月: 2012年7月

パトリシア・C・マキサック『クロティの秘密の日記』

クロティの秘密の日記

ルパン:最後まで夢中で読みました。クロティもかわいかったし。ほんとの話だったらよかったなと思ったくらいでした。いちばん気に入ったのは、お屋敷のおばかな息子です。あんな両親の子どもなのに、ちゃんとクロティの人格を認め、黒人奴隷たちの味方になったところを読んで、とても幸せな気持ちになりました。

トム:読みながら、中学時代に『トムじいやの小屋』(ハリエット・ビーチャー・ストウ)を読んだときのことを思い出しました。時代に向き合うお話を読むのは、とてもその人の人生にとって意味があるだろうなと思います。クロティの知恵と勇気の熱さに触れているうちに、いつのまにかノンフィクションのように読んでいました。ただ今も人種差別が残っているのは苦いものがある・・・。それから黒人の中にも白人農場主につく黒人もあり、白人の中にも奴隷を逃がそうとする家庭教師のような白人がいたり、黒人白人というだけでなく、人間を語っていることが、この物語の厚みになっているのでは。クロティが大人になってからの、その後のクロティも読みたいと思いました。時代の中で語られる物語なので、この時代日本はどうだったか、ヨーロッパはどうだったか、見られる資料も載っていたら広がりがあるのでは。

アカザ:こういう本を子どもたちに読んでもらいたいと、つくづく思いました。はらはらしながら、最後まで一気に読みましたけど、主人公のクロティは、本当に強い女の子ですね。
大人の読者の私としては、最後に車掌になるより安全なところに逃げてほしいと思ってしまいましたけれど。あと、字を読めるようになることが力になるという、その考えが芯になって作品を貫いています。アメリカの児童文学の伝統というか。この作品も、最初は間違いのある文章を書いているけれど、だんだん漢字まじりのしっかりした文章になっていくにつれて主人公も成長していく。こういうところとか、ほかの奴隷たちの話す言葉とか(関西弁ぽいのは、ちょっとひっかかったけれど)。訳者の方も大変だったろうなと思いました。

ハリネズミ:アメリカの児童文学の伝統って、どんなところですか?

アカザ:『レモネードを作ろう』(ヴァーイニア・ユウワー・ウルフ著 こだまともこ訳 徳間書店)とかね。イギリスは、アーモンドの『肩甲骨は翼のなごり』(山田順子訳 東京創元社)もそうだけれど、学校で字をおぼえたりするより、もっと大事なものがあるだろうというような作品が多いような気がするんだけれど……。

ハリネズミ:そうか、アメリカは教育の現場で非常に苦労していますよね。移民も多いし。イギリスはもともと中流階級の人が中流階級の人のために書いているから、そういうことが起きないけどね。でも、そこがアメリカの児童文学の伝統かどうかはわかりませんが。

レンゲ:とても読み応えのある作品でした。文字が書ける、日記をつけるということで、クロティが精神的に成長していくさまが描かれていて、とてもいいなあと思いました。「自由」への強い思いをいだくようすが描かれているけれど、結局クロティは、体の自由ではなく精神的な自由を選ぶんだと思うんですね。p242では、白人の奥様のことを「おとなの体をした小さな女の子」と言えるようになる。苛酷な状況の中でも気高く、心の中の自由は手放さないのがかっこいい。ただちょっと残念だったのは、日記の文章が12歳の子の文章にしては物語的すぎるように感じられたこと。子どもの日記って、もっとたどたどしいのでは? たとえばp132の最初の5,6行。原文自体が普通の物語と変わらない書き方なのか、翻訳のときにこんなふうにまとめてしまったのか、どちらだろうと思いました。時々、日記に書くにしては難しい言葉も出てくるし。本としては、アメリカの人が自国の歴史を知る物語という感じ。文字とか自由の意味を考えさせるところはおもしろく、日本人も読む価値はあると思うけれど、そこまでアメリカのことばかり興味を持たなくてもいいのに、という気持ちにもなります。アメリカへのシンパシーばかりが形作られていくみたいで。日本人はアメリカの歴史に対して、とびぬけて許容度が高いですね。

