月: 2010年5月

2010年05月 テーマ:子どもが立ちなおるとき〜まわりの大人と地域の存在

日付 2010年5月27日
参加者 げた、メリーさん、レン、たんぽぽ、ハマグリ、ひいらぎ、プルメリア、うさこ、ダンテス、すあま
テーマ 子どもが立ちなおるとき〜まわりの大人と地域の存在

読んだ本:

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とむらう女

プルメリア:『ササフラス〜』のあとに読んで長編に慣れていたせいか、もうちょっと長くてもよかったかなと思いました。淡々と書かれている感じがして、もっと深くてもいいのかなと。亡くなったお母さんへの思いとお母さんの死後にやってきたおばさんを受け入れられない少女の心情は、伝わってきます。お母さんが思いを込めて作っていた庭が変化していく様子、荒れていく様子は、少女の心理状態を象徴的に表しているのかなと思いました。妹メイはまだ5歳なんですが、そんなに早くお母さんのことを忘れちゃうんでしょうか? お母さんの思いがまったく消えちゃうかな、と疑問でした。アメリカの古い時代におこなわれていた弔いのしきたりがわかったのも、よかった。なぜ木箱はベッドの下に入れないといけないのかな?

うさこ:母の死後、おばさんがやってきていっしょに生活し、送り人の仕事を手伝ううちに、だんだんと心をほどいていくイーヴィーの姿が、よく描かれていました。母の死をしっかり受け入れて再生していく姿は、こちらも自然な気持ちで読めました。身近な人の死の描き方って難しいですね。母親と一緒にしていた庭の手入れを黙々とし、日常生活を大事に過ごしていくことが、死のいたみから徐々に解放されていくことにつながるというところも、うまく描かれていました。弔い師の仕事をしているとき聖書の一節をイーヴィーが読むシーンも印象的です。現代のお葬式や法要などのお坊さんのお経は、その意味が具体的にわかるわけではないけど、終わったあと言ってくださることばなども含め、残された者にはとても安らかに響くもの。最後の文書149から150ページ、ママは命は土から生まれると言った、おばさんは命は土にかえると言ったという一節は、説得力のあることばですね。

すあま:私がおもしろいなと思ったのは、ローラ・インガルス・ワイルダーの大草原シリーズのような生活が描かれていたところです。主人公の女の子の気持ちがよく伝わってくるし、だんだんとそれが変わっていくところがていねいに書いてあるのもいい。お母さんの死から立ち直る話としてよりも、おばさんの仕事に興味を持って、自分もやりがいのある仕事を見つけていく成長物語として読みました。周りの人にも薦めたんですけれど、不満があるとすれば題名と作りですね。見た目は大人向けの小説ですが、中学生くらいに読んでほしい。題名も表紙のイラストも、主人公の女の子がメインになっていた方が、読んでほしい人に読んでもらえたかなと思います。この本を読んだころに「おくりびと」の映画を見たのですが、この本の帯の宣伝文句も「アメリカにもおくりびとがいた」といった感じにすれば話題になって売れたかも?

ひいらぎ:出版社は、YAから大人向きにしたほうが売れると思って、こういうつくりにしたんじゃないのかな。でも、「とむらう女」よりは「おくる女」くらいのほうが、映画との関連も出たのかもしれません。主人公の女の子は、最初はおばさんを全面的に拒否しているんですが、だんだんに近づいていく。その様子はリアルで、うまく描かれていますね。私は『のっぽのサラ』(パトリシア・マクラクラン著 金原瑞人訳 徳間書店)を思い出しました。あっちの方が、心の交流はもう少し複雑で細かく描かれているように思いますけど。私は小学生のとき祖母が亡くなったんですが、その時、死んだ人って怖かったんですね。だから、おばさんの仕事の重要性を認識してイーヴィーが後を継ごうと思うのは、頭ではわかるけど、自分だったら怖くて無理だな、と個人的には思ってしまいました。日本とアメリカの死生観の違いもあるのかもしれませんが。

