月: 2016年7月

2016年07月 テーマ:語られてこなかった真実

日付 2016年7月24日
参加者 アカシア、西山、アンヌ、アカザ、レン、さらら、マリンゴ、ルパン
テーマ 語られてこなかった真実

読んだ本:

(さらに…)

Read More

墓守りのレオ

アンヌ:題名を見た時から、ピーター・S・ビーグルの名作『ここちよく秘密めいたところ』(創元推理文庫)に似た話かなと危ぶみながら読み始めました。まあ、「吸血鬼」の例もありますから、いろいろなバリエーションで拡がって行くのもおもしろいとは思います。『ここちよく秘密めいたところ』は、霊園の中の霊廟に住みついた男が主人公で、幽霊と話ができます。カラスが運んできた食物で生きていて、カラスは男とも幽霊とも話ができる。『墓守りのレオ』では、主人公の少年レオは正式な墓守として霊園に住み、同じように幽霊と話ができて、一緒に住んでいる犬は彼とも幽霊とも話ができる。そして、その霊園での生活に、殺人事件が絡んでくる。似ているのはここら辺までです。『墓守りのレオ』では、幽霊は自分が死んでいるのだと気づいた時にあの世へ行かないと、幽霊としてこの世を永遠にさまようという決まりがあります。他にも、これは少し反則ではないかと思える仕組みがあって、幽霊が物を持てたり、書類を書いたりできます。まあ、飴買いの幽霊とか、物が持てる幽霊はたくさんいますが、書類を普通に書ける幽霊は初めてです。幽霊にこんなことができたら、遺言書も書きかえられちゃって推理小説などは成り立たなくなるんじゃないかと思いながら読みました。第1話が自覚のない幽霊の話で、幽霊が自分の死に気がついた時にあの世へ行くというきまりがここで説明されます。第2話では、犬が語り手になって、レオの生い立ちが説明されます。ここまででなんとなくこの物語世界の仕組みが分かり、第3話は、いよいよレオが幽霊と話せる特殊能力を持って、生きている殺人者を改心させます。一応おもしろいけれど、この少女を狙い続ける連続殺人者にあまり同情心はわきませんでした。3話中2話が殺人事件ですから、暗澹たる気分にもなります。生きている者や死んでいる者、それぞれの世界での独自の物語がまだ始まっていない気もします。シリーズ化する予定があるからでしょうか? 主人公に魅力はあるけれど、構造や物語の方向性に不満が残る感じでした。

ルパン:私も、幽霊が物をさわれる、というのにひっかかりました。ご都合主義で、物語が台無しになっている気がします。唯一、最初の「ブルーマンデー」は、女の子が死んでいる、という設定にドキっとさせられましたが、あとの2編はおもしろいと私は思えず、好感も持てませんでした。文庫の子どもに読ませたいとは思えませんでした。

さらら:まんがの原作を読んでいるみたいな、人物像のうすっぺらさが気になり、お話の中に入ろうとしても、入っていけなかったんです。最初のほう、p14の「彼は、特別な男の子。理由なんてわからないけれど、そんな気がした」というエミリアの語りに、まずつまずいてしまいました。こういう文体がはやっているのかなと思いなおし、そういう視点で読むことにしてみました。翻訳調ですよね。p169の「彼は、わたしの理解の範疇を超えていた」を例にあげるまでもなく。もってまわった文体は別にしても、幽霊が普通なら許せない存在のパパを「許すわ」って、すぐに言ってしまったり、ママが娘の昇天にすぐ納得してしまったり、これで読者は満足するのかなあと、疑問が残りました。

レン:書き割りのような場面で、輪郭だけの人物が動いているような感じで、あらすじを言えば足りてしまうお話だなと。最も違和感をおぼえたのは、主人公のレオに迷いや感情がないこと。思春期というのは迷うものだと思うのですが、レオは全能者のようで、まったくリアリティが感じられませんでした。文章も感覚的で生硬の感があり、違和感のある表現がちらほらありました。たとえばp143の後ろから4行目「わたしが置いたときとまったく同じ位置に、行儀正しくおさまっている」の「行儀正しく」とか。表紙がかっこいいので、黙っていても中高校生に手にとられそうだけれど、私は勧めたいとは思わないかな。