紙魚:日記の書き方が話題になっていますが、これは、日記文学の限界かなと思います。この女の子が書いた本当の日記だったら、ここまで状況が伝わらないので、どうしても演出を加える必要がありますよね。しかたがないことかなと思います。それから、翻訳の限界も感じました。おそらく原書では、最初のうちはスペルミスがあったりするなど、女の子がだんだんと文字と言葉を得ていく過程がもっと伝わってくるのだと思いますが、日本語だと、それをひらがなを使うことで表現しなくてはならない。それでも、徐々に情景描写や心理描写が書き込まれていくので、この女の子が書く表現をつかんでいくのは伝わってきました。p24の時点では、「自由」という言葉を紙の上に書いても、「自由」の絵が浮かばなかったのに、読み進めるうちに、「自由」が手触りのある言葉に変わっていきます。自分の考え方を深めるときに、話すことも大事かもしれないけれど、書くこともものすごく重要なのではと感じました。思ったことを1度書いてみることの素晴らしさを、この物語で感じました。

プルメリア:今日の3作品の中で一番おもしろかったです。利口な12歳の少女クロティが文字を覚え、密かに会話文で書いている日記にクロティの周りの様子をしっかり見ている素直な気持ちがよく表れているなと思いました。白人社会と黒人社会の違いがよくわかり、差別問題や人種問題の社会の中で自分をしっかり持ち続けるクロティの生き方や考え方がだんだん力強くなっていく姿がたのもしく伝わります。ひらがなで書いてある日記は、クロティが一生懸命日記を書いている姿が伝わるんじゃないかな。ウィリアムぼっちゃんが哲学者になったり、クロティが車掌になったりいい終わり方です。p24には『「自由」はただの言葉』、p274には、『自由はただの言葉じゃない』とあります。印象に残りました。中学生向きの作品だと思いますが、6年生くらいでも読める子はいると思います。

ハリネズミ:「自由への地下鉄道」を取り上げたいい本ですね。私はこのUnderground Railroadっていうのに興味があって、いろいろ調べてみてるんですけど、黒人だけではなくて、先住民も白人もかかわっているんですね。文字が読めない人も多かったから、暗号やしるしで伝えたりして。主人公は、すごく大人びたことを書いていますが、これフィクションなので、物語としておもしろく書いているんじゃないかって思いました。たぶん話し言葉も、文字が読めるようになって本を読んだりするうちに変わっていくんでしょうね。翻訳ではそのあたりを出すのは難しいでしょうけど。南部のもと奴隷だった人たちから聞き書きをした作品に『リーマスじいやの物語』っていうのがありますが、あれも英語がスタンダードじゃなくて黒人特有の話し方で書いてあるんですね。昔は、黒人が主人公の作品も、白人が書いてました。たとえばストウ夫人の『トムじいやの小屋』なんかです。私も中学生くらいで読んで感激したんですけど、今読むと「黒人はかわいそうなのです」という上から目線で書かれているのがわかります。でもこの本の著者のマキサックさんはアフリカ系で、もっと誇りを持って書いているのがわかります。第3世代になってようやく自分たちなりの視点で書けるようになってきたのかもしれません。精神の発達を言語の習得であらわすというやり方をうまく書いた作品に『アルジャーノンに花束を』(ダニエル・キイス著 小尾芙佐訳 早川書房)がありますが、この作品は南部の黒人なまりなんかも入ってきてるんでしょうから、訳すのが難しいでしょうね。私はアメリカの作品でも、マイノリティの作家が書いたもののほうが人生の見方が深くて、おもしろいんですけど、日本で紹介されるのは白人作家のもののほうが多いですね。
 アメリカの児童文学賞の一つにコレッタ・スコット・キング賞というのがあって、もともとはアフリカ系の作家たちに力をつけさせようということで始まったんだと思いますが、今はニューベリー賞やコルデコット賞もどんどんアフリカ系の人が取るようになっています。いわゆる先進国では、書いたり読んだりする文化が偏重されるところがあって、文章の書き方や構成という点では、白人作家のほうに一日の長があるのかと思いますけど。でも今は、語りの文化も見直されてきてますよね。ストーリーテリングなんかも。

