日本児童図書出版協会で出している月刊誌「こどもの本」に、2017年の5月号から2018年の4月号まで「子どもの本に見る新しい家族」というタイトルで、従来型ではない多様な家族を描いた子どもの本について連載していました。もう一度手を入れてから自分のウェブサイトに掲載しようと思ったのですが、コロナ禍で資料が置いてある東京にも戻れず、手を入れる時間もないので、とりあえず誤植や舌足らずのところだけを訂正し、基本的にはそのままこちらに転載します。


子どもの本に見る新しい家族① 

今、子どもの本は家族をどう描いているのか

 

多様性と国際化

子どもたちには本を通して、なるべくたくさんの多様な価値観に触れてほしいと、特に今、私は思っている。そして本を通して、なるべくたくさんの地域の子どもたちと友だちになっておいてほしいと考えている。それが、これからの社会をになう子どもたちの「国際化」につながることだと思うからだ。外国語がネイティブのように話せたところで、相手の存在の背景にある文化や価値観が理解できなくては、真の意味での国際人にはなれない。それに、多様な価値観に触れておけば、うっかりお粗末な為政者の口車にのって他の国を敵視してしまうことへの備えにもなるだろう。

私が絵本や児童文学が家族をどう描いているかに関心を寄せるきっかけとなつたのは、スーザン・クークリンの『家族』(Families)という米国のノンフイクション写真絵本だった。初版は2006年だが、米国ではいまだに版を重ねている。日本語訳は出ていない。

FAMILIES 表紙

この写真絵本が取り上げているのは、15の多様な家族である。おもて表紙に写っている家族は、肌の色の白い母親と褐色の父親と、その中間のように見える肌の色の子どもたちだ。うら表紙には、アメリカ人の父親と日本人の母親と、ムサシ、オサムという子ども二人の家族。どっちの家族もにこにこと楽しそうだ。表紙の家族のほかに、ひとりっ子の家族、子だくさんの家族、親が離婚・再婚した家族、父親二人の家族、母親二人の家族、障碍者のいる家族、ふたごのいる家族、実子のほかに養子もいる家族、独身女性が養子を迎えた家族などが登場する。肌の色も、宗教も、文化もさまざまだが、どれもアメリカの家族である。著者の後書きを見ると、ここに登場するどの子も「愛されていて、安心できる居場所がある」と感じているとのことだし、写真でもそれぞれの家族があたたかい雰囲気をかもしだしている。写真絵本なので、子どもも一目瞭然に多様性が理解できるだろう。日本でも、地域によっては外国籍の親をもつ子どもが増えているが、多様であっていいということを伝える本はまだまだ少ない。

 

キャサリン・パターソンのスピーチ

キャサリン・パターソンは、ニューベリー賞2回、全米図書賞2回をふくむ数々の賞を受賞した米国のベテラン作家だが、1998年に国際アンデルセン賞を受賞したときのスピーチで、こんなことを言っている。

「米国の図書館には自国で出版された本がすでにたくさん並んでいるせいか、外国からの翻訳作品も必要だということを忘れてしまいがちです。でも、私たちは米国の子どもたちに本を通して、イランや朝鮮半島や南アフリカやセルビアやコロンビアやチリやイラクに暮らす友だちをあたえていかなければなりません。どの国の子どもたちとも仲良くなってもらうために。人は、自分の友だちが暮らしている国には危害を加えようとは思わなくなるからです」

中国に生まれて日本軍の侵略を体験し、後には日本にも住んだことのあるパターソンは、多様な文化を知ることの重要性を人並み以上に強く感じていたのだろう。

米国は、児童書に占める翻訳作品の点数が非常に少ない(新刊点数の2%くらい)。パターソンは、このままではいずれトランプのような人間が権力の座について大変なことになると当時から思っていたのかもしれない。

この連載では、子どもにとっていちばんの環境である家族を取り上げた絵本や児童文学を紹介し、昨今の作品がステレオタイプから離れた新たな家族像をどう描いてきたかを見ていきたい。近年のファンタジーの中にもたとえば「ライラの冒険シリーズ」(フィリップ・プルマン)のライラの家族のように、従来型の家族像とはまったく違う(もっと言えば家族とは思えない)家族が登場する作品もあるが、ここでは主にリアリズムの作品を取り上げて考えてみたい。ただし、取り上げるのはメッセージが前面に出ている作品ではなく、文学的にも評価されている作品としたい。

 

理想の家族像?

ローラ・インガルス・ワイルダーが『大きな森の小さな家』をはじめとする自伝的シリーズの中で描いたような家族が理想だと考えている人は、日本にも結構いる。父親は外敵から家族を守りつつ土地を開墾して家を建て、母親は家事育児にいそしみ、一家の主が決めた計画に内心では不服だとしても従う。子どもたちは助け合い、親の言うことを基本的には守り、ほぼ自給自足の生活の中で家族が強い絆で結ばれている――そんな家族だ。

『大きな森の小さな家』表紙
『大きな森の小さな家』恩地三保子訳 福音館書店

ワイルダーは60歳を過ぎてから、作家の娘ローズに勧められて書き始めたので、なつかしい日々を思いだして懐古的に語っている。そのおかげで、苦労も楽しい思い出話になっているように私には思える。

