月: 2015年2月

2015年02月 テーマ:死と向き合う

日付 2015年2月19日
参加者 レン、ajian、アンヌ、レジーナ、アカシア
テーマ 死と向き合う

読んだ本:

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真夜中の電話〜ウェストール短編集

ajian:これはとてもおもしろかったですね。これだけおもしろいと「おもしろい」以上の感想が出て来なくて困ります。どれもよかったけれど、「吹雪の夜」が一番好きかもしれません。猛吹雪をようやく切り抜けたと思うと、今度は子どもが産まれそうで、たいへんな状況が次から次につづく。最後はホッとしますが……。吹雪のなか、火を焚く場面で、「男は臆病だからこそ命を危険にさらすことができるのだ」とあるじゃないですか。しびれますよね。こういう断定が、くさくならずに説得力を持っているのはどうしてなんでしょうね。ウェストールがそういうなら、そうなんだろうなあ、と……。ほかに印象に残ったのは「ビルが見たもの」でしょうか。目の不自由な人が感じる世界を詳細に、リアルに描いている。これもページをめくらずにはいられない展開です。そして短いなかに、寂しさや、うち震えるような怒りや、感情の濃密な部分が克明に描かれている。収録作がこれだけバラエティに富んでいるのもすごいですね。ゴーストストーリーも、ハートウォーミングな話も、ほんとうにどれもおもしろかった。

レン:先月、原田さんの朗読会に行きました。短編集ができるまでの話などもお聞きしましたが、それはこの本の後書きに詳しく書かれていますね。人間って、どこに行っても変わらない。ぶざまなことをしたり、いい加減だったりしながら生きているというのがうかびあがってきて、ひとつひとつの話がおもしろかったです。原田さんの訳は丁寧で、それでいて男っぽくてすてきでした。日本のオリジナルでこういう本が出るというのはいいですね。さすが徳間書店児童書20周年です。10代の心理がよく描かれているので、高校生に読んでほしいです。大人の外国文学への橋渡しにもなりそうです。

ajian:あ、あと好きだったのは「最後の遠乗り」です。主人公の最後の独白部分。「おれはこの先も、少しずつジェロニモから遠ざかっていく。そして、髪にカーラーをつけ、油ぎった熱い包みをかかえてフィッシュ・アンド・チップス屋から出てくるばあさんたちに近づいていくんだ。電気屋のショーウィンドウをのぞきこんでいる中年男たちに……」。中年に近づいている自分としては、この台詞、非常に身にしみて感じます。

レン:細部がリアルですよね。ちゃんとみんな体験してきた人なんだろうなと思いました。やわらかい羊のフンが、踏むとつぶれて靴につくところとか。線を引いておきたくなるような、いい言葉もたくさんありますね。p106に「夜中、ビルは眠れぬまま横になり、不安に思うことがある。世界じゅうの人たちがあまりに排他的になり、真の平和は日々遠のいているのではないかと……。」とか、今読んでもドキリとしました。

レジーナ:中学の時に、ウェストールの『海辺の王国』(坂崎麻子訳 徳間書店)を読みました。当時、中学生向きの読み物はあまり見つけられなかったのですが、この作品は甘いハッピーエンドで終わらせず、少年の成長していく姿をしっかり書いていて、とても心に残りました。すぐれた作家の中には、長編はすばらしくても、短編になると弱くなってしまう人もいます。ウェストールは、長編も短編も書ける作家ですね。それぞれの話は、登場人物の年齢も、置かれた状況も全く異なりますが、どれも人間の生きる姿を伝えています。特に好きなのは、「吹雪の夜」と「ビルが「見た」もの」。吹きすさぶ風や吹雪の激しさは、ロンドンの都会ではなく、まさにイギリスの北方の厳しい自然ですね。土地の描写に、力があります。p165に「革ジャンの背中のベルト」とありますが、革ジャンにベルトはついているのでしょうか?

アンヌ:「吹雪の夜」は本当におもしろく、イギリスの獣医ジェイムズ・へリオットの著作の中のイギリス高地の物語を思い出しながら、何度も読み返しました。

レン:私たちは、あまりに多くの情報にさらされて、感覚が鈍って、こういう観察眼を持てなくなっているように思いました。

アンヌ:ただこの短編集にあるホラー3篇は、他の物語に比べて、そんなに見事な出来だとは思いませんでした。最初の「浜辺にて」も、夢落ちで終わっているし、「真夜中の電話」も、ハリーが幽霊と20年も電話し続けているというのが少し納得がいきません。最初はいろいろ調べたというのに、メグのように引きこまれたりはせず、幽霊も手出ししないで、毎年繰り返していたのはなぜかとか、疑問が残ります。「墓守の夜」も、設定が、ピーター・S・ビーグルの『心地よく秘密めいたところ』(創元推理文庫)と、同じなので

