月: 2008年5月

2008年05月 テーマ:保護者と子どもの関係

日付 2008年5月29日
参加者 みっけ、紙魚、クモッチ、メリーさん、ユトリロ、ハリネズミ、フェリシア、小麦
テーマ 保護者と子どもの関係

読んだ本:

(さらに…)

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梨屋アリエ『スリースターズ』

スリースターズ

クモッチ:前半部分は、3人の女の子たちの状況説明みたいな感じでそれが長いので、読むのがしんどかったです。すごく極端で(これってファンタジー?と思うような極端さ)嫌な感じだったから。でも、真ん中あたりから、話の展開が早くなって、どうなって行くんだろう?と引っ張られてどんどん読みました。このあたりから、登場人物、特に女の子たちが、等身大の中学生になってきたのね。たとえば、弥生が Marchの綴りを間違えるところとか、水晶の結構おっちょこちょいの部分とか、ユーモアもあって。作者は、勢いで書いている感じがあって、後半は地の文が、誰が言っているのかわからないところもありましたけど。よく言えば勢いがある。悪くいえばちょっと雑かな。ストーリーのおさめかたも、同じ事が言えてると思いました。水晶が、だんだんと生きていく方向に目が向いていく過程はとてもよく書けているけれど、弥生の闇は深すぎて水晶が「弥生を助けたい」と思ったりしても、ちょっと無理だよなと思いますよね。読者対象の中学生は、どんな風に感じるのか、ほんと聞いてみたいな。自分の状況も辛いけど、これほどじゃないな、ということでほっとしたり、突き放しておもしろく読んだりできるんでしょうか? あと、愛弓がほれっぽいという部分ですが、前半でたくさんの子とつきあったり、後半エッチなおじさんのところに愛弓が行ってしまう、それもそんなに嫌そうじゃない部分などは、性的な描写を書かないと、なぜ行ってしまうかという気持ちの揺れが伝わらないのでは?と思いましたね。

ハリネズミ:愛弓は、性的な衝動というより、最初は食べ物をもらいたいからおじさんのところへ行くんじゃないの?

フェリシア:父性の変わりに受け入れてもらえる安心感があるのだと読み取れると思います。ありのままの自分を受け入れてくれる存在(そこには、大きな代償を払っているだけれど、本人はそうとは気づいていない)として、あらがえない気持ちがあるのでしょう。

メリーさん:今の子どもたちが読むと、リアルだというのかもしれないですが、正直言って、半分まで読むのがつらかったです。世の中は、砂糖菓子みたいに甘くなく、不条理だということはわかるのですが…。中盤を過ぎて、自殺に失敗するあたりから、おもしろくなりました。最初の予想は、性格も境遇も全くことなる3人が仲良くなって終わる、というものだったのですが、見事に裏切られました。水晶と愛弓は携帯電話で意志の疎通をはかるのだけれど、弥生とは最後までそうはならない。着地点を見つけられないまま終わったので、逆の意味でリアルでした。
とくに強烈だったのが「嘘をつく」ということ。弥生は状況に応じて嘘をつき、使いわけ(!)、論理が破綻すれば、「死ね」で断絶して終わり。これまでの子どもだったら、嘘のほころびで、状況は多少変わるのだけれど、弥生の場合はどこまでいっても本音がない。それぞれの物語もやはり自分なので、自己同一性に悩むこともない。弥生はすごいなと思いました。
実は、ケータイ小説を買って読み比べてみたのですが、この本が深いなと思ったのは、最後の場面。著者が3人と対等に向き合って、お前はどうするんだ?と問いかけている気がした点です。3人は今の子どもの類型で、大人の言葉は通じるけれど、心はまだ大人ではない(水晶)、大人の言葉も通じないし、心も子ども(愛弓)、大人の言葉も通じないし、心も子どもを卒業している(弥生)の3つ。信頼できる大人がいないこの世界で、君たちはどう生きるのか?それを問い続けながら、終わっているような気がして、いろいろなことを考えてしまいました。