西山:ものが持てるという設定に、ちょっとひっかかりつつ読み進めたけれど、墓守ひきつぎの書類が書けてしまったところで、ご都合主義すぎるだろうと、決定的に覚めてしまいました。最初読み始めたときに、濱野京子さんの『ことづて屋』(ポプラ文庫)――死者の声を聞いてしまって、伝えるという――を思い出して、時代の要求みたいなのに応えているのかと興味をもちました。ただ、ご都合主義的な設定があると、切なさにいかないというのか。どう読めばいいのだろうと。「パパのことを許す」というのは、妙な理屈なんですが、そういうのが好きな高校生がいるんじゃないかなと思いました。最後の話で思い出したのは『悪の教典』(貴志祐介著 文藝春秋)で、サイコパスというのでしょうか、表はとても感じのいい顔を持っていて、実は非常にゆがんだ理屈で殺人を重ねるという人物が出てくる作品をおもしろく読むのと同じ感覚で読めるかも。このお父さんが殺してきた側のほうに、ちょっとでも気持ちが行けば読んでいけないから、想像力をシャットアウトしないと楽しめないじゃないかなという気がしました。表紙はきれいで、黒い瞳の美少年って萌どころかも。出版社側もチャレンジャーだなと、思いました。

さらら:ある世代の、世間に対して漠然とした憎しみをもっている人たちは、安易だけれど、少しダークで、でもダークすぎず、妙に筋道がひかれたものを読むと、ちょうどいい気晴らしになるのかもしれません。墓守りのレオ自身は、言葉少なで、いかようにも読めるキャラクターとして書かれていますが、1話目の幽霊にも、3話目の教授にも、自己陶酔的なところがあり、私はそこがすごく気になりました。

マリンゴ:6月に発売された『あまからすっぱい物語』(小学館)というアンソロジーに書かれていた、石川さんの短編を読みました。他の人たちが、日常を舞台にしているのに対して、石川さんは近未来が舞台。味覚がテーマのアンソロジーでこういう設定を選んでくるのは、非常におもしろい方だなと思っていました。今回の小説については、3章にいいセンテンスがあると感じました。「いずれは崩壊するのだとしてもそれが明日でなければいい」というのは、現代への警鐘になると思いますし、「呪われている人生を終えて、呪われていない人生を始める」というのは、たとえば死刑制度の是非を考えるときに、参考になる考え方かと。大きな罪を犯した人に、なぜチャンスをあげなくてはいけないのか、1つの答えの掲示だと思いました。ただ、1章で気になる点が2つありまして。1つはみなさんが既に言われている、死んでいる人が物をさわれる件。このロジックの説明がほしいと思いました。でないとご都合主義に聞こえてしまう。もう一つは、母がエミリアを送り出す(天に召される)ことに同意するシーン。同意の前に、「私も死ねば今すぐあなたのそばに行けるのよね」という発想があるのが自然ではないか、と。そこを母に言わせて、「いや、ダメ。なぜなら……」と潰す必要があるのでは? それがないので、母が同意するのがテンポ早すぎるように思えました。

アカシア:私はこの作家の本を読むのが初めてだったので、これでいいのか?と疑問に思ってしまいました。私が編集者だったら、これでは出せない、と思ったんですね。まず文章や使われている言葉が、どこかで聞いたことのある常套句ばかりで新鮮みがない。どの文章も「寝て」いて、屹立していない。設定も特に目新しいわけではないのに、そこに寄りかかっているので、キャラも浮かび上がらないし、読ませる力が弱すぎる。確かに、こういう雰囲気が好きな読者もいるでしょう。でも、雰囲気を出したいなら、文字だけでなく、音楽とか画像とかも使って、マンガでもアニメでもいいので、べつの形にしたほうがいいんじゃないかな。本のおもしろさってこの程度か、と読んだ人に思われたら逆に残念です。もしかしたら作者の方にもっと深い意図があるのかもしれませんけど、このままではどうも。

アカザ:これは、ラノベというか、コミックの原作というか……。そういうと、ラノベやコミックの好きな方に怒られてしまいそうな本だと思いました。雰囲気と、センチメンタリズムだけで読ませようと思って書いたんでしょうか。好きな人は読めばいいと思ったんですが、自分を殺した父親を許す……なあんて平気で書いちゃうのは、どうかな。

