月: 2005年4月

2005年04月 テーマ:戦争

日付 2005年4月21日
参加者 アサギ、ハマグリ、むう、カーコ、愁童、きょん、アカシア、もぷしー
テーマ 戦争

読んだ本:

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高木敏子『ガラスのうさぎ』

ガラスのうさぎ

アサギ:この作品の世界は、私自身でさえ実感しにくいので子どもが実感するのはたいへんなことですね。ただノンフィクションの力に圧倒されました。体験記としては、お汁粉のところや着る物のところなど、状況が髣髴とさせられていい作品。父親の葬式を一人で出すなど、とても厳しい話だけど、主人公が明るくてけなげなのが、作品に希望と光を与えていると思いました。子どもが読むには、想像力の限界を超えてしまっているからとアニメにする気持ちはわかります。

ハマグリ:私もだいたい同じような感想。戦争体験者が子どもに語るということで、今の子どもたちにも読めると思う。主人公は本当にけなげで、応援したい気持ちになって、最後まで読ませる。これがフィクション仕立てで、『生きのびるために』なんて書名がついていたら嫌らしいけど、『ガラスのうさぎ』というタイトルも何のことかな、と思わせて、いいと思う。ただ、こういうものを子どもに読ませて、戦争はよくないと思いました、という感想文を書かせて終わるというのではなく、親や教師と話すとか、そのあとのフォローが必要になってくるのでは。

アカシア:私は昔読んだときは感動したんです。でも今もう一度読んでみると、この本以外にも「悲惨」と「がんばる」がセットになって「けなげ」をアピールする本がほかにもいっぱいあるなあ、とそっちに目がいってしまった。それが課題図書になったりしていることに気づいて、これでいいのかなあ、と思い始めてます。今の子どもは「この子はかわいそうだった」と思い、その中のよい子たちは「戦争はやめましょう」と作文に書いたりするのかもしれないけど、それでどうなるんですかね? がんばりたくない子どもは、どうするんでしょうね?

アサギ:最後の憲法第9条のところで、これだけのことがあったからこそ平和がいいものだということが、子どもたちにも伝わるんじゃないの。

ハマグリ:体験してきた人は、こういうスタンスでしか語れないのでは。

アカシア:この手の戦争児童文学が出続けることに対して、清水眞砂子さんが「子どもは食傷している」と言ってましたよね。それに、今の子にとっては、ファンタジーと同じレベルの非現実的な物語になってしまう。

むう:この時代そのものが今の子にとってまったく縁のない別世界にしか見えないという意味では、やはり今の子にとってはハードルの高い本だと思います。家族のありようや言葉の使いよう、生活習慣等々、すべてが子どもたちの身の回りとかけ離れていて、おいそれとは共感できないかもしれません。しかも、この主人公は一種の優等生で、へんてこな人物が出てこない。結果、じつにクラシックな、いかにも児童文学ですという感じの作品になっている。むろんこの本の力は、作者が事実を書いている、その中をかいくぐってきたということにあるのであって、その意味で、いもしない人物を登場させるわけにいかないのはわかります。また、このような悲惨な事実を子どもたちにきちんと伝えたいという作者の気持ちは重い。しかし、戦争を書いた児童文学がすべてこの本のようなトーンの作品ばかりでいいとも思えないんです。仮にこれがフィクションであれば、いい加減な人間や奇妙な人間、子どもたちの身の回りにいそうな人間を登場させることによって、物語を子どもたちに身近なものにできるはずですよね。この本自体は立派な本だけど、その後の日本の戦争を扱った児童文学が、フィクションであるにもかかわらず、この本をなぞる「ノンフィクションのまがい物」の範疇を出られていないところが問題なのでは? 先ほどのアカシアさんの言葉を借りれば、「ファンタジーで終わらない作品」がない。その時代を生きなかった人間だからこそ書けるフィクションとしての力を持った作品で、戦争と現代の子どもをつなげてほしい。

カーコ:『生きのびるために』と比べると、お話に力があるのを感じました。『ハッピーバースデー』(青木和雄著/金の星社)は、小・中学生からずいぶん支持されているようですが、あの作品を読むような子なら、同じように読めるのではないでしょうか。今回私は2000年刊の新版で読みました。章ごとに語句の解説があったりルビが多くなっていたり、今の子どもにも手渡したいということだなと思います。現代の日本の子どもの本だと、『夏の庭』(湯本香樹実著/徳間書店)にも、おじいさんが嵐の夜、三人の男の子に戦争のときのことを話すというシーンが出てきますよね。あれなどは、全編戦争ものでなくても、そういうことを今の子どもに伝えたいという現代の作家のスタンスかなと思います。

