月: 2008年9月

2008年09月 テーマ:小学生の日常

日付 2008年9月18日
参加者 愁童、メリーさん、みっけ、げた、ハリネズミ、小麦、ジーナ
テーマ 小学生の日常

読んだ本:

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ジェフ・キニー『グレッグのダメ日記』

グレッグのダメ日記〜グレッグ・へフリーの記録

小麦:これは、読んでとにかくおもしろかったんですよね。バカバカしいことも多いんだけど、エピソードの一つ一つがほんとにダメで笑っちゃう。クラスにおけるグレッグの立ち位置もいかにもダメ。ダサめのクラスメートを心の中で見下しつつ、実は自分もそんなに変わらないとか。かといって、クールに構えてるわけではなくて、ハロウィンに変な仮装で繰り出したり、お化け屋敷をつくったり、ギャグ漫画を投稿したり、いろいろがんばっている(笑)いろいろな本がありますけど、こういうスコーンと突き抜けたユーモアのある本って絶対必要だし、子どもたちにも読んでほしいな。私自身、くよくよと落ち込んでいる時に救ってくれるのが、どうしようもないコメディだったりするんですよね。やっぱりおなかの底からの笑いっていうのはパワーがある。笑いの効能を実感させてくれる本でした。

げた:どっちかっていうと、私、まず横書きだっていうのと、コミック的な挿絵っていうのが、ちょっと苦手なんですよ。マンガはダメな方なんで、最初ちょっととっつきにくい感じだったんです。相手を骨折させちゃうとか、ハチャメチャなところのおもしろさっていうのがだんだんわかってきました。

小麦:しょうもないことが多いですもんね。

げた:そうなんですよね。でも、こういうのがあってもいいかなって。

愁童:おもしろかったですね。日本でも、こういう子ども目線の作品がもっとあるといいな。挿絵も楽しいし。

ジーナ:たかどのほうこさんの低学年ものは、そういうところあるんじゃないですか? でも、全体的に見ると数は少ないかな?

メリーさん:これもまた違った意味でおもしろかったです。『クレメンタイン』の方は素直で純真なところから出るいたずらだとすると、こっちはちょっと悪知恵が働いているといった感じ。自分自身の小学生時代を思い返して、クラスの中に、こんな憎めないけれど、悪い子っていたなと思いました。ばかばかしいけど楽しい。痛快な感じがしました。

ハリネズミ:私はうまく入り込めなくて、楽しめなかったんです。学校が舞台の翻訳ユーモア作品って、制度も日常感覚も日本の子どもと違うから、ちょっと外すと笑えない。訳も難しい。p170の禁煙ポスターの一等賞作品なんて、どこが楽しいかよくわかりませんでした。生徒会の選挙で相手の中傷をポスターに書くとか、票集めのためにキャンデーを配るとか、体育でレスリングをやるなんてとこも、日本の状況と違う。だいたいグレッグって何歳くらいなんでしょう? 小学校の5、6年生なのかなって思ったんですけど、絵を見ると、同級生にもっと大きい子もいるみたいだし。でも、それにしては「おまえのかあちゃんデベソ」なんて幼児しか言わない表現とか、「チーズえんがちょ」なんて低年齢向きの言い方が出てくる。違和感があります。それに、グレッグがロウリーにぬれぎぬを着せて平気でいるところとか、フレグリーの家で気絶して朝帰りしてるのに親はちっとも心配してないところとかも、気になっちゃって。そんなことをあれこれ考えてしまうと、ちっとも笑えませんでした。考えなきゃよかったんでしょうけど。原書は書き文字みたいな字体で、人の日記をのぞいている感じなんだけど、日本語版は明らかに印刷文字っていうのも、どうなのかな? 一所懸命笑わそうとしてるのに、私にとってははずれまくって白けちゃった、という作品でした。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年9月の記録)


