月: 2013年2月

2013年02月 テーマ:最近気になる本

日付 2013年2月26日
参加者 アカザ、紙魚、きゃべつ、ジャベーリ、関サバ子、ハリネズミ、レジーナ、プルメリア、ルパン
テーマ 最近気になる本

読んだ本:

(さらに…)

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オクサ・ポロック1 希望の星

レジーナ:フォルダンゴの独特な言葉づかいは、慣れるのに時間がかかりました。フォルダンゴのせりふではない部分に関しても、いくつか気になりました。たとえば350ページの「半透明のひげ」というのは、白髪まじりということでしょうか。444ページの「髪の垢」も、「フケ」と書くのが一般的な気がします。登場人物の描き方については、47ページに「恐れおののいた。でも興奮でどきどきしていた」とありますが、イメージがしづらかったです。物語全体を通して、感情の描写をもっと細やかに描いてほしかったです。また85ページに「奇妙な先生の授業」とありましたが、先生という人物が奇妙なのではなく、先生が何事もなかったかのようにふるまったのが気味が悪いということなので、もう少し表現に工夫が要るかもしれません。長さのわりには、あっという間に読みましたが。

関サバ子:まず、残念ながら、設定についていけませんでした。いきなり、変な生き物たちが出てきて、それについてなんの説明もありません。おばあさんが不思議な力を持っていることになっているけれど、それが説明になっているのか……。主人公のオクサも、忍者が好きで、空手を習っている女の子という設定で、日本でも変人扱いされておかしくないキャラクターです。ただ設定だけがあって、有機的につながっている感じがしなかったのです。そういったところは驚いてしまいましたが、制服の描写など、趣味性のところは盛り上げてくれる雰囲気があって、よかったです。あと、ネーミングがとにかく変わっていますね。炭素組とか……。フランス語だときれいな響きだったり、おもしろかったりするんでしょうか。

ルパン:私の娘が今高校生ですが、一年のときはF組で、「フッ素組」でした。となりはC組で、これは炭素組。6組あるけれど、組名がぜんぶ元素記号なんです。だから、本の中に炭素組が出てきたときはびっくりしました。私はこの本は途中で挫折しそうになったのですが、ちょうどそのとき「本は最後まで読まなければ」とレジーナさんに言われたので、奮起して読み続けました。ただ、読んでいて分からなかったのは、この翻訳者は、どのくらいの子を対象にこの本を訳したのだろうということです。文体がおかしいし。「戦いで応酬することにした」など、とても13歳の女の子に思えない発想ですよね。話し言葉もすべて固い印象だし。大人の言葉も子どもの言葉も同じに訳されているからとっても不自然です。わざとらしく変に古めかしい喋り方をしているフォルダンゴの台詞が、かえっていちばん活きている気がします。

ジャベーリ:フランス語は、知的レベルが高い文章ほど名詞構文を好む傾向があります。それを日本語として、こなれた文章に訳すのは難しいですね。

ルパン:物語としてみても、ハリー・ポッターに類似するところが多々あって、二番煎じの感が否めません。最初からキャラクターがたくさん出てくるので、訳がわからなかったし。あと、せっかくフランスのファンタジーなんだから、舞台はやっぱりフランスがよかったですねえ。

アカザ:読むのにとても苦労したので、正直いって作品を楽しむまでにはいたりませんでした。作品自体と翻訳の両方に読みにくい原因があると思うんですね。作品自体の問題としては、普通は登場人物が初めて出てくるときに、どんな見かけの、どんな感じの人なのか説明があると思うんですが(特に子どもの本の場合)、この本ではだいぶたってから説明している。たとえば主人公のお母さんも最初から登場するのに、p104になって初めて姿かたちの説明が出てくる。読者としては、それまでに自分なりのイメージを作って読んでいるから、「えーっ、こういう感じの人なの!」って、受け入れるのにとても大変になっちゃう。つぎつぎに出てくる、ふしぎな生き物についても同じですね。それから、オクサの周囲の大人たちは、オクサが子どもだからと気づかって、情報をチマチマと小出しにしてくる。だから、すっごくいらいらするんですね。以上が構成上の問題。それから、いじわるな友だちを「原始人」とか「野蛮人」と呼ぶのも、なんだか無神経で嫌だったなあ。ロシアというと、すぐにKGBが出てくるところも、なんとなく差別的なにおいを感じてしまいました。それから、ハリポタにはイギリスの暮らしが垣間見えるという楽しみがあったけれど、この作品はフランスにいた主人公がイギリスに行ったのはいいけれど、インターナショナルスクールに入ったという設定なので、フランスの生活も、イギリス暮らしのあれこれも、ちっとも出てこない。翻訳ものの楽しみがないですよね。

ルパン:もったいないですね。

アカザ:翻訳については、「大急ぎでやっつけちゃったな」って一言につきると思います。1行空きがやたらあるけれど、単純な1行空きと***が入っている空きは、どう区別しているんでしょうね? 登場人物の会話についても統一がとれていないので、「これは誰がしゃべっているの?」とか、「この人はとちゅうで性格が変わってしまったの?」と思ってしまうところが、たくさんありました。翻訳って、これは誰の目線で書いているのかなってところが大事なのに、「行く」と「来る」の使い方が変てこだったり。それから、フォルダンゴとフォルダンゴットがカップルだということは、フランス語を知っている読者にはわかるのかもしれないけれど、わたしは後のほうになるまでわかりませんでした。原文にはなくても、読者にわかるような細かい配慮が必要だと思いました。

