日本児童図書出版協会で出している月刊誌「こどもの本」に、2017年の5月号から2018年の4月号まで「子どもの本に見る新しい家族」というタイトルで、従来型ではない多様な家族を描いた子どもの本について連載していました。もう一度手を入れてから自分のウェブサイトに掲載しようと思ったのですが、コロナ禍で資料が置いてある東京にも戻れず、手を入れる時間もないので、とりあえず誤植や舌足らずのところだけを訂正し、基本的にはそのままこちらに転載します。


子どもの本に見る新しい家族③ 

親の離婚や再婚はどう描かれてきたか

 

絵本では

絵本でも、このテーマを扱ったすぐれた作品が何点か出ている。

『パパのカノジョは』表紙パパのカノジョは』(原著 1998/ジャニス・レヴィ作 クリス・モンロー絵 もん訳 岩崎書店 2002)は、アメリカの絵本。主人公の「あたし」は、父親が今つきあっているカノジョが最初は全然気に入らなくて、「すっごくカッコわるい」と思っている。それでも父親は、交際を娘に隠そうとせず、カノジョとピクニックに行く時もカノジョの家に食事に呼ばれた時も娘を連れていく。そのうち「あたし」の心境に変化が訪れ、パパのカノジョは

「あたしのはなしを テレビをけしてきいてくれる。ひみつはひみつにしといてくれる」

「あたしのものをガラクタっていわないし、かってにさわらない」

「あたしのきげんがわるいとき むりやり わらわそうとしたり、質問ぜめにしたりしない。そう、ただ しずかにしといてくれる」

と、評価を徐々に上げていく。そして、最後は、

「パパのカノジョの ほんとのなまえはエリザベス。いまんとこ、ちょっといいセンいってるかもね」

という言葉で終わる。「あたし」は、カノジョの名前をちゃんと出して客観的な評価ができるようになったのである。

『パパはジョニーっていうんだ』表紙スウェーデンの『パパはジョニーっていうんだ』(原著 2002/ボー・R. ホルムベルイ作 エヴァ・エリクソン絵 ひしきあきらこ訳 BL出版 2004)は、親の離婚で母親と暮らしている少年ティムが、父親と会う1日を描いているが、雰囲気はもう少し重たい。父親と母親の仲は悪いらしく、顔を合わせることなくティムを駅に置いていく。全体を通して絵が暗めの色調なのも、この絵本にさびしいトーンをあたえている。

ティムは久しぶりに父親と会えたのがうれしくて、ホットドッグ屋のおばさん、映画館のキップ切りのおじさんと、会う人ごとに、この人は自分のパパで、ジョニーという名前だと紹介する。やがて父親は、発車前の帰りの電車にティムを連れて入り、乗客たちに向かって声を張り上げる。

「この子は、ぼくの息子です。最高にいい息子です。ティムっていうんです!」

と。最後の場面には、言葉はついていない。絵には、楽しかった1日の思い出と、父親が去った駅でお迎えを待っていたさびしさの両方をかかえたティムの小さい肩に、母親がやさしく手をおいている後ろ姿が描かれている。

 

◆親の離婚に揺れる子ども、考える子ども

『カレンの日記』表紙次に、読み物を何点かとりあげる。アメリカの人気作家ジュディ・ブルームは、かなり早い時期に『カレンの日記』(原著 1972/長田敏子訳 偕成社 1977)を書いている。描かれるのは、けんかばかりしている両親に子どもが3人という家庭。カレンは12歳になる真ん中の娘で、秘密の日記に、自分の気持ちや家庭のことを書き綴っている。そのうち両親が別居すると聞いたカレンは、

「離婚なんて! まさか、離婚なんて、しないでしょ!」

と叫んで泣きだしてしまう。 カレンは不安になるが、友だちに話したくても、話すと恐れていることが現実になるような気がして話せない。両親の仲を元どおりにしたいと思って様々なことを試みるが、何をやってもうまくいかず、しまいには「べつにこの世の終わりじゃないんだから」(原題)とあきらめるしかない。これは、親を保護者としてではなく、ひとりひとりの人間として見ることができるようになっていく子どもの物語でもある。

アン・ファイン『ぎょろ目のジェラルド』表紙イギリスでは、アン・ファインが『ぎょろ目のジェラルド』(原著 1989/岡本浜江訳 講談社1991)を書いて、カーネギー賞とガーディアン賞をダブル受賞した。キティは、母親が再婚しようとする相手ジェラルドを最初は憎悪しているが、反核デモで母親が逮捕された後の対応からジェラルドに一目置くようになり、やがてけんかした母親とジエラルドを仲直りさせたりもする。

ドイツのペーター・ヘルトリングによる『屋根にのるレーナ』(原著 1993/上田真而子訳 偕成社 1997)は、レーナが、けんかばかりしている両親の注意をひきたくて、菜園のあずまやの屋根の上に危なっかしく立っている場面から始まる。

パプとマムがけんかしはじめると、どっちもおんなじほどいやになる。……どっちも好きでいたいのに、二人はそうさせてくれない

ヘルトリング『屋根にのるレーナ』表紙とレーナは思い、親友のリーケに、両親が離婚しそうだと打ち明ける。すると、すでに離婚した母親と暮らすリーケは、

「母さん、変わったもん。ともだちがいっぱいいるの、女のともだち。みんなでよぐあつまって、 一人で子どもを育てるのはどんなぐあいかって議論してる。弁護士さんや心理学者を招待することもあるわ」