サラ・ペニーパッカー『どうなっちゃってるの!? クレメンタイン』

どうなっちゃってるの!? クレメンタイン

みっけ:この本は、読んでいて楽しかったです。この本がいいのは、主人公がかなりハチャメチャをやって、友達の髪の毛を切っちゃったりするんだけれど、相手もそれをすごく嫌がっているとか、一方的に被害を受けていると感じているっていうわけではないところだと思います。傍から見たらクレメンタインの方がすごいことをやるんだけれど、かといって、友達のマーガレットから完全に浮いているわけでなく、ちゃんとふたりで楽しく過ごしているっていうところが、読んでいて気持ちがいいんですね。お父さんやお母さんも、困ったなあと思っているところがないわけではないんだけれど、でも、クレメンタインと上手につきあっていく。たとえば、真夜中の鳩撃退大作戦を始めたり。しかも、クレメンタインがいつも用事を頼まれているおばさんのところにいったことから鳩問題が無事解決、なんていう展開もうまくできているし。そこがいいなあって思いました。前にこの会でジャック・ガントスの『ぼく、カギをのんじゃった!』を取り上げたことがあって、あのときに、たとえばADHDとかLDとか診断をつけてしまうことの持つマイナス面が話題になりました。あのとき私は、でも、クラス担任としては……というようなことを考えていて、診断をつけたり、薬を使ったりするのもある程度必要なんじゃないかな、と思ったりしたのですが、このクレメンタインを読んで、そのあたりのことを改めて考えさせられました。こういうふうに、みんなと接点を保ちながらごく自然に成長できるのならば、診断とか薬に頼らなくてもいいのかな……というふうに。一斉授業を粛々と進めようとする先生にとって、この子は明らかにお荷物になるんだろうけれど……。それと、この本は、外からは集中力がないと見られているクレメンタインが、実は本人の理屈で言えば集中しているんだ、ということや、周りにどう思われようとかまわないようなことをしているように見えて、ちゃんと親のことなんかを気にしているんだ、というあたりがちゃんと書かれていて、クレメンタインの気持ちがとてもよくわかる。それがよかったです。クレメンタインが、自分があまりにもトラブルを起こすものだから、家族にやっかいばらいされるんだと思いこみ……という展開で最後の最後まで冷や冷やさせて、でも実は大はずれでハッピーエンドというのも、いい読後感につながっているのでしょうね。始めから終わりまで、ケラケラ笑って読みました。おもしろかったです。

ハリネズミ:私もこれは、今回の3冊の中でいちばんおもしろかった。『グレッグのダメ日記』はおんなじように書かれているんだけど、翻訳がちょっと。これは、前沢さんの翻訳がはまっていて、楽しいし、おもしろいし、子どもが読んでも愉快でしょうね。短いお話の中に一人一人の特徴もよく出ています。たとえば、きれい好きのマーガレットは、トイレにすわりこんですねている時でも、お尻の下にペーパータオルを何枚も重ねてる。そういう部分が、おかしいと同時に、その人物を端的にあらわしてもいて、うまい。クレメンタインはおおまじめなのに、まわりの大人と噛み合なくて事件を引き起こしてしまうんだけど、読者が主人公に共感できるように、ちゃんと書いてある。だから、「問題児だけど理解してあげなくちゃ」じゃなくて、愛すべき存在としてうかびあがってくるんですね。クレメンタインの観察力の鋭さも随所に表現されてます。「校長先生は、『おこらないようにがまんしてるけど、そろそろげんかいです』っていうちょうしでいった」(p20)とか「ママのねているところは、あまいシナモンロールのにおいがするんだ。パパのねているところは、まつぼっくりのにおい」(p59)とか。両親は、この子のおかげで大変な思いもしてるんでしょうけど、ちゃんとこの子の個性を評価して、この子も両親を信頼している。そこもいいですね。それに、あちこちにユーモアがあるのが最高。楽しいし、翻訳もいい。現代の「ラモーナ」(ベバリイ・クリアリー著 松岡享子訳 学習研究社)じゃないかな。しかも、「ラモーナ」より短くて、今の子には読みやすい。中学年くらいにお薦めできる本が少ないなかで、これはお薦めです。