ハリネズミ:まずプロローグの、新生児のオクサの描写に引っかかってしまいました。「しわくちゃのかぼそい腕を力いっぱいにのばし、起き上がろうと必死にもがいている」。こんな新生児、いませんよね。オクサが特別な存在だということをここで表しているのかな、とも思ったけど、そういう記述もないので、誤訳なのかな、と思ったりしてすっきりしません。フランスは、イギリスや北欧の国の児童文学にあるような児童文学の書き方というか文法というか、そういうものが確立してないんだと思います。特にファンタジーでそれを感じます。たぶんそれはフランスの子ども観から来るもので、大人の文化に重きをおくあまり、子どもの文化を重視せず、おざなりのものでよしとしてきた歴史があるんじゃないかと私は考えています。この作品については、原文の問題と翻訳の問題と両方あると思います。
原文のほうですが、今言ったように子どものためのファンタジーの文法が定まっていないので、ほかの国の子どもが読むと読みにくい。たとえばキャラクター設定にもぶれがある。ギュスは最初の方ではとても模範的ないい子という設定のようなのですが、途中からやたらに嫉妬したりする場面が出てきて、あれっと思います。またオクサも、あまりにも軽率で上っ調子(もしかしたら翻訳のせいかもしれないけど)。簡単に盗みをはたらいたりもする。子どもって大人より倫理観が強いので、これだと子どもの読者はオクサに感情移入しにくい。たとえばイギリスの作品だったりすると、主人公にそういうことをさせたら、著者が理由付けをするなどかなりフォローする。この作品でもちょっとはそういう部分がありますが、申し訳程度です。しかも盗みをはたらくのは、まだ相手が本当に悪いヤツかどうかわからない段階ですからね。それに、オクサは自分で道を切りひらいていくより、超能力を使うとか、まわりの人に助けられることが多い。それもつまらない。能力を高めるためにキャパピル剤というのを飲んだりもしますが、これって下手するとドーピングにもつながりますから、もっと慎重に扱わないといけないのに、安易に使っています。それにたとえば、p75にトイレの個室に駆け込んだオクサが「戸を閉める余裕はなかった」というのに、その後2行思索する部分があって、その次の行に「野蛮人が近づいてきた」とある。これだと緊迫感がありません。だったら、個室のドアくらい閉められただろう、と思ってしまいます。
この作家の世界観とか価値観はどうなんでしょう? いまだに善と悪の二項対立で、階級社会も肯定しているらしい。この先はまだわかりませんが、この巻だけを読むかぎりでは、新たなものを提示しているようには思えません。
訳は、地の文もフォルダンゴの台詞かと思うくらい随所に硬いところがあり、とても読みにくかったです。例えばオクサの台詞でp65に「典型的なロシア的過剰さね」、p209「『研ぎすまされた精神』は大急ぎで言わなきゃね。あたしのみじめさを見てよ」とありますが、よくわからないし、子どもの台詞とは思えない。大人だってこうは言わないでしょう。P156には「自分の身内が殺人を犯した」とありますが、身内と仲間はニュアンスが違います。p176にはこれもオクサの台詞ですが、「涙があふれておぼれそう。悲しい。悲しくて……腹が立ってる。怒りが爆発しそう……」とありますが、悲嘆にくれているのと、憤慨とは普通ちょっと距離がある感情なので、直訳でなくもう少し日本の子どもにわかるように工夫してほしかった。p282ではレオミドが「仕事が順調になるにつれ、エデフィアはわたしの記憶から遠のいていった。もちろん、心の中にはエデフィアはずっと残っていたよ。だから、心はかき乱され、ノスタルジーにさいなまれた」と言いますが、記憶から遠のいているのに、心がかき乱されるほどのノスタルジーにさいなまれるのでしょうか? キャラ設定の揺らぎは、もしかしたら訳のせいかもしれません。もうちょっと文章にリズムがあったり、ユーモアがあったりするとよかったのに。
訳文を読むかぎりでは、登場人物の感情がころころ変わるようにとれるのですが、原文もそうなのでしょうか? ついていけないし、感情移入できないです。

関サバ子:フランス人の国民性として、感情がころころ変わるということがあるんでしょうか?

