月: 2003年6月

2003年06月 テーマ:のりこえていく子ども

日付 2003年6月19日
参加者 愁童、ケロ、きょん、トチ、すあま、アカシア、むう、せいうち、裕、カーコ
テーマ のりこえていく子ども

読んだ本:

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バーリー・ドハーティ『ホワイト・ピーク・ファーム』

ホワイト・ピーク・ファーム

トチ:ドハーティは大好きな作家だから、わくわくしながら読みました。登場人物がひとりひとり、くっきりと描けているし、人生の奥深さを感じさせる。訳者の斎藤さんは、とても優れた翻訳者ですね。ドハーティは詩集も何冊か出しているし、もともとの文章も美しいけれど、訳文もその美しさを損ねていない。

:『アンモナイトの谷』(バーリー・ドハティ著 中川千尋訳 新潮社 のちに『蛇の石 秘密の谷』に改題)もポイント高かったけれど、これもいいですね。「少女の気持ち」という視点から読みました。そういう意味では、成功してる。

むう:うまいなあ、と思いました。最初の、インドに行くといってホスピスに入るおばあちゃんのエピソードはへええ、と、どんでん返しに感心してしまった。おばあちゃんの元気の良さもいいし。とてもきれいな訳文ですしね。全体の印象としては、すごく強烈に何か動くとかひとつのドラマをぐっと掘り下げるというのではなく、穏やかで抑えた感じでした。この女の子の成長物語というよりは、家族というか、ひとつの農場が否応なく変わっていく歴史を書いた作品なんだろうと思いました。

すあま:印象としては、連作短編集という感じ。特に最初の話がインパクトがあります。短い中で、ストンと落ちて終わる。児童文学として出ているけれど、大人の短編集という感じがしました。読んでいて思い出したのは、モンゴメリの『赤毛のアン』シリーズにある短編集(『アンをめぐる人々』など)です。ただ、この表紙の絵は、物語から受ける印象と違ってちょっと子どもっぽいような気がします。

トチ:でも、この表紙なら小学生も手にとるかもしれない。読書力のある小学生だったら読めるかもしれない。

愁童:いい本ですね。でも、この手の本はたくさんあって、新しい感動はなかった。これを今子どもたちに渡そうとする側の思いはなんだろう。ただ今回の3冊の中でこれがいちばん好きです。本を読んだという感動がありますからね。はっきりとした実在感を与えてくれる本で、説得力もありました。

ケロ:16歳くらいの女の子が主人公です。人間の根っこになるようなものを訴えかけている作品だと感じました。家族というのは、時を経るとともに変わっていくものです。今が絶望的でも、未来永劫その状態が続くわけではない。読者となる思春期の子は、今が変わらないかのように思いつめて絶望してしまう傾向があると思うけど、家族のそれぞれが成長しながらその関係も時とともに変わっていくものだということを、読者が感じてホッとできるといいなあ。最初の章の祖母ですけど、みんなが演じていたお芝居だったというのが、ちょっとしっくりきませんでした。どこでみんなが知ったのか? お芝居をする必要があるのか?「インドへ行く」といったとき、カッコいいじゃんと思ったのに・・・。また、「復活祭の嵐」の章で、お父さんとお母さんが踊るシーンですが、それを見た主人公にとっては裏切りのような複雑な気持ちになるのかも知れないけど、以降の父母の仲へつながる重要なシーンだと思いました。

アカシア:2回読んだんです。最初読んだときはとってもいいなと思ったんだけど、2回目読んだら情緒的に流れるところが目についてしまって、どうなのか、と考えてしまいました。インドへ行くと言ってホスピスに入るおばあちゃんですけど、家族の者たちはそれがわかっているのに、その後おばあちゃんの存在は忘れられてしまう。それに家族観が古いのも、ちょっと気になりました。みんながお父さんに気兼ねしてて、崩れかけた家父長制をどう支えていくか、みたいなところもある。ドハーティなので当然文章はうまいし、翻訳もうまい。「このホワイト・ピーク・ファームはいつだって、あなたの帰ってくる場所よ」という最後のしめくくりも泣かせる。うーん、だけどね。