(2016年7月の言いたい放題の会)


ぼくのなかのほんとう

マリンゴ:サラのシリーズを原文で読んでいて、とても好きで。英語がとりたてて得意でない私にさえ、とぎすまされた文体だというのが伝わってきます。その著者の作品ということで、読む前から好感を持ってしまっていて、だからちょっと甘めの採点になりますが、楽しく読了しました。もっとも訳者の方のあとがきが、本文をなぞることに終始した内容だったのが残念でした。もう少し、作家さんの情報を知りたかった……。読書感想文を書きたい子どもたちには、こういうタイプのあとがきが、参考になるのかもしれないですけれど。

レン:表紙や字組が小学生には読みやすそうで、さっと読めるには読めたのですが、私はこの子の悩みがくっきりと見えてこなくて、気持ちを寄せられませんでした。音楽家の両親のもとで、この子がどう感じているとか、おばあちゃんのことを両親がどう思っているとか、書かれていますがよく見えてこないというのか。どう読んでよいのか、よくわかりませんでした。

ルパン:正直、あんまりおもしろくありませんでした。先ほどから翻訳のことが取り上げられていますけど、私は、こちらの本は訳文以前に、ストーリーというか内容にいちいちひっかかってしまって、楽しめませんでした。それは訳の問題だったということでしょうか。たとえば、きょうだいがほしいという子どもに向かって母親が「どうしてもうひとり子どもがいるの? あなたがいるのに」と答える。それが、ひどい母親、ということになっているのですが、どうしてひどいんだろう?と思ってしまいます。「あなたがいてくれるだけでじゅうぶん」という母親、別の子どもはいらないという母親は、むしろ愛情深いんじゃないかと思えるので、子どもが不満に思う理由がよくわからない。ここは、「あなたひとりでたくさんよ」とでも訳せば、「そんなのひどい」という子どものせりふとつながると思うのですが。それから、これはオリジナルの問題だと思いますが、「マッディには不思議な力がそなわっている」「マッディがすばらしい」「ヘンリがすばらしい」とかやたら出てくるんですけど、どこがどうすてきなのか、ぜんぜん伝わってこないので、そういう言葉が重ねられることで、かえってどんどんつまらなくなってしまいました。

レン:おばあちゃんが骨折したのは、どういう意味があったんでしょうね? この子が一人でがんばるということ?

アカシア:この子と、お母さんと、おばあちゃんが最初はいろいろ気持ちが食い違っているんだけど、最後には理解し合うようになるっていうのがこの本のテーマだと思うんですけど、それがうまく伝わってこないので隔靴搔痒感がありますね。

アンヌ:すごく好きな作家の本だったので、後に余韻が残る感触を楽しみたいと読み始めたのですが、そうはなりませんでした。きっと、気づいていないだけだと思い5回ほど読み直して、やっと、作文の意味とか練習風景を見るロバートの視線とかで、ロバートをクールな少年という風に書こうとしているのかなと思いました。それにしても、ヴァイオリニストのママが、自分の親が動物に好かれる能力があるのに気づいていないところとか、少し無理があるような気もしてします。マッディの骨折の場面も、ロバートが大人になるというより、ヘンリーがクマやボブキャットと交流できるマッディの真実に気づくということの方が重要な気がして、どうして、ロバートが自分の中のほんとうに気づくのかうまく読み込めませんでした。生活の中の音楽の重要性もロバートが気づくことのひとつなので、「死と乙女」を何度も聴いて見たりしたのですが、すっきりしませんでした。

アカシア:マクラクランは微妙な心の動きを書いて読ませる人なので、ロバートはクールというより、熱でいっぱいなんだけどそれを抑えざるをえなくなってるっていうことなんじゃないのかな。こういう作品って、行間を読ませる訳にしないといけないから難しいんですよね。この訳だと、そこまで行かないのでちょっと残念。p31に『ちいさなくま』という本が出てきますが、これはミナリックとセンダックのLITTLE BEARでしょうから、『こぐまのくまくん』とちゃんと邦題で訳してほしい。そうすれば、子どもがもっとイメージを思い浮かべやすくなります。犬の名前もエリノアじゃなくてエリナーでしょうね。

(2016年7月の言いたい放題)


