月: 2000年11月

2000年11月 テーマ:少女の成長物語(その1)

日付 2000年11月9日
参加者 ウンポコ、ウォンバット、すあま、オカリナ、アサギ、モモンガ
テーマ 少女の成長物語(その1)

読んだ本:

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シャロン・クリーチ『赤い鳥を追って』

赤い鳥を追って

ウンポコ:これは、おもしろかった! 先週、ある受賞式があったんだけどね、そこで作家から売りこみがいっぱいあったの。それで、今週になって持ちこみ原稿がたくさん届いたから、読んでるんだけど、あまりおもしろくないんだな。どうしておもしろくないのか。それは、「コト」は描くけど、「人」は描いてないからなんだと思う。ストーリーを追いすぎてるの。だから人物像が見えてこない。それでは、文学じゃない。いっぽう、この『赤い鳥を追って』は、「人」がよく描けてる。だから魅力的なの。ネイト伯父、ジェシー伯母、自分の心とは裏腹なことをしてしまう主人公ジニー、そしてジニーにアプローチしてくるおかしな若者ジェイク・ブーン。みんな、よく描けているよね。お父さんについては、やや不足ぎみ。もう少し描きこんでほしかった。ちょい役のお店のおばさんなんかもまた、いいんだな。人物像がしっかりしてて、雰囲気がとってもよく出てる。だからこそ、読後しっかりした手応えが残るんだ。ちょっとした会話もうまくて、映画を見てるみたいな気持ちになったよ。「パッパラッパ、パラッパパ」って踊る場面なんて、映像が目にうかぶ。

ウォンバット:えー、そう? 私は「パッパラッパ」と「みんなをあっといわせよう!」が、ピンとこなかった。今日、風邪で休んでるネムリネズミさんにそう訴えたら、Boogie Woogie Bugle Boyの曲を知ってれば、わかると思うよって言われたんだけど。とても調子のいい、楽しい雰囲気の曲だからって。でも「みんなをあっといわせよう!」って、日本語としては、どうも調子がよくなくて、景気づけって感じがしなかったの。これが、もっとぴたっとくる、すてきなセリフだったら、きらっと光る印象的な場面になって、もっとよかったと思うんだけどな。

ウンポコ:たしかに。「パッパラッパ」の場面はいいけど、「みんなをあっといわせよう!」って台詞は、ばちっとはまってるとはいえないね。あ、そうそう、p279で、ジェイクが「まいった!」っていうんだけど、これも、違和感なかった? ニュアンスが、ちょっと違うんじゃないかな。もっとしっくりくる言葉がありそうだぞ。とまあ、いろいろ気になるところはあるけど、全体的には新鮮だったな。舞台設定も魅力的だしね。トレイルとかさ、リアリティもあるし。13歳の子がひとりでテントで過ごすなんて、現実にはちょっと無理っぽいんだけど。いっやー、最近読んだ英文学のなかでは、ダントツの高得点!

モモンガ:前作『めぐりめぐる月』(もきかずこ訳 講談社)もよかったけど、この作品のほうがもっと好き。登場人物は多いんだけど、ぜんぜんこんがらがったりしない。ジニーにとって、この人はどうっていうふうに、一人称で書いてあるから、人物像も人間関係もとってもよくわかる。ただ、オビのキャッチコピーは「自分の存在意味をトレイル復活にかけた少女の葛藤」とうたってるんだけど、「トレイル=自分さがし」というふうにはつながってないと思う。話は少しずれるけど、最近友人がまだ幼い子どもを突然なくすという不幸があって、そのすぐあとにこの本を読んだので、伯父さん伯母さんの、子をなくした親の気持ちが、生々しく迫ってきちゃってね。シャロン・クリーチも、そういう体験をした人が身近にいたかどうかわからないけど・・・。これ、ジニーが、ローズとジェシー伯母の死をどうやって受け入れるか、納得するか、という物語だとも考えることができて、とっても深い話なのよね。だから「自分さがし」とか、そんなことだけをことさらアピールしなくてもいいと思う。それと、ジニーが「何かしなくちゃ」と思っているというのは、わかるんだけど、なぜトレイルを掘るのかっていうのが、いまひとつよくわからなかった。