それはそれとして、今も、ローラの家族のようなかたちは可能かというと、それはなかなか難しいのではないだろうか。アメリカで西部開拓時代に安住の地を求めて移動していく人たちには、外に野生動物や先住民などの脅威があった。そして、子どもがさまざまなメディアに触れる機会もないため、生活面だけでなく情報面でも子どもは親に頼るしかなかった。親という窓を通して世の中を見ていたのである。また、子どもは、すぐれた生活の技術をもつ親を間近に見て尊敬の念を抱いていた。同じような条件下にない現代社会で、このような家族のありようは難しいと言わざるをえないだろう。今、必要なのはもっと違う家族像だと私は感じている。

 

『のっぼのサラ」と非血縁の家族

パトリシア・マクラクラン『のっぽのサラ』表紙私が新たな家族像を描いているとして最初に感銘を受けた児童文学作品は、パトリシア・マクラクランのニューベリー賞受賞作『のっぼのサラ』(原書 1985/金原瑞人訳 福武書店 1987、徳間書店 2003)だった。母親が病死して父親と一緒に暮らす子どもたちが、継母(候補)のサラと心を通わせていく物語である。語り手である姉のアンナと弟のケイレブは、母親が死去して以来、家庭に歌がなくなってしまったと感じている。農業を営む父親が新聞に後妻募集の広告を出す(これは米国ではよくあることらしく、ほかの児童文学にも登場する)と、サラという女性が応募してくる。サラは、メイン州の海辺で兄と暮らしていたのだが、兄が結婚することになったので、その家を出る必要が出てきたのだ。手紙のやりとりの後サラが一家に会いにくることになり、二人の子どもたちは胸をおどらせると同時に気をもむ。

継母というのは、昔話では悪役を演じることが多く、創作作品でも子どもを理解しない存在として描かれることがよくある。しかし、ここでアンナとケイレブが案じているのは、「サラが意地悪だったらどうしよう」ではなく、「サラがここを気に入ってくれなかったらどうしよう」なのである。「継母=意地悪」というステレオタイプは、この物語には存在しない。

もちろん生後すぐに生母が亡くなって思い出を持たないケイレブと、生母の思い出を持っているアンナとでは、サラに対する思いも少し違う。アンナの複雑な思いは、以下のような独自にあらわれている。

パパはなにもいわずに、サラの腰に腕をまわして、だきよせました。パパのあごの下にサラの髪があります。わたしは目をとじました。ふいに、ママとパパがこんなふうに立っていたのを思い出したのです。ママはサラより背が低くて、金色の髪をパパの肩に押しつけていました。そっと目をあけてみると、ママのかわりにサラが立っていました。ケイレブはわたしを見て、にこにこ笑っていました。これ以上うれしい顔はないというくらい、にこにこしていました。(徳間版 p113)

サラは自立心もしっかりと持っていて、馬車の御し方も習ってひとりで町へ出かけていく。子どもたちは、サラが出ていってもう戻らないのではないかと本気で心配する。しかし夜になって戻ってきたサラは、「いつだって前の家は恋しいけど、あなたたちに会えないほうが、もっとさびしい」と言って、この一家との結びつきを強めていくのだ。

 

『タトゥーママ』に見るダメ親

ジャクリーン・ウィルソン『タトゥーママ』表紙『のっぽのサラ』は、血がつながっていない親と子どもが心を通わせて親子の結びつきを深めていく物語だが、その一方で血のつながった親が親としての役割を果たせない姿を描いた作品もある。ダメ親に対する保護者役としての子どもが児童文学に登場するのは、もちろん近年になってからである。英国でチルドレンズ・ローリエト(児童書のすぐれた作家に授与される称号。子どもの本の普及のためにも働く)を務めたジャクリーン・ウィルソンは『タトゥ―ママ』(原書 1999/小竹由美子訳 偕成社 2004)でガーディアン賞を受賞した。この作品に登場する母親マリゴールドは、精神不安定で、生活保護のお金が入るとすぐタトゥー屋にとんでいって自分の体にタトゥーを入れてしまう。語り手の10歳のドルフィンは、異父姉のスターに頼って暮らしている。マリゴールドは、子どもに安心できる居場所もつくってやれないし、衣食住もおろそかにするし、客観的に見ればまったくのダメ親である。しかし著者のウィルソンは、そのマリゴールドがどこかいとおしい存在であるという描き方をしている。それは、ダメ親ではあっても、マリゴールドの愛を子どもたちが疑っていないからだろう。

 

子どもでいる時間

ジル・ルイス『紅のトキの空』さくまゆみこ訳

同じく英国の女性作家ジル・ルイスの『紅のトキの空』(原書 2014/さくまゆみこ訳 評論社2016)にも、母親と弟に対して保護者の役割をけんめいに果たそうとしている少女が登場する。12歳のスカーレットは、精神的に不安定な母親のようすを見つつ、アスペルガーの異父弟レッドの世話もしなくてはならない。スカーレットはそれを苦痛に思うのではなく、自分がしっかりしないと愛する家族がばらばらになってしまうと危惧して頑張っている。著者のルイスは、このことを美談に終わらせず、子どもには子どもでいる時間が必要だという視点から物語を進めていき、最後にはなかなかすばらしい解決策を用意している。

 

 

(日本児童図書出版協会「こどもの本」2017年5月号掲載)