月: 2001年3月

2001年03月 テーマ:兄弟の死

日付 2001年3月28日
参加者 愁童、ブラックペッパー、すあま、もぷしー、スズキ、
ねむりねずみ、チョイ、オカリナ、トチ、ウェンディ、紙魚
テーマ 兄弟の死

読んだ本:

(さらに…)

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いしいしんじ『ぶらんこ乗り』

ぶらんこ乗り

スズキ:書店では、話題の本としてたくさん積みあげられていましたねえ。でも、結論から言ってしまうと、ついていけなかったです。ぶらんこにそんなに魅せられて、ぶらんこで暮らしちゃうというのもわからなかったし、雹にうたれて声が出なくなっちゃうのもわからなかった。私にはついていけない作品でした。

ウェンディ:ネット書店のbk1には、「現代のファンタジー」と評されてましたよ。

スズキ:なかでも、「ゆびのおと」という名前の犬の話がいやだったんです。「ゆびのおと」
のおなかにメッセージを書くところなんて、もうすごくいやだった。もうこうなると、よくわかんない世界です。うーん、これがファンタジーと言われたら、私にはファンタジーはわからないです。今の話題の本として手にとったので、ニュートラルに読んだつもりだけど、こんなにだめだと思った本は今までにもないです。

ねむりねずみ:出だしから、どうも文章が読みにくくくて、違和感を感じました。で、内容を楽しむというよりも、どういうつくりで物語をつくっているのかということを気にかけて読んでしまった感じです。ちょっと、『木のぼり男爵』(イタロ・カルヴィーノ著 白水社)を思わせるところがあって、なんとも荒唐無稽な設定ですね。ここはいいなあと思う表現や部分も何か所かあったけど、どうも印象がまとまらなかったです。作者は、ところどころに出てくる、弟が書いたお話の部分が書きたくてこの作品を書いたのかなって思ってみたり。最初のほうのぶらんこ乗りの夫婦の話や、p247の、死んだ人をどう自分の心の中で収めるのか収めないのかについて書いているところなどは、なかなかすてきだと思いました。ぶらんこも、中原中也のイメージなんだなって思ったから、すっと入れました。ガラスのような世界で、彼岸にいる人の話として読むにはいいとは思うけど、やっぱり個人的には好きではないな。ぐいぐいとひっぱられて読む感じではない。あんまりもやもやするんで、これはひょっとして、主人公の女の子が現実と折り合う話なんだろうかと思ってみたり。うーん、基本的には好きではないです。

チョイ:昨年、出たばかりのころ、大変好意的な批評が相次いで、楽しみに読んでみたんですが、私はおもしろさが全くわからなくて、どうしようとうろたえました。こんなに時間がかかった本も、ここんとこ珍しいです。この本を持って床に入ると、かくっと眠くなっちゃって、前に進まない。批評家が誉めるその意味すらわからなくて、とにかく皆さんのご意見が聞きたかったです。

オカリナ:私は、近くの図書館にリクエスト出してたんだけど、昨日行っても入ってなかったんです。しょうがないので、今日借りて途中まで読んで。でも、最後まで読まないとなんとも言えないな。雹のところでは、てっきり弟はここで死んじゃったのかとも思ったんだけど。文章はまあまあいいんだけど、何が書きたいのかがわからない。それでも全体のイメージや雰囲気で一つの世界が提示されていれば、それでもいいんだけど、くっきりとしたイメージがどうも浮かびあがってこない。自分の体験なり想像世界と共鳴して一つのくっきりしたイメージを持てる人もいると思うんだけど、そういう人が大勢いるとは思えない。この作品、ファンタジーって言われてるのかもしれないけど、ファンタジー世界を支える客観的なリアリティがないでしょ。たぶんファンタジーでもリアリズムでもなくて、寓話なのではないかしら。私は、子どもの本にはストーリーってとても大事だと思っているので、日常的な夢想をだらだらと書いても始まらないなあ、と思うところもあるし、子どもの本から離して考えたら、もっとおもしろい作品はたくさんあるし・・・。

ブラックペッパー:私も図書館で予約したんだけど、結局まにあわなくて、まだ読んでないんですけど、最後は弟が死んじゃうの?