ハマグリ:私も『のっぽのサラ』を思い出しました。この本は、主人公がお母さんの死を乗り越える話ではあるけれど、私は11歳の女の子が一つの職業に目覚める話、という観点からも読めるんじゃないかと思うんですね。カレン・クシュマンの『アリスの見習い物語』や『金鉱町のルーシー』(どちらも柳井薫訳 あすなろ書房)みたいなおもしろさもあると思いました。お母さんが亡くなったというのは少し前のことなので、『ひとりたりない』より衝撃度が少ないですね。家族や親しい人を亡くしたあと、その喪失感を埋めていくのには長い時間がかかりますが、それをとてもていねいに描いているところに好感をもちました。無口なお父さんは、子どもには悲しむ様子を見せないけれど、夜ひとりでお母さんのブランコに乗っている姿を見て、イーヴィーにはお父さんもやはり苦しんでいることがわかるわけですね。イーヴィーはお母さんの菜園を毎日無心に手入れすることで、母の存在を忘れまいとする。たぶんそういうふうにするしかないと思うんですね。毎日毎日、目の前のことをやっていきながら、一人一人が時間をかけていかないといけない、そういったことがうまく書けているなと思います。イーヴィーは、初めて身近に見た死をまだ受け入れられないでいるのに、おばさんの仕事はおとむらい師。最初はそのことに嫌悪感を持つわけですが、その気持ちがよくわかるように書いてある。
後半になると子どもを亡くしたり、親を亡くした家族がこれでもか、これでもかって出てくるでしょう。それが、ああ自分だけじゃないんだ、そういうものなんだってこの子が受け入れていく段階として説得力があるなと思いました。亡くなった人に対して、敬意をもって、きちんと接していると、家族もそれに対してこたえてくれる。それを主人公の体験として書いているところがうまいと思います。私もこれは大人のものにしないで、11歳の少女が死とは何かを受けとめていく、そしてまた、一つの仕事に目覚めていく物語として、子どもたちに読んでもらいたい。ほかにはないタイプの本だと思うので、大人向きにしたのは残念でした。

たんぽぽ:私も『のっぽのサラ』に似ていると思いました。死を扱っていても、『ひとりたりない』と違い、最後までおもしろく読めました。中学生くらいの子がこれを読みどう感じるのか知りたいです。表紙は、大人向きなので、もっと違う感じがよかったと思います。

メリーさん:私は、ちょうどこの本が出たときに読みました。お母さんとの思い出を他人に踏みにじられたくないという、主人公の気持ち。おばさんに早くなつく妹とくらべて、少々行き過ぎではないかとも感じられる、この感情が、随所に表れていました。おばさんがお母さんの席を「のっとった」とか、「お母さんの」ロッキングチェアなのに…とか、庭を手入れしたのはお母さんなんだ、というところです。それは悲しみというよりは、いらだちのようなものかもしれません。以前ここで取り上げた『天井に星の輝く』(ヨハンナ・ティデル著 佐伯愛子訳 白水社)を思い出しました。結局主人公の気持ちは、時間が解決するしかないのだと思います。長い時間をかけてその気持ちとつきあっていく、その気持ちといっしょに生きていくしかないんだなと。ただ、それをそのまま物語にすると、読むほうは退屈だと思うので、物語ではどうやって伝えたらいいのかなということを考えました。この物語は、そういう意味ではよくも悪くも、短くコンパクトにまとめているなと思います。最後の「命は土から生まれ、土に帰っていく」という言葉はとてもいいなと思いました。

げた:私もみなさんとおんなじようなこと感じましたね。この本で一番印象に残ったのは、19世紀アメリカ開拓民の貧しいんだけど豊かな日常や、厳しい自然と戦いながら人生を神とともにまっとうしていく、そんな姿ですね。虚飾に満ちた世界で生きている私なんかには、自然に立ち返れと言われているような感じもして、憧れちゃうな。すべて手づくりの暮らしで、死も手づくりで迎えようとしている。おとむらい師はお金をとらないし、コマーシャリズムが一切関与していない。そういうのがいいなって思いました。母を失った子どもの不安な気持ちや、無邪気な妹を見ながらどう対処していいかわからない戸惑いの気持ちとかも、よく描かれていますよね。

