月: 2016年10月

2016年10月 テーマ:新しい扉がひらくとき

日付 2016年10月20日
参加者 アカザ、アンヌ、エーデルワイス、げた、シア、西山、ハリネズミ、マリ
ンゴ、まろん、ルパン、レジーナ
テーマ 新しい扉がひらくとき

読んだ本:

(さらに…)

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二日月

げた:すごく重いテーマですよね。自分の家族に起きたかどうなるか? 自分がママだったら、あんな風に堂々とできるか、自信がありません。でも、日本も、社会環境とか人々の意識も変わってきているから、昔ほどはつらいことはなくなっていると、思いますけどね。医者は患者に対して、最悪の状況を率直に話さなきゃいけないんでしょうけど、5歳まで生きたら表彰ものだなんて、言い方が間違っていますよね。

マリンゴ:この作品は、発売されて間もない頃に読みました。今回、再読できなかったので、記憶が遠すぎて。いとうみくさんの作品はそこそこ読んでますが、他の作品のほうが好きだなぁ。この本はそんなに……と思ったことは覚えています。

シア:3冊の中で最初に読みました。この作者の本は非常に読みやすいですよね。でも、私はこういう話は苦手です。あまり言いたくないんですが、どの話でも変に前向きで、無駄にキラキラした内容になってしまうので、読んでいて苦しくなります。いかにも課題図書な本ですよね。たった1年間の話なのに、主人公はこんなにつらい思いをしています。でも、周りは弱い大人ばかり。この先どうなってしまうんでしょう? なのに、主人公は無駄に前向きさを振り絞っています。なぜ、上の子が恥ずかしく思っていることを親が汲み取れないのでしょう? 見ないふりをしているのは親の方です。親が弱い分、主人公が強くならなければならない。それが家族のバランスです。本当にこの先がんばれるんでしょうか? 主人公はどんどん自分を抑制していきます。そのうち搾りかすになってしまいそうです。例えば公園での場面ですが、母親は溶け込むことに必死で、生意気な子どもたちの態度や言葉遣いを否定しません。仲良くなろうとすることは良いと思いますが、これでは言葉の暴力の恐ろしさを、この子たちも読者も学びません。主人公が飛び出していってもいいくらいの場面です。弱者は世の中の横暴を黙って受け入れるしかないんですか? 自分が前向きで良い人になれば、あたたかい人ばかりに囲まれてキラキラ生きていけるんですか? 描きたい主人公の強さとはなんなのでしょうか? 子ども向けの作品には今後のための教訓が必要だと思います。題材的に納得いきません。

西山:前に読んだとき題名が全体に生かされきってないと思った、ということと、公園のシーンだけは覚えてました。私は、現実的な作品を論じるときに、作品の外の「実際は……」という実例で語るのは違うんじゃないかと考えるんですが、でも、シアさんの発言を聞いていて、おかしいものはおかしい、というのがほったらかしになっているのはまずいんじゃないかと思いました。結構、それは犯罪だろう、とか、人権問題としておかしいだろうというような言動が、ドラマのひとつの山場として結構でてくる気がして、ダメなものはダメといわなきゃいけない。書いちゃいけないと言うことではなく、相対化はしてほしいと。でも、やはり、ひどいことを言う子どもたちから逃げないあのシーンは印象に残ります。それから、p172で真由が「女々しい」という言葉を使っています。これ、気になりました。いまさらこの嫌な言葉を使う必要があるのかな。p196で「芽生を学校につれてこないで」という思いを「いっちゃダメ」とするのは、新鮮でした。そういう思いをはき出させるのが読み慣れてきた児童文学のやり方だったと思います。

ハリネズミ:とても意欲的な作品ですが、私は、この主人公の心の揺れに、すんなりついていけませんでした。『ワンダー』(R・J・パラシオ/ほるぷ出版)を読んだときは、お姉さんが障がいを持った弟にやっぱり来てほしくないという気持ちについていけたんですけど、これも同じシチュエーションの割りには、すっといかなかった。

西山:香坂直の『トモ、ぼくはげんきです』(香坂直/講談社)も、同様のテーマでしたよね。

ハリネズミ:確かにそうだと登場人物に寄り添えるだけの必然的な流れが感じられなかったのかな。

まろん:対象年齢が小学校中学年くらいとのことで、全体的に読みやすく、障がいについて考える良いきっかけになる本だと感じました。私がこの本を読んで怖いと感じたのは、登場人物が誰も悪気がない、というところです。最後に春菜ちゃんが芽生を抱っこする場面がありますが、これはきっと春菜ちゃんにとって無意識のうちに変わるきっかけだったのではないでしょうか。こういう気付きがないまま大人になると、きっとレジで会ったおばさんのように、自分が言った言葉の重さを知らずに人を傷つけてしまう人になってしまうのだと思います。そういった意味では、この本は子どもたちにとってそうした気付きの役割を持つのではないでしょうか。

