月: 2009年6月

2009年06月 テーマ:受賞作を読もう

日付 2009年6月11日
参加者 サンシャイン、メリーさん、げた、うさこ、カワセミ、クモッチ、ショコラ、ハリネズミ、ササキ
テーマ 受賞作を読もう

読んだ本:

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宮下すずか『ひらがなだいぼうけん』

ひらがなだいぼうけん

げた:第一話「い、ち、も、く、さ、ん」がとてもよかった。絵がいいですよね。文の内容を理解するのに、とてもいい効果になってます。言葉と楽しく遊べる本はたくさんあったほうがいいので、私はお薦めできる本だなと思とました。

うさこ:ひらがな文字のもじならべ、もじで顔の七変化など3話ともそれぞれうまい構成でできているなと思いました。49ページの「へっくしょん」のところがちょっと説明的すぎるかな。69〜70ページももう少しおもしろくできたのかな、とちょっと残念。印象的だったのは、絵の見せ方。絵と文がうまく構成されている。文字がしゃべっているところなど、デザイン的にうまく処理されていて、絵にしづらいところなど描きすぎず、説明的にならずに、とてもよく考えられて絵を配置している。ただ、26〜27ページなど、異国の感じがします。日本語や、日本のことばをあつかった作品なので、もっと和風な感じのほうがよかったかな、とも思います。

カワセミ:この本は、小学校でちょうどひらがなを全部習ったばかりの子にとっては、とてもおもしろく読めるのではないかと思います。幼年童話というのは、まじめすぎておもしろみがなかったり、逆にあまりにもくだらなかったりして、薦めたい本がなかなかない分野なんですけど、この本は、このおしゃれな感じがなかなかいいと思いました。字を覚えはじめた子どもって、文字を形としてとらえるところがあるので、そういう興味によく沿っている。「へ」と「く」が似ているとか、「わ」と「れ」を間違えやすいということは実感があると思うのでおもしろく読めると思います。ただ、「さ」を反対にすると「ち」になるというところは、わかりにくいのではないかしら。「さ」は続けて書く形では習わないので、おかしいと思うのでは? また、「ピーターパン」が「ピーターペン」になってしまうところ、ひらがなの話なのに、ここだけカタカナだからおかしい。ひらがなの文字を文中でも描き文字にしてあるのはわかりやすくてよかった。

クモッチ:NHKのニュースでこの本がとりあげられ、「メールなどで人を傷つけることが多くなっている中で、ことばの楽しさを伝えたい」という内容の作者の言葉が紹介されてました。そういう意図があったんですね。小学生向けの学年雑誌では、ひらがなを子どもに楽しんでもらうための企画として、こういうことはよくやるので、それほどアイデアを新しいとは感じなかったんですが、これが読み物の単行本の企画として成り立つんだというところが新鮮でした。「さ」と「ち」のところは混乱するのではないでしょうか。ひらがなの習い始めでは、鏡文字を書きやすい時期なので、その時期に読む本を作る人は、もっと気をつかわなければならないのでは? 本の背に文字がかくれてしまうというアイデアは、いまいち。たとえば、「はだかの王さま」の「の」だけが黒い文字なので隠れていることがわかる、とありますが、他のところの挿絵では、隠れている文字が黒くないので、なんでかな?と思います。また、「く」の上に「へ」がくっついているが、疲れてきて「へ」に戻ってしまったとありますが、そしたら「へ」と「く」が重なって見えるのではないかな。重箱の隅をつつくようですが、こういうところがきちんとしていないと、子どもだって疑問に思うのではないかしら。

ササキ:文字が視覚的に動いているという効果があって、おもしろかったです。

サンシャイン:さっと読んでしまいました。小学校1、2年の子向きに書かれた作品ですね。教育的効果も考えて作られているのでしょうか。

ショコラ:「へのへのもへじ」タイプの変形がいろいろあっておもしろいです。発想がすばらしい。挿絵の色が落ち着いたトーンでまとまり、絵と文のハーモニーがとってもよく、楽しみながら読めました。文字だけのページがありますが、他のページに比べると、ちょっと1年生には無理かも。話題になっている「さ」の形は、学校で習う教科書の文字とはちがいます。「さ」を教えるときは、左の部分を離して教えるので、「さ」と「ち」は鏡文字にはなりません。そういうところは、とても残念です。

