『ジョコンダ夫人の肖像』
E.L.カニグズバーグ/作 松永ふみ子/訳
岩波書店
1975.12
原題:THE SECOND MRS. GIACONDA by E.L. Konigsburg, 1975(アメリカ)

<版元語録>永遠の謎を秘めた名画「モナ・リザ」。レオナルド・ダ・ヴィンチは、なぜ、フィレンツェの名もなき商人の妻ジョコンダ夫人の肖像を描いたのだろうか。

トチ:カニグズバーグの作品の中でも、この作品は今回改めて読みなおすまで、よく覚えていなかったわ。『クローディアの秘密』(松永ふみ子訳 岩波書店)の子ども像の描写はとてもうまくて好きだったけれど。これは、子ども像の描き方は巧いんだけれど、もう一つ高尚な世界。芸術の本質を描いているけど、感動はなかった。登場人物が好きになれなかったからかしら。何を語ろうとしているのかわからなかった。この作品、欧米では評価が高いらしいけれど、それはダ・ヴィンチが欧米人にとっては自分の文化に深くつながっている人物だからという面があるんじゃないかしら。あと、翻訳者に感動がなかったからかも。翻訳者自身、カニグズバーグが描こうとしたダ・ヴィンチの本質をわかって訳していたのか、疑問ね。もう少し感動して訳していたら、違った印象になっていたかもしれない。

ブラックペッパー:カニグズバーグは大好きで、子どもの頃ほとんど読んだんだけれど、この作品はイマイチだったんだなー。やっぱり『クローディアの秘密』とか『ロールパンチームの作戦』(松永ふみ子訳 岩波書店)なんかが好きで、これはあまり印象に残っていなかった。ところが、今回読みなおしてみたら、いいなと思って。それはきっと自分が大人になったからだと思うんだ。たぶん子どものアタマ、子どもの感覚には難しすぎたんだろうね。芸術の本質だとか、ミラノの王侯がどうしたとか、小学生にはなんのことやらわからないもの。イザベラとベアトリーチェの確執とか、結婚生活とか、婚姻によって貴族の力を伸ばすとか、そんなことって、子どもの頃は興味がなかったから。でも、今では知識もちょっとは増えてるし、おもしろく読めた。ひょっとして、大人向けに出したら、もっとおもしろいんじゃないかなと思ったな。

オイラ:義務感で読んだだんだけど、途中で投げ出してしまった。

ねねこ:この作品は、20代の頃はじめて読んで、その頃は『クローディアの秘密』のほうがいいと思ったの。でも、今回読んで、おもしろいと思った。教養小説という感じで、14〜15世紀イタリアの知識が得られて、ためにもなった。資料に基づいていかに小説に作るか、わかっていない部分を推理して作り上げることのおもしろさが、小説の醍醐味のひとつだと思うのね。自分自身のイタリアへの興味が、以前より増えたこともあってか、今回は、一気に読んだ。「姉妹」というテーマに沿って言うと、器量はよくないけれど教養が魅力のベアトリーチェ、美貌に頼ったイザベラという構図はありきたりで、深い感動はなかった。それより「芸術とは何か」についての作者の考えがとてもわかりやすく述べられていて、おもしろかった。また、「無責任であることの責任」とか、芸術に不可欠のワイルドさ、野放図さの概念なんか、なるほどと思い、読んで損はなかったな。

紙魚:この作品は初めて読みました。カニグズバーグだし、めくるめくストーリーかと思いきや、神妙な雰囲気でおもしろく読んだの。でも、小学生のときに読んだら、このおもしろさは決してわからなかったんじゃないかな。児童文学をリアルタイムで読んだとき、こういう形式のものは読み取れなかったもの。ストーリーのおもしろさがなければ、仮に頑張って最後まで読んだとしても、印象には残らないんじゃないかな。私はミヒャエル・エンデの『モモ』(大島かおり訳 岩波書店)や『はてしない物語』(上田真而子訳 岩波書店)を読んで、すごく気に入って、エンデのものは全部読もうとしたんだけど、『鏡の中の鏡』は(丘沢静也訳 岩波書店)は、小学校高学年や中学生くらいでは無理だった。この作品も、今読んでみると、それぞれの人物が不条理を抱えつつ生きている。例えば、サライは、しいて分ければ悪人に入るだろうけれど、はじめのうちは人をだまし、人の心を弄ぶ。でも、この本の体裁からは、まさかそんな話だとは思わない。様々な人間模様は、リアリティはないのだけれど、舞台で演じられている劇を見るつもりで想像しながら読めた。その意味で、シナリオを読んでいるような気分だった。シナリオも子どもの頃はうまく情景が想像できないですよね。