愁童:昔、読んだときも、今回改めて読んでみても、それほど共感は湧かなかった。数ある大人の戦争体験記の一つという感じで、「ガラスのうさぎ」という題名が生きてくる内容じゃないという印象。今の子に読ませる戦争ものとしては、もう無理なのでは? この作品の時代には日韓併合の影響で、小学校にも朝鮮半島から来た家庭の子が何人かはいて、いじめられたりするケースもあったけど、そういうことは書かれてないし、ひたすら小学生時代の作者が、いかにけなげに戦時中の苦労を乗り越えて生きてきたかという話に終始するので、児童文学作品として読まされると、何となく抵抗を感じてしまう面もある。

アカシア:戦争では日本は加害者でもあったわけでしょう。それなのに、日本の作家は被害者の視点ばかりを強調して、アジアの被害者の人たちの視点はほとんどない。ヨーロッパを舞台にしたものは、被害者のユダヤ人の証言や物語が日本でもたくさん出るのにね。いろいろな本が出て、これもその中の一冊というなら、いちばんいいのに。

ハマグリ:70年代に日本の戦争児童文学がたくさん出たけど、疎開の苦労や、被害者としての自分たちを語るものが多かったわね。これからは、もう一歩その先を行くものを読んでほしい。

きょん:あまりに悲壮感があって、べたべたの戦争物語なのですが、思わずかわいそうになって涙ぐんでしまい、嫌になりました。それだけ、「体験」を語ると言うことが「強い」ということなのでしょうか。それとも、これもテレビドラマに涙するのと同じように、ひとつのフィクションなのでしょうか。昔読んだときは、タイトルに出てきた「ガラスのうさぎ」は、掘り出した後どうなったんだろうと思ったことをおぼえています。
今の子どもが、理解できないと言いますが、どこがわからないのか、不思議です。「戦争」は遠い世界のことで、よくわからないのでしょうが、「肉親を失う悲しみ」は、時代を超えて共通だと思います。親が目の前で死んでしまう、兄弟が行方不明になる……自分の身に置き換えて考えればそんなにわからない話ではないと思います。それが、わからないとなると、今の子どもたちが、自分とは、違う状況にある他の人の立場になってものを考えられなくなっている危機的な状況なのかもしれません。それに、敏子さんは、すごくがんばりやさんですが、すぐあきらめてしまうような今の子には、「こんなにがんばる敏子さん」を理解できないのかもしれませんね。

もぷしー:私は母が戦後生まれなんです。「がんばる像」についてですが、『アタックNO.1』は茶化していいけれど、この作品には茶化してはいけないというのを子どもの読者にわからせる気迫がある。子どもが自分で手にとる本ではないなので、課題図書という形でなくても、子どもに手渡せば伝わるのではないでしょうか。

アカシア:戦争はいいか悪いか、と問えば、今の子どもだって「悪い」という子が圧倒的に多いと思うんです。でも、戦争って、したくないのにいつの間にか巻き込まれてしまうんですよね。その辺の視点がないと、「戦争は悪い。被害者は悲惨」ということを伝えれば戦争はストップできるんじゃないか、と勘違いしてしまう。

アサギ:だいぶ前に、子どもを白血病で亡くした友人がいて、その手の本を読んだことがあるの。同じように子どもを亡くしたお母さんの手記というのを、当時、滂沱の涙を流して読んだのよ。なのに、あとになって思い出すのは、同じ時期に読んだ津島佑子の『夢の記録』(文芸春秋)っていう短篇集なの。場合によってはフィクションのほうが、読者の胸の奥に届くこともあるのかと、考えさせられたのを今思い出したわ。この『ガラスのうさぎ』にはノンフィクションならではの強さを感じましたが、もし戦争をいまの子ども達の日常につなげて描くフィクションがあれば、それはそれでとてもいいことだと思うのね。ノンフィクションでは、どうしても事実に縛られるし、書ける人が限られてしまうから。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年4月の記録)


