プルメリア:大変おもしろく読みました。表紙も気に入りました。登場人物は数名で性格がわかりやすく、女性3人の個性は一人一人違い、それがおもしろかったです。ゼンダー夫人の家の中がゴージャスで、着ている洋服のファッションの印象が強い。モディリアーニの絵が出てきますが、とても気になって一気に読みました。4つの時代について分かれて書かれているのが、さすがカニグズバーグはすごいなと思いました。

タビラコ:プルメリアさんが違う本のことを話していると思ったのでは、シアさん?

シア:訳がいまいちなのか、読むのに苦労しました。前ふりが長すぎます。肝心のモディリアーニの絵が出てくるのが、かなり後。どうでもいい描写というのがだらだら続きます。海外の作家にはよくありますが、それにもまして訳がよくないように感じました。主人公の口癖に「断然」というのがありますが、今の子も言わないと思います。文化の違いを楽しめるというところに海外文学のおもしろさがありますが、この本はおもしろくありません。例えば、69ページに「食器室から出て手をのばし、皿を受け取った」うんぬんとあります。大きい部屋なのに、出て手を伸ばして受け取れるのでしょうか? 位置関係がわかりにくいですね。金原瑞人さんにしては珍しいことに、あとがきに前半部分のあらすじが書かれており、それを読んで内容がよくわかりました。そういうつまらないことが気になってしまうくらい、物語に入っていけない本でした。

タビラコ:『スカイラー通り19番地』(カニグズバーグ/著、金原瑞人/訳、岩波書店)は、読みやすかったのにね。この本が出る直前に、作者が講演の中で内容について話すのを聞いていたので、とても期待して読んだのですが、読みにくくて、なかなか物語の世界に入っていけませんでした。いろいろな人の視点から書いているからかしら? カニグズバーグという作家は、いつも頭のいい読者に向けて書いていて、「子どもだからこういうことは難しい、だから書かないでおこう」というような妥協を一切しない人なのだなと、つくづく思いました。そういう点は天晴れというか、ある意味、好感が持てるのだけれど。
翻訳も難しいでしょうね。ウィリアムの母親の「そうなの」という口癖や、アメディオがくりかえす「断然」という言葉など、英語圏の読者には「ああ、こういう口癖の人だったら、こういう性格だろう」って、すぐにわかるでしょうけれど。29ページの「ゼンダーさんじゃないですよね」「そうなの、違うわ」という会話など、一瞬「訳、まちがえたの?」と思ってしまいました。それから、130ページに「コラードグリーン」という野菜が出てきますが、これはいわゆるソウルフードで、『被差別の食卓』(上原善広/著、新潮選書)によれば差別されていた人たちが食べる食材であって、わたしのささやかな経験からいえば、これを食べるとか食べないということに関してアメリカの人たちには微妙な心の揺れがあるようなのですが、そのあたりのニュアンスも日本の読者にはわからないですよね。翻訳ものの難しい点だと思います。料理の仕方にもよるでしょうけど、私が食べたのは、小松菜の煮びたしみたいでしたが、すーっごくまずかった! この作品は、内容からいえば80歳を前にした作者が「スカイラー通り」よりずっと書きたかったことではないかと思うし、訳者の金原さんがあとがきで言っているとおり、心から拍手をおくりたいのだけれど……。

けろけろ:私は、カニグズバーグが好きなので、喜んで読みました。ただ確かに入りにくいなということはあった。最初のところで、ウィリアムとアメディオの関係がつかみづらかった。おそらく地の文が、一人称っぽかったり三人称っぽかったりして、安定していないというのも理由のひとつかと思いました。「スカイラー通り」と人物が重なっているとあとがきに書いてあり、そうだったっけ? と、読みなおしてみたりして、また楽しめました。そっか、ピーターさんは、ここでもいいやつだったっけなと。ピーターをはじめ、カニグズバーグの作品は、大人の個性がそれぞれきちんと描かれている。このへんは、日本の作品にとても参考になるんじゃないかと思いました。

