月: 2012年6月

メアリ・E・ピアソン『ジェンナ:奇跡を生きる少女』

ジェンナ〜奇跡を生きる少女

すあま:おもしろかったです。事故のせいで記憶がないというところから始まり、次第にこれは近未来の話なんだとわかってくる。ジェンナはもしかしてアンドロイドではないかと少しずつわかっていくところ、そしてなぜ事故にあったのかということが明らかになっていくところに、どんどん引っ張られて読みました。実はこわい話なんですけれど、ジェンナの家族との関係や、自分って何者なんだろうという悩みが中心に書かれているので、おもしろく読み進めることができました。ただ、10%だけ残したといわれても、理解しきれなかったので、そのへんは考えるのはやめて、どちらかというとミステリーを読むように読んでいきました。ラストについては、あえて260年後でなくてもよかったんじゃないかと。ジェンナは、ずっと生き延びたけれど孤独にはならなかった、異端の存在だったのが他にも同じような人が増えて普通の存在になったという世界を示して終わるのは、読み手を安心させるけれども、子どもが生まれていたりと逆に最後の3ページのせいで新たな疑問が生まれて考え込んでしまいました。

トム:デザインも色もきれいな表紙で、この蝶が気になりながらページを開きましたが……、美しいけれど、どこかぞっとする蝶。読みおわってもう一度表紙をみれば、10パーセントの脳を象徴するのがこのジェンナの髪にとまる蝶なのですね。見るほど、美しくて不気味。物語を読みながら、ジェンナのような状態になった時、生を選ぶか自然な死を選ぶか? 選ぶ主体は誰なのか? そして、自分だけが生かされた時、人はその後どう生きるか? 悩み無く生きられるとは思えないし。究極、命に人間がどこまでかかわっていいのか? いろいろ頭に浮かびました。ジェンナの両親は、知的レベルも高く、経済力もある人なわけで、命の再生に経済力が見え隠れするところもアメリカ的な物語だと感じます。  最終章の260年後の世界までこちらの気持ちがついていけませんでした。

レンゲ:とても読み応えがありました。なんで私は生きているのだろうという実存の疑問だとか、生きるとはどういうことだろうとか、読みながら考えさせられました。こんなこと、いつも考えていたらおかしくなっちゃいますけど。意志だとか知りたい気持ちだとかは、どこで生まれてくるのかとか。宗教的なことも途中で出てきますよね。この子がなぜ家族の愛情や信頼を感じられないのか、読むうちにわかってくるのですが、人生の中のそういった愛や信頼などの要素、何が私たちを人間にしているのか、人間らしくしているのか、そういうことを考えさせてくれる本でした。短い章で切っていくのは、今風ですね。網がけの部分は原書にもあるんですか?

フルフル:網はかかっていないけれど、詩のようなデザインとして、本文と別の扱いになっています。

レンゲ:260年も生きてしまうというのは、長く生きることへの肯定というより、それになんの意味があるのかを考えさせようということかと私は読みました。p330の「クレアは決してわたしを逝かせてくれない。あれだけの強さを持っているのに、わたしを逝かせるだけの強さはない」という、死なせないことへの問いへのこたえ。主人公は友だちを生かして、自分も生き延びていって、子どもが生まれて、人間らしいものが引き継がれていく。けれど、長生きすればいいのか、それで人間が人間として生きていくことになっているのか、考えさせられました。

紙魚:この本は、10%の自分を頼りに自分は何なのかを「定義」していく物語だと感じました。時折、「見失う」や「人間」などの語句の定義がはさみこまれています。ページ全体が網がけになっている部分は、まさに主人公ジェンナが自分を「定義」するために自問自答するつぶやきの部分。ふつうに生きていると、自分をわざわざ定義する必要には迫られませんが、こうしたありえない状況に追いこむことによって、作者は読者に、自分というものの定義を考えさせる仕組みを作ったのだと思います。10%しか自分でないとしたら、あとの90%は定義し続けなければならない。ただ、そのせいなのか、この物語にはなかなか入り込むことができませんでした。「そのつもり」にはさせてもらえず、つねに客観的でいなければならない感じなのです。でもそれって、もしかしたら、ジェンナの自分の体への違和感をも表しているのかなとも思います。

