『やかまし村の子どもたち』
アストリッド・リンドグレーン/作 大塚勇三/訳
岩波書店
1965
原題:ALLA VI BARN I BULLERBYN by Astrid Lindgren 1947(スウェーデン)

<版元語録>やかまし村には、家が3軒きり、子どもは男の子と女の子が3人ずつ、ぜんぶで6人しかいません。でも、たいくつすることなんてありません。ひみつの手紙をやりとりしたり、かくれ小屋をつくったり、毎日楽しいことがいっぱい!

コナン:ああ、こんな時代があったんだなーと思いました。今回は初参加なので、このくらいです。

:リンドグレーンは、冒険小説としてのおもしろさがあるんですね。映画化されたりするのも、やはりその要素があるからでしょう。

紙魚:幼い頃、リンドグレーンと名のつくものは、片っ端から読んだんですけど、そのなかではやっぱり『長くつ下のピッピ』が最高に好きだった。もう何度くりかえし読んだことか。今回『やかまし村』を久々に読んでみて、「〜のつもり遊び」とか、男の子をちょっと嫌う気持ちとか、いろいろな細部でどうしてこの人はこんなに子どものことをよく知ってるんだろう! と感激してしまいました。秘密のほら穴の章の最後「そこは、わたしたちの秘密です。わたしたちは、だれにも、ぜったいに、ぜったいに、ぜったいにおしえません。」というくだりも大好きです。秘密の場所をわざわざ「おしえません!」と公言する気持ちはとってもよくわかります。大人だったらあえて言わないことですよね。物語のなかに出てくる大人たちも、子どものやりたいことを決して否定しない。大人と子どもの関係性を説くことなく、子どもの世界のまま物語が動いていくところもすばらしい! でもどちらが好きだったかときかれれば、『ピッピ』ですけど。

オカリナ:『やかまし村』は幼年童話よね。それに大して『ピッピ』は、自分で読む本という違いがあるんじゃないかな。

モモンガ:図書館では、まず『ピッピ』を薦めてみる。これは、たいていどの子も好きになる本だから。それで、リンドグレーンをもっと読みたいというようだったら、次は『やかまし村』を薦めます。

:幼児のまわりの生活に輝きをあててますよね。まだ自分の世界が外のものではなくて、身近にあるという子どもたちには、もってこいの物語。

スズキ:子どもの日常が描かれていて、エピソードのオチが笑えますね。6人子どもが出てくるんだけど、1人ずつの特徴があまり浮かびあがってこないから、ひとかたまりに見えちゃう。絵も、似たように描かれてるし。とにかくかわいらしいお話だし、ぜひ子どもの本棚に置いておきたい本なので、訳を見直してもらって、感情移入しやすいように改訂してほしい。

モモンガ:そうね、確かに個人個人っていうよりは、男の子対女の子ってかたまりなのよね。

オカリナ:私もリンドグレーン・ファンなんだけど、『ピッピ』よりもっと好きなのは、『やねのうえのカールソン』とか『ミオよ、わたしのミオ』。どの作品が好きかっていうのは、はじめて読んだ年齢もあると思う。私は大人になって読んだから、『やかまし村』については、そうそう子どもの頃こうだったよね、という感想になっちゃうのね。さっき裕さんが冒険の要素って言ったけど、この『やかまし村』の子どもたちの行為を冒険と思えるのは、小学校低学年までじゃない? それ以上の年齢だと、冒険物語としては物足りなくなってくると思う。

ウォンバット:私は、リンドグレーンはあんまり印象ないんです。今のオカリナさんの話で、私も読むのが遅かったのかもと思いました。1回読んだんだけど、いまひとつ愛着がもてず、そのままになってた。だけど、今回読んでみたらおもしろくて、とってもよかった! ちょっと話はずれますが、ちょっと前テレビで、江川紹子さんがリンドグレーンに会いにいくという番組をやってたの。大好きだったんですって、「ピッピ」や「やかまし村」。それで、この村へ行って牛を追ったりするんだけど、もう作品世界そのものという感じの、とても美しいところでした。結局、リンドグレーンさんは高齢だから会えませんということになって、お花とお手紙をお付きの人に託すというところで終わったんだけど、江川さんの思い入れが伝わってきて、とってもよかった。私、前から江川紹子さん好きだったんですけど、身近に感じられてますます好きになってしまいました。

コナン:北欧のものを読むと、日本とはちがう感性があるなと思いますね。

オイラ:ぼくはね、リンドグレーンという人は、なんてやさしいまなざしをもっているのだろうと思いました。まず舞台設定がとてもいい。子どもに創意工夫をさせる舞台設定をしているのが実にいいでしょ。子どもたちが生き生きとしてる。訳文にもぼくは感心してしまったんですね。声をあげて読んだら、気持ちがいいんですよ。オーソドックスな「ですます調」の気持ちよさを久々に感じましたね。しかも、いちばん最後の1行にぐいぐいとひっぱられました。「夏だって、冬だって、春だって、秋だって、いつもたのしいことがあります。ああ、わたしたちは、なんてたのしいことでしょう!」大人とは違うなー。ぼくだって、子どものときはこういうこといっぱいしたんだ。干草に寝たりね。なんとか、子どもたちにこういう世界をとりもどしてあげたいと思いましたね。