メリーさん:文字そのものが動き出すというアイデアがおもしろいなと思いました。幼稚園のとき、鏡文字をすごくうまく書く友人がいたのですが、小さな子どもはひらがなを文字としてよりも絵として見るのだな、とつくづく思いました。内容では、「へっくしょん」「へのへのもへじ」がおもしろかったです。欲をいえば、最初の物語で、文字があわてていて、最初の文章と変わってしまうところ、意味の違う別の詩になっていれば、なおよかったなあと思いました(むずかしいとは思いますが)。

カワセミ:1年生では少し無理で、ひらがな全部をマスターしたあとの子が読むとおもしろいのかも。2年生くらい? 自分はわかっているから、「これ違うよ〜」って優位に立てる。

げた:幼年童話はキャクターが強烈すぎるものが多いので、こういったものがあるのはいいですね。

ショコラ:この女の子のポニーテールがいつもぴんと上にあがっているのは、子どもに受けるのかもね。

メリーさん:らっちゃんって、本名は何なんでしょう? らで始まる名前、あんまりないですよね?

カワセミ:らっちゃんって、字づらも音のひびきもかわいくていいね。

(「子どもの本で言いたい放題」2009年6月の記録)


サリー・ニコルズ『永遠に生きるために』

永遠に生きるために

サンシャイン:いい本だと思いました。内容は重たいし、結末も見えているけど、誰にも答えてもらえない質問をはっきりと書いてあります。大人も含めて誰でも持つ質問だし、そこが丁寧に列挙されていると思いました。それまでは、息子の死という現実に向き合うの避けていたお父さんが、息子と心から話し合い、息子の望みだった飛行船に乗せてあげるよう取り計らう。息子の心に寄り添っていくところが、感動的でした。ただ、主人公のキャラクターとして納得できる作品になっているのかどうか、人物描写については疑問の所もあります。死を扱った内容としてはいいという評価です。原題からいうと、どうやったら生きられるか、永遠に生きるための方法、という意味なのでは?と思うと、永遠に生きるために、という日本語訳に違和感を覚えました。

ショコラ:すごくきれいな感じ。おもい内容なのにさらりと書かれ読ませるところがすごいと思いました。目次がとても細かくわかれていたり、興味をひくリストがあったりなど工夫がありました。「死後どうなるんだろう?」など、子どもたちが読むと、受け止められる部分がいっぱいあるのではないかと思いました。外国の作品だからさらりと読めるのでしょうか。死を迎える部分では涙が出ました。この作品のように人は亡くなるんだという現実味のある作品として読みました。

メリーさん:病気と闘う子どもの物語は、フィクションでもノンフィクションでもこれまでたくさん出版されてきています。この本は他の作品とどう違いを出しているのか、というところに注目しながら読みました。書き文字が随所にあって、主人公がノートに書きつづったものを読者も読んでいる、という形にしたところは新しい点なのかなと思いましたが、内容的には、あまり目新しさはありませんでした。物語の最後で、家の外に出て星を見ることで、宇宙に行ったつもりになる、そういう、子どもの発想の転換で世界が変わって見えるというようなことを、もっと描いてほしかったです。

げた:子どもが先に死んでいかなければならない不条理な出来事を、深刻で重たくならないようにするため、子どもの書いた物語風の日記というスタイルによって、つづっていくという試みがうまくいっていると思います。感傷的になり過ぎず、科学的に突き止めようとしている少年を通して、死というものに正面から取り組んでいる作品ですよね。中学生くらいが主な読者だと思うんだけど、生や死を考えるきっかけになるんじゃないかな。

うさこ:この作品、フィクションですよね。本当にあった話をもとに書いたわけではないですよね? 最初7ページの6行で、もうこの話の内容と結末は明示されている。読者としてはこの6行の行間というか中身を読むんだと思って読み始め、結末はどう処理するのかな、と思っていたら、最後…304ページを開いたときのインパクトは強かった。でも、読み終えて、作者はどうしてこれを書きたかったのかな?と、よくわからなかった。未成年の死を見つめることで、生と死、生命、生きていくことの理不尽さを作家が哲学的に、または科学的にあるいは精神世界観として自分で自分に問いかけ、たどりついたのが、この作品を書くことにつながったのかな、と私なりに解釈したんですが…。
小タイトルの日付があるところとないところの区別がはっきりしていないのも気になりました。日付があるところは、明らかにその日のできごとを綴った日記として読めるのだが、日付がなくても日記的なところがあるし、回顧風につづったもの、おばあちゃんから聞いたおじいちゃんの死後の話という非科学的なもの、ぼくの願望、魂の重さを計った医者の話しという科学的なもの、「死ぬってなあに」など哲学的なものなど、この日付のない章がどういうもの位置づけなのか、私としてはすっきりしなかった。

