日本児童図書出版協会で出している月刊誌「こどもの本」に、2017年の5月号から2018年の4月号まで「子どもの本に見る新しい家族」というタイトルで、従来型ではない多様な家族を描いた子どもの本について連載していました。もう一度手を入れてから自分のウェブサイトに掲載しようと思ったのですが、コロナ禍で資料が置いてある東京にも戻れず、手を入れる時間もないので、とりあえず誤植や舌足らずのところだけを訂正し、基本的にはそのままこちらに転載します。


子どもの本に見る新しい家族② 

母親は家出する

 

子どもの家出は子どもの本のテーマの一つだが、親の家出が描かれる絵本や児童文学はそう多くはない。母親の家出や蒸発となるともっと数は少ない。それでも、そうした作品は考えさせられる点をいくつも含んでいる。

 

◆ 『おんぶはこりごり』の場合

アンソニー・ブラウン『おんぶはこりごり』表紙イギリスの絵本作家アンソニー・ブラウンの『おんぶはこりごり』(原著 1986/藤本朝巳訳 平凡社 2005)に登場するのはピゴット(Piggot)さん一家。この名前は、原書タイトルのPiggybookにも関連している。

この一家は大きな家に住み、父親はパリッとしたストライプのスーツを着て、胸ポケットには蝶ネクタイとおそろいのポケツトチーフをさしている。「だいじな仕事」をしている偉い人らしい。息子たちも胸にワッペンのついた制服を着ており、「だいじな学校」に通っている。しかし母親の方は、夫と息子の世話に明け暮れているうえ、外に働きに出てもいる。

みんながでかけたあと、ママはあさごはんのあとかたづけをして…… ベッドをなおし…… どの部屋にも、そうじきをかけ…… それから、やつと仕事に出かけます。」「みんながゆうごはんをすませると、ママは、おさらをあらい……せんたくをして…… アイロンをかけて…… それから、あさごはんのよういもします。

といった具合。男たち3人は、こんなふうに毎日世話をしてもらうのに慣れてしまっている。

ところがある日、男たちが帰ってくると母親がいなかった。「ぶたさんたちの おせわは もうこりごり!」(原文はYou are pigs.なので、もっと強烈だ)という書き置きを残して家出したのである。

さあ、それからが大変! 父親と息子たちは慣れない家事に取り組むが、できた食事はひどい味だし、家の中はすぐにブタ小屋のようになってしまう。

(ついでに一言。今、原書と日本語版を照らし合わせていて、少し間違いがあることに気づいた。日本語で「はじめて、おさらをあらいました。はじめて、せんたくをしました。まもなく、家は、ぶたごやのようになりました」となっているところは、原書では「一度もお皿を洗わなかったし、一度も洗濯をしなかったので、まもなく〜」という文脈になつている。)

さて、しまいに料理の材料もなくなり、食べ物のかけらでも落ちてはいないかと男たちが部屋をはいずりまわって探しているところへ、母親が帰ってくる。そこで、父親と息子たちは心を入れ替えて家事を分担するようになり、家庭には微笑みが戻ってくる。

この絵本では、絵もさまざまなことを語っている。まずこの母親だが、最後の2ページになるまでは表情がまったく描かれていない。夫からは、名前ではなくold girlなどと呼ばれ、個人としての人格を認められていない状態に置かれていることを表しているのだろう。

英語ではおんぶのことをpiggybackという。原著の書名はそれにちなんでいるのだが、ともあれ、ページが進むにつれて、父親や息子たち、そして家のいろいろなものが徐々にブタ(piggy)に変わっていく。どこがどう変わったかを見つけるのもおもしろい。

日本には、この絵本の母親のように家事も育児もほとんど一手に引き受けながら、外で仕事もしている女性はイギリスよりずっと多いはずだ。

 

『ざわめきやまない』の場合

高田桂子『ざわめきやまない』表紙 『おんぶはこりごり』と同じ頃に出版された高田桂子の『ざわめきやまない』(理論社 1989) に登場する中3の里子の母親は、下の子を亡くし精神的に不安定になつているのに、単身赴任の夫は仕事だけが生き甲斐でちゃんと向き合ってくれない。里子の祖母はこう言う。

 「なんぼ仕事が生きがい言うたかて、子どもが病気になりでもしたらやめな仕方おへん。看病かて女の仕事やし、家にお年寄りがいてはったら、その世話かて女の仕事やし。一、二年ごとのだんさんの転勤にも馴れなあかん。だんさんのうしろで、引越しの荷造りしたり、家をさがすのも女の勤めやし。単身赴任かて、今では常識や。しっかり留守も守れへんでどないする。子どもを亡くさはったお人かて、ようけいてはる……」

それで、母親はポキンと気持ちが折れたのか「時間をください 三カ月/必ず帰ります/許して 里子」という書き置きを残して家出するのである。期限つきだし、自分の母親に連絡して子どもの面倒をみてくれと頼み、単身赴任の夫にも伝えたうえで、だ。『おんぶはこりごり』と比較すると、イギリスと日本の社会の違いが如実にあらわれていることがわかる。こちらの母親はずいぶんと低姿勢だし、帰ってからもしょっちゅう謝っている。

