月: 2019年12月

2019年09月 テーマ:新たな仲間と

日付 2019年9月17日
参加者 アンヌ、鏡文字、サマー、しじみ71個分、田中、西山、ハリネズミ、ハル、マリンゴ、まめじか、ルパン、(ネズミ)
テーマ 新たな仲間と

読んだ本:

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マカナルティ『天才ルーシーの計算ちがい』表紙

天才ルーシーの計算ちがい

アンヌ:この物語は大好きで、落ちこんだときに読むと元気になれる本です。このところ主人公が天才という本を何冊か読みましたが、たとえば『世界を7で数えたら』(ホリー・ゴールドバーグ・スローン作 三辺律子訳 小学館)に比べたら、数字で頭の中が混乱する描写等で、天才でもできないことがあるというイメージがわかりやすく書けています。3回も座りなおさないと座れないとか、除菌シートを手放せない等というのは、日本の小学生や中学生にもよくあるので、周囲が慣れてしまえば大丈夫だろうとあまり深刻にならずに読んでいけたし、いじめにあっても先生から理解されなくても、いっしょに教室を出てくれる仲間が2人もいれば怖くないなと思いました。苦手な犬に好かれたせいで世界がどんどん広がるというところは、私も身に覚えがあって、初めてなめられたり、犬の糞を拾ったりするときの気持ちとか、笑いながら楽しめました。いじめっ子のマディーが受けているストレスも書きこまれていて、ルーシーが気づくところまでいくのは見事でした。気になったのは、p54、p272で、パソコンのチャットにルーシーの気持ちが書きこまれているところ。チャットの書き間違いかと一瞬思いました。字体は変えてあるけれど、つまっていてわかりにくいです。欲をいえば、もう少し数学的な挿絵とか用語解説があればいいのにと思いました。

ハリネズミ:後天的なサヴァン症候群の子どもを主人公にして、リアルな描写でとても読ませる作品だと思いました。どの子も悪く書かないとか、助けてくれる大人も出て来るというところが王道の児童文学で、安心して読めますね。この子がわざとらしくない自然なきっかけで視野を広げていくのがいいですね。翻訳もとても軽快でどんどん読めました。

マリンゴ:数字が得意、という天才的主人公の物語はときどきありますが、天才ぶりについていけなかったり、数式の羅列が読みづらかったりするので、この本もそうかな、とちょっと警戒しました。でも、実際にはそうではなく引きこまれていきました。ルーシーの数学の活用法が非常に物語にうまくはまっていると思います。犬が引きとられるまでの日数の分析、数値化など、とてもわかりやすいし、親近感のわく数学ですよね。友情の輪が、わざとらしくなく、変に感動的ではなく、静かに温かく広がっていくのがいい感じで、読後感もとてもよかったです。気になるのは表紙のイラストですが、主人公の実年齢よりも幼い気がして、ギャップを感じました。あとは、助けてくれる先生のハンドルネームが「数学マスター」だったというところですが、たしかに数学マスターは出てきているんですけれど、印象が薄い登場だったので、「ああ、あの人か!」と手を打つ感じではなかったです。もちろん、わざとらしくならないよう、あえて著者がそうしたのだとは思いますが。

ハル:中学生くらいのときに、こんな本を読みたかったなぁと思いました。ルーシーは数学の天才だけれど、実生活に生かせるような数学的とらえ方を紹介してくれているので、当時の私が読んでいたら、数学の授業ももう少し頑張れたかもしれなかったです。ウェンディやリーヴァイも「いい子」ではなく、それぞれ何かしら癖があるところもリアルでいいですね。おもしろかったです。

西山:みなさんのお話を聞くまでページの多さは気にしていませんでした。意外と長かったんですね。今回の選書テーマが何だったのか、案内を見返しもせず、『たいせつな人へ』に続けてこれを読んで、「兵士」つながり?なんて思ってしまいました。アフガニスタンに2度も行っているポールおじさんの話にハッとして、ハロウィンでもルーシーがおじさんのお古の戦闘服(あ、いま、「せんとう」と打ったら、まず「銭湯」とでました!平和~(^_^))を着ますよね(p181)。「退役軍人の日の振り替え休日」(p237)とさらっと出てくるし、ものすごく異文化を感じました。日常の風景の中に「軍人」がいるんですね。もどかしかったのが、先生に事情を明かさないこと。ストウカー先生は話せば理解してくれるだろうことが、最初から結構はっきりしていますよね。おばあちゃんだって、うまい具合に伝えてくれてもよかったのに、おとなたちはもっと適切な連携やサポートができるはずなのにと、思いました。それによって全てが円満解決するはずもなく、しんどさは依然として残るでしょうし、新たな困難も生まれるかも知れません。それをドラマ化した方が読みたいと私は思います。対人関係ぬきにも、潔癖というのはルーシーの不自由さでもあって、でも、その点はパイがほどいていく。文学的ドラマが無くなるわけではないと思います。ルーシーがパイのうんちをひろったとき、おばあちゃんが感動するのはよくわかります。誕生日パーティーで友だちを招待してスイートルームにお泊まりなんて、これまた異文化体験でしたが、自分だけ簡易ベッドでそれだけでも十分惨めなのに、そこに悪口が聞こえてくるなんて、どんなにつらいか・・・・・・そういう感覚が素直に伝わってきました。スライダーも意外とおもしろかったりなど、ルーシーを設定優先でない、ひとりの女の子として伝えてくれる場面がたくさんあったと思います。全体に読みやすかったのだけれど、p268〜p269の仲直りのシーンはちょっとおいていかれた感じはしました。

まめじか:成長物語というだけでなく、子どもたちが自分たちにできることを考えて、社会をよい方向に変えていこうとする姿が描かれているのがいいですね。p201、クララがパイを里親に出せないと言いながら、「子どものころね、大人たちが『人生は公平じゃない』っていうのが大きらいだった」と語るのが、そうだよなぁと思いました。ウィンディはルーシーの秘密をついしゃべってしまいます。こういうのって、子どものころありましたよね。それで傷ついたり、傷つけたり。なにかひとつでもそういうことがあると、もうこの人は信じられないと、子どもは思ってしまいますが、けしてそうではなくて、許すことを学んで大人になっていくんですよね。

しじみ71個分:表紙の絵がポップだったので、割と小さい子向けの本なのかしらと思ったら、字が小さくてビッシリ書いてあったので、ギャップにびっくりしました。アスペルガーやディスレクシアなど障がいのある子たちが天才的な能力や賢さを持っていて、周囲との軋轢を超えて、友だちや家族の中で成長していくというような物語は、『レイン 雨を抱きしめて』(アン・M・マーティン作 西本かおる訳、小峰書店)、『世界を7で数えたら』(ホリー・ゴールドバーグ・スローン作 三辺律子訳、小学館、2016)、『木の中の魚』(リンダ・マラリー・ハント著、中井はるの訳、講談社)など、前例が多いので新鮮味はないなぁ、という感じはありました。ディレクシア、主人公と心を通わせる重要な存在としての「犬」も、既視感があったのは否めませんでした。でも、過去に読んだ作品より、主人公がポジティブで力強いところは新鮮味がありました。ウィンディが誕生日パーティで、ルーシーは天才なのだと周囲にバラしてしまったときにも、怒りを表して立ち向かっていくし、自分は天才だから、と自認もしています。最後のパイとのお別れの場面で糞を拾わざるを得なくなって、「わたしの犬じゃないし!」と正直に言ってしまうところなどとてもユニークでユーモラスでした。ただ、こういう作品によくある、障がいのせいで周囲となじめない、理解されない場面は読むと切なくなってしまって、理解ある先生なんだから正直に事情を話せばすむのに、とはいつも思ってしまいます。言わないことでドラマを作るのが英米文学なのかな。でも、この作品はそういった点も含めて明るく読めました。それから、友だちのリーヴァイの人物像は非常に好ましかったです。

鏡文字:おもしろく読みました。物語の方向が予想を裏切るものではなく、ある意味、安心して読み進めることができました。動物が苦手な私としては、また犬か、というか、犬のエピソードに長くひっぱられた感はあったものの、全体的に一つ一つのエピソードがうまくかみ合っていたと思います。人物像という点では、中学生としては、全般的に幼いな、という印象を持ちました。カバーイラストのイメージで、小学校中~高学年向けかと思ったのですが、中学生の物語で文字量も多く、なんと1ページ17行。きつきつ感が否めず、かなり無理して詰め込んでいますが、たとえページ数が増えたとしても、ゆったり作ってほしかった気がします。翻訳物にはたいてい添えられている、訳者のあとがきも読みたかったです。

ルパン:一気読みでした。とてもおもしろかったです。読み終わってから、サヴァン症候群について調べてみたりもしました。習ったことも聞いたこともないことがわかったりするって、とても不思議なことですが、実際に存在するんですね。

田中:この本の訳者として裏を明かすと、原書はかなりのボリュームがありますが、仕上がりのページ数を減らすために、編集部からの注文で原作を削ったところがだいぶあります。字が小さいのも、行間を取ったほうがいいところで取ってないのも、ページ数を減らすためです。一部分を削ると前後のつながりがおかしくなるところが出てくるので、そこは流れがつながるように文章を工夫しました。それと、p275の数学マスターの顔文字「T_T」ですが、原書では「:(」となっています。悲しいという意味だそうで、日本式に涙の顔文字になりました。

ハリネズミ:教育現場の人たちが読むと、障碍があることを言えばいいのに、と思われると思いますが、そうすると「障碍があるから助けなくては」という認識になります。ところが、この本の中ではサヴァン症候群と言わなくても、ウィンディやリーヴァイは、折に触れて助けようとしたり、思いやったりしていますね。そこがすばらしいと思いました。今、日本の学校では、この子はこういう問題をもってる、あの子はこういう障碍をもってるという腑分けが進んでいて、先生たちもそれを知って配慮していく。それが悪いとは言えないですが、その子の前面に問題や障碍が出てしまうような気もします。文学作品ではあえてそれを取っ払って人間を描くというのもありだと思います。それから、リーヴァイにはお母さんが二人いる家庭だというのがさりげなく出てくるのが、いいなあと思いました。

西山:べつに、全員にカミングアウトしろということではないんです。この作品では、先生も感づいているので、もっと助けを求めてもいいし、理解者のサポートがあってしかるべきだろうと思いました。『きみの存在を意識する』(梨屋アリエ作 ポプラ社)を読んだばかりなので、なおのことそういう風に考えたのだと思います。理解し、適切な支援ができる教師がいても、それでも困難は残るし、生徒同士の関係は複雑なまま残るでしょうから、ドラマはそこから始まってもいいのではないかと思います。これは、様々な作品に対して常々思うことです。現実とリンクする困難を描くときには、それに対する現実の制度やなんとかしようとしている存在も描いてほしい。学童の運営に苦労していたとき、学童などなきがごとき作品にがっかりした体験を思いだして、そんなことを考えます。