カワセミ:読んでいて、とてもつらかった。うまく作られているとは思うけど、これはドキュメンタリーではなくてフィクションですよね。こういう境遇の子どもがここまできちんと頭の中を整理できるものなんでしょうか? まっこうから死に向かっていくことができるんでしょうか? フィクションとしては、どうなんでしょう? 訳者あとがきに「これは『サムの書いた』本。でも、お気づきですね? ほんとうは『サムの書いた本を書いた』人がいるのです。」と書いてありますが、これは言っちゃいけないでしょう。フィクションのいいところは、たとえ作り物であったとしてもそう感じさせずに、読者が本当にその登場人物がいるように思って心を寄せて、体験を共有できるところにあると思うので、あとがきでこんな言葉は不必要。つらい物語ですが、救いとしては、おばあちゃん、ウィリス先生、看護師のアニーの3人が、変に病人扱いしないで、対等に扱ってくれる頼もしい大人だったこと。子どもにとっては安心感になると思う。父母は、弱い面を見せてしまい、主人公のほうが逆に気をつかってしまうところがあったので、この3人の存在には救われました。

クモッチ:こういう分野の本は、自分の趣味では選ばない類の本なので、免疫がなく、よって、読むのがつらく、また衝撃的でした。特に、おばあちゃんが先に死んだ友達の遺体を一緒に見に行こうというところはとても重要だし、インパクトがありました。また、お父さんが主人公とともに生きようとしはじめるところは、よく描かれています。家族が同じベッドに寝るシーンは涙が出ました。病院で死を迎えることが多い中で、つらいけれどもいい場面だと思ったんです。以前に哲学の本を読んだときに、「死を考えることは生を考えることである」と書いてあって、あまりの飛躍によくわからなかった経験があるんだけど、この本を読んでみると、それがどうしてなのかよくわかる気がしました。

ハリネズミ:私たしはひねくれた人間なので、みなさんほど感動しませんでした。4月12日の日記(p303)の最後で「眠りに引き込まれていった」とあって、その後「サムは永眠しました。4月14日の午前5時30分ごろ」と、親が書いている体裁になっているので、サムはこん睡状態のまま死んでしまうんじゃないのかな。でもね、もう一度よく見ると、冒頭に「これは、ぼくの書いた本だ。月7日に始まって、4月12日で終わる」って書いてある。サムは最後の日記を書いたあと、意識を取り戻して、冒頭のこの文章をつけたってこと? 後書きを見たら、著者が大学院の創作文学科で書いた作品だと書いてあったんですけど、内面的な必然性もあまりないままに、「読ませてやろう」というあざとさ前面に出てしまっているように思って、私は気分よくなかったですね。訳もいまいち。たとえばp257に「リスト その9 ぼくのベストテン」というのが、現在形で書いてあるんですね。だけど、ここはサムが今までやってきたことの中でいちばん楽しかったこと、っていう意味なんでしょうから、過去形にしたほうがよかった。それに、同じリストのことがp255には「〈気分は最高〉」となっているんだけど、同じ名前にしないとまずいわよね。p280の「エラは、よい子のブラウニーの、いつもの仕事にとりかかる」も、これだけではよくわからない。

ササキ:私は、純粋に11歳くらいで死んだらどうなるんだろうと思って、とてもおもしろく読みました。死を扱う作品はたくさんあると思いますが、同世代の子たちはどう読むんでしょう。

げた:リストと質問が、本当に親としては身につまされましたね。特に、「ぼくのやりたい8つのこと」の中に「高校生になること」ってあるのにはぐっときましたね。

メリーさん:主人公がインターネットで調べてというくだりがありますが、作者自身も案外そんなところから入ったのではないか、ということが透けて見えました。

(「子どもの本で言いたい放題」2009年6月の記録)

