月: 2004年6月

2004年06月 テーマ:視点をかえて

日付 2004年6月24日
参加者 トチ、裕、アカシア、むう、カーコ、ハマグリ、紙魚、羊、ケロ、きょん、流、ブラックペッパー
テーマ 視点をかえて

読んだ本:

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岡田なおこ『なおこになる日』

なおこになる日

トチ:この作品の前半、小説仕立ての部分は読むのが辛かった。後半のエッセイを読んで、なぜ辛かったか分かりました。作者は、エッセイでは書きにくいところを小説にしたんですね。その中途半端感が、読んでいて居心地が悪かったんです。けっきょく、小説部分を、文学を期待して読んだ私が悪かったのかもしれないけど。でも、エッセイにしろ小説にしろ、読者に読んでもらいたいと思ったら(特に子どもの読者には)もうひと工夫も、ふた工夫もいると思うのですけど。

紙魚:選書のときから、前の2冊に合わせて日本の作品を選ぶのが難しかったんです。日本の創作では、やはり、まずは障害のことから始めましょうとなっているものが多いんですね。その点、岡田なおこさんは、その先にある自分自身の物語を語ろうとしているので、選びました。しゃべるのが自由ではないからか、書くとけたたましいくらいに饒舌ですね。こんなふうに、小説のなかでおしゃべりになれるというのは、作家としても、とても幸せなのではないでしょうか。

カーコ:「へー」と思うところがたくさんあって、著者のたくましさを感じました。YAというより、大人の本のよう。エッセイの部分のほうが印象深かったですね。

きょん:出たときに読んだので、細かいことはおぼえていないんですけど、そのときの印象は、障害が爽やかにさらっと描かれていて好感を持ちました。作者はノーマライゼーションを書きたかったんだなと思いました。

むう:ほかの2冊と違って、文学を読むという感じではなかったです。小説ということになっているけれど、前半もエッセイという感じに近かった。知らないことがいろいろあって、そういう意味では面白かったし勉強になった。この人が前向きで、内にこもっていかないから読めるんだと思います。たとえばエッセイの1を読んで、本当はたいへんなことなんだなあと思ったりしました。どこまでも前向きだから、障害を持っている人の親だって聖人ではないというようなことも書ける。そこがいいと思いました。ともかく明るい家族ですよね。今の日本では、大人も子どもも障害者と接することが少なすぎる。学校も別学になっていて、障害者の実際を知らない人がほとんどですよね。障害者を囲いこんでいる現実があるから、そこをつなぐというか、啓蒙する本としてはいいと思いました。

:生活の中の工夫が面白かった。さらっと書いているけど、とてもたいへんなんだろうな。手が硬くなってしまうというのが一番ショッキングだった。小説とエッセイを分けたというのは? 日本の場合、障害者がものを言うことについては寛容ですよね。でも、障害者でない人が障害者を書いた本は出にくいのでは?『夜中に犬に起こった奇妙な事件』のようなものが日本でも出るといいけど、受け入れられないかもしれませんね。

紙魚:障害者ではない書き手だと、障害に対して想像力を働かせるのが難しい。

ケロ:『夜中に犬に起こった奇妙な事件』には、手法がある。障害者について理解させようとして書いているわけではないし。

紙魚:「障害」について書かれたものの中には、読んで反省させられる本があるんです。『なおこになる日』はどっちかというとそっちで、読んで自分の理解がまだまだだなあと思いました。『夜中に犬に起こった奇妙な事件』のほうは、主人公を好きになる本という感じです。

:当事者が書いたものについては、批判してはいけないと思ってしまうからでは?

紙魚:反省は、厳密には感動とちがうんですが、一瞬混同するカタルシスがあるような。

アカシア:二次障害などについては、そんなことがあるのかとびっくりしました。それに、自立していく過程が書かれていたのがよかった。さっきもエディターシップについて言ったけど、この本についても、エディターが助けてあげてほしかった。50ページの藤崎の記述は、ふつうに読んでいたら流れが伝わらない。どんなつきあいだったのかを言うべきところ。いろいろなところで言葉はひっかかった。たとえば143ページ「ギシギシとひしめきながら子育て」とは言わないでしょう。148ページ「私が電話しそこなって」というのは、電話をしそびれたように勘違いしそう。166ページ「バーチリ」は誤植? おもしろかったのは、姉妹とのやりとり。妹も屈折した思いを持ちながら、三人が対等に向き合ってる。言葉で伝わらない部分をイラストが代弁しているのもよかった。