霧のなかの白い犬

ルパン:読みでのある本なのだろうと思いましたが、すぐに訳でひっかかってしまって、物語の中に入れませんでした。語り手は小さな女の子のはずなのに、おとなの男性のような話し方をしていたり、2、3ページの中に何度も同じ言葉がでてきて興ざめだったり。登場人物も多すぎて、結局どんな話だったのかつかめず、いいのか悪いのかよくわかりませんでした。原文で読んだら全然違うんでしょうか。ただ、最後のおばあちゃんが昔ナチスだったというのは、そこまで衝撃的なことなのかな、と思いました。ヨーロッパの子どもにとっては、ナチスだとわかることがそんなに恐ろしい大変なことなんだ、というのは初めて知りました。

アカシア:あの時代は、ナチスの洗脳がすごかったので、ほとんどの子どもたちがヒトラー・ユーゲントに入っていたんじゃないですか。後には強制加入にもなるし。

ルパン:ともかく、日本人にはあまりピンと来ないことで、子どもならなおさらそうでしょうから、もし本当にこの本のとおりであるなら、ヨーロッパの子どもの感覚を知るうえではいいのかな、と思いました。

アンヌ:とても盛りだくさんな物語で、うまく読み解けず、みなさんのご意見を聞いてみたい作品でした。身近に移民がいて、父親が彼らに仕事を奪われてフランスに出稼ぎに行っている生活。今という現実を映している物語だと思いました。親の離婚で傷ついたいとこが、人に嫌がらせをしたり移民をいじめたりする。祖母に認知症の傾向が見え始め、主人公が不安に思っている。そのうえさらに、違う名前で送り続けられる郵便の謎があって、最後の最後にナチスの話が出てくる。それらがうまく絡み合っていき雪だるまのように大きくなるかというと、そういうわけでもない。いきなり最後に大物がドンと出てくる感じで、話が終わっていく。特に、私に読み解けなかったのが、おとぎ話の課題です。全然物語と絡み合って行かなくて、どういう風に読んで行けばいいのか、教えてもらいたいと思いました。

アカシア:この訳者の方のほかの作品を読んでじょうずだなって、思っていたのですが、この本は読みにくいですね。編集者がもっとアドバイスしたら違ってたのかな、なんて思いました。ヒトラーがユダヤ人にペットを飼うのを禁じて、飼っていたペットは殺処分にしたという事実は知らなかったので、びっくりしました。ホロコーストやヘイトの問題を、過去のナチスと現在の外国人労働者に対する感情とを比べることによって浮き上がらせようとしている著者の心意気はいいのですが、問題をベンのおばあちゃんがほとんど言葉で語ってしまっているのは、どうなんでしょう? 主人公はいい子すぎて、なんでも親にすぐ打ち明けなきゃいけないと思っているのは嫌ですね。盛り込みすぎなせいか、一つ一つの問題が深く掘り下げてなくて情緒的に終わってしまうことも気になります。私は、ホロコーストものにある種の欺瞞性を感じてしまうのですが、今はアメリカに住んでいるベンのおばあちゃんが「いいえ、そんなことはさせない。自分たちが許さない。わたしたちが愛してきたものや、いまも愛している者を、すべて壊す権利なんて連中にはないのよ。そういう事態がひき起こされる兆候をいまではわたしたちもわかっている。今度はとめられる。・・・」と話したりする場面にも、そうした無意識の欺瞞性を感じてしまいました。たとえばイスラエルがガザで何をしたのか、とか、アメリカがイラクで何をしたのか、と考えたとき、こういう本って、きれいごとで子どもを騙してることにもつながるんじゃないのかな。それから、外国人排斥が戦争の原因であるように描かれていますが、戦争の原因はもっと経済的なものであることが多いので、そこも短絡的だと思いました。表紙の絵は、ホワイトジャーマンシェパードの子犬には見えないですね。耳の先がちがうのかな。