と話してくれる。リーケの母親のまわりにはシングルマザーのコミュニティができていて、そこで助け合ったり考えたりしているのだ。

レーナが親友に悩みを話せる点、同じ状況の女たちが話し合う場がある点、そして子どもがただ嘆いたり悩んだりするのではなく、自分たちのことも考えろと裁判所でも親に要求する点が、これまでの作品とは違う点である。

ひこ・田中『お引越し』表紙日本では、松谷みよ子の「モモちゃんとアカネちゃん」シリーズが、親の離婚を早くに扱ったすぐれた作品として挙げられるが、ひこ・田中の『お引越し』(福武書店 1990、福音館書店 2013)は、小学6年生のレンコが、両親の離婚前提の別居と向き合う姿を描いている。物語の冒頭で、父親の荷物を引っ越し先に運ぶトラックの荷台でレンコが知人のワコさんとおしゃべりをする。関西弁でのはずむような会話が続くこともあり、表向きはレンコが悩んだり落ち込んだりしている様子は感じられない。わざと明るくふるまっているのだろう。それでも内心は揺れていることが伝わってくる。レンコにとって、もちろん親の離婚がショックでないわけはなく、ひとりでいるときには、こんなふうにも考える。

「父親っていうのがいない生活」ってかあさんから言われると、おふとんを急にはがされたみたくで、私一人だけパンツがもうはけなくなったみたくで、ガッコから帰ってきたら私の部屋がなくなってたみたくで、百点のつもりが零点だったみたくで、寒かった。

この作品では、母親とレンコが二人の暮らしをどうやっていくかを親子で相談して決めている。それが堅苦しくなったり、妙に深刻になったりしないのは、テンポのよい会話によるところも大きいだろう。

 

◆親の再婚をめぐる物語

『バイバイわたしのおうち』表紙イギリスの人気作家ジャクリーン・ウィルソンの『バイバイわたしのおうち』(原著 1992/小竹由美子訳 偕成社 2000)は、10歳の少女アンデイーが主人公。両親は離婚してそれぞれ再婚している。アンディーはスーツケース一つを抱えて1週間ごとに母親の家庭、父親の家庭を渡り歩かなくてはならないうえ、親の再婚相手だけでなく、その連れ子たちとも折り合っていかなくてはならない。両親ともアンディーを愛していると口では言いながら、日々の暮らしに追われて娘の窮状を深く考えることがないダメ親である。

ウィルソンが多くの作品で取り上げる家庭の状況はシリアスだが(たとえば、ゴミ箱に捨てられていた子ども、孤児院でだれかが引き取ってくれるのを待っている子ども、精神的に不安定な親をもつ子ども、など)、ストーリーテラーとしての手腕と、抜群のユーモアのセンスによって子どもの読者を魅了し、ベストセラー作家になっている。またこの作品には、親以上にアンディーのことを親身になって考えてくれる老夫婦ピーターズさんが登場する。血のつながった親ができない子どもの心の居場所作りを、他人であるピーターズさんがやってくれる点にも注目しておきたい。

ウルフ・スタルク『シロクマたちのダンス』表紙スウェーデンのウルフ・スタルクの『シロクマたちのダンス』(原著 1986/菱木晃子訳 佑学社 1994、偕成社 1994)では、家族が集まってクリスマスのお祝いをしている時に、母親が別の男性の子どもをお腹に宿していることがバレて、楽しいひとときが暗転する。ひとり息子のラッセは母親と暮らすことになるが、母親の再婚相手は歯医者のトシュテンソンで、ラッセより年上の娘がいる。トシュテンソンは、ラッセを品行方正な優等生にしてみせると意気込み、ラッセはメガネをつくってもらい、きちんとした服を買ってもらい、ヘアスタイルも整えてもらう。学校の成績も上がってくる。ラッセも最初は、晴れがましい気持ちになったりもする。しかしトシュテンソンが「自然界は戦場だ。強い者にだけチャンスがある。他人を負かした者しか生きのこれない」と考えている人物だということを、ラッセは間もなく見抜く。そしてトシュテンソン好みのラッセは自分ではないと思うようになる。そこで決意して書き置きを残す。

「ぼくはとうさんのところへ引っ越します。(中略)ぼくは、ぼく以外のだれにもなれないということなのです。そして自分がだれなのかは、自分で見つけなければいけないのです」

スタルクは、親の離婚や再婚について非難がましいことは書かない。世界一離婚が多いというスウェーデンの事情もあるのか、それはそれで致し方のないことだとして、次の段階をどう踏み出したらいいかを子どもに寄り添って考えている。ラッセは母親のことも父親のことも大好きなのだが、もとのさやにおさめようとは最初から思わない。母親のもとを去る決心をしたラッセは

かあさんの手をぎゅっとにぎりかえした。かあさんのことが大好きで、すべてのことが悲しいという気持ちをつたえたくて。

そして最後の文章はこうなっている。

車はゆっくりとソッケン通りをいき、それから南へむかう。
ぼくはとうさんの右腕を首にからませてすわっている。
ぼくたちはおしだまったまま、車を走らせる。
どこへいくかは、とうさんもぼくも知らない。

ラッセと、無口で不器用でシロクマのようなお父さんは、この先どうなるかは確信がもてないながらも、静かに再会の喜びを味わっているのだ。

(日本児童図書出版協会「こどもの本」2017年7月号掲載)