もぶしー:これは、『草ぶきの学校』っていう映画になって、日本でも上映されてますよね。私は、これまでアジアの文学をあまり読んでこなかったのですが、湿度を感じました。皮膚感が日本人に近いのかな。いろんなエピソードがあるけれど、人間が生きていく正直さがそのまま書かれていて、それがおもしろかった。キャラクターが書き分けられている児童文学が多い中で、いろんな人がたくさん描かれているのが印象的だった。あとがきにも「今の子どもをいかに感動させるか」と書いてあって、確かに文化がちがうのに、すとんと落ちてくるものも多く感じられたので、それが時代とか、国のちがいにもいえると思う。そこがうまく表現されている作品だった。

カーコ:私も中国の児童文学を読むのは初めてで、興味深々だったけど、ストーリーの太い流れがないからか、読み進みづらかった。よかったのは、風景の描写や動植物の記述。中国ってこんなふうなのかとおもしろかった。でも、途中でひと昔前の話だと気づいて、じゃあ、これが今の中国だなんて勘違いしたらいけないんだと考えさせられました。人物はそれぞれおもしろくて、人のとらえ方が、西欧の個人主義より日本に近い感じがしました。でも、このプロットの妙と無縁の淡々と書かれた世界を、日本の子どもが興味を持って読むかというと、ちょっと苦しいかもしれないと思いましたが。

紙魚:私も途中まで読みにくかったんですね。なかなか、物語を読み進める視点がつかめなくて。章ごとに、焦点のあたる人物がちがうので、サンサンの気持ちで読んでいく感じでもなかった。本のつくりも、物語の導入も、もうちょっと親切だったらよかったのになと思います。チンばばの話なんかは、とってもよかったです。それから、よくわからなかったのが、作者のあとがき。「永遠なるものを求めよ」「今の子どもをいかに感動させるか」って、前置きもなくいきなり書かれていて、さっぱり意味がわかりませんでした。中国の児童文学について何も知らないので、物語の背景などを書いてほしかったな。中国の児童書に詳しいウェンディさん、これってどういうことなんでしょう?

ウェンディ:私、中国ものは結構背景がわかってしまうので、背景がわからない日本人が読むとどうなんだろう、っていうのが、わからなくなっちゃってるんですけど……。この作家は、中国ではかなり評価されているんです。あとがきについては、私にとっては、ああなるほど、っていう感じなんですね。中国はこの1世代で時代がまるっきり変わったので、ひと世代前の苦労話を書いても、今の子にはわからないという議論に対して、時代を越えて共感できる普遍的なものを書いていこうという立場なんだと思います。中国の作品としてはヒットといっていいと思います。子どもが大人の恋愛を垣間見てしまうとか、家が没落しているいくさまだとか、そういう負の部分って、今でもタブー視されるところがあるんですよ。そういうものを子どもなりに垣間見て、受け止めながら、笑ったり悲しんだり恥をかいたり、そんな子ども像がリアリティをもって描かれることはなかなかないんです。作者の自伝的作品といわれてますが、そういうものを、肩に力を入れず書いているところは、画期的だと思います。

紙魚:この本、中国では、子どもたちに好まれて読まれてるんですか?

ウェンディ:大人が評価する児童文学という側面が強いかな。中国では賞を総ナメにしましたね。

アカシア:このあとがきも、原書そのままじゃなくて、日本人向けに、今のウェンディさんの説明のようなことを入れてくれたほうが親切でしたね。

ウェンディ:あと、気になったのは、中国の作品では、人名の漢字にそれぞれ意味があるので、その漢字を出すかカタカナにしちゃうかは、よく議論になるんですけど、この作品では漢字だったりカタカナだったり混在していて、どうしてかなあって。そういったところ、もう少し編集の手が入れば、もっとよくなると思うのに、ちょっと残念ですね。

もぶしー:こういう作品が出てから、中国の児童文学って変わってきてるんですか?

ウェンディ:むしろ、ファンタジーとか、「ハリー・ポッター」の世界的フィーバーの影響のほうが目立つかな。中国では児童文学を童話と小説とに分けていて、一言でいうと、非現実が描かれるのは童話で、童話はいかに荒唐無稽でもOK。小説はリアリズムでこれっぽっちも非現実があってはいけない——という伝統があったんですね。でもこのところ、ファンタジーを幻想小説と訳して、小説的な技法で書かれる非現実的な物語も試みられるようになってきました。あと、これまでの児童文学の「子どもを正しく導く」作品と違って、思春期からまだそれほど隔たっていない年代の作家による、子どもの心の葛藤だとかを描く作品も書かれて、評判になっていますね。

