月: 2015年4月

2015年04月 テーマ:家族

日付 2015年4月23日
参加者 花子、ハリネズミ、ヤマネ、レン、きゃべつ、ルパン、アンヌ、レジーナ
テーマ 家族

読んだ本:

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はじまりのとき

きゃべつ:こんな重い内容の本とは思いませんでした。ほかの国で起きた戦争の伝えかたとして、こういう方法があるのかと興味深く読みました。基本的には、女の子の視点で身近なことだけを書いているので、読んでいると、その環境に身をひたした気持ちになります。食べ物や学校生活もきちんと描かれているし。細かいことですが、マージンの取り方が気になりました。横書きでもいいけど、やっぱり少し読みにくい。内容は新鮮でした。英語がわからないので馬鹿だと思われるというところとか、マイノリティーとして異文化に入りこんだときのギャップがうまく描かれていますね。ただ、文化を知らないために、読み解くことができないところも多かった。

ハリネズミ:散文詩ですべて説明されているわけではないので、わからないところもありますが、難民としてやって来た人が自分の言葉で語っているのがいいと思います。アメリカっていろんな立場の人がいて、ALA(アメリカ図書館協会)はマイノリティの人たちの文学もちゃんと認めて賞をあげて、普及させようとしているのがいいですね。白人でもいろいろな人がいて、ミセス・ワシントンや「カウボーイ」のようなまるごと善意の人もいれば、「カウボーイ」の妻のように途中までは白い眼で見ている人もいる。それも、ちゃんと書かれています。ただアメリカで出ている作品は、アメリカを悪く書かないですね。ベトナム戦争では、アメリカは枯れ葉剤をまいたり市民を大量に殺す北爆をしたりと、さんざんひどいことをしているし、南ベトナムのゴ・ジンジェムの政権は腐敗していてどうしようもなかったわけだけど、この本ではホー・チミンが悪者になっている。南ベトナムから逃げてきた難民の子どもの視点だから、どうしてもそうなるのかもしれませんね。

きゃべつ:助けてくれるのは、アメリカの船ですからね。

ハリネズミ:主人公の父親は、その腐敗政権で要職にあった人なんですよね。

ヤマネ:すずき出版の「海外児童文学」シリーズは、海外の子どもたちの姿を描いた重いテーマの内容が多いのですが、この本はまず表紙が美しくて、重い印象がありませんでした。ただやはり内容は、戦火のベトナムを逃れて難民としてアメリカにわたった家族のお話なので重いんですけど、横書きの日記風になっているので、それほど重く感じないで読めました。マララさんの手記(『マララ 教育のために立ち上がり、世界を変えた少女』道傳愛子訳 岩崎書店)でも感じましたが、ひとりの女の子として考えていることや悩みや喜びは変わらないということが伝わり、遠く離れた場所にいる主人公を身近に感じられるように思いました。またたとえば、自分の悲しい気持ち(涙)を、パパイヤの種が落ちる様子で表現しているところなど、文章が詩的で美しいですね。近年、こうした横書きの本が増えているように感じます。メールも横書きだから、今の子どもたちは横書きの方が読みやすいところがあるんでしょうか。

きゃべつ:ケータイ小説は横書きだったけど。

アンヌ:最初は、横書きのブログのような日記という感覚でスラスラ読めると思っていたのですが、ふとこれは詩なのではと気づいて、じっくり読み込んで、その美しさを味わって行きました。ベトナムについては、同じサイゴン陥落時を描いた『サイゴンから来た妻と娘』(近藤紘一著 文藝春秋社)しか知らなかったのですが、その中でベトナム人の特性として植物との強い親近性が描かれていて、印象に残っていました。この本にも植物の種が贈り物として描かれている場面があって、ああ、やはりと思いました。アラバマでのいじめの場面は、読んでいてつらく感じました。それと、この子が熟れていパパイヤを捨てた場面には驚きました。

ハリネズミ:私は、このパパイヤは象徴的な意味あいも持っていると思います。故郷を恋しがるようにその味を夢見ていたのに、もらったのが本物の味とはほど遠い乾燥パパイヤだとしたら、捨てる気持ちはよくわかります。でも、くれた人の善意を否定しているわけではないので、あとで拾おうとするんですよね。