ケロ:小説「なずな」って始まるのに、結局内容は、作者の「なおこ」とイコールなのかな、というくらいの感じを持って読んでしまいました。そう思わせるところが、小説としては甘い。だからエッセイをつけたのかな? とか、意地悪な見方をしてしまう。もっと、大胆な小説を読みたいなーと思いました。

きょん:ちょっときれいごと?

:戦争・差別・障害のことって、ケチつけちゃいけないように感じて私は苦手なんです。単純にはおもしろがれない。すごくがんばっているのは伝わるけど、「がんばってないよ」とがんばっている感じは否めなかった。

アカシア:「かんばってないよ」と言いながらがんばっていても、それはそれでいいと思うけど。嫌味に感じるの?

:重いのかな?

カーコ:フィクションとしては達成できていないということかしら。丘修三さんの作品なら、そういうふうには思わないのでは。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年6月の記録)


マーク・ハッドン『夜中に犬に起こった奇妙な事件』

夜中に犬に起こった奇妙な事件

トチ:評判の本なので、読んでみたいと思っていたところでした。でも、青山および武蔵野地区の本屋はどこも品切れだし(PARCOも)、図書館は予約者多数ということで原書を買いました(といっても、洋販発行のもの)。おもしろくて、一気に読みました。一気に読めた牽引力となったのは、犬を殺したのは?というミステリーと主人公のミステリアスな心の動きだと思います。犬を殺したのは?というミステリーが、次第に両親と隣家の夫婦の関係は?というミステリーに変わっていくところなども見事だと思います。アスペルガー症候群というのは自閉症で知的レベルが高い人たちの症状をいうのだそうですが、主人公のモノローグが時にはユーモラスで、時にはあまりにもピュアで感動しました。個人的な体験ですが、以前に住んでいた家の隣の男の子が自閉症でした。お母さんがその子を連れてせっせと武蔵野日赤病院に通っていたのですが、「お母さんの育て方が問題だって言われるんですけど……」と、いつも困惑した顔で言っていたのをおぼえています。2,30年前までは、子育ての失敗によるものだと言われていたんですね。

:産経の賞をもらったときに、絶賛の評がのっていたでしょ。あれには、『すべての小さき者のために』のあとがきみたいに違和感を覚えたんですね。著者はヒューマンなものを伝達しようとしているわけではなく、ずれのおもしろさ、おかしさ、数学的な工夫で読者をひっぱっていこうとしている。私自身はもっと全体の構想をクールに距離をおいて読んでしまったので、絶賛している書評に、違和感をもちました。訳は、もっと若い訳者がしたほうがいい。誤訳も見つけてしまったし、お父さんの粗野な言葉遣いもちがう。ヒューマンな方向にもっていくのであれば、親子の関係をテーマにしていくしかない。ただし親子関係については書けてない。とくに父親の造型が弱くて、統一したイメージを持てなかった。また大人の世界の勝手さで犬が死んじゃうのは、いただけなかった。この本だって、障害をもつ人にとっては、不愉快な部分があるんじゃないかな。辻褄があわないことは、「障害」に逃げているように思いました。

ハマグリ:アスペルガー症候群が認知されてきたのは最近だから、そういう人たちがどういうものの見方をするのかについては勉強になった。人の顔色から感情を読み取ることができず、表面に見える服装やしぐさから、何を意味するかを、過去にインプットされた情報にあてはめて推理するとか、そういうことはよくわかったんですけど、私にとってはそういう見方で描写されてもどういう人物か把握しにくかった。ほかの文学の人物描写と違うので、登場人物がつかみにくいと思ったんですね。それから、すべての物事を論理的に考えることに途中で疲れてしまいましたね。『すべての小さき者のために』もそうですが、ひじょうに特徴ある作品だけど、あまりおもしろいとは思えなかった。書名がすごくおもしろそうだったから心ひかれたんだけど、肝心の犬に何が起こったのかがわかると、あとは違う方向に行っちゃってはぐらかされた。お父さんもお母さんもとんちんかんなんだけど、彼らなりに子どもを愛しているところは伝わってきた。