レジーナ:ひどい言葉でからかわれる場面ですが、私はそういう言葉を本の中で書いてもいいと思います。日本の児童書は「こういうことは書いてはいけない」というタブーが多いですが、大切なのは作者のスタンスと描き方ではないでしょうか。作者のスタンスがはっきりしていれば、どんどん書いていいし、そこで問題提起をしてほしいですね。難しいのは描き方で、私はこの場面はそこまで教訓的だとは思いませんでしたが、そう感じる人がいたなら、伝え方をもっと工夫したほうがよかったのかもしれません。

エーデルワイス:主人公は自分も構ってほしいという思いを、障がいをもっている幼い妹のために我慢している。その気持ちが伝わってきて、とても切ないです。わたしが開いている文庫に以前、障がいをもっている兄と、その弟が来ていました。弟はとてもおとなしくいい子でした。兄は小学4年生で亡くなりましたが、弟はどんな気持ちだったのかと思います。

ルパン:いとうみくの作品はどちらかというと苦手で、しかも課題図書。というわけで、まったく期待しないで読み始めたのですが……結局、かなりはまってしまいました。良い意味で期待を裏切られました。障がいをもった妹が生まれた、という事実と向きあわなければならない少女の葛藤がとてもよく描かれていると思いました。何も悪いことをしていない友人たちの言動にいつのまにか傷ついてしまう、その微妙な心の動きが、「ちょうど薄紙でスッと指を切るような痛さ。」(P83)という一文で、絶妙に表現されています。杏は、健常者の弟や妹がいる真由、障がい児に親切にする藤枝君、芽生の世話でいっぱいいっぱいのママ、といった存在に、少しずつ少しずつ傷つけられていくのだけど、相手を責められないもどかしさ、苦しさと戦わなければなりません。結局は自分自身との戦いです。それに、芽生が普通の妹だったらやりたかったこともたくさんあったことでしょう。赤ちゃんのときはたくさんかわいがり、大きくなったらいっしょに遊ぶ、とか、勉強を教えてあげる、とか。そういう夢がこの先ずっとかなわない、という切なさもあると思います。まだ幼い杏が、大きすぎる問題とせいいっぱい向きあっている健気さに胸を打たれました。ただ、せっかく、とても自然体に描かれているのに……この陳腐な帯の言葉はいかにも余計だなあ。「あたしと妹。ずっとずっと大切な家族。」だなんて。

アンヌ:最初に読んだ時には、障がいについての物語として読んでいたのですが、読み返して、これは、生命の力についての物語だなと思いました。先程、医者がこんな言い方をするのだろうかというお話が出ましたが、現代の医療場面では、生存確率とかが具体的に示されて治療方針が説明されると思います。患者の家族にとっては、それは余命宣言であり、過酷なものだと思います。赤ちゃんが生まれて喜びに満ちているところに、いきなり「死」というものが来てしまった。死ぬかもしれない家族がいるという状況はきついものです。世界がガラッと変わってしまう。だからこの物語の父親のように、必死で本やインターネットで病気について調べてくたくたになって、ふとしたはずみに主人公をぶってしまうような混乱も起きる。いろいろ大変ななか、父親も母親も変わっていく様子が描かれていき、そんななかでの主人公の動揺がていねいに描かれていると思います。赤ちゃんが生きていき、その命の温かさが、いろいろひどいことも言っていた春奈ちゃんの心にまで「かわいい」と思う気持ちを起こさせる。生きる力というものが、とてもうまく描かれていると思いました。最後も詩的で、何度も読み返すにはきつい本ですが、心に残る物語だと思います。

ハリネズミ:作家のサービス精神が旺盛なのでしょうか。p168で勢い何かが飛び込んできて怖い怖いと思ったら真由ちゃんだったというところ、マンガならいいんですが、シリアスなストーリーで急にリアリティのない場面が出てくると、ちょっと残念。p194で真由が「杏は杏のことをきらいでも、あたしは好きだよ。杏はうわべだけなんかじゃない。一生懸命お姉さんしてる杏も、そうやって自分のこときらいっていう杏も、あたしはどっちも好き」というところも、子どもの言葉というより作者のメッセージが前面に出すぎているように思いました。さっきも言ったんですが、杏が障がいをもった妹に学芸会に来てほしくなくて学校にも行けなくなるというところ、それまでにだいぶんいろんなことを乗り越えて進んできたように思えていたので、ちょっと不自然に思ってしまいました。p186には「友だちに障がいのある妹がいることを知られたくない」と言ってますけど、そんなのは学芸会を見に行くことには関係なく知られるわけだし。一所懸命に書いてる作家さんには悪いのですが、メッセージを伝えたくてストーリーを作ったせいか、人物がいまひとつ生きてこない感じがしてしまったのです。それから、公園の場面では、男の子たちが「キモイのがきた」とか「エンガチョー」とか「こいつヘンなの」と言うんですが、シアさんや西山さんが児童文学に書くべきじゃないとおっしゃっているのは私は違うと思います。言うべきじゃないというのも違うと思うんです。子どものこういう暴言は、かかわりの一つなんです。それを大人が受け止めて人と人のかかわりが始まり、理解も広がるんです。それを「言うな」「見るな」と言うと、障がいを持った人やホームレスや気の毒な人たちを見なくなります。かかわりも一切持とうとしなくなります。そのうちそういう人たちが存在しないかのようにふるまうようになるんです。むしろ、子どもがそう言ったときに、まわりの大人が「だめ」というのではなく、このお母さんのような反応ができるかどうか。そういう意味では、ここはよく考えて書かれていると思います。

