『教室の祭り』
草野たき/著
岩崎書店
2006.10

版元語録:5年生になって仲良しの直子とまた一緒になれたスミは喜ぶ。塾 にも行きなさいと母親に言われ、塾に通うことになるが、そこに はクラスでも目立つ友人二人も通っていた。

うさこ:タイトルがすごく気になって、今の子どもたちの日常を切り取った作品だなあと思って読み進めたのですが、この本で印象に残ったのは「強い人になりたい」ということば。スミコが友だち関係にすごく悩んでいることを本の3分の2くらいまで書いてありますが、でもそんなに大きな変化がない。それが18章で大きく展開し、ラストまでが急激な感じがしました。156ページ「心の強い人になるんだ」が、イコール「いじめに耐える人」という風に伝わってくる。いじめに耐えつつナオコと携帯でつながっているのだけれど、人間関係の描き方が希薄。携帯で通じ合ってる、メールでつながっているというだけで、それ以上に踏み込むのはいやがられるのが今の子の関係性なのでしょうか。人間関係の深みを感じられなくて、さびしい作品だなと思いました。疑問点として、スミコはナオコが気になっているのに電話すらしないのに、最後、携帯でメール、おやっと思いました。作品を通して、ナオコの人柄もよくつかめませんでした。

ケロ:タイトルはインパクトがありました。「祭り」ってこわいですね。女の子同士の確執からどう抜け出すか。このことに関しては、結論とか解決が出しづらい問題だとは思うのですが、なにか最後まで読んでも納得がいかないままになるお話だと感じました。ナオコという、弱いと思っていた子が強さを見せ、自分のほうが見捨てられていたんだと、ガーンとなるスミコ。作者は、そのインパクトが書きたかったのかな? 高学年のおそらく女の子が、この作品から何を受け取るのかな。知りたいなと思います。パーフェクトなお母さん像を描く必要はないと思うのだけれど、このお母さん像が今ひとつしっくりこなかった。大人になっていくと、あきらめることを選ぶことが必要と言うけれど、前半のお母さん像とズレを感じる。お母さんが「選ぶ」と言っていることと、友だちを「選ぶ」というのは、同レベルで考えられることなのかしら…。こういうお話は、ハッピーエンドでなくてもいいから、もっと元気の出るふうに結末を持ってきてくれるといいんだけど。

アカシア:いじめを書いている作家はたくさんいますが、作者がどういう位置に立って書くかが大事だと思うんです。この作家の立ち位置は、私には共感できませんでした。作者の考えはスミコのお母さんの言葉にあらわれていて、それは「AじゃなくBを選んでもいいんだ」ってことだと思うんですが、どっちかを選ばなくちゃ行けないっていうこと自体、私は嫌だったんです。それでは人間関係が狭くなるだけで豊かにはならないでしょう? いろんな人たちといろんな友だちの作り方がある、と私は思うから。それ以外にも、気になるところが多くて、楽しめませんでしたね。28ページ「バーカ、こないだの体育の…」今の子は、こんな長い会話はしませんよね。84ページでは、お母さんが自分は充分努力したって言うんですけど、努力している姿が書いてないんで、しらけちゃいました。カコとてっちゃんの描き方も薄っぺらだし。

ねず:日本の創作物については、いつも辛口になるので、まず最初にいいなと思ったところを言おうと思います。ナオコの家にクラスのみんなが押しかけるところ、無邪気さを装った底知れない悪意があって、なんともいえない迫力がありました。こういうところが、この作者は得意なのかしら? でも、読み終わって「いやなものを読んじゃった」という感じがしました。57ページ最後の「友だちっていうのは、選んでいいのよ」というお母さんの台詞を読んだときは、心がすうっと冷たくなるような気がしました。西川てつこともうひとりの友だちの平べったい書き方にも疑問を持ったし、共感をおぼえるような登場人物がひとりも出てこない。いじめ問題を取りあげるにしても、もっと人間の本質に迫るような、読者が大人になっても折りにふれて思い出すような、そういう作品を書いてほしいと思いました。こういうことしか書くことがないのかな。もっと子どもに語りたいことがあるでしょうに。それから、地の文と語り口調がまじっていて、「わーっと声に出して喜んだ」ではなく「わーって声に出して……」となっているような所がときどきあって、あんまり端正な文章ではないという気がしました。