小麦:いい大人はひとりも出てこないですよね。

フェリシア:この読書会の課題として適当かどうか迷ったのですが、私は、とても衝撃的で、おもしろかったし、現代の話としてちょっと注目したかったので選びました。読み始めは、ただのエンタメかもしれないと思いました。出てくる子が、かなり典型的な子どもたち。そして子どもと保護者との関係も、それぞれのパターンが典型的に設定されていて、極端すぎるけれど、なさそうでありそうなところが怖い。お金持ちだけれど愛情に飢えた子、ネグレクトされていて寂しがり屋の子、賢くて親の期待を一身に集めているけど自我の目覚めと共に「いい子」の枠からはみ出しはじめた子。極端だけれど、絶対にどこにでもいる子だと思いました。ブログで知り合った子どもたちが、なんとなく共謀して寄り添っていくのも、今っぽい関係なのかなと思いました。今の子どもたちって、ケータイ依存症なので、だからこそ怖いですよね。そして、親が見たらびっくりするくらい子どもくさくて、ばかげているところも、リアリティを感じました。
「世直しテロをしよう」と考えるようになる経緯など、子どもの身勝手さもよく描けているように思いました。それでも、最後に、死ぬのはやめて生きていこうと思う、自分で生きていくしかないということをわかる、この「自力で生きていくこと」を勝ち取るところが、この話のすごいところだと思います。誰も助けてくれないというのは極端だけど、今の世の中、だれも助けてくれるわけじゃないから、自分で生きていこうというメッセージがこの本にはあるので、子どもたちはそこに何かを感じるのではないかなと思います。最後に、ちゃんと着地してほっとしました。

小麦:読み終えて最初に思った感想は「この時代に中学生じゃなくてよかった……」です。中学生の話し言葉や、メールの気持ち悪い文体なんかはとてもリアル。大人が取材して頑張って書いたという感じが一切ないですよね。文章もスピード感があって、ぐんぐん読めます。全体的に極端な設定も多いんだけど、あえて味付けを濃くして、読者を引っぱっているんだなと思いました。ただ、いまいちどこに向けて書いているのかがわかりませんでした。ラストで水晶が、生きて行く希望らしきものを見いだします。弥生を助けたいというような事も書かれているけど、この年頃の子どもの気まぐれのようにも思えて、ラストに据える希望としては、あまりに心もとない。多分、弥生が変わることはないだろうと予測できてしまいます。今の中学生をリアルに写し取って、その先に作者の思いなり、答えが提示されるべきだと思うけど、その先がすっぽりないように思いました。文学の醍醐味って、自分の想像しえない世界に連れていってくれるとか、とにかく変でおもしろいとか、色々あると思うんですが、私はこの本に関しては、そうした何かしらの魅力を見つけられませんでした。

ハリネズミ:最初のうちは、「えー、こんなやついるわけないじゃない」と思ったり、言葉とか行動で人物をあらわすのでなくて説明しちゃってるところにひっかっていたんですが、途中からこれは寓話みたいなものだと思いはじめたんですね。中学生って、自分自身をうまく扱えないし、いかようにも揺れるし、みんなで自殺やテロをやりましょうと言いかねない。親にしても、ここまで極端ではなくても、近い親はいっぱいいる。それぞれの典型を提示して、ありうるぎりぎりのところを書いている。そこが、おもしろくなったんですね。弥生は救いがたい世界にいるわけですよね。何かしたって救えないんだけど、それでも全然タイプの違う少女が手をのばそうとしている。
今の英米の児童文学だと、いい大人が出てくる物語が少なくなってます。時代がそうだからでしょうけど、大人はまったく頼りにならなくて、子どもどうしで支え合っていかなければならない。創作児童文学では、そういう設定をあまり見かけなかったのですが、これを読んで、ああ、日本でも出てきたんだと思いました。最初は読んでも時間のむだかな、なんて思ってたんですけど、読んでよかった本です。

フェリシア:私も最初、エンタメかなと思ったのですが、途中から、この関係性がリアルだと感じました。この関係性の危うさが怖いと。誰が読むのって言われると困るんだけど、「自分はこの子たちと違って幸せだわ」って読むんじゃなくて、「自分も一歩まちがえたらここに行く」という感じ? または、自分の中にある、“この子たち要素”を感じながら読むのでしょうか? どちらにしても、息苦しい気持ちで毎日生きている中学生くらいの子どもたちに、この著者の「自分が自分の力で生きていく」というメッセージは、伝わると思いますし、その力強さを感じる作品です。