一同:うーん、行方不明。

チョイ:担当者も帯に何を書いていいかわかんなかったんじゃないかな。「衝撃的に新しい初の長編小説」ってなってるけど・・・。

トチ:これはわからなかったわね。あまりにもわからなかったので、私は文学がわからないのかと不安になったくらい。明確なメッセージや、しっかりしたストーリーがない作品でも、なにか読者がついていけるような、一篇を貫く「棒のごときもの」がほしいと思う。「ぶらんこ」だから、一貫したものはいらない、ぶらぶらゆれているところに、この本の味があるんだといわれれば、それまでだけれど。この本を貫いている「棒のごときもの」が唯一あるとすれば、それは「自虐」だと思うのね。弟が作った物語のなかの「鳩玉」や、お酢をのんでサーカスに入るといった話もそう。現代の心象風景とマッチしているのかな。こういう物語をファンタジーというのか、現代文学というのか、私にはわからないけれど、ファンタジックな作品であればあるほど、現実とかけ離れたことを書くときに、読者を納得させる、ひっぱってついてこさせる力が必要なんじゃないかしら。分かる人だけついてきてくれればいいよ・・・というのは、気分が悪い。だいたい、おじいちゃんは日本人なの? 外国人なの? どうして、弟にだけ雹が当たるの? 吐き気がするほど変な声を弟が出すからといって、しゃべらないままにさせておくのを、主人公はかわいそうだと思わないの? どうして犬を外国に簡単に連れていけるの? 弟は死んでるの、生きてるの? 全部が主人公の夢想なの?
それから、表記についても気になったところが何点か。漢字とひらがなの使い分けがまず読みにくい。女の子の口調、「そうなんです、わたし」っていう標準語もへん。いかにも、東京生まれでない「男性」が、「東京の女の子の言葉」を書いたって感じ。でも、この女の子の言葉は標準語ではあっても、生き生きした本物の東京の女の子の言葉ではないわね。当たり前の話だけど、東京の言葉と標準語は似て非なるものだし、標準語というのはちっとも美しくもないし、魅力的でもない。もっと、作者自身が自由にあやつれる、魅力的な言葉で書いてくれると良かったのに。

ウェンディ:私もまさにそう思いながら読んでました。私一人わかってなかったらどうしようかと思って。とにかくわからなかった。リアリティなんてどこにもないし・・・もっとも、リアリティを求めて読んじゃいけない本なんだろうけど。弟が書いてるお話は、いかに天才少年でも、いくらなんでも幼児にはありえない概念じゃないかと思う。小学校低学年なんでしょ。ちょっと無理じゃないかな。語り手の女の子は、当時は小学生で、高校生になった時点で振り返って書いているという設定なのかな。弟を思って書いている感じじゃないと思いました。

チョイ:私もそもそも弟は初めからいなかったのかとも想像しました。主人公が過酷な現実を乗り越えるために作り上げた存在かなとも思ったりした。

ウェンディ:ああー、なるほど。寓話なんでしょうね。すべてはぶらんこが揺れているところに象徴されているのかな。ガラスのイメージと重ねあわせてて、いなくなった弟を美化しているみたい。投げ込みに、いい本に大人向けも子ども向けもない、みたいなことが書いてあったけど、大人の本とか子どもの本とか分けない、というのは構わないけれど、これを児童文学として出す意味はないのでは。

すあま:うーん、図書館泣かせな本ですね。

一同:(笑)

ウェンディ:児童文学の要素が感じられません。これは、雰囲気を楽しむ小説なのでしょうか。

トチ:そういうのが楽しい人にはね。

ウェンディ:もうちょっと、弟が書く話が読みやすければ、入っていけたとは思うんですよね。内容は難しいこと言ってるのに、ほとんどかな書きだから、そのギャップが気になって、すごく読みづらかったです。

トチ:でも、この子にまれな文才があるんだったら、漢字書けてもいいわよね。

ウェンディ:それに、こんな概念を幼児が持っていたら、おかしいし恐い。

ねむりねずみ:弟は生まれた時からエイリアンのような存在、彼岸の存在なんですよ。最初からそのような整合性を求めちゃいけないの。

ブラックペッパー:そうすると、ぽわんとした夢のような世界を楽しむって感じ?

ウェンディ:こういうのをおしゃれって思う人はいるんでしょうかね。ファッションとして読むとか。

チョイ:ファッションとして読むというより、ファッションとして持ってるんじゃないかしらね。

ねむりねずみ:たしかに時々、あれっていうようないい記述があるんですよね。ところどころに入っている。でも、それらがつながっているんじゃなくて、ぱらぱらになっているので、物語の世界に入りにくい。

トチ:じゃあ、メインストーリーはいらなかったんじゃない。もしこれが大人の作家じゃなくて、ティーンエイジャーが書いたとしたら、ちょっと危ないと思うな。

紙魚:私は、皆さんよりは好印象を持っているとは思います。ここで読む本に選ばれる前に、作家や装丁にひかれてすでに読んでたんです。そういえば、前にちらっと読書会のときにこの本のことが話題にのぼって、みなさんがどういう印象をうけたのか、もっとつっこんでききたかったくらい。きらきらっとするところがちりばめられている。弟の文章も、確かに読みづらいけど、なかなか筆力があるなあと思わせられる。でも、どうしても、きらきらしたものが結実しない感じが残っていたので、今、みなさんの感想をきいて、ちょっとホッとした。嫌な感じは受けなかったけれど、もっと理解したいと欲求不満になったので、3回くらい読み、ほかのいしいさんの著作も読んでみたんです。そうしたら、何かわかるかと思って。でもやっぱりわかりませんでした。わかろうとしちゃいけないのかな。
ただ、この人はびっくりさせるのが好きな人なんだなと思いました。爆発的な発想力の持ち主ではありますよね。ほかの人が思いもつかないことを考えたり、考えついたことを、またほかのことに結びつけていくのが上手。きっと、自分の中にたくさん温泉が沸くようなのでしょう。この作品では、今までの作品以上に、思いのたけをぶつけたのではないかと思います。それぞれの源泉はとってもいいのだけれど、それが一つの世界としてばらばらに投げ出されたときに、どこから理解していいかわからないという世界になっている。ほかの作品は誰しもが理解できて、おもしろいと思いそうな本なのに、この本に限っては、薄皮を重ねてできた世界が、危ういバランスのままになっている。どういう意図でこの本を出したのか、ご本人がどう思っているのか聞きたいと思った。発想やアイディアは決して表面的なものではなく、奥行きがある。かんたんに書けるものではないと思います。
この本を読んで、『ポビーとティンガン』(ベン・E・ライス著  アーティストハウス)という本を思いだしました。やはり兄弟の話で、妹にしか見えない行方不明になった友だち二人を、町中の人が探すという話。妹は、その架空の友だちがいることを信じているんだけど、兄をはじめほかの人たちは信じられない。ちょうど扉に「オパールの色彩の秘密は、その不在にある」と書かれているんです。この『ぶらんこ乗り』もそういうことに似ている感覚なのかななんて思いつつ、うーん違うかなと思いながら読みました。リアルなものは追ってこないし、不在性のようなものを書こうとしたのかな、とずいぶん一所懸命に、いしいさん側に立って考えようとしてみたわけです。