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ネズミ(メール参加):特殊な状況にある子どもを主人公にした作品って、近年英米ではよく書かれるのでしょうか。おもしろく読みましたが、こういうテイストのものに、やや食傷ぎみです・・・・・・。4年間も人と交わらずに過ごしていたなら、適応にもっと苦労しそうなものだけれど、そこはエンタメだから、おもしろおかしいところだけとってきているのかな。アメリカの文化を知らないとわかりにくいなと思うところや、文章としてひっかかるところがちらちらとありました。読書量の多い子どもには勧めてもいいけれど、年間に何冊かしか読まないような子どもには、勧めようと思わないかなと思いました。

(2019年9月の「子どもの本で言いたい放題」)

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佐藤まどか『つくられた心』表紙

つくられた心

マリンゴ:装丁が非常に魅力的で、目を引きます。導入部で一気に引きこまれますし、AIという、児童書として比較的新しい材料を料理しているそのアイデア力は素晴らしいなと思います。ただ、全体的に描写が少なくて、どういう世界なのかわかりづらい部分がありました。サイエンスフィクションは、ディテールが緻密で、目に浮かぶように描かれないと、プロットっぽい感じになってしまうのかもしれません。もっとも、物語の分量的にはちょうど子どもが読みやすいボリュームだとは思います。あと、誰がアンドロイドなのかという謎で引っ張ると、読者はミステリーとして読むと思うので、はっきりとした結論がある、もしくは結論のない理由が明確であるほうが、ミステリーのルールにはかなっている気がしました。ちなみに、わたしはミカかなと思って読んでいました。

西山:おもしろく読みました。最初に座席表を見て、日本以外のルーツと分かる名前が16人中3人もいて、まずおもしろそうだと思って、期待とともに読み始めました。出だしの会議の様子は、なかなか現代社会に対して批判的で小気味よさを感じました。ITがらみの未来小説として『キズナキス』(梨屋アリエ著 静山社)を思いだして、『キズナキス』のいろんなことをぶちこんだ重層的なボリュームと比べて、一つのテーマだけでドラマを引っ張っていることから、薄い印象を持ってしまいました。p154「冷酷な人と慈悲深いアンドロイドなら、どっちを信用する?」というところを子どもにも考えさせることになるでしょうか。私は、p150の最後の行のミカが「いいにおいのするあたたかい母の胸」に顔を埋めて泣き止む場面で、瞬間的にアンドロイドはミカだと思ったのですが、中学生の読書会で使うと、誰がアンドロイドだろうと盛り上がるだろうと思います。

まめじか:AIと人間はどこが違うかという議論は、バーナード・ベケットの『創世の島』(小野田和子訳 早川書房)にも出てきますね。『創世の島』では、人類はすでに滅びていて、人間の記憶を移されたAIだけがいる世界だと、最後にわかります。

しじみ71個分:子どもたちが学校にいる監視用アンドロイド探しをする中で、友だちとは何かとか、心とは何かなどいろいろ考えるストーリーが、冒頭と末尾にある、大人の会議描写に挟まれる形になっていて、種明かしをすれば大人の思惑どおりになりました、という物語になっていて、正直、読後感はあまりよくなかったです。伝えたいのが、監視社会の恐怖や不安なのか、それを乗り越える力なのか友情なのか、子どもに何を伝えたいのか、今ひとつ重点の置きどころがはっきりしなかったような印象です。表現は、抽象性が高くて、『泥』(ルイス・サッカー作 千葉茂樹訳 小学館)を思い出しましたが、欧米のフィクションっぽいという印象を受けました。人物の背景等を書きこみ、心情を描写して人物像や関係性を描くいう手法をとらず、ほぼ子どもたちの背景を語らないまま、会話だけでアンドロイド探しの話を読ませていくという表現は新鮮でした。抽象性が高いので舞台劇にしたらおもしろいんじゃないかとも思いました。大人との対話があるのは、物語終わりかけのお母さんとミカとの会話の場面だけですが、その中で人の心とはとか、友情とはとかについて話すのですが、あまり深く掘り下げないまま薄い感じで終わらせ、かつ大人の会議の場面が最後に結末として呈されて、友情やら心やらの問題が重要だったのではなかったんだと、もやもや感を残したまま終わるようになっています。テーマの重要性はよく分かるのですが、最終的に子どもたちがそれをつかめるかなぁ、という疑問は残りました。

鏡文字:再読する時間がなく、細部は忘れてますが、全体の印象は残っています。座席表というと、『なりたて中学生』(ひこ・田中著 講談社)を連想させますが、名前に外国ルーツの人が何人も入っているところなど、イタリア在住の作者ならでは、と思いました。はっと目につく表紙で、中表紙もきれいですね。現代の監視社会への問題意識に共感します。冒頭とラストの会議の場面がいかにも嘘くさくてリアリティを感じなかったのですが、でも、現実はもっと嘘くさいことがまかり通っているという気もします。監視社会といっても、きれいな監視社会・・・・・・エネルギーは太陽光だったりと、今風な部分もありますが、会議のいかにも昭和なイメージ(ザ男社会!)は、敢えてのことだったのでしょうか。冒頭とラストが、真ん中に挟まれた子どもたちの物語とは、必ずしもうまくリンクしていないような印象でした。どんな物語が始まるのかな、と期待しながら読んだけれど、やや肩すかしをくらってしまったという感じでしょうか。子どもたちがある意味、無邪気なんですよね。その分、人物造型が薄く物足りない気がしました。こういう社会の下で、それなりに友情が育まれるけれど、それを希望と呼べるのかどうか、作者の意図はどうだったのでしょうか。アンドロイドが誰かということが話題に上りました。読み手としては知りたいところかもしれませんが、私は、それはどうでもいいような気がしました。人間そっくりのアンドロイドなんて、これまでいくらでもフィクションに登場しているし、恋愛の対象にさえなり得るもので、それを否定できるものでもありません。現実には、監視社会がアンドロイドという形を要求しているわけではなく、監視や管理はもっと違う方法で進行していると認識しています。物語に会議が入る構成に『泥』を思い出しました。あれは怖かったけれど、この物語からは、あまり恐怖は感じませんでした。

サマー:おもしろく読みました。監視社会や管理社会ということで思い出したのは『ギヴァー:記憶を注ぐ者』(ロイス・ローリー著 島津やよい訳 新評論)でした。『ギヴァー』は色のない世界で、いらなくなった人間はリリースされるという恐ろしい未来社会でした。『つくられた心』はそこまで恐ろしくはないけれど、子どもたちが疑心暗鬼になってアンドロイドを探す構造になっています。推理、なぞ解きを楽しむ要素があるので、教室で読書会をするといろんな意見が出ておもしろいのかなと思います。登場人物が大勢出てきますが、作者は工夫してそれぞれ口調を変えたりして、人物がキャラ立ちしていると思います。ただ、この物語は何年先の設定にしているのか。50~60年先のことだとしたら、主役に近い仁の口調が今どきすぎないでしょうか? はたして数十年後に今の子どもたちが使っているような口調がそのまま残っているのかな? と疑問を感じました。

ルパン:タイトルにすごく惹かれたんですけど・・・・・・私はこれは失敗作かと思ってしまいました。テーマは何なのか・・・・・・。読み始めてすぐにミカがアンドロイドなんだな、と思ってしまったので、ガードロイド探しの部分も楽しめなかったし。時代設定のちぐはぐ感もあります。スマホを「おばあちゃんがもってる長方形のもの」といったり、レストランや介護の従業員がみなアンドロイド、など、未来社会を思わせる設定で入ったわりには、家が飴屋とか、昭和感があったり、生活ぶりが今と変わらなかったり。物語の世界に入り込めませんでした。最後の会議のところも今ひとつピンときませんでした。ガードロイドがいなくても、子どもたちはこうなるのでは? 信じられないような理想教育クラスというほどでもないので中途半端に終わった感じです。物語世界のイメージがわいてこなかったんです。

アンヌ:わたしは、アンドロイドは鈴奈だと思いました。読者もいっしょにアンドロイドを探す推理小説仕立ての作品だと思い、それならば作者が出したヒントを使おうと考えて、親が役者、でも現実には姿を現わさない、そして実生活が話すことと違うという点がアンドロイドっぽいかなと推理しました。でも答えはないし、大人の会議場面は妙に薄っぺらくて管理社会の恐さがそれほど見えてこないし、どこに向かっているのかわからない奇妙な物語だと感じました。

ハリネズミ:今私たちが気づいていないけれど、確実に存在するAI社会の危険性を提示してくれているという意味で、とてもおもしろかったです。日本にいると自分がいる場がすごい管理社会だということは見えにくいですが、イタリアにいる著者だからこそ見えるのかもしれません。この作品で象徴的に描かれているのと同じようなことはすでに起こっている、あるいはもうすぐ起ころうとしているのではないでしょうか? 一時AIが人間を超える時代は来るのかということが問題になりましたが、今見ていると人間のほうがどんどん劣化して、感覚も麻痺してきて、自分の頭で考えることをやめて、管理社会に対しても疑問を持たなくなっている。人間にはAIにはできない複雑なことができるはずなのに、考えるのは面倒臭いと思って「まあいいか」と思ってしまうと、AIにのっとられる。あるいはAIを使って権力を握ろうとする人の思うままになってしまう。たとえば見守りロボットは、いじめを防止するという目的で導入されますが、盗聴や監視を行うスパイで、それを管理する権力者は、いくらでも都合のよいようにまわりの人間を操作していくことができるわけです。無邪気にアンドロイド探しをする4人の子どもたちは、結局友だちは信頼するしかないという結論に達します。でも、怖いのはその後で、p172では、人間と見分けがつかないようなアンドロイドをつくって、その心もリモコンで操作し、しかもそのアンドロイドには自分は人間だと思い込ませるという仕掛けまでしていたことが明かされます。このシステムは、「友だちを信頼しよう」と思っている子どもたちをあざ笑っている。ガードロイドの正体はわからないままですが、作者はあえてそうしているのでしょう。だからこそよけいに管理社会が子どもを裏切っていく様子が浮かびあがってきて、読んでいてゾッとしました。『ギヴァー』とは時代もつくりも違ってきて、スマート管理が進んでいる社会の恐ろしさ。深読みかもしれませんが、子どものうちから思想を管理しようとする権力者のありようを、鋭く描いているように思いました。日本もこのままいくと、ちょっと先にこれが立ち現れるような気がします。