ハリネズミ:たとえラテン系の国民性から原文がそうなっているとしても、日本の子どもにはわからないから、訳者が日本語で読む子どものために言葉を補うなりしないと。学問的な著述じゃなくて子どもが読む物語なんですから、それは訳者の仕事の一部ですよね。まあ、でも私はハリー・ポッターの訳についても、読みにくさを感じていたんです。だけど売れたってことは、子どもはあまり気にしないで読むってことなんでしょうか? とはいえ子どもはこういう本から日本語を学んでもいくわけですから、ていねいに訳してほしい。たとえばp397ですけど、「みんなが盛大な拍手をし、ギュスはピューと大きく口笛を鳴らした。オクサの顔がパッと明るくなり、にっこりとほほえんだ。しかし、その感情には苦さも混じっていた。というのは、あの攻撃が成功したのは、ギュスのおかげだと言ってもいいからだ」とありますが、こういうふうに訳しちゃうとますますオクサに感情移入しにくくなるんじゃないかな。それより、「自分ひとりでは無理だったからだ」という視点で訳したほうがいいんじゃないかな。

関サバ子:私も、ある翻訳物を手がけたときに、主人公の子どもの行動に不可解な点があって、学習障害などがある設定なのですかと、著者に問い合わせたことがありました。

ジラフ:訳者は、フランス在住20年で、ライターやコーディネイターをしている人です。

ハリネズミ:それは、とっても危険なことじゃないですか。私も、外国に長く住んでいた方に翻訳をお願いして苦労したことがあります。ずっと外国に住んでいると、日本語の微妙な言い回しとか細かいニュアンスとか心地よいリズムといったことが、どうしても抜けていってしまいますからね。

ジラフ:原書の問題もあると思いますが、読みやすくするため、編集部でもいろんな段階で、複数の人間が訳稿に手を入れているので、最終的には、訳者の方に全体の仕上げをしてもらったものの、キャラクターのイメージや会話のトーンにぶれがあるのは、そのせいもあるかもしれません。ご指摘のとおり、訳文に粗さがあることも否めません。いっぽうで、原書でも500ページ近くある作品を、子どもたちが夢中になって読んでいて、もともとは自費出版だったものを、読者の子どもたちが口コミで広めていった、という出版の経緯があります。編集部では、よりなめらかな訳文にするために、すべて音読して文章に手を入れていきましたが、たしかに、声に出して読んでいくそばから、場面がどんどん頭に浮かんできて、コミック感覚の作品なのかな、と思いました。実際、フランスでは、コミック化されることが決まっています。発売から3ヶ月ほどになりますが、意外だったのは、思いのほか小さい子にも読まれていることです。メインターゲットは中学生以上のYA世代と思っていたんですけど、小学5、6年生からもけっこう感想が寄せられていて、小学4年生の子から読者カードが届いたこともありました。ファンタジー作品に親しんでいる読者からは、厳しい言葉もいただいていますが、逆に、中学生のくらいの読者から、読みやすかった、楽しく読んだ、といった声もたくさん届いています。評価がくっきり分かれている感じですね。この手の作品では、ほんとうなら、もっとイラストを入れられたらよかったんでしょうけど、原書の版元のほうで視覚化されているキャラクターが少ないうえに、映画化やコミック化とのからみもあって、キャラクターのビジュアルがちがってしまうとマズいので、日本でオリジナルのイラストを描き起こすことがむずかしかったんです。コミックですべて具体的に視覚化されたら、日本語版でも、もっとふんだんにイラストを入れられるかもしれません。

レジーナ:共著ということですが、具体的にはどのように分担したのでしょうか。

ジラフ:ふたりでプロットを話し合って、キャラクターの肉付けをしたあと、アンヌ・プリショタが第1稿を仕上げています。そのあと、またふたりで1章ずつ検討して、いっぽうが納得のいかないところは、徹底的に話し合って、相手を説得したうえで先に進んでいく、というスタイルだそうです。ふたりで物語をふくらませているせいで、ついつい大仕掛けになったり、クラスの名前なんかも、もともとはなかったクラスが唐突に出てきたり、原書にも、つじつまの合わない部分がけっこうあります。

関サバ子:私も、絵本しかやったことない方に長編をお願いして、なかなか難しいなと感じたことがありましたが……。

ジラフ:フランス語の理解はすごくある方なので……。

ハリネズミ:翻訳は、原文の内容をきちんと伝えることと同時に、日本の子どもにわかりやすく、おもしろく伝えるという二つの側面があると思います。そのどっちがより大事かというと、とくに子どもの本の場合日本語のほうの比重のほうが大きい。一般的に言って、外国に20年暮らしたままで日常生活も外国語という方だと、どうしても二つめの側面が無理になってきます。

ジラフ:なかなかむずかしいですね。「ハリー・ポッター」との比較については、フランス本国の雑誌や新聞にも、「オクサはハリーの妹」とか、「次なるJ・K・ローリングは、フランス人の彼女たち」なんて見出しの記事が出たりしていて、そのことについて、著者に尋ねてみたことがあります。本人たちは、「ハリー・ポッター」をライバル視しているわけじゃなく、むしろ、「J・K・ローリングは、ファンタジーの扉を大きくひらいてくれた先達で、『ハリー・ポッター』に背中を押された」と話しています。でも、「ハリー・ポッター」みたいな作品を書きたかったわけじゃなくて、たとえば、ファンタジーのお約束としてよく、つらい境遇の子が主人公になりますけど、「オクサ・ポロック」では、家族や友人に恵まれて、愛情いっぱいに育った女の子が主人公です。それは、負のエネルギーよりも、大切な人を守るため、といったポジティブなモチベーションのほうが、よりオリジナルな物語の展開を描けるのでは、と思ったからそうです。

