月: 2002年10月

2002年10月 テーマ:変則的な家族

日付 2002年10月31日
参加者 ペガサス、羊、裕、ねむりねずみ、アカシア、カーコ、紙魚、きょん、トチ、愁童
テーマ 変則的な家族

読んだ本:

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おばあちゃんはハーレーにのって

:「プタ」とか、言葉あそびをうまく訳してるなと思った。自分自身の体験からかもしれないけど、ニーナ・ボーデンって、最後のところで、陰影を書くのを避けちゃうのね。お父さんもお母さんも狂言回しのように、やけにさらっと書いている。ただ、おばあちゃんは、素敵にかっこよく書けていて成功している。現代的なおばあちゃんで、精神的な病気につきあう様もリアリティがあって、パターン化してない。それから、子どもどうしの関係で、サブのプロットがあるのは、うまかった。でも、いちばん感動したのは、訳者の後書き。

紙魚:家族って、距離も近いし、時間も長くいるのに、一日一日のことを話したりはしても、自分のことを紹介するように話したりはしないじゃないですか。たとえば、初めて会った人には、趣味は何だとか、好きな食べ物は何だとか、自分のことをてっとりばやく、かいつまんで話しますよね。でも、家族の場合は、共に生活するうちに、お互いのことをつかんでいく。だから意外に知らないことがあったり、勘違いしてたりするんだけど、この物語のなかで、実の両親の家から帰る時のプレゼントの中に図書券が入っていたところ、とても主人公の気持ちが伝わりました。やっぱり、家族は合コンのように(!)てっとりばやく、相手を知るという関係ではないんですよね。

カーコ:この女の子は育ての親と実の親との間で揺れるんですけど、結局きちんと向き合ってくれるほうを選ぶんですよね。これって、現代の日本の子どもに通じるテーマだなと思いました。親がいつも子どものことを見ていることはとても大事なのに、今って、子どもが中学生くらいになると、「この子はもう大きいから」ってすっかり子どもから離れてしまう親が多いような気がします。だから、このおばあちゃんとこの子の関係は、テーマとしてすごくおもしろかった。

きょん:途中までしか読んでないので印象だけなんですけど、テンポがよくて現代的。

アカシア:私は小さいときに、かわいそうで健気な主人公が出てくる本をいっぱい読んで、なんてかわいそうなのと感動してたことがあるんですね。そんな自分が今は嫌なので、そういう本は眉唾と思っているんです。この本はそういうのと違って、最初から、読者の同情をひくように書かれていない。女の子が、変なおばあちゃんの人間性に気づいていく関係をきちっと書いている。実際の両親がカリカチュアライズされているところは、ちょっとやりすぎな印象を受けましたけど。訳は、うまい。

愁童:ぼくはね、日本語のタイトルで勝手にイメージが出来上がっちゃって、違った方向に期待しすぎちゃった。だから、ちょっとがっかりした。だってハーレーに乗るって、すごくマニアックなことで、それもおばあちゃんでしょ。その人物像の方に想像が膨らみすぎちゃった。その時点で、本筋を読み損なっているんだね。で、おばあちゃんは、あんまりよく書けてないなって、もどかしい思いをしながら読むハメになっちゃった。3冊の中では、いちばんこの子が不幸だよね。実の親が健在なのに、その存在になじめないんだから。それから翻訳って難しいね。「プタ」って、日本人からすると、おばあちゃんを鮮明にイメージしづらいような気がした。

アカシア:原題はGRANNY THE PAGで、pagにはpig との関連もあるし、hagからの連想もあるかもしれない。46ページには「プタたちは特別な人たち」っていう表現があるけど、ここはKGBとかCIAみたいな秘密諜報機関とか、それに類するような秘密の団体をにおわせているんだと思うのね。そういう得体の知れない胡散臭さみたいなものは「プタ」だと伝わらないかもね。でも、ここは翻訳不可能な部分だと思う。