ウンポコ:そういえば、ネイト伯父が恋人をさがしにいくのって・・・。

オカリナ:そんなはずないと思うなあ。あれほど伯母さんを愛してるんだから、伯父さんは。妄想まで見たりして。そんな男が、別の女に会いにいくはずないじゃない。なのに、まわりが、伯父さんは浮気してるのかもなんて思うのは、不自然。伯父さんのようすを見てれば、そんなことするわけないってわかるはず。人物像がくっきりしてるのに、これはちょっと残念だった。

ウォンバット:私は、伯父さんとお父さんって兄弟のはずなのに、よそよそしいのが気になった。年の離れた兄弟だったのかな。ネイト伯父って、ずいぶん年寄りっぽい感じだし。それに、伯父さんの家のしつらえが、現代とは思えなかったんだけど……。でも、田舎だからこれでいいの?

オカリナ:アメリカも、田舎では普通だよ、こういうの。たしかにずいぶん昔っぽい感じだけど、こんなふうにしてる人、今でもいっぱいいるんじゃない?

アサギ:アメリカって、都市と田舎のギャップが大きいから。ドイツやイタリアは、小さな都市国家が集まって、ひとつの国になったから、どんなに田舎に行ってもちゃんと「街」として、機能していたという歴史があるのね。だから、人口5000人くらいの、日本の感覚でいったら「村」って感じのところでも、誇りをもって「市」っていうのよ。その点、アメリカは、ちょっと違う。アメリカの田舎だったら、今でもこんな感じのところ、たくさんあると思うわ。映画でも、田舎を舞台にしてる作品には、こういう暮らし、出てくるでしょ。

ウォンバット:たしかに。

モモンガ:最初の場面、伯母さんの台所にかざってある壁かけが出てくるんだけど、私ははじめ、なんのことだかよくわからなかったの。「オーブンの上にかけられてる」って、火にかけられてるっていう意味かと思っちゃったのよ。しばらくしてから、ようやく「あっ、これはサンプラーか」と、気づいたんだけどね。

アサギ:なあに、サンプラーって?

オカリナ:刺繍の練習をするためのお手本のこと。ABCとか、お花の絵なんかが多いのよね。クロスステッチの練習とかさ。これは、絵と格言みたいなのがいっしょになったパターンね。私は、たまたますぐサンプラーだと思っちゃったから、引っかからなかったけど。

ウンポコ:そう? ぼくは、わからなかったなあ。じつは、それで挫折しそうになったの。でも、ちょっと辛抱したら、おもしろくなったからね。そんなに苦労せずに、最初のハードルは越えられた。

オカリナ:私が気になった、というか不自然だと思ったのは、次の3点なの。(1)ウンポコさんも言ってた、ジェイクの「まいった!」発言(いまいちしっくりこず)。(2)ネイト伯父の浮気疑惑(前出)。(3)ジェイクが、あれほど愛情を表現してるのに、まだ疑うジニー。

モモンガ:ジニーって、かわいくない子なのよね。

オカリナ:うん。ねじくれてる。

モモンガ:意固地なヤな子。それまで、さんざん痛い目にあってるからね。私は、ジニーのそういうところは理解できた。「おとなしい」っていうより、自分をもちすぎてて、理解してくれなくてもいいわって感じ。複雑だけど、ありがちよね。でも、このあとがきは、ちょっとこじつけじゃない? ジニーのおかれている状況は、今の日本の子どもたちにも通じるものがあるっていうところ。「めぐまれた環境ではあるけれども、さまざまなものが飽和状態に達していて、何をいおうと何をしようと、すでにだれかが口にし、やってしまったことばかり」といわれてもねぇ……。イマイチ無理がある。あと「トレイルは、ジニーが自分の存在を確かめるための手段」っていうのも……。

オカリナ:自分だけの何かが必要っていうことは、わかるけどね。

ウンポコ:訳も、ちょっと乱暴なところがあるよね。でも、それだけじゃないのかな。原書自体、もう少し整理したほうがよかったかも。

オカリナ:ネイト伯父の浮気疑惑のあたり、原文はどうなってるんだろう? あそこが、どうもひっかかるのよね。おさまりが、悪いんだな。ジグソーパズルのピースが、ぴたっとはまりきってない。

ウンポコ:あきっぽいぼくが、最後まで読めたのは、トレイルの魅力だと思うな。舞台セットがすてきだからね。

モモンガ:「道」って、なにか象徴的な意味があるんじゃないの?