オカリナ:そうそう、クリスマスの場面でも「わたしは、たのしいクリスマスがむかえられると、ちゃんと自信がありました」って、子どもが言ってるのね。大人にしっかりと守られてるからなんだろうけど、子どもが安心して楽しんでいる感じが伝わってきますね。

オイラ:ぼくはね、大人に読ませたいと思いましたね。

愁童:今日の3冊のうち、『やかまし村』を最後に読んで、ほっとしましたね。ほかの2冊には、世代の相違を感じてたから、大塚勇三さんの訳でホッとしたんですよね。リンドグレーンの目線にもね。『ふくろ小路』なんかは、理論が先に立ってるんだよね。それに比べて、『やかまし村』は、子どもと同じ高さの目線で素直に書いてるって感じがしたね。戦後2年目に書かれてるんだけど、向こうでは子どもの位置がきちっと認識されてたんだね。オイラさんといっしょで、女の子が部屋をもらうなんてとこも感動的。あの年代で自分の部屋をもらうというのはこういうことなんだよね。

モモンガ:こんな訳文って、そうないんじゃないかな。むしろ私はそれが好き。「つまり、こうなんです」「なんてたのしいことでしょう」というような、独特の訳文。一つ一つの文が短くて、子どもの思考に合っていて。

オカリナ:でも、「〜しちまいます」なんていうところは、時代がかってるかな。

:モモンガさんが『ピッピ』より『やかまし村』が好きっていうのは、どうして?

モモンガ:なにしろ好きでくりかえし読んだのよ。私は冒険小説というよりも、子どものこまこました、ちまちました世界の喜びがかかれてるところに、ひかれたの。見開きの絵のなかに、3軒の家が並んでいて、ここでの毎日の暮らしが描かれる。そしてこの本も、子どものかわいらしさがたっぷり味わえる。子どもだけの、子どもらしい世界がある。この本って、私が子どもの本に関わろうと思った原点かもしれない。リンドグレーンは、まさにこの物語と同じような子ども時代を過ごしてて、その頃のことをこと細かに記憶してるんだって。彼女の言葉に、こんなのがあるので読みますね。「二つのことが、わたしたちきょうだいの子ども時代を幸福なものにしました。安心と自由です。おたがいに愛し合う親がいつもいるということは、わたしたちにとっては安心を意味するものでした。必要なときにはいつでもいてくれるけれども、かれらは危険を伴わないかぎり、わたしたちが自由に幸福にまわりのすばらしい自然の遊び場を巡り歩くのを許してくれました。もちろんわたしたちは時代の伝統として体罰を受けたり、母の厳しいしつけを受けましたが、遊びに関しては自由で、監視を受けることはありませんでした。そして、わたしたちは、遊んで遊んで遊びました。『遊び死に』しなかったのが不思議なくらいでした。」(『アストリッド・リンドグレーン』三瓶恵子著 岩波書店より)

オイラ:さっきの『ふくろ小路』の方は、灰谷健次郎さんの視線に似たものを感じない?

一同:あー、そういえば。

愁童:話は戻るけど、『ふくろ小路』のなかで、奨学金もらって農業やりたいっていうところあるじゃない。あそこで、奨学金もらって農業? ってひっかかったんだよね。こんなちっちゃい子が、農業やりたいっていうのは子どもの発想じゃないんじゃないかな。

ウォンバット:単に、街の子だから、そういう暮らしに憧れてるのかと思ってた。

愁童:普通なら、勉強してもっと物質的に楽な生活をしたいっていうのが当時の考え方なんじゃないかな。

オカリナ:この時代って、化学肥料とか農業機械の研究なんかが進んで、新しい近代農業に希望が持てたんじゃないのかな? 『やかまし村』と同じように、アーサー・ランサムなんかも、遊んで遊んでっていう子どもを書いてますよね。でも、『やかまし村』も『ツバメ号とアマゾン号』も、登場する家庭はお手伝いさんがいるような余裕のある家庭で、だからこそ子どもは幸せを確信できるし、子どもらしい子ども時代が保証されてたのかもしれない。『ふくろ小路』と単純に比較することはできないと思うのね。それに、私は『ふくろ小路』についても、子どもの目線に立って描かれていると思ったけどな。

愁童:日本では童心主義っていうのがはびこった時期があって、そんなとき『ふくろ小路』みたいのが登場したもんだから、これこそ児童文学だってもてはやされたんですよね。少なくとも大人の側には、労働者の生活に光を当てるっていう意識があったのは確か。

:宮崎駿さんが「今の時代、遊びが欠落していて、想像力がなくなると言われてるけど、そうじゃないんじゃないか」って言ってるんですね。彼の作品のなかには、飛ぶシーンが多く出てきます。宮崎さんがめざしているのは「身体性の回復」なんですって。『やかまし村』にも、それに通じるところがあるんじゃないかな。

愁童:『千と千尋の神隠し』に、たとえば階段をのぼる子どもが出てくるんだけど、1段目を右足で2段目を左足っていうんじゃなくて、右足を1段目においたら左足もその同じ段にまず置き、それからまた右足を2段目にかけるっていう姿を、宮崎駿はちゃんと描いてるんだよね。あの映画見て、今の児童文学の作家が失ってしまった身体的リアリティが、ここにはあるなと思ったね。たとえば今のゲームなんて、どんな高い階段でも、昇るのも降りるのもとんとんとんってすましちゃう。児童文学も、それに近くなって「身体性」が消えちゃってるんだよな。

(2001年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)