すあま:私も、さっきモンゴメリを例に出したのは、同じような時代の話なのかと思っていたからです。

トチ:私は、もともと家族って理屈じゃ割り切れない、ぐじゃぐじゃで、どうしようもないものだと思ってるから、違和感はなかったわ。でも、課題図書になっているって聞いて「えっ、どうして?」と思った。この本を子どもに読ませて、どういう感想を期待しているのか、選んだ大人たちのおなかの中が見えるような気がして、白けちゃう。

:ノスタルジーの物語ですね。

カーコ:私はいいお話だと思いました。等身大の主人公の女の子が、迷いながら、自分の道をさがしていく話なので、中・高校生の読者がすっと入っていけそう。人物が多面的に、一つの型にはめこまずに描かれていて魅力的でした。文学として質の高いこういう作品が、課題図書として読まれるのはいいことでは? 主人公の家族が古典的なので、その辺をみなさんはどう読まれるかなあと思っていたのですが。現代の日本のリアリズム作品って、大人も子どもといっしょになっておろおろしていたり、気分ばかりが重視されるようなものが多いから、こういう一見あたりまえの家族の機微を描きこんだ作品は安定感があっていいなあ、と私は思いました。

きょん:ずいぶん前におもしろくさらっと読みました。おもしろく読めるけれど、あとに残らない。お話としては質がいいけど、インパクトは弱い。『若草物語』(オルコット著)とか、『大草原の小さな家』(ローラ・インガルス・ワイルダー著)とかは、一人一人家族が描かれているけれど、インパクトは弱くない。どうしてかなと思いました。

せいうち:途中までしか読んでいないのですが。非常にいい小説だと思います。小説としてちゃんとしたものを久しぶりに読んだなあと。すごく感じたのは、家族のことを描いているのだけれど、複数の人間がいると何かが思い通りにいかないということ。おばあちゃんが、いったん大学に行って、やむを得ず戻ってきたことを、一切口にしなかった、というところで、非常に無念だった思いが伝わってきましたね。

(「子どもの本で言いたい放題」2003年6月の記録)


パトリシア・ライリー・ギフ『ノリー・ライアンの歌』

ノリー・ライアンの歌

カーコ:状況が厳しくて、ほんとうに辛いお話なんですけど、こういう本は好きです。妖精が息づいているアイルランドという舞台も興味深かった。こういう世界があるんだなあと。ただ、『ホワイト・ピーク・ファーム』(パトリシア・ライリー・ギフ著 もりうちすみこ訳 さ・え・ら書房)では家族一人一人の像がとてもはっきりしていたのに対して、こちらは、姉妹の年齢の違いやそれぞれの性格などがすっきりと頭に入ってこなかったのが残念でした。原文の問題なのか、翻訳の問題なのかわかりませんが。

アカシア:『サンザシの木の下に』(マリータ・コンロン・マケーナ著 こだまともこ訳 講談社)や『アンジェラの灰』(フランク・マコート著 土屋政雄訳 新潮社)のような似た設定の本をおもしろく読んで時代背景が頭に入っていたので、情景がありありと浮かんできました。それと、さ・え・らの今までとは違った路線のこの表紙からは、工夫の跡がうかがえて評価できると思いました。主人公が大変な状況のなかで積極的に生き抜こうとするリアリティがあって、ほかの、深刻な問題を深刻に取り上げただけの、ありがちな本とはひと味違う。主人公がしょっちゅう歌を歌っていたりして、辛さに溺れていないところがいいですね。

