カテゴリー: 言いたい放題でとりあげた本

赤い鳥の国へ

アストリッド・リンドグレーン『赤い鳥の国へ』
『赤い鳥の国へ』
原題:SUNNANANG by Astrid Lindgren(スウェーデン)
アストリッド・リンドグレーン/著 マリット・テルンクヴィスト/絵 石井登志子/訳
徳間書店
2005

版元語録:ずっとむかし、身よりをなくした小さな兄と妹が、雪の森で、まっ赤な鳥を見つけました。鳥をおいかけて、二人がたどりついたのは、光あふれる春の草原でした…。「子どもの本の女王」リンドグレーンが、貧しい時代の子どもたちを優しいまなざしで見つめた、珠玉の幼年童話。

トチ:今回選書係のたんぽぽさんによると「いつまでも頭から離れない話」ということでしたが、本当にいつまでも心に残る話でした。語り方も絵もさすがにうまいと思ったし、虐げられている子どもたちへの時代を超えた作者の愛情や、怒りも感じました。特に41ページの「ミナミノハラがなかったら……」という台詞など、こんなに悲しい言葉があっていいの?とまで思いました。『マッチ売りの少女』の世界だわね。ただ、訳者の後書きに「(この物語は)悲しいまま終わっていません」とあったけれど、「??」と思ってしまった。日本の子どもたちは、この物語は死で終わっていると理解するでしょうし、キリスト教の世界ではいざ知らず、日本の読者にとっては「死=悲しいこと」のでは? たとえ天国に行けたって早死にしちゃいけない、そう考えるほうが「まっとうな」気がするんだけど。

たんぽぽ:悲しすぎて、自分の学校の図書館には置いていません。絵本でも、文字量が多いと子どもは手にとりにくいのだけれど、このように幼年読み物にすると、子どもが手にとれるかなとは思いました。

げた:扉を閉めることで兄弟は天国に行ってしまったという、悲しい結末。悲しいから、私の区では全館には置かなかった。絵もいいし、子どもの心に入ってくると思うが。せっかく学校に行ったのに、ひどい目にあうし。

カーコ:何度も何度も同じ言葉でたたみかけられて、イメージが心に焼きついてくるようでした。最初の灰色の世界と、赤い鳥の対比のあざやかさが見事でした。個人的には、『エーミルと小さなイーダ』(さんぺいけいこ訳 岩波書店)のような明るい作品のほうが好きですが。

ハマグリ:リンドグレンの中では、悲しいお話なんだけれど、子どもはたまに悲しーいお話を読みたいと思うときがありますよね。貧しくて、みなしご……それだけで、子どもをひきつける。リンドグレンの作品集(岩波書店)の中でも、とくに『小さいきょうだい』や『ミオよわたしのミオ』が好きだという子どもも時々いるんですよ。赤い鳥の国とは、キリスト教でいう天国を表していて、現世では救われないんだけれど、最後に救いがあるということでしょうか。『小さいきょうだい』には全部で4話の短編がはいっていますが、その中の1編をこのような形で1冊の本として出してくれると、読みやすいし、読者が広がるのがいいですね。岩波版の訳者大塚勇三の独特の口調は捨てがたいですが、石井登志子訳はくせがなく平易だと思いました。挿絵画家も違い、こちらは、村の中でも森の中でも、兄弟の姿をことさら小さく描いていて、読者が心を寄せざるをえないんですね。前後の見返しの絵もいい。

アカシア:新しい作品だと思って読み始めて、途中から「ああ、これは『小さいきょうだい』で読んだ話だな」と思い出しました。リンドグレンは多才な作家ですよね。楽しい作品もあれば、悲しい作品もあるし、子どもの日常を描いた作品もあれば、ファンタジーもある。年齢対象もいろいろです。扉を閉めるというのは、自殺することなんでしょうか? リンドグレンは、本当に辛いとき、そういう道を選ぶことも認めているんでしょうか?

アサギ:私は悲しいお話はあまり好きじゃないけど、悲しい話を読みたいというのは、確かにあるわよね。

トチ:読者である自分を安全なところに置いたままカタルシスを味わうというのは、ちょっと後ろめたい気がするけどね。特に子どもの本の場合は。

アサギ:最後に死んでしまうのだから、悲しくてやっぱりわたしはだめ。『人魚姫』(アンデルセン作)とか『フランダースの犬』(ウィーダ作)とか、子どものときは読んでいたけど。これはたぶん年齢とも関係あると思うんだけど、だんだん悲しいものは辛くなってきた。

トチ:わたしはハマグリさんの意見と同じで、こういう本があってもいいんじゃないと思うけど。

アカシア:子どもの読者は、最後死んだとは思わないんじゃない?

トチ:いや、子どもはもっと読書力があると思う。

アカシア:そうじゃなくて、今の子はファンタジーも読んでいるから、アナザーワールドに行ったと思うかも。リンドグレンは、天国を信じているんでしょうから、現世では辛い体験しかあたえられない子どもたちに、ここで救いを与えているのだと思いますね。

愁童:僕はこれを読んで、これまであったリンドグレーンへの好感度を自分の中から削除しちゃった。悲しいお話が好きな子は確かにいるけど、何かこの作品、そんな読者を意識したショーバイ・ショーバイって感じがして好きになれない。こんな本読んで育つから、練炭持っていって一緒に死のうみたいな若者にが増えるんじゃないの? せめて、『青い鳥』(メーテルリンク)じゃないけど、どこかに青い鳥がいるから自分でさがしに行ってごらん程度のメッセージがあってもいいんじゃないかな。苦しかったら死んじゃいな、みたいなことを、自分は安全な所にいる大人から言われたんじゃ、子どもはたまらないぜ!