西山:「深読み」かも知れないとおっしゃっていたけれど、ものすごく「深い読み」だと刺激されました。ベンサムの円形監獄の世界なのですね。監視塔を中心にぐるりに作られた監房。囚人からは看守の姿は見えないので、たとえ監視塔の中に看守がいなくても、囚人は監視されていると考える。これ、「パノプティコン(全展望監視システム)」という言葉があるようです。監視されていると思わせるだけで行動を自粛させ管理下に置ける――本当に怖い現代批評になっていると思います。ただ、エピローグ的最終章の「理想教育委員会」の会議内容が、ガードロイドを紛れ込ませなくても生徒の管理はできるという成果を語るのではなく、最新型アンドロイドの存在の拡大を不穏な未来像として示して終わるので、監視社会の気持ち悪さより、AIの進化の方に目が向くように思います。学生の読書会テキストにしたとしても、私のようにアンドロイドは誰?みたいな興味に議論が集中してしまう気がします。

しじみ71個分:誰がアンドロイドなのかはどうでもいいという描き方ですよね。アンドロイドが紛れているという情報の効果はすごく出ていて、大人の掌の上で子どもの心を弄んでいる感じですよね。最後のところでも親が言いくるめて終わっていて、子どもたちは完全に大人たちにやられちゃってますよね。事実としてアンドロイドがいてもいなくても、相互に監視し合って、それを納得させられてしまって、完全に管理されてしまっていますよね。そこが何とも気持ち悪いですよねぇ。

サマー:子どもの本は、もっと後味がいいものだと思っていたのですが。

ハリネズミ:起承転結がはっきりしてハッピーエンドの物語も必要ですが、考える種をまいているようなこんな作品があってもいいと思うのですが。

しじみ71個分:この作品の気持ち悪さは、子どもたちの力で問題を乗り越えるとか、何か問題を解決できたり、超越できたりという希望がないところなのかなぁ。『泥』は、まだ、友だちを助け出せたというところにカタルシスがあったような気がするのですが・・・・・・。

西山:ものすごく未来の設定のはずなのに、会議の「昭和感」がすごい。それこそブラックですよね。

ハル:これはまた、いかにも課題図書的なタイトルだなぁと警戒しながら読んだのですが、おもしろかったです。このままAIが進化していったら、未来の世界はこうなっているのかな? と考えさせられるところもありますし、このごろなんでも「厳罰化」そして「監視強化」に世論が向かっているようで、それも怖いなと思っていたところでしたので、とてもタイムリーな感じもしました。いじめにしても、監視カメラや会話の録音で管理すれば、子供たちが守られる面も当然あるでしょうし、反面、表面的に抑圧されるだけなのかもしれません。実際にいま現在、いじめや暴力に苦しんでいる人の前ではきれいごとかもしれませんが、そうやって管理されることによって育まれていく心は、アンドロイドとどう違うのか。タイトルの『つくられた心』も、アンドロイドは誰か? ではなく、私の心はつくりものではないと、本当に言えますか? という問いかけなんだと思います。

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ネズミ(メール参加):管理された社会のおそろしさ、薄気味悪さを感じながら、ぐいぐいとひきこまれて一気に読みました。後味が非常に悪かったのは作者の意図したことでしょうから、それだけ作者の力量があるということか。あとで振り返ると、登場人物たちはみな立場と状況だけしか与えられていなくて、中学生の頃のぐちゃぐちゃした感情は描かれていません。観念的に書かれた作品という感じがしました。

(2019年9月の「子どもの本で言いたい放題」)

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マイケル・モーパーゴ『たいせつな人へ』表紙

たいせつな人へ

ルパン:これはノンフィクションなので、事実の迫力はやはりすごいな、と思いました。一番食いついて読んだのは登場人物のプロフィールです。

アンヌ:モーパーゴは私の苦手な作家で、いつも感動の波にうまく乗れません。今回は主人公が平和主義者で徴兵拒否者として農場にいられたのに、なぜ戦争に行ったのか、ということばかり考えてしまいました。戦中の日本では考えられない権利ですよね。それなのに、戦死した弟の復讐ではないにしろ、遺志をついで戦争に行き、人を殺したくないと言いながらも対独協力者のフランスの民兵は殺してしまう。老後は英雄としてフランスの村に迎えられているけれど、主人公のプロフィールを読むと、実人生では戦争に行ったことを悔やんでいたのではないかとも思えます。そこが書かれていないようで、何か物足りない感じがしました。

マリンゴ:モーパーゴの本の多くは、語り手と著者が近くて本人の体験が投影されている印象を受けます。実際は違うんですけれど。でも、今回は本当に自分の親族の話なんですね。いつもよりさらに、リアリティを感じました。登場人物のプロフィールが巻末にありますし。ただ、実際の話だからこそ、普段より登場人物が多いし、実在の人物だからキャラ立てがしづらいせいか、人物像が立ち上がってこない人が何人かいたように思います。ところで、レジスタンス、スパイ活動をやった人は、何かの戦いで華々しく活躍した人と違って、戦後に報われないのだなぁ、と感じました。デンマークの少年たちのレジスタンスを描いた『ナチスに挑戦した少年たち』(フィリップ・フーズ著 金原瑞人訳 小学館)のことを思い出しました。なお、1つ誤植と思われる個所を見つけました。p104の6行目「合った」は、正しくは「会った」ではないかと。

西山:表紙のこれ、オオカミの顔なんですね。子ども時代の父親と弟のピーターと3人で森をハイキングしたときのエピソードから来ていますよね。オオカミが来たら戦って追い払うのだといつも棒を持っていたというピーター。「ぼく」は「戦う必要なんてない、ふりかえって正面から堂々とむきあい、手をパンパンと打ち鳴らしてやれば、逃げていく」(p17)と。この2つの考え方が、その後ファシズムとの戦いに自ら飛び込んでいったピーターと、兵役免除審査局へ行って平和主義を貫こうとした「ぼく」という対照的な行動につながるわけですが、結局、「ぼく」は非戦を貫けなかったわけです、叔父が背負ったその生き方をモーパーゴも背負って、それが作品に通底しているのかなと思いました。今までの作品をふりかえらせるような作品だと思います。兵役拒否という制度の存在を子どもに知らせるのも意味がある作品だと思います。レジスタンスの過酷さを読むに付け、抵抗の闘争が冒険の延長のようだった『ナチスに挑戦した少年たち』はのんきだったなあと改めて思い返しました。それと、ヨーロッパでのナチスへの市民の抵抗の規模を垣間見て、作品からは離れるのですが、オリンピック会場で旭日旗なんてひらめかせたら、ヨーロッパの人々に「ナチスと組んでいたファシズム国家日本」という記憶を呼び覚まさずにはおかないだろうと思いました。あと、クリスティーンの最期が悲しすぎる・・・・・・。p96でレジスタンスにおける女性たちが「無名の勇者」で「こういった女性たちを讃える勲章はない」と書いていることとで、モーパーゴがクリスティーンに深く心を寄せ、苦い記憶として継承しているのだと思いました。

ルパン:クリスティーンの最期は本当に切ないですよね。そこがノンフィクションのつらいところ、重いところ、ということでしょうか。

まめじか:まず、いいなと思ったのは、インドから来た移民の女の子が出てくるなど、時代とともに変わっていく村の様子が描かれていることです。モーパーゴは細部にまで心を配る作家ですね。女性に光を当てているのはいいのですが、その人たちも戦っていたわけで、それを考えると複雑な気持ちになりました。読者がいろいろ感じて、考えればいいのでしょうけど。

アンヌ:ドイツでも反ナチスの本は多く翻訳されていますか?

まめじか:はい、英米文学児童文学にはホロコーストものが多いし、英語からの翻訳はドイツではメジャーなのでドイツ児童文学賞の青少年審査員賞にもよくノミネートされていますよ。ジョン・ボインの『縞模様のパジャマの少年』(千葉茂樹訳 岩波書店)とか『ヒトラーと暮らした少年』(原田勝訳 あすなろ書房)とか。マークース・ズーサックの『本泥棒』(入江真佐子訳 早川書房)は同賞をとっていますし。

しじみ71個分:モーパーゴの物語はいつも比較的短いですが、この作品も短い物語の中で、90歳のおじいさんが自分の人生を振りかえるという形式になっていて、語られる内容は大変に壮絶なので驚きました。おじいさんが寝床でしゃべる話を孫が聞くような淡々とした語り口ですが、平和主義の人が教練を受け、命をかけて軍事スパイになるという、とてもハードな内容ですね。でも、オブラートがかかっているように、読み終えた後の印象が割とソフトです。一人の男の一人称語りで、戦時中に関わった様々な人々の人生を描きつつ、それを通じて戦争の時代を描いていて、うまいなぁ、手慣れているなぁ、と感じます。まさに老練という感じですが、読んでいて、物語の中身よりもその印象が先に立ってしまうなとは思いました。それから、私は、大変にお恥ずかしいことに、原題まで考えが及ばなかったので、表紙の白い顔をキツネだと思ってしまって、なんでキツネの顔が表紙に描いてあるんだろうと思っていました・・・・・・。オオカミなんですよね。

ルパン:原題のほうが、手に取りたくなりますよね。

鏡文字:150ページ程度と短めで挿絵もとても多いけれど、内容はYAといってもいいような作品です。読書対象をどのあたりに設定しているのかが、本の作りから少しわかりづらい気がしました。ノンフィクションなので、正直なところ、内容についてあれこれ言ってもしかたがないかなと思う一方、もしも、児童書としてでなく、一般向けのものとして書かれたらどうだったのだろうか、そのほうが読み応えがあるものになったのでは、という思いがぬぐえませんでした。クリスティーンとの関係など、人間ドラマや心のひだのようなものをもっと知りたかったです。回想形式なので淡々としていますが、さすがに手練れというか構成などはよくできている、とは思いました。スパイというものをどう捉えるか、レジスタンスとしての暴力をどう考えるか、悩ましい問題で、『ナチスに挑戦した少年たち』のときも思いましたが、自分の中でも明確な答えが出せていません。結局暴力なのか、という割り切れなさがどうしても残ってしまいます。ただ、『ナチスに挑戦した少年たち』は、当事者が子どもでしたが、こちらは大人の行動なので、より緊迫感や切実さがありました。とはいえ、また反ナチスか、という思いもあって、欧州は、多かれ少なかれ、ナチスを台頭させたことへの後ろめたさがある分、「絶対悪」ナチスに対置する物語(創作という意味でなく)は作りやすいのではないかと思ってしまい、いつももやっとします。

しじみ71個分:軍事スパイとして殺し、殺されという凄惨な経験をした人が、終戦後には学校の先生になるわけですよね。自分のおじいさんという、とても身近な存在の人が、戦争中の暴力に加担していたのを知るのは、考えると非常に重くて深いことなので、そういう意味で、自分たちの身に置きかえて考えてみるきっかけとして読むのはおもしろいとは思います。

ルパン:そのわりには葛藤の部分が描かれてないような。

サマー:表紙の絵が動物の怖そうな顔なのに、タイトルがふわっとしていてマッチしていないような気がします。内容としては、言葉としてしか知らなかった「レジスタンス」がどういう活動をしていたのか、武器や食料などの荷物をどんなふうに投下していたのかがわかって、大人としては興味深かったです。ただ、これを日本の子どもたちが読んで、背景が理解できるのか疑問です。日本の子どもたちのどの年代に向けているのか? ヨーロッパの子どもたちなら、歴史教育で勉強しているでしょうから、背景がわかるのでしょうけど。

