月: 2017年3月

西村繁男『あからん:ことばさがし絵本』

あからん

『ことばさがし絵本 あからん』をおすすめします

「あ」から「ん」まで、それぞれの文字で始まることばをさがす楽しいあいうえおの絵本。

たとえば「た」だと、「たこあげする たぬきに たこ たいあたりする」というゆかいな文に出てくるものだけでなく、ほかに9個の「た」で始まるものが描かれています。さあ、何かな?

「ん」もおもしろいよ。

(朝日新聞「子どもの本棚」2017年3月25日掲載)


2017年03月 テーマ:自分ってなに? 心と体のずれのなかで

日付 2017年3月24日
参加者 カピバラ、クマザサ、げた、コアラ、さららん、サンザシ、西山、ネズ
ミ、ハル、よもぎ、リス、ルパン、レジーナ、(エーデルワイス、しじみ
71個分、マリンゴ)
テーマ 自分ってなに? 心と体のずれのなかで

読んだ本:

(さらに…)

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リトル・パパ

ルパン:まったくもっておもしろくありませんでした。ほかの2冊(魚住直子の『てんからどどん』とアレックス・ジーノの『ジョージと秘密のメリッサ』)は、入れ替わりによって主人公が成長していく物語ですよね。でも、これはおとなと子どもが入れ替わったことに何の意味があるのかさっぱりわからない。結局、入れ替わってよかったと思えるのはパパの絵が出版社にウケたことくらいでしょ。最後はいきなりヘンなマンガになっちゃってるし。この本のなかで唯一良いと思えるのは、あとがきの中にある、訳者の叔母さんがそっくりの双子で、ある日制服を交換して互いの高校に行った、というエピソードです。この作品全体より、このあとがきのほうがよっぽどおもしろいです。

カピバラ:パパがクマになったり、金魚になったり、中学年向きの本によくあるんですけど、それでどんなに大変なことになるのか、どんなに家族がドタバタするのかがおもしろいわけですよね。でもそこがあまりおもしろく書けていなかったと思います。ドタバタだけではなく、入れ替わったからこそできることとか、予想外の効果とかがないと物足りない。それに、赤ちゃんってこんなしゃべり方するかな? 赤ちゃん言葉がありきたりで、つまらなかったです。

さららん:すぐに読めてしまったけれど、全体的に「荒っぽい」印象を受けました。なにが荒っぽいのかなあ。赤ちゃん言葉のつくりかた? 中身はパパだけど、外見は2歳児の存在を、子どもはおもしろいと思うんでしょうか?

カピバラ:おもしろいと思って書いてるんじゃない?

ネズミ:何も言えません。おもしろいと思えませんでした。お父さんのセリフもおっさんくさくて、入れ替わった弟にもお父さんにも気持ちを寄せられませんでした。

レジーナ:人間が別のものに変身する話は、それをきっかけに、自分という存在や、まわりの人たちとの関係性を見なおすことに意味があると思うのですが、この本はドタバタでおわっている気がしました。p93で子どものホリーが言っている「みすみす」や、p30の父親のセリフの「おねしょの心配はご無用です!」など、言葉づかいもところどころ不自然で、のりきれませんでした。最後の場面がマンガになっているのはなぜでしょう?

リス:高齢で、脳の働きがゆらいでしまった人でも、時にはしっかりとした自意識があり、思いがけない反応ぶりを見せるということを私は実際に体験しています。私は外国に住んでいてこの本は一度も見ていないので、どんな文脈や文章の中にあるのかは分かりませんが、一つの言葉にとらわれないことも大事だと思います。でも何といっても、このようなシビアなテーマには、ユーモアの質が問われますね。

西山:読みにくかったです。どっちのことをさしているのか、うけとりにくくて若干イラつきました。体の大きなお父さんが、身体的にはいろんなことができなくなるわけですが、それがドタバタのネタになるのか。障がいのある人のことが浮かんで、ぜんぜん笑えなかった。むしろ、ざわざわさせられて、不快感を覚えました。みなさんの感想を聞いていて、『お父さん、牛になる』(晴居彗星作、福音館書店)というのを思い出しました。フンの始末に困るシーンとか強烈だった。あのくらいシュールだとまだいいように思うけど・・・・・・。

ハル:わたしは、おもしろくないどころか、読んでいて傷ついてしまいました。「グロテスク」という表現が使われていましたが、そのあたりからどんどん気持ちが暗くなってしまって。高齢者の自動車事故のニュースなどもよく話題になりますが、それに限らず、こういう現実だって身近にあるでしょう? なんにも考えずに、わあ大変だ!って、ドタバタを楽しめばいいのかもしれませんけど……やっぱり、ただ楽しければいいってもんじゃないと思います。

サンザシ:この物語の家族像は、ジェンダー的にみるととても古いですね。父親=家長という図式です。それから、突飛なシチュエーション設定にするのだったら、入れ替わったときのリアリティもちゃんと書いてもらわないと。ベンジーは2歳という設定なのに、体が大きくなったとたんパパの靴や服をどんどん脱いでしまう。大人の服にはボタンやジッパーやひもなどいろんなものがついてることを考えれば、たとえ体は動かせるようになったとしても、実際には無理ですよね? また、パパは「おむつを外せ」と何度もどなるんすが、出版社に受け入れられるだけの絵が描けるくらいなら、おむつなんか自分ではずせます。p74には「こんなおにいさんがいるのもいいわね」「そうだね。ぼく、ずっとおにいさんがほしかったんだ」ときょうだいが会話をしていますが、前とのつながりがないのでそこだけとってつけたように浮いています。物語の中のリアリティがぐずぐずなので、えっ?と思ってしまってちっとも笑えませんでした。

げた:絵がもう少しかわいいといいのにね。赤ちゃんになったお父さんが全然かわいくなくって、気に入らないなあ。それに、赤ちゃんになったパパは結構「赤ちゃん」の状態を楽しんでいるのに、赤ちゃんになったお父さんはそうでもないですよね。赤ちゃんになったお父さんが活躍する場面を登場させたらよかったのにね。

コアラ:p10の「きったないタオルケット」は、関西弁のようでおもしろいと思いましたが……。

よもぎ:単なる強調じゃないかしら?

