日本児童図書出版協会で出している月刊誌「こどもの本」に、2017年の5月号から2018年の4月号まで「子どもの本に見る新しい家族」というタイトルで、従来型ではない多様な家族を描いた子どもの本について連載していました。もう一度手を入れてから自分のウェブサイトに掲載しようと思ったのですが、コロナ禍で資料が置いてある東京にも戻れず、手を入れる時間もないので、とりあえず誤植や舌足らずのところだけを訂正し、基本的にはそのままこちらに転載します。


子どもの本に見る新しい家族⑪

「外から来た子ども」を日本の児童文学はどう描いてきたか

日本では、まだまだ血縁が大事、実の親がいちばんという神話が威力を発揮している。そのせいか養子や里子はこれまで日本の児童文学にそう多くは登場してこなかった。このテーマはまだ多くの日本の児童文学作家の視野には人ってきていないと言ってもいいのかもしれない。最近になってようやく、連載⑦でとりあげた戸森しるこの『十一月のマーブル』(講談社)のように、「外から来た子ども」がぽつぽつと描かれるようになってきてはいるが、養子や里子を正面からとりあげた、文学的にもすぐれた作品となると、まだまだ数は少ない。

 

◆親族が親代わりになって子どもを引き取る場合

『よるの美容院』表紙たとえば市川朔久子の『よるの美容院』(講談社 2012)では、ある事件をきっかけに声を失い、筆談でコミュニケーションをとる12歳のまゆ子が、美容院を経営する遠縁の「ナオコ先生」に預けられて、開店前の準備などを手伝っている。まゆ子の母親はまゆ子に愛情を抱いていないわけではないのだが、「こんなに一生懸命やってるのに、なにがいけないの。いったいなにが不満なの」とか「お母さんを困らせるためにわざとやってるんでしょ」などと口走ってしまう。おっとりゆったりかまえているナオコ先生とは逆のタイプとして描かれている。

講談社児童文学新人賞を受賞したこの作品では、ナオコ先生が、毎週月曜の夜、まゆ子の髪をあたたかくやさしい手でていねいに洗ってくれる場面が印象に残る。

まゆ子はゆったりと力を抜いて、ナオコ先生の指先に頭をあずける。
ナオコ先生の手は、とても温かい。ぽかぽかした指先できわられていると、かちんとかじかんで冷たくなっていた頭の皮が、ふわっととけていく。

頭皮だけではなく、かじかんでいたまゆ子の心までゆるゆるとほどけていく。まゆ子は半年たらずの滞在を経てやがて親のもとへ帰るので、養子や里子になったわけではない。しかし、実の親ではできないこともあるということをこの作品は見せてくれている。

岩瀬成子『春くんのいる家』表紙

岩瀬成子の『春くんのいる家』(文溪堂 2017)は、祖父母の家に身を寄せる二人の子どもを描いている。一人は、親が離婚して母と一緒にやってきた小学校4年生の日向であり、もう一人は、父親が病死し母親が再婚したあと、祖父が「たったひとりの跡取りなんだ。こっちにわたしてくれ」と言って養子にした中学2年生の春。日向と春はいとこ同士であるとはいえ、年齢も性別も違うのですぐに打ち解けるということにはならない。

陶器の店を経営している祖父は、「今からは、このみんなが斉木の家族だからね」と言うのだが、そう言われるだけですんなりと家族になれるわけでもない。そのあたりの日向や春の心の揺らぎを岩瀬はみごとに描写していく。

日本的だと思ったのは、日向が離婚の理由をたずねても、母親が語らない点だ。

パパとママがなぜ離婚することになったのか、わたしには、今もわからない。「どうしてなの?」と、わたしはママにたずねた。ママがわたしにはじめて「パバとはベつべつに暮らすことになったから、わたしと日向は、これからはおじいちゃんの家で暮らすのよ」といったとき。
ママは、「さあね、どうしてだろ」といった。そして大きい息をひとつついた。少しして、「そういうことになったのよ」といった。

欧米の親は、離婚の理由を子どもにも伝えることが多いが、今のところ同じような状況にある日本の親の大半が、日向の母親と同じような対応をするのではないだろうか。もしかしたら、この母親は自分でも明確に離婚理由を意識化してはいないのかもしれない。欧米人が、たいていは明確に意識化しないと大事な局面で次の一歩を踏み出すことができないのに対して、日本人は「なんとなく」の気持ちが積みかさなってある地点までたどりつくこともありそうだ。ただし、この母親は、現状をよく見ているらしく、春くんが子ネコを拾ってきて祖父が嫌な顔をして飼うのに反対していると、きっぱりと言う。

「ネコ、飼おう」と、いきなりママがいった。きっぱりした声だった。「うちは今、なんていうか、たいへんなときじゃないの。今までべつべつに生活していた人間がこうやってあつまって、なんとか家族になろうとしているのよ。つまり、たいへんなときであるわけよ。でしょう? この際だから、ね、ネコも飼いましょう。みんなでいっしょに家族になればいいんじゃないのかな」