ルパン:子どものころドーデの『最後の授業』を読んだのですが、時代背景などまったくわからないなりに、強い印象を受けました。後年、世界史やほかの小説などで「アルザス・ロレーヌ」という言葉を聞いたときに、小説のイメージがまざまざと浮かび、歴史も物語もリアルに迫ってきました。歴史を知らなくても物語の持つ力が強ければちゃんと心に残るのだと思います。それにしても、今90代の、戦争の生き証人がひとりもいなくなる時代がすぐそこに迫っていますよね。10年後、20年後、世界大戦を知っている人間がひとりもいなくなったときが怖いです。その時代に向けてこういうものはできるだけ残していかなければ、と思います。

ハリネズミ:それぞれの章がべつの人に向けて書かれていますね。最初の「フランシス」は自分の紹介ですが、「子ども時代のイギリス」はお父さんに宛てたメッセージ、「スター街道まっしぐら」はピーターに宛てたメッセージ、それ以降も妻のナン、ハリー、オーギュスト、クリスティーン、ポールと、それぞれフランシスが深くかかわった人を思い出してその人に対して何か言うという形を取りつつ、そのなかで彼がやってきたことや彼が考えていたことを浮かびあがらせる。それがまずうまいなと思いました。それに、ただ出来事を紹介するのではなく、p44やp71など想いをところどころにはさんで物語に深みを持たせています。この作品にどの程度フィクションが含まれているのかはわからないのですが、この本にも戦争に反対するというモーパーゴのポリシーが通奏低音のように流れていると思います。「心を凍らせないと戦場には出ていけない」という言葉があったと思いますが、フランシスは軍事スパイとして戦場に出て行く。そして戦争が終わったとき、日常生活に戻るのに苦労します。ナンのおかげで自分はなんとか日常の暮らしに戻ることができますが、とても勇気のある、戦場で大活躍していたクリスティーンというワルシャワ生まれの女性は、平穏な日常には戻れないという姿も描いています。それでも、このテロリストをカッコいいと思う子どもも出て来るかもしれません。訳し方もあるけど、自分の叔父の生涯というノンフィクションにしばられている部分もあるかもしれません。
表紙の絵は原題に即しているので、日本語の書名にはちょっとしっくりしませんね。あと星空の絵が何度も出てきますが、そううまい絵でもないので、どうして繰り返し同じ絵が出てくるのかな、と思いました。ドイツでは小学生にも戦争で何をしたかを教えているという話を聞きますが、日本の子どもはほとんど教わっていません。なので、この本を読んでも日本の子どもにはピンと来ないところが多いかもしれません。でも、だから出版しないでいいのかと言ったら、それは違う。ちょっと違和感をおぼえたのは、p11でパンジャブ州からの転校生の女の子が、カウラは大切な人を呼ぶときにつける敬称だと言うんですね。アジアの子が自分の名前を言うときにこうは言わないような気がして原文を見たら、カウラはプリンセスという意味だとなっていたので、親がこの子につけてくれた名前がこうだったということなのかな、と。ただ、アマゾンでは最初の部分しか読めないので、実際がどうなのかはわかりません。

しじみ71個分:p144で戦争から帰ってきて、主人公が戦争の後遺症に悩まされ苦しんだことや、妻のナンのサポートでやっと日常生活に復帰できたということが植物の比喩を通して短く語られますが、表現が非常に抽象的なので、それがどれほど大変なことだったのかが想像しにくいです。これを読んでその大変さが分かる子どもがどれほどいるかなぁ、という疑問を感じますね。

ハリネズミ:語りのうまさには感心しますが、日本の子どもがこの作品からどれほどのものを読み取れるかは、もう少し説明がないとわかりにくいかも。まあ、手渡す人にかかっているかもしれませんね。

ルパン:クリスティーンはどうしてもとの生活にもどれなかったのでしょうか。

西山:クリスティーンの母国ポーランドは「新たにソ連が占領して」「帰る国はなく」(p144)なってましたから。

ハル:私は、長く生きて、一緒に生きたひとがみんな先に逝ってしまうというのはこんなにも切ないものなんだなぁと、童謡の『赤とんぼ』のような感覚で、しんみりひたってしまいました。幼いころ、弟に冷たくあたってしまったことへの後悔とか、レジスタンスの太陽だった、今は亡き女性についての思いとか、後から振り返れば、あのときああすることもできたんじゃないか、こうすればよかったんじゃないかって思うけど、仕方ないよね、みんなそのときを精一杯に生きていたんだから・・・・・・なんて、戦争の場面すら、若かりし日々の1ページのように読んでしまって、これでよかったんだろうか、と読後に思いました。これ、日本語版のタイトルが『たいせつなひとへ』だからっていうのもあるんじゃないかなぁと思います。原題の“IN THE MOUTH OF THE WOLF”(章タイトルに「オオカミの口の中」がありました)に近いものだったら、また違った入り方で読めたのかも。でも、『オオカミの口の中』というタイトルだったら、私はちょっと手に取らなそうだし・・・・・・難しいところです。あと、「兵役免除審査局」で、なぜ自分は軍服を着て戦場で戦うつもりはないのかを説明し、それが認められたところがとても印象的でした。

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ネズミ(メール参加):そつのない語りでさらさらと読めましたが、モーパーゴの作品の中でとびきりよいとは思いませんでした。冒頭のフランスの場面で「フランシス・カマルツ大佐殿」とありますが、p.64は少尉なので、どこで大佐になったのかと疑問に思い、なぜ、人生の終わりにフランスにいたのかは、プロフィールを読むまでわからず、やや消化不良でした。

(2019年9月の「子どもの本で言いたい放題」

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2019年07月 テーマ:幽霊、のようなもの

 

日付 2018年12月21日
参加者 アンヌ、コアラ、シア、しじみ71個分、須藤、ツルボ、西山、ネズミ、ハル、ぶらこ、ハリネズミ、彬夜、マリンゴ、まめじか、ルパン、(エーデルワイス)
テーマ 幽霊、のようなもの

読んだ本:




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『エヴリデイ』表紙

エヴリデイ

彬夜:読み直すことができなかったので、少し前に読んだままの印象ですが、それぞれのエピソードは、リアリティがあって、おもしろく読みました。せつない物語だなと。ただ、やっぱり設定そのものが納得しきれなくて、そもそもこの子はいかにして誕生したのか、という点が腑に落ちませんでした。

コアラ:おもしろかったです。通勤途中の、10分くらいの細切れの時間で読んでいったのですが、それがよかったのかもしれません。とにかく先が気になってしかたなかった。毎日違う体に宿って生活する、というのは独創的だと思いました。カバーに描かれている赤い服の女の子がリアノンだとすぐに分かったのですが、たくさん描かれているのは宿った人たちのはずなので、なぜ宿った人たちの中にリアノンがいるのか、読み進めるまで謎でした。最後は結局Aが去ることになって、寂しい終わり方でしたが、愛に溢れたおもしろい話でした。

ぶらこ:「これからどうなるのだろう?」と予測がつかなくて、一気に読んでしまいました。 奇抜な設定だけど、ルールが細部まで作り込まれているからリアリティを持って読めるし、主人公が憑依する人々の生活が細やかに描き分けられているのがおもしろかったです。プール牧師の中にいた人物のことやAという存在の謎については全く明かされないまま終わるけれど、それよりも著者は、Aを通して見るいろいろな人生の厚みのほうを伝えたかったのかな、と思いました。ただし、Aがリアノンに素敵な男の子を紹介して去って行くというラストは、恋愛の結末としてリアノンはそれでいいのか?と気になりました。

ハル:設定からしてすごくて、どうなっちゃうんだろうと思いましたが、とてもおもしろかったです。人を内面だけで愛せるのか、環境が違ったらどうか、性別が違ったらどうか、恋愛対象の性別が自分と違ったらどうか、薬物やお酒に溺れていたらどうか、容姿が違ったらどうか、触れられなかったらどうか・・・・・・など、思いの外いろいろと考えさせられます。そしてYAってなんだろう、と改めて考えさせられました。でも、ラストがよくわかりません。これは、私の読解力のなさのせいか・・・・・・。残念です。

須藤:だいぶ前に原書で読んで、残念ながら翻訳には目を通せていないので、そういう感想として受け取ってください。いや、自分は、最初はけっこうおもしろくて読ませると思いました。ただ、彼らがそもそもどういう種族なのかが、最後まではっきりしないので、そこがどうしても気になってしまったんです。アメリカではSomedayって続きが出ているので、その辺のこともフォローしてくれているのかもしれません。その後日本語版が出て、とても評判がよいので、自分の目は節穴かもしれないと思っています・・・・・・。 デイヴィッド・レヴィサンは『ボーイ・ミーツ・ボーイ』(中村みちえ 訳、ヴィレッジブックス)の作家ですが、ジェンダーに関する問題意識がこんな形で出てくるんだ、というところはおもしろかったですね。見た目や性別、どういう階層、グループに所属しているのか、そういうことがアメリカ社会ではより意識されるんじゃないかと思うんですが、そこに属さないアイデンティティみたいなものを、ある意味追求してるんだと思うんですよね。

しじみ71個分:おもしろかったです。1日ごとに同じ宿主が変わる身体のない主人公という設定が斬新でしたし、宿主の生活を変えないように生きてきたのが、リアノンに出会い恋をして変わってしまうという、Aの心を縦軸にして、横軸にAの視点を通して、16歳という年齢で輪切りにされた、現代のアメリカを生きる若者たちの様々な生活や内面が描かれているのが非常におもしろいです。一人ひとり異なる、いろんな高校生の今が見えます。穏やかな子もいれば、薬物中毒や経済的な困難を抱えている子もいる。レズビアンの恋人がいる子もいれば、ゲイのバンド仲間の友人がいる子も登場して、LGBTをめぐる日常も普通に織り込まれていたり、若者群像がとても色彩豊かにリアルに感じられて好感を持ちました。Aが宿主のおじいさんのお葬式で人生を学ぶなど、他人の生活を通して人間を知っていくという表現も繊細で良かったです。ただ、訳の点でちょっと分かりにくいところもあり、もうちょっと分かりやすくしてほしいなという箇所がいくつかありました。
Aの存在を知って利用しようとする悪意に満ちたプール牧師が登場するところから緊張感が高まり、物語がどこに向かって終焉していくのかドキドキしましたが、最後はAがどこにどう逃げるのか全然分からないし、最後の宿主にされたケイティはどうなってしまうのかも分からないし、尻切れトンボな印象を受けました。結末がオープンというのもひとつの手法なのかもしれないけど、もうちょっと何か分からせてほしかったです。章立てが〇日目という日数になっていて最初は何だろうと思いましたが、割り算をしてみると、16歳になってから154日目から話が始まっていることになっているみたいですね。16歳が終わると17歳の子たちに憑依するのかな。人生を年単位の積み重ねで考えるのではなく、日ごとに考えないといけないAの生を象徴しているようです。

