日付 2005年3月17日
参加者 ブラックペッパー、羊、むう、ハマグリ、きょん、愁童、アカシア、カーコ、紙魚、すあま、(トチ)
テーマ 中学生が読む本

読んだ本:

『バラ色の怪物 』
笹生陽子/著   講談社   2004.07

版元語録:自分の中の「怪物」がうごめきだす。中二の遠藤は、学校の異端児・吉川と仲良くなるいっぽう、中学生でありながら、ネットオークションでお金を稼いでいる三上のボディーガードをはじめることに…。


『ルビーの谷 』
シャロン・クリーチ/著 赤尾秀子/訳   早川書房   2004.07
LUBY HOLLER by Sharon Creech 2002
版元語録:ダラスとフロリダは孤児院育ちでひねくれ者のふたご。夏休みの間、美しいルビーの谷で暮らす老夫婦に引き取られた。ところが問題を起こしてばかり…。


『スカイラー通り19番地 』
E.L.カニグズバーグ/著 金原瑞人/訳   岩波書店   2004.11
THE OUTCASTS OF 19 SCHUYLER PLACE by E.L. Konigsburg, 2004
版元語録:両親のいない夏休み、マーガレットは大好きなおじさん兄弟の家へ、近隣の人々から取り壊しを求められたおじさんたちの創作タワーを守るため、少女は戦う。


『バラ色の怪物』

笹生陽子/著
講談社
2004.07

ブラックペッパー:とても上手に書けている、と思いました。すっと読めて。でも、上手に書けすぎているという気持ちもあります。遠藤が急に強くなるというのが鮮やかではあるけれど、急すぎた。あと、吉川がよくわからなくて。彼女はなんなんでしょうね? 『スターガール』(ジェリー・スピネッリ著 千葉茂樹訳 理論社)のような、反逆児のような。こんな子いるのかな?

:私は、『ぼくは悪党になりたい』(笹生陽子著 角川書店)の方が、得体の知れない人がいなくて、読みやすかった。この本も、主人公の男の子が家の手伝いをするし、母親に心配かけまいと健気だし。そんな子がネットオークションでカードを売り買いしたり、夜の歓楽街に出掛けたり、本人に自覚の無いままに事件を起こしたり、巻き込まれたりする、中学生くらいの子のこわさが実感としてありましたね。急にあんなに遠藤が強くなるところには、私も違和感をもちました。

むう:私はかなり好きです。『きのう、火星に行った。』(講談社)以来、笹生さんの書き方が好きなのかもしれません。現在の世相をうまくとりこみながら、順調に育ってきたバイオエリートみたいな子がうまく出ている。一歩ずれたところに自分を置いている感じが納得できる。主人公が母親と口ゲンカになるところも、この年代特有の人との接しにくさがよく書けている。暴力におぼれていくところも、私は違和感がなかった。ただ、最後のおっかけっこの場面で、突然劇画調になったのがちょっと。全体としては好きですね。

ハマグリ:文章がうまいと思うし、すらすらっと読める本でした。でもこの主人公のような、一見さめているみたいなんだけど実は結構単純という主人公って、あまりおもしろみがない。こういう子は確かにいるとは思うんだけど、個人的には好みではありません。『楽園のつくりかた』(笹生陽子著 講談社)の主人公の方が好きですね。読んでいるときはすっと読めるけど、作品としてはなんとなく後味が悪い。三上なんかの描き方もそうだし、吉川は、最初の出方が印象的なのに、中途半端。人は見かけによらない、別の面を持っているという程度で終わっているのが、とても物足りなかったですね。

きょん:ずいぶん前に読んだんです。全体としてはすらっと読めるけど、私もあまり好きじゃなかった。なんとなく中途半端な感じがしました。子どもの中に潜む“怪物”はちょっと理解できたし、それが、時としてむくむくと頭をもたげて暴れ出し、心を乗っ取る感じは、よく描けているのだけど、結局、最後には怪物の正体を見つけられたのか、それを追い払うことはできたのか、疑問が残ります。吉川は、よくわからなかったんですよね。やはり最後には、飛び降りたのでしょうか……。吉川が、「ふつーの世界」の住人にこづき回され、嫌われながら、なぜ平然と変人ごっこを続けていたのかよくわからなかったんです。せっかくおもしろいキャラなのに、なんでこうなったのかが漠然としすぎていて。問題提起を投げつけるだけで、本の中で自己完結できなくて、そのまま終わってしまったよう。進学私立校に通うエリート中学生の三上の犯罪も、なんだか中途半端で、それでどうなったんでしょう? YA文学で思春期の子どもたちが読者だと考えると、問題を投げつけるだけでも、共感できるのでしょうか? あえて、そこに生き方とか、指標になるようなものを提示しなくても、いいのでしょうか? 中途半端な書き方が、この中途半端な年代には、いいのかしら?