マリンゴ:今の発言の後に言いづらいんですが(笑)私は今日読み終わったんですけど、電車の中で号泣しました。クライマックスの、こういう盛り上げに、涙腺が自動的に反応するんです(笑)。海外から来た労働者の問題、ケイトのことなどを、ナチスとユダヤに重ねていく手法って、現代の子どもたちが戦争を考えるきっかけになるのかな、と思いました。ただ、気になったのは構成上の問題。白い犬の少女がおばあちゃんだというのは、読者はわりと早く気づくわけなんですが、終盤に来ても「おばちゃんがわたしたちをナチスの一員にしたかった」と、ミスリードしています。これは不要では? ミスリードが効果を発揮していると著者の方が思われてるなら、少し計算のズレがあるかと。あと、おとぎ話から始まったので、ラストをおとぎ話でシメるのはカッコイイはずなんですが、あまり効いてない……。内容が抽象的でピンと来ませんでした。少女が書いている文章(という設定)なのだから、もっと直截的でもよかったのかもしれません。

レン:読み始めたとき、認知症が出始めたおばあちゃんのことや、いとことのぶつかりあいが話の中心になるのかなと思ったんですけど、そのあと犬を飼うこと、おばあちゃんが隠してきた秘密、外国人の移民のことなど、どんどん話がふくらんでいって、全体に盛り込みすぎという感じがしました。犬にからんでおばあちゃんとベンのおばあちゃんが出会うところがクライマックスですが、あまりにも都合よく偶然が重なりすぎでは? リアルに感じられませんでした。文章もところどころひっかかりました。まず、あれっと思ったのは、冒頭とラストのお話を書くところで出てくる「英語のハンター先生へ」。これは「国語」ではないでしょうか? 自分の言語の授業の時間に作文しているんですよね? 「英語」となっていると、子どもの読者は外国語の授業をイメージしてしまいます。そんなわけで、積極的に子どもに勧めたいとは思いませんでした。

アカザ:テーマをあれこれ盛り込みすぎた作品ですね。それぞれのテーマは、とても大切だし、心を打ちますが、おばあちゃんと犬の話だけをしっかり書いたら、それだけで十分だったのではないかしら。みなさんがおっしゃるように、翻訳についてはポストイットがいくらあっても足りないくらい、おかしな個所がたくさんあるけれど、一つだけ言わせてもらえば、登場人物の呼び方が統一されていないのが、まずいですね。たとえば、主人公の母親が義理の母親のことを「お義母さん」と呼んだり、「エリザベス」と呼びかけたり。ベンの母親も、「ベンのお母さん」といっていたかと思うと、少し後ろの行では「ミセス・グリーン」といったり。これでは、ただでさえ複雑な物語がますます分かりにくくなってしまう。大人の私でさえ、「えっ、エリザベスって誰だっけ?」「ミセス・グリーンって?」と思ってしまいました。そのあたり日本語ではわかりやすくしておくことは、児童書の翻訳のイロハだと思っていたけれど……。

さらら:翻訳の読みにくさの続きですが、p51の5行目「マーク叔父さんが突然やってきて、学校で課題が出たから、フランを自分の両親のところへ連れて行くって…」の部分、何度読んでも主体がだれなのかよくわからないんです。

アカザ:p50の「手をのばして、毛皮に指を通してみたかったけれど」って、毛皮って毛のついたままの皮のことだから、指を通したりしたら大変!

さらら:そう、どうせ犬を描くのなら、目の前に本物の犬がいるのが感じられるように、生き生きと訳してほしいところです。なにしろ、犬が大切な要素を果たす物語ですからね。それから、物語の筋道が読者にちゃんとわかるように、するべきではなかったかと……。例えばp161の「できることなら、あの時にもどって、あのドイツ人の女の子を探したい。」は、前の文脈とそこで大きく変わり、この物語の真髄に入っていくところなのだから、それがわかるように「けれども」を足すとか、一工夫してほしかったなあ。

ルパン:訳すときに適切な接続詞を補うべきところを怠って、そのまま訳しているな、というところが随所に見られますね。たとえば、逆説的なところでは、日本語なら「しかし」「それなのに」などの言葉がないと不自然なはずですが、そういったところへの配慮がないので、子どもは読んでいて混乱するのではないかと思いました。

さらら:翻訳の文体が定まらないのも気になりましたね。メインストーリーだけに注目すれば、悪くないお話なんです。ナチスドイツの時代を、なんとか生き延びたユダヤ人少女と、その飼い犬の命を救ったドイツ人少女の、引き裂かれてしまった友情。その友情が孫たちの手でふたたびよみがえる、というお話でしょう? 原作と翻訳、その両方の整理不足によって、残念なことになってしまいましたね。