ダンテス:文学は人間を描くものであるっていうことで言えば、いい作品だなと思いました。19世紀の終わりまで歴史的な事実としてそういう女性がいたことを作者が知って、それが作品を書く動機になっているのでしょう。だから子ども向け限定ではなく大人向けに書いたのではないかという印象です。しかもただ単に歴史的な事実を伝えようとしただけではなく、おねえちゃんの気持ちを中心に、ていねいに書かれています。おばさんも死と多く向き合ってきただけに、人間としての土台、骨格がしっかりしていて、母親を亡くした少女の気持ちに出来るだけ寄り添おうとしています。もちろんすれ違いもあるから作品になっているわけですが。下の子は母親を亡くしたあとおばさんにすぐに慣れていっちゃうけど、これもおねえちゃんから見た視点できちんと書けている。もし難点を言うとすると、後半多少急いでいますかね。次々と死者の埋葬の話になるのは、映画の「おくりびと」の後半を連想しました。最後にこの子がおばあさん不在の時に、自分なりに3歳の子の埋葬を手伝う話で、この子の未来像が暗示されています。やはり全体としては大人向けの本として私は読みました。日本ですと、字の大きさ、漢字の多さ少なさ、ルビありかなしかなどで対象年齢が決まってきますが、英語の本の場合も、やはりこれは子どもの本、大人の本ってあるんですか。語彙の選択と字の大きさでしょうかね。日本語の方が、読者対象が決まる要素が多いですね。

ひいらぎ:アメリカは、読者対象をはっきり示す場合が多いですね。アマゾンも、アメリカのサイトは対象年齢をはっきり書いています。でも、イギリスのアマゾンは、書いてないんですね。

ダンテス:今の葬式はビジネスになっていて、そういうのも必要なのかもしれませんが、やたらにお金がかかることなどを思うと、このお話の時代は素敵だなと思いました。印象に残る作品です。

(「子どもの本で言いたい放題」2010年5月の記録)


ひとりたりない

たんぽぽ:とてもせつなくて、読むのがつらかったです。主人公は5年生なんですけど、この状況は子どもにとって重すぎないかと思いました。この物語の対象はだれなのか、子どもにこの物語を読ませる意味は何なのかを、考えてしまいました。子どもはそうでなくても、つらいことを抱えているのにな、と。

メリーさん:今の意見に共感です。ほかの2冊も、家族の誰かを亡くしているのだけれど、この本はとくに悲しい。主人公が、これまでお姉さんに頼りっぱなしだったということを、お姉さんが亡くなってから気づくところなどは特に。家族と話をしなくなってしまった弟に何か食べさせるためにわざと冷蔵庫にご飯を作って入れておく場面では、おばあちゃんがいい役割をしているなと思いました。だからなおさら、この家族の構造がとてももろく感じられました。今はおばあちゃんが来て何とかまとまっているけど、子どもも大人もバラバラで、ちょっとつつくと壊れてしまいそう。全体的にトーンは明るくはないですね。タイトルも喪失感が出てしまう「ひとりたりない」ではなくて、その先に何か見えてくるものだったらよかったなと思いました。

げた:5年生の女の子につきつけられた現実の重さっていうのに、すごく救いようがないような、奈落の底に落とされていくような感じを受けました。そこから彼女はSOSを出しておばあちゃんを呼ぶわけなんですね。おばあちゃんがキーマンになって家族の崩壊をくいとめ、元に戻していく。そんな役割をおばあちゃんに持たせてるわけです。なんとか家族はまとまるけど、でも現実はひとりたりない。どうしようもない現実を小学生につきつけることが必要なんですかね。そこは難しい問題ですよね。これを読んで小学生が救われるのかな? 我々大人が読むのはいいかもしれないけど、子どもが読んでどういうふうに受け止めるのかな。でもこういうことは現実にあるんでしょうし、それも児童文学の役割なのかな? どうなんだろうなって、考えてしまいました。この話の父親と母親はあまりに頼りないですよね。極端に書いてはいるんでしょうけどね。その分おばあちゃんがしっかりして際立ってくるんだけど。

ダンテス:一見感動的な話なのかなって思うんですけど、何か足りない。実は人物設定がきわめて類型的で、ただのお涙頂戴になってる。例えばお葬式の次の日におねえちゃんの名前でお母さんの誕生日の花を送ってくるんですが、確かに悲しいけど、作られたありがちは話なのでは? お母さんだってシュート君だって類型的。人間ってそんなものなんですかねえ。おばあちゃんも立派すぎます。文学は人間を描くものである、という定義で考えれば、人間が描けていない。私はこの作品は評価しません。

