月: 2006年8月

2006年08月 テーマ:話題の本

日付 2006年8月29日
参加者 愁童、ネズ、アサギ、驟雨、ミラボー、アカシア、げた、ウグイス
テーマ 話題の本

読んだ本:

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斉藤洋『白狐魔記 源平の風』

白狐魔記 源平の風

アカシア:この本は子どもによく読まれているし、シリーズの4作目が最近出て、話題になってますね。

愁童:ぼくの居住地の図書館には入ってなくて、借りられなかったので読んでません。

驟雨:この作家の本は、読書会でも、『サマー・オブ・パールズ』、『ルドルフとイッパイアッテナ』(どちらも講談社)と、これまでにたしか2冊取り上げていて、これが3冊目だけれど、『サマー・オブ・パールズ』が、男の書いた都合のいい女の子だと不評だったのと表裏一体で、こういう男の世界を書かせると、この人はうまいなあと思いました。お話として、とてもおもしろく読みました。最後に、キツネが仙人のところにとことこと戻っていくあたりの書き方も、いいなあと。シリーズの次の巻も読んでみたいなあと思わせられました。おもしろかったです。

ミラボー:私は正直言ってあまり好きじゃなかった。「フォレスト・ガンプ」という映画でいろんな史実に立ち会うという設定があって、そういう感じかと思って読んでいたら、思ったほどは史実に立ち会わなかったんで、拍子抜けしたのかもしれないな。なんだか説教臭くて、人間とはこういうものであるとか、修行はこういうものだとか、キツネがまじめくさっていて……。

アカシア・ウグイス:そこがおもしろいんじゃない! わざとそういうふうにしてるのよ。

ミラボー:私は嘘くさかったり説教臭いように感じたんだけど。この著者の本を初めて読んだんで、他のを読むと違うのかもしれない。

ウグイス:歴史のことは少ししか出てこないけれど、とにかくこのキツネがおもしろい。仙人について修行したりするけれど、その仙人が不真面目なのがおかしいの。かるーく読むべき本だと思う。このキツネ、ばかみたい、とか思いながら読まないと。坊主の話を床下で聞いているところのおかしさとかね。ユーモア小説だと思う。もったいぶって、大上段に構えているところが、またおかしいの。私はこの本はとても気に入って、おもしろいと言ったら、別の人は「こんなのくだらん!」と言ってた。まじめな人だったから、まじめに読んじゃったのね。この本は、まじめに読んじゃだめ。おかしい話として、アハハと笑って読めばいい。

げた:斉藤さんは、説教くさい話が大嫌いなタイプですよ。図書館に来てもらって話してもらったときも、そう言ってました。これはシリーズで4巻目まで出てますけど、1巻目がいちばん新鮮でおもしろかったですね。キツネが修行して、自由に人を化かせるように成長していく様子がおもしろかったですね。4巻目はキツネのことよりも、信長のことなど史実をたどることに力点が置かれているようで、物語のおもしろさが少なかったかな。

驟雨:あの、キツネが街道で人に出会って、化けてみたら、相手そっくりになってしまい、それで相手が逃げだすというエピソードは、おもしろかったですよね。

アカシア:斉藤さんは、ストーリーテラーで、エンターテインメントのおもしろさに徹しているんだと思うな。変身の過程を細かく書いている本って、あんまりないんだけど、この本は、尻尾の処理がうまくいかないのは「空」にしなければならないからだ、という。そのあたりなんかもうまいですよね。リアリティを追求するんじゃなく、笑って読む本。ただし本をよく読む人にとっては、サービス過剰が鼻につくかもしれませんけど。ところで冒頭に出てきた猟師は謎めいてるけど、だれなの?
誰もわからず。

げた:私は斉藤さんの作品の中では、最初の作品「ルドルフとイッパイアッテナ」がいちばん好きですね。あれは傑作だ。

ウグイス:私はこっちのほうが好き。

アサギ:この人、浪花節よね。基本的に。だから日本人に受け入れられやすい。ときどき悪のりしたりするけど。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年8月の記録)