愁童:最初は3冊のなかでいちばん面白いかなと思ったんだけど、『きのう、火星に行った。』のほうが面白かった。中学生あたりに読ませるという意識が過剰なんじゃないかという気がしました。吉川の奇矯な行動を出してきて、読者の関心をパッと引きつける冒頭の書き出しなんかうまいなって思ったんだけど、その後、ほとんど吉川が書き込まれてこないのが残念です。最後の方で、青いつなぎを着た男を裏と定義し、それに吉川を重ねて遠藤が納得するシーンには違和感が残りました。だって、青いつなぎの男は、読者からは裏には見えない。外見のハンデにもめげずに、倉庫で普通に仕事をしている設定になっていて、むしろあっぱれなぐらい表なんじゃないですか。吉川を、こんな風に説明するんじゃなくて、ストーリー展開の中で上手く書き込んでくれれば、遠藤との交流を通じて作品の奥行きが出てきただろうに、惜しいなって思いました。

ブラックペッパー:吉川がああなったのは、塾に一緒に行っていた子たちから仲間はずれにされたのが原因なんですよね。

愁童:でも、その描写はないわけで。

ブラックペッパー:そこがずっと謎だったのが、あとから明かされて「真相解明!」っていうつくりなんですよね。

愁童:文章で書くならば、グレーゾーンも書かないと、立体感が出てこないじゃないですか。

ブラックペッパー:私は、吉川が、派手なことをしたいのに温室によく来てるということがピンとこなかったですね。お花に詳しかったり。

むう:吉川やつなぎの男の人っていうのは、多数派と少数派の対比なのかな。マジョリティーとマイノリティーみたいな。

愁童:それは裏とはちがうんじゃない。青いつなぎの男は少数派かもしれないけど、裏じゃないと思う。

アカシア:中学生ってすごく難しい年齢ですよね。社会からは疎外されたところにいて、でもあれこれ思い悩むし感受性も強い。だから常識の物差しでは量ることができない吉川みたいな女の子だって出てくるのはわかるんです。ただ最初の出だしを読んだときは純粋エンターテイメントのドタバタなのかな、と思ったんだけど、読んでいったらそうでもなくて、どっちつかずになっていた。私も『ぼくらのサイテーの夏』(講談社)や『きのう、火星に行った。』のほうが、心理の揺れがきちんと描かれていて作品としての質は上じゃないかと思いました。
今日は出席できないトチさんから、メモを預かっているので、みなさんにもお伝えします。

トチ(メモ):三上くんの正体がなんなのか知りたくて、最後まで読みました。途中から「光クラブ」にヒントを得ているんだなと分かりましたが、歳のせいでしょうね(リアルタイムで知っているわけではありません。念のため)当時より今のほうがずっとこういう事件(というか犯罪)が起こりそうな時代ですし、題材の選びかたがなかなか鋭いし、おもしろいと思いました。というわけで、三上くんがらみのストーリーは、おもしろかったし、遠藤の気持ちもきめこまかく、よく描かれていると思いました。ウサギのような宇崎くんもおもしろい。
でも、三上くんのストーリーと、吉川や、頭にけがをした青いつなぎの若者の話がどうからんでいるのか、わかりませんでした。よっぽどオツムが悪いのでしょうか? 一見バラ色の怪物のような吉川や、けがのせいで通行人に気味悪く思われている男の人のほうが怪物ではなく、三上くんのような優等生のほうが怪物だといいたいのでしょうか?でも、それじゃあまりにも単純すぎて……どなたか教えてください。
青いつなぎの若者の話は、分からないを通りこして、憤りすらおぼえました。94ページの「『魔界じゃ姿が醜いやつほど強いってことなんすかね』……遠藤はふとつぶやいた。青いつなぎの若者のことをぼんやりと思い出しながら。この世のものとは思えないほど醜く、そして強い者」とか、86ページあたりの若者をことさら英雄視した吉川の言葉とか……「もはや存在そのものがリアルの域を超えているね」なんて言われたい人間がいるんでしょうか?

