すあま:この作者はこんなに時間をかけてシリーズを書いていたのだと驚きました。主人公も、ヘンリー君からラモーナに変わっていき、時代に合わせて書いているんですよね。お父さんが失業しているとか。ラモーナにくっついて読めたので、おもしろかった。8歳の子どもの失敗とか、ひとつひとつのエピソードが、なつかしいような、自分の当時の気持ちがよみがえるような思いで読めました。今の子が読んでもおもしろいんじゃないかな。ラモーナがいらいらしたり、悲しかったりしている気持ちもよくわかった。ラモーナが預けられている先で、どうしようもない子ウィラジーンの相手をするけれど、ラモーナ自身もそうだったことが読者にわかるとおもしろい。ラモーナがはちゃめちゃだった小さい頃がなつかしい気がする。

ペガサス:私も「ヘンリーくん」シリーズが好きで、子どもの気持ちをよく書いているって毎回感心する。『ビーザスといたずらラモ—ナ』(ベバリイ・クリアリー作 松岡享子訳 学研)では、ラモ—ナがはちゃめちゃで、極端に書かれていて、すごくおもしろかった。それに比べるとラモーナも少し小粒になってしまったのかな。昔は、『ビーザスといたずらラモ—ナ』は3、4年生によく読まれたけど、今の子どもたちには、これでも字が小さくて、読めないのかな。でも、絵も昔のほうがいいのよね。今回は、ビーザスの気持ちが出てこなかったのも物足りなかったし、これだけ読んで、ラモ—ナが魅力的にうつるかどうかは心配。それから、お母さんの言葉づかいで、「帰ってらしたわ」「車なしではやっていけませんもの」などの言い方は、今は言わないことばだよね。

ブラックペッパー:私は「ヘンリーくん」シリーズは、ぽつぽつとしか読んでこなかったんですけど、この本はとってもよかったです。トラブルはあっても幸せな感じが底にずっと流れていて、安心感がある。p7の「ラモ−ナは、だれに対しても——自分に対してもですが——正確さを要求する年齢に達していました」というフレーズが好き。アメリカンテイストもいいし、ラモ—ナのそのときどきの気持ちもわかるので、「そうそう、こういうのが好きなのよね」と思いながら読みました。でも、これ、小粒になったという感じなんですか?

すあま:日常生活をていねいに書いてはいるんだけど、前の作品ではもっとはちゃめちゃな事件が起こってたよね。

ねむりねずみ:悲しいことも嬉しいことも全部、ああ、あったあったと思いながら読みました。根底に、子どもらしく育っている子の安心感ていうのか、安定感がある。そのほんわりした感じが心地いいんですね。最後に、家族が喧嘩した後に見ず知らずのおじいさんがご馳走してくれるなんていうのも、あり得ない話ではあるけれど、やっぱりなんとなく心和んでいいよね、という感じ。今時の子どもを描いた本って、シリアスな社会問題の暗い影が覆いかぶさっていたりするんだけど、読者を元気にしてくれるこういう本っていいなあ。これからを生きていく子どもたちにとって、こういう本がほんとうに大事だと思う。今回の3冊の中では、文章もいちばんぴったり来て、楽しく読めました。

アサギ:ラモ—ナと同じ年頃の子が読んでも、共感すると思うほのぼのとしたいい本ね。現実よりも美化されているとは思うけど、こういうのはいいと思う。全体のトーンはいいのだけれど、ただ訳語はイージーだと思ったわ。たとえば、p6の「お姉さんは実際以上に年上であるかのように」って、8歳の子が読む文章かなと思うし、p7の「正確さを要求する年齢」っていうのも、8歳の子がぜったいに言わない言い回し。

ブラックペッパー:8歳の子が自分で言う言葉ににそういうボキャブラリーはないと思うけど、小さいときってそんな気持ちがたしかにあった。それを言語化して代弁してもらったという喜びがあるんじゃない。

トチ:しかも、わざわざかたい言葉を使ったユーモアなのよね。

すあま:私も、わざわざ大げさに書いているんだと思った。訳が下手で直訳にしているのではなく、雰囲気を伝えるために、わざとこういう表現にしているのでは。

アカシア:私は、この本の読者対象は8歳よりも、もうちょっと上なんだと思う。松岡さんは、小さい子どもたちとしょっちゅう接しているから、そのへんのことはよくわかって訳していると思うな。

アサギ:私はね、p57の「片目のすみから」っていう表現も気になったんだけど、そんなことできるかしら。

アカシア:松岡さんの訳は、全部子どもにわかるようにするっていうより、わからないところは飛ばして読んで、後で「これどういうこと」って大人にきいてもいい、っていうスタンスなんじゃないかしら。ちょっと難しい言葉がわざと入っている。でも、それがユーモアにもつながっている。