ケロ:あまり読んだことのないタイプの本で、ひたすら辛くて、飢えにつきあっておなかがすいてしまったり。主人公がなんとか生き延びられてよかったよかったという感じです。でも、アメリカでのアイルランド系移民の貧しさの背景を知ることができたような気がします。後書きにある、作者の思い入れにも納得しました。タイトルが『ノリ—・ライアンの歌』となっていて、妖精の話も出てくるので、本文中にもっとそれらしい歌詞がいろいろ出てくれば楽しめたし深みが出たのではないかと思います。それと、アンナという老婆から主人公へのさまざまな知識の伝達が、たとえば誰々を助けたとか、もっと具体的に書かれていると良かった。それがあれば、文化が確実に継承されていくという感じがもっとしっかり出たと思います。表紙を描いた画家さんは、アイルランドに惚れ込んで絵そのものが変わったような人なので、なるほどなあとしみじみと表紙を眺めました。中のイラストは息子さんだそうです。

アカシア:アンナの一人称が「わし」というので、相当な年齢かと思ってしまいましたが、老婆ではないのでは? なぜ「わし」にしたんでしょう?

愁童:いい作品だけど、冒頭の描写で気勢をそがれた感じ。訳の問題かなと思うけど、霧雨なのに、さっと晴れて海が見えるから、霧なのかなと思うと、その割には髪が濡れて水滴がたれるほどだったり、雨だか霧だかイメージが混乱しちゃう。似たような部分が散見されて、素直に作品世界に入れなかった。

すあま:この訳者の方は、アフガニスタンの少女の話(『生きのびるために』デボラ・エリス著 さ・え・ら書房)など、社会派の作品を手がけているのが、いいと思います。ただ、大人ならそういう時事的な関心があって本を手に取り、理解を深めるということもあるだろうけれど、子どもの場合はまた違うと思うんです。イギリスの子やアイルランドの子など、アイルランド問題を知っている子が読むのと、日本の子どもが読むのとでは違ってくる。もちろん、知識がなくて読んでも魅力のある本はありますが、この本は、日本の子が読むにはちょっと難しいのでは。それから、p82の「フォアファー」というアイルランド語の意味が、ダッシュ(−)の後に書かれているのですが、最初は言葉の意味なのかどうかよくわかりませんでした。他にも、カサガイなど、イメージできないものが出てきて、作品世界に入りにくかったですね。また、登場人物の印象があまりはっきりしていないので、それも読みづらかった。主人公は次々と失敗して困難な状況が続いていくので、読んでいて辛くなる本でした。

むう:私は時事的なものに非常に関心があるもんですから、アイルランド問題とかアイルランドの歴史とかもある程度知っていて、そういう目でこれを読みました。じっさいアイルランドに行ってみると、不自然なくらいイギリスにそっぽを向いて、大西洋を越えたアメリカに目を向けているんですね。それに、アメリカ人が故郷詣でのように大挙してアイルランドに来てる。そういうのを目にすると、どうしてもその背景や歴史に考えが及ぶわけです。で、アメリカにはアイルランドからたくさんの人が移民として渡っているわけですから、アイルランドの人やアイルランド系アメリカ人にとって、ここに書かれていることはとても身近なことだと思うんです。イギリスのアイルランド支配といった歴史的知識もあるわけだし。アイルランド系アメリカ人にとっては、この本は自分たちのルーツの物語、祖先の苦労話として大変興味深いんだと思います。でも、日本人にとってはあまりに遠いと思うんです。今の日本の子どもたちの置かれている状況から、かけ離れすぎていて、とても取っつきにくい。そういう歴史や時事から離れたところで、なおかつぐっとくる普遍的なものがあれば、それはそれでいいと思うんですが、この本にはそういう魅力があまり感じられない。そういう意味で、日本で出す必要があるのかなあと思いました。