カーコ:今回選書するときに、中学生が主人公になっているものを選ぼうとしたんです。今の中学生にどんな本が届いているのかが、少しでも浮かび上がればいいと思って。笹生さんは、中学生によく読まれている作家だし、話題にもなっていたのでこの本を入れました。でも、これは読後感がよくありませんでした。衝動を抑えられない感じがうまく出ているので、中学生が読んだら、ほかにもこういう子がいるのかと思うかもしれないけれど、もっと明るいものを見せてほしい。また、保護者の立場で読むと、おそろしいですよね。親の知らないところで、子どもがこんなことをしているなんて。東京都では昨年条例が出て、中学生の夜間外出は禁止になり、違反すると親は罰金を払わなければならなくなっています。だから、現在の東京都ではこの物語の設定はリアルじゃないですね。

紙魚:笹生さんのほかの作品にもいえることですが、冒頭の吉川の登場のしかたや、それぞれのキャラクター、物語の設定にきれ味があって、すっと鮮やかな印象が残ります。キャラクターのデフォルメがうまいので、多少、心情描写がうすくても、どんどん読み進めていけちゃう。ただ、その鮮やかさが切れ切れとしていて、なかなか一筋のものにつながっていかない。だから、読んでいるときはおもしろく感じられるのだけれど、吉川とか、つなぎの男とか、この物語にどう機能していたのかがつかみにくい。

すあま:同じ時期に出版された『サンネンイチゴ』(笹生陽子著 理論社)を読んだところなのですが、どちらも中学生のとんがった女の子が出てくるので、いっそのこと同じ子のちがう話(シリーズもの)でもいいような気がしました(他の参加者から「出版社がちがうから無理」という声あり)。読んでいる間はおもしろかったんだけど、読み終わってみるとそうでもなかった。吉川さんは、疎外されたのが原因で変わった行動をする子になったように描 かれていますけど、もともとの性格なのか、実はとても気持ちが弱いんだけど時々爆発するのか、わかりませんでした。見た目と行動の奇抜さだけでは、キャラクターとして弱いので、もう少ししっかり描いてほしかったな。青いつなぎの人との関わりも、ハンカチ拾うだけで終わっているのが物足りませんでした。

アカシア:私は、ハンカチ落とすなよ、と思っちゃった。月並みすぎるじゃないですか。

むう:吉川っていうのは、おそらく主人公が変化するための触媒なんでしょうね。だから、それほど主人公との関係が濃くならなくてもいい。ほどほどの関係で推移するんだけれど、それでいてまったく軽い存在ではないわけで、主人公はちょこちょこと刺激を受けていて、それがあるからこそ三上君との世界で自分の今まで知らなかったところを発見する、という流れなんじゃないかな。さらに、吉川にとっては、つなぎの男の人が触媒みたいな存在だったんじゃないかな。つなぎの男の人との深い交わりがあったからではなく、自分の抱えている問題があって、そこに男の人を外側から見ていて自分なりに受けた刺激が加わってはじめて今の吉川が生まれたと、そういう構造なんじゃないかな。だから、吉川やつなぎの男の人はあまりいろいろと書き込まれていなくて謎が多いままなんじゃないかな。つなぎの男の人の扱いにはかなり問題ありだと思うけど。

愁童:確かに触媒って言われるとわかりやすいね。でも、吉川が触媒で、青いつなぎの男が吉川の触媒っていうのは、すごく分かりにくい。吉川が触媒なら、吉川をもっと書き込んでほしかったな。

すあま:吉川は、あこがれの人を遠藤に見せたかったんですよね。

愁童:隔靴掻痒という感じがするよね。本当の触媒としての共感が生まれない。

ブラックペッパー:うー、でも、吉川は自分を見せないようにしている子だからね。

愁童:読者は、吉川への魅力に引きずられて読んでいる部分があるのに、最後は、表・裏みたいな簡単な図式で終わってしまうのは残念だったな。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年3月の記録)


『ルビーの谷』

シャロン・クリーチ/著 赤尾秀子/訳
早川書房
2004.07

紙魚:いちばん馴染めなかったのは、このふたごの年齢。13歳とありますが、会話や行動からはとても13歳とは思えない。だから、この子たちの像をつくりあげられないまま読むのがしんどかったです。会話もおかしいですよね。ほかにも、いろんな疑問が残ります。後半、孤児院の院長夫婦がやっきになって買い物する描写が続くところなんかは、コミカルに見せたいのか、それぐらいひどい人なんだという深刻さを出したいのか、どちらなんでしょう? Zが最後どうなったのかも気になります。それから、老夫婦にとっての旅の意義とはなんだったのか? 前半部分でそれがちゃんと伝わらないと、夫婦の生活実感とか、二人がそれぞれ子どもをつれて旅に出る意味など、うすっぺらいものになっていまいます。文章からは伝わってこないけど、実際のところはこうなんじゃないかと思って読む感じでした。