アカザ:日本でストーリーテリングというと、すでにできている話を語って聞かせるという感じですけれど、イギリスでストーリーテリングのクラスに出たときに、なんでもいいから語れといわれて、自分の家の犬の話をして、けっこう受けました。もっと幅広くとらえているんだなと思ったのをおぼえています。

ハリネズミ:アメリカの学校にもshow and tell っていうのがあるじゃないですか。そうやって、語る技術をみがいているのかもしれませんね。

(「子どもの本で言いたい放題」2012年7月の記録)


みうらかれん『夜明けの落語』

夜明けの落語

ルパン:よくも悪くも「課題図書っぽい」って思いました。ほのぼのしていていいんだけど、おねえちゃんのせりふが臭いっていうか、こんなこと言うかなって。それでもわりと感情移入できたのは、自分も小さいときおとなしかったからです。ほんとに。先生にさされると蚊のなくような声でしか答えられませんでした。で、声が小さいって叱られると涙が出てきたり。だから、人前でしゃべれないこの子の気持ちがよくわかりました。作者もわかっているのかな。お父さんお母さんがあまり出てこないのが違和感ありましたが、うちも長女から三女までが11歳はなれている3姉妹で、次女と三女は親に言えないことを長女に話したりしているので、「あり」かもしれません。ストーリーは言っちゃなんだけど、普通っていうか、最初から「落語をやってしゃべれるようになるんだろう」ってわかっちゃう。予定調和的だけど、悪い意味ではなく、むしろこういうのはひねらないほうが安心できますね。ただ、「三島くんのおじいちゃんはいったいどこの人?」って思いました。三島くんは関西から引っ越してきたのに、このお話の舞台の町に昔から住んでいるらしきおじいちゃんも関西弁なのは「あれ?」という感じでした。ほかにも地域の設定には突っ込みどころが多々あります。三島くんがお笑いの本家である関西で落語やっていじめられてて、転校して東京(?)でまたやって東京の子には受け入れられる、っていうのも不自然な感じです。逆ならわかるけど。東京でシャイだったあかねちゃんが関西に越して落語に誘われてお笑いに目覚めちゃうとか。野中あかねちゃんに関していえば、人前でしゃべれないっていうのは、小学生のときはそんなに重大じゃない気がします。友だちとふつうにしゃべれれば小学校生活に支障はないですから。それより、クラスに友だちがいるのかどうかが気になります。あと、となりのクラスの初音ちゃんは、どうしてこの子のことをこんなに大事にするんでしょう。ふつう小学生ってクラスが分かれたら別世界の住人なのに。班が分かれただけで疎遠になったりしますもの。あかねちゃんが、同じクラスに友だちがいないことをおねえちゃんに訴えていないのが不思議な気がします。クラスに仲良しの女の子がいないことのほうが、小学生にとっては大問題ではないでしょうか。

アカザ:わたしは落語がとても好きで、桂小文治さんの会に欠かさず行っているくらい。ですから、こういう作品を子どもたちが読んで落語好きになってくれればいいなと、うれしくなりました。出てくる人たちも、みんな善意で、最後まで安心して読めました。ストーリーも、たぶんこうなっていくのではと予想がつきますが、この年代の読者が読むとホッとするんじゃないかしら。主人公の悩みも、それほど深刻じゃないので、安心して読めるのかもしれません。人前で話すのが苦手でも、けっこうハッピーな学校生活を送っているし。口数の少ない子って、けっこうハッピーなんですよね。私も昔そうだったから、よくわかります。主人公が寿限無をどうやって話したらいいかと悩むところで、お姉ちゃんがハムスターに名前をつけたときのことを話して妹に助言するところも、聞き手としてではなく噺家の修業のしかたを言っていて、おもしろいと思いました。それから、別に悪いことじゃないんですが、児童文学に出てくるおじいちゃんって、同じようなタイプが多いですね。庭のある一軒家、それも古い民家に住んでいて、ジュースではなくて麦茶が出てくるような。若い作家の方たちは、そういう暮らしに憧れているんでしょうね。現実は、そういう年寄りばかりじゃないのに。