このやりとりに対して、訳者の野の水生さんから抗議のメールをいただきました。ここにご本人のご希望に沿って全文を掲載させていただきます。
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こんにちは。『永遠に生きるために』の訳者です。
迷いましたが、みなさまのご批判に対し、訳者として、思うところをお伝えすることにいたしました。さくまゆみこさんのホームページ、しかも、子どもの本におくわしいプロのかたがたの座談会の記録とあれば、読まれたかた(子どもたちも読むでしょう)への影響力は小さくないと存じます。とくに、ハリネズミさんの例に見る、具体例を挙げての批判の言葉は、それがじつは的はずれなものであっても、読者に対し、奇妙なほどに説得力を持ちますので。

*サンシャインさん。ご承知と思いますが、どんなジャンルの本であれ、邦訳版のタイトルは、原題の<日本語訳>とはかぎりません。原題からかけ離れた邦題になることだって、めずらしくはないのです。<原題からいうと〜という意味なのでは? と思うと、永遠に生きるために、という日本語訳に違和感を覚えました>とのお言葉に、わたくしは違和感を覚えました。また、邦題は、訳者の一存で決められるものではなく、出版社側(編集以上に営業)の意向が非常に強く働きます。もし、「この邦題は、このものがたりを言い得ていない」とのご批判なら、少なくとも言葉の矛盾はありません。でも、「永遠に生きるために」は、サンシャインさんのおっしゃる「どうやったら生きられるか」「永遠に生きるための方法」いずれの意味をも含んではおりませんか? わたくしは、この邦題にしてもらってよかった、と思っています。

*ショコラさん、メリーさん、げたさん、ご感想、ありがとうございます。

*うさこさん。<作者はどうしてこれを書きたかったのかな?と、よくわからなかった> わたくしも、うさこさんと同じです。原書を手にしたときから、とまどいがありました。訳しながらも、作者への釈然としない思いがつねに心にありました。「フィクション」と「病を得て死にゆく子どもの日記帳」の取り合わせを、作者のその選択を、なぜ? と問わずにはいられなかった。でも、登場人物ひとりひとりを愛しく思い、その体温までも身近に感じ、わたしのなかで、サムやみんなは、たしかに存在しています。だからそれでよいのだ、と思えるようになりました。
日付のあるところとないところの区別については、サムが最後に、一冊の本になるよう、一生けんめい編集をほどこした、とだけ申し上げておきますね。p279「ぼく、ウィリス先生と、この本のことでちょっといそがしかったんだ。リストや日記やものがたりをどういう順にならべるかを、相談しながらきめていた。」

*カワセミさん。<ドキュメンタリーではなくてフィクション><フィクションとしては、どうなんでしょうか?>というお言葉と、<フィクションのいいところは>に続くお言葉が齟齬をきたす、とわたくしには思えてしまうのですけれど、おそらくは、訳者あとがきの件とはべつに、カワセミさんは、このお話に、<本当にその登場人物がいるように思って心を寄せて、体験を共有>することはできなかった、ということでしょう。
訳者あとがきの件について。「これは『サムの書いた』本。でも、お気づきですね? ほんとうは『サムの書いた本を書いた』人がいるのです。」この部分だけ取り出して提示されたら、たしかに、なんだそれ? ことさらになにを言うか、とわたくしだって思います。カワセミさんの感想を読まれたかたも、みなさん、びっくりされたでしょう。が、文脈というものがあります。全体というものがあります。この直後に来る文章は、「その女性、サリー・ニコルズさんのことを、少し述べておきましょう。」訳者あとがき後半の、作者紹介への導入です。著者紹介を避けるわけにはいきません。デビュー作であり、新人ですから、なおのこと。また、本文と訳者あとがきのあいだには、著者による「謝辞」があります。このものがたりが生まれる過程でお世話になった人々への感謝の言葉がならんでいます。謝辞原文の最後には(邦訳版では省きましたが)、サムの手書き文字を書いてくれた人、その他の手書き文字を書いてくれた人、サムの描いた絵、エラの描いた絵、父さんの描いた絵を実際に描いてくれた人々への感謝の言葉すらあります。これはつくりものです、作者は私です、と言っているようなものですね。お話がお話だけに、この謝辞は余韻を損なう、邦訳版では不要では? との判断のもと、出版社が割愛の申し入れをしましたが、著者の了解を得られませんでした。でも、フィクションであり、作者がいるということは、本を手にしたそのときに、読者は了解しております。そのうえで、作品世界にどっぷりつかって、登場人物と泣いたり笑ったりするのです。ですから、<これは言っちゃいけないでしょう。フィクションのいいところは、たとえ作り物であったとしてもそう感じさせずに>云々のお言葉は、訳者あとがきの「部分」だけを取り出したうえに、無関係の二つのことを理不尽に関連づけておられる、とわたくしには思えます。