デボラ・エリス『生きのびるために』

生きのびるために

むう:あまりぱっとしない印象でした。私のようにアフガニスタンのことに関心はあってもそれほど詳しく知らない人間にとっては、はじめて知ることばかりなので、それに圧倒されて読み進めることができたんだけど、物語として面白いというタイプの本ではありませんでした。フィクションの場合、現実そのものが強烈ななかで、それに拮抗するどのような物語を作れるかが問われますよね。イラン映画に「少女の髪どめ」というのがありましたが、アフガン難民の少女が少年と偽って働き、その子が女であると見破った少年が恋心を抱くというもので物語としてよくできていました。別に恋でなくてもいいので、この本にももっと引きつける物語がほしかった。もうひとつ、主人公の母親の印象がバラバラで、継ぎ接ぎ細工のような妙な感じでよくわからなかった。

アカシア:『ガラスのうさぎ』は、主人公ががんばるばかりなのに対して、主人公の女の子とお姉さん、男の子など、日常が書かれている点に好感を持ちました。ただ、私は中村哲さんの本を読んでから、タリバン=悪という単純化はアメリカの攻撃=OKにつながるんだなあ、と思って警戒しているんですが、この本は、タリバンが悪いという北米の視点で書かれちゃってますね。それにp9には「ソ連軍が去っていくと、ソ連軍に銃をむけていた人びとは、まだその銃でなにかを撃ちつづけたいと思った。そこで、たがいに銃をむけて撃ちあいはじめた」とあり、p31には「アフガニスタン政府はいつの時代も、自分たちに反対する者を刑務所にほうりこむ」とありますが、歴史や背景を知らない日本の子どもたちは、アフガニスタン人は野蛮で、アフガニスタンは遅れた国なんだ、と思ってしまわないかと心配です。訳では、p23でお父さんが「われわれアフガン人は、イギリスの支配を望んだだろうか?」とマリアムにきくと、マリアムが「ノー!」と英語で答えるんですね。原文はカナダ人が書いているのでNo! かもしれませんが、日本語ならもっと別の表現にしないと、ここはまずいですね。確かにお母さん像は、私もわかりにくいと思いました。お父さんが刑務所に入れられたとわかっているのに、どうして通りの人にお父さんの写真を見せて歩くのかも疑問だし、最後も、お母さんのほうからパヴァーナを捜してるふうではないさないのは、どうしてなんでしょう?

ハマグリ:異文化世界の中で次から次へといろいろなことが起こるので、目を丸くしながら読んでしまうという感じだったけど、物語としては、今ひとつ物足りなかったわね。お母さん、お姉さんに人間的魅力が感じられません。怒られたり、いばられたりしても、主人公にとっては家族なので、どこかにもっと愛情を感じられる部分があってもいいと思うのに。子どもにどうやって戦争と平和のことを考えさせるかということを最近考えているんだけど、児童文学というのは主人公が子どもなので、戦争を扱った児童文学は、どうしたって被害者の立場で描かれることになってしまう。『ガラスのうさぎ』のような体験ものだと、なんて大変だったんだろう、なんてかわいそうなんだろう、だけで終わってしまっていいのか、という問題があるでしょ。「なぜ、そうなったのか」を考えるきっかけをつかむようなものが、これからの戦争児童文学には必要になってくるんじゃないかしら。それから、子どもにとっては決して楽しい話ではないので、それでも読んでおもしろかったと思えるような、物語としての価値もないといけないと思うの。

もぷしー:書名『生きのびるために』の「ために」に悲壮感を感じてしまいました。パヴァーナの生活と性格を考えると、「生きのびてやる」とまではいかなくても、もっとタイトルに生命力がほしかった。原書の書名のほうが力強いですよね。「未来は未知のまま、パヴァーナの前につづいていた」という終わり方は、まだ続いている感じがあって、この作品に合っています。お母さんの人物像がはっきりしないという感想は、私ももちました。最後にお母さんが作った雑誌が出てきますが、その中身などが書かれていれば、もっとはっきりしたのでは? 思ったより事態は悲惨だというのはわかりましたが、読者は私にはどうしようもない、という気持ちになってしまいます。戦争文学全体として大事だと思ったのは、悲惨、悲惨でなく、責任を感じながら強くなっていくという人の姿。それは伝える意義があるかと思いました。