ブラックペッパー:アクが強いっていうか、ひとくせもふたくせもあるような人ばっかり出てきて、ちょっとしんどいしね。

トチ:最後まで来て、ジョコンダ夫人の夫がいい人で、ようやっとホッとできるのよね。

オカリナ:ダ・ヴィンチとサライの関係って、他で読んだことがなかったからおもしろかった。ただ、松永さんの訳は、上品すぎるんじゃないかな。

トチ:そう、「若者をベッドへ導いて行った」(p133)という1行も、意味がよくわからないで訳したような感じよね。

オカリナ:ダ・ヴィンチとサライは同性愛だったと思うんだけど、この1行だけで、他の描写からは伝わってこないわよね。それにサライは、最初のうち一見何も考えていない脳天気な少年なんだけど、後のほうでは少しずつ思索的になっていくでしょ。松永さんの訳では、その対比が消えちゃって、ダイナミズムがそがれているような気がする。そのせいで、感情移入しにくいのかな。ベアトリーチェが魚の上に金貨を並べる場面なんか、嫌らしい女性だな、って私なんか思うんだけど、どうしてサライがそんなベアトリーチェにまだ惹かれているのか、というところが出てくると、もっとおもしろいのにな。今のままだとベアトリーチェの人間的な魅力が薄っぺら。サライとベアトリーチェもひょっとして関係していたとしたら、なんて考えると、大人の本として書いたらもっとおもしろいのかな、とも思うけど。

トチ:そのへん、訳者はどう思っていたのかしらね。『彼の名はヤン』(イリーナ・コルシュノフ作 上田真而子訳 徳間書店)でも、上田さんは、官能的なところをセーブして訳してるでしょ。

オカリナ:この本、図書館で借りようとしたら、閉架書庫に入っていて、出してもらわなくちゃならなかったのね。子どもはアクセスしにくい本になっているのかな。

ペガサス:この本が1975年に日本で出たとき、私は図書館に勤めていて、当時、カニグズバーグは昇り調子で、アメリカ現代児童文学の旗手として注目されていたのね。だから旬な作家、旬な作品として非常に楽しみに、おもしろく読んだことを覚えている。でも、子どもたちがこの本を実際に手にとっている姿は記憶にないな。『ロールパンチームの作戦』や『クローディアの秘密』は人気があって、実際に子どもたちがつぎつぎ借りていったし、ブックリストにもよくとりあげたんだけど。外国の、しかも歴史を扱った作品の宿命ということもあるかもしれないわね。ダ・ヴィンチとかモナリザの評価を知らないと無理よね。歴史が舞台になっていても、子どもも楽しめる作品というのももちろんあるけれど、この作品みたいな謎解きのおもしろさは、下地がないと難しいよね。あと、サライの言葉遣いが妙に子どもっぽいのが気になったわ。もう少し大人っぽくてもよかったんじゃないかな。サライの人間像は、ほんとうはもっと生々しく魅力的だったんじゃないかな。この訳だと、無邪気な子どもとしか捉えられていなくて、ちょっと物足りない。

オカリナ:この作品の中で、サライは10歳から20歳まで成長するのよね。

ペガサス:そうそう。なのに、ずっと子どもっぽいままなのよ。この人物の本当の魅力が活かしきれていない気がして、物足りないのよね。

愁童:ぼくもカニグズバーグの作品は全部読んでいたんだけれども、この作品はいちばんつまらなかったね。大人の読者として読めば、すごくおもしろいんだけども、カニグズバーグの作品としては、やや期待外れの感じ。カニグズバーグが作家的成長をめざして、新しい分野にチャレンジするエネルギーとか才能は感じるし、貴重な作品、いい仕事とは思うんだけれど、今読むとカビ臭さは否めないね。少なくとも、日本の子どもにはわからないだろうね。

ねねこ:初版から25年で13刷というのも、岩波の本にしては遅いわよね。

愁童:英語圏の子どもには、身近な題材なんだろうかね。

トチ:日本の子が織田信長を読むようなものでしょ?