トチ:たしかに作者は善意で書いているし、こういう子どもたちへの愛情や大人たちへの怒りも感じるけれど、愁童さんに言われてみると、これは愛情ではなく哀れみなのかも、って気もしてきたわ。

げた:子どもに向けて、手渡すのに抵抗を感じたのは、これでは子どもが救われない、悲惨すぎると思ったからなんです。

アカシア:でも、物語の舞台は今の日本じゃないですよね。日本にいると見えないけど、今だってこの子たちみたいな子はいっぱいいる。その子たちに向かって、「おまえたち死んじゃだめだ」っていうだけで、現実には何もしなかったら、もっと救いがないのでは?
(このあと、リンドグレーンの姿勢について熱い議論が続く)

(「子どもの本で言いたい放題」2006年4月の記録)


真夜中のまほう

エクルズ・ウィリアムズ『真夜中のまほう』
『真夜中のまほう』
原題:MAGIC AT MIDNIGHT by Phyllis Arkle, 1967(イギリス)
フィリス・アークル/著 エクルズ・ウィリアムズ/絵 飯田佳奈絵/訳
BL出版
2006

版元語録:村のやどやの看板に描かれたマガモは、真夜中の鐘が鳴ると、看板からぬけだせることを知ります。同じようにまほうを知った看板仲間は、池で泳いだり、音楽会をひらいたりと、すばらしい夜を過ごしますが、やがて村でおこる大事件に巻きこまれ……。クラシカルな雰囲気がただよう楽しい作品。

アサギ:看板から動物が飛び出すという発想がおもしろかった。でも翻訳はところどころ安易で(おそらく年寄りで知恵のあることになっているふくろうが、「わしは・・・じゃ」とするなど)、気になりました。話を聞いてもらえない男の子ダンを通して、さりげなく大人への皮肉もこめられていますね。ファンタジーの中には、最初はおもしろくても落としどころが悪いのもあるけど、これはすとんと自然に終わっていていいと思います。

アカシア:お話の運びはおもしろかったのですが、文章は気になるところがいっぱいありました。13ページにはマガモが「バチャバチャと手足を動かして」とあります。四本足の動物なら前足を手ということもあるけど、カモは足が2本しかないから表現として変ですね。14ページ「さかなが頭をポンッと」だけど51ページは「魚がポンと頭を」になってる。読みにくいけど小さいツを入れるなら入れるで統一してほしいです。「ミッドナイト・イン・サイン・クラブ」は、日本語のおもしろい表現にしたほうがよかったと思います。50ページの「マガモは、今回、なにが待ちかまえているのか、なんとなく思うふしがありましたが、」も日本語として変ですね。28ページの「ショートさんは、その日、看板をみようともしませんでした。ですから、マガモが教会のある西の方角ではなく、古い救貧院がある東の方角を向いていることには、だれも気づくことはありませんでした」も、看板は宿の主人が自分の看板を見るよりも通りがかりの人や旅人が見るほうが多いと普通は思うので、何が「ですから」だかわかりません。それから、これは原文もそうなのでしょうけど、110ページに人魚が「わすれっぽいのって、女の人だけだと思ってたわ」と言いますが、ジェンダー的には問題ありますよね。せっかく小学生が楽しく読めるおもしろい物語なのですから、編集者が訳者を助けてちゃんと見てくれると、もっとずっといい本になったのにね。

ハマグリ:感じのいい表紙で、挿絵も味があり、文字の大きさも手ごろで、手に取ったときにまず好感が持てました。小学校中学年くらいでどんどん読めるといいけど、けっこうむずかしい漢字が出てきますね。それと、マガモのキャラクターのおもしろさが、原文にはもっとあるのではないかしら? まじめなばかりではなくおかしさが出ると、もっともっと魅力的な話になると思う。訳文は、「ですから」「ですので」「だから」をどう使い分けているんでしょう? はっきりした理由がないのなら統一したほうがいいですね。

カーコ:楽しいお話でした。次々に特徴のある新しい動物が加わっていくのもおもしろいし、ハラハラドキドキさせられるところもあって。低学年の子がおもしろがりそうなのに、漢字にルビが少ないのが残念。私も気になる言葉はありましたが、1つだけ言うと、10ページの、「つめたっ。」今の子は、「あつい」を「あつ」とか、「すごい」を「すご」とか、「い」ぬき言葉を使うけれど、幼年童話で使うのはどうかな、と思いました。

げた:じみな表紙で、ハラハラドキドキといってもそれほど山あり谷ありではありませんが、発想がよくて私の区では全館に入れました。言葉遣いは、気になりませんでした。選書のときは一日30冊くらい読むので、そこまで注意が行き届かないということもありますが。挿絵もシンプルで、かえってお話の中から子どもたちに想像させる効果があると思いました。

たんぽぽ:私はこの本が好きで、挿絵もいいなと思いました。看板から抜け出してくるのが楽しくて、子どもも喜んで、図書館ではよく動いています。最後が、ストンとうまく落ちている。

トチ:物語はとってもおもしろいし、訳者も楽しんで訳していると思いました。でも、編集者がちゃんとチェックしたのかな? 訳者のデビュー作なのに、これでは気の毒。動物の名前が平仮名だったり、カタカナだったりするし、マイルやインチなども、子どもの本の場合はキロやセンチで訳さなきゃ。「ナショナル・ギャラリー」や「オークション」も子どもはどういう場所か、どういうことかわからないでしょうし。106ページの「ダンは、あどけなくこたえました」という箇所、きっと innocently とあるのでしょうけど、この場合「しらばっくれて」ということなのでは?「あどけなく」では「ぶりっ子」みたいで、トロいと周囲に思われていても本当は賢いダンのイメージが変わってしまう。「(ダンに看板のことを指摘された店主の)ショートさんの顔がさーっと青ざめました」という箇所も、ショートさんが大変な秘密でも持っていて、ダンにばれそうになったので青くなったのかなと思ったら、ただ腹を立てただけだった……こういう細かいところのズレが積み重なると物語の全体がわかりにくくなる。せっかく良い本なのに、惜しいなと思いました。