小麦:解決はしませんっていう終わり方ですか。

メリーさん:爆弾3つあるので、このまま進んだら、生き延びようとしてた弥生がいちばん最初に死んじゃいますよね。

小麦:死んじゃわないんですよ。火花が散るくらいで。でも、解決はしないですよね。

ハリネズミ:読者はそれぞれの少女のどこかの部分に強く共感して読むんじゃないでしょうか。

小麦:私が中学生だったころは、本によって別の世界に行けるというのがあったんですよね。

ハリネズミ:そういう読書は、今だってあると思う。

紙魚:たとえば、尾崎豊の歌って、大人がきくと、まあ、それなりにわかるかなという感じなのだけれど、ある年代や、ある層には、絶大な信頼を持たれていましたよね。まさに若者の教祖というように。歌と自分の状況がぴったり同じでなくても、その歌に描かれている世界が、一部でも自分と重なることで、力をあたえられることはあると思う。

みっけ:第一章の「みさきと弥生」を読み終えた段階で、あれ?と思いました。なんだこれ、今時の子どもの描写かい。描写は上手だけれど、それでどうするんだろう、とちょっと意地悪く見てしまったのです。その次に、今度はあゆの話が出てきて、さらに水晶の話が出てきたところで、これは今時の子どものサンプル集だろうか?と思っていたら、その次の章で、登場人物が携帯を通してつながり始めた。このあたりから、これはかなりすごい構成なのかもしれないと思い始めて、それからは、いったいこの子たちどうなってしまうんだろう、と引っ張られて、かなりのスピードで読みました。携帯とは無縁な生活をしている人間からすれば、ふうん、こうなんだ、へえ、といろいろと目新しいことばかり。でも、そういうディテールも話の終わり方も、実にリアルだなあと思いました。
弥生がなあ……と思ったのは事実ですが、これでお手軽に救済されたら、とたんにリアリティーがなくなるし。こういう本って、読者が、登場人物と自分を完全には重ねられなくても、自分の一部が重なることでほっとするというか、けっこうきつい毎日を送っている自分と重なる人間をこんなにリアルに書いてくれる人がいる、ちゃんと見ていてすくいとってくれる人間がいるということにほっとする、という読み方をするのかもしれませんね。ここまで極端でなくても、登場人物が自分と地続きだと感じる子はたくさんいるはずだから。今時の風俗のオンパレードなんだけれど、それが展覧会で終わらずに、ちゃんと読者を引っ張っていく仕掛けになっている。練炭自殺実行のあたりからは、もうどうなっちゃうのかと先が気になってしかたがない。練炭自殺をしようとして、弥生が外から目張りしているのにほかの2人が気づくあたりには、感心しました。この作品を読んで、ついに日本でも、現実に即して子どもに直接エールを送るタイプの作品が出てきたんだなあ、と思いました。

ハリネズミ:生きていてもいいかと思うようになるまでの過程も、それなりに書かれています。

みっけ:水晶とあゆなんかは、おそらく今の学校だと、学校内では接点がなさそう。あゆは水晶をお高くとまった優等生だと決め込むだろうし、水晶はあゆを馬鹿にして鼻も引っかけないだろうし。その2人が接点を持てたのは、携帯で一緒に自殺をという異様な状況になったからです。ところが、そうやって接点を持ってみると、お互いに相手のことをそれなりに観察し、自分のことも相手のことも肯定できるようになっていく。この2人はそうやって救われていっている気がするんです。あゆにすれば、水晶に髪の毛をほめられれば嬉しいし、水晶にすれば、自分には考えられないような状況でけろりとしたところを失わないあゆをすごいと思う。そうやってお互いにちょっと視野が広がり、それがある意味で成長にもなり、生きていってもいいかな、という感じにもなる。でも、この作品では弥生は最後まで他の人と出会わないんですよね。それが弥生の救いのなさにつながっているんじゃないかな。この先弥生が他者と出会えるかどうか……出会えるといいですけれど。

ユトリロ:私は教師なんで、個人的には、好きになれない人がいっぱい出てきます。例えば愛弓の両親も嫌だし、水晶の親も嫌だし。だけど、作品としてよく書けているなと思います。愛弓、水晶、弥生3人とも私の今まで出会った人で、よく似た人物が頭に浮かんできました。「さがしたら殺す」と書く愛弓の母のような親も20何年前だっていましたから。水晶みたいに、5分に1度とはいわなくても、親に徹底的に管理されている子もいますしね。GPSで居場所を知らされるとか。作品としては、弥生だけ描写が足りないような気がします。親との関係やら。その分、作品の最後でも救いもない感じだし。だからこそ、最後の最後で弥生に疑いをもつ2人が、離れていくようになるんでしょう。私の身近にも、お金持ちだけどニヒルという子はいますよ。どうしてなんでしょうかね。

