月: 2016年9月

萱野茂文 どいかや絵『ひまなこなべ:アイヌのむかしばなし』

アイヌのむかしばなし ひまなこなべ

『アイヌのむかしばなし ひまなこなべ』をおすすめします。

心根のいいアイヌに仕留められたクマの神様は、その魂を天の国へ送る宴で目にした若者の素晴らしい踊りが忘れられません。クマの姿で何度も地上にやって来ては同じアイヌの矢に当たり、宴で若者の正体をつきとめようとします。このアイヌは、クマの肉や毛糸をたくさんもらって裕福に。さて「暇な小鍋」とは?

アイヌ文化の継承に力を尽くした萱野が採集したこのお話には、道具には魂が宿ると考え、カムイ(神)として敬ってきたアイヌの人たちの考え方がよくあらわれています。人間は他の生命をいただいて生きている、ということの重みも伝わります。独特の文様を取り入れた絵も子どもにわかりやすくて楽しい絵本に仕上がっています。

(「朝日新聞 子どもの本棚」2016年9月24日掲載)


2016年09月 テーマ:自然の厳しさ

日付 2016年9月16日
参加者 アカシア、アンヌ、紙魚、草場、さらら、西山、ハックルベリー、花
散里、パピルス、マリンゴ、ルパン、レジーナ、レン
テーマ 自然の厳しさ

読んだ本:

(さらに…)

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エベレスト・ファイル〜シェルパたちの山

ルパン:ストーリー性豊かで、読んでいるときはおもしろかったのですが……読み終わってから、どうも釈然としないものばかりが残ってしまいました。まず、大統領候補のブレナンが選挙戦中に悠長に登山していていいのか、という疑問。ブレナンに雇われているカミが、ブレナンが休んでいるのに自分は働くことに不平等感を持つのはそもそもおかしい。ジャーナリストであるサーシャが取材相手のブレナンとどなりあったり、ブレナンを面とむかって批判するのもリアリティがない。最後は、カミは全身麻痺、サーシャは死に、ブレナンは世捨て人になり、ニマはブレナンでなくカミを恨んだままアル中に。ともかく救いのない物語。読後感が悪く、登山の様子はよく描かれていますが、子どもに薦めたいとは思いません。物語の意図が、シェルパという職業の人たちにスポットライトを当てたい、ということだったのであれば、完全な失敗だと思います。カミの悲惨な運命には、シェルパへの敬意が感じられません。

アンヌ:最初の語り手が、ギャップイヤーという大学生以前の男の子で、何も知らない様子なのに、いきなり単独行で山奥の村まで医薬品を運ばせるという設定には驚きました。行方不明のカミがほぼ全身まひになっているというところからカミが語る物語が始まるので、ひどいことが起きるのだろうと思いながら読んでいくのはつらく、一度は読むのをやめてしまったほどです。これだけ人が登っているエベレストで、嘘をついてなんとかなると思ったりするのも変で、償いの仕方ももう一つ納得がいきません。最後がエベレストの魅力で終わるのも、奇妙な感じです。山への畏敬の念がない人が書いたんだなと思い、価値観の違いを感じました。お坊さんの話の引用も中途半端で、いかにも「悟り」とか好きそうな欧米人という感触でした。

マリンゴ:惹きつけられる内容で、一気に読みました。ただ、著者のサービス精神が旺盛すぎるように思います。シェルパが山を登って降りてくるだけでも、じゅうぶん読ませるのに。でも、シェルパ族が主人公では、読者がとっつきにくいと思ったのかなぁ。出だしはイギリス人のナビゲーターにしたほうが、イギリスの読者には親しみやすいと考えたのかもしれません。それにしてもシェルパが主人公というのは興味深かったです。これまで登山成功のニュースを読んでも、私自身、関心をもつのは山を登った“外国人”のほうでした。シェルパは高地に強くて、黙々と荷物を運び続ける職業の人、という程度の認識しかなかったので。また描写は、著者本人が実際に登頂しているだけあって、リアルでした。山に遺体があちこち放置されたまま、というのは知らなかった……。遺体を収容できなくても、その場に埋めると思い込んでいたので……。第2弾も出ているとのこと、ぜひ読みたいので、早く翻訳してほしいです。