トム:読み終えて、心穏やかにページを閉じられました。作者は大阪の人ですか? 標準語で書かれたお話って多いですけど、大阪の言葉とか、もっと方言で語られるお話を読みたいです。クラスの中に三島くんのような子がいたらいいなと思いました。三島くんの関西弁いいですね、方言って魅力があります。p150であかねちゃんが啖呵をきりますね、初音ちゃんとけんかして。言葉が少ないからといって心に何も無いのではなくて、胸の奥に言葉にならないで溜まっていたものがマグマのように噴火して、いい場面だと思いました。よかったな、こんなふうに言えてと、物語のこちら側にいる者に思わせる場面だと思います。作者は、内気であったり、思うことをたくさん抱えていても表現できないまま、自分の中に籠る子どもに温かく沿っている。後半になるとここまで書いてくれなくてもいいのに、っていう部分もありますが。p170の担任の先生が話す「やる勇気とやらない勇気が大事」というのは、10歳の子どもに理解できるかなと。読者の子どもにも。でも全てわからなくても、どういうことかなと思って心に残れば、いつか大きくなって「あっ」と納得する時が来るかもしれないし、そこが本の良さかもしれない。裏表紙で3人が階段のところにいる絵はいいですね。この物語は、自分で読むだけでなく、誰かに読んでもらったら楽しいと思います。落語の可笑しさを知って、出来れば関西弁もリズムよく語ってくれる大人に。

プルメリア:あかねちゃんみたいな恥ずかしがり屋さんの子どもはクラスには数名おり、日直で司会をする時の内気な子の心情をよくとらえている作品だなと思います。元気な子が主人公の作品はよくありますが、内気な子の学校生活を主にした話はあまりないので、同じような悩みを持った子供たちには勇気づけられる作品だと思います。内気な子をかばう頼もしい子も日常生活にはいるので、3人の関係がよくわかります。「まんじゅうこわい」、「番町皿やしき」、「じゅげむ」などの作品が登場するるので落語を身近に感じ。落語の本を手に取る子ども達が増えるきっかけになるかも。気になることは「日直」は1日の当番活動、1週間なら「週番」かな。帰りの会のスピーチ5分間はちょっと長いか。お姉さんの存在は、お母さん的なお姉さんって感じ。大学生が家にいる時間帯が多すぎ。おじいちゃんも関西弁なのに、どうして東京にいるのかな。この作品を読んで、共感する子どもたちは多いと思います。主人公は4年生ではなく、5年生でもいいかな。6年生くらいになると、はきはきしていた女の子が授業中急にしゃべらなくなったりする傾向が増えてきます。微妙です。

レンゲ:最初読んですぐに、『しゃべれどもしゃべれども』(佐藤多佳子著 新潮社)を思い出しました。読んだ後味はいいし、こういうお話を読むと子どもも元気が出そう。ただ、ちょっと納得がいかないところもありました。一つは、暁音が初音ちゃんとけんかをしたあと、クマ先生になぐさめてもらうところ。それまでにクマ先生とつながりが描けていればよかったのだけど、そうではないので嘘っぽい感じがしました。特にp169のクマ先生の「クラスはちがうけど…」から始まるせりふ。先生が子どもに、ほかの子のことをこんなふうに言うかなと。それと、中学生・高校生くらいになると、お父さんお母さんよりもお姉ちゃんとかほかの年上の人を頼るのはわかるけれど、4年生の子がここまで親を頼りにしないものかなと。3・4年生の子って、なにかあったときに、最後のところでもう少し親を求めるんじゃないのかな。お姉ちゃんはいい子だけど、親としてなのか、ちょっとさびしかった。こんなドライでいいのかなって。