紙魚:いちいちくどいけれど、けっこうこういう文体って好きなんです。カート・ヴォネガットみたいで、途中からはまりながら読みました。「障害者」ってくくったうえで書いているのではなくて、障害者にも変な人がいて、その個人の個性を書いています。だから、どんどん主人公が愛らしくなりました。それにしても、『博士の愛した数式』(小川洋子著 新潮社)もそうですが、数学と物語って相性がいいんですね。それから、箇条書きがふんだんに出てきても、ユーモアがあって、楽しませ方がうまい。

カーコ:「光とともに」というテレビドラマを見て一番印象に残ったのが、自閉症児の親の辛さ。子どもが反応を返してくる喜びがなかなか得られないんですね。「『自閉症』という名のトンネル」(日向佑子著 福音館書店)にも、抱きかかえられたり触られたりがだめというのが出てきました。だから、主人公のお母さんがよその男に走り、お父さんが少し離れるようにして子どもを見守るというのがリアルでした。言語治療士の友だちが、「自閉症という語は、自閉的という意味と混同して誤解されることが多いが、自閉症は一種のコミュニケーション発達障害」と説明していました。たとえば、赤はいいけど黄色はだめという主人公の男の子の感性や、独特の現実のとらえ方は、今まで知らなかった世界を読者に見せてくれるのではないでしょうか。

きょん:私は苦痛で、152ページまでしか読めなかった。ただ、この障害については具体的に書かれているので、なるほどとは思いました。先生が具体的に指示を出すくだりからも、この障害の子どもの思考回路がどうなっているのかがよくわかりました。

むう:去年の今ごろイギリスに行ったときには、書店のエントランスロビーはこの本一色でしたね。私はとてもおもしろく読みました。アスペルガー症候群の人たちがどういうふうにものを見て、考えているのかを見せてくれる気がして、どきどきしながら読みました。主人公がロンドンの地下鉄の表示を見るときの感じとか、いろいろなこだわりが、なるほどそうなんだろうなあと納得できた。確かに犬のミステリーなどで引っぱっているのだろうけれど、わたしにとってはミステリーは二の次、三の次で、ともかく主人公の心の動きや行動のしかたに目が行っていました。ただ、帯には『アルジャーノンに花束を』を越える感動みたいに書いてあるけれど、『アルジャーノンに花束を』とはまるで違う。あの本は感動させるために作られた本だけど、この本はそういう本ではない。感動を期待していると、最後なんか拍子抜けする。でも、こういう子の目から見たら、この結末のほうがずっとリアルなわけで、そこがこの本のいいところだと思います。この子の場合、親子の情感や交流だってほとんど表に出せないわけで、そのあたりもとてもリアルだと思います。向こうでは大人向けに出ていたようですが、大人はどういう読み方をしたのか興味ありますね。

ハマグリ:子ども向けと大人向け、両方出たんじゃない?

むう:子どもの棚と大人の棚の両方に、同じ本がありましたよ。私は原書も読んだんですけれど、訳では両親の言葉遣いが乱暴すぎるように思った。原文は、主人公の言葉づかいは文法的にそれほど変ではないと思います。訳では、障害が際だつように変な日本語にしたのかな、でもそこまでしない方がいいんじゃないかと思いました。

ブラックペッパー:ふつうなら「。」で終わるべきところが、「、」になっていたりするのは?

むう:原書では、「,」でずっと続く文が多いですね。わたしは訳書はちょっと読みにくいな、と思いました。わざわざ読みにくくしなくても、この子の障害についてはきちんと心の動き方でわかるんじゃないかな。読みにくくしたことが逆に読者にとってはハードルになるんじゃないか、障害者のステロタイプ化につながるんじゃないかと思いました。

ハマグリ:それが疲れちゃった原因かな。本来「〜で、〜」というところを、わざわざ「〜です、〜」としちゃったってことね。

:アスペルガー症候群を理解するうえではよかったんですが、どんどん読みたいという作品ではなかった。さっき話に出た『自閉症という名のトンネル』だと読者が狭くなるので、物語としてこういう本があるのはいいと思う。

:障害をもった子どもの親はどう読むんでしょう?