スズキ:サライの何にも束縛されない奔放さなんかがおもしろかった。『天のシーソー』の後に読んだから余計そう思うのかも知れないけれど。人物それぞれにクセがあって、それがよく描けていると思ったし、温かさが伝わってきて、のめりこんで一気に読んだわ。ジョコンダ夫人が誰かという落ちにも意表をつかれて、感動して読み終えました。読んでよかったと思った一冊。ダ・ヴィンチについて、これまで、雲の上の人という印象しかなかったけれど、どんな天才にも欠点があって、支えあって生きているんだというメッセージもこめられているんじゃないかしら。カニグズバーグの作品だということを忘れて読んだ。

アサギ:おもしろく読んだけれど、これは子どもの本ではないわね。個人的には関心あるテーマだったけれど・・・。レオナルドのような天才が、サライのような人間を必要としていた、というあたり、すごくおもしろかったわね。ただ、すごく読みにくかったわ。なぜかっていうと、初歩的な翻訳テクニックと言われる話になるんだけど、欧米の作品って、同じ人物を、名前で呼んだり、「誰の弟子」「誰の夫」「誰の娘」といった人間関係を使ったりと、くるくる言いかえるじゃない。それをそのまんま訳しているから、つながりがとてもわかりにくいのね。人間関係を把握しながら読むのに、とても骨が折れたわ。でも、最後のオチなんか、うまい!と思った。実力のある作家よね。うまく訳せていれば、もっと違う作品になったはずよ。

トチ:訳者は、実はこの作品が好きじゃなかったんじゃないかしら?

アサギ:どこかずれているのよね。『ロールパンチームの作戦』とかではそうは思わないんだけれど。訳がよければ、感想も違ってきてると思うのに、とっても残念だわ。

トチ:この時代の訳って、こんな感じだったのよね。

ねねこ:巻き毛を直してやる場面なんかもそうよね。

アサギ:作者がこれだけは絶対言いたいということを、端々で匂わせるような訳を心がけなきゃと思うのね。ベアトリーチェの魅力なんかも、今ひとつ伝わってこないでしょ。でも、それはともかく、芸術の本質を垣間見たという意味ではおもしろかったわ。レオナルドにとってサライがかくも重要だったというあたり、原書はもっとすばらしいはずよ。

:きっちりした小説作法に則った、少し前の作品という感じがしましたね。姉妹の関係が構造的にぴったりはまっているの。つまり、人間の裏と表、光と闇を、2人の人間に分けて描くという形をとろうとしたんじゃないかしら。そういう小説作法の中に位置づけたからこそ、ベアトリーチェはこういう人物として描かれたのではないかと思うの。そして、正反対な2人を芸術が統合する、という構図を、「モナ・リザ」の背景としてもってきているんじゃないかしら。姉妹というテーマから読んでみると、この小説における姉妹の役割は、そういうふうに捉えられると思うのね。
会話のかけあいから物語が展開する話という意味では、最近私が関わった短編集『こどもの情景』(A.A.ミルン著 パピルス)の中にも、まさにそういう作品が収録されてる。幼年文学における兄弟姉妹の役割ということを考えると・・・幼い子どもと“同じ背丈”の兄弟姉妹というのは、幼年文学において、不完全がセットになって、子どもの領域を浮き彫りにするという役割を果たすと思うのね。一人一人の人物が、子どもにとって、自分を投影しやすい存在になっている。その中でも、兄弟と姉妹の役割には厳然たる違いがあって、その組み合わせによって、意味も違ってくるのではないかと思っているの。姉妹ならどうしてもジェンダーの問題がからんでくるし、兄弟なら兄を乗り越えていく弟というテーマがつきまとう。そんな意味から、今回読み返してみて、小説におけるきょうだいの役割という問題に、新たな答えを得られた作品だったわ。

(2001年01月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)