愁童:あとさ、親権を有利な展開に感じさせる伏線として精神を病んでるフリスバーさんの描写が出てくるんだけど、そこはちょっとひっかかった。ストーリー展開の上であまり必然性が感じられない。最後の、おばあちゃんが溺れそうになった後、たばこをやめてくれたという一行で、すとんと終わらせる所なんかは、うまいですね。

トチ:私は、訪ねてきた精神病患者のおじいさんと主人公の少女のやりとりの部分を読んで、感動したんだけど。後書きを読むと、作者の家族にも精神をわずらった人がいるというから、それでこれだけ深く書けているんだと思ったのね。『ぼくの心の闇の声』(ロバート・コーミア/作 原田勝/訳 徳間書店)なんかは、原作にある精神病院に関する一文をカットしているのよ。あえてそういうことを出さないようにしている。差別になるかならないか、あまり神経を使いすぎてもいけないし、ハリポタの事件のように無神経なのももちろん困る。でも、この作品ではあまり気にならなかったけど。

ねむりねずみ:主人公がいい子すぎず、悪い子でもなく、ちょうどその年齢の子どもという感じでいきいきしていて好きでした。一人称の語り口がぴったりだと思う。おばあちゃんもすてきな人だし。両親はたしかにステレオタイプに書かれているけれど、この子から見れば、そういう感じに見えるんだろうと思った。最後に裁判所の決定がおりて一緒に住み続けた後の、海の場面が好きです。あの場面では力関係の逆転が示唆されている。それまでのかなり自立しているとはいえ女の子が面倒を見てもらう、頼る関係での「いっしょにいたい」から、やがては自分が「めんどうをみるんだ」という対等な関係が感じ取れて、それがぐっときた。さっきのリアリティの話に戻れば、この子が、心を病んだおじさんに対して見事に対処できたのは、日頃おばあちゃんを見てそう育ってきたからなわけで、あの場面はふたりの関係をあらわすための重要な描写だと思う。それと、この本を爽快感を持って読み終えることができたのは、この子がからっとしていて、誰かの力を頼ることなく、自分で精一杯動いているからだと思う。

:私も好きな作品でした。いきがいい女の子、かっこいいおばあちゃんが出てきて、おもしろく読めた。私も、祖母のもとで暮らしてたことがあるんです。中2くらいのときに、両親のところに戻らなくちゃいけなくて、親の財布からお金をくすねて、おばあちゃんの家へ行ったりした。納得できない時期だったんですね。この子の気持ちと重なりました。おばあちゃんと少女の関係がとってもいい。

ペガサス:私ね、途中まで、おばあちゃんを「ブタ」って読んでたの。でも、原題を見て「プタ」なんだって気づいたもんだから、おばあちゃんの印象がちょっと違ってしまったかもしれない。おばあちゃんがすてきというよりは、主人公に好感をもてた。「あたしが」っていう一人称で書かれているけれど、実際には子どもがここまで表現できるわけはなく、著者が影のナレーターとなっているのだけど、気持ちにそって読めるのがいいと思いました。両親がカリカチュアライズされているのも、この子から見ればそうなんだから、私はうまいと思ったんですね。193ページの「その晩は、いつもよりおそくベッドにはいった。プタは、ずっとあたしの部屋にいてくれた。ねむくなったので、あたしはもうだいじょうぶだからねむったらといったけれど、ほんとうはプタがそのまま部屋にいてくれたので、うれしかった。プタがベッドのすぐそばにすわって、やわらかいあかりで本を読んでいるけはいを感じていると、なんだか気持ちがおちついて、ほっとした。」という部分が、子どもって本当にこういうふうに感じるんじゃないかなと思って好きでした。会話の訳し方も今の子どものことばづかいで、効果的でしたね。ちょっと古いものだと女の子のセリフには「〜だわ」ばかり使われていたりするけど、これはうまく訳されていると思いました。

トチ:この本の魅力って、ひとつのストーリーの芯でひっぱっていくのではなく、エピソードなんですよね。ほんのちょっと出てくる人物でも、ものすごくよく書けてるでしょ。弁護士とか、児童福祉士とか。