アサギ:全体として、ばらつきのある翻訳という印象。すごくうまいなと思うところと、変だなと思うところがある。

愁童:この訳者の日本語の語感がずれている感じがする。「なんとなく思うふしがありましたが」なんていわれても、この本読む子にはそんなニュアンス分からないでしょう。本の内容からすれば、もっとリズム感のある日本語で語ってほしいね。せっかくの楽しいお話なんだから。

トチ:作家も翻訳者も編集者に育てられるものと、私はいつも思っています。たとえ編集者のほうがずっと年下でもね。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年4月の記録)


ぽけっとくらべ

今江祥智『ぽけっとくらべ』
『ぽけっとくらべ』
今江祥智/文 和田誠/絵
文研出版
2005

版元語録:何でも入る便利なポケット。動物たちが感心して、つくってみたくなるのもむりはありません。ところが、自慢のポケットはなんだかへんなポケットばかりで、思わず笑みがこぼれます。ポケットの大好きな子どもたちにおくる、たのしくおしゃれな絵本です。

トチ:なんとものんきなところが、大好きな本です。ただ楽しいだけの本みたいだけど、子どもは読んでいくうちに、ポケットにはあんなものも、こんなものもある……なんて考えるようになる。お勉強絵本のようなものより、ずっと頭の訓練になるのかも。今江・和田コンビの『ちょうちょむすび』(BL出版)や『あめだまをたべたライオン』(フレーベル館)も好きだったけど、なんというか、お二人とも失礼ながら「枯れた」境地に入ってきているというか……

たんぽぽ:子どもに安心して渡してあげられる本ですね。字がちょっと小さいかな。

げた:ポケットって、子どもに興味があるから、テーマ的にはいいと思うけれど、文章がちょっと長すぎるかな。短いと、もっと楽しめるのでは? 表紙がいいので、図書館でもよく借りられています。

カーコ:パネルシアター的な絵本だと思いました。登場人物の口調の書き分けがうまい。小学生に読み聞かせしてみたくなりました。

ハマグリ:絵本にしては字が多くて読みにくいし、読み物を読みたい子どもは、この形では手にとらない。中途半端なつくりだと思います。判型を小さくして、低学年の子が読みやすい読み物にしたほうがよかったのでは?

アカシア:これは今江さんの童話集の中にも入っている話ですよね。私は最後の落ちがイマイチでした。カメの甲羅もポケットだっていうのは、どうなんでしょう? もう少していねいにお話をつくってほしいな、と思っちゃった。

トチ:カンガルーで終わればよかったのにね。

アサギ:基本的には楽しくて良い本だと思います。でも、私も最後でがくっときてしまったのが残念。絵本にしては字が多いけれど、楽しくあたたかい雰囲気に満ちている印象。ポケットというのも、良い発想では。ドラえもんにもあるわね……。

愁童:今江さんの幼年向けの作品て、言葉にリズム感があるものが多いけど、これは読み聞かせを念頭において書かれているのかな? 子どもが喜びそうな題材でユーモアもあるし、おもしろいなと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年4月の記録)


森のサクランボつみ大会 ハリネズミのプルプル1

二宮由紀子『森のサクランボつみ大会』
『森のサクランボつみ大会 ハリネズミのプルプル1』 (ハリネズミのプルプル1)

二宮由紀子/著 あべ弘士/絵
文渓堂
1999

版元語録:ハリネズミが,こんなに“わすれんぼう”だったなんて,知っていましたか?約束を忘れたハリネズミが次々に巻き起こす,愉快なお話。オールカラーの絵童話シリーズ第一弾。

トチ:のんびりしていて、なんとも幸福感あふれるお話で、大好きです。子どもって、学校の先生やお母さんから、しょっちゅう忘れ物をするなって注意されてるから、こういうものを読むと、ほんとにホッとするんじゃないかしら。「こんなによるはやく」とか、子どもたちが喜びそうな言葉も、いくつも出てくる。『ウィリアムのこねこ』は、作者がしっかりお話を考えた本だけれど、これはごく自然にストーリーが流れている。対照的な書き方だけど、どちらもうまいと思いました。

たんぽぽ:シリーズの3冊の中で、1巻目がいちばんおもしろかった。なんでもかんでもすぐに忘れていいなあと。二人のコンビのは、先月もふくろうの本が出ていましたね(『森の大あくま』毎日新聞社)。

げた:おもしろい。夏休みのおすすめにしようかな。忘れても、まるくおさまっちゃう。ぎゅうぎゅうしめつけられている子どもと、まったく逆転した世界。今の子どもたちを、だいじょうぶなんだよと解放してやる意味が込められているのでは。

カーコ:楽しめました。まじめな子が読んだら、どうなっちゃうんだろう、とドキドキするんじゃないかしら。阿部さんの絵がおおらかで、また楽しい。19ページのハリネズミの手の絵は、阿部さんだからこそだな、と思いました。

ハマグリ:絵本を卒業する年齢の子が移行しやすい本が、もっと出てほしいなと日ごろから思っているので、こういう感じの本はうれしい。でも、あべさんの絵だと『わにのスワニー』シリーズ(中川ひろたか著/講談社)のほうがいいかなと思います。最初に、状況がよくわからない部分がありました。12、13ページの絵が、夕方の早い時間というのがつかみとりにくい。絵を見てもよくわからなかった。フルフルとプルプルも、どちらがどちらだか途中でわからなくなることがあったわね。ローベルのかえるくんとがまくんのように、はっきりと描き分けられていないので。

アカシア:1巻が図書館で貸し出し中だったので、私は3巻目を先に読んだんです。そしたら、ただただハリネズミたちが忘れてしまうだけで、芯がなくて、えっ、これでいいの? と疑問になったんです。でも、1巻を読んだら、おもしろいですね。ちょうどいい具合に「忘れる」部分が出てくるから。3巻は物忘れがエスカレートしているんですね。ただ1巻でも、お話の中の世界の整合性にこだわると、疑問な点が出てきます。フルフルの誕生日にはみんなが集まったけれど何のために集まったか忘れているのに、サクランボつみ大会は、最初から集まらない、というのはどうして? 大人は気にならなくても、気になる子もいるのではないかしら?