フェリシア:まわりの大人たちが真剣にその子にかかわっていないと、どうしても子どもはニヒルになってしまうのではないかしら。愛情のない両親、当たり障りのない先生、無関心な近所の人……。小さいころから、関心を持たれない子どもは、どうやって自己表現したらよいのかわからなくなってしまう。だから、友だちともうまく関係を作れない。

ユトリロ:お金がある分ハートがない親は確実にいて、高校生になってから、ものすごい悪いことをするというような子もいる。この本は、そういう意味でも、よく書けている。もしかしたら、すごい作品なのかもしれないですね。

紙魚:中学時代のある短い時期、何に怒りを抱いているのかうまく説明できないけれど、親や学校や社会に強い怒りを抱いているという、本当に特殊な瞬間というのがあると思います。大人になると、その、自分をコントロールできなかった厳しいつらさを忘れてしまうのだけれど、梨屋アリエさんは、それを忘れずにじっと持ち続けているのかな。私は、この女の子たちは、さほど極端だとは思えません。この物語と同じ状況にはないかもしれないけれど、同じような方向性の気持ちを持った子が読んで、救われる気にはなると思う。そういう意味では、すごい作品だと思います。それから、ゲームの登場が子どもの遊びの文法を変えたように、やはり携帯電話の登場というのは、人間関係の文法を変えましたね。これはどうしようもないことなのだけど、携帯以前と携帯以後では、人とのつながり方がちがう。梨屋さんは、今の子どもたちの現状を、批判することなく、そのまま書いているように感じられました。それから、弥生の「リスペクトしなさい。」という言葉は、この物語と、今の子どもたちの心を、象徴しているように思います。それにしても、『空色の地図』(金の星社)や『ツー・ステップス!』(岩崎書店)を書いている人と同じだなんて、作家というのはすごいですね。

フェリシア:『空色の地図』よりも、『スリースターズ』の方が、ずっとよかった。

ハリネズミ:『チューリップタッチ』(アン・ファイン/著 灰島かり/訳 評論社)のチューリップの場合は、父親に猫を殺すよう言いつけられるという部分が強烈で、そこを読んだだけで、チューリップの闇がわかりますよね。弥生の闇も、短くてもいいからもう少し具体的に書かれていればもう少しくっきりしてきたかもしれません。警察につかまっても親が迎えに来ないというだけでは弱いと思います。

みっけ:でも、チューリップの闇が多少は他の人との関わりがあって生まれた闇なのに対して、弥生の闇というのはもっととらえどころのないものだと思います。つまり、周りに人がひとりもいない、人とのやりとりがまるでない、自分をぶつける相手が見えない、みたいな。だからチューリップよりももっとがらんとしていて、そういう状況を、書いて伝えるのは難しそうだなあ。特に、本人に沿った形で書いていく場合は難しいと思う。弥生の心情については、第1章で語られているみさきとの家出の話の中でも、「こいつもあたしみたいに寂しいのかと思ったら、なんだ全然甘いじゃん。絶望したふりなんかすんなよ」みたいな、ひりひりする感じが書かれていて、そのみさきが火事で死んだときの弥生のリアクションのなんともねじれた感じからも、本人がとてもしんどい状況だということが伝わるんだけれど、徹底的な精神的ネグレクトというのは、接触や衝突がないだけにとても書きにくいんだと思います。なんか、大きくて真っ暗な穴ぼこのような感じなんでしょうけれど。

フェリシア:長くなって、だらだらしているのも、エンタメとして読める秘訣かもしれない。

小麦:自分が共感して読むんだったら、だらだらしていた方が感情移入しやすいですよね。メールの文体はうまいですよね。

メリーさん:ケータイ小説よりも、ずっとうまいです。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年5月の記録)


ジャネット・テイラー・ライル『花になった子どもたち』

花になった子どもたち

メリーさん:安心して読める、安定感のあるお話でした。目新しさはないけれど、日常に隠れている、ふとしたできごとに目が向くお話だと思います。姉妹がけんかをし、妹のほうが息をつめて、庭の茂みに隠れる場面は印象的でした。土のにおいや草のにおい、罪悪感を抱えながら、物語の登場人物に自分を投影している妹の描写は真に迫っていると思います。姉が母親を恋しく思い、天井に天国の地図を描くところなども、いいなあと思いました。最後、姉妹の性格ががらりと変わるのは、少し唐突な気もしましたが、(おばさんの麦わら帽子から髪が出ているところを悪くないと思うように)少しずつ他人を受け入れる素地が作られていったのだなと思い、納得です。

