ねむりねずみ:訳者の後書きに、ファンタジーとコンピューターゲームの興奮って書かれているんだけど、いまいちわからなかった。ヨナタンとジョナサンの交錯のしかたなんかはおもしろかったけど。どうしてスコットランドが舞台なんでしょう? ジョナサンとおじいさんの関係が『小公子』に似ているからかな? いろいろ考えながら読んだので、長かったですね。続きは気になるけど。人物についてはあまり書きこんでないけど、どちらかといえば、ヨナタンよりヨミイの方が、おとなに描かれてますよね。ヨナタンが敵を殺してしまった後、悩んだりする場面なんかはおもしろかった。キャラクターとしては、ディン・ミキトさんが好きでした。癒しの権化のようなイメージ、やさしさ、せつなさが残りました。きっと、物語が進んで、あのもらった核が活きてくるんでしょうね。どのキャラクターも名前が覚えづらいので、人物紹介のまとめがあるといいですよね。

オカリナ:これって,ふつうのファンタジーよね。ドイツでは珍しいんじゃない? 特にハイ・ファンタジーって、イギリスとかアメリカとか、やっぱり英語圏が多いですもんね。ドイツは、ファンタジーが育つ環境じゃないのかしら?

アサギ:あら、私が今読んでる、「ほら男爵」系のドイツの物語はすっごくおもしろいのよ!

オカリナ:でも、「ほら男爵」系の物語は、いわゆる魔法系ファンタジーとはちょっと違うんじゃない? この作品、ちょっとひっかかるところがあったんだけど、大急ぎで作っちゃったのかな?

アサギ:5年くらいかかったって聞いたわよ。

オカリナ:たとえば、ここなんだけど「ジョナサンが眠って一週間記憶〜」というところ。本当に眠っていたのか、それとも記憶が欠落しているのか、よくわからない。p136の「ジラーのせいで何度も不快な思いをさせられてきたのだ。ヨナタンはけりをつける決心をして、鳥かごに〜」ってあるけど、「けりをつける」っていったら、最終的な決着をつけるってことでしょ。でも、一言言ってやっただけなのよね。こういう些細なところにひっかかっちゃったの。プロットをどんどん重ねて場面を変化させていくおもしろさはわかるんだけど、それだけだったら、私は物足りないな。

アサギ:たしかに、闇と光というとファンタジーの王道なんだけど、評判になるほどすばらしい作品とも思えなかったわね。私にとって、ファンタジーの決め手は「整合性」。第1巻では、まだいろいろばらまいてる段階で、2・3巻にいくにしたがって、ちゃんと収斂されるのかしら? 気になったのは、人物描写が浅いところ。ジェイボック卿の気持ちがとけていくところも、すてきなんだけど、浅い。とくに20世紀のジョナサンの方に文学性がないのよ。おじいさんとの会話も通俗的。格調の高いところと下世話なところがごっちゃじゃない! うーん、これは翻訳者のせいかもしれないけど。虚構の世界の方は、現実性がないからか、ある程度書きこまれているのよね。でも、補足しながら読んでいる自分がいるのを感じるの。三種の神器みたいな小道具は好きだったわ。筋としては、けっしてきらいじゃないんだけど。

ねむりねずみ:私も、ディン・ミキトさんなんかはおもしろいと思ったな。

アサギ:でも、ゼトアの人物造形は浅いと思わない?

オカリナ:人物造形が浅いってことは、今の多くのファンタジーがそうなんじゃないかな。小道具を手に入れることによってパワーはアップしても、その人物の内面が変わるわけじゃないのよね。私は、スーザン・クーパーあたりからそうなってきてると思う。

ねむりねずみ:人を殺しても、ちょっと悩んで、悩みましたってところで終わっちゃうし。

もぷしー:みなさん厳しい意見のようですが、私は、この会で読むんじゃなかったら、おもしろく読んだかも。「乗せられて読んでしまえばきっとおもしろい」というつもりで読むと、話の先が気になって、読み進められるとは思います。でも、クリティカルな目で読んでいくと、かなりひっかかります。主人公が内面成長もなく困難をクリアしてしまうRPG的なところなんか、読み応えがないなあって。それに、1巻ってまだまだ旅の途中なのに、急に終わっちゃうじゃないですか。1巻なら1巻のなかで、ある程度主人公が成長してほしかったな。
ところで「ジョナサン」ってドイツ語でも「ジョナサン」って発音するんですか? 両方「ヨナタン」だとしたら、早くからヨナタンとパラレルするキャラクターだってわかってしまいそう。日本語だと、だんだん気づいてくる感じだったけど。ところで、これ読んでいて、邦画『ホワイトアウト』を思いだしたんです。テロリストがダムをのっとっていく話なんだけど、そもそもテロリストがなぜテロという行為に及ばなければならなかったか、理由がわからないんです。それといっしょで、ゼトアって、最初から「悪」として描かれていて、なぜ悪に走ったかわからないんですよね。やはり、キャラクターの行動に必然性がないと、読んでいても感情移入できません。それに、ヨナタンが困難をすべて小道具で解決しちゃうのも、どうかな。自力で苦難を乗り越えないなら、逆に、すべての試練に意味がなくなってしまって、読む甲斐がないと思ってしまいました。