チョイ:いしいさんは、前の本で、外国でドラッグをやったようなことを書いてましたが、もしかして、そういう状態の時に書いたのかなとさえ思いました。

紙魚:あー、ありましたね。普通の論理構造ではなかなか思いつきそうもないですもんね。もしかして、常軌を逸したところが評価されたのかな? 物語の構造はすごく変わっていて、ほかに見たことがないし。もう、うなるしかない、奇妙な読後感でした。

もぷしー:私は、3冊の中でいちばん最初に読んだんですけど、今回初めての参加だったので、いつもこんな本を読むのかなあ、いったいどんな会になるんだろう、哲学的に語られるのだったらどうしようと心配になりながら来ました。初回だったこともあって、何かわからなくてはと思って読んだんですが、わからない時分に読んだ村上春樹のようでした。異空間のつくりかたと不安定な部分が似ていると思います。なぜぶらんこ乗りなのか、と言ってしまったらどうしようもないんですけど、そのぶらんこの震えがわからないです。人間と動物の対比とか、美と残酷さのような対比や、理由がつけられるものと理不尽なものという対比が描かれているんですよね。動物サイドに残酷さ、理不尽さが描かれている。主人公たちは、何かのはずみで安心して生きていこうとするところから逸脱したのかなというようなことを考えました。でもやっぱり、あーそうなんだとしっくりきたわけではなくて、「ゆびのおと」など、ディテールをみていくと受け入れにくい部分があります。その受け入れにくさが、ファッションとまではいかなくても、どうせ人間なんて、とか、おれなんてみたいなことが多くて、そういう世界をぶらんこのようにいったりきたりしているのかなあ。イメージは残ったんですけど、なんだか読むのはつらかったです。

愁童:ぼくは読んでなかったので。

一同:えーっ、愁童さんの感想聞きたかったー!!

(2001年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


モーリス・グライツマン『はいけい女王様、弟を助けてください』

はいけい女王様、弟を助けてください

もぷしー:私はこの作品のほうが、素直についていけました。対象年齢に対して、等身大で描かれていますよね。子どもが読んでも共感しやすいし、自分にも何かできるんじゃないか、という誰でもがもつ疑問に答えるというか、提案し、勇気づけてくれる。子ども向けに死を扱っているものとして、やさしく、そっと触るような感じの作品が多いのに対して、この本は、焦りの中でアクティブに描かれていて、おもしろいと感じました。ものがすべて具体的で、誰が見ても「それはないでしょう」、というジョークになる部分は子どもにはジョークとして伝わり、泣きたくなっちゃうところは本当にそうだと思わせるところが、うまいと思いました。エイズとか同性愛者の問題も盛り込みつつ、といって声を大にするのでなく、身近な出来事として書いている。日本では、まだあまり行われていないことだと思いました。結末ですが、弟がまだ生きているというのが、いい終わり方ですね。治るわけでもなく、自分の挑戦に対する応えという意味でよくできていると思った。

紙魚:物語を読んでいくのはとてもおもしろかったです。ただ、今の日本の子どもたちだったら、こういった状況に置かれたとき、どんな物語になるんだろうと考えてしまいました。女王ではなくて、どこにこういう手紙を書く対象をもっているのかな。昔だったら、神様とかお地蔵様に願いごとをしましたよね。でも、今の子どもたちには当てはめにくい。そういう対象が、今はどういうところにあるのかな? それが今の子どもを語る鍵にもなりうると思うんです。利発な子どもなら政治家かもしれないし、もしかしたら芸能人、モーニング娘なんていうのがそういう存在かもしれない。それもあながち笑い話ではないと思うんですよ。日本の子どもたちは、芸能人にものすごく力を見出している。自然の力ではなく、即物的なテレビの力にかなり頼っていると思うんですね。この主人公が、弟の死に直面しても、最初はまず親に対して自分のアピールをしていくところがおもしろかったです。自分の弟が死ぬんだとわかったとしたら、大人だったらただただ落ちこんで、それが物語になっていくのでしょう。だけどこの本の主人公は、そこが出発点となって自分がアクティブになっていくところに好感がもてました。