クモッチ:私は、この本は結構好きでした。はじめ、古めかしい本のように思ったんですが、読み進むうちに、とても現代的でシビアな問題をきちんと描いていることがわかってきます。この姉妹は、お母さんを亡くして不安定な状態にいて、二人を引き受けなくちゃならなくなったミンティーおばさんは、とても注意深く接し、この子たちを少しでもいい状態にもっていきたいと思っているんですね。手探りで彼女たちのようすをうかがっているのがとてもよく伝わってきました。二人がそんな辛い時期を乗り越えるのが庭だった、というのは、新鮮でした。ガーデニングとかいっていやされるのは、大人のような気がするのだけれど、物語中の、もうひとつのお話の効力によって、花が人に思えてきて、子どももその不気味さもひっくるめて、興味を持つのでしょうね。その辺がおもしろかったです。上手だな、と思ったのは、近所の子どもが遊びに来て、妹がそれを台無しにしてしまうシーンの後、お姉ちゃんが天井の地図を見ながら考えていて「ネリーには私がついているけど私はひとりぼっちなんだ」とあらためて思う場面。とても切ない気持ちが伝わってきました。

紙魚:装丁の感じや、読み始めた印象から、ずいぶん昔の本なのかなと思いましたが、途中、電話の子機が出てきて、あっ、現代の物語なのだと気づきました。子どもがおもしろく読むのかどうかはちょっとわかりませんが、大人として読むには、とても楽しめる本でした。それまで、庭になんて目をとめなかった子どもたちが、花になった子どもたちを想像することで、ぐんぐんと庭の存在感を強く感じとっていくさまは、おもしろかったです。ティーカップさがしをするのが目的ではなくて、そのことがきっかけとなって、姉妹が大きくなっていくのですよね。市川里美さんのていねいな挿絵も、とても素敵でした。128〜129ページの見開きの絵などは、何度も何度も、すみずみまで見てしまいました。物語を読み進める、いい目印になりました。

みっけ:私は、かなり好きなお話でした。安定した構造で、大叔母さんのところに行かされたらそこに草ぼうぼうの庭があって……という展開は、いかにもクラシックなものだけれど、ここに書かれている子どもたちの変化がとてもリアルで、ちゃんと子どもが書かれているなあ、と思えたんです。姉妹で年齢に差があるせいもあると思うのですが、たとえばお母さんの死であるとか、大叔母さんの家で暮らすことになるとか、そういった出来事に対する受け止め方に差があって、そのあたりもきっちり書かれていると思います。だいたい、最初のうちの妹のわがまま放題な様子もかなりすごいけれど、こういうことってあると思うんです。ごく小さいときに大きな変化を被ると、すごく不安になって、せめて自分でいろいろなきまりを作って、それをかたくなに守ることで、自分にもコントロールできるところがある、という気持ちを持たないとやっていられない。
この姉妹の違いという点で言えば、途中でお姉ちゃんが「花になった子どもたち」のお話をしてあげると、お姉ちゃんの予想以上に妹の方が夢中になりはじめますよね。これってたぶん、一番小さな子に自分を重ねているんだろうと思うんですが、そうすると今度は、お姉ちゃんがちょっと引きはじめる。このあたりの機微もリアルだと思いました。それに、妹がぐいぐいと変わっていくあたりも、そうだろうなあと思いました。何らかのこだわりを持っていた人間が、それとは全く別のことに夢中になることで、こだわる必要を感じなくなる。また、夢中になって行動を起こすうちに、今まで人とは関わりたがらなかった人でも、他人がそばにいることをある程度自然に受け止められるようになる。そういう変化もリアルに書けている。
もうひとつ、大叔母さんの設定もリアルだと思いました。子どもにとってはいい大人なんだと思うんですが、この人は、自分にとって理解できないところの多い相手とのつきあい方を、焦ることなく探っていくでしょう。相手がわがままをいったからといって、すぐに正面衝突するのではなく、うまく流しながら相手を理解していく。そのあたりが、ゆったりしていていいですよね。それと、ティーカップ探しは読者を引っ張る一つの大きな要素なんだけれど、どうなるんだろう、真相はどうなんだろう、と思っていると、最後のあたりで、なんだ大叔母さんが仕組んだことか、ということになる。ところが最後のところで、でもひょっとしたら?という感じで締めくくっているのが、とても楽しかった。

ハリネズミ:私は、妹の変わり方が腑に落ちなくて、そこにひっかかりましたね。いろんな決まりを自分でつくっているだけでなく、気に入らないことがあったら石を投げちゃうくらいの子なのよね。病的なほど、自分でいろいろ決まりをつくっている。それがこれほどあっけなく変わっちゃうんでしょうか? 自然が子どもの気持ちをいやすというのは、『秘密の花園』にも書かれているし、昔からよくあるテーマですよね。大人は、この終わり方もいいと思うかもしれないけど、子どもは、謎が解決されないので、すっきりしないのでは?