(2016年10月の言いたい放題)


小やぎのかんむり

シア:表紙がとても可愛かったのですが、内容はそれに反してつらいものでした。どうしようもない人や感情を「手放すこと、断ち切ること」を伝えています。でも、断ち切れるものかなとも、断ち切っていいものだろうかとも思ってしまいました。とくに雷太の母親は自分の気持ちだけで行動しています。この母親は感情で自分の子どもを捨てていきましたが、親の義務はどうなっているんでしょう。この子の法律的な立場や、将来的に高校や大学はとか、これで苦労することになるんではないかとか、いろいろと考えてしまいました。何を言っても親に捨てられたという事実は雷太には残りますので、人の関係などは法律的に切れることはあるかもしれませんが、気持ち的に切れるものでしょうか。まあ、親子って言っても、他人程度の関係しか築けない人も多いですよね。この本は児童書だけあって、子どもが納得するための本だと思いました。中高生向きですね。

西山:市川朔久子の作品はいい! 最初から、どれも好きです。今回も、気になりながら読み出さずにいたのですが、最初タイトルを聞いたときは幼年向けかと思ってました。違いましたね。市川さんの文章がまず、心地いいです。そこはかとないユーモアも随所にあって。今回も冒頭から心鷲づかみにされました。いきなり父の交通事故で、え? と思った次の文で、「横断歩道でもないところを堂々と渡っていて」とあって、なんだ? とおもしろく感じて、でもすぐに事故を起こしてしまったおじいちゃんへの横柄さに、なんかおかしいぞ、となる。この父親像が主人公の抱える問題の中心にあるわけで、もう、なんてうまいんだろうと思います。ただ、この作品に限ったことでなく最近ちょっと考えていることがあって、このうまさ――例えば、この子に何があったのか伏せて書いていく。引っ張っていく、だんだん手持ちのカードを開いていく手順は、あざといというか少々品のないやり方と紙一重なのじゃないか、と。市川さんの作品は文体からして好きなのですが、この作品は、半分は、なにが起こるだろう? っていう伏せられた真相で引っ張られた部分もある気がします。小説はどんなに純文学的なものでも、多かれ少なかれそれはあると思うのですが、その度合いが文学とエンタメの違いかなと最近考えたりしています。住職のオチのない話では、『よるの美容院』(市川朔久子/講談社)の古本屋のおやじでしたっけ、ひょうひょうと食えないじいさんが、思春期の少女が抱えて張り詰めているものをふっと解き放つ緩さがいい。状況としては重いけど、こういう隅々に軽さがあっていいですね。『紙コップのオリオン』(市川朔久子/講談社)でも感じたのですが、幼い子を、いとしいという気持ちにする描き方も好きです。市川作品には、読書の愉しみに満ちています。

まろん:表紙の可愛さからほんわか優しいお話かと思いきや、かなり思いテーマを描いていて驚きました。「自分から離れようとしているんだね。」という箇所がありますが、これは家族の問題だけでなく、学校だったり、仕事だったり、色々なものに当てはまると思います。辛いんだったら思い切ってそこを離れて別の場所に行ったほうがいいというのは、今悩んでいる多くの人たちを励ますメッセージになるのではないでしょうか。ただ、家族というのはとても密な関係であり、このお父さんは主人公から離れようとしていないので、そう簡単にはいかないのでは、と心配です。あと余談ですが、ことあるごとに「セイシュンねぇ」と冷やかす大人たちが、可笑しくて好きです(笑)

レジーナ:「主人公がこの先どうなるか心配」という意見がありましたが、私はそうは思いません。夏芽が抱える問題は、決して簡単に解決するようなものではありませんが、心の中に帰る場所があるのは、人が生きる上で本当に大きな力になります。虐待を受けた子どもは、どんなにひどいことをされても親をかばおうとしますが、この本は「許さなくていい」と子どもに伝えています。許す必要はまったくないけど、いつか折り合えるときが来るかもしれないし、状況は何も変わってないけど、この子ならきっと大丈夫、と思える結末で、子どものもつ力への作者の信頼を感じました。