コアラ:あまりいい絵ではなかったけれど、p104からのマンガの部分は、子どもが読んだらおもしろがるのではと思いました。最後、p126で、「パパは今、新しい本にとりくんでいる。題名は『リトル・パパ』」とあるので、この本がまさにそのパパが書いた本、という設定にすればよかったのに、せっかくのアイデアがうまく生かされていなくてもったいないと思いました。

よもぎ:お父さんと赤ちゃんが入れ替わるドタバタがおもしろいと思って、作者は書いたのかしら? ちっともおもしろくなかったし、読んでいるうちにどっちがパパか赤ちゃんか混乱してきました。原書にも最後のほうのマンガがあるのかどうかは知らないけれど、おもしろさが足りないと思って、サービスで入れたのでは? いちばんまずいなと思ったのは病院の場面。どうしても、認知症などの障がいのある方たちとダブってしまって(入れ替わったことを知らない、ほかの人たちには、当然そう見えたことでしょうし)さららんさんは「荒っぽい」とおっしゃったけど、ずいぶん無神経な作者だなと思いました。子どもたちに薦めたい作品ではないですね。

アンヌ:ネットで原作の表紙絵を見ましたが、すね毛だらけで、もっとひどい感じです。こちらの絵はあごの線がないところが松本かつぢ風で、特に赤ちゃんの絵がかわいい。でも、マンガのところは原作と同じ仕組みなのでしょうか?あまりマンガとしてもおもしろくありませんでした。しじみ71個分(メール参加):楽しいエンタメ物語だと思った。入れ替わりによって成長も何も起こらないところが気楽だった。教育テレビでやっているアメリカのホームコメディのようだ。ドタバタがあって、ドキドキがあって、やっぱり元に戻って良かったというだけの話だけれど、この単純明快さは小さい子にも楽しめるのではないか。言葉や訳にも気になるところは特になかった。

マリンゴ(メール参加):かわいらしい物語でした。入れ替わってからのドタバタが、ちょっと長い気がしましたが、子どもはこういう繰り返しが好きだろうから、いいんでしょうね。

エーデルワイス(メール参加):日本人の挿絵が原作とピッタリ合っていたが、原作には挿絵がなかったのだろうか? パパの体になったペンジーのやり放題がおかしい。赤ちゃんとパパの体の入れ替えのお話は、珍しいかも。楽しく読めた。

(2017年3月の「子どもの本で言いたい放題」より)


ジョージと秘密のメリッサ

ネズミ:とてもおもしろく読みました。気持ちよく、後味もとてもよかったです。本当の自分をなかなか外に出せないジョージに、ずっとケリーがよりそっているのもいいし、最後にお母さんが認めてくれるところがいい。悩んだり悲しんだりする、いろんな心理描写が子どもらしく納得のいく表現で描かれていて、説得力があると思いました。

レジーナ:ジョージの描写にリアリティがあって、胸がいっぱいになりました。ケリーが友だちとして支える姿もよかったし、スコットが、はじめはトランスジェンダーをゲイとまちがえたり、とんちんかんなことを言いながらも受けとめようとする場面もとてもよかったです。

リス:この本のテーマを知って、作家が創作活動を通して、どれだけ社会に貢献していることかと、改めて意識しました。タブーとなっていた、いろいろなテーマが作家によって本となり、子どもも大人も、現実世界に生じている事柄や問題に目を向けることができます。例えば家族関係や、子どもの自立性などでは、両親の離婚問題から始まり、老人問題、パッチワークファミリー……などと、家族、子ども像が変容して行くさまを。性に関わる児童書も出るようになりました。優れた児童書はいろいろな社会現象や問題について自由な目で、深く取り下げ、啓蒙的な役割を、時には積極的に、あるいは大胆に担ってくれていると実感しました。
それにしても、子どもが離婚した父親に対して、「いい人だけど、父親向きじゃない」と言うくだりに、新鮮ながらも、ある種のほろ苦い感慨を覚えました。今の子どもたちは親をそんなふうに批判できるのかと。あるいは人間の幸せのために作家が本の中でそのように言わせているのかと。さまざまな人間の生き方や考えを読者にアプローチしていく作家の姿勢が印象的でした。

西山:たいへんおもしろく読みました。トランスジェンダーの人がどういうときにストレスを感じるか、ああ、こういうことがこんなふうにつらいんだ、ということを初めて知った気がします。テーマとは全く関係ありませんが、食事の場面や、学校の送り迎えの場面で、おお、アメリカ!と思って、いやぁ食事がひどいなぁと、翻訳もので異文化に出会うというのを改めて実感しました。ひっかかったのはp94、「英語」と訳しているのは、「国語」の方がいいのでは? 子ども読者は自分たちにとっての「英語」と同じように捉えるのではないかと思うので。この作品を読んでいたとき、トランスジェンダーの多さを新聞記事で読んで、ふと、性別なんて血液型占いみたいなものじゃないかと思ったんです。血液型どころか、すべての人間を女性か男性かというたった2つの型に分けて、こういうものと決めつけるのは、ものすごくナンセンスに見えてきました。でも、世の中はまだまだ、一人一人をありのままで受け止めるには至っていないから、いかに生きにくいかを伝えてくれるこの作品はありがたいです。日本の最近の作品でも、「オネエ」とか「オカマ」とか、身をくねらせて女言葉で笑いを取るとかいう場面が結構あると感じていて、ものすごく認識の遅れを感じます。

サンザシ:「国語」か「英語」かというのは難しいところです。そもそも「国語」という表現は、国家の言語という意味で、ほかの国では使いませんから。日本の子どもになじみのある表現を大事にすれば「国語」になるかもしれませんが、異文化を伝えるという方を重んじれば「英語」という訳語にするかもしれません。

クマザサ:この本はかなりぐっときました。男の子らしさや女らしさの押しつけというある種の規範のなかで、息苦しさを感じている子は、きっとたくさんいると思う。主人公の心の揺れをていねいに追っていくところがいいですよね。翻訳もののYAなんかを読んでいると、LGBTをテーマにした本が最近はいろいろ出ていますが、同性愛をあつかった作品が比較的多くて、トランスジェンダーをテーマにしているのは珍しいと思います。動物園にいく場面も、すごくいいですね。この子の解放感がすごく伝わってきます。読んでいて切なく、苦しいところが多いけど、最後に自分らしくあることの喜びを感じさせて終わっているところに、とても好感をもちました。私は志村貴子さんの『放浪息子』(エンターブレイン)というマンガが好きなんですが、このマンガも、男の子になりたい女の子と、女の子になりたい男の子の話を描いています。ジェンダーのことや、子どもの気持ちをすごくていねいに拾ったいい作品です。ただ、こういうことを伝えるチャンネルは、マンガだけじゃなく、たくさんあってほしい。とくに子どもの本にこそ、あってほしい。そういう意味で、この本が出たことは率直にうれしいです。