きゃべつ:今日みんなで読む本の中では、私は、これが一番おもしろかったです。十代が抱えがちな心の揺らぎをていねいに追っていたので、そこに共感できました。普通に生きていても、いろんなことの限界がわかってきてしまって、自我との折り合いに悩む年齢なのだけど、この子の場合は、元の自分が10%しか残されておらず、その揺れ幅が大きいですよね。その葛藤がうまく描かれていたと思います。今、ips細胞とかもあるので、ここに書かれている話は近未来に起こりえることなのかしれません。10%は、人か否か。突きつけられると、ぞわりとする問いですが、いずれ答えを出さなくてはいけなくなるかもしれませんね。これを読んでいて、子どもを守ろうとする母親は、鬼子母神ではないけれど、怖い存在だと思いました。子どもも産めない体にして無理に生かすなんて、とジェンナが詰め寄るシーンで、卵巣は残したのよと、ホッとしたように伝える箇所では、狂気を感じました。私も260年後まで生かす必要があったのか、疑問に思います。事故にあった人だけが、長生きする世界というのは、ずいぶんいびつだなと思いました。英語のタイトルは、「ジェンナ・フォックスの崇拝」ですか。読みにくいのは訳のせいなのでしょうかね? とくに網掛けのページは。

サンシャイン:やっぱり現実の姿は思い浮かべることができませんでした。お話として読むという感じ。あとがきを読むと、もう1回読むと伏線に気づくと書いてあって再度読もうかと思いつつ時間がありませんでした。作品としてはよく計算されて書かれていると思います。おばあちゃんが自分を嫌っているという認識だったのが、おばあちゃんが無理な形で生かすことに反対していた、ということがわかるとか。現代的なお話になっています。結局、ニューロンチップなるものが組み合わされると、人間らしく生き残れるんですか? 手を怪我する場面で実は人間でないことがわかるんですね。

フルフル:なかから青いのが見える。

サンシャイン:手塚治虫さんの『ブラックジャック』で、活かせる臓器だけを組み合わせて人間にするピノコのイメージでしょうか。すごくよくできた作品だけど、1回読んだときには、ジェンナがどう生きているのかわからなかった。友達が死にそうになっていて、その子も同じ技術によって生かしたというのは衝撃の事実なんでしょうね。子どもを産めるというのもあまりありえないなと思う。そんなに長生きさせる必要はなかったのでは。死にかけた友達も再生させて、人間の寿命をこえて存在できるという設定にしているところは、筆者にとっては必然であったのかどうなのかと思います。

プルメリア:主人公と母そして祖母の3人の謎めいた関係が不思議で読み進めました。グレーの部分は、心情が伝わりわかりやすかったです。この作品がほかの作品とは異なるところは、会話文が多くいろいろな画面にあるのでその場にいるような気持ちになりました。こんなに会話文が出てくる作品は今まで読んだことがありません。読み進めていくうちに、いろんなことがわかってきました。話題になっている260年後について私が不思議に思ったのは、子どもは何歳なのか? 小さい子のようだけど、う〜ん。理解しにくい部分があるのでなくてもよかったかな。

ハリネズミ:物語世界の中に入り込めませんでした。設定はおもしろかったし、本のつくりも素敵だったのですが、どうして入り込めなかったのか考えると、SFならばもう少し世界をつくってほしいと感じたのだと思います。たとえば、10%以外はアンドロイドで、アンドロイドが心を持てるかどうかがSF的には懐疑的なのだけれど、ここではすでに心をもった存在として書かれています。また、デーンについては心を持っていないと書いてしまってよいのでしょうか。10%あれば、技術がシンポするとホールの人間が作れるという設定なんだろうけど、だったらアリーズはもう少しちがった存在になるのでは。