紙魚:でも、障害を持った人ひとりひとりにも、ストーリーがある。それを書いたり読んだりするのは、すてきなんじゃないかな。

アカシア:私はとってもおもしろく読みました。障害者としてくくるのではなく、こういう個性をもったひとりの人を書いているというところがポイントじゃないかしら。お父さんがせっぱつまって犬を殺すところもリアリティがありますよね。お母さんだって、自分の時間がほしいと思ったときに駆け落ちぐらいはするだろうと思ったし。そういう意味でも、父親も母親も「障害者の親」ではなくひとりの個性をもった人間としてリアルに描かれている。さっき、むうさんが文体について触れたけど、いま原書を見てみると、主人公の言い方は文法的には普通の文章ではないですよね。だから、この訳もうまく日本語に移し替えているのではないかしら。「です」「だ」が交じっているのも逆にリズムが出ていて、慣れると抵抗なく読めます。私はすらすら読み進むことができました。『すべての小さき者のために』はリアリティがなくて入り込めなかったけど、これは、入り込めた。

:子どもの読者には、どうなの?

アカシア:YAですよね。中学生以上だったらおもしろく読めると思う。「アスペルガー症候群の」というよりは「別の視点をもった人」から見ると世の中どう見えるかということでしょ。読むほうがその視点に立てれば、興味深く読めると思います。

紙魚:先入観があっても、この子がいとおしくなる作品なのでは。

ケロ:主人公と同じ気持ちにさせてくれるくらい具体的に状況が描かれているから、私はおもしろかった。一人称で書く話というのは、下手な人が書くと主人公がわからないことは書けない、という限界を感じることがあります。でも、この本は、主人公の特徴から、見たことを写真のように切りとって書いてくれるので、読者なりに判断しやすい。大きなストレスを背負っているお母さんの気持ちも、状況説明からひしひしと感じることができるし。一人称なのに、なんて上手に書かれているのだろうと思いました。

ブラックペッパー:この本は、「くらくらっ」とはしないで、3分の2くらいまで読みました。「レインマン」みたいですよね。障害なんでしょうけど、ぜんぶ合わせて個性だと思って楽しく読める。ストーリー展開もよくできてますよね。これはおもしろく読んでるところ。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年6月の記録)


ウォーカー・ハミルトン『すべての小さきもののために』

すべての小さきもののために

トチ:おもしろく読みました。わたしは、けっこうこういう奇妙な味の本は好きなので。ところが、訳者あとがきを読んで、自分の読み方が間違っていたのかなと思いました。今日、ぜひぜひ優れた読み手のみなさまにご意見をうかがいたかったところです。この本は訳者が言っているように、現代文明に毒された人間たちと、小さな生き物を思いやる心をもっていたがために社会からはじきだされた、孤独な魂との対決というような、ヒューマンな作品なのでしょうか? 確かに小男の老人が言うように、小さな命は大切にしなければいけないのだけれど、この人はそのために自分の奥さんを殺し、大金をたぶん持ち逃げした人なんですよ。そして、終わりの方では「デブ」を殺せと男の子に言う。この老人にいわせれば、きっと『夜中に犬に起こった奇妙な事件』のお父さんも、殺して当然な人物ということになるでしょうね!
この作品は、ある考えにとりつかれた偏屈な老人とピュアな心をもった青年、そして残酷で野蛮な男の3者がめぐりあったときにおきた事件を描いたもの、それ以上でも以下でもないのでは? といっても、だからこの作品がつまらないと言っているのではなく、だからこそ、その奇妙な味のすばらしさゆえに、変わり者のダールも感動したのでは? 環境破壊、西洋文明への反発、反戦運動というような言葉が連なった、あっけらかんとした後書きと、作品のあいだにギャップがあるような気がするのですが、どうでしょうか?
それから、原文を読んでいないのではっきりしたことはいえませんが、73ページの「白い黄水仙」という訳語に違和感をおぼえました。ひょっとしてこの「黄水仙」は「ラッパ水仙(daffodil)」なのでは?