:たしかに渋い本だし渋いテーマだけれど、こういう本があってもいいのではないかしら。イギリスの歴史を教える立場にいる人間としてそう思います。地味だけれど、出版されていい本だと思うんです。こういうふうにある時代設定で展開する人間の物語があるのとないのとでは、歴史理解が全然違ってくるから。それと、これは時代を描いた物語ではなく、ファミリー・サーガだと思います。前面には出てこないけれど連綿と伝えられていく女の歴史を描いたという側面があります。文化がどう受け継がれていくか、その様子が、たとえばお姉さんから届いた小包の包装についてのエピソードなどで表現されているわけです。時代を時代としてではなく家族の伝統として扱うこのような本の存在によって、歴史観が深まると思います。ほかの方もおっしゃっていたように、翻訳は少し気になりました。それと、日本の読者がどう受け取るのかということ、つまり本の普及の度合いについては、難しいものを感じます。

トチ:アイルランドの作家が、同じジャガイモ飢饉のことを書いた児童文学があって、欧米ではとても評判がよくてテレビドラマにもなったりしたけれど、日本ではさほど評判にならなかったんです。そのへんが、子ども向けの歴史読み物の難しいところでしょうね。まだ、世界史を勉強していないし、アイルランドって大人にとっても遠い国ですものね。

せいうち:この本は、やっと図書館で見つけて読みました。学生時代の先生がアイルランド専門家でしたから、アイルランド問題のことはいろいろと学んで、イギリスの悪辣さに悲憤慷慨していたんですが、当時の気持ちを思い出しました。まず、後書きを読んで、感動したんです。ファミリー・サーガという色合いを強く感じました。私は壮大な物語に弱いところがあるもんですから。家族からは自分のルーツについて十分な話が聞けずに、自らアイルランドに渡って尋ね歩いたということ、そのときに現地の人に、飢饉がなければあなたもアメリカ人ではなく、アイルランドの少女だったんだね、と言われるくだりは感動的でした。アイルランド系は今でもアメリカで地位が低く、主流になれずにいます。今でもどこにも居場所がないという感じの国民で、しかも、「祖国」と言われる場所でも、厳しい自然と闘ってきたわけです。ただ、アイルランドの歴史に関心があって後書きで感動したわりに、実は作品そのものにはあまり感動しませんでした。まず、表紙の絵からイメージした話と違っていた点で、がっかりしてしまいましたね。読むのも辛かったし、翻訳文体も気になりました。雰囲気を伝えようとしてこうなったのかもしれませんが、たとえば、人を呼ぶのにフルネームでばかりというのもどうかなあと思います。日本語としてぎこちない。それと、これだけの違和感を持たせてでも、アイルランド語を日本語訳の中に出す必要があったのかどうか、そこも疑問です。

カーコ:アイルランド語の発音をルビにして処理すると、すっきりするような気がします。(一同うなずく)

せいうち:今のアイルランド人やアメリカ人なら、アイルランド語が出ていることに感激するんでしょうが、日本人だとそういうこともないし。時代背景が分からなくても感動できる本は実際にあるわけで、そういうふうに書けなかったのかと思います。ひどい目に会った人の気持ちに沿いきれないからか、どうしてアイルランド人が書くとこう(悲惨なテーマばかりに)なるんだろうと思ってしまう。作者はこのテーマで書きたかったんだろうけれど、もうさんざん書かれているわけだし、もう少し何とかならなかったのかなあ。あってもいい本だし、なければならないとは思うけれど、自分が読みたいかというと・・・。

アカシア:売れるか売れないか、という点だけで判断すると出せなくなってしまう本かも。ファミリー・サーガという見方もあるけど、サバイバル物として見ることもできる。そう考えると、アイルランドのことは日本の子はほとんど知らないからこそ、こういう本も出したほうがいいと思います。アイルランドに行ってみると、羊ばかり、ジャガイモばかりで、そこにケルトの遺跡などが散在している。飢饉になれば生きていくのは大変だったろうなあ、とアイルランドに行ってみて実感しました。いまや、イギリスやアメリカの本ばかり紹介していてもしょうがないという状況でもあるし、出せれば出したほうがいい。でも、海鳥の卵を取りに行くところの状況がわかりにくいのは事実ですね。