ウェンディ:初めて読んだときは、電車の中でちょっと読んだら涙ぐんだり吹きだしたりで、これは電車の中で読んじゃいけないな、なんて思いながら、なんてすごい作家なんだろうと、ほかの訳書もさがして読みました。そのときの感動は、前のお二人とも似てるんですが、普通の兄弟喧嘩からはじまって弟の病気を知り、徐々に弟を助けたいという情熱が昂じていく構成とか、両親をはじめ大人がよく描けている点とか、従兄弟やゲイのカップルとの交流を通じて、弟に会いにいこうと思うというラストまで、すばらしい作家だと喝采しましたね。でも、2回目に読んでみると、気になってくるところもあったな。確かにグライツマンはうまい作家だとは思うけど、大人に言われたことへの反応の仕方とか、狙いすぎというか、ちょっとあざとさを感じてしまった。筆がすべりすぎるんでしょうか。あと、弟が入院したら親がコリンをイギリスへ送ってしまうところ。たしかにこんな向こう見ずな子がいて、こんな状況になったら、いっそどこかへ預けてしまおうと思うかもしれない。でも、辛い目にあわせたくないという親の言葉には疑問を感じてしまった。

トチ:イギリスの友人からおもしろいよと薦められていたのに、忙しくてほったらかしておいたのね。しばらくして原書を読んだらおもしろくて、初めのうち、吹きだしてばかりいたわ。今回、日本語で読んだら、初めのほうのめちゃめちゃな行動がうるさいなと思った。原文で読んだときはそうは思わなかったのにね。内的な独白ではなくて、主人公の行動で物語を進めていくところは、児童文学だなと思いました。

オカリナ:最初の部分はドタバタ調が気になったし、こんな子実際にはいないだろうな、と思っちゃった。でも、エンターテイメント作品だと思いこんで読んでいったら、だんだんそれ以上の何かがあるということがわかってきました。日本だと、素直に直接行動に出るようなこういう子は生きられないよね。しかも、コリンは5、6歳なのかと思ったら、12歳。でも、オーストラリアの田舎だったら、12歳でもこういう子どもらしい子どもがありうるんでしょうかね。原本の表紙を見ても、この感じはエンタテイメントよね。まあ、一見してシリアスだと、暗いと思われて手にとってもらえないからかもしれないけど。

チョイ:すごくツボを心得ている作家ですよね。作りすぎの感じもあるけど・・・。コリンがルークとお茶を飲むところではじめてわーと泣くでしょ。あそこではちょっと感動しました。あと、アリステアの一家がすごくおかしい。おばさんがいちいち介入してきて。でも、日本が舞台だったら、こういう物語は成立するのかしら。日本の子どもの現実はこういうおもしろい物語が不自然になってしまうみたい。日本ではなかなかこういう物語は成立しない。これは翻訳物ならではの良さよね。クレメンツの『合言葉はフリンドル』(笹森識訳 講談社)なんかでもそう思いましたが・・・。コリンも13歳にしてはすごく幼いでしょ。日本の男の子なら、こんなことしないじゃない。オーストラリアの田舎の子、素朴ないい子って感じよね。キャラクターに救われてるというか。設定と舞台で作れる良さをしみじみ感じました。ただ、p30あたりの「うー腹ぺこだ」のあたりがわかりにくい。

オカリナ:大人の配慮が子どもにはかえってよくないのだというメッセージは伝わったんだけど、いくらエンタテイメントでも、家に鍵をかけて子どもを閉じ込めるかしらね? 全体的にはよくできてて、おもしろかったけど。

ねむりねずみ:私も、翻訳が出る前に原書で読み始めたら、おもしろくておおしろくてという感じだったな。でも、訳が出たときには少し読んで閉じてしまった。冒頭ががちゃがちゃがちゃ、どどどっていう感じで、原書で受けたイメージと違ったから。グライツマンは確かにうまいと思います。針小な物を棒大にして見せて笑わせるっていう技を持っている人だけど、ここでは、死を扱っているからか、上っ滑りに過ぎる感じをあまり受けなかった。それに、コミカルだから死を内にこもらずに書けたような気もする。シナリオライターだけあって、回転が早い、とんとんと話が展開していって、エンタテイメントとしてもおもしろいし、・・・たしかに非現実的で子どもっぽくて、発想がちょっと誇大妄想的だけど、それって実は小さい頃には誰でもそういう部分をもっていたんじゃないのかな。途中から、この子、どこで現実に着陸するんだろう、軟着陸できるのかなって気になりました。結局、一緒にいること、今を大事にすることが一番だってわかって帰っていくというラストは、納得がいってよかったな。初めて読んだとき、ゲイやエイズを扱っている扱い方を見ていて、なんか日本と違うなって思った。日本だと、やたら重たくなっちゃったり、でなければ、まるでタブーみたいにしてしまいそうな気がするんだけど、こうやって児童文学でさらりと、しかもちゃんと入れてくることができているんだって思いました。

スズキ:私も今回2回目で比較的冷静に読めたので、初めて読んだとき見えなかったことが見えてくることもありました。2回目でも、はらはら、ドキドキさせられて、やっぱりおもしろかった。イギリスに一人で行かせる、鍵をかけて閉じ込めるといった一つ一つのプロットは一瞬どうして? と思うけれど、コリンがストーリーの中にぐいぐい引っ張っていってくれる感覚が気持ちよくて、よい作品だなと改めて思いました。弟の病気や死を意識してずっと読んだあと、ラストシーンでは、感動的な兄弟の再会で締めくくられるので、生きているってすばらしいと思える作品。コリンは女王様に手紙を書いたり、会いに行ったり、それでもダメとわかると、もっとあれこれやってみる。本当に物語がどこに行っちゃうの? と著者に聞きたくなるくらい、次々行動していく。別に死や病気に限らず、やりたいことをやるためには、あんたならどうする? 肩の力を抜いてやってみようよ、という気持ちを引き出してくれるんですよね。日本の作品と比べるとすると、読者へのアプローチのスタンスとして、那須正幹の『ズッコケ三人組』と似ているかなあ。あと、大人ってあてにならないんだな、と感じた。どこの国でも同じなんだなあ、って。