アンヌ:主人公はかなり感性が研ぎすまれた少女で、勝ち気です。食べ物への感じ方も違うんでしょう。少年にいじめられると分かっていても、自分がわかっている答えを書いてしまうところとか、自分への矜持を持った少女だと思いました。3人の子どもたちをエンジニアと医者と詩人と護士にしたがっているお母さんは娘が弁護士に向いているなと思っているのに、詩人になるだろうなという予感で終わっていく章が、とてもいい感じでした。

ルパン:私もいいなと思って読みました。横書きだったので、手に取りづらい感じがしましたが、読み始めたら一気に読んでしまいました。難民の子どもである主人公が、プライドを忘れないところが気に入りました。物質文明のアメリカに来て、素直に喜べばいいところでも、食べ慣れていたものと違う、と思う箇所や、お祈りの場面や、ベトナムのものを大事にしていて、それを自分の感覚として持っているところに、好感が持てました。

レジーナ:3年前に全米図書賞をとった時、英語の試し読みで数ページ読んだことがあり、今回一冊通して日本語で読みました。詩は、実感として受け止められないと理解するのが難しいですが、この本は散文詩の形で自然に書かれていて、すらすら読めました。横書きなのが気になりましたが、日記だと思えばいいのかもしれません。アメリカで生のパパイヤが食べられないのは、この本の時代が数十年前で、輸送事情が今とは違うからですね。主人公は、ベトナムにいた時に隣の席の子をいじめたり、アメリカに来て悔しい思いをしながらも、いじめっ子に立ち向かっていったりする少女です。芯が強く、勝気なんですね。この本では、本人の努力と家族の理解があり、また息子をベトナム人に殺されても、主人公の家族に温かく接するミスェスゥ・ワシィントン、お金をもらってはいるけれど、お金だけのためだけではなく細々と世話をやいてくれるカウボーイなど、周囲に支えてくれる人がいて、主人公はアメリカの社会に溶け込み、作家として成功できましたが、これは非常に幸運なケースです。実際にはヨーロッパでも、言葉でつまずいた移民の人が学校をドロップアウトし、仕事に就けず、貧困の中でISに行ってしまう。一方でそういう人々がたくさんいることを、心に留めながら読みました。p166で、自転車のバーに座るというのは、自転車のハンドルとサドルの間ということでしょうか。

レン:おもしろかったけれど、散文でたたみかけるように事実を説明することがないので詳しいことがわかりません。子どもが読んで、なんのことかわかるのかなと思いました。右も左もわからない場所に放りこまれて、言葉ができないために馬鹿な子と思われたり、習慣の違いからからかわれたりする悔しさなど、イメージは伝わってきますが。かなり読者を選ぶ本だと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年4月の記録)


ラ・プッツン・エル〜6階の引きこもり姫

レン:自分からは手にとりそうにない本だったので、今回読めてよかったです。ただ、この子自身が否定しているからでしょうけれど、いきなり状況だけ語られて、主人公にしてもレオくんにしても、家族との関係性が見えてこず、入っていけませんでした。事実の積み重ねより、だれかの説明で理由が語られてしまうことが多くて、はぐらかされた気分になって。現実感に乏しい感じがしましたが、登場人物と同年代の読者は主人公によりそって読めるのか疑問に思いました。私が苦手なだけかもしれませんが。