カーコ:確かに、私もずっとちぐはぐな感じがあり、これは原作の問題なのか翻訳の問題なのかと思いながら読み進んだところがあります。ふたごの視点と老夫婦の視点を使うことで、思っているけれど言わないこと、思っているけど伝わらないことなどが、鮮明になっていて、そこはうまいと思いました。自然に年長者の思いが、読者に伝わってきますし。会話が多く、本来は読みやすい作品のはずなので、子どもの本としての目配りがもっとほしかったです。ルビーの谷の美しさなど、心にしみる部分があるだけにもったいない。また、『ホエール・トーク』(クリス クラッチャー著 金原瑞人訳 青山出版社)を読んだときも感じたことだけど、外国のもののほうが、大人が断然くっきりしています。日本の大人は、子どもたちに大人の文化を見せていないのかな、と考えさせられました。

アカシア:私も、ダラスとフロリダは、読んでいてもっと小さい子たちかと思いましたね。でも絵を見るともっと大きいのよね。老夫婦の気持ちや人柄はよくわかるんだけど、ふたごの描写は、ステレオタイプだと思いました。カーネギー賞作品なんだから本当はもっといい話なんだけど、翻訳がそれを伝えていないのかしら? 私も、孤児院の院長夫妻には全くリアリティが感じられなくて、それが作品全体のバランスを崩していると思いましたね。ここでまたトチさんの、メモを紹介します。

トチ:(メモ):原書のタイトル(Ruby Holler)を見たときに「なにこれ?」と思ったのですが、holler は hollow(窪地)の方言なんですね。大声で叫ぶ holler と窪地のhollerをかけている、なかなかしゃれたタイトルです。それはともかく、『ロラおばちゃんがやってきた』(2005年2月)のときのハマグリさんの台詞を借りれば「いい人たちがでてくる、いいお話で、感動しなければと思って読みました」(本当は、いい人ばかりではないんですけどね)。1章の「銀色の鳥」で、この子達はいずれ銀色の鳥に導かれるようにして、温かい家庭に引き取られるのだろうなと思いましたが、たちまち3章で、長い道筋の末にたどりつくのだろうと思っていた温かい家庭の持ち主があらわれたので、ちょっとびっくりしました。後はもう、そうなるだろうなと思うような道筋で進んでいき、「それからはみんな、いつまでも幸せに暮らしましたとさ」で終わる……現代のフェアリーテールですね。
アマゾンのreviewを読むと、フロリダの言葉がショッキングでそれが面白いということですが、残念ながら翻訳版ではそれが感じられません。putrid とフロリダが口走るところがとってもおもしろいとアマゾンでは子どもの読者が何人か書いていますが、これを「むかむかする」と訳しているのでしょうか? フロリダの言葉もダラスのそれも、今どきの大人よりも上品で、古めかしい。140pのフロリダの言葉に「わたしのオツムがいかれたんじゃなきゃ、これはベーコンよ……」とあるけれど、この子が「オツム」なんて言うかなあ?
ルビーの谷の夫婦がなんで別々に冒険旅行にでかけるのかなと最初は思ったのですが、仲のよい夫婦なので永遠の別れのリハーサルなのかなと思い、そこはちょっとほろっとしました。深読みでしょうか? それから、フロリダとダラスを夏の間だけ引き取ったのは、旅の道連れにするのに、若くて元気がいいからということなのでしょうか? ちょっと勝手なのではと思いましたが、どうなんでしょう? 自分たちにとっても便利だし、孤児たちも喜ぶだろうしということなのかしら? そのへんのところがよく分かりませんでした。
また、トレピッド院長夫妻があまりにも漫画的に描かれていて(特に買い物のところなど)、軽すぎるかなと思いました。Zがふたごの実の父親だったというところもねえ。フェアリーテールとして読めばオーケーなのかもしれないけど。
これ、本当にカーネギーを取ったんでしょうか? 好き嫌いはあるにしても『ふたつの旅の終わりに』(エイダン・チェンバーズ著 原田勝訳 徳間書店)などとくらべてあまりにも小粒なのでは?

愁童:3冊の中でいちばん読みやすいんだけど、主人公がもっと幼いと思って読んだものだから、孤児物語定番ものみたいな感じがしました。あちこちで似たような話を読んだなという感じ。Zの書き方にもう一工夫あれば、もっとおもしろくなったのでは?