すあま:この子って10歳くらいかな。『ズッコケ三人組』の主人公たちも6年生くらいだよね。でも、今あのシリース゛を楽しめる年代は小学1、2年生どまり。日本の子どもでコリンに共感できるのは? 今の12歳だと、もっとひねくれていて、無理だろうと思う。周りの人物がそれぞれにおもしろく、アリステアとテッドの二人は特にいいキャラ。下手するとドタバタして、出来事だけでおもしろく感じさせてしまいがちなだけど、そうはなっていない。それから、テッドがコリンを助けるんだけど、逆にテッドもコリンに助けられている。ラストシーンはツボにはまって、ぐっとくる。すとんとうまく落としてくれていて、読後感がよい。おもしろく最後まで読めたのが、とてもよかったな。あれっと思ったのは、弟のルークが何の病気なのか、コリンがいつのまにか知っていて、さりげなく病気に言及するところ。病名を知るというところが強調されている作品が多いのに、血を顕微鏡で見たりして気にしている場面がある割には、肩すかしを食ったような感じもあった。訳題はいいような、悪いような。「拝啓」っていうのは、今どきのEメール時代にどうなんだろう。ただ、訳書の扉絵がポストに投函してるところなので、「拝啓」がわからなくても、手紙を書いたのか、ということはわかりますよね。あと、コリンが女王様に電話しようとして、あちこち調べまくるところはおもしろかった。

ブラックペッパー:「おもしろかった」という意見が多いなか、申し上げにくいのですが、私はこの本、とっても読みにくかった。なんだかドタバタしすぎて、くたびれる感じ。トチさんが「日本語の問題」とおっしゃったのを聞いて、それもあるかもと思ったけど、なにより英国風味のギャグにのりきれなくて、物語世界に入りこむのが難しかった。たとえば、おなかをすかせたお父さんの台詞「騎手を乗せたまま馬をまるごと食えるぞ」(p30)とか、アイリスおばさんがアリステアに対してずっごく過保護にしている様子とか、塩がひとさじ多すぎる、というか、やりすぎの感あり。これって、少し前に流行ったミスター・ビーンとか「ハリー・ポッター」にも感じていて、私は「英国フレーバー」の一種だと思ってるんだけど、今回はそれがハナについてしまった。まあ、ミスター・ビーンは、その塩がききすぎてる感じや、なんとなく手放しでわっはっはと笑えないところも好きだったんだけど・・・。そんなわけで、意地悪な気持ちで読んでしまったので、訳者があとがきで書いておられるラストシーンのベストテンという説にも同感できなかった。あとちょっと不思議に思ったことがいくつかあるんだけど、コリンはqueenのもう一つの意味がわからなかったでしょ。ほら、テッドの家に行って表札に「女王様」なんて書いてある、ヘンだな、っていう場面。私たちでもqueenのもう一つの意味を知っているのに、英語圏の子がそれを知らないなんて、あるのかな? 日本でも、小さい子は知らないと思うけど。オーストラリアでは、そっちの意味は流通してないの?

ねむりねずみ:テッドの家に行ったときに、クィーンズって複数で書いてあるわけだから、これが女王様じゃないってヒントは転がってるんだけど、本人の頭の中では結びついていないんじゃないかな。

オカリナ:この子は12歳という設定だけど、日本だったら情報がありすぎるから、女王とか天皇に手紙書いたってしょうがないって思っちゃうだろうし、英国一の名医を自国に連れ帰るなんてできっこないと行動する前からあきらめちゃうだろうし、物語として成立しないだろうな。イギリスでも無理があると思うけど・・・。女王に手紙を書こうなんて、普通はイギリスの子でも思わないだろうな。顕微鏡のシーンもそうだけど。

チョイ:でも、同じくオーストラリアの田舎の話でも、全然違うものもあるんですよ。

ねむりねずみ:一つのこと夢中になると、他のことは見えなくなってしまう子なんですよね。

ブラックペッパー:私は、この子はノーブルな家庭の子で、queenにヘンな意味はありません、と言っちゃうような家庭の子なのかなあ、などど、いろいろなことを考えてしまいました。

トチ:でも、そういうのって、関心がなければ、全然気づかないものでしょう。頭に入ってこないものなのでは?

ねむりねずみ:一般に子どもって、自分の関心のあるところだけを拡大鏡で見ているようなところがあるから、それで気づかなかったんじゃないかな? 女王様に手紙を書くことばかり考えてたから、それに引っ張られたのもあると思うし。

ブラックペッパー:はじめ、テッドが殴られたのも、車をパンクさせた犯人だと思われたからだと思っていたんです。でも、ウェールズ人だからというのもあったんですね。いろんな解釈ができるところなのかも。ゲイを理由に殴られたっていうのもありかもしれないけど、でもさ、ゲイだからっていきなり殴られたりするもの?