*クモッチさん。わたくしも、<自分の趣味では選ばない類の本>かもしれません。その本を、こんなふうにまっすぐ読んでくださって、ありがとうございました。

*ハリネズミさん。<サムは最後の日記を書いたあと、意識を取り戻して、冒頭のこの文章をつけたってこと?> 当然です。そうでなければ、このものがたりは成立しません。読者がそこを見逃さないよう、訳者あとがき冒頭に、巻頭のサムの言葉を持ってきました。「巻頭に置かれたこの言葉が、いつ、どのような覚悟のもとに書かれたものか、おしまいまで読まれたかたはお気づきでしょう。ひとつの命が、旅立ちの時を悟って、最後の最後に記した思い……。」と書きました。それでもなお、こういう疑問をいだかれてしまうのか、と愕然とする思いです。しかも、子どもの本のプロの読み手(書き手?)であるかたが。 さらに申し上げるなら、かりに巻頭の言葉がなくっても、4月12日の日記は、実際に「眠りにひきこまれていった」あと、ふたたび目覚めて、そして書かれたものなのです。そのまま昏睡状態に陥ったなら、両親とベッドにいる様子も、最後の一文「ぼくはふたたび目を閉じて、眠りにひきこまれていった。」も、書けるわけがないですから。巻頭の言葉は、4月12日の日記を書いたあとで(すぐに書いたか、また少し眠ったあとで書いたのか、はわかりませんが)、最後の力をふりしぼって、サムが記したものなのです。
p257の「リスト その9 ぼくのベストテン」の件。<ここはサムが今までやってきたことの中でいちばん楽しかったこと、っていう意味なんでしょうから、過去形にしたほうがよかった>とありますが、サムはまだ生きています。また自転車にも乗れる、飛行船も操縦できる、そうした思いが現在形にこめられていることが、おわかりになりませんか? リストの最後、「どんなことでもぼくならできる、と感じること。月へだって行けるんだ、と」 これも、「感じたこと」と過去形にすべきである、と、本気でお思いになるのでしょうか。(ちなみに、10のリストのうち、原文が過去形のものは過去形、現在形のものは現在形で訳してあります。)
<同じリストのことがp255には「<気分は最高>」となっているんだけれど、同じ名前にしないとまずいわよね。> いま一度、ご確認ください。p257とはまったくちがうリストです。p255の本文では、ぼくの飛行船体験<気分は最高>第一位〜三位が挙げてあるのです。
<p280の「エラは、よい子のブラウニーの、いつもの仕事にとりかかる」も、これだけではよくわからない。>の件。この文章だけ取り出されたら、たしかにわかりにくいですね。が、「いつもの仕事」がどんなものかは、すぐに描写が始まりますし、ブラウニーについてなら、p50に、「エラは、ブラウニー−−ガールスカウト年少組−−の精神で、かいがいしくお手伝い。母さんにティッシュをわたす。」との説明が、すでにあります。読み飛ばされたのでしょうか。
ご自分の読み方にこそ問題があるというのに、具体例を挙げて的はずれな批判をしたうえ、「訳もいまいち」と切り捨てる。たとえ内輪のおしゃべりでも聞き苦しいかぎりですが、不特定多数にむけて発信されるネット上でこれほどまでの無責任な物言いをなさることに、ただただ恐怖を覚えます。チェックもせずに掲載されたさくまゆみこさんの責任をも問いたい。