愁童:ぼく感心したのは、おばあちゃんがこの子の母親をこれまでは「あの人」と言っていたのに「娘」と言うのを聞いて、主人公がショックを受けるところ。

トチ:軽いところもあるんですよね。校長先生の名前とか、ちょっとね。

ペガサス:描写が具体的だから、わかりやすいのよね。

愁童:うん、『おき去りにされた猫』は状況描写がうまいけど、『おばあちゃんはハーレーにのって』は人物描写がうまいよね。


おき去りにされた猫

:この夏、知り合いのお母さんが、行方不明になって、しばらくその子どもたちをあずかっていたの。彼らひとりひとりの毎日は、こんなもんじゃなかった。この本には、リアリティがまったく感じられなかったわ。こんなに静かに受け止められないはず。私は、あずかった子どもたちの感情の起伏の凄まじさにたじろいだんです。こんなふうに大人の世界を受け止めるはずはない。その子たちに、この本は読ませられない。

:私は子どもの本を読み始めて間もない頃、読んだんです。これ、課題図書だったのよね。子どもが里子に出され、転々としている姿に、感動してしまって……。子どもがこんなふうに猫と自分を重ね合わせて生きていて、家族に入れたり入れなかったり、だんだん気持ちがかわっていく様子に、泣けてきた。だから、「変則的な家族」というテーマがあがったとき、この本だ! と推薦したのね。主人公が自分の力を出していけることになって、本当によかった。つぎに生きていく場所が見つかってほっとした。

ねむりねずみ:淡々としてましたね。訳も物語も。それはそれで、おもしろく読んだんだけど、なんか里親家族がいい人過ぎて、かえってへそ曲がりに、主人公を働かせるせこいおばさんがほんとうはどんな人だったのかと、そっちのほうが気になりました。ちょっとできすぎかなって思う。まったく駄目だとは思わないし、お母さんと一緒になることをただただ祈るところからは一歩抜け出すから、そういう意味では成長の物語なんだろうけれど、どうもいい人ばっかりというのがねえ。猫に自分の思いを重ねることもとてもよくわかるんだけど。なんかなあ、こういうのが古いっていう感じなのかと思った。

愁童:ぼくも、たしかに古いと思うけど、3冊の中ではいちばん安心して読めた。これで幸せになれるかどうかは関係ないと思うんだよね。一つの虚構の世界が気持ちよく終わったなってことでいいんじゃないか。猫の勝手な習性をきちんとおさえていて、ラストの連れて行こうとして逃げられるシーンなど、少年の生き方に重ねた暗喩じゃないかな、なんて思った。

アカシア:この当時(81年)だと、こういう書き方もあるのかな。でも、70年代の『ガラスの家族』(キャサリン・パターソン作 岡本浜江訳 偕成社)ではもうすでに、「いい子」を離れた子ども像が書かれていたんだけどな。これは、とってもいい子で、とってもいい家族にめぐり合えたという、稀に見る幸運な話で、ひとつの作品としては完成されているかもしれないけど、実際にこういう状況にある子が読んだら、ばかにされていると感じるんじゃないかしら。『メイおばちゃんの庭』(C・ライラント作 斎藤倫子訳 あかね書房)の主人公は、同じような境遇で里親をたらいまわしにされるんだけど、こっちはお母さんにあったかく育てられた記憶があるのよね。その記憶がないと、児童心理学的にも、こんなにいい子にはなれないはず。リアリティは確かにないわね。

愁童:書き手はさ、こういうおとぎ話風なメッセージにしてもいいんじゃないかな。子どもが楽しんでくれれば。

アカシア:おとぎ話ふうに読めばいいってこと? でも、実際に大変な境遇におかれた子は増えているわけだし、社会もそういう子どもを理解する必要が増してるわけだから、リアリティのない「いい子」が書かれるっていうのは問題だと思うな。やっぱりこういう物語でリアリティのあるものって、何らかのかたちで自分が関わった人しか書けないと思う。そうじゃないと嘘くさい。