シア:衝撃的で素晴らしい本でした。最高の純愛。ここ数年で一番のお気に入りです。読み終わった後、表紙の人物を眺めるのが楽しかったです。設定がとにかく特異で、非日常の連続、先が気になって一気読みしてしまいました。すごいYAです。さすが海外としか言いようがありません。この年齢の子が持っている“もしも自分じゃなかったら?”という変身願望を見事にストーリーにしていると思います。LGBTも盛り込んで、“自分”という個性を徹底的に掘り下げています。自分を愛するということ、人を愛するということ、そしてその人の何を愛するのか、何を求めるのかということについても一石を投じています。数人のメインメンバーと大勢の人生の一日を通して、人間の欲望と傲慢さ、繊細さを描いています。ラストシーンの「生まれて初めて逃げ出す」というのは、ずっと抑圧されていた自己の解放を意味しているのかなと思いました。その人の人生を邪魔しないで生きてきたけれど、Aは新たなスタート切ると決め、全てを捨てることを選択します。逃げるという言い方をしていますが、解放ではないかと。依存や執着からの脱却というか。ただ、訳した際のニュアンスなのかなという気もしてきました。逃げ出すなのか、走り去るなのかとか。Aがどうしてこういう体質なのかとかそういう理由付けは明かされていないけれど、それでいいと思います。他でも幽霊や魔法もそこにあるものとして描かれていますし。続編があるので読みたいですが、この1冊で終わっても構わないくらいです。というくらい感動しましたが、ヒロインのリアノンが最悪でした。
Aが人間の精神で、リアノンが肉体を表しているのならば納得もいきますが。リアノンは平凡な上に狭量で、16歳なら仕方ないのかもしれないけれど狭い世界しか知らないので思考に柔軟性がありません。にもかかわらず性欲だけは旺盛で、DV被害者にありがちな典型的なメンヘラ女です。すぐに電話に出てくれないと嫌、すぐに来てくれないと嫌、そばにいてくれないと嫌、面倒くさいこと極まりないです。アレクサンダーが心配です。スクールカースト上位にいることが価値であるような女子高生。ジャスティンも同じで、リアノンのことをアクセサリーと考えて付き合っているような男ですよね。

しじみ71個分:リアノンについては、きれいで芯が強そうくらいのことしか描かれていないですけど、Aはなぜリアノンを好きになったんでしょうね?

シア:リアノンがAとは正反対の平凡、ドがつくほどのド平凡だから。そして、どこか寂しげだったからかもしれません。Aは自分にないものと、自分と似たような寂しさに強く惹かれたのかなと。Aはリアノンに入ったときお風呂にも入らず、体も見ないばかりか中身も詮索しませんでした。つまり、外側しか見えない幼い恋愛の愚かさを説いているのかなと思いました。リアノンの狩猟小屋での第一声はp285「今日はすごくかっこいいね」です。ここで130kgのフィンが現れたら、上着だって脱がなかったに違いありません。しかも、この時点でまだジャスティンと付き合っているという事実。色欲の罪ですね。p349「わきあがる怒りに自分でも驚いた。『リアノンのためならなんでもできる。でも、リアノンは、そうじゃないんだね?』」とありますが、結局この恋愛は二人が作中でバカにしていたシェル・シルヴァスタインの『おおきな木』のような結果になってしまって、なんだか空しいです。

ツルボ:YAって、とっても実験的なことができるなと思いました。YAの可能性っていうか、若い翻訳者たちが競ってYAを訳したがる気持ちが分かるような気がしました。私としては、もっと小学生向けの作品を一所懸命訳してもらいたいなと思うけれど。それはともかく、日ごとにいろんな人の身体に宿るというあらすじを読んだときに、なんだかお説教くさいことを言われるんじゃないかと警戒して、あまり気が進みませんでした。でも、実際に読んでみると、主人公の恋の行方や、正体が明かされるのではないか、というサスペンスで、どんどん引き込まれました。最後のところは、私はシアさんとは全く別で、結局、作者がまとめられなくなってしまったので、強引に決着をつけたという感じを持ちました。Aの恋するリアノンが言うことがまともで、恋にしても何にしても、人間同士の結びつきって、精神だけではなく姿や声や体温や匂いや、あらゆることが関わってくるものだと思うので。ティーンエイジャーの群像はよく描けていると思ったけれど、最後の方になると、あまりにもいろんな人に宿るから、コメディみたいになってきて笑えてきました。

まめじか:Aに何ができて、何ができないのかが、いまひとつ掴めなかったんですよね。自我があって、恋もするのに、p152で宿主の感情はコントロールできないとか・・・・・・。読解力がないのか、意味が分からないところがありました。p97で「おれは踊りにきたんじゃない。飲みにきたんだ」って言うジャスティンに、リアノンが「そうだよね」って言って、それは「ネイサンへのフォロー」に聞こえたとあるのですが、なぜそうなるのでしょう?

コアラ:ジャスティンの連れとして来たけれど、ここではもうネイサンに気持ちが向いていて、「うん、そうだよね」の発言は、ジャスティンに対してというより、ネイサンに対して「この人(ジャスティンのこと)踊る気ないから」と言っているような気がした、というようなことでしょうか?

ネズミ:どうなるのか知りたくて読んだけど、途中で疲れてしまいました。主人公の気持ちにあまり寄り添えなかったからか、リアノンとの逢瀬のために宿主たちが利用されていくのが苦しくて。「ぼく」は、もともと男性で書かれていたんでしょうか。もっと中性的だとしても、日本語だと話し言葉で男女がすぐ分かるので、訳すのが難しそうだなと思いました。それから、リアノンを好きになるところから物語が展開する割には、リアノンとの出会いはあまりインパクトがなくて、そこが不思議でした。書店では、海外文学の棚に並んでいることも多いですね。後書きの解説もないし、出版社がそういう読まれ方を狙っていたのでしょうか。

須藤:あと毎日違う人生、違う人物に転移するけど、なぜアメリカのこの狭い地域限定なのか・・・・・・とは思いました。レヴィサンは、さまざまな背景の人物を出すことで、多様な人物に成り代わってみる、というおもしろさも出したかったんじゃないかと思いますし、それはある程度成功していると思いますが、一方より広く見て暴論を言えば、どんなに複雑な背景を持っていても、「アメリカの高校生」って点ではみんな同じ文化的背景の中にいて、それって実はすごく狭いんじゃないかと・・・・・・。

ツルボ:Aのような存在が複数いるというように読めるから、それぞれにテリトリーがあるのかも!

ネズミ:ちょっと前に「ニューヨーク公共図書館」という映画を見たのですが、そのときに、この作品に出てくる宿主ってこんなに多様な人たちなんだと気付いて、テキストから自分がアメリカ人の肉体感覚を想像しきれていないのを痛感しました。アメリカ社会を少しでも知っている大人のほうが、より楽しめるかもしれませんね。

西山:最初は読みにくくて、おいおい、これがずっと続くのかと、『フローラ』(エミリー・バー 著 三辺律子 訳 小学館)のとき同様の戸惑いを感じました。でも、他に読まなくてはならないものがあって中断して、数日ぶりに開いたときにものすごくおもしろい体験になりました。「私はだれ?ここはどこ?」となったんです。これは、Aの人生の追体験みたいなものですよね。本を読むことで、自分というものの輪郭を持てるというところもあったし、『本泥棒』(マークース・ズーサック 著 入江真佐子 訳 早川書房)が出て来たり・・・・・・。読書というのは、そもそも他人の人生を暫し生きるような行為なわけで、それを思い出させるメタ読書のようなところがおもしろかったです。もちろん何より設定の珍しさに目を引かれたわけですが。アイデンティティを保つツールとして自分宛のメールがあるわけですが、パソコンが使えるかどうかでその日の宿主の生活状態が端的に説明できる。すごいなと思います。また、こういう手法でLGBTについて考えさせるのも巧みだと思いました。身体的な性別はどこまで重要なのか。設定と乖離しない問題提起になっています。自分のアカウントにアクセスすることでアイデンティティを保つというのもそうですが、人は見た目じゃなくて中身だという「正論」の究極をリアノンに突きつけていて、リアノンの葛藤は肉体的な接触を含めて人間の身体性を問い直すようで、とても現代的なしつらえでありながら問いは普遍的です。続きは読みたいとは思うけれど、それは別の話かな。謎への興味に応えることはエンタメとして必要な展開だと思いますが、私はこの作品にエンタメ的な満足感は特に求めません。恋愛の在り方にもいろいろ意見が出るだろうから、学生の読書会テキストにしたら盛り上がるだろうと思っています。

アンヌ:読み終って、逃げたのは作者だなと思いました。こういうSF仕立ての小説は、物語を楽しみつつ、頭の別の部分ではこの世界を解き明かそうとフル回転させながら読んでいるので、牧師が現れてAの同類の者がいる、謎が明かされる、というところで中途半端に終わったのにはがっかりです。続き物にするから書かなかったのでしょうか。それにしても粗略な感じの最後です。一つ一つの話は楽しめたし、麻薬や肥満や自殺願望やLGBTの恋等、様々な世界を垣間見られるのも楽しかったけれど、同時に、例えば宿主の自殺願望について、これだけの判断ができるAの成長過程に疑問を持ちました。それなのに、正体が解き明かされないで終わるので、いろいろ推理していた身には辛かった。さらに、これだけ恋について書いておきながら、リアノンにぴったりの男性を紹介してベッドの横に寝かせて消えるなんて、失恋した娘に自分の推薦する相手と見合いさせる親父のようで、これで終わるんなら、恋に落ちたなんて言わないでほしいと思いました。

マリンゴ:最初は読みづらいと思いました。私はロジカルな“仕組み”を知りたいタイプなのですが、なぜ、こういうことになったのか説明がないので・・・・・・。それで各章をまとめるメモを取りながら、業務的に読んでいたのですが、徐々に引き込まれてメモもいらなくなりました。肉体があるから縛られること、肉体があるからできること。ひとつの人生だけを生きること、いろんな人生を体験すること。様々なことに考えが及んで、余韻が残る作品です。気になったのは、設定のブレではないかと思われる部分。p8で「事実にアクセスすることはできるけど、感情にアクセスすることはできない」とあります。けれど、p90では「これまで感情がふるえた経験はひとつしか見つけられなかった」となっていて、矛盾を感じました。あと、p383で「アレクサンダー」の文字が4行続けて横並びになっているんです。偶然なのは分かるんですけど、一瞬、何か意味があるのか、暗号的なものなのかと疑ってしまいました(笑)。できれば接続詞でも助詞でも入れて、バラしてほしかったです。