ハリネズミ:私はハリー・ポッターに似ているかどうかは、どうでもいいと思うんです。だって子どもにとっては、オリジナリティがあるかどうかより、その物語自体がおもしろいかどうかなんですから。ただ、日本ではハリポタブームの後、三流ファンタジーまでどんどん翻訳されてしまったので、ファンタジーには食傷しているという読者も多い。そのときにまたファンタジーを翻訳出版するのであれば、よほど特徴があるとか、よほどおもしろいというものでないと売れないんじゃないかな。

アカザ:エンタメの命は、読みやすさとおもしろさですものね。

ハリネズミ:ハリー・ポッターの訳は好きじゃなかったんですけど、売れた理由はわかるんです。ナルニアやホビットは、1つの場面が長く続くので、読むスピードが遅い今の子はまだるっこしくなる。でも、ハリポタは場面転換が早いので入り込めるんだと思うんです。

アカザ:『ダヴィンチ・コード』(ダン・ブラウン著 角川書店)は原作より邦訳のほうが正確で、ずっと素晴らしいっていわれてますよね。

ハリネズミ:日本には、とくに子どもの本の場合、原著以上にいいものを作ろうという編集者や訳者がいます。原著の間違いを見つけて著者に問合せをしたことは、私も何度もあります。よく見つけた、と著者にほめられたことも。

アカザ:私は、作者に間違いを指摘したのに、どうしても相手が認めないから、しかたなくあとがきにその顛末を書いたことがあったわ。

ルパン:『縞模様のパジャマの少年』(ジョン・ボイン著 千葉茂樹訳 岩波書店)のあとがきにもびっしりと書いてありましたね。

ハリネズミ:アウシュビッツやナチスのことは、大人だったらある程度知ってますけど、子どもは知らないので、うっかりするとこれが事実だと思って読むかもしれない。だから事実と違う点を訳者の方がていねいにあとがきで付け加えたのでしょうね。ジャベーリさんも、途中まででも読んだのでしたら、ご感想を。

ジャベーリ:漫画的イメージを持って、作者が書いた作品なんだろうなと思いました。これがアニメで受けるなら、それでいいのでは? 映像的な作品でしょう。

アカザ:アニメだったら、理解するのに苦労しないかも。

ハリネズミ:オビに「100年目のファンタジー」ってあったんですけど、何から100年目なんですか?

ジラフ:19世紀の終わりの、ジュール・ヴェルヌから100年ということです。厳密にいえば、ヴェルヌは科学ファンタジーというか、空想科学小説ですけど、フランスの児童文学はリアリズムが主流で、じゃあファンタジーは、っていうと、『星の王子さま』とか、寓話的なものになってしまいます。そんななかで、久々の壮大な空想物語という意味です。

関サバ子:イギリスとフランスで、こんなにも文化がちがうとは知りませんでした。

アカザ:イギリスと張り合って、フランスでもって気持ちがあったんでしょうね。

ハリネズミ:ジュール・ベルヌはファンタジーというよりSFですよね。知的に構築されているものなので、空想を自由にはばたかせるファンタジーとは少し違うと思います。

(「子どもの本で言いたい放題」2013年2月の記録)


夜の小学校で

ジラフ:ファンタジーで遊べる世界が、とても楽しく描かれていると思いました。ひたすら楽しんだ、という以外、あまり意味のある感想を述べられないのですが……(苦笑)。去年の春まで、母校の短大図書館につとめていまして、夜、閉館後の見回り当番にあたると、館内の電気を消しながら、地下3階まで書架の見回りをするんです。真っ暗になったフロアにはものすごい「気配」があって、何かあるんじゃないか、何か起こっているんじゃないか、と空想をかきたてられたことを思い出しました。作品の中でも、不思議なことが当たり前のように起こっていて、そのことが、とても自然に描かれています。私はぼうっと妄想をしていることが多いので、そういう世界にすうっと入っていけて、自分の感覚に近いものがありました。クラフト・エヴィング商會の本で、『じつは、わたくしこういうものです』(平凡社)という、架空の職業案内があるんですけど、そのなかに、「(冬眠図書館の)シチュー当番」というのがあって、それも夜の図書館という設定で、そちらともイメージがつながりました。実は、岡田淳さんの作品を読んだのは初めてだったんですけど、作者が長年小学校に勤めていたことが生きていると思いました。

ルパン:私も岡田さんの本は今回初めて読みました。自分の子ども時代よりは後の方で、子どもが育ち上がったあとではすでに有名で、読みそびれてしまってたんですね。今回はいい機会をいただきました。挿絵がうまいなあ、お話とぴったりだなあ、と思ったら、ご本人が描いてたんですね。

レジーナ:挿絵のパパゲーノがちょっと太りすぎな気もしましたが……。

ルパン:絵と文がマッチしていていいな、と思いました。ちょっと不思議な感じもいいですね。カエルの王様の話はツボにはまりました。わたしもまったく同じことを思っていたので。