きょん:現実に起きている話なのに、ドラマのように読んでしまいました。まさに戦争が、フィクションになっているようでした。『ヒットラーのむすめ』もそうでしたが、作中の主人公が、「ではどうしたらいいの?」って問いかけ、その答えを読者が考えながら、読み進めていくことで、戦争についてを考えるきっかけになるのだと思います。
パヴァーナに悲壮感がなく「生き抜く」強さが全面に感じられるので、『ガラスのうさぎ』より気持ちよく読めました。確かに9ページの「ソ連軍が去っていくと〜」の部分は、そんなに断定的に、人種差別的なことを言っていいのかしら……って、びっくりしました。あまりにもタリバンの描き方が乱暴だったし。
父親と一緒にゴザを広げていた市場の一角の建物の高い窓から、時折ものが投げおろされていますが、だれが、なんのために、ということがとても気になりました。これは、想像ですが、建物から出てこれない女の人が、「私は、まだ生きていますよ」というメッセージを送ってるんでしょうか。また、父親と一緒だった女の子が、一人でゴザを広げるようになり、男装しても、女の子だとわかったので、「がんばれ」って応援するつもりで、中からものを投げおろしていたんでしょうか。最後、パヴァーナが、この町を去るときには、もう市場には来られないので、建物の中の女性を励ますこともできないからと言って、花を植えるところからも「同じ女性として、会えないけれども、一方は、かげから姿を見て、一方は想像することで、励まし合っていた」のかもしれないなあと想像しました。すれ違いだけれど、お互いに思いは通じていたのか……と。でも、このシチュエーションは、読者が理解するには、結構難しいと思いました。もう少し、そこのところもわかりやすく描けていたら、よかったのですが。

愁童:異文化を見下して書いている感じがして、好感を持っては読めなかった。宗教的な日常生活の部分は書かれていないし、タリバン=悪、女性のブルカ=女性蔑視みたいな視点ばかりが目立ってしまう。実際には、ああいう圧制下にあっても、庶民レベルは結構しぶとく生きてるだろうし、そういう生活者同士の連帯や生活臭のある部分をきちんと書いてくれないと、アフガンの人は可哀想、イスラム原理主義は悪し、だけみたいな感じになって、日本の子どもには何だかよくわからないのではないかな。

アカシア:訳者あとがきには、この著者はパキスタンのアフガン難民キャンプを取材したと書いてありますよね。だけど、国外に逃げられたのはお金のある人だったと、中村哲さんは言ってました。じっさいにパキスタンの中に入ってみないと、わからないところもあるのかもしれませんね。

ハマグリ:窓のおばさんのことをもっとおもしろく書くといったことが、フィクションの面白さなのにね。事実を土台にしてはいても、もっと子どもが面白く読めるものにしてほしいな。

愁童:家族間の体温も感じられないね。

もぷしー:おねえさんは資本主義的社会のそこらにいそうな人ですね。お父さんも西洋風の理想のお父さん。そのせいか、悲惨な状況に西洋の家族が巻き込まれた、という印象を持ってしまいました。

カーコ:世界で起きているこういう現実を知らせることは大切だと思うんですけど、この本は、お話として読者を最後までひきつけていく吸引力があまり感じられませんでした。パヴァーナの気持ちで読んでいこうとするのだけれど、家族の描写がちぐはぐで、なかなか寄り添わせてもらえない。子どもにこのような現実を伝える書き方、子どもにわかる書き方とはどういうものだろうと考えさせられました。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年4月の記録)


ジャッキー・フレンチ『ヒットラーのむすめ』さくまゆみこ訳

ヒットラーのむすめ

アサギ:戦争そのものを扱ったというよりも、親の誤りに子どもはどこまで責任があるか、子どもはどう身を処すべきかを扱った作品だと思う。この作品の一番の魅力は発想ですね。「もしヒットラーに子どもがいたら」という前提が斬新。ただ設定のうまさにたよりすぎている感じで、導入にいささか無理があって、お話の迫力が欠ける感じがしました。「デュフィ」とずっと呼んできたのが、最後「総統」に変わるところを、みなさんはどう解釈したのでしょうか。あくまでフィクションなんだけれど、最後のしめくくり、フィクションとノンフィクションの境目みたいに話を流し込んでいるのがうまい。

アカシア:「デュフィ」が最後に「総統」に変わるわけじゃなくて、最初から「デュフィは総統でした。そしてハイジのお父さんでした」(p52)って出てくるわよ。それにハイジは「デュフィ」と呼ぶけど、ほかの人はずっと「総統」と言ってる。