ハル:すてきな本ですね。ケリーもお兄さんもお父さんも、みんなそれぞれに違う形の愛があってすごくいい。愛があふれてる。ジョージと親友のケリーは1週間ほど話せない期間がありましたが、もしかしたらそのときケリーには、ジョージの告白をどう受け止めるかという葛藤もあったんじゃないかと思います。でもそこを書かないでいてくれたことで、もし自分がこういう場面に出会ったら、こんなふうにぴょんと垣根を飛び越えて受け止めちゃえばいいんだよっていう例を見せてくれたような。LGBTだとかなんだとかあれこれ考えないで、ケリーみたいに受け止めればいいんだって。……すごくいい本だと思いました。

サンザシ:作者自身もトランスジェンダーということなので、心理描写がリアルです。ジョージの母親や兄との関係も、だんだんよくなっていくんですが、それも自然な流れで描かれているのがいい。それと、女性の校長先生が、校長室に「ゲイ、レズビアン、バイセクシュアル、トランスジェンダーの若者が安心してすごせる場所を」と書いたポスターを貼っていたり、ジョージの母親との面談で、「親は子どものあり方をコントロールできませんけど、ささえることはまちがいなくできます。そう思いませんか?」(p138)と言ったりする。そういうちゃんとした教育者に描かれているのもいいな、と思いました。最後のほうにジョージ(メリッサ)が女の子の服を着て女の子になって動物園に行ったときの解放感や高揚感が描かれているんですけど、私は、それほどまでに自分を抑圧しなくてはならなかったんだということを感じて、胸を打たれました。ジョージは、シャーロットの役を演じれば、家族にも自分が女性なんだとわかってもらえると思いこんでいるわけですが、そこはちょっと疑問でした。英語では女性の台詞と男性の台詞に日本語ほど差がないし、シャーロットは人間ではなくクモで見た目も人間ほど性別がはっきりしないので、そんなに効果があるのかな、と疑問に思ったのです。

げた:認識不足で申し訳ないんですけど、私はゲイとトランスジェンダーの区別がついていなかったんです。でも、違うんだってことがわかりました。そういうことがわかるってだけでもいいんじゃないかな。こういうテーマを扱った子どもの本を読むのは初めてなんですけど、もっと出てくるといいなと思いました。

コアラ:今回のテーマ(「自分ってなに? 心と体のずれのなかで」)にぴったりで、とてもよかったと思います。トランスジェンダーの子の気持ちもよくわかりました。ケリーがすごくいい対応で、本当にいい親友がいてよかったね、と思いました。なんでこんなに作者はジョージの気持ちが書けるんだろうと思っていたけれど、あとがきに作者はトランスジェンダーとあって、納得しました。あとがきには、この本の完成まで12年もかかった、ともありましたが、時間をかけただけあって、よくできていると思います。気持ちよく読めました。ジョージがシャーロットを演じた後とか、ケリーの洋服を借りるところとか、p213「メリッサは、おなかの底からぬくもりがこみあげてきて、指先へ、つま先へと、波のようにひろがっていくのを感じた。」というところとか、幸せ感がとてもよく伝わってきて、読んでいて顔がほころんできました。でも、訳は、ところどころ気になりました。p11の4行目「よお、弟」は、日本語では「弟」とは呼ばないだろうと。p38の1行目「わお、ケリー」も、英語の言い方そのままだし、もう少しうまく訳してほしいと思います。全体として、トランスジェンダーの人にどう接したらいいかがわかる本だと思いました。どんなきっかけでもいいから、子どもや親に読んでほしいし、どう接すればいいかわからないから変だと排除したりすることも、このような本を読めば、かなり減るのではないでしょうか。装丁も、読み終わってから見ると、口元を隠しているようにも見えるし、バツでなく丸の中にジョージがいるようにも見えて、深読みのできるおもしろい装丁だと思いました。

リス:表紙の白の余白が効いてますね。タイトルの中の一語“秘密”って、どんなことなのかしらと、読者の想像を駆り立てるように。私は、コアラさんがおっしゃった「弟」という訳語には違和感を持ちませんでした。日本ではあまり耳にしない言い方でも、外国ではよく使われる、ということで、訳文に取り入れれば、日本語の表現がまた一つ豊かになると思えますが。お兄ちゃんはそんな言葉使いで威張っているのでしょう。

よもぎ:とても良い本ですね。感動しました。この本を読むまでは、LGBTを取りあげるのはYAからと漠然と思っていたけれど、トランスジェンダーの人たちは、小学生のころから悩んだり、悲しい思いをしたりしているんですものね。小学生を対象としてこの物語が書かれているということに、大きな意味があると思いました。トランスジェンダーの子どもたちにとっても、そのほかの子どもたちにとっても、読む価値のある作品だと思います。作者自身の体験にもとづいているので、主人公のジョージはもちろん、お兄ちゃんやママやパパ、ケリーや校長先生も、生き生きと描けている。それから、『シャーロットのおくりもの』に全校で取り組むというプログラム、すてきですね。日本の学校でも、こういう取り組みをしているところがあるのかしら。中島京子さんの『小さいおうち』(文藝春秋)もそうですが、こんなふうに名作を下敷きにしている作品って、なんともいえないハーモニーをかもしだして、感動が倍増されますね。ただ、日本の子どもたちは「シャーロット」を読まないうちにこの本を読むと、なんというか、もったいない気がするけれど……。

