『ルビーの谷』
シャロン・クリーチ/著 赤尾秀子/訳
早川書房
2004.07
原題:LUBY HOLLER by Sharon Creech 2002

版元語録:ダラスとフロリダは孤児院育ちでひねくれ者のふたご。夏休みの間、美しいルビーの谷で暮らす老夫婦に引き取られた。ところが問題を起こしてばかり…。
*2003年カーネギー賞受賞作

紙魚:いちばん馴染めなかったのは、このふたごの年齢。13歳とありますが、会話や行動からはとても13歳とは思えない。だから、この子たちの像をつくりあげられないまま読むのがしんどかったです。会話もおかしいですよね。ほかにも、いろんな疑問が残ります。後半、孤児院の院長夫婦がやっきになって買い物する描写が続くところなんかは、コミカルに見せたいのか、それぐらいひどい人なんだという深刻さを出したいのか、どちらなんでしょう? Zが最後どうなったのかも気になります。それから、老夫婦にとっての旅の意義とはなんだったのか? 前半部分でそれがちゃんと伝わらないと、夫婦の生活実感とか、二人がそれぞれ子どもをつれて旅に出る意味など、うすっぺらいものになっていまいます。文章からは伝わってこないけど、実際のところはこうなんじゃないかと思って読む感じでした。

カーコ:確かに、私もずっとちぐはぐな感じがあり、これは原作の問題なのか翻訳の問題なのかと思いながら読み進んだところがあります。ふたごの視点と老夫婦の視点を使うことで、思っているけれど言わないこと、思っているけど伝わらないことなどが、鮮明になっていて、そこはうまいと思いました。自然に年長者の思いが、読者に伝わってきますし。会話が多く、本来は読みやすい作品のはずなので、子どもの本としての目配りがもっとほしかったです。ルビーの谷の美しさなど、心にしみる部分があるだけにもったいない。また、『ホエール・トーク』(クリス クラッチャー著 金原瑞人訳 青山出版社)を読んだときも感じたことだけど、外国のもののほうが、大人が断然くっきりしています。日本の大人は、子どもたちに大人の文化を見せていないのかな、と考えさせられました。

アカシア:私も、ダラスとフロリダは、読んでいてもっと小さい子たちかと思いましたね。でも絵を見るともっと大きいのよね。老夫婦の気持ちや人柄はよくわかるんだけど、ふたごの描写は、ステレオタイプだと思いました。カーネギー賞作品なんだから本当はもっといい話なんだけど、翻訳がそれを伝えていないのかしら? 私も、孤児院の院長夫妻には全くリアリティが感じられなくて、それが作品全体のバランスを崩していると思いましたね。ここでまたトチさんの、メモを紹介します。

トチ:(メモ):原書のタイトル(Ruby Holler)を見たときに「なにこれ?」と思ったのですが、holler は hollow(窪地)の方言なんですね。大声で叫ぶ holler と窪地のhollerをかけている、なかなかしゃれたタイトルです。それはともかく、『ロラおばちゃんがやってきた』(2005年2月)のときのハマグリさんの台詞を借りれば「いい人たちがでてくる、いいお話で、感動しなければと思って読みました」(本当は、いい人ばかりではないんですけどね)。1章の「銀色の鳥」で、この子達はいずれ銀色の鳥に導かれるようにして、温かい家庭に引き取られるのだろうなと思いましたが、たちまち3章で、長い道筋の末にたどりつくのだろうと思っていた温かい家庭の持ち主があらわれたので、ちょっとびっくりしました。後はもう、そうなるだろうなと思うような道筋で進んでいき、「それからはみんな、いつまでも幸せに暮らしましたとさ」で終わる……現代のフェアリーテールですね。
アマゾンのreviewを読むと、フロリダの言葉がショッキングでそれが面白いということですが、残念ながら翻訳版ではそれが感じられません。putrid とフロリダが口走るところがとってもおもしろいとアマゾンでは子どもの読者が何人か書いていますが、これを「むかむかする」と訳しているのでしょうか? フロリダの言葉もダラスのそれも、今どきの大人よりも上品で、古めかしい。140pのフロリダの言葉に「わたしのオツムがいかれたんじゃなきゃ、これはベーコンよ……」とあるけれど、この子が「オツム」なんて言うかなあ?
ルビーの谷の夫婦がなんで別々に冒険旅行にでかけるのかなと最初は思ったのですが、仲のよい夫婦なので永遠の別れのリハーサルなのかなと思い、そこはちょっとほろっとしました。深読みでしょうか? それから、フロリダとダラスを夏の間だけ引き取ったのは、旅の道連れにするのに、若くて元気がいいからということなのでしょうか? ちょっと勝手なのではと思いましたが、どうなんでしょう? 自分たちにとっても便利だし、孤児たちも喜ぶだろうしということなのかしら? そのへんのところがよく分かりませんでした。
また、トレピッド院長夫妻があまりにも漫画的に描かれていて(特に買い物のところなど)、軽すぎるかなと思いました。Zがふたごの実の父親だったというところもねえ。フェアリーテールとして読めばオーケーなのかもしれないけど。
これ、本当にカーネギーを取ったんでしょうか? 好き嫌いはあるにしても『ふたつの旅の終わりに』(エイダン・チェンバーズ著 原田勝訳 徳間書店)などとくらべてあまりにも小粒なのでは?

