すあま:おもしろく読んだんですが、なんとなく物足りなさも感じました。それぞれ、オチがもうひとつ。これは、「母の友」の雑誌に連載していたのですかね。カラーも多いし、堀内さんの絵がとてもいいので、だいぶ助かっているのではないかと思いました。ほら話とはいってますが、お父さんの「ほら話」なのか「冒険談」なのか、どっちつかずだった。

:改めて読み直すと、どうも入っていけなかった。ほら話なので、のせられないとつまらない。お父さんはけっこう悪乗りしているのだけれど、う〜ん、ちょっと冷めて読んでしまう。よくアメリカのほら話を読むと、ちょっと入っていけない感じがありますが、この本も同じような感じ。その土地に根付いているようなほら話って、生活しているんだったらリアルに感じられるのかもしれないけど。それが、世界各国の話になっているので、ほんとにこんなことあるのかなーという感じでした。得意になって話しているお父さん像はいいなと思った。この本のなかでは、ビルのガラスふきの場面がちょっとスリルがあって好きでした。

オイラ:入っていけないっていうのは?

:どっか客観的に見てしまうんです。昔あったことをベースにしている話ではあるんですが、ある時代性みたいなものも感じてしまい、今の自分にはピンとこない。時代を超えて楽しめるものにはなっていないということかな。参考になるかどうかわかりませんが、この中の一遍「アフリカのたいこ」は絵本化されてるんです。1966年にハードカバー化されたんですが、問題になって絶版。発展途上国を一段下に見るような見方はいけないんじゃないかと。その当時は、アフリカは野蛮だと思われていて、植民地時代を舞台にして奴隷とか描いているのは、幼い子どもたちが見る絵本としてはいけないんじゃないかということですね。絵本になったときは、現実にあるアフリカの村が舞台になっていて、子どもの名前もタンボ。リアルなお話になっているんです。お話自体も、西洋文明からみたエキゾティズム、イリュージョンとして描かれています。この『おとうさんのラッパばなし』に関しては、ある時代の事実をベースに描かれているし、ほら話としてほらが信じられるくらいリアルではないので、どうなのかという部分もありますね。

オカリナ:今回は半分くらいしか読めてないんだけど、小さい子どもがだれかに読んでもらえば、この本はおもしろいと思う。ただ大人が読むと、楽しめない。大人も子どももおもしろく読める本と、大人が読むとそれほどおもしろくない本があるけど、これは後者。ほら話なら、『シカゴよりこわい町』(リチャード・ぺック作 斎藤倫子訳 東京創元社)の方が、ずっとおもしろかったな。あれは子どもがおばあさんを見るという視点で書かれてるから、おばあさんの欠点も出てくるのよね。この本はお父さんが語っているので、お父さんはすごいだろ、と自分で言ってるだけで、裏がない。だから、最後まで読んでも、お父さん像が浮かび上がらない。そのへんが物足りないのかも。

愁童:ぼくは、しんどくて半分くらいで投げ出しちゃった。子どもたちが3人、お父さんの話を待ち構えているという設定だけど、そんな設定は、今じゃとても通用しない。特に上の子は中学生なんだよ。今読むと、そこに無理を感じないではいられないな。あったかい親子、あたたかい中流家庭のイメージと童話感が微妙にからみあっていて、今読むととてももどかしい。みんなどこかで読んだことがあるような感じがしちゃう。『町かどのジム』(エリノア・ファージョン作 松岡享子訳 童話館出版)に似た展開だけど、説得力とほら話のスケールで負けてるなっていう印象。

ウェンディ:子どもが語ってもらえば入っていける、ってことでしょうかね?

紙魚:この本は、母に一話ずつ絵を見せられながら読みきかせてもらった記憶があります。挿絵も全部覚えていたくらい。でもその後ずっと読んでなくて、今回初めて読み返してみたら、読みにくくてつらかった。きっと昔好きだったのは、身近で絶対的な存在が語ってくれるというスタイルだったからなのかも。今、この本を読むのがしんどいのは、語られる必要性を子どもの頃ほど期待していないからなのかな。当時この本って、装丁が翻訳本のような印象だったんです。他の日本の作品とちがって、本棚からモダンな香りがただよってきたんですね。作者の方も、海外のものに触発されて、お父さんが語るスタイルで書きたかったのでしょうか。そういえば、ダールと同じ題材が出てきましたね、キジ取りです。ダールは生っぽいのに、こちらは違う。それも日本と海外の違いなのかな。今は、どんどん世界が小さくなっていくので、たとえばニューヨークでも、昔思い描いていたニューヨークとは違ってきていると思います。今の子どもたちにとって、遠い世界ってどこなのだろうと考えてしまいました。これからの物語作家は、舞台をどこにさがしていくのか本当に難しいです。