オカリナ:『空へつづく神話』(富安陽子著 偕成社)も、こんなふうにやってくれればよかったのにね。重層的な感じがなかったからね、あの作品は。

モモンガ:この作品は、小道具が活きてるわね。ひきだしとか、エプロンとか。

オカリナ:どきっとしちゃうよね。イメージがうかびあがってきて。メダルもね。

ウンポコ:うん、うまいよね。

モモンガ:ほんと。

ウンポコ:シャロン・クリーチは、これから注目の人だね。ストーリーテラーとして、なかなかスゴイぞ!

モモンガ:ぜんぜん退屈しないものね。1章が短いし。うまく緩急つけてる。

アサギ:それにしても、一人称小説って年々増えてるわね。全世界的に。「わたし」or「ぼく」が語る物語の増加率って、ものすごいパーセンテージだと思うわ。

すあま:世界的に、みんなジコチューの傾向にあるのかな。

ウンポコ:一人称のほうが、気持ちを主人公に重ねやすいんじゃない?

アサギ:技法としては、一人称のほうが楽よね。だって、自分の視界の範囲、今、主人公が見えてる範囲内で描写すればいいわけだから。

オカリナ:うーん。でも、一人称の小説は、わき役の人物像をうかびがらせるのが、むずかしいんじゃない? テクニックが必要だと思うなあ。

モモンガ:たしかにこの作品も、会話よりも、ジニーの言葉で書いてある地の文のほうが印象に残るわね。

オカリナ:どうかな。でも、それって翻訳の問題かもよ。日本の小説だって、そういうとこは、むずかしいと思うわ。訳といえば、「ネイト伯父」「ジェシー伯母」っていういい方、古くさくない? ちょっと気になったんだけど。

モモンガ:あ、私も感じた! それ。

アサギ:昔だったら、「○○伯父」「○○伯母」っていうの、よくあったけどね。

ウンポコ:でもさ、ジニーはおマセさんだよね。日本の13歳より、2〜3歳は年上の感じ。

アサギ:精神年齢がちがうからね。日本の子どもとは。

ウンポコ:「いつキスされてもいいように、くちびるをしめらせた」なんてとこを読むと、ドキッとしちゃうよ。

オカリナ:それってさ 、日本の子どもと比べてじゃなくて、ウンポコさんの若かったころとは違うってだけじゃないの?

(2000年11月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


カレン・クシュマン『金鉱町のルーシー』

金鉱町のルーシー

モモンガ:カレン・クシュマンの前作『アリスの見習い物語』(柳井薫訳 あすなろ書房)も、好感のもてる作品だったけど、今回もまたよかったわ。前作は時代設定がとても古かったけど、この作品はゴールドラッシュで、もうちょっと新しいから、時代背景も理解しやすかった。母と娘の関係がユニークね。なんていっても、お母さんの個性が強烈! ルーシー本人は、静かに本を読んでいるのが好きっていうおとなしいタイプの子でしょ。だから、お母さんのほうが前面に出てて、印象深かった。少女の成長を描いた物語って、今いるところから出ていくっていうのが多いでしょ。でも、これは逆パターン。あんなに東部に帰るためにがんばっていたけど、最後はカリフォルニアにとどまることを選択する。この選択がたのもしい! 結末が図書館をつくるというのは、ちょっとハマリすぎの感もあるけど……。