プルメリア:サンシャインさんの感想をお聞ききして、パチパチって火花が飛んだような気がしました。私はそんなふうに読まなかったので。今村さんはとても好きな作家さんです。『ひとりたりない』って題も、私はいいなって思いました。事故で姉を亡くした少女のやるせない心情、そのことが原因で不登校になった弟、過去の出来事から今へとストーリーが構成され家族がばらばらになりつつある苦悩な毎日…。家族全員の心情がよくわかる作品として読みました。
小学校で子ども達が身近な人の死をテーマに書いた作文を読むと、文章表現や構成が上手とかに関係なく、書いた本人の心情がひしひしと伝わり、涙が出てきます。そういう作文を書いた子に「がんばっているんだね」とか「いつも笑顔でえらい」と声をかけると、はずかしそうに微笑みます。そういう子どもたちの日常生活を考えると、これは手渡しにくい作品かもしれません。いいなと思う作品は自分で読んでから手渡しているんですけど、この作品は気軽に渡すことができないです。内容が重いから渡しにくいのかな? おすすめリストに入れて、こういう作品もあるよって知らせる作品かなとも思います。悲しいですが、子どもたちにもこういう体験や心情をわかってほしいので、読んでもらいたいとは思います。

うさこ:作品として疑問が残る点が多かったですね。身近な人の死、しかも突然の事故死っていうのは大人にもすごく衝撃的。短時間で乗り越えるなんてできない。ましてや幼い子が自分の兄弟の死を目の当たりにしたときの衝撃は計り知れない。この話は、読み進めるのが本当につらかったけど、最後どういう形で救いがあるのかと思いながら頁を繰っていきました。だけど、救いや次への希望みたいなものはなかったように思います。だから、今も悶々とした気持ちが残っています。
病死と事故死は違うし、自分の目の前で、自分の過失で姉を事故死させたというのは、中学年の読者層には設定が困難すぎる。小学校2年生と5年生では、死の受け入れ方とか、立ち直り方や乗り越え方もぜんぜん違うと思います。5年生の女の子自身が立ち直ってないのに、弟のことを救うことなんてできるんでしょうか。作家さんは、時にこういうハードルの高いテーマを設定して書くけど、作家の力量がすごく問われるのではないでしょうか。書こうとする志は強かったのでしょうが、作家さん自身が、この作品を書くことに自分で行き詰ってしまったような印象を受けます。字が大きいから3、4年生の読者向けだと思いますが、この年齢の子には、とてもとても消化できない内容です。現実のなかで、同じような状況の子に薦められるほど作品が熟成してない。ただ、何もかも家族の中で解決しようとしているところなど、現代の日本社会も映し出しているかもしれませんね。

すあま:私はまだこの作品は読んでないんですが、最近地域の小学校の先生が急に亡くなったことを思い出しました。担任していたクラスの子どもたちはどんな風に喪失感をおぼえ、乗り越えていくのかなと思い、この本が子どもたちが少し落ち着いたときに手渡せるような本だといいなと思いました。

ひいらぎ:たしかに小学校中学年だと設定はつらすぎるんですけど、実際にこういう状況になる子もいるだろうし、作者はそういう子に寄り添って書いているんじゃないかな、と私は思いました。中学生くらいを主人公にしたほうが、書きやすいのかもしれませんけどね。主人公の琴乃がその時点時点で感じていることも、うまく表現されていると思います。50pの「お坊さんがお経を読む、おどかすような声がひびきわたって」とか、「火葬場の庭のすみに、大きなサルスベリの木があって、重たいほどピンク色の花をつけていました。サルスベリの花は、クレープみたいにちぢれた、ぜんぜんふつうの花らしくない、へんな花です。それが枝々にびっしりと咲いているのは、なんだかふしぎな感じでした。私のぼんやりした頭のなかでは、なぜだか、その花とおねえちゃんが死んだこととは、なにか関係があるみたいに思われるのに、それがどんな関係なのか、いくら考えても、私にはわかりませんでした」なんていうところとか、96pの「かあさんも、私が肩をもんであげると、ときどき、べつな人のような声をだすことがあります」なんていうところは、この年齢の子どもらしい鋭い感じ方が表現されていると思いました。
今村さんの文章がいいので、私はダンテスさんのように類型的だとは思わなかったんです。英米の現代の児童文学だと、子どもが極限状態に置かれていても手をさしのべる大人が出てこなかったりするんですけど、この作品では、かなり理想的なおばあちゃんがちゃんと救い手として現れる。しかも昔風ではなくて現代風のおばあちゃんだってところがいいですね。永久に(あるいは長いあいだ)この「足りない」感じを抱いて生きていかなくてはいけないというリアリティも表現されているし、作者は子どもと一緒に考えてくれていると思うんだけど。