紙魚:小さな小箱を並べたような構成なので、なかなか大きな感想が言いにくい本です。これまで読んだ岡田淳さんの物語は、子どもたちのにぎやかな歓声がきこえてくるような、昼間の印象のものが多かったですが、これは、夜の、しかもおとなの警備員のお話。ふつう、日中の学校のようすがメインになるものですが、その部分については、あまりにも素っ気なく扱われている。これまでの岡田作品すべての、夜の部分という感じがしました。小さなおもしろい小箱が並んでいるという意味では楽しめる本だと思います。全部読み終えると、小学校のちがう顔が見えてきたような心地になりました。

関サバ子:不思議な話だと感じました。なりゆきで3歳半の息子に読み聞かせするはめになりましたが、息子よりむしろ、音読している私が熱中してしまって。

アカザ:それだけ、うまく書けてるってことよね。

関サバ子:絵だけでなく、デザインも岡田さんの要望があったのかな、と思うくらい行き届いていますね。章タイトルやノンブルの位置など、本文組も読みやすいです。

きゃべつ:岡田さんの本は大好きで、ほとんど読んでいると思います。「こそあどの森」シリーズのようなふしぎな世界観を持った作品が多いですよね。また、人間が主人公だと、学校を舞台にして、『二分間の冒険』(偕成社)や『ふしぎの時間割』(偕成社)など、ちょっとはみだした時間に起きるふしぎなできごとを描いているものがあります。ご自身が図工の先生をされていたときにも、図工準備室を工夫して、子どもたちを楽しませていたとおっしゃっていたことがあります。この作品も、放課後というはみだした時間に起きるふしぎなできごとを扱っていて、人を楽しませたいという岡田さんの姿勢がよく出ていると思いました。この中では「わらいっこ」が好きですが、先生をされていた岡田さんならではのお話ですよね。最近、あまりご自身の作品を出されているイメージがなかったので、これを読んだときは感慨深かったです。

アカザ:連載しているうちに変わってくるっていうのはないんでしょうね。

きゃべつ:半分はつながりのある話、というふうに学校以外の縛りもあったほうが、よりよかったんではないか、とは思いました。斉藤洋さんの『あやかしファンタジア』(理論社)も、連続短編で夜の学校のお話だったので、なにかふしぎな重なりを感じました。

レジーナ:楽しく読みました。登場人物ひとりひとりに個性があって、もっと読みたくなります。岡田さんのは『雨やどりはすべり台の下で』(偕成社)が私は好きですが、一話一話があの程度長ければ、なおよかったな。中学生が登場する場面は、死んだ人のようで、少し気味悪く感じました。そのほかの箇所は、ホラーになりそうな要素も、現実とファンタジーのあわいに上手に落としていると思います。言葉の選び方も、さすが岡田さんですね。子どもに向けて書いているからといって甘い言葉でごまかすのではなく、「投網」など、本当に美しい言葉を織りまぜつつ、子どもに分かるように書いています。蛍の場面ですが、蛍の光の点滅の周期は、タンゴのリズムに似ているのでしょうか。

ジャベーリ:お話が進んできて最後のオチがうまいなあと思いました。最初からここまで構想が出来ていて書かれたのかな? それから挿絵がよかった。マッチしています。パパゲーノもそうだけれど、いろんな知識がある作者ですね。それからいきなり大きな人が出てきてもなぜか違和感がなくて、スッと受け入れられた。

プルメリア:岡田さんの作品は大好きでほとんど読んでいます。この作品は『願いのかなうまがり角』(偕成社)と似ていると思って読みました。私はどちらかというと岡田さんの長編作品が好きなんです。短編はすぐ終わっちゃう!ので少々さみしかったです。近くの図書館では人気があるらしく全冊貸し出し中で、リクエストをしたあと2週間ぐらいかかって手元に来ました。私が勤務している小学校の教室は3階の真ん中なので、夜、職員室からだれもいない教室に行くのが怖くておっくうです。だけど、この本は夜の学校の怖さを感じさせず、楽しい雰囲気がいいです。いろんな登場人物が出てきますが、どれも子どもたちにとってもおもしろいキャラですね。この本を読んだ子どもは「『ボールペン』が面白かった。」と言っていました。ボールペンは『びりっかすの神さま』(偕成社)と似ているかな。最後のまとまりも岡田さんらしい終わり方。この本から「月明かり」って改めて素敵だな思いました。また、「ドウダンツツジ」漢字では「満天星」だということをはじめて知り、大発見した気持ちになりました。

ハリネズミ:本好きの人には、この長さじゃ物足りないと思うんですけど、この長さだから読めるっていう子もいるんじゃないかな? どうですか?