プルメリア:おじいちゃんの家に行くとき、お菓子を持たせてくれたのは存在感が薄いお母さんです。

レンゲ:それとこの作品の裏には、プレゼン力を高めようということがしきりと言われる、今の学校の状況があるように思いました。私は普段から、そういうのは善し悪しだなと思っているのですが。人前で発表できることは大切だけれど、パワーポイントを使ったりして、上手にそつなく発表するというのは、本当の意味での表現とは違う気がするんです。小学校高学年から中学生までの発表を見ていても、論理性が積み上がっていくわけではなく、結局見栄えをよくすることに終始することも多いようです。作品とは別なことだけど、そんな学校のようすが頭にうかびました。

アカザ:よくしゃべる子って、なんにも見ていない。なんにも考えていない。しゃべんない子ってよく見てるでしょ。どっちがいいってわけでもないのよね。

プルメリア:なんにも考えないで見てる子もいます。

ハリネズミ:そのまま大きくなって大学生になる子もいる(笑)。私はそれなりに最後までさーっとおもしろく読んだんですね。私も落語は好きなので、こんなふうに落語を紹介できるのはいいなと思いました。しゃべるのが苦手な子が、右に行ったり左に行ったりためらっているのも伝わってきたのだけど、どこか意外なところとか、ステレオタイプではない人物も登場したりすると、もっと大きい賞もとれたのかな。

紙魚:近年、気持ちをうまく伝えられない主人公というのが多いですね。今、学校では、ディベート力やプレゼンテーション力なんていう力の重要性が言われることも多く、だからこそ反対に、しゃべれない子の気持ちがこうして取りあげられるようになってきているのかなと思います。しゃべるのが苦手な女の子が主人公で、そばに心やさしい男の子がいて、啓蒙するというよりは、まわりの人たちのやさしい気持ちによって、かたくなな心がほどけていくというストーリーには、どこか願望のようなものが表れているのだと思います。19歳の方のデビュー作ですが、自分のことで精一杯の時期に、こうして他者を思いやる物語を書いているのは、とても素敵だなあと思いました。欲をいえば、物語がまっすぐ進んでいくので、それも素直なよいところではあるものの、どこかにはっとするような転換があるとよかったです。全体的にはじめじめしていなくて、しゃべれない子どもが明るい空気で描かれていました。大島妙子さんの絵で、中学年対象というのを意識した本づくりもいいですね。

プルメリア:6年生の国語でディベートがあります。「自分の考えや意見を発表しよう」という主旨の学習です。

紙魚:吉本隆明さんが、「沈黙も言葉」だと言っているんですが、表現しないと何も考えていないことになってしまうというのは危険ですよね。だからこそ、こうした物語で、言葉に出てこない部分をあらわしていくのは大切かなと思います。

(「子どもの本で言いたい放題」2012年7月の記録)


デイヴィッド・アーモンド『パパはバードマン』

パパはバードマン

プルメリア:挿絵がとてもすてきだなと思いました。場面によって文字が大きくなっているところも読みやすいな気がしました。お父さんは、お母さんが亡くなって落ち込んでいて、虫も食べちゃうというのが・・・。最後、コンテストに出場して元気になる。子どもがいつもお父さんに寄り添っていくのがいいし、鳥コンテストに出場する人達が発想豊かでかつユニーク、一生懸命努力する姿がいいなと思いました。最初は読んでいてどうかなと思いましたが、だんだんひきこまれて。お父さんが鳥コンテストに出場することで自分をとりもどしていくのかなと。登場人物がみんないい人っていうのもいいなと思いました。