レジーナ: 主人公は、おとぎ話の主人公になりきり、自分の世界に閉じこもってしまう中二病です。きっと現実もそうなのでしょうが、主人公の暴力性の原因は、はっきりとはわかりません。自分でもどうしていいかわからない、モヤモヤとした中学生の気持ちを表そうとした作品ですが、火事の場面はご都合主義ですし、ほかにも矛盾を感じる箇所が多くありました。「自分の耳に聞こえるものだけを信じる」と言いながら、音楽プレイヤーを破壊していますが、音楽も「耳に聞こえるもの」ではないですか? 音楽を含め、現実逃避になるようなものは排除するということでしょうか。リモコンも壊していますが、主電源を入れれば、テレビは使えますよね? 母親が作ったお惣菜の味に、ずっと気づかないのも不自然です。心に問題を抱えた人の中には、自分のストーリーを作り上げる人もいますが、この作品も、人の心の中の、道理や理屈の通じない世界に分け入っていくようで、読むのに体力を使いました。p198に「よろめいたとたん、隣の601号室の窓を破ったのかその振動で、棚が倒れてきた。」とありますが、何が窓を破ったのでしょうか? 人がよろけた衝撃で、窓が破れるわけはないですし。もう少し、文章を練ってほしかったです。

きゃべつ:この本は、私が関わった賞の最終選考にも残りました。この本の閉塞感は、中高生読者にとってリアルなのではないかと思います。世界から疎外感を覚えて、自分だけが違う(特別な)存在と思いこんでしまうところなどが。でも、魔王が実際に何をしたのか、どうしてこうなったのか、もう少し説明が必要なのでは? p15に、妻は実の母親だと書いてあるけれど、その後で、弟を「妻の息子」と書いているので、後妻なのかと疑ってしまいました。リーダビリティはあるけれど、瑕疵もまた多い作品だと思います。最後のシーンで、レオが消防服を着て助けにいくのは、すごく不自然。そして、あれほどまでに家族を憎んでいた姫が、母親がずっと自分を気遣ってくれていたことに気づいた瞬間に、悔い改めるなんて単純、と思ってしまいました。

レン:グリムのラプンツェルのお話が、最初にもう少し説明されているといいですよね。

ルパン:こういう魔王みたいなタイプの変な人って、実際いるんですよね。そういう人が家族を持つとどうなるか……身近な実例と重ねて読んでしまいました。娘に「魔王」と呼ばれるこの父親が、一番、キャラが立っている気がします。

アンヌ:お父さんから、かなりの虐待を受けていると感じました。内側から、窓もドアも空けられない仕組みはひどいと思いました。お母さんが、鍵を架け替えたのに、ドアが開けられるようにしておかなかったのは、不自然な気がします。

ハリネズミ:お父さんは遠いアメリカにいるのに、お母さんは助けてあげないんですよね。

アンヌ:お母さんが作った料理だということに気づかなかったのは、最初のうちは寝てばかりで、あまり食べていなかったり、興奮状態でいたりしたからだろうと思ってあまり矛盾を感じませんでした。これに対して、少年が、他人に対して自分を開いて行く過程が、もう一つ釈然とはしませんでした。特に、火事現場では、運動もしていない体力のなさそうな少年が、棚をどけたり、姫を抱き上げたりするのは、あまりにリアリティがなさすぎると思いました。例えば、いつも隠していた左手で抱き上げるのはいいけれど、同時にその左手で姫とハイタッチするというのは、いくらなんでも無理だろうと思います。駐車場の少年をいじめる同級生に6階のお風呂場から水をかける場面も、いったいどんなホースなら水が届くのだろうと不思議に思いました。

レン:なぜホースが家にあるのかも不思議。

ヤマネ:名木田恵子さんといえば、講談社青い鳥文庫で出ている『天使のはしご』や『星のかけら』などが、小学校高学年の子どもたちによく読まれていて人気の作家という印象がありました。ただ『星のかけら』のあらすじを読むと、事件の連続でストーリーが激しい印象があったので、こちらの作品はどうなのかな?と思い読み始めたんでっす。思っていたよりもずっとおもしろく読めました。皆さんの指摘にもあるように破綻しているところもありますが、エンタメと思えばそれほど気になりません。おとぎ話のラプンツェルをモチーフにしていることもあり、主人公が登場人物を「魔王」「魔王の妻」「カラス男爵」など物語に出てくるような呼び名で呼んでいたところもおもしろかった。p20で、主人公が心理カウンセラーの肥満椙世さんに「告白していないことがある」とあり、それが何なのかずっと気になって読んだのですが、結局最後まで分からなかった。主人公がひきこもった決定的な原因があるのだろうと思っていたんですが、最後までそれが分からないままだったのが残念です。母親が、閉じられたマンションの部屋に、双眼鏡やお気に入りのティーカップを置いていったのは、娘に対する愛情ではないかと思いました。客観的におもしろく読む子もいるだろうし、何かを抱えている子にとっては、共感する部分があったり、何か救いになる部分があるのでは?と感じました。