2012年に国際社会調査プログラム(ISSP)が実施した「家族と性役割に関する意識調査」によれば、配偶者がいて18歳未満の子がいる男女が家事にかける週固半均時間は、日本だと男性が12.0時間、女性は53.7時間。日本男性の家事分担率はたったの18.3%で世界一低いと言われている(ちなみにイギリスは34.8%)。政府がいくら「すべての女性が輝く社会づくり」などと言っても、夫が家事をしない(夫の意識の問題もあるが、長時間労働の影響も大きい)、子どもが保育園に入れない、ではまったくの絵に描いた餅でしかない。

 

◆ 『レーナ』の場合

ジャクリーン・ウッドソン『レーナ』さくまゆみこ訳

全米図書賞やいくつものニューベリー賞銀賞を受賞するなど現在アメリカの第一線で活躍しているジャクリーン・ウッドソンの『レーナ』(原著 1994/さくまゆみこ訳 理論社 1998)にも、家出した母親が登場する。語り手の少女マリーの母親は、マリーが10歳のときに家も国も出て、旅先から娘のマリーに絵ハガキを送ってくる。マリーは、家出前の母親が蛇口から水をジャージャー流して声が聞こえないようにして泣いていたことにも、その後父親が同じように時々泣いていることにも気づいている。マリーは母親に宛てて手紙を書くが母親が定まった住所を持っていないので、結局出せないままになっている。

この母親の家出の理由は、父親に言わせればこうである。

「おまえの母さんは、外に出ていって、さがしているんだよ。自分が幸せだって……感じられる……場所をな」「ほかの所へ行かなくちゃならない人もいるんだよ。生きるためにな」(p69)

「母さんはこわくなったんだ。生きることをじゅうぶんにしないままに死んでしまうんじゃないかってな」(p70)

狭い場所に閉じ込められていた母親が、いわば自分探しをするために家を出る。それは、「母親という役割」からしか女性を見ない人にとっては、とんでもない話だろう。しかし、当の母親にとっては生きるか死ぬかの問題なのだとウッドソンは言う。

ジャクリーン・ウッドソン『あなたはそっとやってくる』さくまゆみこ訳

しかしこの作家は、母親の視点だけから見ているわけではない。『あなたはそっとやってくる』(原著 1998/さくまゆみこ訳 あすなろ書房 2008)の主人公エリーの母親は2度も家出をしたことがあるのだが、エリーは母親が戻ってきても長いこと口をきかない。そしてそれは、

「間違ったことを言ったら、また家出をしてしまうのではないかとびくびくしていたからです」(p29)

「最初のときだってなんとかやったんだから、自分が乗りこえられるのはもうわかってるのよ。でも、その一方で、みんなそのうちいなくなってしまうんだって思ってる自分もいるの」(p139)

と、エリーに言わせている。不安を感じる子どもと、それでも家を出ざるを得ない母親の間の溝はなかなか埋まらないのである。

ちなみに、ウッドソンのこの2作の大きなテーマは肌の色が異なる子どもたちの間の友情、愛情と別れであり、母親の家出は背景の一つとして描かれているにすぎない。

 

『紙コップのオリオン』の場合

市川朔久子『紙コップのオリオン』表紙市川朔久子の『紙コップのオリオン』(講談社 2013) にも大きなテーマとは別に(というか大きなテーマを構成する要素の一つとして)、家出した母親が登場する。語り手である中2の橘論里の母親は、ある日、意味のよくわからないメモを残して家出する。論里に言わせると

信じられないことに、母さんはカメラひとつを抱えて気ままな写真撮影の旅に出かけてしまったらしい。行き先も期間も決めない無計画旅行だった。いつか行ってみたいと、ずっと願いながら叶わずにいたことを、とうとう実行してみたのだという。まったく、あきれて言葉も出ない。

母親は、日本のあちこちで撮った写真をブログに載せて、

「十月なのに、もう寒いです! でも、食べ物がさらにおいしくなつてきました。ほっけ、うまい! イクラ、うまい!」

などという能天気なコメントを書いている。『ざわめきやまない』や『レーナ』の家出した母親と比べると、段違いにお気楽なのだが、論里の継父は家族思いの底抜けにいい人であり、「(妻に)試されてるんじゃないかと思うんだ」(p155)と述べている。何を試されているのかはこの部分には書かれていないのだが、別の箇所を見ると、母親には以前健康診断の際気になることがあって、それ以来、継父一人でも子どもをちゃんと育てられるかを試している、というようにとれる。それだけでは理由が弱いと作家が思ったかどうかはわからないが、この母親には前からちょっと変わったところがあったという設定になっている。

最初は「いい気なもんだ」と論里は腹を立てているのだが、母親の帰宅後は「半年以上留守だったにもかかわらず、ぼくたちは母さんのいる生活にあっという間に慣れ」「今のぼくには、家族のそれぞれが、前よりもくっきりとして見える」ようになる。どうしようもないことに関しては、子どもはかくも寛容なのである。

それにしても、日本にはまだこうした母親に不寛容な大人はたくさんいそうである。しかも教育勅語などをよしとする政治家が多ければ、さらに増えるだろう。しかし、母親を無責任と非難するだけでは、何も解決しないのである。

(日本児童図書出版協会「こどもの本」2017年6月号掲載)