アンヌ:題名に引かれて手に取って、何度も読み返しました。誰かとこの本について語り合いたかったので、ここで読めて嬉しいです。なんといってもこの本には、トランスジェンダーである苦しみとともに、ジョージの喜びについて書いてあることが素晴らしい。女の子としての自分を想像するときのジョージの幸せな気分、「ごきげんうるわしくていらっしゃる」という言葉から浮かび上がるシャーロットの象徴する女性像に憧れる気持ち、舞台でシャーロットを演じる時の役者としての喜び。そして、女の子の服を着てお出かけをするという喜び。普通ならお芝居の場面ぐらいで終わるところですが、この最終章があるのが重要なのだと思います。ここを読むと、トイレの問題が描かれていて、今アメリカで問題になっている「だれでもトイレ」などの必要性もわかります。親友のケリーだけではなく、ゲイと勘違いはしているものの、父や兄も見守ってくれているところに、学校でつらいことがあっても見てくれている人はいるんだよという作者のメッセージを感じます。その他にも、メッセージを感じるところは多々あって、p54のトランスジェンダーの女性がテレビで語る場面で「手術をして取りたいのか、取っているのか」と訊かれるところ。これは、p157で兄もジョージにたずねますが、ジョージのこれからの人生で何度も訊かれる事を、「それは自分と恋人以外の誰にも関係ないことだから答える必要はない」と知るのは重要だと思います。さらに、ホルモン抑制剤のことも2回出てきます。この本が、小学校3、4年生が対象なのは、思春期前の間に合ううちに子供たちにそのことを知らせたいからだと思います。トランスジェンダーの問題は多様です。体を変えなくては生きていけない人もいれば、異性の服装をすることによって解放されて生きていける人もいる。恋愛対象も様々です。ジョージの恋の対象がまだわからないと書いてあるのも、自分で選べる時まで決めつけなくていいんだよという、メッセージだと思います。感動して『シャーロットのおくりもの』(E.B.ホワイト作 さくまゆみこ訳 あすなろ書房)も読み返したのですが、ここで描かれる農場で繰り返される生と死の物語に託して、作者はジョージに短い生の中で、幸福にせいいっぱいに生きて欲しいという気持ちを表したかったのだと思いました。

ルパン:これは、何かすごい迫力のある作品だな、と思いました。この主人公は、「女の子になりたい」とはひとことも言っていないんです。「自分は女の子なんだ」って言いきってるんですよね。自分が信じていることを理解されない孤独感や苦しみもしっかり伝わってきます。動物園のシーンでは、初めて身も心も女の子になれた喜びが描かれていますが、この先のいばらの道を思うと読者としては手ばなしに「よかったね」と言えない気もしました。そういうことも覚悟のうえで自分を解放したということでしょうか。やっぱり真に迫るものがありますね。『てんからどどん』(魚住直子作 ポプラ社)はスカッとした清涼飲料水でしたが、これはあとあとまで残るコクのある飲物のようでした。

サンザシ:この子の将来は決して楽ではないと思いますが、それでも、理解してくれる人がゼロから複数人に増えたんだから、希望のある終わり方なんだと思います。

ルパン:アメリカ人の友人が、自分の息子が「女の子である」ことを早くから認めて、5歳くらいからsheと呼ぶようになったんです。服装もスカートやドレスで。男の子なのに女の子として生きさせることにする、と親が決めるのは早すぎる決断だ、と今までは思っていたんですけど、この作品を読んだあと、本人が実際にこのように感じているのであれば正しい選択だったのかもしれないと思うようになりました。

カピバラ:アメリカではラムダ賞やストンウォール賞など、LGBTを取り上げた本に与えられる賞もあって評価されているけれど、日本ではまだまだ手をつけていない分野です。この本は多様性を理解する本としてすばらしいと思いました。LGBTに限らず、人間関係の中で、思い込む、決めつける、ということがどんなに理解をせばめているか。そこに気づかされるところがいいと思いました。またこの本の読み方は2通りあって、ジョージと同じような子どもが読む場合と、それ以外の子どもが読む場合が考えられます。前者の場合、トランスジェンダーといってもいろんなケースがあるので、全部に共感するわけではないかもしれませんが、細かい部分の描写がリアルなので共感を得られると思いますし、後者の場合も、知らないことを知る、理解することができると思います。どちらもある程度成功しているといえるんじゃないでしょうか。

さららん:トランスジェンダーの人たちに対するテレビのドキュメンタリーで、「シスジェンダー」と言う言葉を使っているのに出会いました。「生まれた時に割り当てられた身体的性別」と「自分の性自認」が一致している人を指す言葉だそうで、こういう言葉ができたこと自体、すごい進歩ですよね。私たちが当たり前だと思いこみ、その当たり前を要求することが、トランスジェンダーの人を傷つけていく。異質な者を差別する根の深さと、理解することの困難を改めて思いました。トランスジェンダーとは違いますが、同性同士で結婚できるオランダでも、性のあり方の違いが受け入れられない人はまだまだいて、ひそかな偏見は残っています。この作品は、みなさんの言うとおり、子どもたちにトランスジェンダーを届けるのに、とても良い物語でした。ただp33の「午後の短い影が、大通りを走るジョージの前をすすんでいく」など、自然描写の訳にややわかりにくい部分があり、惜しいな、と思いました。

エーデルワイス(メール参加):新訳の『シャーロットのおくりもの』は私も大好き。シャーロットの気持ちを思って涙を流すジョージが素敵です。この作品を題材にした小学校での授業はいいですね。それだけアメリカでは普遍的な物語なのですね。小学校の劇でもオーデションをするところがさすが! ジョージがシャーロットの訳を熱望するところが胸を打ちます。ジョージの心の動きが丁寧に書かれていて、トランスジェンダーを理解する1冊だと思いました。親友のケリーと兄のスコットがとてもいい。トランスジェンダーで悩んでいる多くの人にもケリーとスコットのような人たちが寄り添ってくれますように・・・。「親は子どものあり方をコントロールできませんけどささえるこれはまちがいなくできます」と、ジョージのママに校長先生がいう言葉は名言だと思います。

マリンゴ(メール参加):とても興味深く読みました。私自身が、いわゆる「女子力」が低いこともあり、そこまでスカートを履きたい? そんなにお化粧したい?など、若干、ぴんと来ないところもありましたが、著者ご自身が、トランスジェンダーなので、説得力があって、ああ、そうなのかなと納得した次第です。p191で、雑誌の入った手さげを、そのまま返してもらえるという、効果的な小道具の使い方が、とてもいいなと思いました。