:情景描写が分かりにくいというのは翻訳の問題じゃないかしら。

アカシア:でも、私は全体がリアルでないとは思いませんでしたね。ジャガイモがどんどん腐るあたりの描写なんかは、この本を読んでリアルに理解できました。今までイメージできていなかった飢饉の状況がこれでわかった。

愁童:部分的な齟齬が気になるんですよ。よく書けているところ(たとえば男の子が手にけがしているのを押して、女の子の命綱を引き受けるというところなどは、信頼関係が良く書けている)があるのに、その直後に大事なところでいいかげんな書き方をされると、実にもったいないと思っちゃう。ジャガイモの腐れの描写もすごいと思いますよ。だからこそ、肝心のところが軽くなっているというのはまずいと思う。
(この後、ひとしきり海鳥の卵を取りに行く崖の場面の解析が続く。)

きょん:最初は、アイルランドとか時代ということをあまり意識せずに読みはじめてしまって、途中で分からなくなってしまったんです。それで、あとがきを読んでから、もう一度読みはじめたんですが、あちこち小さいこと(みなさんが指摘されたようなこと)が気になってなかなか作品に入り込めませんでした。3分の1くらいのところ、姉が結婚してアメリカに渡ったあたりからぐいぐい引き込まれて、あとは順調に読み進めました。私は歴史的な知識がまったくなかったので、裕さんがおっしゃったように、歴史の副読本のようにこの本で知識を得たという感じです。気になったのは、ノリーがよく歌をうたっているはずなのに、その描写が出てこないこと。だから、歌が生きてこないんですね。唯一p46では歌詞が出てきていますが、こういうふうにして受け継がれていったものが、どういう風に生きる支えになったのかが具体的に散りばめられていればよかったと思います。そこが物足りないしもったいない。じゃあどうして歌なの?と思ったら、たしかにアンナの知識を受け継ぐに必要な記憶力というふうにつながっているんだけれど、それだけじゃあもったいない。この訳者さんの選ぶ本は、テーマに強く引きつけられて読み進めることができるけれど、アイルランド語のこともそうですし、訳の細かいところは粗いと思います。

カーコ:ダッシュの使い方など、整理されるともっと読みやすいかも。

せいうち:原文で使っているからなんでしょうが、やっぱりうるさいですね。

きょん:セリフがしっくりこなかったりして、そういうのが多いのが気になります。

せいうち:日本語の姿をした英語なんですね。

きょん:アンナとノリーの関係が深まっていくのはいいし、未来に向かうエンディングもいいと思ったんです。悲惨な状況だから訳す必要がないということではないと思います。これもひとつの現実なんですから。ただ、アイルランドの悲惨な歴史やアメリカに向かった移民の気持ちはわかったけれど、領主の描写が一辺倒なのが気になりました。このあたりももっと多角的に書いたほうがよかった。

すあま:前書きで一言状況を説明してあればいいんですよ。そうすれば背景がわかるから。私の場合、読み取れたのはジャガイモ飢饉のことだけで、イギリスとアイルランドの関係まではわかりませんでした。裕さんがおっしゃるように、副読本や教材として、他の本と合わせて使うといいのかもしれない。

せいうち:訳文を読んでいると、気合いが入ってるなあと思うんですが、その割に、訳者後書きがないのは意外でした。自分で時代背景などの解説を書きそうな勢いを感じたんですが。

トチ:歴史的背景の解説はたしかに必要だと思うけれど、最初にあると物語世界にすっと入れないし、かといって最後に入れると物語自体が理解できないかもしれないし・・・難しいわよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2003年6月の記録)