ハマグリ:すごいところをついている話だとびっくりしました。身近なところで言うと、オウムの子どもたちが学校に行くことを社会が拒否するという問題がありましたね。そういうことを大人が説明するのを避ける傾向があるところを、この本では正面きって取り組んでいる。最初のバス停の場面はそれほど面白くないが、お話が始まるとだんだんにのめりこんでいく。お話というものの持つ力をうまく使っていると思う。p60で、アンナがマークに「お父さんやお母さんが信じてることが正しいかどうか、きちんと考えてみたことあるの? 自分の親が考えてることなんだから正しいにちがいないって、思っちゃってるんじゃないの?」と言うところがあるけど、子どもの持つ既成概念を根本から考え直させる。児童文学には、大人の考えていることは正しいという前提で、それを伝えようとして書かれるものが多いけど、この本は新しい視点だと思います。

むう:今回の3冊の中では、一番引きつけられもし、面白かった。冒頭は、どこかぎくしゃくした感じで違和感がありました。唐突にヒットラーの娘の話が始まって、それにすぐにマークが引き込まれるというのが納得できなかったんです。ただ、最後まで読んだ後でもう一度ふり返ると、この女の子の唐突さというか、ぎくしゃくしたところに、すでにラストの秘密があるようでもあり、これでいいようにも思います。ヒットラーの娘という架空の存在を使って、戦争について書いている本だと思って読みました。その際、最高指導者の秘密の娘を中心に据えてその目でまわりを見ていることから、戦争の悲惨さが間接的にしか描かれずに進んでいきます。先ほど言われていたような迫力のなさは、このあたりに起因するのでしょうが、これはこれでいいと思います。後の方でハイジが戦争の悲惨さをまざまざと目にして、自分もそこに巻き込まれていくところはだんぜん迫力があり、読者としてはそこでぐっと引きつけられますけど、その直後に突然ぷつんと話が切れて、マークでなくとも「なんだ? どうなったんだ?」という気持ちにさせらる。このあたりもうまい。戦争を昔の話として書くのではなく、どうやって今とつなぐかを考えた末、こういう設定になったのでしょう。女の子の祖母が、ひょっとしたらヒットラーの秘密の娘だったのかもしれない、という形で終わらせたのは、見事です。後に余韻が残ります。10年後には使えない手法かもしれないけど……。感心しました。

カーコ:みなさんおっしゃっていますが、視点の面白い作品ですね。地の文、お話の部分の語り手と文体の変化もうまい。今回の他の2冊が、1冊は回想録、1冊が取材によるフィクションですよね。第二次世界大戦から半世紀が過ぎ、実体験として語ることができなくなってきた今、こういう書き方が出てくるんだなあと感心しました。マークと父親の会話ですが、日本の親子ならこういう理詰めの会話は不自然になってしまいますよね。でも、この作品は、親の側の微妙な揺れやためらいもとりこんで、うまく考えさせています。海外の作品の会話って、前はいかにも翻訳という感じで鼻についていたのですが、このごろ、こういうのも日本の子どもにとって大切かなと思うようになってきました。

愁童:いちばん感動したのは、児童文学を書く作者の姿勢。お話ごっこみたいな日常の遊びの中に、こういう問題を取りこんで、子供の目線で考えさせちゃうんなんて、すごいなと思った。子どもに向き合う作者の姿勢が他の2冊と基本的なところで違うように思いました。

きょん:『ガラスのうさぎ』と比べてうまいなと思いました。全く想像もつかない「戦争」の事実を、今の子どもたちに読ませるには、一歩離れたところで、子どもと同じスタンスで「戦争」を語る方が、わかりやすいのでしょう。「戦争体験」をそのまま語るという手法より、入りやすいし、一緒に考えていけるのだと思いました。読み始めは、アンナの雨の日の「お話ゲーム」というのが、すごく唐突で入りにくかったのですが、それはお話のための“舞台設定”だと思えば、すんなりと流れていきました。
マークが、自分に引きつけて考えていくところが、身近に感じる「わかりやすさ」なのだと思います。民族問題から、現代の家族の問題まで、上手に盛り込んでストーリーを展開しているところがうまいなあと。特に、「想像のお母さん」とヒットラーについて会話するところなど、身につまされるような感じがしました。本当のお母さんは、「忙しいんだから」ってちっとも取り合ってくれないのに、「お話を聞いてくれるお母さん」なら、こう言うかしら……って想像しているところ。
また、いろんな人(娘アンナや、家庭教師、またアンナのおばあちゃん……)の悲しみがじわじわとにじんでいて、「ヒットラーも一人の弱い人間だったのだ」という感じが伝わってきたように思いました。