(2017年3月の「子どもの本で言いたい放題」より)


てんからどどん

げた:さらっと読めちゃったんですけど、なんとなく道徳の副教材を読んでいるような気がしてきました。そうはいっても、最後まで楽しく読めたし、話の筋を楽しみましたよ。入れ替わることで、お互いのいいところとか悪いところとかを客観的に、見つめることができるんですよね。まあ、そんなに深く読み込まなきゃいけないって感じの本じゃないなと思いましたけど。嫌いじゃないな。まあ、そんなところです。

コアラ:体が入れ替わる、という話はよくあるだろうと、ネットで調べてみたら、入れ替わりが出てくる作品をまとめたサイトがあって、やっぱりコミックでも小説・児童書でもたくさんありました。その、よくあるモチーフで無難にうまくまとめた作品という感じでした。カバーや人物紹介の絵がいいなと思いました。今井莉子の絵にけっこうウケて。よく特徴をとらえているなと思いました。森田くんは、今井莉子だけの関係で出てきたのかと読み進めていったら、かりんとの恋の話になっていって、少ない登場人物をうまく使っているなと思いました。ただ、中学2年生の女の子なのに、かりんも莉子も親に反抗していなくて、いい子だから、ちょっと違和感がありました。全体に、かりんも莉子も入れ替わりでいい方に変化するし、あまり深く悩まず、軽く誤解が解けたり自分を見つめ直したりして、いい子たちだな、と思いました。かりんと森田くんは恋がうまくいきそうなので、莉子にも恋が訪れたらいいなと思いました。

ルパン:いい話だな、と思いました。まあ、実際に入れ替わったらこんなもんじゃないだろう、とは思いましたが。読後感がとても良かったです。さっぱりしてて。私は道徳くささは感じませんでした。みんな良い方向におさまって、すかっとしたし。中味が濃いわけではないですが、それだけに清涼飲料水的なさわやかさで楽しく読ませていただきました。

カピバラ:入れ替わりの話っていうのは、状況自体がおもしろいんですよね。だから読者も、入れ替わったらどうなるんだろうという興味で引き込まれて読んでいけるということがあると思います。この話は、入れ替わるところだけが非現実なんです。だからちょっと嘘くさく感じるけれど仕方ないかなと思いました。軽いノリで読めば楽しめるタイプの話なんじゃないかなと。入れ替わったときのギャップとか、他人がそれに対してどんな反応をするのか、というところがおもしろく書けていればいいと思います。その意味では実際の中学生にも読めるし楽しい話だなと思いました。

さららん:軽いノリの「かりん」と、内気でもさもさしている「莉子」の対比がおもしろかった。最後にみんなでダンスを踊る大円団は、できすぎかもしれませんが、素直に好感が持てました。どうしてかなあと考えると、この物語、全体のトーンは軽くても、魚住直子さんらしい、身体性を感じさせる文章がところどころにちゃんとあって(例えば、入れ替わった体の重さを伝えるのに、「水の中を歩いているみたい」のような表現をするとか)、重しになってるんです。クリシェを重ねることの多い、ラノベの文体とは違っているみたい。マンガはいっぱい読んでいるけど、もう少し何か読みたいって子に、ちょうどいい本かもしれませんね。最後のほうで登場する「いかずち」は、もう少しフォローがあったほうがよかったような気もしますが……。

サンザシ:「いかずち」は、稲妻の化身みたいなものなんでしょうか。

ルパン:183ページのうしろから4行目に、入れ替わりから戻ったときの感覚を「指先のあまらない手袋をはめたときみたいにすみずみまで自分だという感じがする」とありますよね。こういうところ、すごくうまいと思います。

ネズミ:最初は「もしかして、これ、苦手かも」と不安でしたが、読み進めるとそんなことはなくて、楽しく読めました。このくらいの子って、自分はこんなふうと決めつけて、その枠からなかなか出られないところがあるじゃないですか。ドタバタふうだけれど、この本は他人になることで見えてくる発見や新しい視点を通して、もっと自由にものを見ていいよ、大丈夫だよと背中を押してくれる気がしました。莉子はだめだと決めつけていたのに、かりんが説得したらお母さんはコンタクトにしたり美容院に行ったりするのを許してくれるとか。シンプルな文体でややベタに(とはいえ、ベタベタではなく)書かれているので、普段それほど本を読みなれていない読者でも、マンガタッチの表紙にひかれて手にとっておもしろく読み通して、何か感じてくれるんじゃないかしら。読書へのいい入口になる本だと思いました。

西山:みなさんおっしゃるのを、そうそうと思いながら聞きました。出だしは結構どろどろしていて、莉子がネット掲示板について「どこもぐちやなやみであふれていて、読むたびうんざりしながらもほっとする」(p6)なんてある。そういうことを書くのが魚住さんだなと思いました。かりん像が新鮮で、「その日もしゃべって走りまわっているうちにあっというまに学校がおわった」(p12)とか、いたいたそういうタイプって、笑っちゃいました。ほんっとに話を聞いてなかったり……ああ、あの子たちの頭の中こんなふうだったのかと妙に納得しました。リアルな世界にはこういう落ち着きのない子がいるのに、物語ではあまりお目にかからなくて、新鮮でおもしろかったです。だから、入れ替わったときのギャップもあって、だからこそ入れ替わりが生きてたんだなと。あと、好きだったのは例えばp66の後ろから2行目。「待たなくてもいい。掃除しろといえばいい」と、部屋を片付け始めたのに感動して「いつ気がついてくれるか、待ってたの」と目をうるませている莉子のお母さんをバサッと切っている。こういうところ、ずいぶんタッチは変わったけれど、最初の頃の魚住さんの厳しさを見るようで好きでした。中学生が読んで、おもしろかったよと口コミで広げることのできる本だなと思います。

ハル:私も、すごくバランスのいい本だなぁと思いました。お話自体は軽くてさらっと読めてしまいますが、表現のおもしろさはちゃんとあって、文学すぎず、軽すぎず。普段本を読まない子が読書のおもしろさを知るきっかけになるような、ちょうどいい本なんじゃないかなと思いました。キャラクターの設定もなかなかリアルですよね。だいたいこういうのって、外見が地味な子は内面がすごくいい子で、派手な子は改心する、というケースが多いように思いますが、そのパターンにはまっていないところもよかったです。コアラさんに同じく、莉子にも最後、もうちょっといい思いをさせてあげたかったけど、この1歩を踏み出せただけでも、莉子にとっては大変身なんですよね。