きょん:私も主人公が13歳とは思えなかった。6歳くらいの印象ですよね。ふたごと老夫婦と、2つの視点で書かれた、それぞれのエピソードが、ばらばらに入っているのだけれど、それが、うまくかみあわさっていて、パズルのピースをはめ込んでいくように世界ができていくのはおもしろい。このストーリーの中では、老夫婦のそれぞれの旅は、あんまり意味がなかったんだと思いました。作者にとっては、老夫婦とふたごが、旅に出るまでの複雑な心の揺れや迷いを描きたかったのではないでしょうか。行かない方がいいんじゃないかとか、ふたごと老夫婦のそれぞれが離ればなれになるのは初めてだから大丈夫かとか……。はじめは、子どもたちは、旅に行くつもりなんか全然なくて、夜汽車で逃げ出そうと計画しているのに、旅に行って帰ってきてから夜汽車に乗るのでもいいか……とか。心の揺れと迷いがよく描かれていておもしろかった。そして、子どもたちが心をひらいて旅についていくというのは、よく伝わってきました。
子どもたちは、もしかしたら、愛情をかけられずに施設で育ったため、粗暴で感情が未成熟で幼く感じるのかもしれませんね。老夫婦に出会うことによって、人間的な心をとりもどして、心も人間としても成長していくのかもしれない。Zは、重要な脇役だけど、最後はどうなるのか、ちょっと中途半端な伏線だった感じがします。
最後に、フロリダが、はっきりと「行きたくないここにいたい。こんなにやさしくしてもらったの初めてだもん」っていうところが、本当に印象的だった。今までは、「いたいかもしれない」「今までとは違うかもしれない」と予感していたけど、はっきりと言葉にしていない、それは、言葉にしてしまうことで、裏切られるのが怖いからで、今まで裏切られてばかりいたから、信じてはいけないと思っていたから……という、その感じが、痛々しいほど伝わってきました。

ブラックペッパー:読み終わって、まるくおさまって、いい気分でした。私は年齢にはひっかからなかったけれど、時代はいつなのかと気になった。この状況って、現代にありうるのかと。だって、こんなお仕置きしたりする孤児院、経営者は逮捕されちゃわない? これはいつの時代の話なんですかね?

:「リモコン」って出てくるから、現代ですね。

ブラックペッパー:今なのね、やっぱり。で、あんまりリアリティを求めずに読んだから、女の子は元気がよくて、男の子はぼんやりしてて、いろいろあったけど最後は「よかったね」という感じ。Zがお父さんだったというのは、ちょっと。でも、お父さんだとは名乗ってないないので、まあ、それもいいかなと思いました。

アカシア:子どもたちを孤児院に帰すわけにはいかないし、老夫婦がひきとるわけにもいかないから、こういう結末にしたのかしら? そのためにはZが必要だったのかも。Zは近くに住んでいるから、子どもたちはまたルビーの谷にもしょっちゅう来られるわけだし。

ブラックペッパー:私は、老夫婦がひきとって、Zがちょくちょく来るという結末になるのかなと思ってました。

:この本と前後して読んだ『ダストビン・ベイビー』(ジャクリーン・ウィルソン著 小竹由美子訳 偕成社)も捨て子になって里親や施設を転々とし、辛い子ども時代を送ったため、大人を信用できなくなった子どもが思春期に自立していく話なんですが、そっちは過酷な状況がさほどリアルに伝わらなくて、妙にほのぼのとしていました。孤児院の院長夫妻は、奥さんがフロリダを我が子として育てようとしてうまくいかなかった挫折感がコンプレックスになっているせいで、ふたごが神経に触ってしまうんでしょうか? Z・謎の男ですが、推理小説好きとしては、ZはZでいいけれど、老夫婦にはZと呼ばせず、名前(ボブでもジョンでも)で登場して、後で同一人物だったって方がおもしろかったのに。Zに石を探させるところは、リアリティを通り越して滑稽でしたね。

ブラックペッパー:私は、最初の登場人物紹介に「謎の男」と書いてほしくなかった。

愁童:そうだよね。ふだんから老夫婦の家に出入りしているのに、老夫婦まで「Z」と呼んでいるのはリアリティないよね。

:それから、フロリダの「むかむかする」という表現が気になって数えてみたら、30ページまでに8回位使っているんです。その後、フロリダとティラーがお互いを理解し近づいていく流れの山場でティラーが「むかむかするっていうのはいい言葉だな」と言うので、これは、本当はキーワードなんでしょうね。なんかぴったりこなかったんですけど。

すあま:今の言葉でいえば、「むかつく」とか「きもい」とか、若い子がよく使う言葉に当たるのかな?