すあま:図書館員にとってはうれしいところ。評価のポイントがピピピッとあがっちゃう。

アサギ:私もおもしろかったわ。ノンフィクション的なおもしろさ。ルーシーの生活ぶりが興味深かった。切り傷にクモの巣と黒砂糖の混ぜたものをあてるとか、食べすぎのときは、砂糖を入れたトウヒの煎じ薬を飲ませるとか、料理の仕方、ほら、あの干しリンゴのパイとかね。ゴールドラッシュのころって、こんな感じだったのかな、と思った。でもね、最後まですーっと読んだし、いい作品だと思うけど、ものすごーくおもしろいというわけではなかったの。「おもしろい」というより、「興味深い」と言うべきなのかしら。惜しいと思ったのは、ユーモアが活きてないこと。さらっとした訳だからかな、とも思うんだけど。たとえばね、買ったスイカがとても重くて、運ぶのがたいへんという場面で「すいかに取っ手をつけなかったのは神様の失敗だと思った」とか、森の中で暮らしてる野性児のようなリジーのことを「首の垢にジャガイモが植えられるほど汚い」とか、おもしろい言い回しはそこここにあるの。でも、それが「気がきいてるぅ!」っていう、しゃれた表現には感じられなかったのよね。せっかくの、ユーモラスなところが、目立たなくなっちゃってる。それがちょっと残念ね。あと、クーガンさんは、ほんとにガラガラヘビのジェイクだったの?

オカリナ:どうかな? ほんとのところどうだったのかは、書いてないんじゃない?

アサギ:それと、ルーシーとリジーが、泥だらけでふらついてるインディアンの女の子に遭遇する場面で、生理の話をするでしょ。リジーは「生理中の女がさわるとミルクがだめになる」って言うんだけど、それって、魔女に対して言われてることと同じじゃない? 生理中の女と魔女って、リンクしてるんじゃないかと思うんだけど。穢れてるってことかしらね。近づいてはいけない存在っていうか・・・。私は、いずれにしても、こういう生活ぶりはおもしろいと思ったけど、強烈にひきつけられるというものは、なかったな。

オカリナ:淡々としてるからね。

アサギ:ねえ、いつ気づいた? ルーシーがラッキーディギンズに残ることに。

モモンガ:私、最後まで気づかなかった。

アサギ:あ、よかった。仲間がいたわ。私も最後まで気づかなかったの! だから、ラストは意外性があって、とってもよかったのよ。途中はあんまりインパクトがなかったから、なおさらね。私は映画でもなんでも、いつも最後まで気がつかなくて、作者の思惑どおりにびっくりしちゃうタチなもので、みなさんはどうだったのかなと思ってたのよ。

モモンガ:最後が印象的よね。途中こまかいことは、あんまりよくおぼえてなくても、この結末だけは、心に強く残っているもの。

アサギ:だけど、すごいわね。15歳の女の子がこういう状況で母と離れ、自分の道を選び、ひとりで歩いていこうというんだから。現代の日本の15歳とは、ぜんぜん違うのよね。

ウォンバット:ルーシーをはじめ、登場人物がみんなたくましい! バイタリティにあふれてて、悲惨な状況にもメゲないんだな。弟の死とか、悲しい出来事もあるけれど、悲しいときにはさめざめと泣いて気持ちを落ち着けて、明日はまた新たな気持ちで立ち向かおう! という姿勢が、なんてったって好き。やっぱり、いつも前向きでいなくちゃねという気持ちにさせられた。あと、忘れられないのは、助け合いの精神と荒くれ男の人情味あふれるやさしさ。お母さんたちがサンドイッチ諸島に渡るお金が足りないっていうとき、ひげのジミーがこっそり自分の金歯をさしだすところと、火事で本をなくして悲しんでるルーシーに、ミズーリから『アイヴァンホー』が届く場面ではうるうるしちゃったな。