サンザシ:私も、表紙を見てラノベかなと思ったのでそんなに期待しなかったのですが、おもしろく読みました。まったくタイプの違う二人が入れ替わって、それぞれ普段ならできない体験をしてみるというところは、うまく書けているなあ、と思います。登場人物は、かりんのお父さんなどステレオタイプの人もいるので、ラノベっぽいですが、その割りに教訓的ですね。お互いのいいところを認め合うようになって、次の1歩を踏み出すことが奨励されているみたいな。でも、この内容をすごくまじめに書くとだれも読まないと思うので、こういう書き方もありだと思います。中学生くらいだと、自分の存在に自身がない人も多いので、おもしろく読んで考えるきっかけをつかむにはいい本だと思います。

レジーナ:私は物足りなかったです。さらっと読みました。謎の男の正体が最後までよくわからなくて、消化不良です。かりんの父親の描き方もステレオタイプで、人物造形や展開がラノベっぽくて……。エンタメならもっと楽しく読めないと。こういうのが好きな子もいるのでしょうが。

リス:その“なぞの男”は一応登場人物の一人ですが、中身がない。そのため、現実には起こり得ないことを可能にする力は持っていても、作品全体の中では存在感が薄い。創作上、彼にあたえられた役目、意味合いは、この作品がファンタジーというジャンルに属していることのアリバイとか、象徴を成しているだけだと思えます。便宜上、とってつけたと言う感じがしなくもありません。また、文体については、日常生活での会話がそのまま文字化されていますので、わざわざ、字を追って行くことにまどろっこしさを覚え、読書になかなか気乗りがしませんでした。それで読後の印象も薄かったです。同じ作者の『園芸少年』(講談社)は作品世界に引き込まれ、印象深く、すごく良かったんですが、この作品は、読み始めた時の第一印象は、作家になりたい人にとって、お手本とみなされる、ある種のパターンにそって書かれているみたいだと感じてしまいました。
 読後の“発見”としては、この話は、ファンタジー仕掛けになっていますが、これって、いわゆる、新聞、雑誌、ネットなどでの“人生相談欄”を別の形式にしたものではないかと思ったことです。相通じるものがありませんか? 違うところは、回答者(作者)が一方的にアドヴァイスを与えているのではなく、主人公が自ら答えを見い出して行く、という形になっています。その点が主人公に前向きな姿勢を与えていると思います。ただ同時に、教育的なねらいも感じられます。作者が言いたいことは、他の方法でも良かったのでは?

サンザシ:読書なれした子どもには確かに物足りないと思うんですけど、今は骨があって質が高い本だけを子どもに勧めていたのでは読書教育は成り立たない時代だと思います。イギリスでもアメリカでも日本でも、本嫌いの子どもや、そんなに本が好きじゃない子どもをどう読書に誘うか、ということが問題になっています。だから私は、そういう観点から次の読書のステップになるような本を選んで手渡すのも必要だと思うんです。

リス:中高生向けの小説には学校生活を背景にして、登場人物たちの心理や感情が綿々と綴られている作品が多く見られますが、それは多少なりとも日本独特の私小説の伝統から来ているのでしょうか……? また、それを好む読者がかなりいるのだろうか……、と。この本を読んでいるうち、なぜか、ふと、そんな疑問を持ってしまいました。『園芸少年』が2009年に、『くまのあたりまえ』が2011年、そして『てんからどどん』が2016年に出ました。『くまのあたりまえ』という本にちょっと目を通しましたが、ジャンルも内容も文体も他の作品と全然違っています。無駄な言葉はそぎ落とし、非常に簡潔。結局、この作家さんはいろいろなものを書けるのでは……?

よもぎ:魚住さんの『園芸少年』は、アイデアも、内容や文体もおもしろい傑作でしたけど、この作品はそれほどではなかったですね。すらすら読めて、普通におもしろいというか……。私はお説教くさいとは思いませんでした。この年頃の子どもたちは、周囲の友だちが自分よりずっと優れているように思えて、憧れたり落ちこんだりすることがよくあると思うのですが、そういう子どもたちには真っ直ぐに届く作品だと思います。こういう読みやすい本を何冊も読んで、そのうちに自分の心に本当に響く1冊に出会えばいいのでは? ただ、「雷」と「ほかの人と入れ替わる」というのがどう結びつくのか、あいまいでよくわかりませんでした。

クマザサ:めちゃくちゃ早く読み終えてしまったんだけど、あまり印象に残りませんでした。私はたぶん、この本のいい読者ではないというか、すごく本好きの子どもだったので、こういうさらっと読めるような本は、あまり必要としてこなかったんだろうと思います。かりんの父親が「女の子は勉強しなくてもいい」みたいなことを言い出すじゃないですか。こういう思想はほんと撲滅したいですね。作中でもそれは否定されていて、ちょっとほっとしました。短くてテンポがいい、なんというか手に取るのに敷居が高くない作品だと思いますが、そんななかに、現代的なテーマも一応盛りこまれている。大事なことだと思います。

西山:ラノベって、定義がむずかしいですね。表現の特徴とか、物語の形式などで分類できるカテゴリーではないみたいです。どのレーベルから出ているかという、外的な要因で言うしかない。以前、ラノベに詳しい方と話していて、そういう理由で西尾維新はラノベではないと聞いてびっくりしたことがあります。

リス:かりんとか、莉子とかと、主人公に名前が付けられていますが、だからといって、彼女たちにそれほど個人性が与えられているわけでなく、同じ、あるいは似た悩みを持った子どもたちの代表格、典型として扱われています。その意味では表紙のマンガ的な絵はぴったり合っていると思います。人物をマンガ的に描くと、個性が欠けて、みな典型化されるでしょう。でも、それがさまざまな読者の共感を呼びことになるのでしょう。とっつきやすいし。

カピバラ:本を読まない子どもに手渡す本が必要ってことですよね。ステッピングストーンになればいいと思います。でもラノベに群がる子どもは一生ラノベしか読まないのかな?

