日本児童図書出版協会で出している月刊誌「こどもの本」に、2017年の5月号から2018年の4月号まで「子どもの本に見る新しい家族」というタイトルで、従来型ではない多様な家族を描いた子どもの本について連載していました。もう一度手を入れてから自分のウェブサイトに掲載しようと思ったのですが、コロナ禍で資料が置いてある東京にも戻れず、手を入れる時間もないので、とりあえず誤植や舌足らずのところだけを訂正し、基本的にはそのままこちらに転載します。


子どもの本に見る新しい家族⑩

「外から来た子ども」をイギリスの児童文学はどう描いてきたか

イギリスでは、親と一緒に暮らせない子どもは里親や養親の家庭で養育されることが望ましい、とされてはいたものの、最近は養護が必要な子どもの数が増加する一方で、里親や養親は不足していると言われている。そんな背景もあって、かなり早い時期から養子や里子が児童文学にも登場していた。

 

『アンモナイトの谷』の場合

『アンモナイトの谷』表紙バーリー・ドハティのYA小説『アンモナイトの谷』 (後に改題して『蛇の石 秘密の谷』 原著 1996/中川千尋訳 新潮社 1997)の主人公は、15歳のジェームズ。赤ちゃんのときに生母に置き去りにされ、今は養子として暮らしている。客観的に見るといい養親でも、思春期で反抗的になっているジェームズは、養父を必要以上に責めたり、養母にも「ほんとの息子じゃないからね」と言い放ったりする。そして、ある日、養親には内精で生母を捜す旅に出る。紆余曲折を経てジェームズはようやく生母に会えるのだが、その出会いは、想像していたのとは違っていた。生母とジェームズは、会話らしい会話をしない。ぎゅっと抱き合ったりもしない。生母は「幸せなの?」ときき、ジェームズがうなずくと「そう。よかった」と言うだけだ。戻っていく生母を見送る場面は、こう書かれている。

永遠に心に焼きつけておこうとするみたいに、その人は、じっとぼくを見た。その視線に、ぼくは耐えられなくなった。しゃがみこんでアンモナイトをスポーツバッグにしまい、そして立ちあがったとき、その人はもうそこにはいなかった。
夫と、子どもたちといっしょに、ゆっくりと家への道を歩いていた。ぼくは追いかけなかった。そんなことしたくなかった。あの人には家族がある。ぼくにだって。

その後でジェームズはこう考える。

でもとにかく、やろうと思ってたことはやった。お母さんを見つけたんだから。ほんとうに会って、話までした。いまでは ぼくを産んでくれた人がどんな人なのか、ちゃんと知ってる。
それにもうひとつ、おもしろい変化が起きた。あの人のことを、ほんとうのお母さんだとは思わなくなった。うちにいる母さんが、ぼくのほんとうの母親だ。早く母さんに会いたい。

15歳というのは、養子であろうと実子であろうと自分の来し方を確認し、未来に向けてふたたび歩きだす年齢である。ジェームズも生母の存在を確認できたことで満足し、自ら養親を選びとり、こんな手紙を書く。

母さんと父さんヘ

ぼくはいままで、行くはずじゃない場所にいました。生まれた場所を見つけ、母親にも会ったら、なぜぼくを手放したのか、わかりました。あの人といっしょに暮らせないのはわかってます。ただ、会ってみたかっただけです。会ってよかった。いまの家に帰れるのが、とってもうれしい。

愛をこめて  ジェームズ

 

◆ 『おやすみなさいトムさん」の場合

『おやすみなさいトムさん』表紙ガーディアン質を受賞したミシェル・マゴリアンの『おやすみなさいトムさん』(原著 1981/中村妙子訳 評論社 1991)の舞台は第二次大戦下のリトル・ウィアウォルドというイギリスの小さな村。主人公は、空襲を避けてロンドンから疎開してきたた9歳のウィルと、しぶしぶこの子を預かるトムというおじいさん。トムは、妻子を病気で亡くして以来、人付き合いが悪く村人たちから偏屈だと思われている。ウィルは体中に母親から折檻を受けた痕があり、トムからも折檻を受けるのではないかとおびえている。おまけに虐待のせいで体の発達も遅れ、文字の読み書きもできない。

トムは、40年間続いてきた規則正しい日課が崩れることにいらだったり途方に暮れたりしながらも、ウィルの世話を焼き、村人とのつき合いも復活させていく。二人はだんだんに距離を縮めて親しくなり、おたがいにとってかけがえのない存在になっていく。

生母によって呪縛されていたウィルの心身は白由になり、いろいろな力がわき出てくる。ところがそんなある日、母親から、病気なので帰ってきてもらいたいという手紙が届く。ウィルは、半分は期待をもち、母親と抱き会う場面などを想像しているのだが、久しぶりで会った母親は、息子の笑顔にぎょっとし、自分の権威がおびやかされたと感じる。

この生母は、「やさしい」「包み込む」「あたたかい」などという一般的な母親のイメージからは正反対のところにいる。ウィルはまた母親の虐待に直面することになる。生母は人種的偏見にも満ち満ちていて、ウィルが疎開先で親友になったのがユダヤ人だと知ると、息子をさんざんに重たい物で殴り、階段の下にとじこめる。