ねむりねずみ:労働者階級の過激な人たちだと、そういうこともあるみたいですよ。

ブラックペッパー:あ、あと、もう一つだけ。カエルのチョコって、どういうの? なんでカエルなんだろうって考えちゃった。物語に入りこめないと、どうもヘンなことばかり気になってしまって・・・。

愁童:おもしろいと聞いて期待して読んだんだけど、ちょっと期待外れだったかな。死を扱っているにしては、雑音がうるさすぎた。目配りのよさが、かえってわずらわしくなった。それほど意外性があるわけでもなく、あまりおもしろいとは思わなかった。導入部では弟は、まだ発病してないんだけど、最初から病気だと思って読み始めちゃった。

オカリナ:読む前から弟が死にそうになる話だとわかっちゃうのは、訳題のせいじゃない?

愁童:映画「ホームアローン」の手法とよく似てるね。主人公の設定年齢をもっと低くすればいいのに。この本、死と向き合うというより、弟の死を題材にして、兄の子どもっぽい反応や行動をおもしろおかしく読者の前に提示して引っ張るというほうに力点があるみたい。ラストもそれほど感動的じゃないしね。ゲイを夕飯に招待する設定も、作者の目配りの良さに共感は持つけど、やりすぎって感じ。

トチ:コリンは、12歳というより小学校3、4年くらいの感じね。「できすぎ」ということだけど、作者がシナリオライターでもあるということを知って、なるほどと思った。そのままテレビドラマや芝居になりそうなストーリーですもの。

ブラックペッパー:コリンのやることって、何歳の子の行動なのか、よくわからない。ばらつきがあるでしょ。ホテルで電話を借りる場面で、ドアボーイにチップを渡して・・・なんていうのは、すっごく大人っぽい行動だと思ったけど。

すあま:8歳くらいでいろいろできる方が、12歳で子どもっぽすぎるよりはいいのでは。原書出版が89年だから今から10年前だけど、10年前でもちょっとどうかな、という感じ。オーストラリアではのびのび育っているのかなあ。

チョイ:ちょっと間違うと、頭の弱い子になっちゃうのよね。

愁童:死をテーマにした作品と思って読むと、ちょっと違うしね。

チョイ:『はいけい女王さま、たすけてください』でいいのかも。

ブラックペッパー:たしかに、「弟を」が入ると、お涙ちょうだいの雰囲気になっちゃいますよね。

(2001年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


レルン『すいがらとバラと』

すいがらとバラと

ブラックペッパー:えーっと、この本は,あまり言うことがないなあ。さらっと読めたけど、そんなにすばらしくよくはなかったかな。えひめ丸の事故でも感じたんですが、死に対する考え方が、欧米とアジアでは違うんでしょうか。死生観の違いを感じました。好感をもてたのは,最後の3場面。このあたりにさしかかったとき、うるっとして涙が3粒ほどこぼれました。今、日本ではやっているのは、どーんと泣かせる物語ですよね。でもこの本はそうではなくて、涙3粒で、そこはよかった。ぐっときたのは、p59の「もしもジミーが生まれてくることがなく、わたしとおなじ時を生きることがなかったら」というところ。こう言われてなぐさめられる読者っていると思う。

すあま:北欧の作家だなという感じが非常にしましたね。北欧の子どもの本で離婚や死を扱ったものは、ちょっとわれわれとは感覚が違うように感じますね。装丁的には絵本ですけど、読み物としてはもっと上の年齢を対象にしてますね。p36で、「ジミーが死んだらさ、あいつの猫おれにくれない?」と言われて、パパがうれしそうな顔をしたという部分は、わかるようなわからないような。まだジミー死んでないときに、こういわれてうれしく思うっていうのは、どういう感覚なんでしょう? おもしろい部分は、最後に家族が別々にいやしの旅にでかけるところ。ママが、パパやジミーと違う旅でリハビリをするというのは、おもしろい。それぞれ立ち直り方が違うのは、興味深いです。まあ、全体的にはおもしろかったかな。

スズキ:命のことを語るときにはいろいろな方法があるけれど、そのなかでもやさしく語りかけてくる本だった。私も「ジミーが死んだらさ」というところではちょっとひっかかったので、誤訳ではないかとも思ったし、きっとトムに対してわかったよという意味でスマイルしたのではないかと勝手に解釈しました。欧米の人は、やっぱり考え方が違うのかな。前に、自分の肉親を亡くされた作家が、死について書いたとき、こういうつくりではなく、200ページ近い本になったことがあります。それだけ、思いがいろいろあって、表現したいことも、たくさんのページが必要だったのだと思います。命を語る時に、「どんな本がいちばん良い」と決めつけることはできませんが、人間にとって、とても大切なテーマなので、自分にとってどんな本がいちばん語りかけるものか、いろんな本を読んでいきたいと思いました。