愁童:3冊の中でいちばん読みやすいんだけど、主人公がもっと幼いと思って読んだものだから、孤児物語定番ものみたいな感じがしました。あちこちで似たような話を読んだなという感じ。Zの書き方にもう一工夫あれば、もっとおもしろくなったのでは?

きょん:私も主人公が13歳とは思えなかった。6歳くらいの印象ですよね。ふたごと老夫婦と、2つの視点で書かれた、それぞれのエピソードが、ばらばらに入っているのだけれど、それが、うまくかみあわさっていて、パズルのピースをはめ込んでいくように世界ができていくのはおもしろい。このストーリーの中では、老夫婦のそれぞれの旅は、あんまり意味がなかったんだと思いました。作者にとっては、老夫婦とふたごが、旅に出るまでの複雑な心の揺れや迷いを描きたかったのではないでしょうか。行かない方がいいんじゃないかとか、ふたごと老夫婦のそれぞれが離ればなれになるのは初めてだから大丈夫かとか……。はじめは、子どもたちは、旅に行くつもりなんか全然なくて、夜汽車で逃げ出そうと計画しているのに、旅に行って帰ってきてから夜汽車に乗るのでもいいか……とか。心の揺れと迷いがよく描かれていておもしろかった。そして、子どもたちが心をひらいて旅についていくというのは、よく伝わってきました。
子どもたちは、もしかしたら、愛情をかけられずに施設で育ったため、粗暴で感情が未成熟で幼く感じるのかもしれませんね。老夫婦に出会うことによって、人間的な心をとりもどして、心も人間としても成長していくのかもしれない。Zは、重要な脇役だけど、最後はどうなるのか、ちょっと中途半端な伏線だった感じがします。
最後に、フロリダが、はっきりと「行きたくないここにいたい。こんなにやさしくしてもらったの初めてだもん」っていうところが、本当に印象的だった。今までは、「いたいかもしれない」「今までとは違うかもしれない」と予感していたけど、はっきりと言葉にしていない、それは、言葉にしてしまうことで、裏切られるのが怖いからで、今まで裏切られてばかりいたから、信じてはいけないと思っていたから……という、その感じが、痛々しいほど伝わってきました。

ブラックペッパー:読み終わって、まるくおさまって、いい気分でした。私は年齢にはひっかからなかったけれど、時代はいつなのかと気になった。この状況って、現代にありうるのかと。だって、こんなお仕置きしたりする孤児院、経営者は逮捕されちゃわない? これはいつの時代の話なんですかね?

:「リモコン」って出てくるから、現代ですね。

ブラックペッパー:今なのね、やっぱり。で、あんまりリアリティを求めずに読んだから、女の子は元気がよくて、男の子はぼんやりしてて、いろいろあったけど最後は「よかったね」という感じ。Zがお父さんだったというのは、ちょっと。でも、お父さんだとは名乗ってないないので、まあ、それもいいかなと思いました。

アカシア:子どもたちを孤児院に帰すわけにはいかないし、老夫婦がひきとるわけにもいかないから、こういう結末にしたのかしら? そのためにはZが必要だったのかも。Zは近くに住んでいるから、子どもたちはまたルビーの谷にもしょっちゅう来られるわけだし。

ブラックペッパー:私は、老夫婦がひきとって、Zがちょくちょく来るという結末になるのかなと思ってました。

:この本と前後して読んだ『ダストビン・ベイビー』(ジャクリーン・ウィルソン著 小竹由美子訳 偕成社)も捨て子になって里親や施設を転々とし、辛い子ども時代を送ったため、大人を信用できなくなった子どもが思春期に自立していく話なんですが、そっちは過酷な状況がさほどリアルに伝わらなくて、妙にほのぼのとしていました。孤児院の院長夫妻は、奥さんがフロリダを我が子として育てようとしてうまくいかなかった挫折感がコンプレックスになっているせいで、ふたごが神経に触ってしまうんでしょうか? Z・謎の男ですが、推理小説好きとしては、ZはZでいいけれど、老夫婦にはZと呼ばせず、名前(ボブでもジョンでも)で登場して、後で同一人物だったって方がおもしろかったのに。Zに石を探させるところは、リアリティを通り越して滑稽でしたね。