アカシア:謎に引かれて一気に読みはしましたが、そんなに好きになれませんでした。西欧的な価値観と世界観で書かれているような気がしたんです。たとえばユキヒョウを助ける場面ですけど、自分の生存が脅かされているような地域の人たちは、普通は自分や恋人や家族の命の危険を冒してまで、野生生物を救おうとは思わない。そんなぜいたくはできないんです。それがシュリーヤもカミも、計画もなしに危険を冒す。カミだって携帯電話やメモリーカードを使われたらどうなるかわかっているのにすぐに返してもらおうともしない。この作者はシュリーヤやカミのことを、ピュアだけど知恵なしだというふうに描いているのかと思いました。そうでなければご都合主義。それからカミが頂上まで行けなかったのはカミのせいじゃない。ブレナンが命じたからだし、高山病にかかっていそうなブレナンを支えなきゃと思ったからです。でも、著者はカミに「神様たちにむかって『ごめんなさい』と叫びたい、ばかげた衝動にかられた。あんなに近くまで行ったのに、信仰の証を示せなかったことが申しわけなかった。シュリーヤからあずかった捧げ物を、神々の手にあずけることができなかったことも。そして、ブレナンを頂上に立たせてやれなかったことが申しわけなかった」と言わせている。著者はその後もさんざんカミに悩ませて、雪崩という罰まで加えている。カミはブレナンにはめられたわけですが、首から下が麻痺して寝たきりになり、はめた本人のブレナンが「カミは特別な人間だ」なんて言いながら隠者顔してそばにいる。それなのに著者はカミに「よくきてくれたね」などと語り手に笑顔で言わせている。私は読んでいて気分悪くなりました。歴史的に欧米人に命令されて動くしかなかったシェルパの人たちは、本来ならどこかで生きる知恵を身につけて、割り切り方も知っているはずなんです。もしカミにそれでも申し訳ないと思わせたいなら、遠征隊とは違う理由でカミなりにヒマラヤ(という名前からして西欧的で、この著者の意識を表しているような気がします)の頂上に登らなくてはならない理由があったと著者は書くべきです。それもないので、ご都合主義的に見えます。

パピルス:読んでみたいと思っていた本です。おもしろく読みました。他の方がおっしゃるように、ブレナンがエベレストに登ることで、大統領選にどう影響するのか、おかしいと言えばおかしいですが、そういうものだと思って気にせず読みました。著者がエベレスト登山を経験しているため、ペース配分や酸素ボンベの使い方など細かいところまでリアルに描かれていて、展開を盛り上げたと思います。また、純粋なカミの十代ならではの苦しみがよく伝わってきました。サーシャとの友情や、ブレナンへの忠誠心、シュリーヤへの想いなどです。こういった部分はヤングアダルトならではだと思いました。

西山:おもしろくて一気読みしました。おっしゃる突っ込みどころは、聞けば同感ですが、そういう心理を気にせずに読みました。謎解きで引っ張られてるんですね。ツッコミどころ満載だけど、気にしなければ読める、という読み方自体どうなんだという問題は残ると思います。ただ、テキストだから読みましたが、この表紙で、このタイトルでは、山に興味のない私は手を出さなかったと思います。ノンフィクションだと思っていましたから。

レン:先が知りたくで、どんどん読めました。ストーリーの強さがある作品ですね。ただ、腑に落ちないことがいろいろありました。獣医になる前の社会貢献をする機会としてネパールにやってきた「ぼく」が、いきなりグーグルアースにも出てこないような村に一人で向かうというところで、まずひっかかって。作者はブレナンを嫌なヤツに描きたかったのだろうけれど、あまりに一面的かなとか。内容的に、こんなこと言うかなあ、するのかなあと思ってしまうことがたくさんありました。「シェルパたちの山」と副題にあるのが、あまりピンとこず。山を甘くみちゃいけないということ? 読ませられるけれど、積極的に薦めたいとは思わない本でした。

レジーナ:展開が早く、次々に事件が起きるので、一気に読んでしまいました。副題に「シェルパたちの山」とありますが、シェルパの人たちの人間性は深く描かれていません。作者は、エベレストの厳しさと、社会の不均衡が書きたかったのではないでしょうか。ユキヒョウを助けようと突っ走るシュリーヤのような人物は、ハリウッド映画にときどき出てきますよね。『ジュラシック・パーク』とか。

パピルス:ユキヒョウのところは、カミとシュリーヤが深くつながるきっかけですよね。

花散里:今回の3冊の中で、私はこの本がいちばんおもしろかったです。本書は少年カミを描きたかったのだと思います。ユキヒョウが登場する第3章は、設定が上手いと思いました。シェルパたちの話は、新田次郎の『強力伝』(新潮社)など、山岳小説を思い出しながら読みました。アメリカ人のブレナンなどは物語の登場人物であり、人物像などは、豊富な資金を提供する人間、そういう設定なのかと気にはなりませんでした。ネパールの僻地に医薬品を届ける若者を登場させてストーリーを展開していくことで、カミとシュリーヤの関係性がわかっていくという構成もうまいし、お金がほしくてやってはいけないことをやってしまったという、カミが罪の意識に苛まれていくところも、最後まで一気に読ませると思いました。原田勝さんが訳されたということも、この本を読んでみたいと思った一因でした。

アカシア:でも、この状態で罪の意識をカミに感じさせるのは、西欧的な視点だと思いませんでしたか?

花散里:お金を得るには、それしか考えられなかったのでないでしょうか。

アカシア:だったらなおさら、著者はなぜカミに罪の意識を感じさせるんでしょう?

花散里:ブレナンに対して拒絶できなかったこと、シュリーヤとの約束を守れなかったことを、「捧げ物を、神々の手にあずけることができなかった」と表現したのではないでしょうか。

アンヌ:シェルパの人たちが持っている信仰は別のものではないでしょうか。カミは雇われて山に登っただけ。それなのに、嘘をついたことへの罪の意識とか、罰が当たったことを受け入れているところとか、何か同じ価値観を押しつけている気がします。

花散里:愛情表現ではないでしょうか。

アカシア:カミは遠征隊の中では自由意志が発揮できない存在なんです。シェルパの立場にある人がカミみたいに感じていたら、実際は生きていけないんです。「純粋だけど愚か」という設定にしているんじゃない?