ねむりねずみ:私はわりと読みにくかったです。なぜか最初からひっかかりっぱなし。死を扱うと、雰囲気が重たくなりがちで、回復していく過程を延々と書いていったりすることがあるけれど、この本は違うなって思いました。なんとなくユーモラスなところがあって、たとえばp35のガールフレンドのところなんかが、おもしろかった。対象年齢がどのぐらいなのかなあ、というのが疑問でした。文章はもう少しひっかからないとよかったなあって思いました。「もう死ぬはずなのに、」といううわさ話の部分は、読んでいてぎょっとしてしまいました。実際にこんなこというかなあ?って。言ったのが看護婦さんだったとしたら、怖いなあって。むしろ、ジミーが死んだら猫をちょうだいと言われてパパがほほえむ話よりも非現実的な感じがしました。スウェーデンでは、血縁とは関係なく養子を受けいれることがわりと多く行われているみたいなんですが、家族もとても大切にしているんですよね。家族のそれぞれが、弟を看取り、死んだ人の残した空白を埋めていこうとするのがよく描かれていました。

チョイ:この本が出た1997年というのは、死などの、喪失感からの回復がテーマとなった書籍が多く出ていた頃だと思います。私もちょうどこの頃、死に関係する本を何冊も読んでいたんですが、そういったものの中では、この本は印象が薄いほうですね。肉親の喪失感の表現は、むしろ『はいけい女王様、弟を助けてください』の方が、ディテールから物語を作りだしていて、達成されていると思います。こちらの方は、もうひとつ弟のキャラクターが立ち上がっていないんですね。エピソードの選び方が、あまりうまくなくて、例えば弟が周囲を「明るくしてくれる」とか、ただひとことで説明しているんですが、それを具体的にイメージさせてくれるエピソードがないんです。これでは、ジミーのキャラが伝わってこない。作品の中に読者が入りにくい。許すことが上手な弟であれば、それをあらわすエピソードを描くべき。私だったら出版しない本ですね。絵もいいとは思えない。ちょっと中途半端な印象です。

オカリナ:おそらく作者は、弟が死んだ後もずっと続いていく日常的な現実と弟の死とを対比させて描いているんでしょうね。自分がすわっている病院のベンチの前には看護婦さんが吸ったタバコの吸い殻がたくさん落ちているとか、看護婦さんがナースシューズでなくてプーマとかコンバースなんかをはいてて、それで吸い殻をもみ消していくんだとか、そういう日常の具体的な情景が書かれているところはおもしろかったんだけど、それに比べて肝腎の弟の人となりはなかなか浮かび上がってこない。最後にまとめて抽象的に描かれているだけだと、どうも伝わってこないんだなあ。

トチ:うーん、私もこの本に関しては言ういことがないです。いやな本だとか、悪い本だとは思わないんですけど。死をシンプルに描いているという点では、好感がもてる。絵が単にきれいな絵ではないのもいいとは思う。でも、弟が最初から天使になっちゃっているのね。猫のエピソードなんかもそう。さっき、「ジミーが死んだらさ、あいつの猫おれにくれない?」と言われて喜ぶ気持ちがわからないって話が出たたけど、私はお父さんの気持ち、わかるような気がする。自分の子どもの命が、ほかの小さい子どもににつながっていくように感じるんじゃないかしら。そういうところはおもしろい。あと、主人公と父親だけが癒しの旅に出るのもおもしろい。短いセンテンスで作者の思いとか、ものの見方がずばっと出ている。それから『すいがらとバラと』というタイトルは、おそらく原文どおりなんでしょうけど、何か特別な意味があるんでしょうかね。汚い現実と、バラの匂いのように美しくなった弟という意味なのかとか、弟を思いおこした、バラの匂いがする数分間という意味なのかとか、いろいろ考えてしまったわ。

オカリナ:「あいつの猫おれにくれない?」って言ったのは、小さい子じゃなくて大きい子だから、お父さんは息子の命がつながっていくと思ってほほえんだわけじゃないのでは?

ウェンディ:今回の選書係は私なんですけど、先に『ぶらんこ乗り』が決まっていたので、それに合わせて何か翻訳ものから選ぼうとして、七転八倒しました。前に課題になった『イングリッシュ・ローズの庭で』が、姉妹というテーマだったので、今回は、姉から見た弟という視点を考えてみたいなあ、ということも、1つのポイントとして探しました。すでに死んでしまった弟を回想する、その振り返り方が、重なるというか、比べて読めるかなと思って選んだんです。みなさんがおっしゃってるように、私も猫のエピソードにはひっかかりました。大切な人が死ぬ、しかも、若い子どもが死んでしまうということの受け止め方が、日本と違うんじゃないかと考えました。お父さんは、その子が大切にしている猫をほしいと言ってくれたことが、うれしかったのではないかと。幼い子が死ぬというのは、もちろん悲しいことだけど、それを静かに受けとめて、乗り越えていくというあたりを、みなさんがどう思われるかを、今回うかがってみたいと思いました。

オカリナ:でも、たとえば『テラビシアにかける橋』(キャサリン・パターソン著 偕成社)だと、娘が死んだとき、娘の愛犬は親が大事に飼うからって言って、娘の親友だった主人公には渡さないでしょ。外国では死生観が違うって、あんまり簡単には言えないと思うんだけど。