エリアセル・カンシーノ『ベラスケスの十字の謎』

ベラスケスの十字の謎

アカシア:今回は3冊とも、最初は状況がよくわからない謎の部分から入っていく本でしたね。この本ではまず少年が上げ底の木靴をはかされる場面がでてきて、え?と思っていると、読んでいるうちにだんだんとわかってきます。子どもが読む物語として、主人公の少年にくっついて興味をつなげて読んでいける、よくできた作品だと思いました。訳者の方はご苦労なさったようですが、とてもわかりやすい形になっているなあと感心しました。おもしろかったです。ベラスケスの絵に描かれている赤い十字架の謎を解くというプロットもいいですね。また、本の後ろに人物紹介があって、「ラス・メニーナス」の絵には登場しない人までいくつか絵が入っています。日本の読者にとってはありがたい工夫だと思いますが、これは日本語版だけなのでしょうか。

ウグイス:日本の子どもにはベラスケスといってもわからないし、この表紙の絵も知らない。スペインの宮廷の話で、まして17世紀ともなれば、時代背景は日本の読者には非常に遠い。読者対象はどうしても中学生かなと思います。でも、この本は、状況設定がそれほど遠いにもかかわらず、読者が最初から主人公にくっついていける構造をもっているので、意外にすらすら読めますね。まずお母さんが死んで、かわいがってくれるのは乳母だけ、それなのに引き離されて、父親に売られて、見知らぬ人ばかりの船に乗って……と、これはどうしたって主人公の味方にならざるを得ない始まり方。そして、船に乗ったところからは、何か途轍もないことが始まるという予感がして、次のページをめくらずにはいられない。その上、主人公の感情や気持ちに忠実に書かれているから、ぴったりついていきやすいと思います。しっかりした冒険ものとしての枠組みがあり、一気に読めます。長さも程よくて読みやすく、日常とまったく別の不思議な世界に連れて行ってくれる作品だと思います。

ミラボー:この絵は実物を2回見たことがあります。著者はスペインの子に向かって書いているから、前提としている知識が二つあると思いました。一つは絵の中の十字架は、王様がベラスケスの功績を称えて、死後に書き加えさせたといわれていること。二つ目は、当時のスペイン宮廷には矮人がいっぱい集められていて、ベラスケスは矮人に対してあたたかい愛情をもって描いていること。エル・プリモなどはとても有名です。なお私は絵の右の子(ニコラスに相当)は普通の女の子だと思っていたのですが、それも矮人だったのかとこの本を読んで初めて知りました。この二つのことはおそらくスペインではよく知られていることなので、日本の読者に向けては、それをどこかで補った方が親切かもしれません。ネルバルが悪魔で、ベラスケスは魂を売っても永遠の命を作品に求め、最後に十字架でベラスケス自身の救いを得て大逆転というのは、フィクションとしてよくできていると思います。私の中学では全員に読ませてみようと思っています。まず絵を解説しスライドを見せておいてから本を渡すつもりで、そうすれば基礎知識が得られて、お話に入りづらい子も減ると思います。

ネズ:アニメやゲームには、悪魔に魂を売るという話がけっこう出てきそうな気がするけれど……「悪魔」とはっきり言い切っていないところもいいですね。

ミラボー:どこにも書いていないけれど、やっぱりネルバルは「悪魔」であると読むんでしょうね。十字架を描き加える時に、ろうそくを消したりして抵抗しているわけですよね。

アサギ:悪魔を封じる十字架というふうには出てきますよ。この絵は、プラド展に来ていましたね。あそこではマリバルボラについておかしな解説が付いていたので、この本で初めてこびとだったのだとわかりました。とてもおもしろく読みました。ストーリーそのものもミステリアスで興味深かったし、宮廷にこういう道化がいることは知っていましたが、こんなふうに人買いのように集めていくことや、その宮廷での立場など、かれらをとりまく史実を知らなかったので、とても新鮮でした。未知の世界に入りこむおもしろさがいちばんだったかな。もちろん、ストーリーもうまくできていて、最初、え?と思っていたら、すとんと落ちるべきところに落ち、なるほど、という感じでした。翻訳もすらすら読めて、よかったですね。スペインのことだけでなく、宮廷画家という存在についてもあまりよく知らなかったので興味深く読みました。子どもはベラスケスや宮廷についてなどむろんぴんとこないでしょうが、ストーリー展開のおもしろさでついていくと思います。