:実際に子どもがこういう状況だったら、なかなかこういう本は読まないでしょうね。

トチ:幸せな子どもが読む本よね。『銀の馬車』(C・アドラー/作 足沢良子/訳 金の星社)なんかも。ストーリーのもっていきかたはうまいから。

きょん:私はこの本、好きでした。たまたま置き去りにされていなくても、心理的に置き去りされている子どももいるじゃないですか。この子は、ひとりぼっちになった自分を、最終的に肯定的に受け入れることによって、これから生きていく姿勢を手に入れる。それがハッピーエンドだと思う。自立するということがハッピーエンド。里親がいい人たちだというのも、甘いかもしれないけど、読んでいて安心感を抱かせる。リアルではないかもしれないけど、作家が書きたかったのは、少年の心の自立だったんじゃないかな。

ねむりねずみ:でも、自立するにしても、あんまり葛藤がなかった。こんなに簡単に心がひらいていくかな? そこが腑におちない。

愁童:それは、読み手の想像力の問題じゃないかな。

ねむりねずみ:内面の、という意味じゃなくて、外部の人との葛藤という意味なんですけどね。里親に心を開くのに、こんなに衝突なしに開けるのか、という。

きょん:淡々と書かれていても、私は葛藤を感じましたが。

カーコ:アイディアがいいとか構成がいいとか、最近は技巧的なお話に注目が集まる傾向にあると思うんですけど、その中で正攻法でまっすぐに描かれていて、古いのかもしれないけど私は好きでした。昔の『小公女』とか『フランダースの犬』みたいに、筋がはっきりして完結した終わり方、幸せな終わり方はほっとするじゃないですか。私は、リアリティがないとは思いませんでした。まわりの人間とのかかわりで少年の心が変化していくようすがよく描かれていると思った。どなりあう言葉をそのまま書くのがリアリティというわけではないし。会話の部分に、英米の作品だということを感じましたね。ここまで、日本人ははっきりと言葉であらわさないから。いいなあと思う文章がはしばしばあった。たとえば38ページの、チャドがポリーに「どうしてあんなに本を読むんだい?」ときくと、「本の中の人は現実の人よりもっと、本当のことがわかると思うのよ」と答えるところとか、201ページの「だれかを愛するように教え、そのあとおき去りにしてしまうなんて、ひどいことだ。」などの一文は、じーんときました。翻訳では、作品全体の雰囲気の作り方がうまいなあと思いました。

紙魚:この物語は、冒頭から、少年の気持ちを映し出したような湿りけのある陰鬱な空気におされたんですけど、森に入っていくにしても、その情景描写が、少年の心とすごく重なるんですよね。そのていねいな積み重ねが、物語をいっそう奥深いものにさせていたと思います。おもしろく読めました。


それぞれのかいだん

ねむりねずみ:私は、アン・ファイン自体が好きなの。いい人ばかりとか、悪い人ばかりじゃないし、親の都合で離婚という事態になっても、子どもたちがそれぞれに自分なりの位置をつかもうとしていくのがいい。『ぎょろ目のジェラルド』(岡本浜江/訳 講談社)もそうだったけど、リアルでそれでいてユーモラスだし、元気が出る作品だから好き。前々からアン・ファインの作品に限らず、英米の児童文学には離婚とか片親などの家庭を扱ったものが多いなあ、やっぱり、深刻な問題が日本より早くきてたんだなあと思っていたけれど、これもそういう本ですね。それにしても、お手軽な解決がないところも、作者の力だと思った。とくによかったのはコリンの話。コリンの踏ん切れない感じがずっと続いていて、最後にコリンが「話すことなんか何もない」というのを忘れて終わるあたりがいいなあ。内容だけでなく、全体の雰囲気でその子の個性を表していると思いました。でも、漫画の延長線みたいな表紙と挿絵には、猛烈に違和感を抱いた。ひとつひとつのお話が類型的じゃなくて、それぞれが悩んで、解決することもしないこともあるっていうあたり、深刻な話なのに基本的に暗くなくて、読後感がさわやかだというあたりも好き。