ハマグリ:突然娘を亡くした父母は、自分の悲しみにいっぱいいっぱいで、下の子たちの気持ちを救うことができないでいるし、弟は学校に行けなくなってしまう。自分だってどうしようもなくつらいのに、まわりがこんなふうでは本当に行き場がないですよね。そういう設定の物語を読むのは、大人でもつらい。そこへ明るいおばあちゃんがやってきて、すべてをありのままに受け入れ、日々の暮らしを大切にして、せいいっぱい前を向いて生きていくことを示してくれる。その姿勢には救われるんだけれど、あまりにもおばあちゃん一人が救世主のように現れるので、ちょっと違和感を覚えました。死っていうのは子どもにとっても身近にあるものだと思うけれど、日本では子どもには知らせないっていう文化があると思う。あえて子どもに話さない親は多いと思うんですけど、この物語のようなことが起こったり、こういう体験をした友だちがいるっていうことはあると思うから、子どもからむやみに死を遠ざけるというのではなく、本の中でそういうものを知っていくことができれば、それは本の一つの大切な役割なんじゃないかと思います。
でも、同じような体験をした子どもには、この物語はちょっとリアリティに欠ける部分があるし、体験をしていない子にはやたら不安感やこわさが増すんじゃないかと思います。じゃあこういう本の役割は何かっていうと、子どもなりに人間の複雑さを感じとるっていう点にあると思います。でもこの本にそれができるかというと、できていない。最後に家族が、やっぱりひとりたりないって思うところは、どうなのかな、と思いました。私のまわりにも子どもを亡くした人が何人かいるけれど、亡くなった子はいつも家族と共にいる。3人きょうだいが2人きょうだいになるのではなく、常に意識の中にある。他人はなるべくその子の話をしないように気を遣うけれど、家族はその子の存在を忘れてほしくない。その子のことを語って、いつまでもおぼえていてほしいと思っている。そこまで至らないと、救いにならないんじゃないかな。

メリーさん:いわゆるお涙頂戴の類型的な本がよく手にとられるという面もありますね。でもそれは、著者も読者も大切な人を失うということについて、本当に考えるところまではいっていない。登場人物に深く共感するというよりは、そのシチュエーションを楽しんでしまうという面があると思います。

たんぽぽ:これ、おばあちゃんの気持ちはよくわかります。孫を、どんなことをしても何とかしてあげたいという。でも、最後に乗り越えられるような、何かがあったらいいのになと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2010年5月の記録)


ササフラス・スプリングスの七不思議

げた:表紙はわりとシンプルで、強くひきつけられるという感じはなかったんですけど、中身は読み進むにつれておもしろくなってくる。アメリカの田舎の何もないところで暮らしている男の子が、世界の七不思議を求めて旅立とうと決心して、お父さんにそのことを打ち明ける。でも、お父さんに、もっと足元を見なさいと言われ、ササフラス・スプリングスで七不思議を探し始めるんです。男の子が聞き集めた、ササフラス・スプリングスの七不思議のお話集ってわけですが、一つ一つが結構おもしろくって、楽しめましたね。特に町長さんのお話かな、オチもあって織機が犯人の名前をあてるなんてドキドキする話。お父さんの妹プリティおばさんが最後アルフおじさんと結婚することになるっていうのも、あったかい感じがしてよかったな。すごい冒険でもないんだけれど、地元の七不思議を一つ一つ探しもとめて歩いていく男の子に共感できるお話でしたね。挿絵はかわいらしくてシンプルだけど、お話を想像する手助けになっていいかな。

メリーさん:おもしろく読みました。最近、自分の友人がまた別の知人の知り合いということが続いたので、世界は意外と狭くて皆どこかでつながっているのだなと感じたことを思い出しました。主人公は身のまわりの七不思議を探しますが、きっとどこかで世界につながっているのだろうなと。日本で「七不思議」というと、学校の怪談が真っ先に思い出されるだろうけれど、ここではいわゆる世界の大事件というのがおもしろいと思いました。七つの中ではアルフおじさんのくだりが好きです。彫像は、過去を表すとともに、現在や未来も表している。結局人間はずっと同じことを繰り返しているのかなと感じさせて。「ササフラス」がルートビアの原料ということがちょっと出てきましたが、アメリカらしくていいなと思いました。