(「子どもの本で言いたい放題」2006年4月の記録)


ウイリアムのこねこ

マージョリー・フラック『ウイリアムのこねこ』
『ウイリアムのこねこ』
原題:WILLIAM AND HIS KITTEN by Marjorie Flack(アメリカ)
マージョリー・フラック/文・絵 まさきるりこ/訳
新風舎
2004

版元語録:ウイリアムは、迷子のこねこに出会いました。そこで警察署へ届け出ますが、飼い主という人が3人も!一体、誰のねこになるのでしょう。ウイリアムが小さいなりにこねこに愛情をそそぐ様や、小さいからこそ、一生懸命になる姿が言葉や絵で丁寧に表されており、子どもたちはウイリアムになりきって、こねこの行く末を考えるでしょう。

アサギ:ずいぶんクラシックな雰囲気ね。でもお話自体はとってもよくできていると思いました。3匹の迷いネコは、けっきょく同じネコだったのね。1年たって、ピーターが成長していくさまの絵もいいし、ユーモアもある。そしてお話にきちんと起承転結がある。強烈なインパクトはないけど、心あたたまる、読後感のいい本でした。

アカシア:お話も訳もとてもいいけど、日本でずっと出なかったのは、絵本にしては文章が長すぎるからでしょうね。文章だけがフラックだったら、絵は別の日本人にたのんで幼年童話にするという手があるでしょうけど、文も絵もフラックなので別の形では出せないものね。読み聞かせにはいいでしょうけど、子どもが自分で読むには、この形態はどうなんでしょう?

ハマグリ:同じ作者の『おかあさんだいすき』(光吉夏弥訳・編 岩波書店)は1950年代に翻訳されているけど、これは絵本にしては文章が長いから今まで出なかったのかしら。カラーのページと白黒が交互に出てくるのは、印刷コストを下げるためにやっていることですよね。お話は、単純でわかりやすいけれど、どの年齢の子にすすめたらいいか、迷ってしまう。小さい子に読んであげるには長すぎて飽きてしまいそうだし、大きい子には、赤ちゃんぽいウィリアムがもの足りないのでは?

カーコ:お話はおもしろかったです。本好きのお母さんが自分の子に読んでやる本という感じがしました。

げた:集団読み聞かせにはむずかしいんですけど、お母さんと二人で一緒に読むのなら、いいお話かな。個人的には好きですけど、手にとられにくいかな?

たんぽぽ:子どもはこのお話がすごい好きで、1,2年生に読み聞かせをしてよく聞いてくれたんですけど、そのあと自分では借りないんですね。『赤い鳥の国へ』のような本の形なら借りていくと思うんですけど。

トチ:お芝居でウエルメイドという言葉をよく使うけど、この絵本もそういう感じがしました。いろいろなピースが最後にぴたりとはまって、本を読みはじめた子どもたちが「お話っておもしろいな」と思う要素がたくさんある。繰り返しも「ああ、こうやって書くんだな」というお手本みたいだし。たしかに、絵本でなく絵物語にしたほうがいいとも思いましたが……。ただ、見返しの部分が英語のままになっているけれど、本文とおなじように訳したほうがよかった。絵本って、表紙から、見返しから、背表紙から、小口まで、すべてがごちそうですものね。

ハマグリ:絵のバックが黄色というのはユニークよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年4月の記録)


炎の謎

ヘニング・マンケル『炎の謎』
『炎の謎』
原題:ELDENS GATA by Henning Mankell, 2000
ヘニング・マンケル/著 オスターグレン晴子/訳
講談社
2005.02

オビ語録:地雷で両足と家族を奪われたモザンビークの少女ソフィア。思春期をむかえた彼女は、愛と性、そしてエイズの恐ろしさを知る/過酷な運命に屈しない魂の物語/『炎の秘密』の続編

:これは事実に基づいた物語なんですよね。

アカシア:カバーの袖に「ノンフィクション」って書いてあるけと、いいのかしら? 事実に基づいてはいても、これはノンフィクションじゃなくて創作でしょ。紛らわしいな。

ハマグリ:前にこの会で『炎の謎』(ヘニング・マンケル/著 オスターグレン晴子/訳 講談社)と『家なき鳥』(グローリア・ウィーラン/著 代田亜香子/訳 白水社)を取り上げましたね。どちらも、こんなにつらいことがあるだろうかという内容なのに、主人公の女の子が自分をしっかり持って、前を向いて歩き出すという物語だったので、多くの人に読んでもらいたいと思い、あの後、よく紹介しました。『炎の謎』は、主人公が『炎の秘密』より大人になっているので、抱える問題も複雑になっていますね。パキスタンのチョリスターン砂漠で生きる女の子を主人公にした『シャバヌ』(スザンネ・ステープルズ/著 金原瑞人、築地誠子/訳 ポプラ社)も、日本の読者には想像もつかないような異文化の境遇の中で自分を見失わずに生きる女の子の物語という点では似ていて、これも成長してからの続編と2部作になっています。『炎の謎』は3冊目も予定されているようですね。知らない国の文化や風習には興味が尽きないし、主人公の身に起こるあまりにも劇的な運命に、一気に読んでしまう。

ポロン:前作は、読んだのに細部を忘れていたのですが、それでもすーっと読めました。こういう状況があるというのが、実感としてよく伝わってきました。こまかいことですが、気になったことがひとつあって、それは「おなかが冷たくなる」という表現。「背筋が凍る」という意味なのかと思ったら、本当に冷たくなったというふうに書かれているところもあって不思議に思いました。本当に冷たくなるってこと、あるのかな。それとも、これはアフリカならではの表現?