アカシア:とてもよくできた短編集だと思いました。「真夜中の電話」だけでなく、ひとつひとつの話が、「生きること、死ぬこと」を考えさせますね。描写もリアルです。私はホラーとは思わなかったんですけど、「浜辺にて」では、アランも死んでいるのかと少し思っていまいました。バイクで疾走する場面とか、サマリタンが電話を受ける場面とか、屋根裏に潜んでいるお父さんを見つけた場面など、自然描写も心理描写も情景がありありと思い浮かぶように書かれているのがすばらしいです。翻訳もうまい。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年2月の記録)


さよならを待つふたりのために

ajian:ジョン・グリーンは学生時代に、 病院付きの牧師として働いていたことがあるそうです。そのときの体験も元になっているらしい。

アンヌ:最初に読んだ時、とてもリアリティがあったので、誰か患者さんのブログを基にしたものなのかなと思いました。誰かが癌になったと聞くと、他の病気とは違い、もうその人は一つの橋を渡って別の世界に行ってしまったように思う人がいますが、この作品では、死というのはすべての人に訪れるものだということを最初に主人公の口から言わせていて、そこがとてもいいと思います。アイザックが、立ち去った恋人のモニカの車に卵をぶつける場面もとてもいい。たとえ、がん患者であったとしても、悟りきった向こう側の世界の人間などではなく、怒ったり恋をしたり、死ぬ寸前まで普通に生きているのだということを語っています。サポートがあれば旅行にも行けるし、病気になっても自分は自分なのです。死ぬのはみんな同じ。恋もするし、その過程に意味があるのだと言っている物語だと思えました。少し気になったのは、母親がモニカの死後も生き抜くために、社会福祉の学位をとってソーシャルワーカーになる勉強をしていることを、ヘイゼルが知って喜ぶところ。ここは逆に、ヘイゼルがあまりに自分の死後について物分かりがよすぎるのではないかと気になりました。もっとも、そのために、ダメになった親代表のヴァン・ホーテンの物語があるのかもしれないと思いました。

レジーナ:フリースローをしていて、なぜこんなことをしているのかと、ふと人生に疑問を感じたり、自分が病気になったことで、両親が悲しんでいるのに心を痛めたり、「自分の存在を覚えていてほしい」「生きた証を残したい」と願ったり、病を得た十代の少年と少女の感覚がリアルに伝わってきました。主人公は、アンネ・フランクの家でキスをした時、病気の身体にずっと苦しめられてきたけれど、この身体があるからキスができると気づきます。ひとりで背負わなければならないと思っていた苦しみを理解し、分かち合える人と出会えた幸せが伝わってきました。ただ、どうしてふたりが惹かれあったのかが、よくわかりませんでした。また関係が長く続けば、それだけいろんなことがあります。「死別したことで愛が永遠になる」というのは、ヤングアダルトのラブストーリーならでは、ですね。そういう風に感じるのは大人の読み方ですが。ようやく会えた作家は嫌な人間で、ふたりはがっかりします。うまく行き過ぎない物語展開や、酸素の濃縮機にフィリップと名づけるユーモアが、作品のおもしろさにつながっています。残念だったのは、「至高の痛み」がおもしろい小説だと思えなかったことと、ところどころ翻訳が読みづらいことです。p42の「酸素吸入が不足してるほど冷たくはない」は、「酸素が行き渡っていないと、手の先が冷たくなるけど、それほど冷たくなってはいない」ということでしょうか? p145の「アイザックがしたことだって、モニカに全然優しくなかったよ」は、「アイザックが視力を失ったことで、モニカだって傷ついた」ということでしょうか? p154の「オーガスタスはおじさんとおばさんのクッションの格言をうんざりしてても受け入れてる。か弱くて珍しいものは美しいって思ってるんでしょ」ですが、格言がか弱いのですか? 格言を刺繍したクッションを家中に飾る、そういう態度が女々しいということでしょうか? またp27で、お互いに夢中なアイザックとモニカを見て、主人公はなぜ「病院までラストドライブするときのことを考えてみて」と言ったのでしょうか。

アカシア:話としてはおもしろいし、こういう本を出す意味はあると思います。ただ私は共訳とか下訳ということに疑問を持っているのです。その作品世界をどう受け取るかは人によって違うので、一緒に訳している人の間に違いがあると(たいていあるものですが)、特に文学性の強い作品だとどうしてもぎくしゃくしてしまう。アメリカではベストセラーですが、シチュエーションだけが興味深いのではなく、原文では会話にもとても味があると思います。翻訳では、キャラクターとその会話がところどころ合っていないように思えて、ちょっと残念でした。