モモンガ:あ、そうそう! 思い出した! このあいだ、この本の原書を見る機会があったの。クシュマンの第1作Catherine, Called Birdy(未邦訳)とTheMidwife’s Apprentice(『アリスの見習い物語』)、そしてThe Balladof Lucy Whipple(『金鉱町のルーシー』)、3冊一緒に。どれも表紙は女の子の絵なんだけど、とても印象的だった。3冊とも、強い意志が感じられる表情をしてるのよ。ちょっと鬼気せまる感じで、こわいくらい。笑ったりしてなくて。The Ballad of Lucy Whippleは、スッと正面を見すえてる女の子の絵なんだけどね。3冊並べてみるととっても迫力があって、「歴史モノ!」って感じなの。原書とくらべると、日本版は同じ本とは思えない雰囲気。印象がぜんぜん違う。

アサギ:そういえば、翻訳もので、原書の絵をそのまま使うことってあまりないわね。どうしてかしら。テイストが違うから?

オカリナ:うーん。そうはいっても、半分くらいは使ってるんじゃないかしら。ドイツものは特にテイストが違う場合が多くて、あんまり使ってないかもしれないけどね。

アサギ:そう言われてみれば、そうかも。中学生以上とか、読者の対象年齢が高いものは、けっこう使ってるかもしれないわね。もっと小さい子向け、小学校低学年向けのものなんかは、あんまり使ってないと思うけど。

オカリナ:それに、原書の絵を使うとなると、テキストとはまた別に、版権料を払わなくちゃいけなくなるでしょ。だったら、日本人に合ったものを、あらたに描きおこしてもらったほうがいいって考え方なのかもね。

アサギ:この本、読者対象は、どのくらいに設定してるのかしら?

ウォンバット:中学生以上って感じかな。

すあま:私は、この本も『アリスの見習い物語』も、人にすすめられて読んだのね。すすめられなければ、たぶん読まなかったと思うんだけど、読んでよかった。おもしろかったから! お母さん、ほんと強烈。日々の暮らしはたいへんだし、弟の死とか、シビアな面もきちんと描かれているんだけど、ユーモアがあるから楽しく読めた。母娘のやりとりも笑える感じ。ルーシーは東部にもどるためにお金をためてるんだけど、貧乏くさくなくて、よかった。そんなの、まじめに書いてあったら「おしん」みたいで、つまんないとこなんだけど。でも、おもしろく書いてあるからね、これは。終わり方も、ヨシッ! 主人公に素直に共感できた。本の好きなひとりの女の子として、ついていける。図書館関係者としては、数少ない本をみんなで大事に読むところ、1冊の本が、いろいろな人をめぐりめぐって、またちゃんとルーシーのもとに返ってくるところが、とりわけうれしい。ほらね、アメリカでは、もうこの時代から図書館がちゃんと機能してたんだからねって、いばりたい気持ち。でも、そういうこと言いはじめると、日本と比べちゃってねぇ・・・。ちょっと気持ちにダーク入ってきちゃうんだけど。それにしても、このお母さん、めちゃくちゃだよね。ルーシーは、親のエゴでこんなところまで連れてこられちゃってるわけでしょ。ほんとは静かに本を読んでいたい娘に向かって、「はい、ライフル」って狩りを強要する母だもんねぇ。第一、子どもの名前に「カリフォルニア」なんてつけるかね、普通? そして、それが気にいらないからって、自分で勝手に名前を変えちゃう娘のキャラクターもいい。そういうところも共感できるのが、いいよね。ストーリーはとってもいいと思うんだけど、難をあげれば、見た目とタイトルが、ちょっとね・・・。

モモンガ:このタイトル、「金鉱町」っていう文字が、なんとも硬い感じなのよね。

すあま:この本がポンッと図書館の棚においてあっても、中学生は手にとらないと思う。だから、こういう本こそ、書評なんかで紹介されるべきなのよ! 内容がわかれば、おもしろそうと思って手をのばす子もいるでしょ。ほっといても売れる本は、何もしなくたって売れるんだから、書評で紹介する必要なんてないの。ほんとは。ゴールドラッシュの雰囲気もよくわかるし、それこそ「大草原の小さな家」シリーズとあわせて紹介するのもいいかも。『アリスの見習い物語』は、もうちょっとおとなしい感じだったよね。あれはあれで、また違った雰囲気でおもしろかった。ま、それはおいといて、私が主張したいのは、この本、装丁と内容が合ってないってこと。タイトルもイマイチ。読んでみたら、この表紙から受けた印象とはまったく違ってて、いい意味で裏切られたかって感じでよかったけど、本としては損だよね。