アカシア:主人公もハンディキャップをもっている人なんでしょうが、リアリティがあるというよりは、寓話的ですよね。「デブ」が「悪いやつ」という役割を負わされているのが気になりますね。最近は、細かいところまで目配りをする編集者が少なくなっているのか、この本にもひっかかる日本語がたくさんありました。たとえば44ページに「うとうと」とありますが、これはうとうとではなく、頭の働きが鈍くなるという意味では? 135ページの「すてきな〜」は、晴れた一日になりそうだったという意味では? 「デブ」は効率万能主義の象徴として書かれてるんでしょうけど、私はそんなにおもしろいとは思いませんでした。

:かなりかわった話。最後を先に読むと安心して読めました。あとがきを読んで、こういう象徴として書かれていたのかと思いました。私は違う読み方をしていたので。

むう:妙な味の本でした。障害をもっている人を書くという視点ではなく、むしろ障害をもっている人の視点を利用して書いている感じ。ちょっと視線がずれたことで、作品に非現実的ななんともいえない味が出て、寓話的な雰囲気が漂っている。冒頭でトラックの運転手は事故を起こすし、最後には「デブ」が死ぬし、かなり不気味な本だと思います。ダールが絶賛したということですが、この不気味さというか、奇妙な味をほめたのかなと思ったりしました。しかも、死んだり傷ついたりする部分をこれでもかというくらい鮮明かつ執拗に書いている。小さいものをいとおしむ姿勢よりも、サマーズさんも含めて、ある種の狂気を感じました。主人公の障害によってフォーカスがぼけたようになることで、そのおどろおどろしさがワンクッション置かれた形で伝わって、独特の味わいを生み出している。最後にこの主人公が第二のサマーズさんになってしまうあたりが、時代を反映していると思います。この本が発表された時代の「障害者」のリアリティがこういうものだったのでしょうね。ところどころで、31歳なんだけど発達がとまっているという主人公の設定にそぐわない口調を感じました。

カーコ:グロテスクな描写が多く、苦手でした。障害者のおかれている社会的状況が違う時代に書かれたのでしょうか。あとがきの主人公の説明はぴんとこず、自分の読みが浅いのかと思いました。ヤングアダルトものとして読むのはつらい。

アカシア:子どもは入っていきにくいわね。登場人物に一体感をもちにくい。

むう:デイヴィッド・アーモンドの感じに通じるのかな。

紙魚:魚眼レンズの世界をのぞきこむような、不思議な感覚でした。とはいえ、単なる雰囲気で描かれたものではなく、『夜中に犬に起こった奇妙な事件』とはちがった、厳密さがありました。決して、博愛の物語ではないですよね。

ハマグリ:登場人物が3人しかいないのがまず珍しい。しかも、その3人がみんな変な人。いったいこの3人の人は何なんだろうと思いながら読みすすむところが、おもしろい。140ページの「そのあと、ぼくは考えた。小鳥や動物のつぎには魚がいて、魚のつぎには虫がいて、虫のつぎにはなんとよぶのかは知らないけれど、なおもっと小さいものがいる。それから木や植物や草があって、みんな生きている、みんな大切なものだ。そのあと 少し気もちが楽になった。」この本は、このことが言いたかったのだと思う。でも、その後なぜ「デブ」を殺すのか。「デブ」だって生きているのに。そこが納得できないよね。でも、他の作品にはない一種独特な奇妙な感じが楽しめる本だった。

:アンチヒーローの系譜があって、頭の弱い人とか、せまい視野をかさねていって、イノセンスであることを描ける。シリアスに伝えたいことがあって書いてるのではなく、デフォルメの実験をしているのでは、と思いましたね。決定的にそう思ったのが、サマーズさんの死なんですね。「デブ」に殺される描写がグロテスクですよね。書き方がイロジカルなの。意識的に、奇妙な人を登場させることによって、ヒューマンなものではなくて、クールな遊びのような作品なのでは。

アカシア:この作品は60年代に書かれてますよね。この頃は、体制側も暴力的だったけど、反体制側にも暴力に訴える人たちがいましたよね。どちらも暴力的な社会だと子どもとか感受性の鋭い存在は大きく影響を受けてしまって、自分も暴力的になっていくことがあるんじゃないかな。

むう:時代的なことはあるにしても、狂気をクールに書くところは、ロアルド・ダールと共通していると思う。

アカシア:ダールは笑えるけど、これは笑えないんじゃない?