西山:読む子は、ほんとに何でも読む。たしかに、ラノベだけで、それ以外に手が延びない子もいることはたしかですが、右のポケットに岩波文庫、左のポケットにラノベという生徒にも出会ってきました。片や、小説を読まないだけでなくマンガも特に読んでいないというパターンがはっきりあることに気づいたことがあって、物語好きかどうかという気がします。

サンザシ:今はほかに子どもの興味をひきつけるものがたくさんあって、放っておくと子どもたちは本の楽しみをまったく知らないで大人になってしまう。それはもったいないので、楽しい入り口になるような本も必要じゃないかな。

さららん:前に読んだ『フラダン』(古内一絵著 小峰書店)も、タイプは違いますが、ノリのいい本という意味では共通しているかも。エーデルワイス(メール参加):魚住さんの作品を読んだのは、『非・バランス』以来です。軽いタッチですがお説教臭くなく、見た目だけではない主人公それぞれの悩みを、読者にも共感できるように書いていると思います。莉子とかりんの親にはやれやれと思っていましたが、莉子とかりんが変わっていくと親もよい方向に変わっていったのでホッとしました。「黄色い帽子のおじさん」はここでは恐い存在として登場しますが、なぜか「おさるのジョージ」に登場する黄色い帽子のおじさんを思い出しました。

しじみ71個分(メール参加):同性間のとりかえばや物語で、思春期の女子なら一度は考えたことがありそう。特に、容姿や性格に自信がなく、コンプレックスを持つ子の気持ちには共感できた。逆に、すらっと可愛い、快活な子が目立たない子と入れ替わりたいというモチベーションにはそんなには説得力を感じなかった。それと、「鹿児島の黒豚」を連呼して悪気がないというのは、ちょっとあんまりにも鈍感すぎやしないかなと思った。しかし、立場が変わることで、家事や勉強の大事さとか、人との付き合い方とか、気付かなかったことを発見したり、自分の良さを見出したりしていく過程のエピソードは丁寧に描かれていて、主人公たちの心情から離れることなく読めた。かりんの友だちも人が良く、実は莉子を認めていたり、森田くんもかりんのことを思っていたという辺りは、うまく行き過ぎだけれども、読んで文字面から不必要に傷付くことがない、安心できる展開だった。一方、家族や、黄色い雷の描写は必要最低限であっさりしているが、書き込み過ぎないことで、2人の心情から目が逸れにくい効果があると思った。
 最初の掲示板への依頼殺人の書込みが招いたのが、現実の殺人者ではなく、しかも莉子が1人で退治したという筋は、莉子がコンプレックスを自分で克服するということの比喩だろうと思うが、単純で分かりやすいので、小学校高学年の子たちがサクサクと読むにはちょうどよいかもしれないと思う。深くえぐらない分、感動はしないが、立場を変えて、相手のことを考えてみたら、と子どもに気軽に一声かけるのに良さそうな作品だと思った。

マリンゴ(メール参加):魚住直子さんの、ユーモラスでちょっとシュールな物語。前から面白いと思っていました。優等生と、劣等生、というようなありがちな対比ではないところがよかったです。特に、かりんの人物造形が面白かったと思います。

(2017年3月の「子どもの本で言いたい放題」より)


ただいま!マラング村〜タンザニアの男の子のお話

さらら:「ただいま!」は、挨拶の言葉だったんですね。「只今現在」の意味かと、思ってしまいました。不安な気持ちや様々な感情表現が、きちんと書き込んであるのは、好感が持てました。お兄ちゃんとはぐれた後、ストリートチルドレンになるのが少し唐突かな、と思ったのですが、描かれている部分と描かれていない部分でうまくバランスを取っている。主人公は途中で、シスターに惹かれて施設に入る。でも、どうしていいかわからず飛び出してしまう。そうした心理もよく描かれていますね、短いページ数の中で。派手なところはないけれど、誠実に描かれた物語という印象を受けました。1箇所だけ、「二年前から(犬が)しずかなねむりについている」という訳語にひっかかりました。これでは犬が死んだことが、子どもにはわからないのでは?

アカザ:とても好感が持てました。こういう作品は年代の上の子どもが対象でないと難しいと思っていましたが、低年齢の子どもたちにもよくわかる書き方をしていて、はらはらしながら最後まで読みました。世界にはいろいろな子どもたちがいて、いろいろな暮らし方をしているということを幼い子どもたちに伝える作品が、もっともっとあってもよいのではと思いました。

ジラフ:人ってどんな時代に、どこに生まれるか、本当に選べない。その与えられた環境の中でいやおうなく生きていくしかない、というあたりまえのことをひしひしと感じて、胸にずしんときました。この男の子の場合は、寄宿舎に入って勉強することで人生ががらりと変わりますけど、実話がうまく物語に昇華されていて、自然に読むことができました。ただ、時間の経過が、路上生活から寄宿舎に入るまで4年、それから村に帰るまで5年と、いずれも章がかわってページをめくると、それだけの時間が経っていて、男の子は外見的にもずいぶん成長しているはずなので、そのあたりを読者の子どもがイメージできるのか気になりました。

たんぽぽ:中学年から、世界中の子ども達に目を向ける導入としてもいい本だなと、思いました。3年生ぐらいだと、後半の時間の経過が、理解できるかなと、少し気になりました。

夏子:皆さんが指摘されたポジティブな部分は認めた上の話ですが、西洋人が見たアフリカという感じが、すごくするんですよね。難しいことは承知のうえで、アフリカの人が書いたアフリカの本が読みたいと思いました。タンザニアの状況は苛酷ですが、日本の子どもたちだって苛酷な状況に陥ることはある。とはいえまったく違うことがあって、それは、日本の子どもに援助の手を延べるのはたいてい日本人(=同じ文化の人間)だけれど、タンザニアの子どもに援助の手を延べるのは、たいていは西洋人(=異文化の人間)ということ。結局、主人公の少年は、西洋化するしかないんでしょうか? 本当にそれしかないのか、私にはわからないんです。私は15年ほど前に、タイの人が書いたタイの本を読みました(後で思い出しましたが、ティープスィリ・スクソーパー作『沼のほとりの子どもたち』[飯島明子/訳]で、1987年に偕成社から出た本でした)。9割くらい読み進むまで退屈で退屈で、何度も途中でやめようと思ったんです。でも読み通したら、最後の部分が、忘れられないほどおもしろかった。ああ、時間の流れがわたしたちとは違う、と体感できたことが、読後の満足感につながっているんだと思います。もちろん最後だけ読んでもダメで、これを味わうには、退屈に耐えないと。となると今の日本の子どもたちはなかなか読みきれないでしょう。子どもたちが読める本で、アフリカやアジアの人が書いた本は、そうはないですよね。西洋の目から見たアフリカであっても、まずそれを知ることが必要なんだと思いますが……。