アンヌ:全体に話がするするとほどけていかない感触でした。

ハリネズミ:私は、潔癖症の男の子にはリアリティを感じたんですけど、姫のほうは、どうなんだろうと疑問でした。父親が暴力をふるっていたためにこの子がおかしくなってしまったという設定だと思いますが、この子の独白には異常なところはほとんどないんですね。だから、父親が不在になった今は、すぐに立ち直れるんじゃないかと思ったんです。それに、長いホースでジャクを助けたり、自分でつくったロープでカラス男爵たちとも服やタオルを渡したり返してもらったりして、それなりのコミュニケーションを取れるようになってるわけですから、かなり立ち直ってるのに、メールができないという設定も不自然に思えます。
 実のお母さんが食べ物を持ってきたりしているのに、相変わらず窓もあかない、ドアも内側からあかないままなのも、不自然に感じました。それと、ホームレスのカラス男爵が姫からいい服をもらって単純に感謝しているように書いているのは、作者の人生観・世界観が浅いせいかな、と思いました。最後も安っぽいメロドラマみたいで、いただけない。作者には困難を抱えている子に寄りそおうという意図はあるのでしょうが、こんな物語では、救われないと思います。外側から猫なで声で何か言われている薄気味悪ささえ感じてしまいました。

花子:作品全体のパワーを感じました。ゲームのようなシチュエーションから始まって、ぐいぐい引き込まれます。中二病の気持ちで読んでいくと、おもしろいです。他人との関わり方もゲームみたい。だけど、お金持ちで何でも与えられ何でも可能なのが、非現実すぎて気に入りませんでした。作品の賛否はありますが、実際似たような状況で少女が友達を殺してしまう事件もありました。レオくんの成長譚も良いと思いましたが、火事は必要だったのか疑問が残ります

ハリネズミ:父親のDVについては、ノルウェーの絵本も翻訳されていますね。『パパと怒り鬼』(グロー・ダーレ文 スヴァイン・ニーフース絵 大島かおり・青木順子共訳 ひさかたチャイルド)という絵本ですが、ほかの家族が父親に脅える気持ちがよく出ています。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年4月の記録)


アラスカの小さな家族〜バラードクリークのボー

レジーナ:昨年スコット・オデール賞をとった時から、興味があった本です。エスキモーや鉱夫という、文化的背景の異なる多様な人々との交流が、幼い少女の目を通していきいきと描かれています。さびれた金鉱の町での、心の浮き立つような日々の喜びが伝わってきました。温かな挿絵は文章によく合っていて、とても魅力的です。読者になるのは、小学校中学年から高学年の子どもでしょうか。主人公が幼いので、年長の子どもは共感しづらいかもしれません。大人が読み聞かせてあげれば、年少の子どもも楽しんで聞けると思うので、手渡す側に工夫が必要だと思いました。気温が上がると雪が降ることや、エスキモーの人が足を伸ばして座る様子など、知らないことも多くありました。以前、調べたところ、作者はアラスカ出身で、多くの本の中で、アラスカが誤って捉えられていることに不満をおぼえ、創作を始めたそうです。そう考えると、日本語版のタイトルにはアラスカという地名が入っているのが、いいですね。アービッドとジャックは同性愛者ではないかと考える読者もいたようですが、作者にそうした考えはなかったようです。ジャックの口調で「おいら」となっているのが、気になりました。ひと昔前のテレビや映画の字幕は、黒人の口調が白人に比べると荒っぽく訳されることがありましたが……。p250で、ウナクセラクがナクチルークの夫だと分かりますが、ウナクセラクの名前は、もっと前の箇所にも出てきているので、この説明がもっと早くにあれば、わかりやすいのではないでしょうか。p215で、「冬にぬれた服を着るほど最悪なことはないと、ボーはジャックとアービッドに教わっていました」とありますが、ジャックとアービッドから聞いて、ボーはちゃんと知っていたということなので、もう少しわかりやすい表現の方がいいように思いました。p31で、赤ん坊のボーが「顔の片っぽでにこっとした」とありますが、どのように笑ったのでしょう。それから、p253の「この人がだれかっていうのを調べるのが、こんなにたいへんだとは思わなかったよ」で、「この子」ではなく「この人」となっているので、これは父親について言っているのでしょうか?