フルフル:点数化されている規則のなかで、アリーズは最大限つかっているという状態なんです。確かに、デーンの何が悪いのかは書かれていないですよね。攻撃的であるとか、学校での一場面にあらわれたり、ちょっとずつは出ているんだけど、それだけしか出てきていない。だからちょっと伝わりにくいところはあるかもしれません。あと、冒頭が入りにくいというところなんですけれど、ストーリーの最初の違和感というのは、原書でも「ジェンナが自分をわかっていない、しっくりしていないちぐはぐ感」というものが、文体のなかに表現されていて、それを訳すときに生かしたいということなので、そういった意味では成功しているのではないでしょうか? 途中からそれがだんだんとしっくりしていって、ジェンナがジェナとして生き始めるということです。

ハリネズミ:そこは私もそう読めたんですけど。たとえば、p17の「両親」の部分は?

フルフル:親を親として認めるかっていうところですよね。母親がこの人、父親はこの人と、前に言っているんですね。彼女にはインプットされている設定なんです。

レンゲ:ここは「両親」というよりも、「あの人たち」という感じですよね。

フルフル:混在していると思うんですよね。

ハリネズミ:訳は読みやすかったのですが、ところどころ気になるところがありました。たとえば、p91「すぐさま外へ出て、クレアの車をひき止めたい衝動にかられ。」ですが、もう車は出ちゃったあとだから、呼び戻したいとすべきでは?

レンゲ:小さなことですが、p98に「イースター島にラパヌイ族が移住したのが、紀元前三〇〇年。十世紀ごろには、モアイ建設のため……」って書いてあるでしょ。モアイって像だから、「建設」はちょっとおかしい気がしました。

ハリネズミ:p301には「原産、土着、純血――」とあるけど、それ以前に、自然か人造かというところが問題だと思うから、えっ? と思っちゃった。

フルフル:「在来」という言葉を使った方が良かったでしょうか……。

ハリネズミ:本当に設定はおもしろくて、書こうとしているところもおもしろいんだけど、主人公の心の中に入り込むのが難しかった。アンドロイドだから難しいのではなくて、この書き方がつっぱなしているのかもね。

紙魚:この本って、類書がないと思うんです。だからこそ、こうした本を出すことの意義はあると思います。

すあま:10%でも人間でいられるのかというところに戻っちゃうんですけれど、命令についてインプットされていてもそれに従ってしまうのか、逆らうことができるのか、その境界線などを考えているとまたわからなくなってしまう。途中からは考えるのをやめたんですが、こういうところにひっかかって読み進められなくなる人もいるかもしれない。ただ、本の内容を全部覚えてしまっていても、本を手にとって読むという体験はまた違う、というようなところは、電子書籍と本の違いにも通じるようでおもしろいと思いました。もともと10代って自分が何者か考える時期だけれど、それをせざるを得ない究極の設定を考えると、こういう物語になるのかも。

フルフル:科学的に読もうとするのではなく、思春期の女の子たちは、自分とは何なのか、自分のアイデンティティってなんだろうって悩んだりしますよね? また、全然思いもつかない子でも、この本を読むことで、気が付いたりするのではないでしょうか?

ハリネズミ:アイデンティティを見つけたいときに、はたしてこの本は役に立つのかな。

フルフル:悩んでいること自体は間違っていないし、少しずつ獲得していかなくてはいけないことは、わかるんじゃないかなと思います。260年後については賛否両論あるだろうなと思いました。翻訳者さんとも「この物語に果たして260年後はいるのかどうか」は、議論しながら作業を進めました。でも、翻訳とは、もともとあるものを勝手に改編してはいけないことになっていますし、260年後も作者の意図があって書かれたわけですから削除するわけにはいきません。どなたかがおっしゃっていたように、「長く生きることの意味」も改めて考えさせられる終わり方なのだと思います。