アカシア:アフリカならではということはないでしょう。あるとしたら、原著が書かれたスウェーデン語の特殊表現でしょうね。物語全体が夢みたいで不思議な雰囲気を持っているし、前作でいろいろな困難を抱えてしまった女の子が、元気に生きているということがわかって、よかったですね。ただ、おそらく文学的な作品だからなんでしょうけど、一人称と三人称が混ざって出てくるのでちょっと読みにくかったですね。私がいちばん気になったのは、繕いをたのまれたお客さんの青いシャツを切っちゃうところ。繕い物を受け取ったおじさんは、気づかなかったんでしょうかね? それに、P117に、この女の子自身(お姉さんとの共有かもしれないけど)も青いブラウスを持っていることが書かれているんですね。ここで、読者の私は一気に興ざめしてしまいました。だって、ここまでは大事なお客さんのシャツの布を切ってまで少年に会いたいのだと思っていたのに、自分も青い服を持っているんなら単なる身勝手としか思えないじゃないですか! ここは、読者が主人公と一体化できるかどうかという点でも、大きいところですよ。原文が同じ「青」という言葉なのだったら、作者に言って変えてもらったほうがよかったですね。

紙魚:なるほど。シャツを切られちゃって気づかないのはおかしいけど、このおじさんって、なんだか味わい深く書かれているので、もしかして気づいてもあえて言わなかったのかなと読みました。

アカシア:ほかにも細かいところ、気になりました。p18に「マリアはローサの姉弟でもあった」ってありますけど、どうして弟という言葉が入っているの? あと、「バスタード」と呼ばれている人が出てきて、「名前はバスタード。ぴったりの名前だ」って書いてありますが、バスタードの意味が説明されていないので、読者には何がぴったりだかわかりませんよね。こういうところこそ注をつけてほしい。p158の「クランデイロ」に「魔術師」という注がついていますが、魔術師というと魔法を使うみたい。呪術医とか伝統医という意味でしょうか? このクランデイロのことを母親は「ノムボーラさま」と呼んでいるのですが、p193の母親の台詞は「ノムボーラのところへ行ってね」と呼び捨てになっています。それに、p160ではお姉さんがクランデイロのところに行くと決心しているのに(「母さんとローサが決心したのだから」と書かれています)、p168だと「母さんは毎日ノムボーラさまのところへ行きなさい、とうるさくいっている。姉さん自身が決心するまで、そっとしておいてあげればいいのに」と、まだ決心していないような記述になっています。もっとていねいに本造りをしてほしいなあ。それに、バスタードが畑を奪おうとしますが、どういう背景でそうなるのか説明されていないので、ご都合主義的なストーリーづくりと思われてしまいます。挿絵は、ふくらみがあって、夢のような物語とうまくマッチしていました。マチャムバはmachamba、テムバはTembaでしょうか? だとすれば、マチャンバ、テンバでいいと思いますけど。

紙魚:この本の中でいいなあと思った部分は、主人公が恋の喜びを味わうところ。エイズの本というと、異性と付き合うのはこわいことです! みたいなものがあったりしますが、この本はそういう立場には立ってなくてよかったと思いました。とはいえ、とても夢見心地に進んでいく物語なので、途中、主観で語られる詩のような部分は、ちょっと読むのがつらかったです。エイズって、いろんな問題のまさに縮図で、恋愛、性はもちろん、家族、社会、国、貧富の差、経済など、問題が渦巻いているので、それをぐるりと丸くとらえられる本というのがあるといいなあと思います。

トチ:私も袖にある「ノンフィクション」という言葉には、えっと思いました。いろいろな子どもの話を集めたんでしょうか。この本も『沈黙のはてに』も、登場人物だけではなくて、その後ろにいる大勢の子どもたちの姿が見えてきて、辛かったです。ただ、こっちの本は、作者が文学を書こうとすればするほど、詩的に描こうとすればするほど、現実感が無くなっていっているような気がしました。また、最後のところで主人公と男の子の距離が縮まっていくんだけど、こういう状況に置かれた主人公に自分の恋とエイズに対する危機感が全く無いのがふしぎでした。あと、「(主人公の)おなかが冷たくなる」という表現ですが、初めのうちは「背筋が冷たくなる」と同じようなことかなと思っていたのですが、あんまり何度も出てくるので「ひょっとして病気の兆候なのかも」と思ってしまった。

アカシア:ソフィアは、地雷で足を失っているので、血液の循環がよくないのかも。

ハマグリ:だとしたら、そのことについて、ふれてほしいわね。

トチ:スウェーデンの表現なのか、アフリカの表現なのか、それとも本当におなかが冷たいのか?