アンヌ:この人というのは、男の子のお父さんのことじゃないですか?

ルパン:「よしきた」っていうくらい好きな作品です。最近使われなくなった「エスキモー」という言葉が出てくるのも、なつかしい気もちで読みました。小さいときに、そういう人たちがいるんだと思った、と思いをはせた言葉です。童心に帰って読みました。うちの文庫の子たちも、5、6年生なら読むと思います。地域の人たちがみんなでボーをのびのび育てているところがたまらなくいいですね。ラストシーン、みんなが別れてそれぞれに旅立つシーンでは、感情移入しすぎて、泣きたくなるほど寂しく思いました。

アンヌ:物語の中に食べ物が出てくるのが好きなので、このエスキモーのアイスクリームについて、早速ネットで調べたりしました。でも、物語の中でこの食べ物についての説明はあるのですが、実際に作ったり食べたりする場面はないので、注があってもいいのではと思いました。アメリア・イアハートの写真や初めて飛行機がやってきたとあるので、日本では昭和初期に当たる時期だな、と大人にはわかってくるのですが、子供の読者のためには、やはり注があってもいいと思いました。エピソードが盛りだくさんで、各章は濃いけれど、物語性において、何か物足りない気もしました。特に最後は、とてもあっさりと移住の話になるので。ここは、第2巻に続く期待を持たせる感じなのでしょうか。弟になる少年が喋らないのは、お父さんの耳が聞こえなかったからだけではなく、先住民だからその沈黙で民族性を表しているのかなと思いました。登場人物が大勢いるので、エスキモーの名前なのか、鉱夫の名前なのか、よくわからなくなって、混乱しました。

きゃべつ:いちばんかわいそうなのは、犬のドッグ。そのまますぎて。

ヤマネ:じっくり味わいながら読める作品でしたが、いまいちお話の世界に没頭できず、夢中では読めませんでした。見返しのあらすじのところに、ポーにちょっと変わった方法で弟ができるとあったので、それはいつ出てくるのだろうと思ったらかなり後ろの方でしたね。でもその弟になる小さな男の子が出てくるところから、先が気になってぐっとおもしろくなっていきました。アービッドとジャックがとてもいい大人で、愛情深くボーを育てている様子が良いですね。ボーがお母さんを恋しがる場面が全くないのが不思議だと思いましたが、地域全体で育てているから、寂しさを感じないのでしょうか。全体としてほのぼの温かい雰囲気に包まれていて、ボーがクマに襲われるところも、あまりハラハラせずに読めました。そうそう悪いことは起こらないだろうと思わせるような幸福感に包まれたお話なんですね。

ハリネズミ:私はとてもおもしろく読みました。テイストは、ローラ・インガルス・ワイルダーですね。でも、こっちはお父さんが二人。しかも一人のお父さんはノルウェーからやって来た人で裁縫がじょうず、もう一人のお父さんはアフリカ系で料理がじょうずというのがいいですね。それだけでなく、村には多様な背景や文化をもつ人たちが一緒に暮らしていて、助け合っている。生みの母に捨てられて二人のお父さんに引き取られたボーのことも、エスキモーをはじめとするみんなが助けてくれるんですよね。そのあたりはインガルス・ワイルダーと違って、新しい家族が描かれているし、先住民への尊敬もあっていいですね。私は暮らしをていねいに描いたこういう作品は大好きですが、若い人のなかには、ヤマネさんのように、事件が起こらないからつまらないという感想をもつ人がいるのもわかります。気になったのは、ボーが5歳なのに5歳とは思えない言葉遣いをあちこちでしていたりするところ。p48などは、もしおしゃまだから言っているのであれば、もう少し訳し方に工夫があればいいな、と思いました。絵がその風土ならではのことを伝えながら日本の子どもにもじゅうぶん受け入れられるので、とてもすてきです。書名はちょっと地味で、手にとってもらえるかな?