ネズ:とてもおもしろくて、私も一気に読みました。ベラスケスの絵のことや、スペインの宮廷の知識がなくても、じゅうぶんに楽しめると思います。異文化や、知らない世界の遠い時代のことを知るというのも翻訳本の楽しみのひとつですが、この本はそういった楽しみを存分に与えてくれる。それに、いわゆるフリークの悲しさもとても上手く書けている。差別的な感じや、自分を高所に置いた哀れみの視線をまったく感じさせないのは、そういう子どもを主人公にして、その子の視線で書いているからだと思いますが、作者の配慮が感じられ、見事だと思いました。『ダ・ヴィンチ・コード』(ダン・ブラウン著 角川書店)の影響で、古典的な芸術や、いわゆる名画に興味を持つようになった子どもも大勢いると思うので、そういう子にぜひ読んでもらいたい。訳文も美しく、p63の真ん中あたりの訳など、本当にうまいなあと思いました。

驟雨:なんというか、私が小さい頃になじんでいた、岩波や福音館の児童図書みたいな、これぞ児童図書正統派という感じでした。豊かな感じがして、自分の知らない世界をじょうずに見せてくれる。文章も構成もきっちりしているし、とてもいいなあと思いました。この題材になった絵は、プラドでも暗くした特別な部屋に一つだけ飾ってあって、見ている人がその絵のなかに入ったような感じがするのだけれど、それに通じるものがこの物語にはある気がしました。謎めいたムードがあって、それが決して安っぽくない。伝統をきっちり踏まえている感じですね。あと、最初のところが木靴の話で、え?という感じで入るからこそ、子どもたちは、矮人である主人公の気持ちにすっと入っていける気がしました。これが最初から矮人だとわかってしまうと、子どもたちは自分とは違うと感じてしまって、なかなか入れないかもしれないけれど。とにかくおもしろかったです。

愁童:『少年アメリカ』と続けて読んだので、双方の作者の立場の違いみたいなものが、作品に反映されていて興味深かったですね。小さい子が主人公で、その子は父親が嫌い、というあたりは『少年アメリカ』にも通じるものがあるけれど、聖体拝受のエピソードで、坊さんを倒してしまうといったとても印象的な場面をぽんと置いて、少年像がきっちり読者の心に残るような配慮をしながら作品を作っている点など、童話作家としての巧みさを感じました。

げた:次はどうなるんだろう、という感じで読み継いでいけるので、読みやすい本です。歴史知識が必要なので、中学生向きかと思います。ニコラの出世物語ということで、中身自体はそれほど難しくないし、分量的にも中学生で本を読み慣れていない子にも読めると思います。

ミラボー:表紙で犬とニコラスだけに色がついていますが、これは、犬と少年が主人公ですよ、ということですね。
ひとしきり、ベラスケスの絵の話で盛り上がる。

ミラボー:冒頭の、ガブリエル・マルセルの言葉については、どう思われました?

アサギ:最後につながるんじゃない。ベラスケスの作品が完成したことが神秘なのかしら?

ウグイス:私は素直にふうん、そうなんだ、と思って読んだけど。

ネズ:神秘というのは運命のことかしら。

驟雨:この言葉がここにあるために、この本には不思議なことが出てくるぞ、という感じが醸し出されているんですね。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年8月の記録)


E.R.フランク『少年アメリカ』

少年アメリカ

愁童:おもしろかったです。文学作品としてはどうかと思うけど、翻訳者の仕事ぶりがおもしろかった。言葉の選び方や文章のリズムが巧みで、読み手が鬱や心身症を疑似体験させられるような感じに引き込まれてしまうのが印象的だった。後半でセラピー描写が前面に出すぎてくるのが惜しい。前半と同じようなパターンで物語が進んでくれれば、この翻訳者の文体で少年アメリカの内的変遷を疑似体験できるとてもユニークな翻訳書という印象で読了できただろうに、その点がちょっと残念でした。

ネズ:難しい作品だな、と思いました。こういうものをフィクションで書くのと、ノンフィクションで書くのとどっちがいいか、考えさせられました。主人公の生い立ちの部分はおもしろいけれど、私はセラピストの仕事というものをまったく知らないので、セラピストがどのように向かい合ったから、主人公が立ち直ったのか、そのへんがよく分からず、難しかった。こういう本は、同じような境遇にある子は絶対に読まないし、こういう境遇にない子は、自分とは違うと思って読まないのでは? 読者対象をどこに置いているのかしらね?