アカシア:これが、トチさんの言ってたputridなのかも。

むう:私は、ずいぶん古典的な本だなあと思いました。ほとんどみなさんがおっしゃったことで尽きているんですけれど、院長のショッピングのエピソードや、Zの扱いがまるで宙ぶらりんなところは持て余しました。途中で院長夫人がふたごをひきとろうと考えるところで、「おっと、ここですこし心の綾などが見られるのかな?」と思ったら、そうでもなく続いていってしまうし、なんだかとっても変。老夫婦の設定には好感がもてたし、ふたごの揺れる気持ちとか、何度もドジをして、そのたびにすくみ上がりながら少しずつ心を開いていくところなんかはいいなあと思いました。何かをしていくなか、何もしないでただいっしょにいるなかで絆が培われていく感じがよく出ていると思いましたし、老人二人とふたごとの心の変化だけでも十分だった気がするんです。ふたごが家出しようとするんだけれど、一方で老夫婦に見つけてほしいと思っているあたりもリアルでよかった。でも、それと院長夫妻やZの扱いのお手軽さがなんともアンバランスで……。カーネギー賞は、どちらかというと子どもが読めるのかなというくらい文学性が高かったりする本に与えられる賞だと思っていたので、この本がカーネギー賞だというのはかなり意外でしたね。

ハマグリ:この本の印象は、はっきりいって退屈。早く終わらないかなと思いながら読みました。目次を見ると、66もの章に細かく分かれている。中には1ページしかない章もあり、それぞれに最後をうまい切り口でパツンと切ったりして、しゃれた構成にしている。でも、その切り方がどういう意味なのかよくわからないものもあって、よさが十分に味わえませんでした。また、老夫婦とふたごのイメージと、実際にくりひろげられている会話やキャラクターと、この本の挿絵のイメージがばらばらで、かみあわない感じがしました。また、院長夫妻は最初は、昔からよくある意地悪な孤児院の院長のような雰囲気だったのに、途中から突然、滑稽な買い物風景が出てきたり、おもちゃの宝石にだまされたりするなど、急にマンガみたいになって、一体どうしたのかと思いました。Zが親だったというオチも、とってつけたようでいただけません。

カーコ:院長夫婦をマンガのキャラクターみたいにして、読みやすくしようとしたのかしら?

ハマグリ:文脈からいっても、院長夫妻が単なるおバカな人たちになるのは、ありえないでしょう。トチさんのいうように、現代のフェアリーテイルとして読めばいいのかしらね。

すあま:私もおもしろくなかった。カーネギー賞だからおもしろいはずなのにと思ったんだけど、どうしておもしろくないんでしょう? 話に乗っていくことができないのは、原作のせいなのか訳のせいなのか、どっちなんでしょう? とんちんかんなことをしたりするのを、もうちょっと楽しみたいんだけど、言葉づかいのせいか入り込めませんでした。原作はもっと違うものなのではという疑念がわきました。院長たちのチャチな犯罪は、リンドグレンやケストナーの昔の作品に出てくる安っぽい悪者みたいですが、かえって逆効果。話の本筋と別のところでハラハラドキドキさせようとしたのかな?

ブラックペッパー:でもあれがないと、Zが活躍できないんですよ。

すあま:老夫婦が本当の子どもたちに2人ひきとることを反対されているけれど、その先どうなるかが書いていないので、何となく腑に落ちないまま終わってし まう。シャロン・クリーチの他の作品は読んでないんだけど、ニューベリー賞も受賞している作家だし、本当はおもしろいのでは?

ハマグリ:筋も腑に落ちないとすれば、訳のせいだけではないわよね。

すあま:ふたごが、よかれと思ってやるのに老夫婦の大切なものを壊しちゃうなんていうすれ違いも、もっとおもしろく訳してほしかったな。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年3月の記録)


『スカイラー通り19番地』

E.L.カニグズバーグ/著 金原瑞人/訳
岩波書店
2004.11

すあま:カニグズバーグの新作ということで、ある程度、期待をもって読み始めました。前半はおもしろかったんだけど、後半の塔をめぐる争いになってから、あんまりおもしろくなくなってしまいました。主人公をキャンプでいじめていた子たちが最後に出てくるけど、そんな簡単に関係が修復されてしまうものなんでしょうかね?