一瞬彼は いっそリトル・ウィアウォルドに行かなければよかったと思った。そうしたら母さんのことをいい人だと思っていられただろうに。ほかの人と比べようがなかったろうから。絶望感の怒濤が身のうちに荒れ狂い、彼はこの新しい目覚めを呪った。

一方トムのほうは ウィルが悲惨な状態に逆戻りしたことを知るよしもなかったのだが、ある時、夢でウィルの悲鳴を聞く。そして心配で居ても立ってもいられなくなり、ロンドン行きの汽車に飛び乗る。そしてようやくたどりついた家で、ドアを破って入ったときに見たものは、とんでもない光景だった。ウィルは傷だらけで鋼鉄製の管に縛り付けられ、自分の糞尿の中に放心したようにすわっており、両手に何やら小さなものを抱えていたのだ。抱えていたのは、とっくに落命していた赤ん坊だった。母親は失踪し、ウィルは赤ん坊と共に遺棄されていたのだ。

トムに救い出されたウィルは、ふたたびトムと暮らし始めて、徐々に人間性を回復し、生きる方へと視線を向けることができるようになる。その後だいぶんたって母親が自殺したことを聞くのだが、そのころにはまた健康な子どもらしさを取り戻し、こんなふうに思えるようになっている。

生きていたくないなんて――そんなことを考える者が本当にいるんだろうか。したいことが限りなくある毎日。雨の夜、風の日、海の大波、月の満ちかけ、読みたい本、描きたい絵、聞きたい音楽。

やがでトムはウィルを正式に養子に迎えることにする。それを知ったウィルは大喜びし、二人は手を取りあって歓声を上げながら部屋中をおどりまわる。ウィルがトムのことを初めて「父さん」と呼んだ場面は感動的であり、これからの二人の生活を祝福するように描かれている。

ウィルが眠りに落ちた後、トムも床に入ったが、ウィルの言葉の意味がこのときはじめて胸のうちに沈んだ。
「あいつ、わしを『父さん』と呼んだ」と彼はしゃがれ声でつぶやいた。「父さんと」
胸がつぶれるほど幸せな気持ちで、トムは声を抑えて泣いた。涙がさんさんと頬を伝っていた。

キンバリー・ブルベイカー・ブラッドリー『わたしがいどんだ戦い1939年』表紙

 

同じ時代のイギリスで同じように母親に膚待されて、疎開先で人付き合いの悪い大人に引き取られた子どもを描いた作品に『わたしがいどんだ戦い1939年』(原著 2015/キンバリー・ブルベイカー・ブラッドリー著 大作道子訳 評論社 2017)がある。ブラッドリーはアメリカの作家たが、どちらにも共通しているのは、虐待する生母と、人間的な養親との対比であり、養親のもとで人間性を開花させていく子どもである。(現在続編の『わたしがいどんだ戦い1940年』も出版されている。)

 

「トレイシー・ビーカー物語」シリーズの場合

ジャクリーン・ウィルソン『おとぎ話はだいきらい』表紙イギリスの大人気作家ジャクリーン・ウィルソンは、困難を抱えた子どもたちを作品に多く登場させ、その子たちに寄り添う書き方をしてきたが、中でも「トレイシー・ビーカー物語」シリーズの3冊は、イギリスでは里親や里子のためのガイドブックにも登場している。

10歳のトレイシー・ビーカーは、1巻目の『おとぎ話はだいきらい』(原著 1991/稲岡和美訳 偕成社 2000)では養護施設にいるのだが、前に取り上げた『ガラスの家族』(キャサリン・パターソン著 岡本浜絵訳 偕成社)のギリー同様 生母をどこまでも理想化している。また、すでに傷ついている自分を守るために暴力をふるったり悪態をついたりが日常茶飯事で「扱いにくい子」というレッテルを貼られている。

ところが、施設に取材に来た女性作家カムになつき、生母が迎えにくるまでの間、里子にしてほしいとカムにねだる。最初カムは絶対にダメだと断っていたのだが、だんだんに二人の距離が近づき、3巻目の『わが家がいちばん』(原著 2000/小竹由美子訳 偕成社2010)では、トレイシーは、里親研修を終えたカムの養子になっている。そこへ『わが家がいちばん』表紙生母があらわれて娘を引き取ると言い出すのだが、生母は買った物を娘にプレゼントするだけで「子を育てる」とはどういうことかがわかっていない。酒と男で回っていたような暮らしを断念するつもりもない。ある意味、気の毒な人である。

生母の家を飛び出したトレイシーは、しばらく空き家で時間を過ごすが、やがで「家」に帰りたくなる。ここでトレイシーが「家」と言っているのは、カムの家である。

そしてカムのところに戻ったトレイシーは、生母のことも客観的に見られるようになって、こう言う。

「ママって、おもしろいときもあるし。自分の服をあたしに着せて、おしゃれさせてくれてね、すごく楽しかったんだよ。だけど、あきちゃうんだ。あたしにもあきちゃった」

トレイシーも、『アンモナイトの谷』のジェームズと同じように、モノより愛情を自分に注いでくれていた里親を、物語の最後で自ら選びとるのである。

(日本児童図書出版協会「こどもの本」2018年2月号掲載)