アンヌ:ヴァン・ホーテンは、ヘイゼルが感動するような娘の物語を書き上げたのに、その後アルコール中毒に陥ってしまい、成長しませんでしたね。

ajian:映画では、ヴァン・ホーテンを演じているのは、ウィレム・デフォーです。

アカシア:たとえばp85の「よかった」がぴちっとはまらないように思ったり、p97の「骨の間がばらばらになってしまう」もすっきりとはわかりません。わからない部分が多くて、止まってしまう。今風の言葉があるかと思うと、古い表現も出てきたりして、ちょっとアンバランス。そんなに無理に今風の言葉にしなくてもよかったのでは、と思ってしまいました。「サイテーの女」なんて訳されると、ガスのキャラクターが揺らいでしまう気がします。

ajian:とてもいい作品だと思うので、伝わりにくい部分があったとすれば、それは残念です。仕事でヤングアダルトの原書をいろいろ読んでいますが、ジョン・グリーンは際立って文章がいいです。今風の生きのいい会話が、テンポよくつづいていく。日本語版では、そういう今風の会話を成立させつつ、この子たちの知的レベルの高さも表現しなければいけない。そこに難しさがあるのかもしれません。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年2月の記録)


光のうつしえ〜廣島 ヒロシマ 広島

アンヌ:この本を読み終えた後、最後に記載された「作中の短歌の出典」のところに、短歌の作者の方への問い合わせがあり、ああ、もう関係者の方々も亡くなられているのかもしれないのだなと気付きました。そして、この出典のところまで読んで、この本を読んだ意味が初めて分かるという気がしました。短歌が書かれたのは、戦後と1970年代。この物語の舞台は、戦後25年の1970年。それぞれの時代を、もう一度、さらに時が流れた現代から見直す必要性を感じます。作中におかれた短歌を読みながら、作者は、まざまざとこの物語にある光景を見たのだろうと思いました。短歌の意味をすくい取って物語とし、そしてその歌い手たちの心を救済する手段として、子供たちが絵を書く行為を物語の中で提案する。そういう形で、書かずにはいられなかったのではないかと思います。今、ちょうど、イスラム国の事件があったり、空爆が行われたりして、無辜の死こそが戦争の本質だと感じています。今、読む意義のある作品だと思いました。

レジーナ:広島生まれの被爆二世の方が書いていらっしゃるので、実感のこもった作品です。方言の台詞は、温かみがあっていいですね。主人公は、被爆者の子どもの世代です。自分たちは実際に戦争を体験したわけではないけれど、周囲の大人の多くが深い傷跡を抱えている環境で、子どもたちはしだいに、そうした人々の心に寄り添って生きるとはどういうことなのかを考えるようになります。ひとりで答えを出すのではなく、文化祭の絵をみんなで描き、友人たちと一緒に問題に向き合う姿が印象的でした。最後にみんなで灯篭流しをする場面もそうですが、人が引き起こした戦争で受けた傷を、少しでも癒せるものがあるとすれば、それはやはり他者と交わり、つながっていくことなのでしょう。声高に平和を叫ぶのではなく、ひとりひとりの小さな物語を通して、普通の生活や平和の尊さ、それを突然断ち切る暴力について読者に考えさせます。藤田嗣治の『アッツ島玉砕』に関しては、ちょうど数日前の新聞で読みました。記事には、芸術はときに、画家本人の思いから離れてひとり歩きをしてしまうと書かれていました。