アカシア:私もアン・ファインは好き。本来だったら出会わない人たちが、あるきっかけで出会う、という設定もうまい。シリアスな題材を扱っていながら、ユーモアもたっぷり。そういうのができるのって、イギリスではアン・ファインとジャクリーン・ウィルソンくらいじゃないかな。子どもの歴史の中で見ると、かつては親の庇護のもとで安心していた子どもたちは、今や親には頼れない。それどころか親の不始末に寛容に対処し、自分で居場所を探さなければいけないというところまで来ている。それぞれの家庭環境が複雑なので、関係図があるのは、わかりやすくて助かったな。

きょん:こういうテーマなので、こういう装丁にしたのかもしれないけど、ちょっと……。辛辣な感じで、真実を語るのがおもしろい。子どもは真実をわかっていながら、それを表現することができないから、おとなは子どもにはわからないと思っているんですよね。ちょっと説教くさいところもあるんだけど、心にずんときた。でも、こういうふうに、つらい話でまとめられているのって、子どもが読みたいと思うのかな、という疑問はある。

カーコ:このあいだ『トラベリングパンツ』(アン・ブラッシェアーズ/作 大嶌双恵/訳 理論社)を読んだとき、アカシアさんが「同じように数人の子を描いているけれど、こっちのほうが人物がたっている」とおっしゃっていたので、そういう頭で読みました。いつもとちがう状況におかれた中学生が、見つけた手記をきっかけに、素直になって、心がやわらかくなって語りだすというのがうまいなと思います。いろいろな家族をうつしだしていておもしろく読めた。子どもたちがこれをどういうふうに受け止めるのかなとは思うんだけど、素直に深く語る子ども自身の声を読んで、人はそれぞれいろんなことを考えているんだな、背景があるんだなということを感じとれるんじゃないかな。複雑な家族の物語なのに誘い込み方がうまい。中学生が合宿に行って、幽霊屋敷で嵐、こわい話かなってひきつけておいて、本題に入っていく。
本作りは気になった。文字の大きさとか装丁とか、しっくりきませんでした。文字が大きければ読みやすいわけではないのに。これだと、内容が安っぽく見えてしまうのでは?

紙魚:みなさんからも出てますが、やはり装丁はしっくりこないです。私、注文してて届いたとき、あれ、まちがった本がきたのかなって思っちゃいました。

:期待して読んだら、ちょっと裏切られた感じ。3点あげられるんですが、ひとつは、導入としては成功しているが、導入にすぎない。何かしら生かされたかたちで円環が閉じるようなところがほしかった。自分のうまさに寄りかかっているのでは? ふたつめは、親子の関係を書くには、大人どうしの関係を書けなければならない。リアリティを感じられなかった。三つめは、短編として散漫。共通のモチーフも弱い。でも、辛口になっちゃったのは、期待しすぎたから。アン・ファインの今までの作品よりいいとは思えなかった。この装丁は、日本で売りたいという意識が強すぎるのかも。

トチ:私も訳書が出るのを期待していたんだけど、書店で装丁を見てぎょっとしたわ。あまりにも子どもにおもねっているような感じがしていやでした。物語の作り方はさすがアン・ファインだと思ったけれど、実はこのごろあまりうまい作品は好きじゃなくなってきたの。技巧が透けて見えるっていうのかな。それから、この社はアン・ファインの作品の版権をたくさん取っているらしいけれど、なかなか出版されない。歴史物語やファンタジーなら話は別だけれど、アン・ファインの作品のように現代の子どもを主人公に置いたものは、早く出版してもらいたいと思う。版権を取るというのは、翻訳出版する権利を得るだけでなく、それだけの義務も負うってことだと思うんだけれど。

愁童:ぼくも、冒頭の誘い込みがうまいとは思ったんだけど、個人の話になっていくと、がっかりした。策におぼれたという感じ。継母、継父だから不幸っていう悩みのサンプルを並べたみたいで、それで?って言いたくなる。今や実の親だって似たような悩みはあるわけで、親の組み合わせ方をいろいろ並べてみても、あまり意味ないんじゃないか。ここからなにを子供に読みとってほしいんだろ。半ば話すことを強要してて、話せば楽になるよってカウンセリングの事例研究みたい。話して救われたみたいな書き方って好きになれない。

