愁童:すごくおもしろかったです。上橋さんってすごくうまいと思うんだけど、「守り人」シリーズだと、主人公が人間で、その生き方や苦悩がしっかり書き込まれているのに、この作品はそういう要素が希薄になってきている。お話としてはとても面白いだけに、なんかもどかしさを感じた。こういう方向に行っちゃうのかなって、ちょっと寂しい思いもしました。

カーコ:一気に読みたくなる作品でした。構成もストーリーもうまいですね。「守り人」シリーズの中の1冊を前にこの会で読んだときは、どこか物足りなさがあったのですが、こっちの方が、ひとつの作品として緻密に組まれている気がしました。それと、独特の表現が随所にあるでしょう。作者の文体が匂ってくるようで、翻訳ものにない味わいがありました。上橋さんが「日本児童文学」2003年11月号に、遥かな神話的過去を思うこと、遠くを見やることが、「時」と「世界」を見ること、「何か大きなもの」の中で生きている、小さな自分に気づくことにつながる、というようなことを書いていらっしゃって、なるほどなあと思いました。この物語には、女性的な強さを感じました。運命を変えていこうというよりは、運命を受け入れながらたくましく生き抜いていく。ひとつ気になったのは、「桜の花の香りがして」ってあったんですけど、桜の花って香るものですか。

トチ:匂い桜っていうのがあるのよね。

カーコ:あと、イラストの使い方がよかったですね。作品のイメージを限定せず、じょうずにふくらませてくれて。

ケロ:ファンタジーで、もともと力を持っている者がそれを自覚していく物語ってありますよね。これも小夜がそうなんだけど、持っているものに対して自分がどうしていくかというところは、獲得していく『モギ』とは対照的ですね。作者独特の語り口は、古典的な中に新しさを感じます。ドキドキハラハラしながら読んでいたら、途中からラブストーリーになりましたね。小夜のお母さんの話を含めて、女が生きていくという話になり、色が変わっていった印象を持ちました。軸がぶれたという感じではなく、楽しませてもらいましたが。最初、序章があってから地図が出てくるのは、自然でうまいなと感じました。

Toot:ふしぎな世界につれていってもらったようでした。最後は、愛するってことは命がけなんだなという感想をもちました。まず、装丁にひかれますよね。カバーと表紙の絵がちがうんですよ。タイトル文字も凝っている。もうこういう造本しかないという本ですね。人物がたくさんいるにもかかわらず、あまり途中でごちゃごちゃしないですね。上橋さんの異空間って、すごくおもしろい。

アカシア:2度目に読んだら、さらに、ああそうなのかという部分がありました。1度目は、プロットのおもしろさで読ませる部分も感じたんだけど、やっぱりそれだけじゃなくて、リアリティの厚みがすごいんですよね。みんなで楽しくお花見をする場面に「ぶよが、ぷうんぷうんと、かぼそく鳴きながら目によってくる」(127ページ)とか、「蝿が現れて飛び交いはじめた」(129ページ)なんて入れてくる。竹の灯しの作り方、市の雰囲気、呪いのやり方、あわいの様子、闇の戸の繕い方なんて、いかにも目に浮かぶように書かれているし、霊的な結界が張られたところを通ると小夜の耳がぴいんと痛むところなんかも、とてもリアル。読む人も五感で感じられるように書いてある。「聞き耳」「使い魔」「葉陰」のような不思議な響きをもつ言葉と、「昼餉」「廚」「出作り小屋」「蔀戸」などの昔の暮らしの言葉があいまって、世界をつくりだしている。「霊狐」など、日本の伝説に出てくる存在もうまく登場させている。渡来人の子どもである「大朗」と「鈴」は、呪いの技ではなく魔物から身を守るオギという技しか使えないという設定もおもしろい。それから単純な善玉悪玉の図式でないのもいい。いちばんの悪役である「久那」にしても、人を殺さなければいけない定めに縛られていることが書かれている。ラブストーリーも、2度読んでみると、その過程がものすごくうまく書かれているんですよ。やっぱり9年かけて書かれたっていう重みがありますね。これまでの上橋さんは、運命は甘んじて受けるというところで終わっているんだけど、これはそれにとどまらず、定められた運命を断ち切って、自分で選び取った自由を獲得する。アニミズムの復権みたいなものも感じますね。

ペガサス:私もおもしろく読みました。作者の中に、大事にしたいシーンがいくつかあって、それをうまく物語に仕立てていったという感じ。登場人物のネーミングもうまくて、野火、影矢など、日本語のニュアンスをよく生かしている。「闇の戸」なんていう言葉にも雰囲気がある。木縄坊がとてもおもしろいキャラクターだと思ったので、最後にもう一度出てきて野火ともっとかかわってもよかったのにと残念だった。全体としては、呪者と守護者という役割に分かれているんだけど、どちらの側にも心の揺れがあって、それを描いているので共感をもって読める。たとえ霊狐であっても、あやつられているだけではないというのが、玉緒などにも表れている。2つの一族の攻防は、かなり入り組んでいるわりには、途中でわからなくなったりせずに読める。それから、私は野火は主を裏切ったからには死ぬより他ないと思って、悲しい結末になるんだなあ、と思いながら読んでいたので、こんな手があったのか、とほっとした。