アサギ:解離性障害というのは、つらい現実から逃避するためのひとつの形だと言うこととは漠然と知ってましたが、こういうことなのか、と私は興味深かったですね。この本はアメリカの若者に人気があるとのことですが、どういう子に支持されてるのかしら?

驟雨:普通の子ですよね。作者は、普通の高校の本棚に置く本として作った。この作品は作者の2作目ですが、若い子からの反応がより鮮明なのは1冊目のほうだということです。

アサギ:少年犯罪は日本でも多発していますけど、罪を犯した子どもたちの更生はどうなっているのかと興味がありました。この本を読んで更生の可能性が感じられ、そこがよかったですね。翻訳は難しかったと思うけれど、とても読みやすかった。それから、こういう子どもたちって大きく見るとけっこう共通項があると思うのね。共通項があるということは、導くための一定の方法もありうることになりますね。むろん、人間は一人一人ちがった個性の持ち主だと言うことは大前提だけど……。それからあらためて思ったのは??この子は料理に関心をもったことがターニングポイントになったけど??好きなこと、得意なことがあるってこんなにも大切なんだということでした。

ミラボー:すごい本だと思った。転落していく過程がよく書かれていたし、ドクター・Bとのカウンセリングの過程が延々と続き、なかなか先が見えないんですが、最後には救われる。イタリックに字体を変え、主人公がふっと別のところに離れて、また戻ってくるというのがわかるように書かれてますね。作品としては最後に救いがあってよかった。訳すのは大変だったろうと思います。特にののしり言葉などは、日本語のほうが少ないので大変だったでしょう。

ウグイス:あまりにも生々しくて、つらくなるような描写が続く中で、一つとても印象に残ったのは、小さいとき、ハーパーさんから隠れると、「ほうら、見つけた! もしもし、あなた、そこにいるのが見えますよう」といって見つけてくれる。「それでおれは、金切り声をあげる。見えるっていうのはほんとうに気持ちのいいことだから。」(p29)というところ。誰からもちゃんと見てもらえない子どもの心情がとてもよくわかる部分でした。最後まで読むと、これが伏線になっていることがわかり、感動しました。

アカシア:フィクションかノンフィクションかという点ですが、作者はきっと、この子のような子と何人も接してきたのでしょう。でもこの作品では、そういう子どもたちの代表として「アメリカ」という少年をつくりだし、フィクション仕立てにしているわけですよね。内容はとても重いですが、読んでよかったと思いました。ただ、読者対象はどの辺なのか、作り手の側はどう考えたのでしょう?

驟雨:アメリカではこの本は若い人向けに出ていて、「自分たちと同じようなことに関心があって、同じような言葉(汚い言葉)を使っている子がここにいる」という読まれ方をしているけれど、それをそのまま日本に持ってきても、距離感があるから同年代では読めない。だから、読者対象としては、そういう虐待などを受けて苦しんでいる子たちを相手にする、たとえば福祉関係などの大人を想定していると思います。

アカシア:子どもの本ではないんですね。巻末に広告が載ってる夜回り先生(水谷修氏)の本は、実際に救いを求めている子が読んでますよね。これは、それとは違って、本当に問題をかかえている子には難しい。時系列が行ったり来たりするので、本を読み慣れていなければ読みにくい。少年アメリカがセラピストとやりとりをしている現在の部分と、過去を思い出す部分が交互に出てきますが、回想の部分の会話は、もっと子どもらしい言葉づかいにしてもよかったのでは? たとえば「書類」(p36)は、幼い子どもの言葉ではないから。ハーパーさんの言葉づかいも、もう少し統一されると人間像がつかみやすくなると思いました。この作品は、甘いところをすべて排除してきりっとしてるんだけど、その分、読者としては読みにくいかもしれない。それから、セラピストはいい人ではあるんでしょうけどこの本からは人間味が感じられなくて。職業柄仕方ないのかも知れませんが、すごく嫌な、少年アメリカでなくても蹴っとばしたくなるような人に感じられました。なので、主人公にも感情移入しにくいし、セラピストにも感情移入できない。

ネズ:セラピストがマニュアル通りにやっているので、こうなるのでは?