アカザ:重いことを書いているけれど、さらさらと読めました。重みを感じさせない書き方が、うまいなあと感心しました。なかでも、雷太が実に生き生きと描けていますね。生命力にあふれた、かわいい男の子が、虐待をする実の父親があらわれたとたんに大人しくなってしまう。実際にそういう現場に居合わせたことはありませんが、そうなんだろうなと身に染みて感じました。いくら血がつながっていても、こんな親なら絆を切ってもいい、逃げてもいいというメッセージを、しっかりと伝えている、今の子どもたちにとってとても大切な本だと思います。読みはじめたときは、また田舎で癒される話か、うんざり……と思いましたが、いい意味で裏切られました。でも、東京育ちのわたしとしては、地方で住みにくさを感じていた子どもが、都会で癒される話も読んでみたいな!

エーデルワイス:ひりひりと、きつかった。主人公が心配です。いい大人に恵まれて再出発しそうなのですが、ストンと落ちない。もうちょっと解決策がほしかったと思いました。『三月のライオン』(羽海野チカ/白泉社)を読んでいて、漫画の方が先を行っているかもと思います。

ルパン:かなりあとになるまで、物語がどこに向かっているのかわからず、そこはおもしろく読めました。一番印象に残っているのは、川遊びのシーンです。「このきれいな水と、わたしのなかみを、ぜんぶ取りかえられたらいいのに。そしたらわたしも、香子みたいになれるだろうか。」(p91)ここではまだ、夏芽の問題は明らかになっていないのですが、自己嫌悪に陥っている中学生の少女の気持ちが痛いほど伝わってきます。結局、父親から暴力をふるわれていることが徐々にわかってくるのですが、ものごころついたときからそういう目にあっていると、「自分が悪い」と思ってしまうんですね。そこのところも良く描かれていると思います。一歩まちがえば優等生的というか、ただの「いい子ぶっている子」になってしまう危険があるのに。ただ、距離の問題が気になりました。家から遠く離れた山村で、この子は勇気をもって父親と向きあう決意をかためるのですが、このあと、どうなるのかが心配です。結局、未成年のうちはこの父親が保護者のわけだし、母親は夫に絶対服従で、この子の味方にはなってくれない。そういう環境にまた戻っていかなければならないことを思うと、やっぱり重苦しいものを感じます。

アンヌ:情景描写がよく描かれていて、私の家のお寺を思い出しました。山の上で、黒い木の引き戸がとても重くて大きくて、縁の下も高くて広い。子どもがいくらでも遊べるような広い空間がたくさんある。そこに着いただけで、少し閉塞感から抜け出せるような所が思い浮かべられます。最初から、女子高の制服を着ているだけで痴漢やぶつかってくる男たちが書かれていて、雷太の父親の暴力の場面もあるので、これはたぶん主人公の父親の暴力の問題が物語の底にあるなと、推理小説的に感じながら読んで行きました。重い小説だけれど、サマーキャンプらしい憩いの瞬間もあり、読み返しても楽しめる小説だと思います。主人公の問いかけにふと外す感じの住職のセリフや、葉介との青春場面にはユーモアを感じました。若住職の過去や美鈴さんのモラハラ体験など必要だったのかなと思いつつ、つきつめて書いていないところはよかったと思います。主人公がいい場所にたどり着いてよかったと思いながら、何度も読んでしまいました。

ハリネズミ:とてもおもしろく読みました。今回の3冊の中では、私はこれがいちばんでした。親の虐待にさらされている子どもの数は、日本でも増えているんですよね。主人公は、親に殺意を抱いたことで自責の念に駆られて、自分を信じることができなくなっている。それがサマーキャンプに来て、自己肯定できるように変わっていくんですよね。親って、生物的に親になる次の段階として、どうあってもこの子を受け入れてとことん付き合っていく覚悟がないとできないっていう話を聞いたことがあるんですけど、その覚悟が持てない親が増えてるんだと思います。夏芽は、家に帰ればまたとんでもないお父さんがいて、頼りないお母さんがいるわけですけど、もうしっかりと自分を肯定できるようになり、自分のことを「宝」と思ってくれる人もいるし、自分以上に弱い雷太を守ろうという気持ちにもなっているので、もうだいじょうぶだと思います。同じ状態に戻ることはない。タケじいが、「親子は、縁だ。あんたとこの世を結んだ、ただのつながりだ。それ以上でも以下でもない」(p235)とか、「堂々と帰りなさい。子を養うのは親の務めだ」(p237)とか「くれぐれも言っとくが、『許してやれ』とか言う連中には関わるな。あれはただの無責任な外野に過ぎん」(p238)と言ってくれたことで、夏芽はどんなに救われたことか。子どもはみんな、どんなに虐待する親でも尊敬しなくちゃいけないし、好きにならなきゃいけないし、かばわなきゃいけないと思ってるんです。だから、これくらい強くはっきり言ってもらってはじめて、違う道もあることがわかって歩き出すことができる。雷太もけなげですが、この先居場所を見つけて生きていけそうだと感じさせる終わり方です。