きょん:じつは途中までしか読んでないんですけど、まず、読み始めてすごく中国的だなと思いました。原文の二重否定とか反語表現などをそのまま訳しているので読みにくいんじゃないでしょうか。読み進めていく視点がつかめなかったという話がありましたが、心情的なものを入れず物事をたんたんと描写していくので、つかみづらいと思うんですね。でも、その続いていく描写からにじみ出るあたたかさのようなものが、この本のよいところなのでしょうね。描写が細かいという点で映画的なので、映画の方がわかりやすいかもしれない。あと、もう一つ中国的だと思う点が、人と人とのかかわり方です。子ども対大人、子ども対先生など、極端に言えば、権力者VS服従者という構図が、とても中国的だと思います。ただ、今の中国もそうなのかどうかちょっとわかりませんが……。絶対的権力を持つ先生というのを、今の子どもたちが読んだときに、お話の世界に入っていけるのかな、と疑問を持ちます。現代社会とのギャップがどうしてもありますよね。

アカシア:私も途中までなんだけど、最初『サンサン』ていう題なのに、ハゲツルという強いキャラクターが出てくるので、とまどいました。でも、途中から短編集として読めばいいのだということがわかってきた。日本や欧米とは、感情の書き方がちがうんだということがわかって、作者のペースにのってからは、割合すいすい読めますよね。せっかく志があるように思える出版社から出ているのだから、日本の子どもに手渡そうとする編集者の目も入れて本づくりをしてほしいなと思いました。クレジットに原題が入ってないのは、ミスかしら?

紙魚:この本て、私が小学生のときに手にとっていたら、中国の作家が書いたってことも、わからなかったかもしれない。作者の名前も漢字だから、「難しい漢字の名前だなあ」と思うくらいで。オビには説明があるけど図書館などでは取ってしまうので、カバー袖にちょっとでも物語を読むまえのヒントというかガイドみたいなものを書いてあげれば、もう少し親切だったんじゃないかしら。

アカシア:図書館で借りた子は、中国が舞台だってこともわからないかもしれないね。

ペガサス:不可解よね。

カーコ:私も、あとがきに戸惑いましたね。たとえば、「生存環境」って言葉が使ってあるのは「生活環境」かなとか、言葉もわかりにくくて。

きょん:直訳なのかしら?

アカシア:中国では、このままでも後書きとして成立するんでしょうけど、日本版は、もう少し工夫してほしかった。

ペガサス:一つ一つの文章がぷつんぷつんとして短いというのは、中国の特徴なのかしら。

ウェンディ:うーん、そういうわけでもないと思うんですけど、それは、あえて区切って訳しているからかもしれない。

ペガサス:かなりしっかりと読まないと入ってこない感じよね。おもしろいところだけ読もうと思ったけど、これ、斜め読みできない本ですね。最初の出だしは、ハゲツルの話でおもしろくて、引きこまれる。自分の大事な消しゴムなどを差し出してまで、ハゲツルの頭に触りたくて触りたくてたまらない、なんていうところは、今の日本の子どもたちになくなってしまった子どもらしさが出ているし、大人も怒るときには怒るというストレートな感情表現をしていて新鮮でした。それから、比喩が変わっているわよね。22ページの「サンサンは一個のナツメみたいだった。おいしいおいしいと食べられ、いまは役立たずの種になって地面にはきすてられている」なんていうのは、なかなか珍しい表現よね。

愁童:ぼくは、『第八森の子どもたち』(エルス・ぺルフロム/作 野坂悦子/訳 福音館書店)を読んだときと同じような歯がゆさを感じた。読者に伝えたいのは、過酷な生活の中にある今なのか、そういう時代を生き抜いて、遠い過去を振り返っている作者の感傷を込めた思いなのか。どちらの作品も、作中や後書きで、その場所を懐かしんでいるけど、そういう立場に立てなかった登場人物もたくさん書かれてるよね。そういう時代を今に繋ぐメッセージは何なんだろうって思った。子どもの読者は作者のように振り返る立場にないわけだし……。

:読みにくいところもあったけど、私はおもしろかったです。途中、一つずつ短編のように、サンサンの6年間を読んでいけばいいとわかってから、それぞれのキャラクターもおもしろく読めた。人と人との関わりは、淡々と書かれているからこそ伝わってくる作品。校長先生にしても、妙にけちけちしていたりするけど、自分がのしあがってきたときのことを大事にしてきたり、解放されていく様もよかった。チンばばもよかった。大地に足をつけてたくましく生きていく母の姿に重なった。さっき、過酷な状況が書かれてないって感想があったけど、子どもがどういう状況の中でも楽しいことを見つけ出す楽天性、力強さが感じられてよかったです。

(2003年01月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)