モモンガ:「この女の子、だれ?」って感じよね。ルーシーにしては、幼すぎるでしょ。

オカリナ:「意志をもって生きていこうとする女の子」っていうのが、この作品のいいところであり、読者を獲得しやすいところだと思うんだけど、この表紙では、それが伝わってこない。

すあま:この絵だと、東部に帰るために自力でなんとかしようと奮闘する女の子っていうより、「帰りたーい」とかいって、めそめそしそうな女の子に見えちゃう。

アサギ:可憐な感じ。きれいな絵だと思うだけど、内容を考えるとちょっとね・・・。

すあま:いい絵だけど、この話には合ってない。

ウンポコ:タイトルの「金鉱町」というのも、ちょっとイメージがうかびにくいんだよな。

すあま:こういう「もったいない」っていうか「惜しい」本って、いっぱいあるよね。そういう本を前にすると、つくった人間は、ほんとに売る気があるのかぁ?! ってききたくなっちゃう。こんなんで、子どもにアピールするつもりがあるのだろーか。

モモンガ:私は、この本も『アリスの見習い物語』も、自分のなかでは「女の子が、自分にあった仕事をさがしていく物語」と位置づけているの。ゴールドラッシュだから「金鉱町」にしたんだろうけど、「金鉱町」なんて、今の日本の子どもたちには、なじみがないと思うんだけど。

アサギ:ちょっと遠すぎる世界。

オカリナ:今の児童書をめぐる状況って厳しくて、せっかくのいい作品も初版4000部作って、それが売りきれなかったら、 すぐに絶版になっちゃったりするじゃない。それじゃ、もったいないと思うのよね。この本も「今年のよい本2000年版」なんかには、きっと選ばれると思うけど、息長く読みつがれていくかどうかは、ちょっと疑問。あとね、逃亡奴隷が出てくるでしょ。私は「カラード」っていう言葉に、ひっかかったの。アメリカでは、黒人の呼び方に歴史的な変遷があって、ニグロ→カラード→ブラック→アフロ・アメリカン→アフリカン・アメリカンって変わってきてるんだけど、「カラード」というと、奴隷だったということが、うまく伝わらないんじゃないかと思う。南アフリカでは、黒人と白人のハーフやインド・パキスタン系の人のことを「カラード」というんだけど、アメリカでは混血じゃなくてもカラードって言ってたからね。

モモンガ:今、アメリカでは、「カラード」って言葉は使わないの?

オカリナ:あんまり聞かない。皮膚の色だけを、具体的に示す場合には使うこともあるだろうけど、それ以外では、使うことないんじゃないかな。

モモンガ:アジア系の人もふくめて、白人じゃない人はみんなカラードなのかと思ってた、私。

オカリナ:今は、とにかくアメリカ人は全員「アメリカン」でしょ。皮膚の色などにこだわるな、っていう気持ちもこめられてると思うけど。それにしても、「カラード」っていう言葉、子どもには、わかりにくいよね。

アサギ:「ニグロ」っていうと、差別的なひびきがあるでしょ。ドイツでは「ネーガー」っていうけど、そこに差別的な意味があるとは思えない。

オカリナ:ニグロにしてもネーガーにしても、元の意味は「黒」だから、それ自体は差別じゃないんだけど、歴史的にその言葉がどう使われてきたかで、いろいろな意味が付け加えられてしまうのよね。黒人が身近にいる国と、そうじゃない国の違いもあると思うし。

アサギ:日本も身近ではない国だけど、なんて呼んでるかしらね、最近は。

ウォンバット:アフリカ系にしても、アジア系にしても、必要がないときはわざわざ書かないようにしてるんじゃない? 新聞なんかでは。中国系だったら名前でわかることもあるけど、そうでもなければ、顔写真をみてはじめて人種を知るっていうこともあるよね。山田詠美は、たしか「アフリカ系アメリカ人」を使ってたと思うけど。

アサギ:でも、文学辞典なんかで、人種をテーマにして書いている作家なんかの場合には、その人の肌の色とか人種の情報も重要なんじゃない?

