものごとのおもしろがり方がおもしろいと思って。ともすれば堅苦しくなりがちな日本の話の中では、好きな方に入るかな。おもしろく読めるお話。でもやっぱり10年前の話だなと思った。子どもたちが、嫌だけどさして反発もせずに学習塾に行くような時代だったんだなと思った。ダメだなと思ったのは、女の子は著者が考えているかわいい女の子に過ぎないというところね。「時々わけのわからない考え方をする」のは自分のお母さんだけのことなのに、それを「女ってものは」と言ってしまうところ、ダメだな、という感じがしてしまった。こういう考え方をする人って女の子ってこういうふうに誰でも話をかえる、とか。自分の考え方をおしつけてる。幸子さんが女性の理想像として描かれているけれど、もういいわ、と思ってしまった。10年前ではあるけれど、やはり外国の作品より身近に感じられるので、日本のものにこそ、もっとおもしろいものが出てほしい、とは思ったわ。気軽に読める楽しいお話がもっとあればと思う。
ねむりねずみ:『誰が君を殺したのか』の後に読んだので、軽いなあと思いました。前に読んだひこ・田中さんの『ごめん』(ベネッセ)に結構インパクトがあったので、つい比較してしまい、まるで違うなあと。この本の最後のプロフィールに、書いていて赤面したってあるけど、赤面するようなレベルの覚悟で書くなよなって思ったりして。『ごめん』は正面から第2次性徴を扱っていて、そのまっすぐさが印象的だった。それに対して、この本は難しいことにあえて切り込んでいく感じがない。作者の好きなイメージが並んでる感じ。うまく配置された出来事にスルスルっとのっかっていくっていうか。エンターテイメントでおしまい、考えさせてくれない感じがすごく強かった。おとぎ話だなって思った。『ごめん』とは好対照だったな。
アサギ:斉藤さんのものを久しぶりに読んでみたかったんです。おもしろかった。ただ、11万いくらの時計って、当時としても、リアリティあるのかしら。すべてにゼロ1つ違うんじゃないかな。文章は上手で楽しく読めると思うのね。目次のつけ方も、いかにもドイツ文学の人ね。ドイツの作品の影響が感じられておもしろいと思ったわ。会話は確かに女の子はこういう話し方しないけど、10年前にリアルタイムで読んだ子は、親近感をもって読んだのでは。金額は別として、やりとりとか口調とかノリっていうのって、共感をもって読んだ子がいたんじゃないかな。どうって話じゃないんだけど、楽しく読めて。女性に関して書いてるところは、体質が古いのね。斉藤さんの作品は、デビュー作が好きで、2作目も好きだったけど、浪花節で、その頃から体質は全然変わんないんだなと思った。思想なんかは、もともとないのかしら。
チョイ: この作品は著者の思想が凝縮されたものなのよ。ストーリーの中に隠されてるんだけど、この作品だといちばんわかりやすい。
トチ:年齢の低い子ども対象のものよりヤングアダルトになると、わかりやすいのよね。
アサギ:これはひたすらエンターテイメントですよね。語り方は通俗的だけど、上手。巧さは今回も感じたんだけど。男の人って女の子をこういうふうにステレオタイプに描く人多いでしょ。「ドラえもん」のしずかちゃんだって、男の子の願望が生み出した女の子像の典型よね。私は見るたびにいやだなと思うけど・・・。逆はどうなのかしら。女性の作家だと男が書けないってこともあるのかしら?
チョイ:『十一月の扉』(高楼方子作 リブリオ出版)みたいに、女が女を書いてもうまくいかないって場合もあるし。
オカリナ:文章の巧い人がそういうふうだと残念よね。
アサギ:子どもが喜んで読める文章を書ける人ね。会話が生きてるし、躍動感がいい。
愁童:一見うまいと思うけど、『誰が君を殺したのか』のややこしい日本語が懐かしくなっちゃうんだよね。
トチ:『天のシーソー』(安東みきえ作 理論社)もそうだったけど、文は人なりよね。ティーンの男の子の話だけど、中年の男の目から書いている。さちこさんもなおみも同じなのね。宝石をもらえば喜び、金目のものをもらえばうれしい。こういう語り口で違う考えのことを言ってくれたら、すばらしいんだろうな、と思った。ファッションについて、ひとつ。90年代にしても、着てるものがやぼったい。リボンがついてたりして。90年頃でも、センスのある子なら、そんなもの絶対に着なかったわよ。
ペガサス:作者がそういうのがかわいいと思っているから書いてるのよ。
ウォンバット:リボン好きですよね。あと、水玉も。
トチ:古いミステリーでも、着ているものの描写がでてくると、うっとりとすることがある。作者のセンスが出てくるのよね。あと、この本が出版された当時の書評に「最後の本物の真珠をちり紙につつんで女の子に渡すところで、読者は喝采するだろう」と書いてあったんだけど、私にはどういうことか分からない。相手の女の子が本物をもらっていながら偽物と思い込むところが、いい気味だと思うのかしら。
チョイ:もう1人好きになった女の子への唯一の免罪符っていうことだと思うけど。
オカリナ:あげないという選択肢もあったのよね。それをちり紙に包んで渡すというのは、いやらしくない?