笹生陽子『楽園のつくりかた』

楽園のつくりかた

愁童:傷ついた都会の子どもが田舎にいって癒されるという、よくあるパターンなんだけど、この本では、田舎といっても、学校にいる子どもは山村留学している都会の子どもが多いという設定。自然豊かな田舎の環境だけに寄りかかってないところに工夫があるし、うまいと思います。ただ、父親が死んでいることを隠して読み進めさせて、あとでばらすというのは読者に対してフェアじゃない気がするな。かなり作りすぎの感じがするけど、今の子にはこのぐらいでちょうどいいのかな。

ケロ:登場人物がいろいろとおもしろおかしくて、結構楽しく読みました。あとで父親の死がわかるどんでん返しのところも、始めの印象とは見方がぐるっと変わって読めてきて、そこがおもしろかったな。特に、母親の印象は変わりましたね。最初は、田舎を楽しむお気楽なイメージで読み進んだけど、どんでん返しのあとは、いろんな辛いことがあっても、表には出さないで健気にがんばっている人だということになる。この母親は、このどんでん返しがあるために最初の設定がちょっとぶれていておかしい。はじめはブランド志向で偏差値志向なのかと思っていたら、途中から物事の真価が大切と言い始めて、どんな人だろうと興味を引かれ、さらに最後のどんでん返しで、そういう人だったんだと納得する感じ。テーマ的には、重たいけど、キャラクターが魅力的に描けていたので、読めたし、映像が目に浮かぶようで楽しかった。

むう:前にこの会で取り上げた『きのう、火星に行った。』がおもしろかったんですよね。同じ作者だから、やっぱり読ませる迫力があって、おもしろいおもしろいと思いながら読んでいったんです。全体としては、いい印象でした。でも、『きのう、火星にいった。』のほうがいいと思いました。というのは、父親のマブダチなる松島さんが出てくるところで、ゲッとなったんです。なんじゃこりゃ、安直すぎるじゃないかって。父親が死んで、それを認めたくないがために自分だけの虚構の世界を作り出してという、この設定にはそれほど抵抗ありませんでした。むしろ、おっと、そういうことか!と感心したくらい。おじいちゃんが梨園を再生させるのにつきあって、挿し木が根付くあたりで主人公が田舎に根を生やすという将来を予感させだぶらせるあたりも、なるほどなあと思いました。ともかく松島さんが、私はだめでした。最初登場したところで、いったいなんだこの人は、と思ったのですが、特に最後でからまれてるところに助けに入って、しかもそれが父親の親友だなんて、これはやりすぎじゃないかな。

すあま:私はどんでん返しがおもしろかった。だまされるタイプなので、しっかりとだまされてしまいましたが、よくできたお話だと思いす。最後は、終わらせるために主人公に無理に語らせていたり、決めの一言もちょっとクサイのが、気になりました。読み終えてから初めて、そもそも父親とひねくれた子どもがメールのやりとりなどするのかなど、主人公の自作自演だったとはいえ、疑問に思う点がいろいろと出てきましたね。

アカシア:どんでん返しも、一人称だからありかなと思いますね。メールの使い方も上手。本来黙っている子はコミュニケーションをとれないけど、メールを使えばコミュニケーションをとることもできるし、しゃべらすこともできるんじゃないかな。だから、設定はよくできてると思いました。松島さんはやはりふしぎな存在。それと、4人クラスで1人だけ土地の子がいるんだけど、その子が方言を使ってないのが不自然に感じてしまいました。外見的にも田舎の子として描かれているのに、と。松島さんも言葉使いが標準語。方言にすれば、もう少しリアリティが出るんじゃないのかな。

:私は、この作品には評価できるポイントがあげられません。読むのにはおもしろく読めるかもしれないけど、それだけでした。登場人物が4人しかいなくて、小さな学校で、お話を作るのは簡単だと思うんですけど、話の筋は決まりきっていて安易だし、小説としては安易なんじゃないかしら。先ほど映像がうかぶという意見がありましたけど、その通りで、ドラマ仕立てなら良いけど小説はまた違いますからね。老人と子どもの心の通い合いとか、父の死をどうとらえるかとか、深めていくべきテーマはいっぱいあるのに、残念です。