レンゲ:こんなお父さんがいたら困るだろうなあと、ソフィーに同情しながら読み進めました。けれど、これまでのアーモンドの作品に登場してきた異質な者、普通という枠におさまらない人々と、このバードマンになったお父さんには、どこか共通のものがあって、ソフィーの人生も、やはりこのおかしなお父さんとのかかわりでより豊かになるのも感じられました。ただお話としてはハチャメチャで全然収束しなくて、読み終わってもすっきりしませんでした。ペロペロスースーというのも、ちっともおもしろくないし。

紙魚:読んでいて気になったのは、「ダンプリング」という食べ物。p55の初出で、「くだものいっぱいのダンプリングよ」という1文に突き当たったとき、これがどんな食べ物なのか、さっぱりイメージがつかめませんでした。たとえば、「くだものいっぱいの○○○○、ダンプリングよ」と、少しヒントが加えられていたりすると、もう少しその食べ物への期待が持てたんですが……。

アカザ:すいとんみたいなものよ。

紙魚:パパがどうしてこんなふうになっているのかわからず、この物語をどう読めばいいのか最後までわかりませんでした。充実した満足感は持てなかったです。いいなと思ったのは、章ごとの視点の移り変わりです。章ごとにパパがメインに描かれたり、ドリーンおばさんが描かれたりするんですが、散漫にならずに自然につながっていくのがうまいと思いました。このお父さんは、不思議な威厳もあると思うんですが、絵本『ガンピーさんのふなあそび』(ジョン・バーニンガム作 光吉夏弥訳 ほるぷ出版)のように、風変わりだけどやさしいまなざしを持ち得ているというふうに伝わってきたら、もう少し満足感が得られたのではと思います。

ルパン:『クロティ〜』を読んだあとにこれを読んだのですが、テーマなんだったっけって思うほど、違っていて…そのせいかあんまりお話に入りこめませんでした。ロアルド・ダールに似ている気もしたのですが。ファンタジーなのか、ナンセンスなのか、ブラックユーモアなのか・・・最後まで「?」でした。読みながら、この読書会で何て言おうかってことで頭がいっぱいになっちゃって。これがおもしろくないのはいけないんだろうかとか、よけいな心配ばかりしてました。なにしろ典型的日本人A型ですから。こういう素材で意味不明とかいったらつまんない女に見えるかなあとか、雑念全開でますますわけわかんなくなっちゃいました。このお父さん、お母さんが亡くなって精神的におかしくなっちゃったんだと思うと、どこを読んでも笑えませんでした。唯一キャラクターの中でよかったのは、コンクールがありますよって呼び歩く人。脇役がいいのはうまい作家なのかな、とは思いました。

アカザ:私は、アーモンドの作品が大好きで、たいてい読んでいます。でも、小さい子ども向けの作品を読むのは初めてなので、お気に入りの歌手が新しいジャンルに挑戦したときのファンのように、どうか成功してほしいと祈るような気持ちで読みました。最後まで読んでみて、着地に失敗しちゃったかなと残念な気持ちがしました。この話は、角度を変えてみると悲惨な話ですよね。トールモー・ハウゲンの『夜の鳥』(山口卓文訳 河出書房新社)を思い出しました。あっちが陰とすると、こっちは陽の書き方をしているけれど。お母さんが亡くなって、精神的なダメージを受けているお父さんを、リジーという子がそのまま受け入れて応援していくって話だと思うんですけどね。善意だけれど、応援のしかたが間違っているおばさんや、いい人だけど、あんまり力にならない校長先生や、得体の知れないミスター・プウプや、大人の人も大勢出てくるんだけど、いったいファンタジーなのかリアルな話なのか、作者の意図はどこにあるんでしょうね? 最初はミミズを食べてたお父さんが、最後にはおばさんが作ったダンプリングを食べるというところで、立ち直ったということを表現しているのかな? 大人向けの作品を書いている作家が子どもの本を書くと、よくこういうことになりますよね。小さい人たちは、ファンタジー的なものが好きだとか、ユーモアも散りばめなきゃとか、食べ物を出せば喜ぶだろうとか、いろいろなサービスを考えちゃうんでしょうね。
 この人のYAは『火を食う者たち』(金原瑞人訳 河出書房新社)ではキューバ危機を、まだ邦訳のない『raven summer』は、アフリカの難民の少年をというように、10代の人たちの内的世界と世界的なできごとを結びつけて感動を呼ぶんだけれど、そういうところはこの作品には見られませんね。それから、後書きで訳者が、お母さんの死についてなにか述べているんだけれど、これはなんなのでしょうね? どこか見落としたところがあるのかと思って、もう一度読み直しちゃったわ。

