トチ:同じ日本の民話や伝説をもとにした本でも、『空へつづく神話』(富安陽子著 偕成社)などに比べるとやっぱり格が違う。どんどんストーリーにひきこまれていくし、真面目にテーマと取り組んでいると言う感想を持ちました。少々重い感じがしたのは、たぶん文体のせいなのね。例えばp189のサダさんと佐藤さんの会話の後の記述。「幼なじみだという二人は、いつのまにかすっかり昔にもどって、えんりょなくやりあっては笑いころげている。顔には出ていないが、二人ともかなり酒が入っているようだ」というようなところ。会話だけをぱっと出さずに、ていねいに念を押している。しっかりと読者に伝えたいという真摯な姿勢のあらわれだと思うし、好感が持てるんだけど、少しくどいかもしれない。かといって、「いまどきの若者や子どもの言葉で書いた」と称する、だらしのない文章もいただけないし・・・今のように言葉がめまぐるしく変わっている時代は、どういう文体で児童文学を書いたらいいか、真面目な作家ほど悩んでいるんじゃないかしら。それから、p267に「自分の場所」に戻るというユカの決心が書いてあるけれど、茶々丸とのストーリーに比べて現実のユカの生活の書き方が少し足りないので、いまひとつぴんと来なかった。あと、細かいことだけれど、宿のノートに書いてあったお母さんの名前にユカが気づかなかったのはふしぎ。これくらいの年齢の少女って、結婚前の母親の苗字には関心があるんじゃないかしら。まして、母親が亡くなっているんだから。

:末吉さんの文章って読みやすくて、しかもユーモアがありますね。でも、この作品は、複雑な構想のうえになりたっていて、それがあまりうまくいってない。昔話の謎とき、悲しい父娘の関係、悲恋などの過去の話と、現代的なテーマである母の不在、父と娘の関係などいろんな要素を全体にまとめていっているんだけど、うまくほどけてなくてそれに違和感を感じちゃった。おそらく読者は、ユカの現代性にコミットしていくはずなんだけど、それと過去の物語がうまくつながってなくて、混乱しているんです。ドライなユカが、ミステリーハントの過程で成長していくのを描きたかったんでしょうけど、リアリティがなくて。私は茶々丸をシェイクスピアの『テンペスト』のエイリアルと重ねて読んだんだけど、彼の女の子にぽっとするようなところや、人間にないパワーの持ち方など、リアリティのあるキャラクターとしてうけとめられなかったな。プロットに混乱があるし、人物の描きこみに違和感があったし、ユカのリアリティがなかったというところでしょうか。

ねむりねずみ:日本の言い伝えって、今どうなっているんでしょうね。この本の中では、現代性と過去のリンクがいまいちうまくいってない。三浦哲郎の『ユタとふしぎな仲間たち』(新潮文庫)なんか読むと、おむつのくさい匂いからはじまっていて、座敷わらしの描き方がぜんぜん違う。座敷わらしって、怨念とかのイメージじゃないですか。だから、どうもこの茶々丸っていうのが、そういう根っこからはなれちゃって、イギリスの妖精に羽がはえたみたいなイメージなんだな。どうもリアリティがない。ただ、遠野という場所は、神話や物語が今もなお生きている場所だっていうことは感じられました。現代と過去だけでなく、物語と不登校の話もリンクしてないんだけど、茶々丸の頭がすぐこんがらがったりする場面はおもしろかったな。

オカリナ:うーん、私はただどんどん読んだという感じ。特にひっかかったところはないし、これといって不満はありませんでしたね。みんなも言ってるけど、『空へつづく神話』よりはずっとよかった。今の子どもはたぶん、座敷わらしっていってもどんなものかわからないだろうけど、そういうものを狂言まわしにしてうまく描いている。ファンタジーって、もう、善と悪の対立で描くのって古いと思うのね。この作品でも、座敷わらしのトリックスター的なところをもっと出したら、もっとおもしろかったかもしれない。

アサギ:全体的にはおもしろいんだけど、どうしてユカにくっきりと座敷わらしが見えるのかっていう必然性がぼんやりしていてわかりにくかったんじゃない? 昔と現代のお話をひとつにもりこむというのは、うまくいっていて、これって日本にしかないファンタジーよね。でも、結局どこへ行ってどこへ帰ってきたかがわかりにくい。

紙魚:本との出会い方って、いろいろありますよね。どうしてもどうしてもほしくてやっと親に買ってもらった本だとか、友だちに薦められなきゃたぶん読まなかった本だとか。この本がどういうふうに子どもたちに読まれるのかなと考えてみたら、たぶん、学校の図書館で出会うような本じゃないかなと思ったんですね。物語もおもしろいし、構成もしっかりしてる。なにしろ親切なんですよ。作者は編集をやってた方だし、決して誤解をさせないような文章と構成なんです。ちょっとでもわからないようなくだりがあって、あれ、これってどういうことかななんて疑問をもつと、すぐその後にちゃんと説明がついてくる。とってもていねいなんです。編集者が誤解がうまれないよう、念を押す感じ。だから、ちょっととっつきにくい歴史をとりこんでいるにもかかわらず、物語がすらすら進んでいく。今まで歴史なんかに興味がなかった子でも、この本を読んで、歴史に興味をもったりするかもしれないですよね。

チョイ:末吉暁子さんってきっと、調べたりするのが好きな作家なんでしょうね。『地と潮の王』(講談社)なんかもそうだけど、調べたこと、学んだことを生かして独自のストーリーを創ろうとしている貴重な作家の一人じゃないでしょうか。まず書きたいモチーフがあって、それを物語化して児童書にするとどうなるかを考えていくタイプみたいですよね。この本の場合も、まず座敷わらしのことを書きたいという気持ちがあって、それを児童文学として成立させるにはどうしたらいいかを考えていったみたい。そのうえでいつも、あるレベルを保っているのは偉いと思う。富安陽子さんの『ぼっこ』(偕成社)とか、柏葉幸子さんの『ざしきわらし一郎太の修学旅行』(あかね書房)とか、こういう土着的な物語ってほかにもあるんだけど、末吉さんのはひとつ頭が抜けていると思う。やっぱり佐藤さとるさんの弟子ということもあって、感情表現をおさえ、客観描写をつみあげていくことによって、読書の誰もがある一定のイメージを作りだせる文章が大事だと考えているんでしょう。安心して読めますね。ただ、その向こうにある香りとか匂いとか湿気みたいなものを表現するのは不得意みたい。松谷みよ子さんみたいな、立ち上がってくるような怨みや、思いの深さなんてものはなくて、いい人が書いた文学って感じ。むしろ短編なんかのほうに、思いを前面に出しているものがあるようです。

(2001年05月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)