ブラックペッパー:私は、最初の登場人物紹介に「謎の男」と書いてほしくなかった。

愁童:そうだよね。ふだんから老夫婦の家に出入りしているのに、老夫婦まで「Z」と呼んでいるのはリアリティないよね。

:それから、フロリダの「むかむかする」という表現が気になって数えてみたら、30ページまでに8回位使っているんです。その後、フロリダとティラーがお互いを理解し近づいていく流れの山場でティラーが「むかむかするっていうのはいい言葉だな」と言うので、これは、本当はキーワードなんでしょうね。なんかぴったりこなかったんですけど。

すあま:今の言葉でいえば、「むかつく」とか「きもい」とか、若い子がよく使う言葉に当たるのかな?

アカシア:これが、トチさんの言ってたputridなのかも。

むう:私は、ずいぶん古典的な本だなあと思いました。ほとんどみなさんがおっしゃったことで尽きているんですけれど、院長のショッピングのエピソードや、Zの扱いがまるで宙ぶらりんなところは持て余しました。途中で院長夫人がふたごをひきとろうと考えるところで、「おっと、ここですこし心の綾などが見られるのかな?」と思ったら、そうでもなく続いていってしまうし、なんだかとっても変。老夫婦の設定には好感がもてたし、ふたごの揺れる気持ちとか、何度もドジをして、そのたびにすくみ上がりながら少しずつ心を開いていくところなんかはいいなあと思いました。何かをしていくなか、何もしないでただいっしょにいるなかで絆が培われていく感じがよく出ていると思いましたし、老人二人とふたごとの心の変化だけでも十分だった気がするんです。ふたごが家出しようとするんだけれど、一方で老夫婦に見つけてほしいと思っているあたりもリアルでよかった。でも、それと院長夫妻やZの扱いのお手軽さがなんともアンバランスで……。カーネギー賞は、どちらかというと子どもが読めるのかなというくらい文学性が高かったりする本に与えられる賞だと思っていたので、この本がカーネギー賞だというのはかなり意外でしたね。

ハマグリ:この本の印象は、はっきりいって退屈。早く終わらないかなと思いながら読みました。目次を見ると、66もの章に細かく分かれている。中には1ページしかない章もあり、それぞれに最後をうまい切り口でパツンと切ったりして、しゃれた構成にしている。でも、その切り方がどういう意味なのかよくわからないものもあって、よさが十分に味わえませんでした。また、老夫婦とふたごのイメージと、実際にくりひろげられている会話やキャラクターと、この本の挿絵のイメージがばらばらで、かみあわない感じがしました。また、院長夫妻は最初は、昔からよくある意地悪な孤児院の院長のような雰囲気だったのに、途中から突然、滑稽な買い物風景が出てきたり、おもちゃの宝石にだまされたりするなど、急にマンガみたいになって、一体どうしたのかと思いました。Zが親だったというオチも、とってつけたようでいただけません。

カーコ:院長夫婦をマンガのキャラクターみたいにして、読みやすくしようとしたのかしら?

ハマグリ:文脈からいっても、院長夫妻が単なるおバカな人たちになるのは、ありえないでしょう。トチさんのいうように、現代のフェアリーテイルとして読めばいいのかしらね。

すあま:私もおもしろくなかった。カーネギー賞だからおもしろいはずなのにと思ったんだけど、どうしておもしろくないんでしょう? 話に乗っていくことができないのは、原作のせいなのか訳のせいなのか、どっちなんでしょう? とんちんかんなことをしたりするのを、もうちょっと楽しみたいんだけど、言葉づかいのせいか入り込めませんでした。原作はもっと違うものなのではという疑念がわきました。院長たちのチャチな犯罪は、リンドグレンやケストナーの昔の作品に出てくる安っぽい悪者みたいですが、かえって逆効果。話の本筋と別のところでハラハラドキドキさせようとしたのかな?

ブラックペッパー:でもあれがないと、Zが活躍できないんですよ。

すあま:老夫婦が本当の子どもたちに2人ひきとることを反対されているけれど、その先どうなるかが書いていないので、何となく腑に落ちないまま終わってし まう。シャロン・クリーチの他の作品は読んでないんだけど、ニューベリー賞も受賞している作家だし、本当はおもしろいのでは?

ハマグリ:筋も腑に落ちないとすれば、訳のせいだけではないわよね。

すあま:ふたごが、よかれと思ってやるのに老夫婦の大切なものを壊しちゃうなんていうすれ違いも、もっとおもしろく訳してほしかったな。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年3月の記録)