*ササキさん。わたくしも、同世代の子どもたちはどう読むのかしら、と、そこがいちばん気になります。ご感想、ありがとうございました。
不特定多数にむけたネットの世界。批判の対象とされる者のみ名前を出され、批判する側は匿名というのは、アマゾンのたぐいなら致し方なくても、このような場では、明らかにアンフェアであると存じます。しかも、公開されるのは、ときに悪意やおごりを感じる内輪のおしゃべり。いやしくも言葉をなりわいとしておられるのなら、いずまい正し、本名を明かし、緊張と覚悟をもって他者の作品に向き合われ、言葉を発信されますように。
さびしい、と感じます。
2010年1月8日  幸田敦子(野の水生)

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◆これに関してですが、掲載責任者のさくまから一言申し上げます。私は、この読書会は「言いたい放題」と敢えて名づけているように、その場では何でも言えるようにしたいと思っています。とくに、今の児童書界では内輪ぼめも多く、言いたいことも言えないでいる雰囲気もあり、その中では「内輪のおしゃべり」が果たす役割もあるかと思っています。また自分がいいと思う本でも他の人は否定的だったり、その逆だったりすることはしょっちゅうあります。おかげで本の読み方は人それぞれだという当たり前のことに気づいたり、自分の読み取り方が不十分だったことに気づいたりするいい機会にもなっています。
◆参加者は、書評をする時と違い、1回しか読んでいない場合も、あるいは途中までしか読んでいない場合もありますが、その場合でも、その時点での感想を述べております。また、たとえば肯定的な意見が続いた場合は、次の発言者が、敢えて引っかかる点について述べる場合もあります。ただし、どんな場合でも悪意やおごりから発言している人は、私が知るかぎり一人もいません。
◆また「言いたい放題」の一方では、どんな本でもかかわる人たちは一所懸命につくっているのだろう、という思いもあり、掲載時には客観的ではない意見とか事実と違う点などは気をつけてチェックしてきたつもりでした。ただ、今回そのチェックが十分でなく、不適切な表現のままで出てしまったことに関しては野の水生さんにおわびをいたします。不適切な部分は削除あるいは訂正したほうがよいかとも思いましたが、野の水生さんは「一字一句そのままに」掲載しておくよう言っておられますので、敢えてそのままにしておきます。
◆野の水生さんは、このページの影響力を過大評価してくださっているようですが、力のある本は、どんなところで何を言われようと多くの読者を獲得していきます。私個人のささやかな経験で言うと、日本最大の購読者をもつ大新聞の書評で、私の訳した絵本の訳がよくないと批判をされたことがあります。その時は、その理不尽な書かれ方に大きなショックを受け、しばらく寝込みました。でも、その後この絵本は翻訳絵本賞をいただき、今でも多くの方に読んでいただいています。『永遠に生きるために』も多くの読者をこれからも獲得していく本ではないでしょうか。
◆匿名性についてですが、メンバーの中には、たとえば出版社勤務の編集者、あるいは著作権者や出版社とかかわりを持つ者のように、名前を出したら参加できない(自分の社で出した本、あるいは知人の出した本については褒めるしかなくなりますから)者もいます。なので、今後も匿名にはこだわりたいと思います。ただし、このページを読まれる方が「悪意やおごり」から発言していると思われることのないよう、今後もさらに充分注意したいと思います。
◆読書会記録を掲載することにしたのは、いろいろな方たちとの意見の交換ができればいいな、と思ったからでした。なので、「もっと緊張と覚悟をもって他者の作品と向き合いなさい」との野の水生さんからのご意見は、とてもありがたいご指摘です。そう思ってやってきたつもりですが、ちょっとチェックが甘くなっていました。今後はさらに気持ちを引き締めて、よりよいかたちで掲載できるようにいたします。また野の水生さんからのメールで、この作品についての理解がさらに深まったことについても感謝いたします。
(さくまゆみこ)


瀬尾まいこ『戸村飯店青春100連発』

戸村飯店青春100連発

サンシャイン:関西弁で、調子よく読めました。兄と弟の書き分けはよくできているという印象です。兄は父の商売と家の置かれた環境がいやで東京に出たのに、結局は戻ってきて、反対に家を継ぐのが決まっていると思われていた弟は出て行くという意外なオチで終わるのがおもしろい。ああこういうふうに終わるのか、うまいなと思いました。