紙魚:私もとっても気分よく読みました。さっきブラックペッパーさんが指摘した「ラモ−ナは、だれに対しても——自分に対してもですが——正確さを要求する年齢に達していました」っていうところが、私もいちばん好き。たとえば、小さいときって年齢きかれたりして、隣の姉が「もうすぐ5歳です」とか勝手に答えちゃったりすると、「ちがう! まだ4歳だもん!」なんて、へんなところに妙にこだわったりして、逐一そんな感じだった。大人になると、まーだいたいそんな感じって、許容量が大きくなるけど、子どものときの、あの正確さを忘れないでいる作者はいいなあと思いました。p12の新しい消しゴムの描写とか、p24のその消しゴムがなくなっちゃったときのラモ—ナの気分、p161の「ラモ—ナはもう章のついた本が読めるのですから」なんていうところもいいですよね。なんといっても、p74のホェーリー先生の「見せびらかし屋」「やっかいな子」という言葉に傷つくラモ—ナの気持ちなんて、本当にこちらまで痛くなるくらい。子どものときの感覚をきっちりと持っているか、子どもをじっくりと見ている人だと思いました。

もぷしー:大人になると、問題を解決をしないことに慣れていきますよね。でも、小さいラモ—ナは、ひとつひとつ確認しながらクリアしていく。ラモ—ナが成長しているというのがわかって、気持ちいい作品だと思いました。吐いちゃったりして、先生に悪く言われたのを、大きくとらえているのもいい。子どものときに持つ感覚がきちんと再現されていて、子ども読者も共感しやすいと思う。

トチ:ここはいかにもアメリカ的ね。

:私も「ヘンリーくん」シリーズが好きだったんですが、今回も、この8歳の子の気持ちになれました。「見せびらかし屋」で「やっかいな子」と言われて、つらくなる気持ちがよくわかって、しかも病気になって、ただ、お母さんがやさしくしてくれるのはうれしくて。どの場面にも、気持ちをよせて読むことができました。たいへんなことがあっても、安心できる、子どもに向いた物語はいいなあと思いましたね。物語がおもしろいから、訳は気にならなかったです。前にね、図書館で乱丁本をみつけて貸し出し記録を見てみたら、ずらーりと名前が書かれてあって、何人もの子が読んだ本だったんですね。そのとき、ああ、子どもの力ってすごいなと思ったんだけど、そのときの原点にたちかえったような気分です。

アカシア:これまでのラモ—ナ・シリーズは、ああ自分もそうだったなあと思えて、ラモーナに同化しながら読んでたんですけど、今回は、ラモ—ナはなんて自己中心的なんだ、と思っちゃった。以前の作品でビーザスがラモ—ナにあんなに我慢してたのに、この作品でビーザスと同じ立場になったラモ—ナは、ウィラジーンにとってもいらいらしてる。先生の言葉だって、よく考えればわかることなのにね。子どもって、とっても自己中心的な存在なのよね。そこが、とってもうまく書けてるし、だからこそ、その自己中心的なラモ—ナを包みこんでいるお父さんとお母さんの偉さに、今回は感動しちゃった。親たるものこうでなくちゃ、と遅まきながら思いました。それからクリアリーという人は、3年生くらいまで文字が読めなかったらしいのね。学校でつまらない本ばかり読まされてたのが、風邪で休んでいたときに、おもしろいと思える本に出会って、突然読めるようになったんだって。この本の中にも、つまらない本への言及があって、なるほどと思った。つまらない本を子どもにあたえても、読めるようにも、本好きにもならないのよね。

アサギ:作者が子どもの気持ちをわかっているってみなさん言ったけど、ほんとうにそうね。私はこれを読んで親として反省するところがあったわ。下の子が3年生のときに、誕生日会に呼ばれたことがあるのよ。20人以上招待されてたの。そのときの招待状に、「プレゼントは持ってこないように」とはっきり書いてあったもんだから、私、うのみにして子どもに何も持たせなかったのね。そしたら、うちの子以外、全員がプレゼント持ってきたんですって。それを聞いたとき、私は「呆れた! 20人からプレゼントをもらうなんて、第一その子にとってよくないのに」と思ったのだけど、これを読んで、うちの子はやはり傷ついただろうなって、今さらのようにかわいそうに思いました。

ウガ:ぼくも傷つきやすい子だったので、子どものとき読んでたら、ショックでたちなおれないっていうのが、よくわかったと思います。卵が割れちゃうところなんかきっと。つまらない本への言及もありましたが、子どものときって、読まなければいけないっている義務感もあったんですよね。

アカシア:私なんて、子どもに生卵持たせちゃう可能性あるなー。

ペガサス:ラモ—ナは、大人は理不尽なことをするってこと、わかってるのよね。

(2002年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)