驟雨:本人の言葉をそのまま繰り返しながら、本人に自分の内面と向き合わせるというのが、このセラピストのアプローチだと思うんです。この子は、それまでにもいろいろなセラピストと対面してきて、大人との回路はほとんど遮断したような状態で自分を守っているから、たとえば親しみを前面に押し出すようなアプローチでは、この子にすればうさんくさいだけだということになる。だから、主人公とドクターBというセラピストとの会話は、普通の人との会話ではなく、そっけない感じになるのは仕方ないと思います。

アカシア:本人が言ったことをただ繰り返すセラピストを、私はマニュアル通りに応対するお役人みたいだと思っちゃったんです。

ウグイス:でも、少年アメリカにとっては嫌な奴なんだから、彼の感じ方で描くとこうなるんじゃないのかな。

アカシア:そういうのはあるかもね。でも、子どもの本だと読者は誰かに寄り添って読みたいのに、この作品はそういう人が誰もいない。

げた:図書館ではこの本は一般書にはいっています。時間の流れが行ったり来たりして、構成がむずかしくって、なかなか理解しにくいですよね。読みにくい部分もあるし、映画を見るように自分で映像をイメージしながらしっかり状況をつかんでいかないと、会話だけがどんどん流れていってしまう。ぼくも、少し前に戻って読み直したり、何日か時間をかけて読まなければなりませんでした。最終的には救いがあり、野菜を育てて、土の感触を得て前向きな生き方になっていくのが感じられて良かった。作者はまえがきで、これは「教訓話」じゃなくて「優れた物語」を作ろうとしたと書いているですけど、なかなか物語として楽しむところまではいきませんでした。セラピストの助けを借りながら立ち直っていく子どもの生き様を扱ったドキュメンタリーのような読み方しかできませんでした。

驟雨:イギリス版の原題はAmerica is Meで、アメリカ版ではAmerica となっています。イギリスでは、YAコーナーと一般書の場所に、どちらもたくさん並んでいました。万人受けするタイプの作家ではなくて、ツボにはまって熱狂的なファンがつくタイプの作家で、ああいいな、と思う人が何人かはいるという感じだと思う。アメリカでの若者の反応も、すっと入っていけてすごく感激したという感想もあれば、自分とはまったく違う世界だし、何でこんなものを読まなきゃなんないの、と不満を前面に出した感想とに分かれていました。デビュー作が圧倒的に若者の支持を得ているのに対して、こちらはもう少し年齢が上の人たちまでターゲットに含めているようなところがあります。私自身、問題行動といわれる行動をとる若者をどう書くかに関心があって、けっこうアメリカやイギリスのそういう本を読んでみたりもしているけれど、家庭内暴力の被害者、ドラッグ常習者などが転落していく過程はリアルに書けても、そこからある程度のところまで回復していくのを書ける作家はほとんどいないといっていいと感じていました。つまり、回復過程にリアリティがない本が多いのだけれど、この本は、その部分がかなりしっかり書けている。それは、作者のセラピストとしての経験があるからでしょうが、たとえば少年アメリカが小さいことが目に入るようになってくるといった変化が、ちゃんとポイントを押さえて書かれているので、リアリティがあるのだと思います。現実にこういう子どもたちと接している大人たちは、様々な迷いを抱えながら、とにかく子どもと向き合わなければならないわけで、そういう大人に読んでほしい本です。ひとつ不思議な気がするのは、原書は、「本があまり好きでない子ども向け」の本として、リストに入っていること。主人公の、ものすごくヒリヒリした感じを出しながら、でもどこかでは温かいものとつながっている感じは、同世代の子には伝わると思います。でも、日本語となると、表現の仕方がとても難しい。原書は、話し言葉がそのまま文になったような作品で、そのままでは日本語にならないという問題もあります。