〔西山〕:読書会が終わってから、地元図書館でやっと借りだして読みました。皆さんが指摘していましたが、p28の3行目で一人称なのに、自分とケイトのことを「ふたり」と書いているところなど、やはり、立ち止まるところが多々ありました。これが応募原稿だったら、「気持ちはわかるけれど、もっと整理して」と言いたくなりそうです。ただ、難民の子、車いすの子、ダウン症の子(?)を登場させているのは、それらがナチス的な価値観で排除される存在だから、どこかに絞りたくなかったのかもしれません。p106で、過去にしろ現在にしろ、悲しい気持ちにさせる事実を突きつけられて、そういう気分を振り払いたいけれどできない、という感じには共感しました。奇しくも相模原の事件と平行して読み終えることとなり、石原慎太郎などのヘイト発言が野放しにされている日本で、優生思想が実は遠い過去のものじゃないという恐ろしい現実を突きつけられた気分です。

(2017年7月の言いたい放題)


『白いイルカの浜辺』『ノックノック』が紹介されました

Photo_5
Photo_7
『白いイルカの浜辺』

(ジル・ルイス著 さくまゆみこ訳 評論社)と
『ノックノック』
(ダニエル・ビーティー文 ブライアン・コリアー絵 さくまゆみこ訳 光村教育図書)
が「女性のひろば」の4月号と5月号に紹介されました。
書いてくださったのは、近藤君子さんです。ありがとうございます。

Photo_4


『はみだしインディアンのホントにホントの物語』が紹介されました

Photo_3
『はみだしインディアンのホントにホントの物語』

(シャーマン・アレクシー著 さくまゆみこ訳 小学館)がこの7月に出るWWzineで紹介されます。書いてくださったのは、青木耕平さん(アメリカ文学研究者)です。教えてくださったのは岩波の須藤建さん。ありがとうございます。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

「ブラウン管の向こう側 かっこつけた騎兵隊が インディアンを撃ち倒した」

──ブルーハーツ「青空」

おそらくだが、あなたの頭の中のインディアンは、21 世紀を生きていない。あ

なたは頭の中でネイティブ・アメリカンを過去の遺物だと捉えている。あなた

の思い描くインディアンはiPhone を持っていない。車になど乗らない。あなた

の想像のなかのインディアンは、羽飾りをつけたジェロニモで、西洋文明の外

部に立ち、英語ではない言語で、詩的な警句を口にしている。そして彼/彼女は、

あなたのことを憎んだりしない。

シャーマン・アレクシー『はみだしインディアンのホントにホントの物語』の

主人公であり語り手の俺=ジュニアは、先天的な病気持ちで、歯がガタガタで、

いじめられっこで、吃音持ちで、貧困家庭に生まれ、おまけに──インディア

ンだ。そう、現代アメリカでインディアンであるということは、決してポジテ

ィヴな意味になりえない。彼らは生まれつき囲まれている。保留地という土地

があてがわれ、彼らの大半はそこから出ない。そして、人々(おそらくあなた

もその一人)が勝手に想像し押し付けるイメージの枠にも彼らは囲まれていて、

そこから出ることは、大きな困難を伴う。本作主人公ジュニアはそこから「は

み出す」ことを望み、懸命にもがき続けることを諦めない。

実際にインディアン保留地に生まれ育った著者が2007 年に著したこの自伝

的小説は、同年の全米図書賞を始め、各賞を総舐めした。なぜ? インディアン

が物珍しいから? 政治的に正しい訴えをしたから? そう思ったあなたは、イ

メージの中でインディアンをやはり囲っている。本作が絶賛されたのは、まず

第一にこの小説が無類に面白いからだ。なかなかお目にかかれない、ずば抜け

た傑作だからだ。彼の出自、肌の色、先天的欠陥、そんなもの、最終的にはこ

の主人公ジュニアには関係がなく、この小説の面白さを最終的に決定するのは

それじゃない。ここに書かれるのは、一人のたくましく生きる少年の姿であり、

友情であり、恋愛であり、死であり、未来だ。最高の青春小説なんだ。

「生まれたところや 皮膚や 目の色で 一体この僕の なにがわかるというのだ

ろう」

出自や皮膚や目の色に関係なく、澄んだ目をしたはみ出し者は、いつだって最

高の言葉を持っている。