げた:子どもへの虐待がテーマなんですが、虐待に遭っている2人の子どもが優しい3人の大人と、ひとりの高校生に巡り合って、ひょっとしたら、救われるかもし
れない世界の扉が開いたという話ですね。サマーステイなんて、50年前に経験したことを思い出しました。もう1度体験してみたいなと思いました。夏芽にとっては、現実の状況は全く変わっていないんですよね。今後の行く末については、読者に想像させるかたちになっていますよね。父親があまりにひどいのでびっくりしました。本当に嫌味なやつです。作者は取材して話を書いているでしょうから、実際にいるんでしょうね、こんな父親。母親もひどいですけどね。「自分を生かす我慢と殺す我慢」という言葉はなるほどと思いました。

マリンゴ:とても素敵な作品でした。キャラクターが魅力的で、特に雷太、住職は、個性が際立っていました。あらすじを語らせるだけのご都合主義の会話じゃなくて、生きた会話になっているところも、よかったです。ただ、一つだけ気になったことがあって。女子校に通う中3の女の子が、高1の男の子と出会って、途中からは一つ屋根の下で過ごすようになるのに、異性を意識する描写がないのが、不自然な気がしました。男子として好きか嫌いか、まで行かなくても、父親と同性なのだから嫌悪感があるのかないのか、とか比較したりするのが自然では? で、その理由についての想像なのですが……私は、著者が意図的に恋愛パートを排除したんじゃないかと思っています。さっきの「スティーブ」じゃないけど(笑)恋愛が描かれていると、クライマックスで、読者の興味はそこに行ってしまいます。けど、この物語では、ラストで処理しないといけない要素がとてもたくさんあって、恋愛に傾くとバランスが悪くなる。だから、要素が増えないように、あえて排除した気がします。だから、すべてが片付いた後で、急に意識し始める描写が登場。そこが違和感あります。たとえ雷太と3人でも、夜、いっしょにお墓とかを歩いていたら、何かしら意識はすると思うんですけれど。

ハリネズミ:自己肯定感がない子だからでは?

マリンゴ:それもあるかとは思うのですが、やっぱり「男性」というものに対して、なんらかの感情は持つのが自然ではないかと。

アカザ:最初のほうの、通りすがりに制服を触ってくる人のエピソードを読んでも、主人公が異性に対して持っている負のイメージが感じられるけれど、それが父親に対する感情となにか重なっているのかも。そこまでは書いていないけれど……。

西山:最初に1回だけ、葉介が白桐云々言ったときに、バシンと怒ってますよね。最初にきっぱり怒って、葉介に謝らせて、この先に、通学路で寄ってくるような男たちとは完全に違う存在として葉介を書くことが可能になっているのかもしれません。

シア:罪の意識に苛まれているから、ときめいてる余裕がないんだと思います。

(2016年10月の言いたい放題)


モンスーンの贈りもの

マリンゴ:ついさっき読み終わったばかりなのですが(笑)、全体的にとてもおもしろかったです。「お金」を否定せずに、使い道によっては役立つものなのだ、と提案しているところも、いい視点だなと思いました。ただ、あちこち、細かいところに突っこまずにはいられないというか……。たとえば、ダニタに求婚してきた男性が、あまりにステレオタイプすぎて。こういう、性格が悪くてビジュアルのひどい人だから、断って当然、となるのか。じゃあ、素敵な人だったらどうなるのか、と気になりました。あと、「虫」の扱い方がひどい(笑)。毛虫と1か所書かれているほかは、どんな虫なのか描写がまるでなくて。最初は、いい「小道具」だなと思ったので、拍子抜けしました。毛虫はいつまでも毛虫じゃなくて、数週間でサナギになるはずですしね。少しは描写がほしいと思うのは、やっぱり日本人だからでしょうか。欧米の人は、虫はひとまとめにbugの傾向が強いのかなぁ。

げた:基本的に楽しく読みました。やっぱり、話はハッピーエンドでなくちゃ。主人公の女の子ジャズは15歳の高校1年生なんですよね。大人の世界に踏み込もうとする男女が、お互いの気持ちを確かめ合う様をじれったく思いながら、ドキドキしながら、恋が成就することを願いつつ、楽しく読めました。それと、インドの人々の暮らしぶりも垣間見ることができて、1度行ってみたくなりました。でも、この年じゃ耐えられないかな。昔学生時代に、仲間の1人がインドに行って、大変な思いをしたというのを聞いていますから。人口もあの頃よりさらに増えているし、もっと大変だろうと思います。ジャズのお家で働くことになったダニタはなんとか自立したいと思い、お金をかせぐことを考え、ダニタのアドバイスを求めたんですよね。ダニタの3人姉妹を応援したくなりました。子どもたちに薦めたい本です。やっぱり、アメリカの高校生って、すごいですよね。自分の寄付金で基金まで作っちゃうんですものね。