すあま:260年後にはいわゆる定年制のような「期限」が決められ、ジェンナは自分の終わりが近づいてきたことから子どもを産んだのかなと思いました。イーサンが死んでからかなり経っているようだし、体外受精にしてもなぜこんなに時間が経ってからなのか不思議だけれど、特に説明はないので想像するだけですが。

フルフル:これ、続編があるんですよ。アメリカではすでにすごく反響があって、第3弾も来年の3月に出る予定です。トリロジーになります。2巻目は、ジェンナの話ではなくて、260年後の話らしいです。現題『The Adoration of Jenna Fox』の意味ですが、Adoration は、「崇拝」という意味です。直訳すると「ジェンナ・フォックスへの崇拝」ということになります。どういう思いが込められタイトルなのか、翻訳者に確認したところ、「本文に、両親がジェンナを高い位置にまつりあげ、つねに世話を焼き、ビデオを撮り……、そんな“崇拝”された状態から“転落”したかった、というくだりが出てきますが、そこから派生して、『自分という存在は特別なのか』というジェンナの“葛藤”、また最後、葛藤を(ある程度)克服して、“自分から自分への敬愛・愛情”を獲得して、ジェンナがアイデンティティを確立することまで、すべてをひっくるめたタイトルなのではないか」ということでした。このofを“への”と訳すのは、難しいのですが、フランドルのエイクの絵にも、Adoration of the Lambというのがあり、日本語では子羊の礼拝、つまりキリスト「への」崇拝を描いています。ですので、ジェンナの場合も、「ジェンナへの崇拝」という意味で、間違いないのではないかと思います。

レンゲ:とりかえればいいのか、という問題もありますよね。この記憶は大事だからととっておこう、こっちは捨ててしまおうと、だれかが選ぶこともどうなのかと。自分が唯一無二の存在ではなくなってしまう危うさがありますね。たとえば、イーサンが、かっとなって人を殺しかけたというように、人間であれば負の一面もあるけれど、ジェンナはそういう面は回避して作られている。生命工学への疑問の投げかけだと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2012年6月の記録)


ジョン・ウィンダム『チョッキー』

チョッキー

きゃべつ:私は、SFをあまり読んだことありませんが、初心者でもわりと読みやすかったです。ただ、直訳っぽいところや、1文が長いところがあって、子どもにとっては、少し読みにくいかなと思うところがありました。ずっと大人目線ですが、子どもはどう読むんでしょうね。もう少し、子ども目線のほうが、読みやすかったんじゃないでしょうか。

紙魚:私もSFを読みなれていないのですが、これはとてもオーソドックスな筋運びで、異星人が未知の世界からやってくるという典型的な物語。こうした設定は、小説でもドラマでも映画でも、もう何度も何度も描かれてると思うんですが、この本がおもしろく読めたのは、そうした未知のものに出会ったときに、人間はどう反応するのかということがていねいに書かれていたからなのではと思い至りました。さまざま風変わりなSFが出てきても、結局、奇天烈なものを見たいというわけではなく、そうしたときの人間の反応を見たいのだと。

レンゲ:ファンタジーもSFも苦手なのですが、この本は論理的にわかって、問題なく読み進められました。『チョッキー』も『ジェンナ』も構成がきちんとしていて読みやすかったです。でも、自分では手にとらない本だと思う。読み始めたときに、まず語り手が誰なのかなと思って、どうやらそれが大人だとわかってきて、大人が主人公でもいいわけですけど、誰に向けて出した本なのかなと思いました。つくりも大人っぽいし、ルビもちょっとしかない。中学生に読ませようというルビのふり方ではないですよね。得体の知れないものとの出会いと、それに対する反応は興味深く読めますが、とびぬけておもしろいとまでは思わなかったので、わざわざ新訳で出し直したのはどうしてかと思いました。確かに1968年の本なのに、マスコミとかお母さんの反応が今と変わらないのはおもしろかったし、夫婦の2人の子どものうち、片方は自分の子で、片方は養子にした子だけど、わけへだてなくかわいがってところは感じよく読めました。