紙魚:私も、子どもが読んだら、実際にはどうなんだろうと思います。かなり大人っぽい話ですよね。

ハリネズミ:ポットがふたつあるのはおかしいと思うのでは? 大人は、不思議でいいやと思うかもしれないけど、子どもは納得しにくい。

フェリシア:おばさんが仕込んで埋めているのだけれど、読者には、本当に埋まっていたかもしれないと思わせるようにしているのでしょうか。

クモッチ:もし、最後にポットがまた発見されないと、なんだおばさんが埋めたんだな、という事になってしまうので、おもしろくなくなってしまいますね。だから、最後におばさんも知らないポットが発見された、という終わりかたをしたのかな。ネリーは、本の世界に夢中になり、庭にのめりこむことで、花に変えられた子どもたちと、友だちになったように感じ、だんだんに心を開いていったのかな。だから、実際に近所の子たちが来たときに、抵抗なく接することができた、という感じで流れを理解することができました。

小麦:最初は「ネリーって、なんていやな子」と思ったんですけど、中盤ティーカップ探しにネリーが夢中になっていくあたりから、どんどん好きになっていきました。今まで他人に対して心を開かなかったネリーが、お兄ちゃんたちに手伝いを頼んじゃったり、どんどんたくましくなっていく。ティーパーティを再現する時も、本の通りにやらなくちゃいけないかしら? というおばさんに「クッキーでじゅうぶん」なんて、さばさば答えたりしていて、おかしいです。冒頭では、気難しく病的な子どものように書かれているけど、それは今までの事情で感情がくすぶっているからで、本来ネリーは、のびのびした、子どもらしい子なんだと思います。後半、ティーカップ探しに夢中になるにつれ、ネリーが自分らしさを取り戻していく感じがいいと思いました。
ティーカップの魔法は結局とけないわけだけど、ネリーはたいして気にしないんですよね。子どもたちが集ってパーティーがはじまり、すっかりそっちに夢中になっちゃう。最初は「こんなのあり?」って思ったんですけど、ネリーのキャラクタ?を考えると、ありえるなと。細かいことなんて飛んじゃって、目の前のものに夢中になることってありますよね。私も子どもの頃、烈火のごとく怒り狂っていたはずが、次の瞬間けろりと笑ってたりなんてこと、よくありましたし。

フェリシア:里美さんのさし絵は、素敵ですが、装丁の絵は少し古めかしい感じがします。妹のネリーについては、私も最初は病的な感じがしていました。友だちとかかわりを持てなかったり、お姉さんとしか話さなかったり、自分だけの奇妙な規則を作ったり……自閉症的な感じがしたので、てっきり自閉症の子なのだと思いました。ですので、話の途中で急速に変化していくので、あれっ?と思いました。そのあたりは、しっくりこなかったです。いちばんしっくりこなかったのは、男の子に手伝ってもらうところ。心をひらいて第三者を受け入れるということを言うがために、男の子を登場させたように感じてしまったのね。ああ、ここでネリーの成長を書きたかったんだと。また、保護者となるおばあちゃんと子どもたちの関係が、手探りで子どもとかかわっていくところ、すべて受け入れようとするしているところなど、『スリー・スターズ』とは対照的で、興味深いです。また、ネリーがまともになっていくのと同時に、ミンティーおばさんも元気を取り戻して再生していく感じが心地よかったです。

ユトリロ:筆者の視点は登場人物全てに等距離というわけではなく、姉のオリヴィアに近いんですね。ネリーは母親を亡くしたつらさをルールを決めて自分を縛ることで表現しているんだけども、オリヴィアの視点から書かれているので、妹はきっとこうなのよねという感じになっている。自分のなかでルール通りにいかないとヒステリーになるような妹を、お姉ちゃんはカバーしてあげていて、おばさんも「落とし穴に落ちちゃう」というような表現をしている。お父さんよりもおばさんの受け止め方の方がうまくて、おばさんとの関わり方のなかで、ネリーも癒されていったのかな。ところで結局、このカップはどうしたんでしょうね? おばさんが埋めたんですか? ひと時代前にこの家に作家が住んでいて、そしておばさんの家族が住むようになって、おばさんは庭の世話をしていた。そこに、母親が亡くなった姉妹がやってきた、という筋でいいんですよね。それでやっぱりおばさんがカップを埋めたという解釈でいいんですか?