小麦:このところ学校と合わない子どもの話が続いていて、ちょっと食傷気味だったんですけど、クレメンタインはのびのびと明るくて、楽しんで読めました。訳文が、クレメンタインのキャラクターにぴったり寄り添っていて、とてもよかった。小学生の語彙で、さらに、いかにもクレメンタインみたいな子が使いそうな言葉がちゃんと使われています。P12の「そのとき顔を見たら、目のあたりがキュッってちぢこまって、『あとちょっとで泣きます』っていう目になっていた」とか、P65の「とがった物を消すには、丸っぽい物を見るしかない」とか、うまいなーと思う箇所がたくさんありました。クレメンタインも、私にはそれほど困った子には思えなくて、ごく普通のことを普通にやっているのに、なんで大人はわからないの?って困惑する感じが愉快で楽しかったです。先生のスカーフの卵のしみをじっと見て、ペリカンみたいに見えるのを発見したり……こんなこと、私も子どもの頃よくしてました。

げた:私もみなさんがおっしゃっているようなことを思いながら読みました。挿絵もいいなと思いました。内容にぴったり合っていて、イメージを与えてくれてますよね。「ラモーナ」に似ているなと私も思いました。「ラモーナ」が最初に出てきた頃より、日本とアメリカの生活様式が似通ってきて、日本の子どもたちも、違和感なく読めるんじゃないかな。

愁童:日本の作家も、「子どもだって絶望する」なんて書いてないで、クレメンタインとかグレッグみたいな、自由闊達な子どもを書いてほしいな。去年楽しい体験があったんです。水を引いてる田んぼに、2年生の子たち2人が飛び込んで遊んでるんですよ。子どもって、そういうところがあるんですよね。大人は、それができる環境を与えてやりたいですよね。

メリーさん:この3冊の中では『クレメンタイン』が一番おもしろかったです。とりたてて大きな事件は起こらないけれど、ストーリーの展開がいいし、主人公と彼女をとりまく友達と家族がとてもいい。あっという間に読んでしまいました。クレメンタインのような子どもは、大人やほかの子どもたちからすると、一見、どうしてああいう行動をしているのか理解しがたいんでしょうけど、本人としては、きちんとつじつまがあって、彼女なりの考え方にしたがって動いている、っていうことがよくわかる。彼女の頭の中の種明かしを見ているみたいでした。弟をかわいがる(?)ところは、おなかをかかえて笑いました。著者紹介も凝っていてよかったです。

ジーナ:おもしろかったです。ユーモアの質がよいというのか、気持ちのいい笑いでした。この子は日本の学校に入っていたら、もしかすると「他動」だとか「ADHD」だとかいわれるような子かもしれないんですけど、両親はこの子の感性をしっかりと受けとめて、この子を無条件で認めていますよね。だから、子どもがのびのびと安心していられる。それがとてもすてきだと思いました。

愁童:訳文が軽快で、ぴったりだよね。うまいね。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年9月の記録)


大島真寿美『ふじこさん』

「ふじこさん」(『ふじこさん』所収)  

愁童:3冊並べると、取り合わせの妙でおもしろかったんですけど、この作品は積極的にコメントしたいような内容じゃなかったな。子ども向けじゃないものね。小学校6年生の子が読んでも、好きになれないんじゃないかな。

ハリネズミ:子ども時代を書いた本は必ずしも子どもの本ではないんで、これは大人の本ですよね。大人から子どもの時代を見てる。ふじこさんっていう個性的な人と出会って、成長したということを、大人になってからの目線で、大人の文体で書いてる。ふじこさんが魅力的な人だというのは伝わってきましたけど。私もこの会で話し合う本ではないと思い、それ以上考える気になりませんでした。

愁童:「子どもだって絶望する」なんて書かれても困っちゃうよね。

ハリネズミ:「子どもだって」って、この「だって」にひっかかりますよね。私は、子どもの方がよっぽど絶望すると思うから。だって、時間的にも空間的にも大人より自由度が少ないでしょ。ほかの2冊に比べると、この本は、子どもに対する認識度が違いますね。