トム:宇宙人に会えたらドキドキしてもっと嬉しくなってしまいそうだけれど、マシューは苦しそう。それは、p268にあるように“ホストとしての精神的資質を持ち”“あれこれ疑問を持たずに受け入れようとする”、それができる子どもとしてチョッキーが見つけたのがマシューで、その出会い方にもあるのでしょうけど。ただ、時にはチョキーとマシューの楽しい交信も垣間見られたらと思いました。マシューはチョッキーに真っ向から向き合っている……、そこにマシューがどういう心をもった少年なのか感じられます。最終場面で表彰メダルが自分宛でなく、チョッキーの名になっていることを本当に喜ぶ様子は、マシューの人柄を伝えているし、チョキーとの信頼も伝えていて、とても温かい余韻を残りました。お父さんと息子の物語として読んでも読みごたえがあって、いつの間にかそちらにひっぱられてもゆきました。その中で、お母さんは安心を得ることに気持ちが逸ってかなり混乱した様子が描かれているけれど、お父さんが時々立派すぎるかも……。
 p261でお父さんが「わたしたちは、原子力を手にしているのですよ」と言ったことに対してチョッキーが「認めましょう。だがきわめて粗雑な水準にありますね」と言っていますが、新たな翻訳としての初版発行が2011年2月28日で、この11日後に福島原発の事故が起きています。偶然とはいえ物語が一歩先を歩いているよう。p265“宇宙の隅々にまで存在する放射”とか、私には具体的なイメージが描けないけれど、SF好きな中高生ならきっとワクワクする世界なのでしょうね。p268 “老いた精神はありうることとありえないこととの区別をかたくなに守る”という件は、個人的にズシッと胸に響きました。

みっけ:著者の最後の作品というのだと、子ども向けに書かれたわけではないのかな、という気もするのですが、どうなのでしょう。はるかかなたからやってきた、いわば異星人のようなものが、普段の生活に入ってきたという設定はSFなんだけれど、やってきたものの外見や行動などではなく、それが来たことで、普段の生活がどうなり、家族の中がどうなっていったかに焦点が当たっているので、あまりSFという感じはなく、両親や本人の行動がていねいに書かれていたので、人間の物語としておもしろく読めました。日本にはない英国男文化の伝統というのかな、父と息子の関係がとても強いんだけれど、そのあたりがよく書けていました。チョッキーの姿を最後まで書かず(息子の声を借りていて)、声も聞かせないのも、うまいなあと思いました。おそらくそのあたりを書いたとたんに、私なんかは嘘くさく感じてしまいそうだけれど、あくまでもそれをせずに,読者の想像力にゆだねている。これってどう着地するんだろう、と思いながら読み進んでいったら、10章でマシューがいなくなりますよね。それが実は権威筋による誘拐だったというのには、あっと思ったし、感心しました。しかも、権威筋の誘拐が今後起きないようにとチョッキーがマシューの前からいなくなる。というのもいいですね。とにかく、SFはわりと苦手なのですが、親と子の関係に焦点がおかれていたので、とてもおもしろく読めました。マシューの失踪についての説明がいっさいされずに事態が進み、最後の最後にチョッキーがお父さんにさよならするところでその一件が種明かしされるあたりも、なるほどと思いました。

サンシャイン:非常に気に入りました。早い段階で人間が開発した車が非効率でという話が出てくるので、未来の存在という予想は立ちましたが、実の子ではなく養子なので、実の子ではないことで展開されるのかと思いきや、そうではありませんでした。妹の方の、見えない存在にとりつかれているというのはよくあることなのですか? お医者さんの友達が診て、「憑きもの」とか「お告げ」という話を母親が受け入れないという反応をしますが、父親の方はそれを受け入れようとする、その心情の差もよく書けていると思いました。「原子力」が出てきますが、さらに「放射」のあたり、子どもの語彙にないということでぼかされていて、私たちにはわかりません。作家の頭のなかには、そういう、人類がまだ手に入れていない存在が見つかるというのがあるのかもしれません。宇宙にはそういうものがあるかもしれないと思わせる文章力。最後は、子どもの口を借りて、乗り移ったかたちで真相が明らかになるのは、こういう方法でしか種明かしすることはできないかなと思いました。いずれにせよ、非常におもしろく読めました。