トム:挿絵は現代的でコラージュも、とてもきれい。ただ、絵から読みとることと、物語から読みとることのあいだが微妙に埋まらなくて、ずっと宙にういたまま読み終わったのですけど。もしかしたらイギリスの人がたのしむナンセンスの感覚が私の中にあったらもうちょっと近づけたのか・・・物語は悲惨な話ですよね。陰の部分がとても悲惨でも、淋しさとか虚しさとか悲しさをそのまま差し出さない物語のスタイルと思いますが。悲しいときは、いっそ楽しく乗り越えようという。リジーがお父さんといっしょに鳥になって巣の中で卵を温めたりするところは、想像の遊び大好きな子どもがすっと入っていけるたのしい世界と思います。子どもがその気になれればですが。気になったのは、p57の文中でダンプリングの材料の中に卵が入っているのに、絵に卵がなくて・・・「たまごはどこ?」と聞く子どもが必ずいると思う。こういうところとてもよく見ている子どもがいるはず。それから、まぶしいほどに白いダンプリングって書かれていて、どんなにおいしそうなものかと期待するのですが、絵のダンプリングはややベージュ。パパを元気にするためのダンプリングなのだから言葉と絵と相まって思わず画面に手を伸ばしたくなるようだったらいいのに! あとがきに、「信じる心の大切さがしっかり伝わってきます」とありますが、あまり胸に落ちてきませんでした。

ハリネズミ:アーモンドさんってちょっと普通と違う不思議な人を登場させて物語を展開させていきますよね。でも、この人は特殊なんですって言わないで展開していくのがとても上手な人だと思うんですけど、このくらい年齢層が低い子が対象だと、それも難しいなと思いました。このパパは、変わってます。一方ドリーンおばさんは地に足がついている存在として登場するんだけど、ダンプリングを投げたりするから、子どもが読むと、どこに軸足をおいて読んだらいいか、わかりにくいだろうなと思いました。ずっと浮遊しながら読むのはむずかしいだろうな、と。年齢が高い読者対象なら、それもいいんですけど。この作品は、主にYAを書いてきた作家が小さい人向けに書いたけれど、あんまりうまくいかなかった例じゃないかと思いました。もう少しストーリーをくっきりさせていかないと、子どもの読者には難しいだろうな。たとえばp11でお父さんは「鳥人間コンテストに申込みをするんだ」って、何度も言いますよね。でもp24でプゥプさんが呼びかけても最初は聞いてない。もちろん実際にはこういうことはありうるけれど、小さい人のお話では、逆効果。飛ぼうとするイメージがくっきりしなくなっちゃいます。結局最後まで読んでも、様々なイメージがばらばらでまとまりのある物語には思えませんでした。同じように変わった親が出てくる物語にジャクリーン・ウィルソンの『タトゥーママ』(小竹由美子訳 偕成社)がありますけど、あっちは主人公に寄り添って読めるし、随所にユーモアがあって物語にもまとまりがあります。でも、この作品ではそうじゃない。期待はずれでした。

(「子どもの本で言いたい放題」2012年7月の記録)


2012年07月 テーマ:変身

 

日付 2012年07月19日
参加者  プルメリア、アカザ、ルパン、ハリネズミ、レンゲ、トム、紙魚
テーマ 変身

読んだ本:

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