トチ:日本の創作児童文学というと、「○○山の頂に、黒い雲が広がっていた。いまにも一雨きそうだ。○○は・・・」といった情景描写に始まる、まじめくさった、陰気くさい文体のものが多いような気がして、読みたくないなという気持ちが先に立つのですが、この本は文章が短くて、リズミカルで、すらすらおもしろく読みました。お父さんが送ったとされるメールの部分だけ、なんでこんなにおもしろくないのかと思ったけれど、最後の種明かしを読んで、なるほどと感心しました。裕さんのいうように、たしかに深みはないかもしれないけれど、この本のように、子どもが気楽に手に取ることができて楽しく読める本があってもいいのでは・・・と私は思います。こんな風に文章も、構成もうまく書けている本を、山のように読んで楽しむというのも、子どもの読書法のひとつとして認めてもいいのでは。私自身も、子どものときにそういう読み方をしてきたような気がするし。おじいちゃんが農園の仕事をしているときに、接木の方法を語るところもおもしろかった。こういう職業的な薀蓄って、子どもの本のひとつの要素として大切なんじゃないかしら。

せいうち:今日読んだばかりです。読む人によっては、そんなに評価されないと思いますが、個人的には結構気に入っています。この主人公には、個人的に感情移入できて読めました。自分も子どものころに、この子に近いところがあったので。男の子の中には、おとなしくて快活ではないけど、自分の意志ははっきりしていて、そんな自分を社会の中でうまく出せず、他人から見れば自分勝手だとかわがままだとか言われてしまう子がいるんです。この子は、そういう子だと思いますが、好きですね。確かに利己的で自分勝手なところはありますが、それでも自分を正直に出せるところは、とてもいいと思います。
私は、都会がとても好きなのですが、どうも世の中には田舎を美化する傾向があって、都会派が不当に悪く言われてしまうことが多いような気がします。この本は、田舎に行ったら田舎に同化した方がいいとか、はじめは、そういうことが書かれた話なのかと思いましたが、単純にそれだけの話ではないのでよかったです。はじめのうちは「やっぱり、都会の子は負けてしまうのか」と思って読んでいたんです。僕としては、都会の子がただ田舎の子と仲良くなってしまってもつまらないし、仲良くならなくて、とけ込めなくても、話としてつまらないと思いますね。それから、この話の主人公は成績のいい優等生タイプの子ですが、この種の子は、普通、あまり主人公にはされないんです。それを不満に感じていたので、よかったと思います。ただ、やはり、もっと都会の良さも書いてほしかった。田舎で癒されるということもあるかもしれないけど、都会で癒されることもあるわけで、都会ばかり悪く言われるのは心外です。
松島さんの登場は、たしかにとってつけたようですね。でも待ってましたという感じがしてけっこう嬉しかったのも事実です。何といってもバイクに乗って現れるヒーローですから。仮面ライダー世代はこういうのに弱いです。最後に、松島さんが送っていってくれるというのもイヤではないです。「この話を読んでも何も残らない」という意見もあるでしょうが、残らなくてもいいような気もします。一点、残念だったのは言葉づかいですね。現代風、ということなのかもしれないですが、今の子どもが読む本がこういう話し言葉的な軽い文体になっているのかと思うと、ちょっと寂しいです。