ハマグリ:私も期待して読んだんですけどね。カニグズバーグはとにかく周到に考えて、最初から最後まできちんと作る人なんだなということはわかったけど、実はあまり楽しめなかった。この主人公みたいな、ちょっと大人びた女の子を書くのはうまいと思う。二人のおじさんの雰囲気も、他の作品にない感じで、ユニークでよかった。犬のタルトゥーフォも脇役としてとても効いている。でも、よくわからないところも多かったし、ピンとこないところがあった。でもカニグズバーグなんだからきっとおもしろいに違いないという思いがあって、それに邪魔されてしまったかもしれない。やっぱり、私は初期の作品のほうが好きです。

むう:私もかなり期待して読んだんですが、読み終わって、作者は何書きたかったんだろうと思っちゃいました。当然ながら、文章はうまい人だし、主人公や二人のおじさんはとても魅力的なんですけどね。そもそもカニグズバーグは繊細で自立心の強いタイプの子を書くのがとても上手で、ここでも「わたしたち」という言葉にこだわる主人公の気持ちはとてもよくわかる。でも、ずっと読み進んでいって、半分近くまでキャンプの話が続いて塔の話に入ったところで、ふと、タイトルが「スカイラー通り19番地」なんだから、これからはじまる塔の話が本番ということなのかな、と思ったのだけれど、どうもそうじゃないんですね。前半のキャンプの話はぐっと主人公に引き込まれて読み進んだのだけれど、後半の塔の話になると、印象がまるで変わってきちゃって、ひどくちぐはぐな感じを受けました。塔の話になってからの展開がずいぶんドタバタしていて、きちんと書き込まれていない感じですね。主人公やおじさん以外の人々が、ジェイクにしてもそうなんだけど、なんとなく周辺にとどまっていてあまり活躍していない印象が残ったんです。あと、最後に塔を大企業が買っちゃうという結末はひじょうに不満でした。「ステップ3のあと」の部分の書き方が、懐古調で妙にたんたんとしているせいもあるのかな、読み終わってとっても寂しい感じが残りました。ああ、さすがのカニグズバーグにも、最盛期のような輝きはなくなってしまったのか、と思いました。

:最近出てた他の作品が読みにくかったので、これはカニグズバーグを読んだなという感じが持てました。カニグズバーグの新作だと期待しすぎちゃうので、いろいろ厳しい意見が出るのでしょう。おじいさん二人が、映画『ウォルター少年の夏休み』の雰囲気に似て、うまく伝わってきました。ただ、塔がどういう形なのかイメージが持てなかった。塔をアウトサイダーアートという言葉で価値を高めて、買い取ってもらうというのも、解決の一つかなとは思いました。でも、やはり寂しさが残ってしまいました。

ブラックペッパー:私は、その寂しさは、ロレッタさんとピーターのせいではないかと思うんですけど。ジェイクならわかるけど、会ったこともない人に電話で頼んで解決しちゃうのが達成感がなくて、寂しいのでは? 私は、女の子が歌を歌うところが好き。「わたしたち」の言葉にこだわるところも。

紙魚:しかも、ジェイクはロレッタさんと結婚しちゃうんですからね。聞いてないよーと思いました。

ブラックペッパー:あと、「カピシ」はcapisciだと思いますが、「カピーシ」がナチュラル。もし、わざと変ないい方をしてるのであれば、傍点つけるとかしたほうがよいと思う。OKは「オーケー」とか「オッケー」ならいいけど「オケ」じゃダメなのと一緒。許容範囲をこえています。

きょん:寂しかったのは、塔を記念碑のようにしてしまったからだと思います。マーガレットたちは、そんなことを望んでいたわけじゃないでしょう。窓をあけて、塔が見えるというその状態が大切でしょ。自分たちの生活空間の中に自然にとけ込んでいる“塔”が大切だったのだと思うのに。

ブラックペッパー:でも、壊されちゃったら、もっと寂しい……。

きょん:どうしてスカイラー通りに残すことが無理なのかわからないですよね。あの塔の周辺の町並みは、都市計画の中で旧市街のように残そうとしていた地域なのだから、塔を残すことだって可能なのでは? 事実の記録じゃなくて“お話”なんだし。

アカシア:私は、暮らしの中に塔を残すのは今の現実社会では無理なんだ、とカニグズバーグがあきらめちゃったような気がして、それが寂しかった。

きょん:登場人物は、ユニークでおもしろかった。あと、マーガレットがなぜイギリス国歌を歌っているのかがわからなかったんです。

ブラックペッパー:ひとりで歌をうたっちゃうっていう気持ち、あると思うなあ。あと歌詞もいい! とくに2番。

きょん:最後、ピーターはどうなったんでしょう??? ちょっとラストは、バタバタととりとめもなく集結していくところが残念でした。何となく妙な感じが残る本でした。

愁童:ぼくは、ええっ、これ、カニグズバーグなの? という感想。ほかの作品のように、存在感のある印象的な人物がバーンと出てこない。書きたかったのは、ひょっとして、アウトサイダーアートだったのかな、なんて思っちゃった。スチールパイプを組んで、がらくたをぶらさげている塔を、記念碑として残すというは、説得力に乏しい。つまんなかった。ジェイクにはひかれたんだけど、いじめっ子たちをつれてきて運動をするというのはご都合主義に過ぎないんじゃないか? カニグズバーグのものとしては説得力に欠けていて、がっかりしました。唯一キャンプの女の子を問いつめる場面ではカニグズバーグらしさを感じたけど……。