ナットウ:すみません。理解しよう理解しようと思いながら2回読みましたが、なかなか頭に入らなかったです。ただ、大人の日常会話が上手いなと思いました。ゼンダー夫人はキャラクターがたっていてすごくよかったので、この人物のその後が知りたいと思いました。大きな展開は少ないのだけれど、出てくる言葉がよかったです、特に「人は十パーセントしか見えていない」という言葉は素敵。

メリーさん:カニグズバーグということで期待しながら読みました。伏線をはりめぐらせながら、結末まで持っていくストーリーの運び方が秀逸だと思いました。主人公は、有名になりたいわけではなく「発見されて初めて行方不明だったことにみんなが気づく」ことを発見をしたいという、同年齢の子どもの一歩先をいっているようなキャラクターなので、特に本好きの子どもたちが共感するのではないかと思いました。モディリアーニのファーストネームは、主人公と同じ「アメディオ」なんですね。ジョン・ヴァンダークールの手記で描かれる戦時中の記憶が、現実の絵や住人と重なっていくラストは鮮やかだと思います。一枚の絵画によって命拾いをした人がいる一方で、それによって命を奪われた人もいる。それ以上に、生きる希望としての芸術というものもあるのではないかと考えました。文中、美術展での1枚の絵を鑑賞する時間は45秒ということが書いてありましたが、これもおもしろい。実際はもっと短い気がしますが。絵を見るということは、時間を追体験することだと思います。モデルになった人がいて、描いた人がいて、それを見て感じる人がいる。大人になっても、この想像力を働かせるということを続けてほしいなと思いました。

優李:「断然」が、きっとインパクトある言葉としてたくさん使われているのだろうけれど、日本語としてしっくりこないので、読んでいる途中でかなりひっかかります。でも、筋立てにどんどん引き込まれて、引っかかる部分は、はしょって読みました。今使われている日本語で、しかもぴったりくることばに訳すということは、ずいぶん難しいことなのだとわかりました。大人が際立ってる、とおっしゃった方がいましたが、アメディオやウィリアムが利発なニュアンスのわかる子として描いてあるのに、アメディオとウィリアムのお母さんがもっとたくさん描かれてもいいと思いました。非常によいセンスとさまざまな人間と関係を築くことのできる力を併せ持つウィリアムのお母さんはともかくとして、アメディオのお母さんは、脇役としてもパターン化している。ピーターのお母さんが、後半の後半、自分をはっきり出す、という方向にキャラクターが変わっていくように、アメディオのお母さんももう少し描かれてもいいのでは、と思いました。物語の前段は後半に較べてちょっと長い印象でした。

酉三:カニグズバーグはユダヤ系ですよね。これまでの作品ではそのことを感じさせることはしないようにしてきたように思いますが(いくつか読んだ限りの印象ですが)、今回はいわば民族の悲劇をとりあげた。中心をなすストーリーはまことに劇的でひきつけるものがある。が、そのストーリーを語ることに気をとられて、物語のリアリティを生む細部が充分描かれていない。気持ちはわかるような気がするんだけど、それが残念です。

ダンテス:私は描写が大変に細かくてみごとだと思いました。フロリダなどのケバエの描写や、プール付きの家など実際に行かないとわからないようなアメリカの描写が丁寧。アメディオの母親は脇役。ガレージセールの話ですけど、ローカル新聞には 毎週どこどこでガレージセールがあると出ています。金曜・土曜にあるのが高級ガレージセール。金曜日に行くと普通は入れない大きなお屋敷に入れる、そういうことで自分は行ったことがあるので、大体イメージできました。いいものは先に業者がつばをつけている。そういう業界に関しても、すごくリアルに書かれている。物の価値がわかる人を評価しているのでウィリアムの母親はすごい。『クローディアの秘密』(カニグスバーグ/著、松永ふみ子/訳、岩波少年文庫など)は 印象的な作品でした。ミケランジェロの作品であるかどうかとか、本物を見つける話とかの話で、メトロポリタン美術館に持っていって読みました。 モディリアーニの「g」は本当は発音しないのではなくてイタリア語の独特の音があるのだが、アメリカ人にとっては「g」は読まないように見えるわけで、それを発音する業者をからかっている点も面白い。元オペラ歌手という人物設定、キュレーターという人物も面白かったです。ヒトラーの退廃芸術に対する本心の態度については予備知識がないのでわかりませんでした。『古書の来歴』(ジュラルディン・ブルックス/著、森嶋マリ/訳、武田ランダムハウスジャパン)という本がありますが、ナチスがユダヤの本を取り上げようとしてそれに命がけで抵抗する話なんです。それも連想しました。ヒトラーは他国から芸術作品を強奪してきて実は自分のものにしたかったのか、退廃しているからこの世から消そうとしていたのか、本心がよくわかりませんでした。「断然」という訳については、私も気になります。