ハックルベリー:児童文学の山登りものといえば、山を登るのは感動的で、基本的にいい人という描き方がほとんどでしたが、名誉名声のために登るとか、シェルパをお金で買って登るとか、汚いものがリアルにからんでいる、というのがおもしろいと思いました。シェルパの人たちの価値観は描かれていると思いますが、なにぶんカミは若いです。お金がほしいとか、愛を貫きたいとか、思いが単純で、まだまだ未熟で、シェルパの地域の価値観もわからない中で、どんどん悪い方に巻き込まれている感じが悲しい。カミはそのつど純粋に悩んで決めているんだけど、ひとつひとつどこかずれていく。カミとニマが山に置き去りにされる場面など、衝撃的で、胸に迫りました。簡単に人の命が犠牲になる、そうして世の中から置き去りにされていく人たちを描いている文学という気がします。山に登るピュアな気持ちとか、感動とかいうより、この世界に置き去りにされていく、というのを描いていると思いますし、それは実際にあることです。そういう社会構造そのもののおかしさとか、愚かなことがつみかさなっていって、こうなりたくないという例の物語として読みました。

アカシア:だれも幸せにはならない物語ですね。

ハックルベリー:「山登りの汚さ」も見るべき、と思いますし、そういう物語があってもいいと思います。

(2016年9月の言いたい放題)


<翻訳者・原田勝さんからのコメント>

バオバブのブログの読書会の記録で『エベレスト・ファイル』をとりあげてくださってありがとうございます。
この物語は世界最高峰をめざす過酷な登山を背景にしているだけに、つらい描写もたくさんあるのですが、読書会に参加なさった方の発言の中には、少し、訳者であるわたしの理解と異なる点があり、メールをさしあげました。また、原作者のマット・ディキンソンの社会的な批判の目や、また自ら登山や冒険、過去の取材を踏まえた彼の執筆活動も尊敬していますので、そういう面でもいくつか訳者からの補足情報を以下に書きたいと思います。読書会のメンバーの方にお伝えいただけると幸いです。

1)大統領選中の登山
たしかに、少し無理もありますが、ブレナンは本選挙前の、そして、党指名を勝ち取る予備選挙の、さらにその前の時期に登山しているという設定です。

2)サーシャがブレナンとどなりあう
これは、ブレナンがサーシャの報道の自由を侵害するような行為に出たからで、ジャーナリストとしては極めて当然のことです。実際にこういうことはあると思います。日本の記者クラブの御用記者体質がむしろ批判されるべきでしょう。

3)カミが全身麻痺で終わることについて
これは、じつはわたしもつらいと思っていたのですが、もともとこの作品は三部作の一作目で、先月来日していたマットと会った際にきいたのですが、三作目の完結編で、このつらい状況を補うような方向での結末が用意されています。残念ながら、これは現時点ではネタばれなので、ここには書けません。訳せるといいのですが……。

4)シェルパへの敬意が感じられない
ニマのアル中のことや、カミの容体などを見るとたしかにそうもとれますが、しかし、そもそも、シェルパを主人公にした作品が大人向けの山岳小説にもほとんどないことを考えると、原作者の強い思いを感じます。マット本人から聞きましたが、イギリスの大手の出版社は、主人公がシェルパであることがネックで、なかなか出版が決まらず、結局、版元はアウトドア関連の本を出版している比較的小さな出版社になったそうです。
また、海外の登山隊が落とす外貨がシェルパの収入源になっているのは事実で、お金をめぐるトラブルも多々あると聞いています。また、同じように命がけで登山しているのに、その配慮がないこともあります。お金のために、過剰な荷を背負って事故にあうこともあります。作品中で、カミとニマは撮影後、クレバスの中に取り残されますが、これは実際にあった事件を題材にしているそうです。
カミがあまりに純粋なので、ばかにしている、というような意見もあったようですが、いくつかのネパールでの旅行記などを読むと、シェルパ族の人たちの人の良さというのがうかがわれ、決して馬鹿にしているのではなく、民族の美点として抽出していると、わたしは考えています。

5)自然への敬意
シュリーヤがユキヒョウを守りたい一心で行動することに対して、そんなぜいたくはできない、という意見もあったようですが、とても残念な意見です。たしかにそれどころではない人も多いでしょうが、ネパールの人たちが自分たちの暮らす地域の自然を守ろうとする気持ちで行動することはきわめて当然ですし、もちろん、フィクションなので、こんな危ないことはしないと思いますが、彼女の気持ちはわたしにはとてもよく理解できます。

6)山への畏敬の念と山の魅力
カミがエベレスト(ネパール語ではサガルマータであることが、きちんと作中ふれられています)に登りたいと思い、ライアンがラストシーンで、エベレストの姿にどうしようもない引力を感じ、また、そもそも、世界中の登山家がエベレストに登りたいと思う気持ちは、あらゆる危険や犠牲を超える不思議なものだとわたしは思います。
じつは、ライアンがエベレストを遠くに望むラストシーンは、第二作の “North Face” で、彼自身が主人公となって、今度はチベットでの冒険が描かれることへのつなぎでもあり、それはこの作品を読むだけでは感じられないかもしれませんが、理屈抜きの魅力を夕日のあたる山頂で表現したのは、とてもうまいと、わたしは感じています。