トチ:昔読んだ覚えはあるんだけど、すっかり忘れていて改めて読みました。「こどものとも」でも、66年にはまだ「土人」という表現を使っていたという事実には、あらためて驚きましたね。ダールに比べて、瀬田さんは人柄がいいんじゃないかしら。ほら話と自分では言っているけれど、全然ほらじゃないのよね。ほらの爆発力がない。ダールと比較していちばんおもしろいのは、キジの話。ダールの話だと、銃は使わないけれどキジを「うまい、うまい」と言って食べる。瀬田さんは、殺すことそのものがいけないと言っている。江戸時代ならともかく、今は現実にいろいろな動物を食べているから、大きな子が読むと「なんとなく嘘っぽいな」という感じがするのではないかしら。自分のよって立つ考えがダールははっきり見えてくるのに対して、こちらはあいまい。お父さんと子どものキャラクターが見えてこないのよね。たぶん、お父さんは瀬田さん自身でしょうけど、本当に人のいい、悪気のない感じ。子どもが3人いるけど、これなら、何人いても同じで、それぞれの顔は見えてこない。ダールと比べては気の毒だという気はするけれど。やはり、瀬田さんは、創作の人というより翻訳家だったんだなあと思いました。

ねむりねずみ:荒唐無稽なところがまるでない。安心して読めるといえばそうだけれど、日常から離陸しきれていない。ほら男爵のミュンヒハウゼンのようなほらの力が全然なくて、こぢんまりまとまっている。大風呂敷を広げようとするんだけど、中産階級の品のよさというか、教訓めいている。ほらというのは本来善悪などの教訓的価値をぶっ飛ばしているものなのに、動物と仲良く暮らしていきましょうといった教訓に行ってしまうので物足りない。ロアルド・ダールのキジの話と対照的なのはその点だと思う。瀬田さんの力だけでなく、お父さんと子どものありようが英国と日本では違うんじゃないかなという気もしましたね。お父さん文化の違いかな。ダールからは、男の人の文化がちゃんとあって、それをお父さんが子どもに継承していくという雰囲気を感じたが、日本にはそういうものがないのかなと思って、頼りない気がしました。

オイラ:すごく頭のよい人だと、想像が飛んでいけないのかな。

チョイ:二十何年前に読みましたが、あまりおもしろくなかった印象があります。父ならではの男の怪しさ、魅力をあまり感じないんですよね。瀬田さんは、きちんとしてて、無菌状態というか、正しすぎて、なんだかおもしろくない。父と子の物語では、短篇ですが、筒井敬介さんの『日曜日のパンツ』(講談社/フレーベル館)なんか、いかにも男としての父のおかしさが出ていて好きでした。阿部夏丸さんなんかも、父として子どもに向かって語るとき、おもしろいです。今は、父の子ども時代の思い出話のほうが、ファンタジーになるんでしょうか? しかし、こういう物語って、子どもはおもしろいのかな?

紙魚:私が幼稚園のとき、5歳上の姉は自分で読んでいたんですよ。本棚で背表紙のデザインが際立っていたので、憧れを抱きました。

オイラ:たしかに1970年代だと、描き文字の表紙は少なかったから、目立っただろうなあ。70年代って、こういう本づくり、多かったね。

トチ:現実の方がよっぽどおもしろいのよね。毎日お父さんが背広を着て出かけるけれど、実は泥棒だった・・・そんな話も実際に聞いたわ。世界一周というのも、なんか教養的よね。それから、今読むと、えっ!と驚くようなところもあるわよね。「イスラムの国は泥棒の多い国」と思わせる表現など、この時代だから許されたんでしょうね。瀬田さんの業績は誰しも認めるところでしょうけれど、こういう創作が、今若い女性たちに人気のある似非英国ファンタジー的創作につながっているんでしょうね。

(2001年11月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)