むう:でも、ダールの大人向けの作品は、どこか背すじがぞっとするようなところがあり、そうかんたんには笑えないと思います。『チョコレート工場の秘密』(評論社)だって、楽しそうでいて、よく考えるとずいぶん残酷だったりしますよ。

アカシア:おとなが考えると残酷だけど、ダールの作品を子どもは笑って読んでますよね。これは、それとはちょっと違う趣。

むう:私は、やはりダールに共通するものを感じます。

:テクニックには興味をもちましたが、ポジティブな評価はあたえられない。

アカシア:同じようなテーマだったら、スタインベックの『二十日鼠と人間』のほうが、よくできている。

ハマグリ:この作品も映画になっていて、この人たちが旅をしていく風景の美しさを見せ、孤独な人間と少年の結びつきをきれいな絵として描いているようね。

:訳者のあとがきがとんちんかん。こういう解釈で訳しているとしたら、大失敗では?

アカシア:今の時代だったら、こういう主人公を出す必要がなくて、子どもがそのまま出てきちゃうかもね。

:スティーブン・キングの『ゴールデンボーイ』(新潮文庫)とか。

:どんなふうに読んでいいのか、読みながら気分のバランスがとれなかった。

ケロ:『夜中に犬に起こった奇妙な事件』と比べて、この作品は、どんな視点を持てばいいかわからなかったです。主人公の思考能力がどのくらいなのかがよく分からないからか、たとえば、主人公がいじめられるようなシーンも、「主人公の目が見てるからひどい」のか、「本当にひどい」のか判断がつかず、とても疲れたんですね。不条理劇でも見るように読んでいくしかないのかな、と。船酔いしそうな気持ち悪さがつきまといました。主人公の障害について、おおざっぱな表現をしているために、荒い印象を受けた。古いということが影響しているのかな。作者はどういう人なのかな、自殺しちゃったのかなとか考えさせらた。

ブラックペッパー:主人公は体が弱かったのかなと思いました。

ケロ:あとがきに書かれているような風光明媚というよりは、排気ガスくさい感じを受けました。

アカシア:主人公は「障害」を持ってるとは書いてないよね。

ケロ:ああ、そうですね。33ページ「ちっちゃいとき〜事故にあって、具合が悪い」 としか書かれていないですね。

きょん:みなさんと、気持ち悪い感じだったのは共通しているのかな。何が言いたいのかわからなかった。はじきだされた存在として森の中で、自分たちの価値観のもと、暮すようになったのだと思う。サマーズさんが死ぬところも、「ボビーを助けることで、自分の行き方がそこで終わる」というのもすらっと読んだ。なぜかしっくりこなかったところは、「デブ」を殺して何事もなかったように生活し始めること。心の病とか障害を明確に定義していないし、心の動きが心象風景として描かれているのは理解できたが、最終的には、何が言いたいのかわからないのかが気持ち悪かった。

ブラックペッパー:読んでくらくらっとして、今この会に出てまた、くらくらくらっ。主人公の語り口は31歳の口調ではないけど、31歳なのよね。この人の主観の世界なので、どこを信じていいのか、わからなくなっちゃった。そうなると、何もかもが遠い遠いところで行われているようで、血なまぐさいところもグロテスクには感じなかった。論理的ではない、ふつうの感覚で辻褄が合わないところも、「ぼく」には辻褄が合っているんだろうなあと考えながら、こういう受けとり方をする人のモードになって読んだという感じ。こういう人もいるのかと。文体がおもしろい。血なまぐさいところも、思考回路が拙い感じで書いてあって、そのモードでしか受けとれない。「デブ」だって、もしかしたらそんなに悪い人じゃないかもよ。分析はなかなか難しい本だなと思いました。

きょん:サマーズさんは、あそこで殺されて本望だと思う。

ケロ:時代的背景などはわからないですが、読んでいるうち、この男の子が殺して埋めちゃうほうにいっちゃうんじゃないかな、と感じてどきどきしました。

アカシア:「デブ」は殺されるんじゃなくて、作者のスタンスとしては自分で死ぬという設定よね。

ハマグリ:この本はこうだという一致した意見は出ない本ね。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年6月の記録)