7)カミの罪の意識
シェルパの立場にある人がカミみたいに感じていたら、実際は生きていけない、という意見がありました。そうでしょうか? たしかにお金で雇われてはいるのですが、きちんとした遠征隊で、立派なシェルパであるならば、エベレスト登山は単なる仕事ではないはずです。シェルパの人たちにとって、エベレストは信仰の山でもあり、また、世界最高峰でもあるし、なにより、人間の限界に挑む命がけのチャレンジであるはずです。
その神聖な山に登っていないのに登ったと嘘をつくこと、また、ベテランのシェルパであれば、もっと早くテントを出発するよう助言できたのではないか、あるいは、もっと早く引き返す決断を下せたのではないか、そういう悩みがあるがゆえに、カミは罪の意識を覚えるのです。

8)だれも幸せにならない物語
これも、三作めの一作目であることが大いに関係しているとは思いますが、たしかに厳しい物語です。しかし、エベレスト登頂がやはりとても大変な事業であり、頂上を目前に引き返した無念さを味わった登山家も多く、また、無理をして登頂には成功したものの下山中に命を落とした登山家も数多くいるのです。それでもなお、なぜ、世界中の人たちが登頂を目指すのか、答えはひとつではないでしょうが、少しでも、その危険な魅力を読者に感じてもらえればと思います。

9)ご都合主義について
たしかに、ちょっと無理があるんじゃない、という設定はありますが、エンタテインメント性を備えた小説には許される範囲だとわたしは思っています。これは、この作品に限らず、とくにヤングアダルト作品には、こうしたアドベンチャーもの、SF、スリラー、ホラー、サスペンスなど、がもっとあっていいと考えています。大人だけがこういうジャンルを楽しんでいて、若い読者はつじつまのあうものだけを読まされるのはどうなんだろう、と前から思っています。わたしの訳したものの中では、ケネス・オッペルや、ガース・ニクスが、もっと日本で評価されるとうれしいのですが。

10)原作者の意識
マット・ディキンソンは、BBCやナショジオの映像作家をやってきた関係で、自然保護やアドベンチャー、社会正義といったテーマにとても敏感な作家です。ヤングアダルト作家としての最初のシリーズは、いわゆるバタフライ現象をもとにした、エコロジカルなサスペンスでした。この「エベレスト・ファイル」のシリーズは、すでに “North Face” という二作目が出ていて、三作目、”Killer Storm” は来年出る予定。訳せるといいのですが。
今年は “Lie, Kill, Walk Away” という、政府による内部告発者の抹殺を背景にした(実際にそうではないかと疑われている事件がイラク戦争にからみ、イギリスでありました)、ヤングアダルト向けのサスペンスものを書きました。
ただ、これも大手の出版社からは出してもらえなかったそうです。
こういう作家がいてもいい、と思います。


いま生きているという冒険

さらら:生きるというのは、世界を経験すること。今生きている普通の世界のむこうにある、さらに広い世界を作者は経験し、若い世代に伝えようとしているんですね。南極まで行けて、よかった! 様々な冒険で広がった想像力を通して、この作者は日常もほんの少し視点を変えればまったく違うものが見えてくることを、併せて伝えています。写真の割り付けに特徴がありますね。写真を文章とは切り離して出すのは、不親切からではなく、その写真を前にして、読者がまず感じることを大切にしているのでしょう。

ルパン:わたしは、これはすばらしい本だと思って読みました。インドひとり旅やエベレスト登山など、個々の冒険だけでも1冊の本になるのに……アラスカ、北極、太平洋横断挑戦など、世界をまたにかけた数々の冒険の末、最後の3行「家の玄関を出て見あげた先にある曇った空こそがすべての空であり、家から駅に向かう途中に感じるかすかな風の中に、もしかしたら世界のすべてが、そして未知の世界にいたる通路が、かくされているのかもしれません。」で、もう胸がいっぱいになってしまいました。KOです。そこだけ切り取ると、言葉だけでは陳腐になってしまいそうなのに。こんなにいろんなものを見てきた人だからこそ説得力のある3行です。ここまでくると、中途半端なフィクションでは太刀打ちできない、と思いました。

アンヌ:若者の冒険談だと思って読み進めていたのですが、p116の白クマとの遭遇あたりから、おやっと思い始めました。ここら辺ではまだ、Pole to poleだったので、冒険ものとして読んでいたのですが、足が震えて白クマが去ったとも動けなかったと恐怖について書かれているところから、成果を語るのが目的ではないと気づきました。特に星の運行術を学ぶあたりからは、冒険ではなく自分自身の中にある先人が持っていた能力を掘り起こす旅になっていき、この章ではとても感動し、羨ましく思いました。ところが、次の空への能力を身につける気球の旅はあまりに無謀で、あっけにとられました。最後の章では、冒険とは何かという考察で始まり、宇宙を内部に持つことが語られていきます。古代の人々が描いた岩壁画や洞窟画、様々な聖地で、別の未知なる世界が自分の中から開かれていく可能性について語るところは、共感するものがありました。現実の世界とは違う世界を探すことは、精神の、想像力の冒険という見解には、実に心を揺さぶられました。