フルフル:児童書か、一般書かという点ですが、コードが一般書で、出版社としては一般書として出しています。でも、いってみれば、YAだと思います。文体も自然で、読んでいて、とても読みやすかったです。でも、1968年に出されたもののリバイバルとは気付かなかった。感覚的に受け入れやすかったのは、昔に書かれたものだからなのかな〜、それもちょっとショックですが……。たぶん今、最先端で書かれていたものではなくて、SFといっても読みやすかったのかなと思います。現代っ子が好む読み物だと、話の展開が早くて、次々といろいろな事件が巻き起こるというものが流行りますが、この作品は、前半のテンポがゆっくりめ。マシューが目に見えないチョッキーとつきあっていく過程は、とてもおもしろく読めたのだけど、なかなか話が動かないので、いつまで続くのかなと思っている自分に愕然としました。自分も毒されちゃったのかしらと……。水に溺れるところから急展開しますが、それまでは中だるみしているように感じていまいました。現代っ子同様に、せっかちになってしまっているのかもしれません。溺れたところからはラストまでは引っ張って読ませてくれました。
 ただ、印象として、この内容のものだったら、前半のテンポを上げて、もう少しコンパクトになるかもしれないとも思いました。今の子どもたちには、300ページを超えるとちょっと長い(?)印象があるかもしれませんし、壮大な物語が展開するのではないので、もう少しコンパクトに読めたら読者も広がるかもしれないと感じました。最後、チョッキーが語っているところで、「現代人は燃料の無駄遣いをしている」という語るところにドキッとさせられました。原発事故があっただけに感慨深かったです。また、50年以上前にこういう作品が描けた作者に敬意を表したいです。

すあま:私は大人の本として読みました。語り手がお父さんであるからかもしれませんが、マシューの気持ちになって読み進めるというよりは、お父さんの気持ちに寄り添って読みました。かなり大変な状況なのに、このお父さんは冷静で、奥さんが半狂乱になっているのにも落ち着いて対応している。語り手が落ち着いているので、パニック小説のようにならず、読み手も落ち着いて読めたように思います。怖い話として書ける話なのに、怖くなく、読後感もよかった。妹にも同じように見えない女の子と会話する時期があり、『弟の戦争』(ロバート・ウェストール著 原田勝訳 徳間書店)や『まぼろしの小さい犬』(フィリパ・ピアス著 猪熊葉子訳 岩波書店)などを思い出しました。途中からチョッキーが宇宙人だと気づいてからは、どう種明かしするのかと思っていたら、当の宇宙人が全部説明してくれた。宇宙人が地球を見つけて偵察にきて人間の生活に入り込む、という話は、なぜ今頃出たのかと不思議に思ったけれど、刊行年を見て、60年代に出たなら古くないかと納得しました。むしろ今読んでも違和感がない。パソコンが出てこないなど、「今」ではないことに気づいたものの、古さは感じずにおもしろく読めました。ただ、誘拐事件はチョッキーの仕業で宇宙人にさらわれたと思っていたのに、普通の誘拐だったのでちょっとがっかりしました。

プルメリア:少年に霊がついているのかと内心ドキドキしましたが、あとがきに宇宙人と書いてあったのでホッとしました。少年に寄り添うお父さんの心情が全体に出ており、妹が時々話す馬の話はユーモアがあり、重たい雰囲気を和らげていたように思いました。最後に、もらったメダルにチョッキーの名前が刻まれていたこと、なんとなくぎくしゃくしていた少年と父親の心がつながったように読みました。