レン:大変丁寧に書かれた作品だと思いました。杇木さんの『八月の光』は、当事者である四人の被爆者を直接描いていたけれど、これは自分が体験したのではない子どもが、親や祖父母の世代のことを知るという形で、体験していない子どもとヒロシマをつなぐ作品ですね。両方読むと興味深いです。未曾有の悲劇の中で想像を絶する体験をして、痛みを抱えた大人がたくさんいて、杇木さんはこの主人公の女の子の年代でしょうか。この子が感じていることは、作者の体験なのかなと思いました。子どもたちがかかわることで、悲しみを封印していた大人たちが心を開き、少しずつ前向きな気持ちを取り戻していく姿も印象に残りました。人為的な戦争という行為による死が、明日を奪い、思いを断ってしまう、そんなことを引き起こすのはやめてくれというメッセージ。美しい灯籠の場面のイメージにのせて、いろんなことを考えさせられました。
 登場人物の子どもたちが、身の回りにいる、一世代上で原爆を経験した人たちのことを、「知っているつもりで知らない」とよく言います。それから、その人たちに直接話をきくのではなく、その回りの誰かからきくという形で、それぞれ何があったのかを知っていきます。このあたり、非常にリアリティがあるというか、よくわかると思いました。祖父も入市被曝をしていて、原爆投下間もない長崎に入っています。おそらくすさまじい光景を見ていたはずです。でも、その時の話をあまり聞いたことがない。いま、長崎や広島で、ボランティアで被爆体験を語ってくださっている人のなかには、何十年も経ってからやっと話せるようになったという人もいます。それほど傷が深い。この作品の舞台になっている時代は、被爆二世が中学生という時代ですから、記憶は、よけいに生々しいものとしてあったでしょう。
 いまはそれから年月が経ってしまって、また別の意味であの時のことが伝わりにくくなっているのではないかと思います。おそらく私の子どもの世代では、直接お話をうかがうということは、もう無理になっているでしょう。起きたことを伝えていく手段は、できるだけたくさんあったほうがいいし、伝え方もアップデートしていかなくてはならない。そういう意味では、朽木さんよく書いてくださったなと、感謝のような思いがあります。
 語りにくい当事者の思いを代弁するように、ところどころに挿入される短歌がきいています。短歌や手記にたどりつけるように、こういうアプローチをしてくださったのは、有難いことだと思いました。
 読んでいて胸が衝かれるようになったのは、それぞれみんな、あの日以来、心残りがある人なんですよね。美術の吉岡先生は、変わった雰囲気の先生として登場して、色黒で歯が白くて、笑い顔が歯磨きの広告のようだといわれたり、最初はちょっと滑稽な印象ですよね。生徒が帰るのを、窓際でずっと見送ってくれるのも、ちょっと変わった人のように思われている。ところが、その見送りの理由があとになってわかる。滑稽だったイメージが反転する。こういうところは、読んでいて巧いなと思いました。

アカシア:同じ朽木さんの『八月の光』と一緒に読むといいな、と思いました。『八月の光』は被爆体験を実際にした人たちが主人公ですが、こっちはその次の世代の人たちがその体験をどう受け継いで自分のものとしていくか、という物語。ストーリーにも工夫があって、灯籠流しの時に声を掛けてきた年配の人はいったいだれなのか? 吉岡先生はどうしていつも窓からじっと見ているのか? お母さんはどうして何も書いてない灯籠をいつも流すのか? などの謎で読者を引っ張っていく。灯籠流しの美しい場面から始まって、最後も灯籠流しで終わり、主人公はその間に確実に成長している、という構成もうまい。朽木さんはご自身で被曝二世とおっしゃっていますが、だからこそリアルに書けることってあるんですね。この作品では、作者が子どもたちに伝えたいことも、かなり前面に出てきていますね。

レン:前にこの会で松谷みよ子さんの本をとりあげたとき、子どもの頃タイトルから、「戦争」ものだと思わずに読んであとでだまされた気がしたと言っていた人がいたけれど、これは最初から「広島」と構えて、未来を担う子どもに投げかけていますね。余談ですが、うちの母が「子育てで一つだけ絶対心がけていたのは、朝子どもを叱って送りださないこと」と言っていたのを、この作品を読んで思い出しました。戦時中を生きていた人だから。

ajian:登場する子どもたちは、身の回りの人たちがどういうことを体験したのか調べて、それをそれぞれ絵にするなど、ある意味で理想的な形で受けとって、引き継いでいるんですよね。実際そういうふうに持っていくのは難しいとしても、「重い」とかハードルを感じずに、どうやって引きつけたものか、ということは常々考えます。

レン:『はだしのゲン』(中沢啓治著 汐文社)は、子どもたちは夢中になって読みますよね。

ajian:『はだしのゲン』はおもしろいです。たんにサバイバルものとして読んだとしてもおもしろい。新しいアプローチは、これからもいくらでもあるべきだと思います。

レン:『さがしています』(アーサー・ビナード文 岡倉禎志写真 童心社)とか。数は少ないですけど。

アカシア:共同で教科書をつくりましょうという動きはアジアでもありましたよね。それに童心社の日・中・韓平和絵本シリーズの試みなんかも。

レン:こういう本を手渡していくのは必要ですね。

アカシア:京庫連(京都家庭文庫地域文庫連絡会)が、定期的に「きみには関係ないことか」というタイトルの、戦争と平和を考えるための児童書のブックリストを出してますよね。そういうのを参考にして、もっと平和教育をやらないと、政治家がどんどん変な方向に舵を切って、そのまま持って行かれてしまいますね。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年2月の記録)