紙魚:「おなかがきゅーっとする」というのは、ありますよね。

トチ:お母さんの台詞が、ぶつぶつ切れていて、ぶっきらぼうなのが気になりました。『沈黙のはてに』のお母さんのほうは、しなやかな、体温を感じられる言葉で話している(訳している)けれど……。よく、テレビのテロップや吹き替えでも、黒人の言葉を荒っぽく、野卑な感じに訳しているのを見たり聞いたりすることがあるけれど、なんかそんな感じがして、あまり愉快ではありませんでした。

愁童:前作の『炎の秘密』もそうだったんだけど、この作品にもあまり共感出来なかった。作品の背後に作者の白欧主義的な目線を感じちゃって……。地雷もエイズも確かに過酷で深刻な生活環境だけど、そこで必死に生きている人達への目線があまり温かくない感じがする。作者が、登場人物にきちんと寄り添って書いている感じがしないんだな。それと訳文でちょっと気になったんだけど、最後のエピローグの出だしに、「屋根にあたる雨だれがポツン、ポツン、だんだんと間遠になっていったとき」ってあるんだけど、日本語として変だよ。雨だれって軒先から落ちる水滴を表現する言葉のはずだけど。

:私は、前に読んだ『炎の謎』の方が好きでした。青いシャツのことですが、おじさんは深いものの見方ができる人で、シャツのことを知っていながら気が付かないふりをしていたんじゃないかな。ソフィアも初恋をして、たぶん普通に考えれば、親密につきあっていけば怖いこともあるかもしれない。さらに病院で治療も受けられないという状況にあって、そんなに気楽にいられないのにと思ってしまうけれど、母親が「人間として、人を愛することは最高の贈り物なの」って言って、異性への愛を肯定してくれるところは良かった。

アカシア:私はこの作品にはアフリカっぽさを感じませんでした。なぜかしら?

トチ:原作者と訳者のあいだに距離があるのかもしれませんね。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年3月の記録)


沈黙のはてに

アラン・ストラットン『沈黙のはてに』さくまゆみこ訳
『沈黙のはてに』
原題:CHANDA'S SECRETS by Allan Stratton, 2004
アラン・ストラットン/著 さくまゆみこ/訳
あすなろ書房
2006.01

版元語録:誰にもうちあけることのできない少女の秘密。それは…真実は知りたくなかった。口にするのも恐ろしかった。アフリカのかたすみに生きる、ある家族のものがたり。

小麦:とにかく人物がよく書けていて、ひきこまれました。中でもマ・タファは、「いい人のような悪い人のような」というどっちつかずの造形がリアル。チャンダはマ・タファを終始「見栄っ張りのいやなおばさん」という調子で語るから、読者の私もそう思ってしまいそうなものだけど、なんでだかそうは思えない。マ・タファの、人の好さと口うるささが同居してるような「意地悪で言うんじゃないんだけど」っていう口癖も印象に残ります。一概に彼女を悪人とも善人とも言い切れない何かが文中に漂っていて、妙に気になりました。そんなだったので、ラストでマ・タファの秘密が明かされたときは、すごく腑に落ちました。マ・タファが、善人あるいは悪人のステレオタイプとして描かれていたら、エイズのお母さんを受け入れるシーンも、ありふれた予定調和の感動になってしまって、ここまで響かなかったと思います。マ・タファに限らず、登場人物すべての造形にふくらみがあってリアリティがある。著者が、それぞれの人物を一方向からではなく、多面的に愛情を持って見つめているなと感じました。ただエスターに関しては、もう少し書く余地があったのでは? 両親を失い、兄弟と暮らすために売春をし、挙げ句の果てにお客に顔を傷つけられてしまう。顔を切られるって大変なことです。しかも兄弟とも一緒に暮らせない。そんなやぶれかぶれの状態で、チャンダに今まで貯めてきたお金を貸してあげるかな?
きっと書かれてはいないけど、エスターに関しては、語られなかった物語がまだまだあるんだろうなと私は思います。ショックだったのは、エイズが科学的な治療を必要とする「病気」としてではなく、呪いや災いと同列の禍々しいものとして描かれていたこと。問題に対する無理解やいわれのない偏見が、事態を悪化させる。これってエイズに限らずなんでもそうだけど、チャンダのように、勇気をもってそれを打ち破ることが現状を変えていくと思います。そのためにも、この本は届くべきところに届いてほしい。先進国だけでなく、エイズが身近な恐怖としてすぐそばにある、アフリカやタイの読者にまで渡っていってほしいなと思いました。

紙魚:『炎の謎』は夢見心地な物語でしたが、これは、実際のアフリカをそのままトレースしているような、しっかりとした物語。さっき愁童さんが、『炎の謎』をヨーロッパ的だと言っていて、確かにそういうところがあるかもしれないと思いましたが、『沈黙のはてに』は、ちゃんとアフリカ文法で書かれているように感じられるほど、すべての部分にきちんと具体性がありました。エイズにまつわる様々な問題も、ちゃんと網羅されているのもすごいと思いました。

トチ:最初のところでいきなり、主人公が葬儀社で妹の棺を選ぶところが詳細に描かれていて、これが衝撃的でした。そのまま最後まで一気に読んでしまいました。『炎の謎』と決定的に違うのは、『炎の謎』の作者だったら、主人公が美しいコウノトリに再び出会うという詩的な場面で作品を終わらせると思うのね。でも、ストラットンさんのほうは、エピローグでチャンダとエスターのこれからの道筋を具体的に書いている。ここの部分で、アフリカの子どもたちをなんとかエイズから救いたいという作者の熱い思いを感じました。救援団体のセンターの玄関に白いシーツがかけられ、フェルトペンで寄せ書きが書いてあるというところ、胸がじーんとしました。
それから、事実を具体的にしっかり書いてあるだけでなく、文学としての力も感じました。登場人物がそれぞれくっきり書きわけられている。特に生意気ざかりの妹アイリス。こういう子って、いますよね。原文もこんなふうに格調高く、歯切れよく書かれているんでしょうか?うまいと思いました。それから、小麦さんがおっしゃったことだけど、これは絶対にアフリカ以外の人に向けて書かれているんだと思うけど……

アカシア:アフリカでは、こういう本でみんなに考えてもらうという間接的な方法よりも、とにかく性交渉には注意しろとか、コンドームを配るとか、どうしても直接的・即効的な手段が先だという状態の国が多いんじゃないかな。

小麦:私は、エイズの人が目の前にいるという状況にある人が啓蒙される本なのかと思いました。

アカシア:先進国で感染者が急増しているのって、日本だけってこと知ってました?