アカシア:たとえば、アメリカだと、単親家庭を経験したことがある子どもは、全体の半分いるんですって。日本の環境でこれを読むと特別に思えるかもしれないけど、アメリカやイギリスの子が読むともっと普通で切実なんじゃないかな。リアルだと思う。カウンセリングらしいところもあるのはたしかだけど、読んで一歩進める気持ちになれる。そっか、やっぱりカウンセリングの効用もあるのかもしれない。

愁童:そうかもしれない。でも、日本の子どもに、この作品の何をどう読んでほしいんだろ?

トチ:出版社はそこまで意識してこの作品を出したんじゃないと思うけれど……

アカシア:アン・ファインだったら、賞を取った他の作品を先に出してもいいのにね。

愁童:今、児童書業界、不況でしょ。ぼくは最近、どうしても、出す側と受け取る側のギャップを感じるね。

トチ:本当のところ、アン・ファインの版権をすべて取って、出せるのから出していっているんじゃない? それから、こういう後書きって好き? なんか物語りの余韻を壊してしまうような気がするんだけど。

ペガサス:私なんか、後書きがないとほっとしちゃうこともある。

アカシア:さっき、うまさが鼻につくって話が出たけど、私は、うまさって子どもの本には必要なんじゃないかと思う。今ってね、『トムは真夜中の庭で』(フィリパ・ピアス作 高杉一郎訳 岩波書店)がわからないっていう文学部の学生がいる時代なのよ。文学を読みなれた人はともかく、子どもの本にはプロットのおもしろさって、欠くべかざるものだと思うな。

愁童:「ハリー・ポッター」が子どもの読書の起爆剤になるかって話が出てたけど、つぎの1冊に何を読むかが大切なのに、ちゃんと考えてない送り手の側に問題があると思うな。

アカシア:文学は、プロットとキャラクターとポイント・オブ・ビューの3点が必要と裕さんが前に言ってたけど、今はプロットだけの本が多すぎる。

紙魚:ただ、「ハリー・ポッター」を読んだ子どもたちには、1冊読み通した満足感とか達成感がかならずあると思うんですよ。それがかならず次の1冊につながっていくと私は思う。私も子どものときって、純文学とエンターテイメントに分けることなく、どんな本でも、本は本でしかなかったし。

アカシア:そうはいってもね、人と人のつながりが描かれているのが文学なのに、そういうものが少なすぎる。きちんと書き込まれているものも子どもに読ませたい。

愁童:児童文学を読んで育った親の世代が、わりあい保守的なんだよね。森絵都とかぜんぜん読んでないんだよ。そうすると、出版社がせっかく出しても広がらないよね。それで今の子たちって、漫画のノベライズとか読んでるんだよ。学校の先生も、どういう本が出ているか知らないよね。

きょん:それって、絵本の世界にもあると思うんです。どんなに新刊を出しても、すすめる側の先生方は、古いものしか出してこない。

愁童:新しいものを探していこうとしない。権威とかにも弱いしね。

ペガサス:でも絵本は、実際クラシックなロングセラーの方がいいのが多いわよ。

カーコ:中学生は、お金を持って「ハリー・ポッター」を自分で買いにいくだけの財力がある。口コミが発達していて、おもしろいと思えばお金をかけられる。だから、司書さんにもっと他の本も手渡してほしいですよね。うちの近所の図書館は、ヤングアダルトの棚がないんです。中高生は利用が少ないとか、一般の本と線引きができないとか、難しい点はあるけれど、働きかけてほしいですよね、プロとして。図書館員の職自体が自治体に尊重されていないという問題もあるんでしょうけど。さっき出た森絵都も、司書が知っていれば学校図書館に置くんでしょうし。

ペガサス:図書館員の集まりに行ったりすると、親に「うちの子は『ハリー・ポッター』を楽しそうに読んでた」って言われて図書館員はだまっちゃうのよ。言葉を持たないの。本を扱う仕事の人がそういう意識だと残念ね。