ハリネズミ:おもしろく読みました。科学知識の部分も、まだ古びていないのでは? 今は、昔の映画に出てきたような宇宙船とか宇宙人像は違うとわかっています。でも、広い宇宙のどこかには知的生命体ってきっといると信じて、その人たちと交信しようといろいろな試みをやっている科学者がいます。それから今SFで近未来を書こうとすると、どうしてもディストピアになってしまうんじゃないかな。この作品はちょっと前に書かれたということもあって、希望のある明るい終わり方。チョッキ—もいい人じゃないですか。だから、暗くならないんですね。

みっけ:この本で二進法の話を出しているのは、十進法というのが、人の指が10本だという解剖学的な事実から採用されてるのに対して、異星人が必ずしも十進法を採用しているとは限らない、という相対化のためだと思うんです。さらに、この作品が発表された頃は、コンピューターが出てきて二進法がクローズアップされた頃だったので、三進法やなにかにするよりも二進法のほうが最先端でもあり、多少のなじみもありという感じだったからではないかな、と思います。それに原子力に関する話は、天文関係の科学史を見てみると、原子力の発見は今の私たちには想像できないくらいポジティブにとらえられていて、それがチェッキーに対する語り手の発言にも反映しているんだと思います。もう一つ、チョッキーが、原子力など使わなくても、どこからでもいくらでもエネルギーを取り出せる、と言っているのは、おそらく宇宙の始まりであるビッグバンと呼ばれる大爆発の余熱の「宇宙マイクロ波背景放射」を取り出すという話で、こういった話が出てくるところからも、この作品は科学の最先端の結果や理論を取り入れているという点で、ちゃんとしたSFなんだなあと思います。

(「子どもの本で言いたい放題」2012年6月の記録)


北野勇作『どろんころんど』

どろんころんど

みっけ:3冊の中では最初に読みました。SFはあまり好みではないからなあ……と思って読み始めましたが、さくさくと読めて、結果としてはけっこうおもしろかったです。どこが、と言われるとちょっと困るんだけれど、主人公を人間が作ったロボットにしたことで、人間がごく自然に経験する心理的な変化みたいなものを主人公がいちいち、あ、これが〜なんだ……と意識するあたりは、プラチェットの『天才ネコモーリスとその仲間たち』に出てくるネズミに似たところがあって、SFというのは、現実の社会や人間や存在といったものを、一歩引いて見直すための装置として使われるんだな、と思いました。だから、個人よりもメカニズムに焦点が当たるきらいがあるのかもしれないけれど。SFといっても、一昔前のようながちがちの科学でもなく、まったく異なる惑星でもないあたりは、おもしろい設定だと思いました。細かく見ていくと、え? なんで? というところがあちこちにあるけれど、一種の学習するロボット少女の成長物語なんだな、と思いました。それと、この終わり方を見てつくづく、ああ、主人公が若いと、暗い状況でも明るくなるんだなあ、と思いました。年入った大人たちだと、ついつい経験値に基づいて暗さに同調しがちだけれど、若い人はどんな環境に置かれたとしても、そこが始まりだから(というか、そこから始めるしかないから)、未来を指向できるんだなあ、と。それに、最後の最後に万年一号の長い旅の第一歩、という形で終わるのもおもしろいな、と思いました。

紙魚:福音館書店の本って、年齢が上の人向けの読み物になると、とたんに保守的でないものが出てくるような気がします。この「ボクラノエスエフ」というシリーズは、『どろんころんど』以外の書目は復刊がほとんどで、これだけは新作ですから、よほど思い入れがあって出された本なのでしょう。祖父江慎さんの装丁と本文デザインで、本のつくりからして期待させてくれるような佇まいなのですが、読みはじめると、どこか人を食ったような感じで、はぐらさかされます。児童文学にはあまりない本です。実感のない世界、具体的な肌触りがない世界で、肥大化した自意識の中での遊びごとという感覚が、いかにもいまどきだなと感じました。素直におもしろいとは思えなかったのですが、このノリは、もしかしたら、若い人たちには「わかる!」という感覚なのかもしれないと思いながら読みました。とはいえ私にはやっぱりよくわからないので、p89の「ますます何がなんだかわからない。」という一文に遭遇したとき、こっちのほうが「わかんないよ!」という気持ちになりました。この小説は、筋というよりはノリが重要なのではないでしょうか。プラスチックのようにつるつるしていて、ガサガサしたところがひとつもなくて、でも、そのなかを生き抜かなきゃならないという切実さや必死さはなんとなく伝わってくるような気がします。