ハリネズミ:とても楽しく読みました。インドの孤児院が出てきますが、かわいそうという視点がないのがいいな、と思います。それに、血縁ではない家族のありようが、すてきな形で描かれています。サラの養父母が、サラを孤児院に置いて行った生母に対して、「こんな宝物をくれた」として感謝の念を持っているのもいいですね。ダニタが幸せな結婚をしてめでたしではなく、事業を成功させようとするのも現代的。ただ、いくつかのキャラクターがステレオタイプというかマンガ的なのがちょっと気になりました。エンタメだと割り切ればいいのかもしれないですが。スティーブは、スポーツも勉強もできて、ルックスもいいし、ビジネスの才能もあり、礼儀正しくて、まじめ。こんな人、現実にいるんでしょうか? ダニタも出来過ぎですよね。翻訳もちょっとだけ引っかかるところがありました。たとえば、ジャズがスティーブを見て「わたしのおなかはドラムビートに合わせるように、のたうち始めた」(p4)とありますが、恋心をあらわすのにこういう言い方は、私にはあんまりぴんときませんでした。それから、「わたしという、ボディーガードがいなくなった今、ミリアムはきっと行動に出るだろう。とにかく、自分の気持ちをさとられずに、ミリアムがどこまで進んだか、できるだけぜんぶ探らなくちゃ」(p67)とあるんですけど、これだと中年女の確執みたいになる気がして、もう少し軽やかなほうがいいのかな、と思いました。

アンヌ:とても生き生きとして色彩や香りに満ちていて、おもしろい本だったと思います。サルワール・カミーズというインドの普段着の美しさや感触、モンスーンの雨の中のジャスミンの香り、インドの家庭料理を作る場面等は、知らない土地を五感で味わう気分にさせてくれました。よく理解できなかったのが、主人公のママです。特にアメリカでの活動内容について、有名な社会事業家というのは何をする人なのかとか、ママがどう魅力的なのかあまり伝わらない気がしました。それから、スティーブとの恋のまだるっこさがしつこかった。すでに飛行場の場面で両想いなのはわかってしまっているし、スティーブもミュージカルの『オペラ座の怪人』で、いびきをかいて寝ちゃうような人ですしね。

ハリネズミ:でもジャズにとっては、恋敵と行ったミュージカルで寝ちゃうんですから、そこも理想像なんですよ。完ぺきなの。

ルパン:美しさの基準は文化によってちがう、という視点は良いと思いました。が、読み終わってみると、腑に落ちない点が多々あり……。まずは、お母さんのサラ。主人公の言葉で「すばらしい人」と何度も力説されているけれど、何がそんなに魅力的なのか、いまひとつ伝わってきません。ジャズが抱えている最大の問題は、ホームレスのモナの裏切り、というできごとです。ジャズは、母親であるサラをお手本にし、サラのように弱者に手をさしのべようとしたのに失敗するんですよね。それなのに、このお母さんは、ジャズにはまったく手をさしのべていません。ほかの人たちには一生懸命尽くしているのに。そして、ジャズはインドに行って変わるわけですが、インドで友だちに愛されるのは、容姿がいいから、ということになっています。ジャズ自身の魅力や、インドの少女たちとの心の交流ができているわけではなくて。ダニタと出会うことで、ジャズは前向きな気もちにはなりますが、モナのことは何ひとつ解決しないまま物語は終わっています。ジャズは、モナの事件について、自分のなかでどう決着をつけたのでしょう。それが書かれていないので不完全燃焼のようなすわりの悪さを感じます。

ハリネズミ:モナのことは、ほかの人が教えられるようなことではないような気がします。自分で学んでいくしかないんじゃないかな。でもわだかまっていたのが、インドに行って心が自由になり、本来の自信を取り戻していくんですよね。

ルパン:ジャズの中で、モナのことは終わっていないと思うのですが。

ハリネズミ:後に他のホームレスの人たちを雇ったりもしていますよ。

ルパン:ホームレスの人を雇い続けているのはスティーブであって、ジャズ自身の中では何も解決していないと思うんです。

アカザ:モナについては、掘り下げて書いていないですね。そうしなくてもいいと作者が思ったんでしょう。

ハリネズミ:ジャズとしてはその体験も乗り越えることができたと書いてるんじゃないかな。ただ雇ったりするんじゃなくて、ビジネスの元になるお金を寄付して、そのビジネスがうまくいったら、次のビジネスもサポートできるようなシステムを考え出したんだから。人を見る目も出来てきたんじゃないかな。まあ、マンガ風な点があるのは否定しないけど。