レン:私もおもしろく読みました。冒険というとどこか遠く危険なところにのりだしていかなきゃいけないみたいだけど、何でもない日常に七つも不思議があるところがよかったです。そして不思議の発見が、さまざまな人の隠れた一面、隠れた人生を見せてくれる。自分のまわりの人たちにも、いろんな人生があることを示唆してくれるのでは? また書き方にユーモアがあるところもよかった。ユーモアの感覚がいろんなところで救いになりクッションになっていますね。ただ、装丁はちょっと残念。年齢層を考えると背の文字もおとなしすぎるし、色も地味な気がします。

たんぽぽ:私も、表紙が地味かなって思いました。もう少し違う感じだと、もっと子どもが手に取るかな。七不思議の一つ一つが、あとから振り返ってみても、おもしろかったです。トイレが飛んでいくおまけ話?も、よかった。読んだおとなも子どもも、身近なところにある七不思議を探してみたい、振り返ってみたいと思うのではないでしょうか。

ハマグリ:主人公が七不思議を探していく、という枠の中にいろいろな話が出てくるというつくりの本で、一つ一つの話がおもしろいから、それぞれ話の中にすっと入っていって楽しめました。一見ごく普通のおばさんやおじさんにも、いろんな人生、ドラマがあるんだということが、だんだん見えてくるっていうのもおもしろかったです。ただ、どんな子にも読みやすい、というのではなく、それぞれの会話の中からいろいろ読みとっていける、ある程度読書力のある子に薦めたいですね。

ひいらぎ:私も、派手ではないけれど、味わいがあっておもしろいなって思いました。ほんとになんにもない、一見つまらなそうに見える地域なんだけど、そんな場所でもよくみるといろいろなお話が存在している。そこがいいですね。ただ最初忙しいときに読んだら、人の名前がごっちゃになって混乱してしまいました。挿絵は、以前とりあげた『ラッキー・トリンブルのサバイバルな毎日』(スーザン・パトロン/著 片岡しのぶ/訳 あすなろ書房)と同じ人ですよね。もっと小さい子でも手にとりやすい雰囲気が表紙にあるといいのにね。

うさこ:おもしろく読みました。小さい頃って、根拠もなしに知らない土地や時間に憧れて、そこにワクワクやドキドキがあると思いがち。このお話は、お父さんとおばさんの上手な導きによって主人公エベンが自分の住んでいる身近なところで七不思議を探すっていう設定がとてもいいですね。案外、知ったつもりでも、自分の住んでいるところって知らないことが多い。そのくせ、よくないところばっかり目についたり。でも、エベンは遠くへは行かずに、地元で小さな目覚めの旅をする。エベンは近視眼的なものの見方や自分の狭い考えを少しだけ乗り越えたのかもしれない。乗り越えるっていうと大きなショッキングな出来事があってというのが多いけど、そうじゃないところで構成しているのがこの物語のすばらしいところ。七不思議もありきたりな話じゃなくて、一つ一つ語ってくれる人の人生が垣間見えて、しかもそれぞれにロマンがあっていいな。日本だと何か解決しようというときタテ社会、とりわけ家族間や家庭の中が多いですけど、このお話はヨコ社会のつながりのなかで解決に向かっていく展開もいい。装丁がちょっともったいないですよね。わりと地味目。読者がスムーズに手にとってくれるでしょうか? タイトルもササフラス・スプリングスというのが場所の名前だと気づきにくいし、しかも長くて覚えにくくて、ドキドキもなくて残念。

ダンテス:この本は、まあまあおもしろく読んだって感じです。描写がていねいですね。そういう意味では、ひと時代前の作品という印象です。少年の目を通して七不思議を探すというのをきっかけに、自分の町をよく知っていく。七つのそれぞれが短編というか、短いけどストーリーもあります。七つに出会うまでの困難も書いてあって、作品としてはよく書けているかなと思います。

すあま:『シカゴよりこわい町』(リチャード・ペック/著 斎藤倫子/訳 東京創元社)のような、ちょっと昔のアメリカの話が好きなので、おもしろかった。短編集のようで、最後にちゃんとオチがついていて。でも装丁が地味なので、大丈夫なのかと心配になります。題名もおぼえにくいので、本屋で店員に聞こうにもぱっと言えないですよね。

ダンテス:アメリカだと、ここの土地、我がコミュニティっていうのがあるんでしょうね。だから具体的な地名を作品の題に入れる。

ハマグリ:そういう地方色を売りにしているようなものってありますよね。『ラッキー・トリンブルのサバイバルな毎日』にも、アメリカの、その土地独特の感じがありましたよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2010年5月の記録)