ペガサス:さすがピアスだけあって、情景もよくうかぶ。これば子どもを描いているんだけど、まわりの老人の方がとても印象的に残る。「ロープ」は入りにくかったし、描写によくわからないところがあった。部分的にうまいところもあるんだけど、3冊の中でいちばん印象がうすかった。

紙魚:ピアスの他の作品もそうですが、とってもていねいな印象をうけました。情景や感情の描写がたんねんに重ねられているので、物語のイメージがきちんと浮かびあがります。どの物語も、読み終わったあとに、ふしぎとあったかい心持ちになるというのも、すごい。きっと、ピアス自身が、子どもにも大人にも、そういう目線を持っているからなのでしょう。

ももたろう:子どもの頃の記憶を、大人になってもう一度堀り起こして書いた作品という感じがしました。書き方は子どもの視点なんだけど、何だか上から見下ろしている感じ。「チェンバレン夫人の里帰り」は、個人的に面白かったです、意外性もあったし。こういう作品を子どもはどういうふうに読むのかな。どちらかというと成長した人が、「あの時はこうだったよねえ」というイメージをもちながら読む作品なんじゃないかなあ。

アカシア:私は「ロープ」の子どもの気持ちもよくもわかって最初からひきこまれた。子どもの頃まわりの世界に対してもっていた感触がよみがえる短篇集。私は、けっこう生きづらい子ども時代を送ったんだけど、その頃こんな本があれば、もっと心を寄せて読むことができたのになあ、と思う。小学校の4年生とか5年生とかで、こういう本を読みたかったな。

カーコ:私も小さい頃読んだ日本の作家の作品は、出てくる子が妙に優等生的な気がして、だめだった。それで海外の作品にとびつくというところがあったかな。

アカシア:ピアスの短篇は、読み直すと、そのたびに味わいが深くなる。たぶんそれは、人間に対する作者のあったかさから来てるんだと思う。「夏の朝」なんかも、人生のある瞬間の感覚がちゃんと伝わってくる。おばあさんと子どものつながりも、ピアスのテーマの一つだと思うけど、彼女の書くおばあさんっていいよね。

カーコ:ひとりひとりの、その人だけが大切にしているものを描き出している気がしました。「まつぼっくり」のまつぼっくりも、「巣守りたまご」のネックレスも、ほかの人にはわからないけれど、その子にとっては特別な意味を持つとてもだいじなもの。「ナツメグ」の名前もそう。物とか物事がもつ個人的な意味が浮かび上がっていて、おもしろかった。「スポット」のおばあさんは、この話ばかりしてるんだろうなとか。

アカシア:「夏の朝」で、ニッキーがスモモの木の根元においたクレヨンを、難民の女の子が持ってってくれるでしょ。これがピアスなのよね。コルドンだったら、女の子はクレヨンを持っていかない。持っていかないってことで見えてくるものを書く。でも、ピアスは、人と人とがいろんな形でつながっていくということを書いてるんだよね。

ペガサス:そうね。主人公は、最初おじいちゃんちにいるのは気が進まないけど、3日間だけだから、つきあってやろうと思うわけじゃない。でも、物事がわかってくると、おじいちゃん、おばあちゃんへの態度がかわっていく。二人の会話とか物音が聞こえてくるというのをきちんと書いてて、伝わってくるよね。おばあちゃんが誕生日に何か買ってくれるといったから、とりあえず無難なクレヨンって言っておくわけじゃない。でも、それが最後ああいう形になってきいてくる。うまいよね。

アカシア:最後は、あのクレヨンだったらきっとすごい絵がかけるから、「そしたら『楽しいな』って思ってね!」って、ニッキーが女の子に心の中で呼びかけるのね。そこも、いいんだな。

ペガサス:この話の冒頭だったら、そうならなかったのよね。3日間を過ごしたからこそ、というのが、うまいよね。

カーコ:短編って、起承転結の妙で読ませる感じで、人物の描写については長編のようには深く切りこんでこないように思うんだけど、ピアスはそのへんが細かく描かれているなと思いました。コルドンは、はぐらかされてしまう感じだった。

ペガサス:コルドンは、読者に投げかけているとは思うけど。

ももたろう:ピアスのほうが、作者の中でテ−マや素材を消化して作品を書いてるのかなあ。

アカシア:というより、ピアスとコルドンでは、アプローチの仕方とか現実の切り取り方が違うんだと思う。

(2002年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)