フェリシア:おばあさんも、子どものときにその本を読んでいるのですから、子どものときに同じように、テーブルセッティングしていて、遊んでいたのではないですか? 私の想像ですが。

クモッチ:47ページで、おばさんが「これまでだって、いろんなものを見つけましたよ…」と言うんですよね。これ、どういう意味だったのかな。これが伏線になって、空想の世界(お話の世界)がひろがっているんだけど、ここからして、おばさんが仕組んでいたのかな?

フェリシア:でも、深くから出てきたのもあったんですよね。

小麦:でも、最初のカップはおばさんが見つけています。やっぱりおばさんがやっているんですよ。こっそり埋めて。

フェリシア:そんなに大きな問題じゃないんです。

ハリネズミ:でも、知りたい。

フェリシア:それを考えながら読むんですよね。

ユトリロ:いかにもイギリスの話かと思っていたら、アメリカの作品なんですよね。それから、邪悪な妖精っているんですか。私は「精」という言葉に引っ張られて、割合いいイメージを持っていたんですが。

ハリネズミ:フェアリーの中にも、悪いのや醜悪なのがいっぱいいるんですよね。『妖精事典』(キャサリン・ブリグズ/著 平野敬一他/訳 冨山房)を見ると、たくさん出てきます。いい妖精でも、いたずら好きだし。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年5月の記録)


ティム・ウィントン『ブルーバック』

ブルーバック

みっけ:本を見ただけで、なんとなく先入観が先に立って、環境保護の本なのかなあと思って読み始めたら、案の定、環境保護の本でしたね。別に読みにくいわけではなく、主人公の少年がブルー・バックと最初に出会うあたりの感じはなかなかよかったし、画面として取り出してみれば、けっこうきれいな箇所がいくつかあったのだけれど、最終的には印象の薄い本でした。この主人公とお母さんの暮らし方などは、たしかにおもしろいなあと思ったのですが……。104ページあたりに、自分たちは捕鯨で生計を立ててきて、だから自分たちの暮らしを支えてくれた自然を守らなくては……という話がちらっと出てきますが、白くて大きな骨がたくさん浜に林立するイメージにはハッとさせられるけれど、それにしっかり肉付けがなされるところまでいっていない気がします。なんとなく、書いてあることがこっちに迫ってこない感じで、全体としては食い足りなかった。

紙魚:前半、エイベルが海の気持ちよさや偉大さに魅了され、ブルーバックとの出会いによって、ますますそれが高まっていく過程は、とても自然に伝わってきました。海に入ったときの体感がうまく表現されているところもところどころにあり、文学的だなと思う表現もありました。ただ、後半になると、その体感が薄れます。エイベルが研究者となるあたりから、前半描かれていた、海のやさしさ、偉大さ、驚異というようなものが、環境問題等に置き換えられて、せっかくの物語の心地よさが狭まっていくように感じました。彼自身が抱く、海への感覚がもっと書かれていると、海の不思議もさらに伝わってきたのになと思います。

クモッチ:最初の、ブルーバックと出会うところは、自分が潜っていないのにそう感じられるほどで、気持ちよさが伝わってきたので、おもしろく読みました。39ページ2行目、「数秒後に、〜ドラ・ジャクソンが〜」とあるのに、つぎの行に「母さんは〜」とある。ドラ・ジャクソンって、お母さんのことですよね。読みながら、ん?ドラ・ジャクソンってだれだっけ?と思ってしまう。こういうところが何か所かあって、読みにくかったです。中盤以降については、お母さんが、「海が変わってきている」と言ったり、主人公が「海のことが知りたい」と思ったりすることは書いてあっても、何か具体的でない感じがしました。大人だったら、ああ環境破壊のことを言っているんだなとかわかるんですが、あまりに抽象的なので、最後読み終わったときに、得られたものがなかったな、という気持ちになってしまった。物語自体の印象が浅いというか。もっと、主人公の海を愛する気持ちで感動したいのに、簡単な粗筋で終わっているように感じました。