プルメリア:あまり本を読めない子どもたちからすると、ちょうどいい、読みやすい長さだと思います。

ハリネズミ:たしかに大きな感想は言えないのでこれが岡田さんの代表作とは言えないと思うけど、構成や文章がうまいし、こういう「ちょっと読める」ものを必要としてる子もいると思うんです。語り手はおとなの警備員ですけど、お話は子どもが読んでもおもしろいし。今は、学校になかなか行けなかったり、学校が嫌いな子も多いと聞きますが、そういう子どもたちに対して岡田さんが書く学校ものは大きな貢献をしてるんじゃないかって思ってるんです。一見つまらない学校にも、こんな不思議なことがあったり、こんなおもしろいことがあるかもしれないって、思わせてくれるから。

アカザ:長い物語が読みたいと思っている子どもにとっては物足りないかなと思いましたが、大人の読者の私としては、大好きな作品です。岡田淳さんって、本当に小学校が大好きで、子どもたちが大好きで、ハリネズミさんがおっしゃったように、子どもたちにも小学校を大好きになってもらいたいなあって思っている……そういう気持ちがひしひしと感じられました。この本の語り手は、小学校で夜警をしているんだけど、作者は図工の先生ですよね。個人的な感想になるんですが、私の小学校の時の図工の先生が、画家の堀越千秋さんのお父さんなんですが、いつも校庭の隅の日だまりで絵を描いていたんですね。図工の時間も、子どもたちにあまり話しかけないし、話しかけられても照れくさそうにしているだけであまり答えない。でも、この先生は小学校が大好きなんだろうなと、子ども心に感じていましたし、私もそんな先生が好きでした。図工の先生って、おそらく担任もないし、子どもとの距離や子どもたちを見る角度も、ほかの先生たちとは違うのかもしれない。そういうところが、夜警のアルバイトをしている主人公と似通っているような気がして、おもしろく感じました。

ジラフ:私は、ほんとにただただ楽しくて、意味のある感想が言えないので、ひょっとして、結びの「これは、あなたが書くはずの本なのですよ。」というアライグマのセリフに、深い意味が込められているんじゃないか、自分はオチを読み取れていないのでは、と焦りました。

ルパン:私もいろいろ考えました。

アカザ:最後の部分は、私が子どもの本を書くのはこういう理由なんですよと言っているように感じました。あと「ウサギのダンス」ですが、湿っぽいものが多い童謡の中では明るくて大好きだったので、いま歌われなくなっているのだったら残念。メロディだけは、CMで使われてますよね。

ルパン:これは毎日新聞大阪本社版の「読んであげて」が初出なんですね。「読んであげて」は、「お母さんが子どもに読んであげて」、というコンセプト。小学生新聞ではなく、通常の毎日新聞の朝刊なんです。お母さんが小学校低学年の子どもに向けて読むためのお話として掲載されています。一か月一話完結だから、壮大なお話はなかなか書けないと思います。

ハリネズミ:書き直したっていうけれど、そうとう足さないと……。

ルパン:かなり書き足さないと難しいでしょうね。

(「子どもの本で言いたい放題」2013年2月の記録)


発電所のねむるまち

ジラフ:同じモーパーゴの『モーツァルトはおことわり』(さくまゆみこ訳 岩崎書店)同様に、現在から過去にさかのぼって、丹念に語り起こしていくスタイルで、とてもよくできたお話だと思いました。同時に、本のつくりやボリュームにしては、内容とか、書かれている感情が、ずいぶん大人っぽいな、という印象も受けました。とにかく、上質の物語ということに尽きるんですけど、身近に子どもがいないので、どのくらいの年齢層の子どもにこの本を手渡せるのか、ちょっとイメージしづらくて、過去からたんねんに書き起こしていく、こういう、ある意味「大人っぽい」物語を子どもがどう読むのか、興味をひかれました。p35で、ペティグルーさんが、夫のアーサーを亡くしたことを話す場面は、「ある日事故が起きて、終わってしまいました。(中略)まだあの人はずいぶん若かったのです」と書かれていますが、ちょっと抽象的で、これで子どもの読者にはっきりと「死」が伝わるかな、と思いました。あと、p71で、アイルランド人労働者がプッツン・ジャックに「自国の歌を教えていた」というくだりでは、わざわざ「自国の」という表現を使っていることに、ヨーロッパらしいアイデンティティの表明を感じて、はっとしました。

ルパン:私もいいお話だなと思いました。読み始めてしばらくは、ペティグルーさんが男の人だと思って読んでいました。日本語にすると性別がわからないんですね。列車のおうちはすごく素敵なんですけど、この絵がなかったら、船上生活者やトレーラーハウスみたいに思えるかもしれません。あと、ロバが乱入してくる場面がありましたが、その後どうなったかが気になりました。ペティグルーさんが教会で発表するところは、ぐっときました。それから脇役なんだけど、このお母さんはいいなあ。お母さんが「あんな変わった人とつきあうな」と言ってしまったら、こうはならなかったわけで。重要人物だと思います。ところで、子どもに手渡すとしたら、横書きってどうなのかな。『カイト』も横書きだったけど、同じ出版社なんですね。横書きの本は、渡す年齢を考えてしまいますね。縦書きだったら、小学校高学年におすすめだと思いますけど、この装丁でも読むかなあ?