その後、母親は涙ぐむのだが、母親がこの時言ってくれたとおり、子ネコの世話を通して日向と春の距離が近づき、こんな会話が出るようになる。

「この子、この家を好きになるかなあ?」
「きっとなるよ。日向ちゃんはどう? この家、好きになった?」
「うん。好きになったよ。だってしょうがないじゃん」と、わたしはいった。
「日向ちゃん、意外に大人だね」と、春くんはいった。
「春くんは?」
「ぼくも意外に大人だよ」と、春くんはいった。

そして日向は

階段をあがっていきながら、春くんがきてくれてよかったなあ、と思った。それからネコも。きてくれてよかつた。

と、そんなふうに思えるようになるのである。

欧米の作品のように、問題や葛藤がくっきり提示され、それが解決されて物語が終わるというわけではない。ただ、子どもの気持ちを内側から描いていく岩瀬は、日向の気持ちがリラックスしてきていることを次のように表現している。

なぜだか理由がはっきりわからないのにわらってしまうことってあるんだ、と思った。気もちの底のほうがゆるくなって、うれしいような、楽しみなような、おもしろいような、いろんな気もちがごちゃごちゃとまじりあっていて、それはうまく言葉ではいえないけれど、安心するような気もちだった。

 

◆特殊な状況での新しい家族

『岬のマヨイガ』表紙柏葉幸子が野間児童文芸賞を受賞した『岬のマヨイガ』(講談社 2015)では、震災をきっかけに、血のつながらない3人の女性が出会って一つの家族をつくろうとする。3人のうちの一人は、萌花という少女。両親を亡くして、これまで会ったこともない親戚にひきとられることになっているのだが、この子も、『よるの美容院』のまゆ子と同じように口がきけなくなっている。もう一人は、暴力をふるう夫から逃れて家を出て、萌花と同じ電中に乗り合わせていたゆりえ。この二人が、狐崎という駅で電車を確りた後に大地震と津波にあい、中学の体育館に避難する。そこで、出会ったのが不思議な老女キワさんだ。この作品には 「遠野物語」を思わせるようなカッパや妖怪も登場して、ファンタジーとリアリズムが融合した展開になっていくのだが、「家族」という視点から見てみると、まったく血縁関係にない3人が、たまたま出会って過去を清算し、名前も変えて家族をつくる姿が描かれているという意味で、おもしろい。最後にゆりえとキワさんは、こんなふうに言う。ひよりというのは、萌花の新しい名前である。

「私、逃げるのはやめました。夫ときちんと話し合って離婚します。ひよりの伯父さんも、どうなっているのかさがしだして、ひよりといっしょに暮らせるようにたのんでみます」(結になったゆりえの言葉)

「ひよりも結さんも 私の家族だ。ひよりが鳥舞を舞うところも見たい。ひよりが中学生になるところも、高校生や大学生になるところも、きれいな娘さんになるところも見たいね。ひよりや結さんが、狐崎をはなれたいと思う時まで、ここにいるよ」(キワさんの言葉)

 

ファンタジーにおける新しい家族

上橋菜穂子『鹿の王・上』表紙上橋菜穂子の「守り人」シリーズの主人公で女用心棒のバルサは、殺された父親カルナの親友ジグロに育てられ、短槍の達人ジグロからその術を学ぶ。ジグロは、バルサの命を守るために職も名誉も捨てて、養い子であるバルサが一人でも生きていけるよう、愛を持ちながらも厳しく仕込む。バルサは、ジグロの養女という設定になっている。

また、上橋の『鹿の王』の主人公ヴァンは、奴隷として働かされていたアカファ岩塩鉱から逃れた際、もう一人の生き残りだった幼女ユナを発見して、置いて行くことができずに一緒に連れていく。また、ヴァンの追跡を依頼されたサエは、逃亡奴隷の追跡をなりわいとするマルジの娘で、一度結婚したが出戻り、今は父親と同じ仕事をしている。このサエが、しだいにヴァンという存在にひかれていく様子も描かれている。最後は、黒狼熱が人々の町に広がらないように犬を連れてひとり森の奥へと消えて行ったヴァンを、サエとユナがトマ(オキの民)、智陀(移住民)と共に飛鹿に乗って迫いかけるという展開になっている。ヴァンとユナとサエが今後ひとつの家族を形成していくかどうかは描かれていないが、上橋はこう書いている。

オキの民と移住民の若者、沼地の民の娘とモルファの女は、家族のように寄り添って、深い森の奥へ消えていった。

血のつながらない、文化や風習も異なる者たちが一つの家族をつくろうとしているイメージが、頭の中にうかんできたのは、私だけだろうか。

(日本児童図書出版協会「こどもの本」2018年3月号掲載)