ミラボー:主人公が予想する調書の文面が出てきて、この少年の育ってきた過程がわかるけれども、それとは別に実際に起こったことも書かれているので、それらを総合して読んでいけばいいのでしょうね。

驟雨:セラピストによるセラピーというのは、向き合っている子の影の中に、その子の過去がいっぱいつまっていて、それが必要以上にふくれあがっているのを、原寸に戻して、その子にも受け止められるような形に持って行くことだと思います。その意味で、たとえばブラウニングの、主人公を安心させておいてから根底から覆すという行為の残酷さをちゃんと理解して、主人公が、そういう人に対して敵意を持つのは当然なんだと支えてあげる。それでいながら、人を殺すようなことはいけないことだということも押さえる。そういうバランスを本人一人でとることは、ほとんど不可能に近いわけで、それを助けるのがセラピストなのだと思うんですね。セラピストという存在は、自転車の練習をするときの補助輪のような存在だと思う。ちなみに、この本はイタリアとドイツでも翻訳されていて、ドイツではYAの賞の候補にもなっています。

アサギ:私はセラピストの口調がそれほど嫌だとは思わなかったけど。

げた:最後の解説で、この本の最大の魅力はセラピストが解離した人格を統合に向けるプロセスをリアルに描いていることであると言っているから、セラピストはそもそも、そういうやり方をするんだなと思ったんですけどね。

ウグイス:エイダン・チェンバーズの『おれの墓で踊れ』(浅羽莢子訳 徳間書店)の構成に似てると思いました。あれも、現在の取調べの場面と、本当に起こったことの回想部分とが交互に出てくるでしょ。

ネズ:私も『おれの墓で踊れ』の最後の部分を思い出しました。でも、あれは警察官の言葉を借りて事実を述べているわけだから、少し違うのかもしれないけれど……文章の字体を変えているところは、原書ではどうなっているのかしら?

アカシア:それとスラングがたくさん出てくる作品は、同じ作品でもアメリカ版とイギリス版でかなり違う表現になっている場合があるけど、これはどうなんですか?

驟雨:書体を変えたのは、日本語版の工夫です。それから英語はこの本では、イギリス版もアメリカ版もほとんど変わっていない。なぜなら、この本は、アメリカという国についての話でもあるから。

げた:でも、アメリカでは読書に慣れていない子にすすめる本とはね。うちの高校生の息子にもすすめてみようかな。

ネズ:いつも自分で使っているようなスラングがいっぱい出てくるから、ラップを聞くみたいにすーっと読めてしまうのでは?

愁童:ぼくは、やはりセラピストが書いているという限界を感じちゃった。少年アメリカがよく見えてこない。この子の本体は何なのかが、イマイチわからないでしょう? ハーパーさんと暮らしたほうが幸せだったのか、あるいはブルックリンとのことは彼にどういう影響を与えたのかを書いて少年アメリカ像を読者の前に提示しようというよりは、こんな子にはセラピーが必要なんだってことが前面に出てきちゃってる感じがする。

驟雨:逆に、この子の本体が見えないということで、少年アメリカ自身が自分を掴めなくて混乱してる状況がくっきりと浮き彫りになる気がするけれど。

愁童:確かにそういう面はあると思うけど、フィクションとして書かれているという前提で読むと物足りない。鬱だの心身症で生まれてくる子はいないわけで、そんな普通の少年アメリカが、どんな対人関係で、どんな生育環境で育ってきて今セラピーを受けるような状態になっているのか、そこら辺がよくわからないのが残念。推察はできるけど、作者は、あまり明確には書きこんでないのがもどかしい。

ネズ:プライバシーがうるさいから、ノンフィクションでは書けなかったのかな?