紙魚:私も縦書きに慣れてしまっているので、ちょっと読みにくい感じがありました。とはいえ、この本が横書きなのは、原書が左開きで、どのイラストも左から右へという方向で描かれているからだとも思います。この挿絵をそのまま使って縦書き・右開きにすると、挿絵の方向が逆になってしまいますよね。そう考えると、長い時間の経過を表現するには、横書きの水平ラインが有効に働く、横書きならではの利点もありそうです。
この本が刊行されたのは、2012年の11月。日本での東日本大震災後を意識しての刊行だったと思います。震災後、子どもの本がどう力を発揮できるかということを考えさせられましたが、あの時分、私の目が向いたのはやはり国内、東北のことで、原発を扱った翻訳書というのは、思い至りませんでした。遠いイギリスの地での物語が、日本の子どもたちに、どの程度、当事者意識を持たせるかはちょっとわからないですが、伝わるといいなあとは思います。日本の作家からも、こうした社会的な背景をもりこんだ作品が生まれるといいなあとも思います。

関サバ子:生活のディテールがよく書きこまれていて、主人公マイケルの思い出もディテールを感じられます。そのことが、“最悪”をより鮮明に浮かび上がらせると感じました。これは本当に個人的な希望なんですが、ペティグルーさんには死んでほしくなかったです。こういうかたちで亡くなってしまったことが、悲しみを際立たせているのかもしれないですが……。なぜ著者はこのような結果にしたのか、なんとなく腑に落ちない感じがありました。横書きという体裁については、もしかしたら、子どもはすんなり読んでしまうかもしれません。絵と文章の位置関係もよいので、あまり違和感はありませんでした。60代くらいの人が回想した話なので、子どもがそれをどう受け止めるのか、難しいところもあるかもしれません。福島第一原発の事故のあと、ドイツが原発全廃を決めました。そのときに、「原発は倫理的に許されない」ということを言っているのが印象的で、本作もそのときと同じシンプルな人間性を感じることができて、とてもいいなあと思いました。声高すぎないし、かといって“したり顔”でもない。子どもがどう受け取るかわかりませんが、最善の見せ方のひとつという感覚があります。

きゃべつ:表紙が牧歌的で、絵としてとてもきれいだと思いました。話は明るいとはいえないけど、発電所ができる前の幸せな日々を表紙に選んだのだなと思いました。表紙が示しているとおり、この作品で作家が書きたかったことは、原子力のことではなく、郷愁や、子どものころの記憶だったのではないかと感じます。また、本のかたちと対象年齢についてですが、これを読ませるのだったら、小学校高学年、もしくは中学生だと思います。それくらいでないと、この物語の背景にある原子力についての問題などは分からないでしょうから。その場合、横書きだと手渡すのが難しい気がします。日本では横文字だと、どうしても携帯小説や大人が読む絵本の印象が強いですよね。

ジャベーリ:私はきゃべつさんとは違って、原発の稼働が終わった後も、結局、元には戻らないということを言いたかったのだと思うんです。ペティグルーさんの存在を通して、その人の住んでいた場所に起きたことを伝えたかったのではないかな。原発をつくる場所についても、ペティグルーさんのようなマイノリティーが大事にしている土地をターゲットにして、おそらくイギリス人の住んでいる場所には白羽の矢は立てないということも。つまりイギリス人にとって影響のなるべく少ないところを選ぶという話にしているのではないかと思うんです。原発というのは、40年経つと廃炉になって、コンクリートで囲うんだけど、もとの美しい自然に戻ることがないということを言いたいのではないかと思います。ペティグルーさんが愛した自然は戻らないと、ダイレクトに言っているのでは? 原発をつくると、営業停止になっても決して元には戻らないということが中心的な主題だと思ったんです。

関サバ子:この物語の原題Singing for Mrs. Pettigrewは、「ペティグルーさんに捧げる歌」という意味なんですよね。

アカザ:短編集に入っていたっていうから、もしかしたら、単行本にするときに書き直したのかもしれないわね。

ハリネズミ:このお話の題と短編集の書名が同じだから、これがメインの作品なんでしょうね。私は、ペティグルーさんがよく書けているなあと感心しました。今、日本の人たちが原発を取り上げると悲惨な事故抜きにしては書けないでしょうけど、この作品は、たとえ事故が起こらなくても、弱い立場の人の暮らしが破壊されるってことを言ってるんだと思うんです。ペティグルーさんは外国からやって来て夫を亡くし、村でも孤立している。でも、努力して自分なりの楽園を作り上げ、主人公のお母さんという友達もできた。そういう自分なりの幸福感や充足感を書いて、それが根こそぎやられてしまうことと対比してるんじゃないかな。だから郷愁とは違って、読者の子どもたちに対してはもっと考えてもらいたいというメッセージが込められていると思います。それから横書きに関してですけど、教科書も今は国語以外みんな横書きなので、子どもたちはあまり抵抗感がないのかもしれません。原著は読者対象がもう少し下かもしれないけど、日本語版はルビを見ると小学校高学年くらいからを対象にしているのかな。