アカザ:エンタメというか……。

ルパン:確かに、ダニタのことは助けるわけですが……なんだか「いい子は助ける。助け甲斐がある人は助ける」みたいですっきりしません。モナみたいな人ではないから助ける気になったのでしょうか。モナのような人とは今後どのように向きあっていくつもりなのでしょうか。それに、母親のサラも含め、夏が終わればアメリカに帰るわけですし。「モンスーンの狂気」が「一時的な善意」でなければいいのですけど。

エーデルワイス:主人公のジャスミンとスティーブは幼いころから波長があって、価値観があって、友情を育んで、同じ目的をもってビジネスパートナー。まさしく理想的な恋人。いろんなものが織り交ぜてあって、おもしろく読みました。3か月も家族で夏休みをとって海外へ行くなんて、日本じゃ考えられない。容姿で悩み、女の子は仕草とか、媚びるというのじゃないけど、アメリカの女の子にもあるんですね。主人公は性格的にそれができない。好感がもてます。そして、本当は美しいということにインドに行って気づかされる。

アカザ:エンタメとしては、おもしろく読みました。インドの衣装やダンス、食べ物も魅力的だし。主人公の恋の話も、ハッピーエンドに終わるということが最初からわかっているような書き方だけれど、同年齢の読者にとっては面白いかも。善意のアメリカ人がボランティアをするときって、こんな感じなんだろうなと、読み終わってから思いました。「いいことしちゃった!」感というか。英語に“cold as charity”という言葉がありますが、善意の行動をする側の後ろめたさというか含羞というか、そういうものが感じられないのですが、ないものねだりなのでしょうか。訳者あとがきの、ひとりひとりが誰かのためになることをやっていけば、社会が変わっていく云々という言葉にも、違和感を覚えました。あと、読み始めたときに、なかなかシチュエーションが理解できなかったのですが……。なにか全体にざわざわと落ち着かない感じで文章が流れていくのは、軽い訳と固い訳がまざりあっているせいかしら?

ハリネズミ:ジャズが寄付したお金は孤児院の基金になって、その基金でビジネスを起こした人が利益を挙げてそのお金が返せれば、次の人がビジネスを起こす資金になる、というふうに、うまく考えられています。作家もインド生まれだし、ただ白人がいいことしちゃった、と自己満足するような本とは違うと思います。

レジーナ:ボランティアの難しさや高校生のビジネスなど、興味深いテーマではあるのですが、訳がところどころひっかかってしまって入りこめませんでした。「爪をかむことは、彼をイライラさせることのひとつだ」(p10)、「わたしはパパに過度のストレスがかかっているようすがないか、注意深く見ていた」(p108)等、原文をそのまま訳してる感じで、大急ぎで訳したような……。15歳のちょっと皮肉っぽい視点で書かれているので、エンタメとしておもしろく読む作品なのでしょうが、「『あなたなら、だれでも巻きこんでやる気にさせられるわね』……『自分家族以外はね』ママはため息まじりにつけ加える。わたしに怒った顔を向けながら……あれがあってから、ママは完全にわたしを身放した」(p19)という文章からは、母親が単純でひどい人間のように感じてしまいました。『もういちど家族になる日まで』(スザンヌ・ラフルーア/徳間書店)は読みやすかったのですが。孤児院の院長が集まってきた子どもたちにバナナを配る場面とか、47ページの、妊娠した貧しい女の子の描写は、西欧のステレオタイプに感じられます。インドなどでは、小学生くらいで結婚させられるのが問題になっていますが、この女の子はそこまで幼くないですし、結婚の年齢は文化によって違うので……。

ハリネズミ:バナナを配る場面は、日本のバナナを連想すると違うと思う。バナナの房はもっと大きいのを買い求めて、お金をあたえるんじゃなくて栄養になるものを与えている。そこは、私はなるほどと思いました。さっきも言ったんですけど、国際援助という観点からはほんとに考えられて書かれている。女の子が早くに結婚するのは、国連もやめさせようとしています。女の子が教育を受ける機会を失うと、貧困の連鎖になってしまうからです。

まろん:瑞々しく、五感を刺激されるような文章で、魔法にかかったような読後感がありました。インドの貧しい人も裕福な人も、みんな生き生きと描かれているのがいいですね。私が一番印象に残ったのは、主人公が外見に非常にコンプレックスを持っている点です。周りから見ると気にしすぎにも思えますが、15歳という年齢は必要以上に見た目を気にしてしまう年頃なのかもしれません。私自身も同じように「私なんかがお洒落をしちゃいけない」と思っていた時期があったので、感情移入しながら読んでしまいました。私の場合は友人に「優越感を持つ必要はないけど、劣等感を持たなくてもいいんじゃない」と言われてはっとした経験がありますが、ジャズも外見の劣等感が消えたことが、自分が変わるひとつの大きなスイッチになったのではないでしょうか。