アサギ:そうね。ゼトアは逆に、へんに安直な人間的ふくらみをもたせているんじゃないかって気になったわ。

ねむりねずみ:作者は、人間性には興味がないんじゃない?

アサギ:ただ、たしかに先行きは気になるわね。先が気になるっていうのは、エンターテイメントの基本よね。

:うちの息子は、『ハリー・ポッター』を何度も読むんですよ。いいかげんにやめてほしいという気持ちもあって、この『ネシャン・サーガ』をすすめたの。こっちの方が、文学的に一歩進んでいると思うから。この本には『ハリー・ポッター〜』にない「象徴性」が感じられました。

オカリナ:「象徴性」って、剣が力への欲望をあらわすとかっていうこと?

アサギ:「全き愛」というのも、何かしらあるんだろうけど。

ねむりねずみ:自分が神の代理としてふるまえば、剣も敵を滅ぼすようにはたらくわけですよね。

紙魚:私の印象は、エンデ+RPG(ロールプレイングゲーム)+スターウォーズって感じ。キャラクターの描きこみも、物語の世界観もとっても薄い。見返しの地図を見ながら読んでいったんだけど、冒険物語なのに、行き先が見えないんですよ。大きなうねりになっていかない。たしかにテレビゲームっておもしろくて、新しいソフトがあると、私、寝ないでやっちゃったりするんですよ。大人でもこんなにのめりこんでやるものを、子どもにやめろなんて言えないなあ、なんて思っちゃうくらい。ただ、私は大人になってテレビゲームにふれたせいか、読書とテレビゲームって思考の流れが違うなと感じるんですね。読書って、ページをめくりながら少しずつ情報を手に入れて、自分のイメージを構築していきますよね。でも、テレビゲームって反対のような気がするんです。自分の位置がわからなくなったりすると、ボタン一つ押せば、例えば、屋敷の中のどこに自分がいるのか一目瞭然なんです。自分でイメージをふくらませる作業はあまり必要ないんです。この本には、それと同じようなこと感じたな。イメージを構築していくおもしろさがないし、どこへ向かおうとしているのかが見えない。

トチ:私も以前にゲームに凝って、3日3晩くらい午前2時くらいまでやっていたの。それからハッと気がついたのね。これは結局だれか他の人間が作った宇宙で遊んでいるだけのものじゃないかって。そう思ったら、すうっと熱がさめてしまって、もう2度とやりたいとは思わない。ところが文学は違うのね。確かに作者が作ったものではあるけれど、作品の中でも作者が思いもよらぬ展開を見せたりする。まして、読者に渡ったら、どういう風に変わっていくか予想もつかない。変なたとえかもしれないけれど、文学作品にはなにか神とか自然の摂理とか宇宙とか、人知を超えたものに通じる穴みたいなものが無数にあいていると思うの。それがゲームとの違いだと思う。

チョイ:読んでも、この世界の理解が深まらないっていうか、知識が増えない、っていうか、ためにならないのってどこか空しい。どうして他人が勝手に作ったこんな特殊な用語を覚えなくちゃいけないんだろうって思うときあるよ。

:今の子にとっては、哲学的なものはトゥーマッチなのよ。しんどいのはいやなんじゃない?

もぷしー:私は2・3巻でうまく展開していたら、おもしろくなる思います。まあ、もう少しごつい部分はほしいけど。

オカリナ:プロットの変化が本のおもしろさの大部分を占めて、内側の変化とか成長には作者も読者もあまり注意を払わないってことになると、それでも文学なのかな?

アサギ:パソコンがないころは、作者が、想像する世界の隅々まで自分で構築しておいて、その中で動かす人物にしても、くっきり陰翳があるところまで考えぬいたんでしょうけどね。整合性だって、パソコンにいろいろデータを入れておけば、ほころびが出ないのかもしれないわね。パソコンの普及も、文学に影響しているわよね。

オカリナ:それにしても、表紙の佐竹美保さんの絵は物語の奥行きを感じさせるわね。

:『黄金の羅針盤』も、表紙で得してたね!

(2001年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)