みっけ:海洋学者の人たちって、ただ研究をして実験をするだけでなく、実際に海に潜ったりするじゃないですか。おそらく、そうやって実際に海に潜ることによって、やはり自分は海が好きだ、ということを再確認しながら、抽象的だったりやたら細かかったりする研究にも耐えていくんだと思うんです。だからこの本でも、主人公が海洋学者になってから、たとえばほかの海に潜ってそこで感じたことから自分の故郷を思うとか、あるいは海洋汚染の現場で潜ってみていろいろなことを考えるとか、そういう体験を書けば、もっと物語が立ち上がってきたかもしれませんね。

クモッチ:体の感覚として、もっと伝わるといいのかな。海の生き物との出会いとか、水の気持ちよさとか。

メリーさん:本文が、直訳調でちょっと気になりました。もう少し心理描写もあったらよかったのになと思います。それでも、ブルーバックのくだりを読んで思い出したのが、縄文杉。人間よりはるかに長生きしている生き物と、ちっぽけな人間との対比。主人公が子どもの頃出会った魚に、大人になって再び会い、自らが年を重ねていくことを感じるところはいいなと思いました。そして、場面をもっと書き込んでほしかったです。

ハリネズミ:海の中の描写とか、この子が海に抱いている思いは、とってもいいなあと思って読みました。ただ筋がご都合主義的で、悪い人たちが、主人公たちが何も行動しないうちに、都合よく水産庁につかまってしまう。私は、写真を撮って知らせるとか、ここから何か運動が始まるのかな、と思ったのに。皆さんが言っているように、後半が文学というより説明になってしまってますね。お母さんの変化は主人公も感じ、読者にも伝わりますが、海をどう見ているのかは伝わってこない。メッセージ性が先に立ってしまったんでしょうか。エイベルの妻が「海にいるのと、〜どっちがいい?」って二者択一の問いかけをするんだけど、海にいながら、結局最後は科学者になるわけですよね。最初から二つを結びつけた選択だってできたんじゃないかと思ってしまいました。あと、117ページの絵が悲しそうなので、子どもが死んじゃったのかと思いました。

クモッチ:「海について話すのと、海にいるのとどっちがいい」という話題は、子どもにわかるのかな? とても大人っぽいテーマを含んでいると思いますね。

ハリネズミ:これ、課題図書なんですってね。感想は書きやすいのかもしれません。ただ本当に海の大切さを感じさせたかったら、後半にももう少しふくらみがあるとよかったですね。

クモッチ:この作者は、お母さんのことが書きたかったのかもしれないですね。

ユトリロ:日本風にいえば、このお母さんは海女なんでしょ。78ページ後半「人食いザメは、飢えと疲れで死にかけていた。見ていると哀れで、エイベルは気分が悪くなった。銃をもっていたら、船を横につけて頭を撃ちぬいて楽にしてやるところだ」の部分が、おお出た、西洋人!という感じでした。日本的にはない考え方ですね。日本人は犬が飼えなくなったらそっと捨てて誰かに拾ってもらうのがやさしさで、逆に西洋人は飼えなくなったら自分の責任で安楽死させるという考え方。まあ、サメですから日本の子どもたちも別に違和感を持たないかもしれませんが。全体としては、粗筋っぽい感じがしますね。きれいな本ではあるんですが。子どもたちが読んで楽しめるのでしょうか。課題図書って、何冊ずつ決まるんですか?

クモッチ:4冊ずつですね。小学校低学年・中学年・高学年・中学・高校で、計20冊。

フェリシア:すごくおもしろい!ということもなかったけれど、つまらなくてひどいということもなく普通に読みました。少年は、海を理解したくて研究を続けているうちに、大好きだった海からどんどん遠ざかっていってしまった。そのことに気がついて、また海に戻ってくるというあたりは、人生観としておもしろく読みました。研究を続けて海洋学者になっていくのだけど、合間に戻ってきたときに、お母さんが年をとっていくのが、印象的に描かれています。主人公は、お母さんがここで生きていくのはきついなとか、再婚した方がいいなどと思うんですけど、最後まで彼は何もしないところが、何となく違和感がありました。環境問題などの他、自分の生き方を選択していく過程、家族など、いろんなテーマもほどよく入っているので、子どもが読ませたい本として課題図書になったのかなと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年5月の記録)