もぷしー:戦争体験でもなくルポでもなく、離れた視点で書いています。戦争を生き抜くというのではなく、戦争に進んでいく心理を描いているんですね。気づかないうちに、いろいろなことがすべて結びついて、戦争という方向へ流されていってしまう。冒頭も最後も雨が降り続いていて、静かです。静かに静かに進んでいって、どっと大水になるという風景が描かれていますが、現実の問題とも重ねてあるのでしょうか。児童文学で描かれる親子の関係は、「大人の考え方が正しい」というのか、「大人のいないところで遊んでしまえ」というのか、どちらかになりがちです。その点この作品では、子どもが大人にストレートに問いかけている。お話の部分と現実の部分が交互に出てきて、しょっちゅう現実に引き戻されますが、無関係と思いがちな今の読者にはここが必要なのかもしれません。

アカシア:日本でもホロコーストものは割合たくさん出版されていますよね。でも、そればかりだと日本の子どもにとっては「よその国の過去」という枠の中の一つのファンタジーになってしまうのではないかと思ってたんです。この作品はその点が違うと思いました。時間的に過去のホロコーストと現在の子どもを結びつける工夫をしようとしている。それだけではなく、空間的にもポル・ポトとかアフリカの戦争を出してきて、「今だって同じようなことが行われているんじゃないか」という問いかけもしている。子どもの中には、撃ち合うのがかっこいいと思っているタイプもいるし、友だち関係を大事にするあまり自分の意見をもちにくくなっているタイプもいるし、知らないで流されちゃうタイプもいる。その中にマークみたいなのがいてちょっと待ってよと考えていく。その辺の描き方もリアルです。迫力に欠けるという意見がありましたけど、ハイジの数奇な運命や逃走だけに焦点を当てれば迫力は出るけど、今の子どもと結びつけることができない。作者に思いがあって、いろいろな工夫をしながら子どもに伝えようと一所懸命書いているのがわかります。

ハマグリ:やっぱり考えるきっかけになる本よね。

もぷしー:ちょっと待て、ちょっと待てと、立ち止まって考えさせるところがよかった。装丁もいいですね。

アサギ:去年ドイツで『ヒットラー』という映画が上映されたんですけど、製作中に人間ヒットラーを描くことの是非が問われて、すごい論争になったみたい。上映後ネオナチが力を得たという雑誌記事もあったしね。ゲッベルスの子どもたちが青酸カリを飲むシーンを見た子どもがかわいそうと泣いたとかで、物議をかもしたりもしたの。かといって、ヒットラーを特別残虐な異常な人物として片づけるのは、逆にすごく危険よね。すごくむずかしい問題。といっても、この本は前に言ったようにヒットラーを描いたわけではなく、親子の問題がテーマだと私は思ったんですけど。

アカシア:ヒットラーがもし歴史上希有な怪物だとしたら、今後同じことがくり返される危険性は少ない。でも普通の人間の部分もあるのにいろいろな条件が重なるとああいうことになるだとしたら、これからだって安心できない。だから私はヒットラーの人間的な側面を考えるのも大事だとは思うんです。でもこの本はヒットラーの人間性を描いているわけではないし、最後にはハイジが「ヒットラーの娘」という在り方を捨てて「奥深くに小さな種のようにひそんでいたハイジ自身」(p201)になっていく。そこがいいなあ、と私は思いました。

むう:イギリスの書評誌などを見ていると、学校で本を読んで、それを材料にディスカッションを行ったりもしているようですけど、それには、ある意味で物議を醸す、あるいは多様な感想が出てくるこのようなタイプの本が適していますね。そして、物議を醸す本の場合は、子どもに渡して読ませてそれでおしまいではなく、いろいろ話し合うことでもっと考えさせることも必要になります。そうしないと、読みっぱなしで深まらず、逆に危険です。日本でも本を素材として、そういうディスカッションが行われているんでしょうか?

愁童:日本の学校ではちゃんとしたディベートのやり方を教えてないよね。小さいときから自己主張させてディベートの訓練しないと、意見をぶつけ合うことなんてできない。

むう:ほんとうに子どもの心の深いところに響くディスカッションをするには、子どもたちの幅広い感想をあらかじめ予想したうえで、大人が間口を広く構えて、子どもをうまく刺激しながら議論を深めなければならないと思うけど、それには大人の側にかなりの力量が要求されますよね。そういう大人が、あまりいないということなのかもしれません。

愁童:帯の文句は気になった。これじゃ作者の意図に水をかけるようもの。ヒットラーの子どもだったら、戦争を止められたか? なんていう読み方の方に読者を引っ張ってほしくないよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年4月の記録)