オカリナ:そういう場合は、解説のなかで、わかるようにしてるんじゃないかな。名前のすぐあとに「黒人作家」なんていうふうには、書かないようになってきてるということだと思うんだけど。
私は、この作品、最初はてれてれしてるなぁと思ったのね。それが、火事が起きるあたりからぐぅっと引きこまれていって、最後は「こうくるかっ?!」と思った。歴史小説だから、アメリカの子どもだったら、きっとおもしろがるだろうね。日本の子どもには、あんまり身近に感じられないだろうけど。日本の作家も書いてほしいな、こういう歴史ものを。日本では、古い時代のものだと、女の人って一歩うしろにさがった存在として描かれることが多いでしょ。そうじゃない女の人って、大人の小説には出てくるけど、子どもの本にはまだあんまり登場してない。それとも、私が知らないだけかな。おもしろいと思うんだけどな、日本版のこういう話。だれか書いてくれないかしら。

モモンガ:私、NHKの朝の連ドラって、けっこう好きなの。とくに、大正から昭和初期の少女の自立もの。時代的に女の人にとっていろいろ障害が多いから、ドラマチックになりやすいのね。それをはねのけて生きぬいていくっていう話、とってもおもしろいと思うんだけど。そのあたり、子ども向けの本で、だれか描いてくれる人、いないかしらね。

ウンポコ:そうだなぁ、いそうだけどね、だれか。今、思いうかばないな。ところで、魅力的なタイトルをつけるっていうのも、大事なことだよね。ぼくは、「タイトラー」っていう職業があってもいいと思ってるの。だって、表紙まわりだって、昔は編集者がやってたのに、今はデザイナーにたのむでしょ。コピーライターっていう職業もあるしさ。編集者は作品に近づきすぎちゃって、客観的にみられなくなりがちなんだ。タイトルを決めるときって、著者、編集、営業もいれて会議をして、さんざん考えて決定する社もあるそうだ。10年くらいまえ、読者である中学生に選んでもらったこともあったけれど、採用しなかった。英語をそのままカタカナにした題が中学生にはウケがよかったんだけど、当時はまだ、原題そのまんまっていうのに抵抗があって、ふみきれなかったんだよね。タイトルとか、オビにいれる言葉とか考えるの、上手な人がいたら、お金払ってもいい。だれかやらない? すあまさん、どうかな?

すあま:そうですねぇ・・・。(気乗りしない様子)

オカリナ:この読書会でも、タイトルつけなおしっていうの、やったら? 「今月のリタイトル本」とか、「今月の売る気があるのか本」とか・・・。せっかく内容がいいのに、タイトルや装丁で損してる本って、たくさんあるから。

モモンガ:書名にカタカナの人名が入ってると売れないとか、いうよね。

ウンポコ:そうかい?

モモンガ:あれ? 図書館員だけ? そういってるのは。

ウンポコ:「ん」が入ってると売れるって、いうのもあるよ。ほら、「アンパンマン」なんて、「ん」が3つも入ってる。

オカリナ:カタカナの書名はだめっていうのも、ない?

アサギ:一時期、長いタイトルが流行ったこと、あったわね。そういえば、この本の章タイトルも、ひとつひとつが長くておもしろいわね。ドイツに多いパターン。ドイツ人って、好きよね、こういうの。

ウンポコ:あ、そうなんだ! ドイツに多いの? 斉藤洋がよくやってるのは、だからだったのか。

オカリナ:装丁のことで言えば、目次の次のページ、人物紹介なんだけど、なんだかここだけ浮いてない?

モモンガ:ゴシックで太い書体だから、黒々してるのよね。

オカリナ:ほかはいいのに、なんだかここだけ妙に素人っぽい作り方。どうしちゃったんだろう? ハリ・ポタに負けないくらいここは素人っぽいな。

(2000年11月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)