けろけろ:外国の作品はむかしから、訳語を見て、どんなニュアンスで使われている言葉なのだろう?とわからないながら読んでいることが多いですよね。そういうものだと思って読んでいるところがある。

ジラフ:ヒトラーの美術品に対する複雑な態度は、若いころに画家志望でありながら、美大に落ちて画家になれなかったという、深い挫折感が関係しているのでは。それと、ヒトラーの民衆を煽動する才能、プロパガンダのうまさには天性のものがあったことは、よく知られています。美術、それもモダンアートという象徴的な力を持つものに、「退廃芸術」というレッテルを貼って、おとしめることでの効果を、ヒトラーは直感的に熟知していたんじゃないでしょうか。好き嫌いというよりも、一種の政治的なポーズだったのでは。その意味では、カニグズバーグ自身も戦争の影を描くのに、一枚の絵というモチーフをうまく使っていると思います。『クローディアの秘密』も『ジョコンダ夫人の肖像』(カニグズバーグ/著、松永ふみ子/訳、岩波書店)もそうでしたが、芸術作品とその謎をライトモチーフに物語を進めていくうまさ。これもカニグズバーグの持ち味だと思います。本筋とは関係ないですが、95ページの「だけど、だれかと友だちになるときはいつも、じぶんの一部をさらけ出すんじゃない?」とか、266ページの「境界は人をあざむくこともあれば、人を救うこともある」なんていう、人生の箴言みたいなことばをさりげなく、会話の中にすべりこませているところも、カニグズバーグらしいな、と思いました。

ハリネズミ:私は訳にどうもひっかかっちゃうんですね。カニグズバーグはそう簡単に翻訳できない人だと思うんです。日本の子どもたちにもイメージがわくように補ったり、微妙なニュアンスを読み解いたりしないと訳せない。たぶん原文では、暮らし方や話し方でこういう人物だと伝えてるんだと思うんですけど、それがうまくこっちまで伝わってこない。だから頭には届くけど、心まで届かないもどかしさがあります。私は、16ページの4行目「この日は〜思っていた」のところでなぜその人が電話線を切らなきゃいけなかったのかわからなかったんですね。89ページでピーターが封書を開けたとたん、の描写も分りにくい、物語のポイント、ポイントに焦点が当たるようになっていない気がしたんです。たしかに訳はむずかしいでしょうね。アマゾンで原書の最初のところを読むと、日本語でケバエってなってるのはlovebugなんですね。交尾している虫が出て来てアメディオは気になっていますが、lovebugは単なる虫の種類を言ってるだけじゃない。英語を読んだほうがきっとうまくつながっていくんでしょうね。

けろけろ:電話線のところは洒落じゃないかな。母親は密かにこの男が電話線を切ったように思った。というのは、共同出資したくなるように仕向けたのでは。相手にも出したいと思うのではないか。ん?よくわからないかも。読み飛ばしていたのかな?(笑)

ダンテス:アメリカの電話会社は、AT&T以外にもいろいろあって激しい競争をしている。自分の会社の携帯では通じない地域にセールスに入ってそこで通じるようにしたら、また引っ越していくという家族なんじゃないかな。

(「子どもの本で言いたい放題」2011年5月の記録)