アサギ:名前を「アメリカ」にしたっていうのは、きっとそういう意味があるのよ。

愁童:小説として読めば、こういうふうになったプロセスにこそドラマがあるわけで、そこがあまり書かれていないので、何となくセラピーPR本みたいな印象になっちゃうのが残念でしたね。

驟雨:むしろこの著者は、子どもをとりまく大人たちの状況、社会の状況に対する怒りが一つのエネルギーとなって、創作に向かっていると思うけれど。

愁童:セラピストと少年アメリカの対話の中で、少年像が透けて見えるような書き方があると読者はもう少し想像力を刺激されて、興味深く読めたんじゃないかな。

アサギ:セラピーというのはこういうものなんだな、ということはわかったわ。こういうふうに人間って変わっていくんだな、と。

ネズ:私の大好きな作品『地下鉄少年スレイク:121日の小さな冒険』(フェリス・ホルマン作 遠藤育枝訳 原生林)は、少年アメリカほどじゃないけれど、家族も友だちもいず、精神的に追い詰められていた少年がNYの地下鉄に逃げ込み、121日間の地下生活をするうちに、それこそ袖擦りあうだけの人々との関わりによって救われ、ついに地上に出るという物語なんだけど、今の時代、こういうのはまったくの夢物語で、セラピストの登場を待たなければ救われないということなのかしら?

アカシア:小説として出すのか、それとも一種のケーススタディとして出すのか、本の出し方がどっちつかずなのでは?

驟雨:こういう本を出すときに、すぐに思いつくのが、スキャンダラスな部分を強調したり、実話だぞ、という点をうたい文句にした売り方だけれど、そういうふうに扱うべき本ではないと思うし、そのあたりは難しいと思います。

アカシア:とにかく翻訳が難しいタイプの作品ですよね。少年アメリカの一人称は英語ならすべて「I(アイ)」ですむけど、日本語では逆に小さいときの回想まで「おれ」で通しちゃうと違和感が出てきてしまう。

驟雨:一人称の問題ももちろんあるし、あと、米国でよく使われている固有名詞を使ってる部分などは日本語にできないから、そこで読者との距離感が出てしまうということもあると思います。この著者は、英語という言語を非常にうまく活用して書いているので、そこを日本語に移すときの減速感は否めない。

愁童:主人公の不安定な気持ちがせっかくここまで伝わっているのに、最後が説得力に欠ける。ドクターと会話しているうちに、急に優しくなったり、ものがわかるようになるというのに、ちょっと違和感を持ちました。セラピストのどんな言葉が、どんな態度物腰が少年を癒し、変えたのかがイマイチ明確には書かれていないのが物足りない。

驟雨:でも、少年アメリカが一人でぽつんと孤立していて、まったく手がかりのない状態、自殺願望を持っている状態から、ようやく一筋の光が見えるところまで行く過程は、かなりよく書けていると思います。外界のいろいろなものと、内面の変化が呼応しながら進んでいくあたりは、様々な記憶がよみがえっていく順序とか、心の動きはかなりリアルですし。

愁童:作者はこの本の冒頭で「優れた物語を書きたかっただけ」って言ってるよね。でも最後の解説を読むと、セラピー事例としての捉え方がされていて、何だ、結局そう言うことだったのか、みたいな感じになってしまうんだよ。

ネズ:冒頭の作者の言葉にあるように、あくまでも物語として読ませるなら解説はいらなかったし、セラピストとか、プロを読者対象にすえるなら、冒頭の作者の言葉は違和感がある……。

ウグイス:セラピストというものに対するうさんくささが、この解説で惹起されてしまう?!

アカシア:あと主人公の少年自身の魅力が、もう少し出てくるとよかったね。

驟雨:少年アメリカの人柄はかなりよく出ていると、私は思いました。たとえば、セメントの四角い隅に靴跡があって、そこを踏んづけたらハーパーさんちのドアが開いて、「お帰り」といってくれたというところは、実は偶然なんだけれど、幼い子どもにはそう見えたりする。それに、ライザに対する好意があっても、ブラウニングのいたずらが始まると、どんどん混線して、逆にライザを遠ざけようとするのもリアルです。結果としては、人を殺すことになりながら、それでいて本人はとても素直なところ、感受性の強いところがあるというあたりも、うまく書けていると思います。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年8月の記録)