きょん:最初に、お父さんとのメールのやりとりで始まるんですが、子ども側のメールも、お父さんのメールもすごく不自然で、なんだこれは?という感じでした。要するにどちらも嘘のメールということなんですが、私にはあんまり効果的には感じられませんでした。おじいちゃんのところに行かなければいけないのは決定事項だから、そのことを自分なりに説得するためにお父さんからのメールもそのようにサジェスチョンしたということなんでしょうか。自分の息子と勘違いしているおじいちゃんに誘われて、半ば無理矢理に農園に出かけていって、なにかを感じ始める優の姿は、よく書けていると思いました。はじめ、父親の名前「博史」と呼ばれて返事もしなくて拒絶していたのが、まあ仕方ないかとあきらめ、適当にあわせていく。先ほど、深めていくべきテーマはいっぱいあるという意見が出ましたが、ここでのメインテーマは「突然死んでしまった父親の死を、子どもなりに受け入れていくまでの心の葛藤」なのではないか? おじいちゃんに合わせて農園に出かけ、何となく受け入れていく過程が、父の死を受け入れていく心の準備なのかもしれません。『楽園のつくりかた』というタイトルは、あまりそぐわないような気がします。ここでいう楽園は、自分の居場所という意味でしょうけど、自分の居場所を作るということと、父の死を受け入れるということがイコールになるはずなのに、学校生活のこと友達のごたごたなど、エピソードがあまり効果的でないので、かえってテーマが散漫になってしまった感があります。松島さんの存在も、とってつけたようでしっくりきませんでした。

トチ:せいうちさんの意見をきいて、私がこの作品に好感を持てたのは、書き方によっては嫌らしくなる主人公を、うまく書いているからだということが分かったわ。

むう:『きのう、火星に行った。』の主人公もそうだったけれど、この人、鼻持ちならない子どもをうまく書くんですよね。親が教育パパとか教育ママでなくても、こういうタイプの子って、けっこう多いと思うんです。少子化で大人に対する子どもの数が減ってきているので、大人の目が行き届きすぎる。だから大人と子どもの力関係が昔とかなり変わってきて、子どもはどうしても自意識過剰になる。その結果、勝手に(ありもしない)期待に応えちゃったりするんだと思うんです。

アカシア:成績がいい子だって、ゲーム感覚で良い点を取りにいってるのかも。

せいうち:成績とか偏差値にものすごく執着する子もいます。ぼくは子どものころ、偏差値ってすごく好きでしたね。努力したことが反映されるというところが。報われた気がして快感でした。

愁童:でもこの人は作家なんだから、その偏差値とかばかりで、人間の人格に触れてないところでお話を書こうとしているところが嫌だな。ウケねらいのドラマつくりのようでさ。うまく書けば、それでいいのかな。

アカシア:でも、こういうエンターテイメント性が、ほかの創作児童文学には足りないんじゃないかな。

カーコ:母子だけでいきなり父親の田舎に引っ越すというのも、メールの親子関係も不自然で、「なんだこれは」と思って最初読んでいたけれど、どんでん返しのところで納得しました。わがままな子どもとして父親にメールを書く視点と、父になりすましてたしなめるメールを書くという二重の視点に、この年齢の男の子の心の揺れがよく出ていて、私はおもしろかった。新しい学校のクラスメートとのつきあい方は、キャラ設定をして友達関係をつくる、今の子どもの様相を反映していますよね。この人はおもしろキャラ、この人はいじめられキャラというふうに、分類して固定してしまう。でも、この作品では、キャラの印象が途中で破られて、柔軟な人間関係への作家のメッセージが感じられました。全体に悪い人があんまり出てこないので、子どもは安心して読めるのかもしれません。軽くて、物足らない感じもありましたが、メールという小道具をうまく使った、感じのいい作品だと思いました。

愁童:この子が、死んだ父親にメールを書き、自分で返事を書いているっていう設定は、ちょっと気持ちが悪い。母親の言うことは聞くけど、父親には反発するものだと思う。

カーコ:父親は死んでいるから、こんなふうに書けるのでは?

せいうち:子どもが想像で書いていたから、こんな変なメールになったのだなと思います。

トチ:そこのところがうまいんじゃない? 実在感がないから。こんな、紋切り型のことばっかり言ってる「もんきり父さん」が物語の中に本当に登場していたら、それだけで物語はつまらなくなっちゃうもの。けっこう、そういう本もあるけどね。

(「子どもの本で言いたい放題」2003年6月の記録)