アカザ:すばらしい作品で、感動しました。なぜ、日本でこういう作品が出ないんでしょうね? ぜひ、大勢の子どもたちに読んでもらって、話しあってほしいと思いました。昨年の夏にイギリスに行ったとき、汽車で隣の席になったドイツの大学生とずっと原発の話をしていたんです。日本では事故のあと原発を再稼働しはじめて、これからもそういう動きになっていると話したら、「どうして日本人は怒らないんですか?」と言われました。ドイツでは、小学生のときから原発はいずれ無くしていかなくてはならないものだと繰り返し教えられるし、自分もそういう教育を受けてきた、と。日本でも、今からでも遅くないから、この作品のように原発は廃炉になっても自然を破壊しつづけ、けっして元通りにはできないんだということを、いろいろな形で、いろいろな作品で教えていかなければと思います。私自身は、ぜひとも子どもに伝えておかなければという作者モーパーゴの熱い気持ちを感じたし、けっして郷愁を描いた牧歌的な作品ではないと思うけど、もしそういう感じを読者に与えるのなら、モーパーゴが上手くなりすぎちゃったのかもね。ペディグルーさんの人柄や暮らし方など、本当に心に染み入るように書いていますものね。ただ、子どもには難しいなと思ったのは、村の人たちが原発反対から賛成に変わっていき、ペディグルーさんと主人公の母親だけが残されていく過程があっさりしすぎていて、なぜそうなるのかが分からないのではと思いました。原発でも沖縄でも、ある地域の人々の犠牲の上に成り立っているという現実を、手渡す大人が少しフォローしたほうがいいかなと思います。ペディグルーさんをイギリス人ではなくタイ人にしたり(事実、そうだったのかもしれませんが)、原発の下請け労働者のアイルランド人が自国の歌をうたう場面を書いているところにも、目に見えない差別を作者が意識して書いているのだと思えて、いっそう深いものを感じました。訳はなめらかで、とても良くできていると思いましたが、あとがきで主人公が故郷になかなか戻れなかったのを「声をあげなかった子どものころの自分を後ろめたく感じているから」と捉えているのは疑問に感じました。原発の問題は大人の問題であり、けっして子どものせいにはできない。こう書いてしまうと、作品が矮小化されるように感じました。

レジーナ:モーパーゴは、自身の問題意識が作品に強くあらわれる作家ですね。子どものころの思い出を語る形式の物語は、さまざまな作家が書いていますが、それを原発と結びつけた作品は初めて読みました。本の形態ですが、横書きであることに、何らかの意図があるのでしょうか。P6に「『昔はふりかえるな』ということわざ」とあり、同じページの後ろにまた「同じことわざ」とありますが、「同じことわざ」という表現が不自然に感じられました。このことわざは、聞いたことがありませんが……。

アカザ:日本語にすると、ことわざって感じではないわね。

レジーナ:ことわざというより、歌でしょうか?

プルメリア:放射能についてはていねいに書かれていませんが、いい本だなあと思って、学級の子ども達(5年生)に紹介しました。手に取る子どもはいなくて紹介が悪かったのかなと思い、近くにいた男子に「読んでみない。」と手渡しました。読み終わった後「どうだった?」ときいたら、「わからなかった」って。むずかしい本かなと思い全員の子どもたちに「今住んでいる市に原発があったらどうする?」と聞くと、「災害とか地震があったらこわい。」とか、「遊ぶ場所がへるのでいやだ。」とか「大きな建物はうっとうしい。」などの答えがもどってきました。「原発ってどういうものなの?」と聞くと、「電気をつくるところ」との答え。原発について知識がない子たちにとっては、わからずにすらっと流れてしまったり、内容を補足しないと作品の意図が伝わらない本なのかもしれません。大人の読みと子どもの読みの違いに気づきました。

レジーナ:チェルノブイリの原発の事故を扱った作品には、『あしたは晴れた空の下で : ぼくたちのチェルノブイリ』(中沢晶子作 汐文社)がありましたね。

関サバ子:放射能は、目に見えないですものね。

紙魚:この本は、書かれていないところが多いので、行間から読み取らなければいけない分量が多いですね。

アカザ:だから、いろいろな形で読まなければだめなのよね。ドイツでも『みえない雲』(グードルン・パウゼバング著 高田ゆみ子訳 小学館)のような作品がずっと読まれてきたっていうし。

ハリネズミ:ドイツはずいぶん前から、原発に限らず環境教育には熱心だし、ゴミの分別収集も早くからやってましたね。

アカザ:日本では、原発の危険性については教えまいとしてきたから。

関サバ子:自然のなかで過ごす気持ちよさを知らない人が読んでも、伝わらないかもしれませんね。あの気持ちよさは体感で得るものですし、それが楽しいと思えるまでには、ある程度の時間が必要な気がします。もちろん、レジャーで自然豊かなところへ行って、瞬間的に楽しいということはあります。これはあくまで私の経験に基づいた感覚ですが、それだけでは、心も体も開いていく気持ちよさまではなかなか体感できないような気がします。ですから、子どもたちの身体感覚によって、このお話の受け止め方は違うような気がしますね。「ここの自然? 別になくなってもいいよ。森や海はほかにもあるわけだし」という感性だと、厳しいですよね。あと、このテーマは原発だけでなく、いろいろなことにあてはまりますよね。理不尽に土地を追われた人は世界中のあちこちにいるわけで、そういう想像力を広げられる余地があるのは、とてもいいなと思います。

(「子どもの本で言いたい放題」2013年2月の記録)