アカシア:私は、カニグズバーグの作品は、人物の描写のうまさとリアリティへのこだわりが特徴だと思ってるんです。で、人物に関していうと、校長先生はただの性悪でなくて厚みのある人物としてうまく書かれていると思ったし、「わたし」「わたしたち」にこだわっている主人公の女の子の描写もうまい。おじさんたちも魅力的。ジェイクの意外性もいい。でも、リアリティという点では、あまりいただけませんでしたね。もっとリアリティにこだわる作家だと思っていたんだけど、私が読み落としているんでしょうか? たとえば塔を守るためには、そこに取り壊しの人が入ってきたら所有権を主張して無断侵入で訴えて阻止しよう、という作戦を立てるわけですよね? でも、途中から方針が変わったのか、塔に立てこもってしまい、これは危険だからと警察に保護されてしまう。最初の作戦でいけばこんなことにはならなかったんじゃないかって、疑問がわきましたね。それに、おじさんたちは、いろいろな描写から生活の質にはとてもこだわっている人だと思えるのに、ケータイの会社に塔を保存してもらう、という終わり方でいいのか、ということも気になりました。私も、この塔が地域の人々の生活の中にあるからこそ意味があるのだと思っていたので。それとも、スカイラー通りでの塔の役割はもう終わった、とカニグズバーグはみなしているのでしょうか? その辺がよくわからなくて、もどかしかったんですね。それから校長のカプラン先生ですけど、ジェイクについてスカイラー通りまでついてきてしまうなんて、少なくとも翻訳で読むかぎりリアリティがありませんよね。残されたキャンプはいったい誰が面倒を見ているんでしょう? それから、これは訳の問題ですが、ジェイクの「回顧展」ってあるけど、回顧展って、ふつう死んでからやるんじゃない? 私はこの言葉が出て来た時点で、ああジェイクは死んでしまったんだ、と思ってしまいました。そしたらまた登場してきたのでびっくり。この作品でも下訳の人が入っているのかしら? カニグズバーグは一言一言がゆるがせにできない文章を書く人だと思うので、翻訳者ご自身が最初から取り組んでいらっしゃれば、読者のもどかしさはもう少し減ったのかもしれませんね。

ハマグリ:そうだよね。もっとおもしろいはずだよね。

カーコ:筋としてはすらすら読めるのですが、登場人物が増えて、設定も作品のつくりも複雑になって、最後のおさまりがつきにくくなっている感じがしました。『ホエール・トーク』(前出)も『ホー』(カール・ハイアセン作 千葉茂樹訳 理論社)もそうでしたが、社会的な問題解決というと、弁護士や各方面の人々が登場します。私はうっとうしく感じるのですが、アメリカでは普通のことなのでしょうか。校長先生も街づくりをする自治体も、正義の旗じるしをかかげているのに、実際は個々人の幸せにはつながっていないとか、おじさん二人にとって時間は過ごすためにある、とか、おもしろいところはいろいろありました。生きることに肯定的なのがいいですね。ただ、一人称でなくてはいけなかったのかなと思った部分がありました。たとえば、131ページ後半、街のことが書かれている部分は非常に三人称的で違和感がありました。ゴシックで書いてある章タイトル(?)も、しっくりしませんでした。きらいではないけど、問題がしぼりこまれていた初期の作品のほうが、私は好きです。

紙魚:イギリスの田舎に、意味のない鉄塔を立てている人がいるという話をきいたことがあります。おそらくカニグズバーグは、その鉄塔のことが頭にあって、この物語を書いたのではないかしら。でも、それがうまく物語のなかにとけこんでいなくて、キャンプのいじめの話、塔の話、その後の結末、という固まりのまま、ぶつぶつと途切れているのが残念でした。ジェイクがいじめっ子たちを追いこむ場面は痛快だし、「わたし」「わたしたち」という概念をおりまぜたりするところなんかはさすがですが、自分たちの(主人公もわたしたち読者も)手の届かないところで、物語が動いていく寂しさが残りました。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年3月の記録)