シア:図書館で借りられたのが最近だったので、軽くしか読めませんでした。10代の女の子による恋の思い込みがよく描かれていると思います。それから、貧困による負の力がどれだけ強いものかということも改めて感じました。カースト制度というのは本当に根強いですね。でも、物語ではそれよりスティーブとのことばかりが前面に押し出されている感じでした。もうちょっと現実の悲惨さを掘り下げて欲しかったんですけど。あとは、女の子が自信を取り戻していく姿もよく描かれていました。女性の自立には必要なことなんだと感じます。自立している女性として母親が出てきますが、彼女は養子であるので自分の生みの親を気にしています。養父母から「いっぱいの愛情しか与えられなかった」のは、最高の育てられ方だと思うんですが、それでは何故か不満らしいですね。それで家族でルーツ探しの旅行に行くわけなのですが、これでは養父母の立つ瀬がありません。自分のやりたいことを達成しようとする力を持った人に育ったことは非常にアメリカ的なのですが、行動の理由がはっきりせず、養父母がかわいそうなだけです。主人公は以前、良い行いのつもりでしたことで人に騙されてしまうんですが、良い行いをするには「脇役を務めた方がいい人も」いると諭されてしまいます。そこまで考えなくても良いのではないかなと思います。騙されないようにするのは当然ですが、立場によっては悪い人とわかっていても助けなければならない場面もあります。関わらないようにするのは、解決ではないと思います。また、ダニタとの友情も物語の軸なのですが、これがかなり力関係のある友情で、全く対等になっていません。何かこの力関係がひっくり返るようなイベントでも入れればいいのに、上っ面の友情が延々と続いて終わります。スティーブとの恋愛模様以外、どれも中途半端な印象です。ハリネズミ:養父母との関連は、どんなに満たされている子でも産みの親のことが気になるということは事実としてあるんだと思います。たとえばバーリー・ドハティの『蛇の石 秘密の谷』なんかにも、客観的にはなんの不満もない養親でも産みの親のことが気になる少年が描かれています。いったん会ってしまうと、それで満足して次の段階に行けるんじゃないでしょうか。

(2016年10月の言いたい放題)


ヴィンス・ヴォーター『ペーパーボーイ』表紙

ペーパーボーイ

『ペーパーボーイ』をおすすめします。

主人公のヴィクターは、ケガをさせた友だちへの罪滅ぼしのため、夏休みの1か月間自分がかわって新聞配達をすると申し出る。ヴィクターは何か言おうとするとどもるので、文節と文節の間にssss・・・を挟んだり、もっと簡単に言える言葉をさがしたり、時には緊張のあまり気絶してしまったりする。

時代は1959年。現代的な言語療法の研究が始まったばかりという時期で、人種差別もまだ激しかった。場所はテネシー州のメンフィス。自分も吃音をもっている著者が、故郷を舞台に回想を織り交ぜながら書いている。

吃音は、「ちょうど世界がひらけて広がる時期に、その人を孤立させ、周囲を困惑させる存在にしてしまう」(作者覚え書より)が、ヴィクターは配達先で否応なくさまざまな人たちと知り合う。美人だけど不幸を背負っていそうな奥さん、本がたくさんある家に住んでいて難しい言葉が好きなおじいさん、いつ行ってもテレビの前にかじりついている少年・・・。通りでクズ拾いをしているR・Tや、芝刈りを仕事にしている巨体のビッグ・サック、そしてだれよりも知恵がありそうなマームというメイドさんからも、ヴィクターは人生について多くのことを学んでいく。そして、見聞きしたこと、考えたことをイプライターで記録していく。

彼が書く文章には、カンマがない。カンマは息継ぎの印だとわかっていても、しゃべる時にたくさん息継ぎをしてしまうヴィクターは、書く時は息継ぎなしにすらすら表現したいのだ。翻訳も、読点なしだが読みやすい日本語になっている。

世界がひらけてヴィクターが成長していく物語の途中には、ヴィクターが父親とは血がつながっていないとわかる事件や、ヴィクターのナイフやお金を盗んだR・Tに、取り返しにいったマームが殺されそうになったり、ビッグ・サックが駆けつけて急場を救ったりという事件も入ってきて、読者をぐんぐん引っ張っていく。

(「トーハン週報」Monthly YA 2016年10月10日号掲載)


吃音を持ち、世間とのつき合いが苦手なヴィクターは、ケガをさせた友だちに代わって、夏休みの1か月間、新聞配達をすると申し出る。その配達がきっかけとなり、ヴィクターは、美人だけど不幸の匂いがする主婦、本がたくさんある家に住むおじいさん、いつでもテレビにかじりついている少年、通りでクズ拾いをしているR.Tなど、否応なくさまざまな人たちに出会うことになる。ヴィクターの成長物語でもあるが、間にさまざまな事件が入り込み、読者をぐんぐん引っ張っていく。翻訳もみごと。

原作:アメリカ/12歳から/新聞配達、出会い、成長

(JBBY「おすすめ!世界の子どもの本 2018」より)