チョイ:こういうメンタリティですよ。1回やるといったことはやるという。
ペガサス: 顔が立たなきゃというのがあるとか。粗末なもののようにしてあげたけど、本当は高価な物をおれはあげたんだ、っていう・・・。
アサギ:あげないという選択はなかったんじゃないの? 友達との関係でやらざるをえなくなったんだろうと思ったの。
チョイ:反省してると思うんですよ。成り行きでそうなったけど、株で儲けたお金でというのを、いいとは思ってない。
トチ:ちり紙につつんだことの意味は何なのかしらね。
アサギ:単純に、9月1日にって約束しちゃって引っ込みがつかない。プレゼントも買っちゃった。それでちり紙でいいやとなったんだと思ったの。好きじゃない子に高いものと思われても困るんじゃない? あぶく銭だという後ろめたさは感じるわね。
トチ:物に対する感覚が、嫌だなという感じがしたわ。残酷よね。金額に関わらず、筆箱の中で傷だらけになっちゃうだろう、っていう、その感覚がいや。
オカリナ:もともとリアルな話として書いてるわけじゃないんだから、100万円だろうと1000万円だろうといいんじゃない?
ペガサス:金額は、実際にはありえないんだからおもしろいんじゃないかな。中途半端に手が届きそうなより、いいんじゃないかな。
愁童:でも、その時代をまるごと肯定してしまうような書き方は、まずいんじゃないかな。
紙魚:なかなか厳しいご意見が出ていますが、私は皆さんとはちょっと違う視点も持ちました。もちろん物の大切さとか、愛情はパッケージじゃないこととか、今は当然わかっているけれど、シンプルにそう思えない若い頃もあったんじゃないかなと思いだしました。中学生のとき、同じクラスの女の子が誕生日に、つきあっている男の子から2万円の指輪をもらったんです。男の子は夜な夜な工事現場のアルバイトをしてお金をためて、その指輪を買ったんです。そのときに、クラス中でそのことが話題になって、いいなあとみんなからうらやましがられていました。それは、まだ指輪をもらう子なんてそうそういない頃で、指輪をもらうってこと自体がうらやましがられたし、しかも2万円もの高価な指輪だったってことがうらやましがられたんです。若いときって、幼いながらにそういうのをうれしいって思ってしまうことってあると思う。
アサギ:それはバイトしてくれたってところにウェイトがあったんでは。
紙魚:もちろんそれはそうです。でも、正直なところ2万円の価値というものもあったと思うんです。今は、ものの価値は金額じゃないとはっきり言えるけど、それは、その後、いろいろな人と出会ったり、いろいろな経験をしたからこそ、見出せたのであって、単純に若い子たちが高価なものがほしいと思ってしまう気持ちもわかるような気がします。若いときには、ほんとうの価値が見えないことがよくあるんじゃないかな。でもそれは幼稚さゆえのこと。幼稚な男の子と、幼稚な恋におちる幼稚な時代というのが一瞬あって、それはそれで、美しい年代だったりする。この物語は、その時代を描いたのかななんて感じました。
アサギ:今はもっと幼稚になってるわよね。男と女のことだけ突き進んじゃってるけど。
チョイ:身体はそうだけど、心はかえって退化してるみたいで、アンバランスよね。自立していない年代の騒動というか。時代を書くのも難しいし、時代を越えて書くのも難しいし、これからの仕事まで考えてしまった。この2冊で、どちらのやり方も難しいなと思った。
(2001年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)