ミッケ:みなさんのお話を聞きながら、あれこれ考えていたんですが、この本は、いじめをしたり、されたりしている子どものレベルを超えるものを提示してない気がします。主人公は、ふたりの女の子にいわば引っ張られるような形で、なんとなくもやもやを抱えながら親友と遠ざかるんだけれど、これじゃだめだっていうんで、ふたりの女の子に向かって、自分の思っていたことを言う。それ自体は悪くないんだけど、主人公と一緒に3人で楽しく過ごしていたと思いこんでいた2人にしたら、それってどういうこと?ってなっちゃう。そこへの目配りがないんですね。なにしろふたりにすれば、藪から棒に足下をすくわれたみたいな格好なわけで、そりゃあむっとしたり腹を立てたりもするでしょう。ここで、主人公の側が、自分が反省しているというあたりをきちんと相手に伝えきれないこともあって、そこからいじめが始まるわけですよね。こうなると、いじめられる側は、消極的な抗戦をして、徐々に仲間が増えていくのを待つしかない。まあ、こういう形で終わること自体は、子どもたちの現状からいってこうしか書けないだろうし、リアリティのある展開なんだろうと思うけれど、でもねえ、という気がする。たとえば、お母さんの「選んでいいのよ」っていう言い方や、この子が仲間に対して、わたしはあんたたちじゃなくあの子を選ぶ、みたいにスパッと相手を切り棄てるようなことをいうことからもわかるように、この本では、いじめたりいじめられたりする平面の中で物語が完結していて、そこからひとつ上にあがっていじめを乗り越えるという道が提示されていない。大人も含めて、子どもの狭い視野から抜け出せていなくて、子どもたちも最後までそういう狭い視野のままなんですね。あっちにつくか、こっちにつくかという同じレベルでの2分法で終わっている。いじめる側といじめられる側、というふうに決めつけておしまいという感じなんですね。だからこういうふうにしかなりようがない。それがこの本の限界だと思います。

アカシア:ナオコも結局スローガンで動いているみたいで、生きている立体的な人間という気がしないんですね。もっと登場人物を魅力的に書いてほしかったな。

ミッケ:冒頭から、主人公の澄子さんがだらだらしていて、魅力的じゃないんですよね。

:だから、みんな共感できない。魅力的じゃないのよ。

ねず:お母さんのことは、この子はどう思ってるの?

:お母さんはこう言うけれどって、反発するところがないのよ。親子のとらえ方が浅薄な原因かな。ただ著者は、いじめられてもしたたかな子どもを、書こうとしたんじゃないかな。

ねず:したたかさを書いても、おもしろい作品ならいいけれど……

紙魚:そういうところは、今の時代の傾向かなとも感じます。以前、お母さんたちが集まった席で、「自分の子どもが、いじめっ子になるのと、いじめられっ子になるのではどちらがいいか」という議論になったとき、一人のお母さんは「どうしても選ばなければならないのなら、いじめられっ子」と、もう一人のお母さんは「どちらもいや」とこたえました。あとのお母さんたちは全員が「いじめられるくらいなら、いじめっ子になった方がいい」と答えたんです。そういうことが大きな声で言えてしまうという今の風潮は確かにあると思うので、こういう作品はそうした時代のトレースなのかなとも感じたりします。

ポン:なんであんまりおもしろくなかったのか、今みんなの話を聞いて、わかった気がする……。ちっちゃい、ちっちゃいところで行われていることを書いているから、今同じような状況にある子が読んだら、すごく共感できるのかもしれないけど、その場にいない私にとっては、遠い世界。私の想像力は、うまく働きませんでした。

宇野:「友だちを選んでいい」というのは、よく言われる「みんな仲良く」に対する言葉かもしれませんね。

げた:私は、みなさんとはぜんぜん違うふうに読みました。ナオコが出てきた教室が祭りだっていうんだけど、そこにいる子どもたちは、ナオコの心の中は考えず、自分の気持ちや都合とその場のノリで行動している。そういうことに対して、スミコはほかの子どもたちから排斥されながらも、ナオコの気持ちをなんとか考え、なんとかしようとしている。その中で自分自身も変えていこう、強い人になりたいというスミコの変化を書いているのかな、と思ったんですよね。私は、スミコに共感できるものがありましたね。他人のことを思いやれる子ほど、かえって受難者になるという詩を読んだことがありますが、まさにスミコのことですよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2007年4月の記録)