花子:(編集担当者):1920年代の話ですが、新しい地域社会、家族像が描かれていると思います。二人の父さんたちが娼婦の生み捨てた子どもを拾い、社会全体で育てています。国も言葉も違う人たちが、物のない時代に、円滑なコミュニケーションを取り社会を形成しているんですね。原書は子どもの書いたような短い文が続く厚い本だったので、挿絵を小さくしたり、改行を工夫したりしたものの、はやりボリュームが大きくなってしまいました。長いので対象を5、6年生以上としたんですけど、主人公は5歳で、現地のエスキモーと鉱夫の間で通訳のようなことをやったり、ラブソングも分からないなりに理解したところで話したりしています。小さな子にも読んでほしい本ですね。「エスキモー」という表記については、2巻目に著者が注釈を入れているので、それを本書に使用させてもらいました。自らを「エスキモー」と呼ぶ人たちがいる、とのことなので。文中のできごとはリアリティがあり、地名もバラードクリーク以外は、実在します。少し変わった感じの、温かいストーリーだと思います。

ルパン:読み終わったときには、ぴったりくるタイトルだと思いましたが、子どもは手にとりづらいかもしれませんね…。

きゃべつ:日本のいまの児童書にはない、ゆったりとした時間が流れています。もしかしたら、日本の児童書は、なにか盛り上がりがなければならないと、物語に起伏を求めすぎなのかも知れません。オラフの家に行く、というとても小さなできごとに、3章も使ってます。大人が読んだら、まどろっこしいところもあるかもしれませんが、子どものときの世界観って、これくらいの大きさだったよなあと懐かしくもなります。鉱山が閉まって、みんなが失業するシーンも、あまり暗くならないよう引き算されていて、好印象でした。名前の出し方は、翻訳物でなじみにくい名前ばかりが出てきて、登場人物も少なくない、というときには難しいですね。

(「子どもの本で言いたい放題」2015年4月の記録)


亀山亮『戦場』

戦場

『戦場』をおすすめします。

「戦場カメラマン」と呼ばれる人たちも、いろいろです。生と死の間をかいくぐる体験を積んでいるうちに刹那的になる人もいれば、逆に哲学的になる人もいます。その体験をくぐり抜けて自分のやりたいことを見つける人もいるし、その体験を売り物にしてバラエティ番組で稼ぐ人もいます。

本書は、そんな戦場カメラマンの一人であり、戦場で片目を失った著者が、「若い頭と心」で見聞きした戦場と、戦争にさらされた人たちを写真と文章で描いています。取り上げられているのは最初がパレスチナで、あとは主にアフリカの国々。恐怖やとまどい、迷いや悩みも書かれているので、若い読者たちも、身近なものとして読めるかもしれません。

多くの戦場カメラマンたちは、日本ののんびりした日常と、戦場の緊迫感の間でとまどい、どちらが本当の現実か考えたりいらだったりし始めます。そのあたりも、あえて整理せず迷うままに書かれているのがリアルです。それと同時にこの著者は、戦争は憎しみや差別が引き起こすものというより、経済・政治のシステムが引き起こすものではないかということに気づいています。たとえばこんな文章。「爆撃で人が死ねば死ぬほど莫大な利益を得てほくそ笑む人間たちが存在する。巨大な経済システムがうごめいて、知らないあいだに人々は殺す側と殺される側に隔てられていく」。

そう、戦争をとめようと思ったら、「戦争をさせている力」について考えてみることが必要なんですね。この国の政治家が言っていることを鵜呑みにしていたのでは、ますます戦争に近づいていきます。総理大臣が唱える「積極的平和主義」にちょっとでも疑問を持った人には、特におすすめです。

(「トーハン週報」Monthly YA 2015年4月13日号掲載)