みっけ:こういうふうな息苦しさを感じている子どもは、今までにもいっぱいいたろうし、今もいるんだろうと思います。それと、このふじこさんは、親や教師以外の大人、一昔前の映画や物語でいうと、ちょっと無責任的なところがあったりして、その分自由で外の風を運んできてくれる独身のおじさんやおばさんみたいな存在なんだろうな。この本を読んで、すごく嫌だ、とまでは思わなかったんですけれど、なんか、日本の子どもって勢いないなあ、という感じはしました。この子は疲れていて、しかも、自分でなにか積極的に動くわけでもないでしょう? ふじこさんに会ったのだって、すごく強い気持ちがあって出会ったのではなく、非常にネガティブにふらふらしていて、いわば偶然に出くわしたわけだし。大人を斜に見ていながら、自分は積極的なアクションに出ていない。こう子の物語を読んでも、今渦中にいる人は、そんなにおもしろくないだろうなあ、という気はします。

ジーナ:両親が別居中に、お父さんのつきあっている女性が現われて、これまでの価値観をくつがえすような衝撃を与えるという設定が、長嶋有の『サイドカーに犬』(『猛スピードで母は』に収載 文藝春秋社)と似ているなとまず思いました。みなさんがおっしゃるように、私はこれは大人が読む作品だと思ったし、そうだとすると『サイドカー〜』のほうがおもしろかったです。学校も家庭もたいへんだと書かれていて、結果として絶望していると言葉では言っているけど、具体的にどういうことがあったかはあまり書かれていないから、感覚的で胸に迫ってこないんですよね。それに、ダンナをこきおろしてばかりで子どもを見ていない母親や、鈍感な父親を、そういうものだと決めつけて描いているところが、似たような世代の子を持つ者としては不愉快で、子どもに手渡したいと思いませんでした。

メリーさん:子どもが共感するかというと、ちょっとむずかしいかなと思いました。ただ、この著者の初期の作品は、女の子の気持ちによりそっていて、共感できるものが多かったなと思うのですが。個人的には、このような世界はけっこう好きで、著者の言おうとしていることはわかる気がします。「ふじこさん」という名前から、きっとおばあさんだろうと思いながら読み進めたのですが、見事に裏切られたのもおもしろかったです。「絶望」という言葉が議論になりましたが、自分の進むべき方向がわからない、というくらいの意味だと思います。主人公が、自分の道を模索しているときに、突破口としての大人。自分と違う魅力を持っていて、主人公を子ども扱いせず、対等に見てくれる人。やっぱり出会いというのは宝物なのだ、という実感がよく伝わってきました。

げた:みなさんおっしゃったように、子ども向きの本ではないと判断して、私の図書館では一般書の棚に置いてあります。いきなり「子どもだって絶望する」なんて、衝撃的なんですよね。自分は子どものころこんなこと考えてたかな、自分の子を見ても、こんなふうじゃないとは思いますね。でも、確かに学校と塾のだけの生活の繰り返しで、身勝手な親たちに振り回されてると、考えるのかな? 創作だから、極端につくってるんだろうけれど、一般的な雰囲気としてこんなのがあるとすると怖いな。小学生は読みたいとは思わないだろうし、中学生、高校生でも、どうかな。生きる力を与える本にはならないと思うな。

小麦:他2冊とはまるでちがう1冊。アメリカの能天気な小学生に比べると、日本の小学生は息苦しそう……。まあ、この作品は、主人公が大人になってからの回想というスタンスで描かれているので、比較にはなりませんけど。好きだったのは、ふじこさんがイタリアの椅子と出会って、夢に向かって留学することを主人公に打ち明けるシーン。この時のふじこさんはきらきらぴかぴかと光っていて、主人公はそのまぶしさの前に、夢を見つけて光りだした人の前では、どんなに自分がふてくされようが、駄々をこねようがなんにもならないと悟るんですよね。自分だけの宝物を見つけ、自ら人生を切り拓く希望のようなものが、おしつけがましくなく提示されていて、すごくいいと思いました。ふじこさんの造型も、風変わりすぎず、自然でいいと思いました。私の周りの友だちなんかに、いかにもいそうな感じ。

(「子どもの本で言いたい放題」2008年9月の記録)