マリンゴ:非常におもしろく読みました。写真が、カメラマンだから当然ではありますが、すばらしいし、文章も読みやすい。石川さんの文は、他でも読んだことがあるのですが、この本では彼のルーツを順にたどることができて、そういう意味でもよかったです。クラスでいじめを受けたり、イヤな思いをしている子が読んだら、そんな狭い世界のことは大したことない、と励まされるような気がします。外にはもっともっと、広い世界があるのだ、と。もっとも、自分がこれを読んで旅に出たくなるかというと、全然そんなことはなくて(笑)、旅のレベルが桁違いなので、ただただぼう然としながら読み進めていました。自分とこの著者は、生まれ持ったDNAがまったく違うんだなと痛感させられたりもして……。ただ、巻末に近いところで、日常的な生活のなかにも旅はあるのだ、とフォローしてくれている一文があるので、ホッとした次第です(笑)。余談になりますが、この「よりみちパン!セ」というシリーズ、読んだことがなかったのですが、とてもおもしろそうなラインナップで、他にも手に取ってみたいなと、いまさらながら思いました。

アカシア:とてもおもしろく読みました。最初はちょっと疑問を持っていたんです。たとえば、日常は退屈で戦場のような非日常の空間にいると生きてる気がする戦場ジャーナリストっていますよね。この人もそんな感じで冒険アドレナリン中毒なのかな、と思ったんです。でも、最後の「未知の領域は実は一番身近な自分自身のなかにもある」というところに、20代の後半ですでにたどりつく。それはすごいことですね。ところどころにイラスト入りのコラムがあって、その入れ方も楽しめました。

紙魚:今回、選書するにあたって、いちばんはじめに『レッドフォックス』が決まったのですが、日本の作品でそれに並ぶものをと考えると、なかなか浮かばず、違う物差しでスケールの大きなものをと考えて出てきたのが、この本です。石川直樹さんご本人が、なにしろスケールがどでかくて、身体能力も高ければ、強調性もあり、人類学の知識もあり、文学・音楽など芸術にも造詣が深い。どの分野にもつねに能力を伸ばしている、希有な人だと思います。しかも、エベレストに登る1歩と、三軒茶屋の街を歩く1歩は変わらないと、本気で考えているというのも、素晴らしいと思うんです。さきほど、写真の入り方について話が出ていましたが、おそらく、その場にいてその世界を感じるということを、写真でも表現しているのではないかと思います。その場に行ってシャッターを切るだけで、世界はなにも説明してくれない。私たちも、この本を読むことによって、何かしらそこに立ち合っているのではないかと思います。

パピルス:わくわくしながら読みました。高校時代や大学時代。自分も異文化や大自然へ飛び込むチャンスは絶対にありましたが、石川さんのように1歩踏み出す勇気がなかったと思いました。留年して同級生から取り残されるとか、就職活動できなくなるとか、いろんなしがらみがあって、それを振り切ることができませんでした。石川さんは、十代の頃から見ていたものや目指していたものが違ったのでしょう。山への信仰は、畏敬の念からはじまっているというお話が特に印象に残りました。

草場:すごくおもしろく読みました。団塊の世代にはフラッと旅に出る人が多くいましたが、今の学生は保守的ですね。この人みたいに、命ぎりぎりのところに行く人はあまりいない。あの頃は、植村直巳が山だけでなくバラエティに富んだ冒険をしていました。今の若い人も、少しでも冒険をしてほしいですね。留学したくない若者が今は多く、最近は消極的だとききますが、こういう本を読んで刺激を受けて世界に出て頑張ってほしいです。

西山:前にどこかで今の若い人が留学にも消極的とかそういう話が出たときに、30代ぐらいの人だったかな、近年の貧困の問題もあるから経済的にも冒険に行くのが許されない状況があると述べられたことがあります。経済的に上向きのときには、若者がふらふらしているのが許されるのかもしれない。だいたい今の日本で、高校の先生がインドへの一人旅をすすめるというのは、かなり難しいと思います。

レン:状況によるのかなと思います。私が教えている大学では、休学して自費で留学する学生が昔より増えているみたいです。一方で、学生が行きたがっても、親が止めることもあるし。一概に言えないかな。

アカシア:この本でも、「それぞれの街で最安値の宿に行き着くと、そこには必ず日本からのバックパッカーが泊まっています」と書いてあるから、今でも行く人は行ってるんだと思います。ひとくくりに今の若者が保守的とは言えないかも。

西山:本文のおまけのような、カット入りの注釈がおもしろかったです。例えばp16のバックパッカーの説明とか、笑える。ちょっと気になったのは、気球で高度をあげる危険を語っているところで、「死ぬ前の一瞬の恍惚だったといいます」という記述がありますが、体験者は死んでいるのでは。全体としては、おもしろく読みました。p264の1行目に出てくる「見晴らしのよい静寂なところ」という言葉が気に入って、今回合わせ読んだほかの2冊にも出てきたなぁと。なんか、作品とは離れて、そういう場所が出てくる作品って素敵なんじゃないかと思ったりしました。p124の最終行に「マヤ」とあるのは、インカのまちがいですね。ちょっと残念。