ルパン:ものすごく疲れる本でした。一生懸命読みすぎたのかもしれませんが、次々とAが憑依する人間が変わっていくので、ついていくのが大変で。リアノンはAの姿かたちや性別までが変わってもずっと好きでいられるのはむしろあっぱれだと思いましたが、Aがリアノンに入るところはさすがにぞっとしました。ひとつだけ共感したのは、p149の「生きる目的が見つかってしまったときに陥る罠・・・・・・その目的以外のことが、すべて色あせて見えてしまう」という一文です。それから、もしも自分がひとつのからだ、ひとつのアイデンティティを持ち続けることができずに意識だけがずっと同じであったら、どんなに辛いだろう、という悲しさ・せつなさは感じられました。

ハリネズミ:発想がすごくおもしろいですね。Aのような存在はひとりしかいないのかと思っていたら、もしかしたら複数いるのかもしれないと思わせたりして、意外性もあって読ませますね。ただ、リアノンのような、一歩引いてボーイフレンドを受け入れて後をついていくような女の子が、しょっちゅう姿の違うAと会ったりするところはリアリティを感じられませんでした。恋愛は見た目と関係ないのか、というのは「フランケンシュタイン」以来のテーマでもあるけど、「フランケンシュタイン」のほうが現実味があるな、と思いました。それと、私には最後がよくわかりませんでした。どうしようとしているのでしょうか? 「逃げる」というのは、どういうことなのでしょうか? それと、Aはリアノンに自分らしさを持ってほしいとか、自立してほしいと思っているはずなのに、Aが「いい男の子」を選び出して、その子とリアのンをくっつけるのは、上から目線のパターナリズム。エンタメだと思えば楽しいけど、ジェンダー的には問題のある作品ですね。続編でいろいろなことがもっとわかってくるのかもしれませんけど。

しじみ71個分:最後にちょっと気になるところが・・・・・・。p129に急いでご飯を食べる姿を「即行」と書いていますが、こういう場合はカタカナでいう「ソッコー」で、漢字にしたら「速攻」じゃないですかね? ネット辞書では「即行」もすぐやるという意味で「速攻」と同じとしていますが、あまり見慣れない感じです。

ルパン:小見出しに○日目、とありますが、どこからどうやって数えているのだろうと思いました。

須藤:なんで正確に分かるんでしょうね。

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エーデルワイス(メール参加):主人公が、毎日違う人物に入り込んでしまうところが新鮮でした。LGBTやジェンダーについても盛り込まれています。最後が分かるようで分からないので、続編があるのでしょうか?

(2019年07月の「子どもの本で言いたい放題」)

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『レイさんといた夏』表紙

レイさんといた夏

彬夜:再読でした。最初のうちは、なんだか作者の決めたラインで引っぱっている印象で、物語に入れなかったし、莉緒という子にあまり共感がもてなかったんですよね。割とダメダメな感じの子に描かれていますが、実はとても言葉巧みで分析的。一人称だとそこがちょっと不自然なので、三人称にした方がすんなり入れたかもしれません。が、後半は割とおもしろく読めました。阪神大震災につながるのかと分かった時には、ハッとする思いがありました。ここを描きたかったのかな、と。ただ、読んだ後では、震災からの年月を思うと、この長い期間、レイはどうしていたのか、と気になってしまいました。ずっと一人だったのだろうかと思うと、なんだかやりきれないというか、かわいそうすぎるなあ、と感じてしまいました。母とのつながりという点では、なるほどと思いはしたものの、兵庫に戻ってくることになり、母親は、震災のことを全く語らなかったのでしょうか。はっとはしたけれど、裏を返せば、やや唐突でもあったということでしょうか。母像に震災の影が感じられなかったせいかもしれません。

ハリネズミ:わたしもそう思った。

ツルボ:とても読みやすくて、心に響く、いい作品でした。レイさんが生涯で巡り合った人たちを思い返すことで、自分なりの人生を生きてきたと思えるようになるところなど、私の大好きな池澤夏樹さんの『キップをなくして』(角川書店)に通じるところがありました。レイさんが出会った果物屋のおっさんとか、莉緒のアパートの隣のおばあさんとか、生き生きと描けていると思いました。茜ちゃんって嫌な子ですね。こういう子って絶対変わらないから、莉緒ちゃんも連絡を取ろうなんて思わないでほしいな!

まめじか:人間関係の糸はからまったりもつれたりして、ときに面倒ですが、それが人をつなぎ止めもすることが伝わってきました。テーマを前面に出すのではなく、物語の中に自然に落とし込まれているのがいいですね。レイさんを思い出す人たちの中で、くだもの屋のおじさんだけ少し違いますよね。深い関わりとか、人生を変えるような影響があったわけではないので。

ネズミ:『ぼくにだけ見えるジェシカ』(アンドリュー・ノリス作 橋本恵訳 徳間書店)と比べると、文体の統一感があって、ずっと読みやすく、ぐいぐい読めました。構成や言葉づかいもうまいなと。物語がどう落ち着くんだろうと思っていたら、阪神大震災につながっていたのに意表を突かれました。自分が何者か分からなくなっていた主人公が、レイさんとの関わりの中で変わっていく。思い出した人々からレイさんが浮かび上がってくることと、自分に意識が集中するあまり、自分が分からなくなっている主人公とが対比的に描かれているのかなと。後で考えてみると、荒れた中3女子だったレイさんが、p223でかなり悟った物言いになるのは不自然なのでは、という気もしましたが・・・・・・。中学生くらいで読めたらいいですね。

西山:新鮮だと思ったのが、この子の生理的な感覚です。p59「誰か知り合いの人が手作りしたものが苦手。その家の匂いとか、その人の体温とかが、しみこんでいるような感じが嫌」など、この身体感覚が一貫していて、息がくさいとか手がねばっこいとか、生理的に他者を拒否している感じが、神経を逆なでするような感性なのだけれど、とても興味深かったです。八百屋さんの桃のエピソードはレイさんのものだけれど、この作品を貫く一つの感触として生きていると思います。あと、レイさんが美容師になろうとしていたところで、阪神・淡路大震災で亡くなるというのは、理不尽に断たれた命を悔やませるのだけれど、だから、生きているあなたは好きなことが出来るのだから頑張れ、という方向に着地するのではなくて、お母さんが出てきて、学校に行かなくていいと言う。この展開には共感しました。あと、p206「ええかげんにさらしとかんと殺すぞ」なんて、「できるだけ悪い言葉を使って、精一杯ドスをきかせ」たという枠の中でですが、ここまでパンチの効いた大阪弁も新鮮で、笑えました。

ネズミ:お母さんが息継ぎしないでまくしたてるところも、笑っちゃいますね。

アンヌ:最初はレイさんに興味を持ち、病院で成仏していく幽霊は見えるんだな、とか楽しんでいたのですが、あまり幽霊界の話はなくて残念でした。主人公がもうレイさんの正体が分かっていながら写真を見せずに絵を描くあたりが、犯人が分かっているのに主人公が罠にはまりに行く推理小説のようで、イラッとしてしまいました。人は他者との関係性において自己を確立するという事を、幽霊と主人公に悟らせるためだろうけれど、少々しつこかった気がします。お母さんにとっては、レイさんも会いに来てくれたし、子どもに過剰な期待を押し付けてはいけない、生きていてくれればいいという真実に、また気付くことができて良かったね、と思いました。

マリンゴ: p224の「あたしはあたしが、出会った人らでできている」というところは、シンプルで非常にいい一文だと思います。自分というものが、周りの人の存在で作られているというのは、中高生の読者にとって、大きな気付きになるのではないでしょうか。あと、ヒロインのいじめられた原因が、自分が嘘をついたことにある、というのがいいと思いました。いじめる側が100%悪くて、いじめられる側にはなんの非もない、という設定はありがちなので。ただ、お母さんから教えられたことやアルバムの話を、レイさんに伝えないというか、伝えるタイミングを逸したまま終わってしまうのが、一抹の後味の悪さにつながっている気がします。

ハリネズミ:とてもおもしろく読んだのですが、よーく考えてみたら、お母さんたちの描き方がどうなのかな、と思いました。まずレイさんのお母さんが再婚して最悪の状況になってネグレクトされるというのは、いかにもステレオタイプ。莉緒のお母さんは、みなさんの評判はよかったのですが、結局自分の理想に他者を当てはめようとする人で、そこは変わってないように思いました。p232には、「夢や目標とか、素敵な友人たちとか、きらきらした青春の日々とか、そういうものを莉緒にも持たせたい、持たせなくちゃと思ったの]と言っていますが、作者が、それは勉強をちゃんとやったり、きちんと学校に行ったりすることでかなえられると思っているから莉緒の母にこういう発言をさせているのでしょうか。p231では莉緒の母は、「どうかどうか生きていてって。これ以上のことは、一生なにも望みませんって思ったはずなのに・・・・・・」と言っていますが、[生きている]は、母親の言う幸せより下に位置しているように取れてしまいました。

コアラ:まず、文字が小さいな、と思いました。文字の大きさを測ってみると、『ぼくにだけ見えるジェシカ』と同じだったのですが、ずいぶん小さく見えました。書体の違いは大きいですね。挿絵は、私は結構好きでした。p69のおじさんなんかはいい味出してる。莉緒がレイさんに言われるままにスケッチブックに描いた似顔絵が、挿絵になっているのがおもしろいと思います。p162で、阪神・淡路大震災が出てきますが、もう20年以上前なんだと改めて感じました。今の中学生は知らないんですよね。p222の「あたしはこの人らで、この人らがあたしやねん」という言葉はいいと思いました。そして、その後、それぞれの人が、レイさんからメッセージを受け取る展開になるのかな、と期待したのですが、そういう展開にはならなかったので、少しがっかりしました。新学期まで物語を続けずに、夏休みで話を閉じているのは、終わらせ方としていいと思います。

ぶらこ:周りの人たちとまっすぐ関わることが、「自分とは何か」を知る手がかりになる、というメッセージがストレートに描かれている作品だと思いました。脇役の意地悪なおばあさん、おもしろかったです。ものすごく嫌味な人として描かれるけれど、手作りの煮物が実はおいしいとか、主人公からはまだ見えないところがたくさんある人という感じがして。幽霊のレイさんと莉緒を結びつけたのは、実は莉緒のお母さんだったということでお母さんが重要な役割を果たしていますが、私はこの人が苦手で、後半の展開にあまり乗れませんでした。また後半、震災というすごく大きなテーマが出てきたのは、少し唐突にも思えてしまいました。