サンシャイン:何度も読むのをやめようかと思いました。読む価値が自分の中で見い出せないというのが正直なところです。まあ、今日に合わせてなんとか読み終わりましたが。ひらがなの「ど」という活字がすごく気になりました。「と」とはちがう字体ですね。

フルフル:祖父江さんが、書体も含めてこの本の世界観を表現しようとしたのだと思います。この本は、私も実は読めなかったんです。出たばっかりのときに、書店で手にとってはみたのけど、やっぱり読む気になれなくて。

ハリネズミ:アリスは当然『ふしぎの国のアリス』(ルイス・キャロル)のアリスから借りてきた名前なのでしょうけど、SFというよりやっぱりナンセンス・ファンタジーなんじゃないかしら? SFというのは、一度もこの世に存在したことのない世界を扱うわけですから、読者が入り込めるように隅々まで考えて科学的にも物語的にも齟齬のないお膳立てにしないといけないと思うんですけど、この作品はそういうのとは違いますもんね。私は最初のほうはおもしろい設定だと思って入り込んで読んでいったのですが、p183から文章がわざと切れたようなレイアウトになっているんですね。ここでしらけてしまいました。物語の流れを妨げる邪魔なもののように感じてしまったんです。そうなるといろんなところが気になってしまって。途中でアリスが「こんなのをシュールって言うのかしら」とか、さっきも出てきたp89の「ますます何がなんだかわからない」なんていうのも、ないほうがいい。読者がそう感じればいいことなので、作者の声は邪魔になるように思いました。全体としては、そんなに楽しめませんでした。SFなら、舞台となる世界をもっときちんと書いてほしい。そこが希薄なんですよね。

紙魚:このファンタジーには、ルールがないですよね。「どろんこ」だからなんでもいいじゃないかというふうにも読める。

ハリネズミ:ナンセンス・ファンタジーだと開き直ったほうが、おもしろくなったかも。

紙魚:この本のここがすごくおもしろかったという人の心をのぞいてみたいです。

ハリネズミ:プロットだけ追っていく子って、今いるでしょ。そういう子にはおもしろいのかな。でもそれだったら、べつに本を読まなくてもいいんですよね。

すあま:私もこの世界がおもしろいと感じられませんでした。時間がなくて斜め読みしたのもよくなかったのかもしれないけれど、やっぱりおもしろさがわからなかった。森博嗣の作品のイメージも思い浮かんだのですが……。まさに頭のなかが「どろんこ」状態で、楽しめなかったです。

プルメリア:3冊の中でいちばん字が大きいので最初に読もうと思い読み始めたら驚きました。ヒトデナシたちの存在社会がイマイチわかりにくくて、出版社を見たら「福音館書店」! 会社のイメージが変わりました。おもしろかったのは、鉄骨が落ちてきたときにかめがおさえ首が……、と思ったら甲羅の中に入れていた場面と、レストランに入ると料理を食べた人は出ていき、これから料理を食べる人たちは順番に席を動いていく場面には笑っちゃいました。変わった本に出会いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2012年6月の記録)


2012年06月 テーマ:新旧SF競作

 

日付 2012年06月14日
参加者 プルメリア、すあま、レンゲ、トム、サンシャイン、ハリネズミ、キャベツ、紙魚、みっけ、フルフル
テーマ 新旧SF競作

読んだ本:

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