紙魚:私も、読んでも何だかよくわからなかったというのが本音です。死がテーマになっているにもかかわらず、胸に突きささることもなく読みとおしてしまいました。それはどうしてなのか考えてみたのですが、もしかしたら自分に大切な人を亡くすという経験がないからかとも思ったんです。ただ、自分に同じような体験がなくても、深く突きささってくる本というのもあるんですよね。でも、自分に経験がないとわからない、しかも語れないということもあります。たとえば、配偶者を亡くされた人を前にして、経験もないのに死について語るのは難しいです。この本には、そういう距離を感じてしまいました。作者が家族の死を乗り越えようとしている姿勢はわかるんですが、心には伝わりにくかった。あっ、それから、挿絵は作家と別の人によるものだけれど、ぴんとこなかったです。

もぷしー:タイトルと中身がうまく結びつかない本ですよね。これは、文化の違いからくるものなんでしょうか。モチーフ自体が状況を表しているだけであって、タイトルになるほどではないんじゃないかな。これは疑問のまま残りました。北欧らしいと思ったのは、絵もですね。ちょっとひっかいて書いただけみたいな。この本としては、成功していると思います。そっとしておいてくれそうな雰囲気が、よかったです。具体的な部分と、抽象的な部分の開きが大きいのが気になりました。もっと話者のテンポがあれば、ひっぱっていかれるんだろうけど、この人の回想録、ついていくのが難しかったです。それから、日本の場合は、死を乗り越えたところで回想するスタイルが多いんですが、この本はこれから乗り越えようとしている時点で書いているところがおもしろいですね。

愁童:ぼくは、前に読んでたんだけど、ウルフ・スタルクの作品と勘違いしていた。好感度の高い本だと思ってたんだけど、この会に出るんで今回読んでみたら、それほどでもなかった。好感度が高い印象は、訳のおかげじゃないかな。同じ訳者の文体でスタルクといっしょに読んじゃったので好感を持ってしまったんだよね。この本はセンチメンタルだし、スタルクほど良くはなかった。どうも訳で得してる感じ。訳者の体質もあるから、こういうのってどう考えたらいいんだろうか。

トチ:私は昔から翻訳者はピアニストみたいなものだと思ってるの。ショパンのおなじ曲を弾いても、ルビンシュタインとサンソン・フランソワでは、まるっきり違うでしょう。楽譜は同じなのに。後で、プーシキンか誰かが全く同じことを言っているって聞いたけれど。だから、あまり良くない作品なのに、訳文でとても良い作品になるってこともあるし、良い作品を訳でめちゃめちゃにしてしまうこともある。また、誰が聞いても素敵な曲は、下手な人が弾いても魅力的に聞こえるのと同じに、素晴らしい物語は、稚拙な訳でも素晴らしさが伝わるってこともあるわね。たしかにこの本の場合は訳者に助けられていると思う。

オカリナ:スタルクの作品と似てるっていうことなんだけど、この本の場合、原作者の力量不足が有能な翻訳者によってカバーされて、スタルクに近い雰囲気になってきてるってことなのでは?

愁童:ということは、翻訳者を選んだ編集者の力ということかな。

トチ:この本は、主人公も弟も動いてないけど、スタルクの書く人間は動いているものね。

愁童:スタルクに『おねえちゃんは天使』(ほるぷ出版)って絵本があるけど、この本、あれによく似てる。スタルクの方は死んだ姉を弟が思うんだけど、こっちは、姉が死んだ弟を偲ぶということで、女の子が主体になってるから、感傷的なトーンになるのは仕方ないのかな。でも、スタルクの方は、すごくユーモラスに書いてるだけに、かえって愛する者の喪失感みたいなものが読者にどーんと伝わってくる。

オカリナ:『おじいちゃんの口笛』(ウルフ・スタルク文 ほるぷ出版)も、死が描かれてた。スタルクは、死に至る前のおじいさんと少年の関係を、印象的なエピソードを積み重ねて描いているから、人物像がしっかり読者にも伝わる。でも、この作品は人物像を浮き上がらせるための具体的なエピソードが弱いんだと思う。

チョイ:私が、この本だったら出さないかもしれないと思ったのは、誰に向かって、何のために出すかがよくわからないから。想像できる誰かを励ますなり、何らかの新しい価値観が描かれていたりが理解できれば出せるんですけど・・・。でも、いまひとつこの本は、その点がぼんやりしているの。最後の方に、テーマが集約されているようではあるんだけど、それでも淡い。ただ、死というテーマを描くのは、本当に難しいです。スーザン・バーレイの『わすれられないおくりもの』(評論社)のように、老人の死なんかはいままでも書かれ、それなりに納得できるんだど、子どもの死みたいな理不尽な死というのは本当に難しい。どう受けとめて、子どもたちにどう伝えるかは、私にとってずっと課題です。でもこの本はその問いに回答をあたえてはくれませんでした。

トチ:人の死にそう簡単に感動してしまっていいのかって、こういう物を読むたびにいつも思うわね。

チョイ:不幸だと思っちゃったら、受けとめられなくなるんです。

もぷしー:それにしても、スタルクの本っていい印象があるので、スタルクっぽさで評価が1ポイント上がってしまうっていうのは否めない。どうもいい感じの印象だけが残るんだもの。品がいい感じ。すてきな本にしあがっているから、実質よりも評価が高くなりがち。哲学的なのかなあ。

愁童:いやー、哲学はないのかもしれない。地面に落ちてる吸い殻の数をかぞえて、「97本! アイスは、こんなにたべられないや」と弟が言ったりするとこはうまいんだから、それでいいんじゃないの。

(2001年03月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)