レジーナ:私は勤め先のブックトークで紹介しました。犬ぞりの操縦者の家の前に並ぶたくさんの犬小屋の写真や、気球で生活するときの小さなゴンドラの写真を拡大して見せましたが、中学生は喜んで見ていました。私は中学のとき、学校で長倉洋海さんや辺見庸さんの話を聞いて、とてもおもしろかったのを覚えています。今、「この国はこう」と決めつけるメディアが増えていますが、世界に飛びだして自分の目で確かめることができなくても、こういう本を読んで世界を広げてほしいです。

花散里:今回の課題本になるまでこの本を知りませんでした。「よりみちパン!セ」シリーズが、薦めてみたい本のシリーズではなかったから読んでいなかったのかもしれません。読んでみて、世界中を旅してすごいと思いましたし、たくさんの写真が紹介されているとは思いましたが、文章に引っかかるところが、かなりありました。個人的には「深夜特急」(沢木耕太郎著 新潮社)で、アジアを知り、「旅とは何だろう」と思ってきました。この本は中高生向きだから、こういう書き方なのだろうか、という感じがしました。「深夜特急」以降バックパッカーが多くなり、紀行文やノンフィクションの書き手も増え、藤原新也さんの作品などが多く世に出たという時代の流れもあるのかもしれませんが……。小学校では、「グレートジャ―二―」のシリーズを借りて読んでいる子もいます。

アカシア:文章がひっかかったというのは、どこ?

花散里:全体的な印象ですが……。中高生に向けて書いているから、ちょっと浅いというか、こういう表現なのかしらと、思える文章が気になりました。

マリンゴ:沢木さんの『深夜特急』は全巻読みましたし、藤原新也さんも読みましたが、石川さんとは、アプローチが違う気がします。むしろ真逆なのかな。前者の方々は、自分探しの旅といいますか、自らの内面に向けて書いているところがあるように思うのですが、石川さんは外に向けて書いているのではないか、と。

アカシア:この著者が子どもだからこの程度でいいと思って書いているとは、私は思いませんでした。最初は好奇心でどんどん進んで行って、次々に新しいことに挑戦しているから、一つのテーマや場所を見つめて深く、というのとはもともと違うんだと思います。「よりみちパン!セ」は、いろいろな分野の入口として存在してるから、入口の役目が果たせればいいんだと思うし。

レジーナ:昔の中高生はちくまプリマーなど新書を読んでいましたが、今は大学生が読んでいるので、「よりみちパン!セ」はより読みやすい中高生向きの新書として作られたのでは。大学のとき、論文で新書を引用した人がいて、先生が激怒していましたが、新書が学術書でないように、このシリーズも高度な読書にはならないけれど、そこから広げていける本ではないでしょうか。

アカシア:昔は岩波新書が中・高校生の学問の入口だったと思うんです。今はそれじゃあ難しいので、こういうもう一段わかりやすいシリーズになってるんじゃないかな。

花散里:「インド一人旅」のp29「地獄におちてもらうぜ!」などの書き方が、これでいいのかしらと思いました。世界中を旅して、この1冊にまとめるのには無理があり、全体的に盛り込みすぎな印象でした。

アカシア:深いところにおりていってそれを伝えるというのとは、やり方が違うし、このページ数で、しかもあちこち行っているから、それは仕方がないのでは? 「深夜特急」も「グレートジャーニー」も大部ですから、もっと細かい観察ができる。藤原新也もたとえばインドだけで400ページ以上あるわけですから、当然のことながら細かく観察しつづけている。こっちは、同じような好奇心でも、どんどん違う方向に行くので、一つのことについてが浅いといえば浅いですが。沢木さんや藤原さんの本は著者と一緒に地面を這っていくような感覚になれますけど、これはここと思えばまたあちら的に陸から海、海から空みたいに飛ぶので、しみじみ観察するということはない。でも、好奇心をこういう形で持続させるのもありだと思うんです。また、若い勢いのあるうちは、先人がすでにやっていることを繰り返すのは嫌なんだと思うんです。だからインドならインドをじっくり歩いたりしても、それは他の人がすでにやっているので、二番煎じになる。そういう意味では、判断力にしても身体能力にしても、いろいろな場面で自分を試してみようと思って、しかもそれを可能にしていくのはやっぱりすごいと思います。

花散里:p17の、旅に出るということはどういうことなのかの説明にも私は違和感が…。

アンヌ:私は、この1冊の中で著者がどんどん年齢を重ね、その過程で考えを深めていく感じがしました。いわゆる冒険家とは違う人だなと思い、とても新鮮でした。

(2016年9月の言いたい放題)


レッドフォックス

さらら:久しぶりに動物の物語を読みました。レッドフォックスの視点に、ぐんぐん引きこまれます。鋭い観察眼に基づく情景描写が的確。野生動物の動物らしさにも魅かれます。人間と動物の視点を分けて書き、複数の価値観が響きあうところも好きです。対象年齢は高学年以上とありますが、本をたくさん読んでいる子でないと、読みこなせないかもしませんね。