メリーさん:瀬尾まいこさんはけっこう好きで『卵の緒』(新潮社)から読んでいますが、この本は、これまでのやわらかい感じの物語とは違って、新鮮な印象を受けました。最初は要領のよさからヘイスケが勉強の道、弟が料理の道に進むのかと思ったら、最後はまったく逆の展開になっていたのがおもしろかったです。サブのキャラクターでは、古嶋君がいい味を出していました。ちょっととぼけているけれど、根はいいやつ。ヘイスケが自分の気持ちを自然と言えたのも、このキャラクターだったからこそだと思います。ひとつ感じたのは、全体的に人物が幼いかなというところ。登場人物は高校2年と3年なので、描写はもっと大人っぽくてもいいのかと思いました。それから、アリサや岡野など女性陣がもう少し魅力的だったらよかったなと思いました。

げた:結末で流れが変わって、兄弟の行く末が入れ替わったのがおもしろかったし、青春小説としてうまくまとまっているなと思いました。兄弟の将来の可能性や将来への広がりが感じられたのはよかった。関西弁での展開にもかかわらず、登場人物のキャラクターはどの人もわりとあっさりしていて、さらっとした感じですね。ぐっと深く読ませるという本ではないけど、こういうのもあっていいかな。

うさこ:おもしろく読みました。ヘイスケの自分が今いるところに対する居心地の悪さ、自分への違和感がよく描かれていました。ヘイスケ像が、コウスケの目や両親、戸村飯店へ集まる人々、東京で出会った人々の目を通して、多面的に描かれていておもしく、人物描写が細かくてうまいなと思った。お父さんが二人の兄弟を見分けながら、例えば、ユウスケの高3の進路相談へやってきた場面、ヘイスケが上京するときに渡した封筒に入っていた手紙の内容から、この兄弟のそれぞれの性格に合わせて父性を発揮しているところもおもしろかった。たしかに17歳、18歳の男性としては幼い感じはしなくもなかったけど、わりと男の子は単純な面もあるので、これでもいいのかなと思いました。私は大阪弁のものは大阪弁のノリのよさに飲み込まれ、本質をごまかされたような気持ちになってしまうんですけど、この作品に関しては、いい意味での大阪人の関係の濃さ、かかわりの重さがその軽妙な会話や行動などからもよくわかってよかった。大阪という土地やそこに集う人々、戸村家の家族、その中で育てられたこの兄弟……とても「おもろい」作品でした。

カワセミ:兄の側から書いた章と弟の側から書いた章が交互に出てくる構成がうまくできてました。最初に、弟が兄ヘイスケはこういう奴だ、と描写するんですけど、兄のほうの章を読み進むうちに、実は弟の考えていたような人ではなかったことがわかってくるところがおもしろいですね。弟のほうも、兄と離れてみて初めて見えてきたことがある。同じ家に育った兄弟なのに全く違う2人の兄弟関係がおもしろいと思いました。また兄弟それぞれを取り巻く人々の描写が的確で、リアリティがありました。短い言葉で人となりをちゃんとつかんだ表現がとてもうまい。文章のノリがよく、端々にユーモアのあるつっこみが含まれており、いちいちおかしくて笑ってしまいました。大阪弁のせいもあるでしょうが、読んでいてとても楽しい気分になる小説で、おもしろいよ、と気軽に薦められる感じ。

クモッチ:この作品は、坪田譲治文学賞を受賞していて、その選評欄に「タイトルが内容と合っていない、おそらく編集者が考えたのでは」というようなことが書いてあったんです。確かに「100連発」というのは、勢いはあるけど、内容としてはどうなのかな? でも、とても楽しく読める作品。そつなくこなすけどあまり理解されていない兄のヘイスケと、自分の立場とか家族のことをわかっているつもりでいて、じつは自分が何をしたいのかつかめていなかったコウスケ。ふたりがどのように、自分の道をつかんでいくのかが、とてもよく描かれていました。文章のちょっとした表現の巧みさに、この作家さんのすごさがわかる。たとえば、110pでピアノを弾く友達の家に行くところ。「おふくろはなぜかうれしそうだった」という一文があり、ん?と立ち止まらせる。家の手伝いをするばかりだった息子が、世界を広げていくのがお母さんにはうれしかったからなのかな。ここはコウスケが結局は大学に行くことになる伏線か、とも思います。また、兄が「コウスケには向かう場所がある。帰る場所がある」というのも、兄の気持ちがあらわれたいい文章だなあと思いました。