ハル:今回の3冊の中では一番「幽霊」感がありますよね。怖さもあって引き込まれて読みました。モンタージュのページなんか、夜に読んでいると、パッと出てきてドキッ!としたり。ラストp222の「この人らが、あたしや」という発見はとても新鮮で、深く感じ入ったのですが、その後でまたp225「あんたも、自分が誰か、探しや……」で、今度は莉緒の自分探しが始まってしまう。「この人らが、あたしや」で止めても良かったんじゃないかと思いました。もう1点は、震災を回想する場面ですが、ここは、読んでいて恐ろしく、苦しくなりました。ただ、幼なじみがレイを探しに来たのは、土砂崩れが起こってからどのくらいの時間が空いている設定なのかは分かりませんが、本当にこんなふうに、中学生が一人で現場まで来られるものなんだろうかと思いました。取材の上でしたら大変申し訳ないのですが、少しドラマチックになりすぎた感じもします。そもそも、この物語で震災を扱わなければいけなかっただろうかという気もしました。

須藤:現在の学校内の人間関係でトラブったりして、前に進めなくなっているような状況にいる主人公の女の子が、幽霊のレイさんと関わることで、前に進めるようになる、という方に主眼があるのか、それとも、20数年前に断ち切られた人生の物語の方に主眼があるのか、どちらなんでしょうね。神戸の震災のことが出てきて、20年も経つのかと思いました。20年経っても、震災というのは、こうして災害に遭った人の心にさまざまな傷というか、思いを残すものなのだなと改めて思います。自分としては、震災のことが出てきた後半がおもしろかったですね。前半は、主人公の子がちょっとひがみっぽくて面倒くさい子だなあと思ってしまったので、いまいち乗り切れませんでした。面倒くさい、やや暗い性格の女の子が、一風変わった他者との関わりを通じて良い方に変化する、という物語に、自分はやや食傷気味です。

シア:スケッチ風というのは分かるのですが、表紙にはいまいち惹かれませんでした。題名もなんだか無個性で読書感想文みたいです。テンポ良く読めましたが、内容というよりもレイさんの個性で読み進めていくという感じでした。全体的に田舎の昭和感が溢れてしまっていて、いじめの辺りも、桃の件でのおじさんとのやり取りも、なんともじっとりとしていて息苦しさを感じてしまいました。日本のホラーのような湿度の高さを思い起こさせます。自分の価値観を押し付ける母親や、近所のおばあさんなど鬱陶しさしかありません。お父さんは空気だし。児童書を読んでいると日本のお父さんっていつも空気ですよね。大丈夫でしょうか。この本で印象に残ったのは、お母さんのp231「これ以上のことは一生なにも望みませんって思ったはずなのに、時がたつとどうしてこう忘れちゃうんだろうね」という言葉ですが、20年経っても成長していないってのはどうなのかな・・・・・・。気になった表現でp62「素敵にすずしかった」とあるんですが、こう言いますかね?最後レイさんが、p222「あたしはこの人らや」と言って成仏していきますが、もう少しエピソードがないと分かりにくいと思います。というか人数が少ない気がします。阪神大震災を入れようと思ったからなんでしょうが、扱いが中途半端ですよね。確かにここから話はおもしろくなりましたが、美談として震災を感動的に扱おうとしている気がしました。震災ものは子どもたちに伝えていくべきものではあるけれど、記憶にある方もいらっしゃるので難しいですから、安易に扱うものではないと思います。

ルパン:この物語のキーパーソンは実は主人公のお母さんですよね。でも、このお母さん、最後に急にクローズアップされて、それまでは存在感が薄いんです。なんだかちょっと作者の都合で動いているような。それよりも、主人公の「私」が引きずっているのは、前の学校の茜ちゃんですよね。この茜ちゃんとの関係が自分の中でどこまで整理されたのか…茜ちゃんとの確執から始まって、汚部屋になったり学校に行きたくなくなったりしているのに、最後はレイさんとお母さんの話になってしまって、消化不良のまま終わりました。そもそも、あまり主人公に好感が持てませんでした。隣のおばあさんを極端に嫌っているのだけど、その理由が「痩せてくぼんだ頬に、ピンクの頬紅をさしているのが気持ち悪い」。挨拶されても返さなかったことをたしなめられたのに逆恨みしているし、茜ちゃんとの関係にしても、レイさんやお母さんに対する態度にしても、共感できる部分があまりありませんでした。

ハリネズミ:p142にイタリックが出てきますが、縦書きにイタリックって違和感あります。物語世界の設定でいうと、レイさんは人の顔は克明に覚えているし描けるのに、病院や町の名前はまったく覚えていないんですね。それでいいのかな、とちょっと疑問に思いました。

ツルボ:幽霊って、作者の都合でどうにでも作れるからね。

須藤:そういう意味でいうと、お化けを出すにしても、いつだったか読んだ魔女の話にしても、既存のイメージを便利に使いすぎなんじゃないかと思います。

ハリネズミ:どの作品でもそうですが、物語世界は、ていねいにちゃんとつくってほしいです。

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エーデルワイス(メール参加):『ぼくにだけ見えるジェシカ』の日本版ですが、こちらのほうがもっと深刻です。母子の問題やいじめや自分探しが出てきますが、関西弁で書くことによって深刻さが緩和されています。幽霊の「レイ」さんが本当に「怜」だったのにびっくり。レイさんの人生が過酷で辛い者であっても、希望を捨てなかったことや、明るい性格だったことなどに読む者は共感できると思います。阪神淡路大震災のところではハッとしました。体験した者にとっては、いつまでも忘れられないことなのですね。

(2019年07月の「子どもの本で言いたい放題」)

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『ぼくにだけ見えるジェシカ』表紙

ぼくだけに見えるジェシカ

彬夜:まず、タイトルが変だなと思いました。ぼくだけって? ほかにも見える子がすぐに見つかるのに、なんでこういうタイトルにしたのでしょうか。それから、表紙の絵のジェシカ。最初の登場がモノトーンのミニドレスとあって、あれ?と思いました。その後、この服、いつ出てくるのかな、と。文章的にもところどころ引っかかるところがありました。たとえば、p20「そんなふうに動けるのは、けっこう楽しめたはずだった」とか、p106「恐怖心はなくなり、興味津々になってきた」とか。ほかにも何ヵ所か「?」と思うところがありました。アンディのことを母親が「暴れんぼ」と呼ぶのも、違う言葉がなかったのかな、と。人名で、ローランドとローナというのは、音が重なるので(元の言語では別の音なのかもしれませんが)、違う名前の方が読みやすかったと思います。まあ、翻訳だから仕方ないんですけど。ストーリーは、開かれていく痛快さがあるので、それなりに読み進めることはできましたが、フランシスたちが自殺を考えるような子には見えなくて、全体的に粗っぽい物語だな、という印象でした。ストーリーだけでなく、人物も、特に親たちの造型が粗いな、と。最大の謎は、ローナになぜジェシカが見えなかったかということ。それから、ラストの後日談的な部分はいらないのではないかと思いました。作者のあとがきによれば、普段は筋立てを決めて書くが、この作品ではストーリーの行き先を決めずに書いた、と言っていますが、この物語は、しっかり決めて書いたほうがおもしろくなったかもしれませんね。

須藤:読後感はよかったんですが、ちょっと地味というか、ページをめくらせていくような力が弱いように感じました。まあただ、子どもにとって、学校で嫌なことをされたときにどう対処したらいいか、とか、あるいはみんなから笑われるかもしれない心配、というのは切実な問題なんですよね。そこをテーマにしていて、それは大事なんだと思うんですが・・・・・・。親をやっていて思うのは、子どもが小学校に上がってそういう問題に直面した時に、なかなか有効なアドバイスを与えられない。要するに、あんまり気にしなくていい、とか、ある意味タフに、大人になれ、とか、大したことは言えないわけです。で、この本は、そうした「子どもにとって切実な問題」をテーマにしてはいるんですが、しかし、この本を読んで子どもがどこまで共感して、自分の問題に引きつけてくれるのかくれないのか、ってことは気になりました。子どもにとって「役に立つ」本であり得るんでしょうか。『西遊記』みたいにいじめや鬱といったテーマとも何も関係ない、ただおもしろい本のほうがあるいは救いになるのかもと思ってしまいました。

ぶらこ:鬱や自殺といった重いテーマを扱っていますが、人間関係がドライで、軽く読める作品だと思いました。でも、p209の「不思議なことに、こっちがまわりの目を意識しなくなると、まわりもたいてい、かわっていてもとやかくいわなくなった」というメッセージは、本当に鬱になるくらいいじめで悩んでいる子には響かないような・・・・・・。それよりももっとライトな層に向けて書いているのかな、という印象でした。子どもたち同士の友情によって人生を楽しむ力を獲得していくお話だけど、もう少しまわりの大人との関係性も読んでみたかった。子どもたちの母親のキャラクターがどれも似て見えてしまったのは残念でした。ファッションについての会話などは楽しく読みました。

コアラ:読んでいる途中では、あまり印象に残らないような内容だな、と思っていましたが、読み終わってしばらくしても、案外印象に残っています。ファッションに興味があって裁縫が得意という男の子が主人公なので、そういうものに興味を持っている男の子の励ましになると思いました。後半は自殺がテーマになってきますが、悩んでいる本人に役立つというよりは、周りで悩んでいる人がいる子にとって、接し方など参考になるかもしれないとも思いました。装丁がなんとなく女の子向けのように感じますが、男の子にも読んでほしい本です。136pからp138までで、「学校に行かないと法律違反」というような会話があって、「え?」と思ったのですが、「訳者あとがき」にそのことについて触れられていたので、その点は良かったと思います。

ハリネズミ:さっき須藤さんが「おもしろくない本でも役に立つのか」と疑問を出されたのですが、私は、おもしろくない本は読まれないので、結局役に立たないと思っていて、子どもの役に立てようとする本ほどおもしろくしないといけないと思っています。この本は物語世界のつくり方が中途半端かな、と思いました。原題は「ジェシカの幽霊」ですが、日本語タイトルは「ぼくだけに見えるジェシカ」。ぼくだけじゃなくてすぐ他の子にも見えるようになるので、どうなんでしょう? それから、この物語では、ジェシカは、自分と同じように穴に落ちて死を考えるようになった子に見えるという設定だと思いますが、それならローナにも見えるはずじゃないかな? また、ジェシカの声は他の人に聞こえないので、人がいない場所で会話をしているはずですが、p32では、みんなのいる教室で会話をしています。それと、ジェシカのミッションは自殺を思いとどまらせることだとすると、そんな子はいっぱいいるでしょうから、永久に成仏できなくなります。そんなこんなで、物語世界の決まり事をきちんと作ったうえで、それを最後まで守って物語を進めてほしいな、そこが残念だな、と思いました。引きこもりのローランドが追いかけて来てp103では「あの、ごめん、きみの言うとおりだ。ものすごく失礼だった」と言うんですが、日本のひきこもりの問題を抱えている子たちは、普通はこんなふうにすぐ出て来た謝ったりしないですよね。それからアンディという子が男の子っぽい格好をしているんですけど、友だちができたりローランドとつきあうようになったら、普通の女の子っぽい服装になるのはつまらない、と思いました。