ルパン:なんだか懐かしい思いで読みました。子どもの頃読んだ椋鳩十を彷彿とさせる感じで。数十年ぶりにこういう作品を読んだ気がします。動物にいっさいせりふがなく、くどくどと心理描写をしていないところがいいですね。

アンヌ:最初にこの本を見た本屋では表紙を見せて飾ってあって、なんとなく、クリスマスのプレゼントに魅力的な本だなと思いました。実に淡々と成長の過程や狐の生活が描かれています。ジャック・ロンドンの『白い牙』とか『荒野の呼び声』(新潮文庫)、ニコライ・アポロノヴィッチ・バイコフの『偉大なる王(ワン)』(新潮文庫)を読んで育った身としては、たまらなくおもしろかった。けれど、火事の場面やキツネ狩りの場面など、いくらでもドラマチックに盛り上げられる場面もそうせず、静かに終わっているのには、驚きました。大人でも、読み続けていくのは難しいかもしれない量で、今の子どもには無理かもしれません。たとえ全て読み通せなくても、狐の見事な死んだふりの場面とかを読むと、「狐のルナール」(『狐物語』 岩波文庫)とか、日本の民話とかを読み返したくなったので、そういう物語の入口になればいいと思います。動物好きの子どもに手渡したいなと思います。

マリンゴ:子どもの頃、家に『シートン動物記』の完全版がありました。大人向けだから小学生にはちょっと手強かったんですが、それでもおもしろく読んだのをなつかしく思い出しました。『シートン動物記』が、「オオカミ王ロボ」など、動物に固有名詞をつけて感情移入させやすくしているのに対して、『レッド・フォックス』は、人間に寄せて書くのを極力排除しています。それが、とても興味深くて、楽しく読みました。ただ、大人の今だからそう思うのであって、子どもだったら、もしかして読みづらいのかな?という気もしました。あと、1905年に刊行された本が、なぜ今、日本で発売されるんだろう、ということが不思議です。あ、決して悪い意味じゃなく、素朴にどうして「今」なんだろう、と。

アカシア:とてもおもしろく読みました。「まえがき」で、「レッド・フォックスが示す感情は、人間の感情ではなくキツネ本来のものだ」とか、「けっして、一部の批評家が言うように、人間の感情を下等動物にあてはめているのではない」と繰り返していますね。シートンの動物物語にもそういう批判があったと聞きますが、その批判は当たっていないということをまず言っておかないと、という意気込みが感じられます。これだけの物語を書けるのは、森林がある環境で小さいうちから動物を身近によく見て観察した人ならでは。一定のスピードで読むと引き込まれてどんどん読めますが、今の子どもの読むスピードだと、ふんだんにある自然描写に手こずるかもしれませんね。オリジナルの絵の下に文字をいれたりして、クラシックな感じですね。表紙ももともと布張りに箔押しで金を使ってあるのでしょうけど、それを生かそうとした装丁ですね。

さらら:情景描写の翻訳は難しいんじゃないですか。翻訳者は見ていない情景を想像し、目に見えるような場面にして読者に差し出すわけですから。

草場:おもしろく読みましたが、高学年でこういう話が好きな子じゃないと読まないかも。レッド・フォックスは頭のいいキツネで、死んだふりをするんですね。サバイバルできてよかったです。それにしても、野生の動物なので、最後に環境が変わってもいきられるのでしょうか?

アカシア:まったく同じ場所でなくても、似たような環境の場所なら充分生きられるのではないでしょうか。

パピルス:著者が森に住む動物たちをとても細かく観察しているため、様子が目に浮かぶようです。1章ごとに日々の森での生活が描かれていますが、出会いと別れ、そして成長があり、物語として上手に組み立てられているなと感心しました。翻訳本を多く手がける出版社の編集者が、「翻訳本の良いところの一つに、古い作品でも訳を変えればまた新しくなることだ」と言っていました。この作品は1905年に発表されましたが、日本では2015年に出版されました。100年以上前の作品にはなりますが、表現や言い回しで「古い」ということで、読んでいて気になることは全くありませんでした。

西山:久しぶりに、こういうものを読みました。全体を通していちばん思ったのは、自然界では、若いというのは愚かということで、愚かでは生きていけないんだなぁということ。人間の話だったら、特に児童文学では、若者の好奇心や、無謀な行動も、それで失敗することがあっても、根本的には価値あるものとして捉えられていると思うんです。それに対して、自然界は、若さは馬鹿で命を落とす。翻って考えれば、人間の社会は、弱くて愚かでも生きていける、それが人間が作ってきた社会なわけで、弱肉強食的自己責任論とか、人類の歴史に逆行しているのだなと改めて思いました。「那須正幹の動物ものがたり」(くもん出版)と、並べて読んでみるとおもしろいかもと思いました。272ページの、捕まってしまった場面で、つながれた鎖から逃れようとして、干し草に埋めて、見えなくしたら、鎖をなくせるんじゃないかと試みるところがありますよね。あれなんか、ものすごくおもしろかったです。そういう行動をするんでしょうね。見えないと存在しないと思うのは、幼い子ども同じでしょうか。あと、みなさんもおっしゃっているように、挿絵の下に文章をそえてあるのが、懐かしくて、その懐かしさが新鮮でした。『岸辺のヤービ』(梨木香歩/作 福音館書店)もそういうクラシックな作りにしていましたよね。福音館の本作りのポリシーの表れでしょうか。