むう:これも第1行目というか、最初の野火のシーンでつかまった!という感じ。とても躍動感のある風の匂いまでかげそうなシーンで、一気に引き込まれてあとはぐいぐいと筋の展開と世界のおもしろさに引っぱられて読みました。発想がおもしろいなあと思いました。「あわい」という場所や小夜が光を織るシーンや「闇の戸」とか。著者が文化人類学者でもあるから、きっとそういう蓄積がこういったイメージを裏打ちしているんだろうなあと思いながら読みました。それに、こういったおもしろい発想が、ぷつぷつと孤立して途切れているのではなく、全体としてまとまった世界になっているところに著者の力量を感じました。ちょっとしか出てこない脇役もおもしろかったです。半分天狗の木縄坊の存在なんかとってもおもしろくて、逆にあれだけしか出てこないのはずいぶん贅沢だと思いました。小夜が光を織るところでも千の眼が出てきますよね。すごく怖いイメージで、ええこれってどうなっちゃうんだろうと思ったら、小夜は呪者にならないから、あれでおしまいになっちゃう。これも贅沢というか、みごとに期待を裏切っている。それと、宮部みゆきの書いている超能力者は能力が突出していなくて等身大の人間という感じがするけれど、この本も、小夜の聞き耳の能力が突出していないのがいい。最後にどちらかが死ぬしかないと思わせておいて第3の道が出てくるあたりにも感心しました。愁童さんがおっしゃった、こういう力のある人がリアルなものを書いてほしいということも確かにあるけれど、力のある日本のファンタジーも大事だと思いました。

紙魚:『ナム・フォンの風』は、具体的な描写が少なくて、どちらかというとイメージ先行というように感じましたが、この本を読んでイメージというのは、丹念な描写の積み重ねがあってこそ浮かぶんだと改めて感じました。『ナム・フォン〜』は、イメージというより気分なんですね。ある像やイメージを読者に伝えるためには、やはり具体的な情景描写が大切で、この本はそれがとても行き届いている。だから、単なる物語舞台の箱の中で物語が動いているのではなく、この物語の外側にも地平が続いているように世界が広く感じられる。それに、物理的に説明できないことを、納得させちゃう強さがあるんですよね。映画『千と千尋の物語』以降、日本の神話的な物語世界は、外国の人にとって神秘的で、注目を集めていますが、きっとこの作品などもおもしろがられると思う。日本の創作は、このところずっと海外ファンタジーにおされてきたけれど、こんなに力がある作品もあるんですよね。

愁童:小説としては「守り人」シリーズ(上橋菜穂子著 偕成社)よりこっちの方が面白いかもしれないけれど、小夜は結局、読者とはちがった存在で、その能力は母親から受けついだという設定でしょ。ゲームのキャラ作りと同じような発想に思えて、ちょっと残念。

アカシア:でもそこは、『ホビットの冒険』や『指輪物語』(J.R.R.トールキン著 瀬田貞二訳)といっしょなのね。ビルボは、たまたま魔力をもつ指輪を手に入れるんだけど、それを捨てることによって自由になる。小夜も自分の力を捨てて狐になることによって自由になる。あとね、霊狐なんていうのは、お稲荷さんの伝説なんかにも出てくる存在。単なる思いつきではなくて、伝承を踏まえているから、ちゃちな他の物語よりぐっと深みがある。

トチ:そういうのを伝えていくのって大事よね。私は、なにしろ「りょうりょうと風が吹き渡る夕暮れの野を、まるで火が走るように赤い毛なみを光らせて、一匹の子狐が駆けていた」っていう冒頭の一文がすばらしいと思った。日本の児童文学には、朝起きて、台所からお母さんが大根切る音が聞こえるなんていうのが多いけど、そういうのはやめてほしいですからね。先日、文楽「義経千本桜」を観たんだけど、狐の動きがすばらしかった。やっぱり日本人のDNAに入っているのかしらね。外国の人から見れば、映画『千と千尋の物語』で千が河だったというのはショックだったんでしょうけど、この物語の結末にも、きっとショックを受けると思います。キリスト教では、動物は人間より下等な存在としか見てないからね。日本人は、ラブストーリーの結末として狐になっちゃうなんていうのも、すばらしい世界にたどりついたと思うところだけど、西洋の人は現実から逃げたと思うかもね。朝日新聞の書評に、主人公がこういう社会からどう逃げたかが書かれていると説明されていたらしいけど、本当にそうなのかどうかという見方をしてもおもしろい。

アカシア:最後狐になって野を走るところも「桜の花びらが舞い散る野を、三匹の狐が春の陽に背を光らせながら、心地よげに駆けていった。」と書かれていて、小夜が狐の存在を選んだところを含めて、すごく肯定的なイメージですよね。キリスト教世界だったら、人間が身を落として狐になるのが幸せだとはて考えられないかもしれないけど。

トチ:いえ、最近では違う考え方も出てきていると思いますよ。

アカシア:そうか、プルマンの「ライラの冒険」シリーズも、足に木の実の車輪をつけた馬なんていう不思議な存在に高い位置をあたえてましたね。

トチ:『ナム・フォンの風』は残念ながら他の文化の紹介にとどまってましたが、児童文学も、それにとどまらず、別の価値観を提示するという時代になってきたんですね。