マリンゴ: 私はおもしろく読みました。今回の課題本としてまとめて読んだことで、『レイさんといた夏』(安田夏菜著 講談社)と比較できて興味深かったです。幽霊のスペックや目的が似ていますよね。この本は、キャラが立っていて引き込まれました。幽霊の本のわりに明るいですね。クラスで浮いている子、はみ出している子が実は魅力的なのかも、と読んでいる子どもたちが気づくといいなと思います。ただ、ファンタジーって、最初に作った設定を守らないといけないはずなんですけれど・・・・・・クライマックスでそれが破られているのが残念です。ジェシカは、死にたいと思った子に見えて、そうじゃない人には見えない設定のはず。でも、クライマックスでは、自殺しようとしている子には見えない。主人公たちを活躍させるための“言い訳”に思えるのです。そして逆に、今まで見えなかったはずのおばさんが、急にジェシカの存在を“感じる”ようになる。これもストーリーの都合ですよね。それが残念でした。最後まで楽しく読むことはできたのですが、架空の世界の作り方と守り方は大事だと思います。

アンヌ:以前から題名だけ知っていて読むのを楽しみにしていた作品だったのにp47で「ぼくにだけ」どころかアンディにまで見えてしまって、がっかりしました。ここから、フランシスとジェシカの物語ではない話がドタバタと始まって行きます。アンディはカッとなったら暴力を振るってしまう問題児のはずが、転校先では冷静な武闘家のように効果的に暴力を振るって問題解決をする。自殺寸前まで落ち込んでいたようには見えません。ローランドについても同様です。さらに自殺寸前のローナにジェシカが見えないというのも奇妙です。学校の行事で展覧会に行った時に、いじめに遭っているローナにジェシカが見えていないのもおかしい。作者が自分で作った設定を守っていない作品ですね。ジェシカが消えた後に物語が延々と続くのは、ジェシカが一番必要だったフランシスが救われていく過程なんでしょうが、エピソードは衣装係の話ぐらいでよかったかもしれません。もともとフランシスは自分の世界を持っている子ですから。でも、その世界の中で、彼はこの先ずっとジェシカのイメージで作品を作って行くのだろうなと思うと、少し切ない気がしました。

西山:文章の弾まなさが興味深かったです。具体的に分析できていないのですが、弾まない文章でドタバタが描かれていて不思議な感触でした。表紙に関してはみなさんのご指摘同様です。裏表紙を見て、ああ、あと二人こういう子が登場するなとも思っちゃっていました。次々にジェシカが見える子が登場して、これはギャグだと思ったんですよ。どんどんみんな見えちゃって、ワヤワヤになることを期待しましたね。那須正幹さんの『屋根裏の遠い旅』(偕成社、1975)で、パラレルワールドに迷い込んでいるのが主人公だけじゃないというのが新鮮だったのを思いだしたりして。ローナにジェシカが見えない理由は書いてありましたよね。まあ娯楽作品としてはサーッと読めたという感じです。

ネズミ:ジェシカが現れてから主人公フランシスの周囲がどんどん変わっていって、いったいどうなるのだろう、ジェシカは過去を思い出せるのだろうか、という興味に引っぱられて読みました。アンディやローランドの誇張気味なキャラクター設定からエンタメだと思ったので、細かいことはあまり気にせずに。学校社会って、どこに行ってもいろんな人がいて、ぶつかり合っていくものだけど、フランシスが味方を得たり、自身も別の角度から考えられるようになったりして、我慢するだけではなく、自分らしくやっていく方法を見つけていくので、読後感はよかったです。子どもに力をくれる本だと思いました。

まめじか:エンタメとして読んでいたら、鬱や自殺というテーマが途中で見えてきました。その重さと、ちょっと緩い設定がちぐはぐというか・・・・・・。フランシスの言葉は、学校で浮いている子だからなのかもしれませんが、年齢より大人っぽいですね。

ツルボ:タイトルが内容と合っていないとかは、みなさんに言われてしまったんですけれど・・・・・・。作者の言葉を読むと、コメディを書いていた方なのでエンタメっぽくなったのだと思うのですが、やっぱり自殺をテーマとして書きたかったのでは? それだったら、一番ジェシカを必要としているローナに見えないのは、何としてもおかしい。鬱という「穴」に入ってしまったから、と作者は説明しているけれど、そういう子どもたちこそ救われるべきじゃないかな。それに比べて、フランシスのように自分の好きなもの、進みたい道がはっきりしている子どもが、内心は死にたいと思っているというのも説得力がない。いまどき、パリコレのデザイナーは男の人のほうが多いと思うし、母親にも認められているのに。三人称で書かれているので、いろんな登場人物の目線が交錯して、煩雑で読みにくかったけれど、これは原文の問題? それとも訳のせいなのかな? 全体に妙に固い文章と会話などの軽やかな部分が入り混じっていて、すっきりしない。p45の「あっけらかんとほほえんだ」とか、p140の「ホームスクールは両親に認められた法律上の権利」とか、「えっ!」と思って読み返す箇所が多々ありました。

しじみ71個分:読みやすくてサクサクと進みました。男の子がファッションに興味があるせいでいじめられるという設定でしたが、イギリスでもそんな問題があるのかなぁ?と思いました。主人公のフランシスの他にもジェシカが見える子たちが登場してきますが、その共通点は後からだんだん分かってきます。ジェシカはスーパー幽霊で、賢くて可愛くて優しい。で、そんな子がそう簡単に自殺するのかなぁ?とも思ったり。ジェシカが成仏できずにこの世に留まっている理由が子どもの自殺防止という割には、自殺リスクの最も高いローナの内面が描かれているわけでもないし、ローナにジェシカは見えないし、ちょっと理由付けとしては弱いかなと思いました。それから、ジェシカの死を悔やんでカウンセラーになったおばさんとの関係があまり書かれていないので、もっと堀り下げてもいいと思いました。西洋の子ども向けの物語で子どもの自殺をテーマにするのは珍しいのでしょうか? テーマ先行な気はします。それと後半、盛り上がりには欠けていますね。ジェシカとの出会いで3人の子どもたちがポジティブに元気になっていくという展開は爽やかでいいし、気付きを得ていく過程も破綻なく書かれていますが、問題が解決して、ジェシカが成仏していくところに盛り上がりがありません。後書きをちらっと読んだら、普段は考えて緻密にプロットを考えてから書くが、今回はあまり考えないで書いたとあって、だから盛り上がりに欠けたのでしょうか。もうちょっと考えて書いてもよかったのでは・・・・・・。残念です。

ハル:タイトルや表紙の雰囲気からして、少し小さい人向けの本かなと思って開いたら、文字が小さい! 文字数も多いし、内容からすると文章も結構、硬い印象があって、全体的にちぐはぐな本だなぁと思いました。「作者あとがき」を読むと、作者自身も普段とは違う書き方をしたと書いているので、ちぐはぐ感が生まれたのは、それも原因だったんじゃ・・・・・・。日本語版の編集では、どのくらいの年齢の、誰に読んでほしくてこの本を作ったんだろうと考えてしまいました。

しじみ71個分:一方、死にたくなるほどの落ち込んだ気持ちは、「穴に落ちたような気持ち」という程度で非常にあっさりしています。死を考えるほどの欝状態の辛さはもっと言葉を割いて掘り下げてちゃんと書いた方がいいのではないかと思いました。全体的に重いテーマの割に掘り下げが浅い印象です。

ネズミ:そこまでの穴に見えてこない。

しじみ71個分:あと、ローナへのいじめについてすぐに警察が介入して、いじめの首謀者の女の子二人を退学にするというのには驚きました。問題のある子たちを指導もなく、ただ野に放つというのもすごいなと思って。

須藤:ゼロ・トレランス方式っていいますよね。ただ賛否両論ありますが・・・・・・。

シア:感動的で最後泣けました。p211「陽光があたたかい。太陽のあたたかさが、ブレザーを通して両肩に広がっていく。おだやかなぬくもりに、心が安らぐ」というところが、ジェシカがフランシスの肩を揉んであげたシーンとシンクロして、目頭が熱くなりました。終始温かい感じの文章でした。でも、表紙がそぐわないように感じました。ジェシカとの出会いのシーンだとすると、フランシスは帽子をかぶっているはずだし、そもそも彼が眼鏡をかけている描写はなかったと思います。いじめられっこは眼鏡、というバイアスがかかった見方はどうにかしてほしいですね。それに、とてもおしゃれなはずのジェシカの服装も全く素敵ではありません。海外のファッションニュースを見ているようなファッショナブルな描写もこの本の魅力の一つですから、画家さんにはもっとがんばってほしかったですね。いつも美しい挿絵を描かれるのに、残念です。
それから、題名も気になります。「ぼくにだけ見える」ではないじゃないですか。全く詐欺です。邦題によくある“ヤクヤク詐欺”です。そもそも、原題は『Jessica’s Ghost』で『ジェシカの幽霊』となり、p187「自分のほうが肉体のない幽霊のように感じられたのだ」というように、生きているけれど自殺願望のあるフランシスたちのことをも示しているように思います。だから読後に深い味わいのある題名になるはずなのに、もったいないです。しかもですね、カバー袖でまた盛大にネタバレをしているんですよ。もう読む前から「ぼくにだけ見える」ことはないとバラしている。本当にこういうカバー袖や帯は読んではいけない時代になりました。最近、若い人を中心にネタバレされても平気だし、むしろ大いに、そして好意でネタバレをする人が増えています。生徒たちも内容を全て知ってから安心して読んだり見たりしています。想像しなくなっているんでしょうか? 焦りを感じます。
とはいえ、話としては良かったです。幽霊話だと成仏してお別れというラストは見えていますが、この本はそうではなくて成仏したのは閉ざされていたみんなの心、という落としどころだったので新しいと感じました。どんなに人生がガラリと変わっても、楽しく過ごせていても、どうあがいてもジェシカはいないという事実がとても切なくて、幸せな未来を断つという自殺いうものの重さを説教するでもなく伝えてきていました。ラストシーンの切なさは一見の価値がありました。中高生にはよくありますが、漠然と死にたい子はいるんですよね。積極的に死にたいというのではなく、生きたくないというレベルの。そういう子に、「穴に落ちる」とか、「太陽と雲」とかのわかりやすい比喩や、p129「じつは、わたしもいわなかったの。いま思うと、それがまちがいだったのね」というジェシカの言葉など交えながら、この本で落ち込んだときの心の処理法が伝わればと思います。

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エーデルワイス(メール参加):ファッションの才能をもつ男の子フランシスも、アンディもローランドも幸せになってよかったです。ひどいいじめは世界中にあるのかとため息が出ます。後半はちょっとお説教臭いと感じました。ユーモアもあり、ファンタジーぽくて、小学校高学年から中学生の女の子が読みそうです。

(2019年07月の「子どもの本で言いたい放題)

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