ハリネズミ:とってもおもしろかった。大阪弁がうまくきいてますよね。弟が兄を見る目がだんだん変わっていくところにしても、読者も一緒にだんだんにわかってくるのがいいなと思いました。あえて疑問を言えば、岸川先生はちょっとよくわからなかった。ほかの人はみんなリアリティがあったのに。それから、ヘイスケが料理の道に目覚めていくところなんですけど、最初にカフェレストランにつれていかれて不満に思うところが、ちょっとありえないかなあ、と思ってしまいました。ただ、味に深みがないとか、イマイチおいしくないと言うなら自然なんですけど、家ではまったく手伝ってないのに、「鶏の照り焼きは…焼く時にみりんとしょうゆで味をつけてるだけで、下ごしらえができていない」だとか、「レタスは調理する少し前にまとめて洗ったせいだ。苦みが出てる」なんてことまで言えるなんて。細かい編集上のことでは、5pのうしろから7行目、「岡野にふてくされて」は、その後に「俺は岡野の機嫌を取り戻そうと」とあるんで、「岡野にふてくされられて」じゃないかな? 59pの「古嶋たちは驚いてたけど、瀕してるから仕方ない」は「貧してる」の誤植? だけど、そんなところもあんまり気にならないくらい、とにかくおもしろかったです。

ショコラ:楽しくおもしろく読みました。お笑い系がブームなので、今にマッチしているなと思いました。どこにでもいる兄弟だけど違っていて、かかわっている周り人達との関係がおもしろかったです。兄に対する岸川先生のかかわりは、ちょっとわかりにくかったけど。アンチ巨人が巨人ファンだったり、ディズニーランドを「アメリカからやってきた遊園地」といい、ミッキーマウスを「こまっしゃくれたねずみ」なんていうのも、おもしろい。水兵さんの格好をしたあひるのいる遊園地なんていう表現もね。私のクラスで特に本をよく読んでいる女の子(6年生)にこの本を勧めました。読書後、兄弟についての感想を聞くと「まじめな人はエイプリルフールにうそをついても信じてもらえる、お兄さんはそういう人」と言っていました。小説家はどこでも小説を書くことができるから、兄は落ち着けるところに落ち着いたのかしらね。

うさこ:鶏の照り焼きのところ、すごく大切なシーンだ、と私は捉えました。というのは、ヘイスケは戸村飯店の厨房を避けていたが、実は調理のことが気になって、ちらちらと盗み見したりしてこういう知識があったのではないんでしょうか。

クモッチ:2回くらい怪我をして料理をやらなくなったと弟は思っていたのに、兄は実はそうではなかったわけね。

ハリネズミ:天才的に味がわかっちゃう人だったという描写ならわかるんですが、鶏肉の臭みをとる方法などは、実際にやったことがなければわからないから、私はリアリティがないと思っちゃったのね。

カワセミ:実は興味があってお父さんの話をこっそり聞いていた、というような場面がちょっとでもあればよかったのよね。

サンシャイン:アリサ先生は年上で専門学校の生徒に手を出すという設定ですか……お兄ちゃんはもてるんでしょうね。年上にももてる子だということなんでしょうね。でもアリサさんがお兄ちゃんに突然からんだりするから、私も人物像がよくわかりませんでした。

ハリネズミ:この先生みたいな人はいるかもしれないけど、ほかはみんないいキャラなのにこの人だけちょっと嫌な人。メインなキャラじゃないんだけど、もう少し書いてもらえると、人となりもわかって、さらに奥行きが出たんじゃないかな。

ササキ:3冊の中では、これが一番おもしろかったです。先月の『となりのウチナーンチュ』と比べると、大阪にはファンタジーがいらないな、と思いました。お兄ちゃんが最後にウルフルズを聞いて大阪に帰るというのも、大阪だからなのかな。キャラクターはふたりとも変に突出したところがなく、フラットなのがよかったと思います。

サンシャイン:「大阪」とひとまとめで言うな、と怒られることがあります。北と南でだいぶ違うようです。この本の舞台は通天閣の近辺の相当狭い世界のことを書いているのかと思います。こてこての関西、と言うんでしょうか。

ハリネズミ:さっき書名の話が出ましたけど、『戸村飯店青春物語』だったら、つまらなかったね。

(「子どもの本で言いたい放題」2009年6月の記録)