レジーナ:西洋から見たアフリカの本というのは、確かにそうですが、書き手は西洋の側にいるので、慈善団体の人がいい人に描かれているのは、仕方がないかもしれません。最後のインタビューで、寮ではペットを飼えないと語っているので、寄宿学校にドーアを連れていく部分は、フィクションでしょうか。私が少し気になったのは、挿絵です。ユーモラスなタッチだからかもしれませんが、目鼻が大きく、唇が厚い姿を、必要以上に誇張して描いています。これはポリティカリー・コレクトという観点からは、どうなのでしょうか。フランク・ドビアスの描いた『ちびくろさんぼ』(ヘレン・バンナーマン作 岩波書店/瑞雲社)があれほど物議を醸した後ですし、今の時代の本ということを考えると……。アフリカの人は、どう感じるのでしょうね。

コーネリア:最初は実話とは気づかなくて読み進めました。盛りだくさんに小道具を使ってドラマチックに創作されているつくりものの世界に慣れていると、最初は物足りなく感じました。でも男の子の視点がぶれずに書いてあるので、好感をもって読み進めることができました。半ばくらいから、ツソといっしょになって、応援しながら読みました。ハッピーエンドの方がいいから、最後にお兄ちゃんと会えてよかったのだけれども、村でお兄ちゃんが暮らしていたというラストには、ちょっとしっくりきませんでした。どうして、お兄ちゃんが先に帰っていたのか? はぐれたら、お兄ちゃんの方が弟を探すのではないか? 疑問が残ってしまいました。最後のインタビューで、お兄ちゃんがどうしていたのか、聞いてもよかったのでは。読者対象が、2年生ぐらいだと、これくらいストーリーをシンプルにする方が読みやすくていいのでしょうか?

カボス:みなさんがおっしゃるように、一見良さそうな作品で、好意的な書評もいろいろ出ているのですが、タンザニアに詳しい人に聞いてみると、あちこちに間違いがあるのがわかりました。遠いアフリカの話なので日本の人には間違いがわからないかもしれませんが、こういう本こそ、ちゃんと出してほしいと思います。
 まずスワヒリ語をドイツ語読みのカタカナ表記にしてしまっています。カリーブ、ドーア、カーカ、バーバ、バーブと出て来ますが、スワヒリ語ではカリブ、ドア、カカ、ババ、バブと、音引きが入りません。白人のこともワツングとしていますが、ワズングです。ほかにも、p9に「ツソが水をくんでこないと、おばさんが、トウモロコシをつぶしてお湯でねった晩ごはんをつくれないのだ」とありますが、これは主食のウガリのことだと思います。とすると、乾燥してから碾いたトウモロコシを使いますから、不正確です。p12には「ツソは、大いそぎで、手のなかのおかゆを口にいれた」とありますが、これもウガリのことなのかもしれませんが、おかゆとは形状が違います。おかゆのようなものもありますが、それは手では食べずにコップに入れて飲むそうです。p10にはカモシカが出てきますが、アフリカにはカモシカはいません。
 翻訳だけでなく原文にも問題があるかもしれません。p24に「お日様が昇る方向(東)にいけばモシがあり、ダルがある」とありますが、目次裏の地図を見るかぎり、モシはマラング村から西南の方向にあるようです。バスがダルエスサラームにつく場面では海が見えるとありますが、バスステーションからは海は見えないそうです。現地をよく知っている人は、バスの座席にもぐりこんで旅をする場面が、モシからダルまでは7〜8時間もかかるのに、ずいぶんとあっさりした描写だな、とおっしゃっていました。またp106には「アルーシャのまわりの村には、まだ学校などないのがふつうだった」とありますが、アルーシャは大きな町なので、周辺の村でも学校はあるのではないかという話でした。欧米の作品だとみんないろいろ調べて訳すのに、そうでない場所が舞台だと、そのあたりがいい加減になってしまうのでしょうか? そうだとしたら、とっても残念です。こういう作品こそきちんと出してほしいのに。訳者の方は、現地に詳しい人に聞いたとおっしゃっていたのですが、どうしてそこでチェックできなかったのでしょう? たとえばウガリのことなどは、だれでも知っていることなのに。そういうせいもあってか、全体に、「かわいそうなアフリカ人の子どもが西欧の慈善団体のおかげで一人前になりました」という感じがにおってきて、私はあまり好感を持てませんでした。著者がどの程度、ちゃんとインタビューして、場所なども取材したのか、それも疑問です。
 前に、『ぼくのだいすきなケニアの村』(ケリー・クネイン文 アナ・フアン絵 小島希里訳 BL出版)が課題図書になったとき、スワヒリ語が間違いだらけで困ったな、と思ったのですが、それと同質の違和感をこの本にも感じます。今はアフリカ人の作品もあるのだから、欧米の作家の中途半端なものを翻訳出版しないでほしいと思います。アフリカ子どもの本プロジェクトでもこの本を推薦するかどうか検討したのですが、推薦できないということになりました。ちなみに、編集部には再版から直してほしいとお伝えしてあります。(後に再版から推薦)

一同:そうなんですか。ちょっと読んだだけじゃ、わかりませんね。

プルメリア(遅れて参加):表紙をはじめ挿絵がいいなって思いました。活字も読みやすいし。目次も関心を引きました。作品からタンザニアの人々の生活や村の様子がよくわかりました。わくわくしたけど、でもあまりにもハッピーエンド。カモシカって、寒いところにいるのではなんて思いました。書名『ただいま!マラング村』の意味は、インタビューを読んで納得しました。

アカザ:さっき、レジーナさんが絵は問題があるのでは、と言ってましたが。

コーネリア:子どもたちの手に取りやすい絵にはなっていると思います。

(「子どもの本で言いたい放題」2014年1月の記録)