レン:とてもおもしろかったです。文章がいい。きびきびしていて、ひっかかるところがなく、すっと入ってきました。すごい観察力ですね。今の子どもがどのくらい読めるかはわからないけど、小さなエピソードを読んで聞かせたら、ひきつけられて読むのではと思いました。絵はやや地味な感じもしますが、しっぽの付け根とかヤマアラシのとげとか、絵があるおかげでよくわかってよかったです。狐でもかしこいのとかしこくないのがいるんだ、というのがおもしろかったです。テレビのように映像でぱっと映せるものがなかった時代に生きていた人はすごいですね。よく見て、すべて言葉で情景を浮かび上がらせていく。そういう力や辛抱強さを、私たちは失いつつあるなという気がしました。

さらら:テレビや映像に浸かっていると、言葉に再構成された情景を、自分の頭で想像するのが苦手になり、まどろっこしいと感じるかも。

レン:すぐにはイメージできないこともあるでしょうね。事件が立て続けにおきて、ひっぱっていくようなストーリーじゃないし。絵本、幼年童話、中学年と、物語を読むことを積み重ねて、こういう本を読めるようにしていきたいですね。

アカシア:本をいろいろ読むだけでなく、実体験もないと情景が浮かびませんね。深い森に入った体験とか。

レン:ああ、そうですね。何が進歩だろうって思います。

レジーナ:キツネの視点で描いていて、しかも、ほかの動物との関連性の中でキツネの生活を描いているのがおもしろいと思いました。ちょっと長すぎる気もしますけど。表紙も美しく、献辞のページで、挿絵が逆三角形に配置されたデザインも素敵です。クラシカルで好きな文体ですが、今の小学生が読むには難しいかもしれませんね。大人が少しずつ読み聞かせてあげるといいのでは。

紙魚:最近の本は、会話や心理描写が多くて、そこまで聞こえてこなくてもと感じることも多いですが、この本はそうでないので、読んでいて静かな興奮を味わいました。人は、小さな声にこそ耳をすませることもあると思うからです。動物を主人公に三人称で書くということは、作者がどれくらい、その動物に自分が想像した感情をのせるかということが問われると思うのですが、ところどころレッド・フォックスの感情は書かれているものの、それが大袈裟すぎない塩梅が絶妙でした。文章での執拗なまでの情景描写と、時折差し込まれる挿絵が、充分に想像を助けてくれたと思います。ただ、今の子どもたちがこれをおもしろがるかと考えると、疑問も残ります。なぜ今、刊行したかということを、ぜひ版元さんにきいてみたいところです。

花散里:学校図書館に勤務していて、かなり読書力のある子どもたちもいますが、この本は中学生以上だと思います。「シートン動物記」シリーズとも比べられるかもしれませんが、動物物語としてレッド・フォクスが描かれているのだと思います。椋鳩十の作品のおもしろさを知っている子は読めるのではないでしょうか。最近、刊行された『ゆうかんな猫ミランダ』(エレナー・エスティス作 津森優子訳 岩波書店)のように、動物を描いていておもしろかった本もありますが、この本は自然の中でのサバイバル物語として、動物たちが描かれていると思いました。スカンクにとびかかって呼吸困難になるほど強烈な一発をくらい、その臭いのために巣にも入れてもらえなかったけれど、そのあと狩りがしやすくなど、動物の世界のおもしろさが、楽しめました。「シートン動物記」などとも、一緒に薦めてみたいと思う印象的な本でした。

さらら:物語はキツネの父親、母親と子どもたちの話から始まるのですが、主人公となる「レッドフォックス」の名前を出すタイミングが、絶妙でした。

アカシア:原文は最初は小文字のred foxで、途中から大文字のRed Foxになるのでしょうか? 椋鳩十さんの動物物語はもっと情緒的で、ぎりぎりの冷徹な観察に基づいたものとは違うように思います。ただ椋さんの物語を入口にして、こういう作品にも向かってくれればいいですね。

西山:情緒過多じゃないのが、逆に、本が苦手な子には読みやすいということもあるかもしれません。気持ちを読み取るのが苦手で、本が苦手という声を聞くことがありますから。

紙魚:まえがきで、作者が、「けっして、一部の批評家が言うように、人間の感情を下等動物に勝手にあてはめているのではないのです。」と書いていて、その気持ちはよくわかるものの、子どもが最初にこれを読まされたら、あまりおもしろくはないのでは。原書はまえがきなのでしょうが、あとがきに持っていってもよかったのではと感じました。

さらら:この作品は、シートンより少しあとに発表されています。シートンが当時受けた批判をかわすために、こんな前書きをつけたんじゃないでしょうか。

アカシア:一つ一つの文章も、今の子にすると長めなんだと思います。だからといって、今の子に口当たりのいいものだけを出していればいい、というもんじゃない。裏表紙には「小学校上級から大人まで」となっていますね。

(2016年9月の言いたい放題)