トチ:患者も、血液製剤の被害者は別として、隠されているというか見えてこないから、非常に危険な状態だといわれても、実感できないのでは?

愁童:今回の課題作品は非常に対照的だね。『沈黙のはてに』は、チャンダとエスターの関係や母親への気持ちがよく伝わってくる。エイズということを抜きにしても、主人公のチャンダと周囲の人達の人間関係がきちっと書き込まれていて読者の心を揺さぶってくる。特にチャンダとエスターの関係なんか、ぜひ日本の子どもたちに読ませたいですね。この作者は、アフリカの社会にどっぷり入りこんで書いているって感じ。母親の出自とそれによる、実家の人達の冷酷な扱いなんかもきちっと書いているから、それに立ち向かっていくチャンダの母親への思いや必死さが、ストレートに読者に伝わってくる。ところで、アフリカでは、「炭坑労働者」はインモラルと思われているのかしら?

アカシア:南アフリカでは、アパルトヘイトの時期に、炭坑へ単身の男性が出稼ぎに出て、不特定多数の女性と性交渉を持ってエイズが広まったという話もありますね。

愁童:今回の課題本は、両方ともあまりにも設定が似ているので、読んでいてこんがらがっちゃって、読み直したりしたんだけど、作品としての質の差は歴然。チャンダが、隣のマ・タファとけんかする場面なんか、あの子の必死さがすごく伝わってくる。こういう部分は、同じ年代の日本の子どもたちでも、すごく共感するだろうね。『炎の謎』の方は、けんかしても姉のローサとの姉妹ケンカの範囲でしかないけど。それと、『沈黙のはてに』は、後半で近所の子どもが穴に落っこちたけど助かるという挿話が、うまいなと思った。自分の子どもの責任になっちゃうところを、こんな父親でも役にたったという設定にしているところなど、この作者の、自分が創り出した作中人物に寄せる温かさみたいなものを感じて好感を持った。とことんダメな父親として切り捨てないで、ややブラック・ユーモア的な設定かもしれないけど、それなりに子どもを愛してたんだという作者のメッセージが何となく伝わってきてほっとさせられる。

トチ:私もここのところは感動しました。生きているときは本当にどうしようもない人間で、このうえもなく惨めな死に方をしたのに、自らの死体で、幼い子や、自分の娘を救うことになったなんて! 非常に奥深いものを感じました。

:読み始めたときから、チャンダがくっきりと存在感がありました。おせっかいな隣のおばさんマ・タファを鬱陶しく思うところや怒鳴るところなんか、16歳くらいだったら、そうだろうなって思えて気持ちよい。エスターの過酷過ぎる状況も、妹の反抗にしても、納得できます。エイズを抜きにしても、物語として読める。

愁童:こんなに過酷な状況でも、希望を失っていない。エスターを看病するところなんかも、熱いよね。

紙魚:なのに、看病するときは「手袋」をはめて、というようなところもきっちり書いているのは、すごいと思いました。

愁童:医者の免状が単なる製薬会社の営業販売会議への出席証書であることをチャンダが読み取ってしまう所なんかも面白かった。作者の目配りが、こんなところにも行き届いていて、チャンダという少女の存在感に繋げているのは見事だと思う。単なるエイズ告発キャンペーン作品と言うことよりも、主人公のチャンダを、きちんと書き込もうとする作者の姿勢に好感を持ったな。

ハマグリ:この本は、妹のお棺を選ぶという最初のシーンがとても現実感があって、最初から引き込まれました。チャンダが頭がよくて機転がきいて、自分の足を地につけている子だということが冒頭でよくわかる。うまい構成だと思います。この本のいいところは、この人はいばっているから嫌だとかではなくて、人間のいい面も悪い面もひっくるめてとらえようとしているところよね。子どもたちが置かれている深刻な状況には心が痛むし、p183のエスターのせりふ「あたしはエイズにかかるかもしれない。死ぬかもしれない。でも、それがなんなの? 今よりも悪くはならないのよ。」は、衝撃的でしたね。好きなのは、コウノトリが出てくるシーン。p229で「孤独だと、息をするのもつらくなることがある。……地面が私をぱっくりと飲みこんでくれればいいのに!」というところ、事態がどんどん悪い方へ向かっていき、主人公の気持ちが苦しくなるくらい読者に伝わる。そんなときにコウノトリが出てくるのはとても意外だったけど、1羽のコウノトリが、月の光に白いはねをかがやかせて、こっちを見ており、チャンダが思わずコウノトリに話しかける場面は、象徴的で美しく、心に残りました。コウノトリの存在は、ひとつの希望。どうしようもないほどの苦しみの中で、こんな形で希望を暗示する書き方がうまいと思ったの。『沈黙のはてに』という書名からは、暗く重い印象を受けたけど、実際はもっと希望や未来を感じる内容でした。これだけ過酷な状況でも、先生や看護師のように手をさしのべてくれる大人がいるというのもうれしい。

ポロン:この本のキーワードは、「衝撃」と「秘密」だと思いました。冒頭、16歳の少女が一人で妹の葬儀の手配をするのなんて、本当に衝撃的。そんなショッキングなできごとが、歯切れのよい文体で綴られていて、チャンダの緊迫感がびしびしと伝わってくる。それで、まず物語にぐぐっとひきつけられました。そのあとにもまだまだ衝撃! そして、秘密が! 両親がティロの村から出てきた秘密や、エスターが何をしているかとか、エイズのこと、となりのおばさんの秘密などつぎつぎ出てきて、すごーく読ませる。エイズを扱っていながらも、それだけではなくて、物語として読める稀な本。先月読んだ、松谷みよ子さんの『屋根裏部屋の秘密』(偕成社)とはちがって、エイズがでてくる本だと知らないで読んでも、ダマサレタとは思わないと思う。完成度が高い。嫌だったのは、エスターがあまりにもかわいそうなところ。ここまでひどくなくても。本当にかわいそう。

愁童:エスターの面倒を見ているという叔父叔母の家にチャンダがエスターを探しに行き、「今度来たら警察を呼ぶぞ」と言われ「呼べばいいわよ」と激しく言葉を返す場面も、頭に来たこの年頃の女の子がうまく表現されていて好きですね。

ポロン:説得力がありますよね。

アカシア:エスターの存在は、日本にいて読むとひどすぎると思うけど、こういう状況におかれている子って、私たちに見えないだけで世界にはたくさんいるんだと思うんです。だから、著者がつくっているキャラじゃなくて、リアルなキャラだと思うんです。ところで、さっきポロンさんが言った、松谷みよ子さんの本だと「だまされた」と思うのはなぜ? 正義の側から書いているから?

ポロン:うーん……。なぜでしょう? 「物語」があるかどうかのちがいかも。私が読みたいのは「物語」だから。「こういう歴史的事実があったことを教えてさしあげましょう」というふうに描かれていて、もしもそれ以上のものがほかに感じられなかったら、「私は歴史が知りたかったわけじゃなかったのに」となって、ダマサレタと思っちゃう。でも、この本の場合は「エイズのこと、教えてさしあげましょう」という姿勢ではないし、物語はエイズのことだけじゃない。人がちゃんと描かれてる。エイズの話だと知らずに手にとったとしても、楽しめると思う。今回はエイズの話って知っていたから、この2冊を同じには比べられないけど。もし予想外の話だったとしても、読み終えて満足感があれば、ダマサレタとは感じない。そこが大きなちがいだと思う。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年3月の記録)


新エイズの基礎知識

山本直樹・美智子『新エイズの基礎知識』
『新エイズの基礎知識』
山本直樹・山本美智子/著
岩波ジュニア新書
1999.08

版元語録:エイズってなに? エイズウイルス、感染しない方法、エイズの検査、検査と告知、治療法の進展、苦戦するエイズワクチン、エイズのこれから、等10章。

ポロン:私はこの本、むずかしくて読めなかった。読むというより、なんとか眺めたという感じ。だから、ひとことだけ感想を言います。「この本が、読める人はすごいなあ」

紙魚:そうなんですよね。これを子どもに読ませようとしているというのは、大人としてなんだかやるせないです。でも、この本ちゃんと重版かかっているし、こういう類のものでさえ他に類書がないので、きっと学校なんかでは参考図書としてよく使われているんだろうなと思います。これ、構成もよくないですよね。3章からはじまったほうが、まだよかったのでは?

アカシア:岩波の本は権威があると思われていて、引用されたりすることも多いと思うんですが、p151とp157は矛盾してます。p151の円グラフ(世界のエイズ患者の州別割合)では、感染者がいちばん多いのはアメリカで、全体の約半分を占めています。この同じグラフで、今回みんなで読んだ作品の舞台になっているアフリカの患者の数を見ると、70万6318人。グラフでも全体の三分の一くらい。ところが、p157の本文には「世界中のエイズ感染者のうち三分の二以上がサハラ砂漠以南に住み、その数は2100万人にのぼります」と書いてある。70万と2100万では差がありすぎます。円グラフの数字が正しいのかどうかも疑問ですが、正しいとするなら、なぜ2ケタも違うのかをきちんと説明してくれないと。政府が届けた数は意味がないと言いたいなら、実数に近いと思われるUNAIDSの推定数でつくった円グラフも載せておいてほしい。p151の円グラフは見やすいしインパクトが強いので、これを見たらエイズは主にアメリカの問題だと思ってしまう子も多いと思うんです。エイズは世界の貧困の問題とも大いに関係がありますが、この円グラフではその辺がまったく見えなくなってしまう。

ハマグリ:このようなグラフや表を載せる場合には、それをどのように読み解くかの解説も必要ですよね。

トチ:教室でエイズの勉強をするときなど、おそらく岩波で出したこの2冊を副読本のように使うんでしょうね。それだったら、もっと正確な、分かりやすい本にしてほしい。新聞記事は、いちばん読んでほしい重要なことから逆ピラミッド型に書いていくけれど、こういった本も作者が読者にいちばん伝えたいことをトップに持ってきて、最初の1、2章で飽きてしまった読者も、いちばん大切なことは知ることができたというような構成にすべきじゃないかしら。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年3月の記録)


最後のシュート

ダーシー・フレイ『最後のシュート』
『最後のシュート』
原題:THE LAST SHOT by Darcy Frey 1994
ダーシー・フレイ/著 井上一馬/訳
福音館書店
2004.06

オビ語録:1991年ニューヨーク、コニー・アイランド。バスケットボールに賭けた四人の若者の暑い夏。……その後、四人の運命は大きくわかれた。ある者は栄光の舞台へ、ある者は悲劇的な結末へ。感動のノンフィクション。

アカシア:語り手の「私」は、p26に「私は、チームに密着する地元の記者として」と出てはくるんですが、どういう立場でどうかかわろうとしているのか、後の方になるまでうまくつかめなくて、読んでいてとまどいました。それにノンフィクションなのかフィクションなのかもわからない(帯にはノンフィクションとありますが、図書館で借りたので)。雑誌に連載されていたせいか、コーチのこと、プレーヤーの争奪戦、親の期待、本人の焦り等々、流れが整理されていなくて、同じ問題が繰り返し出てくる。それに、それぞれのキャラの違いがそうそうくっきりしていなくて、イメージしにくかったですね。単行本にするときには、章ごとに一人一人とりあげるなどしたら、もっとわかりやすかったのでは? 読んで得したな、と思ったのは、コニーアイランドが遊園地だけじゃないこととか、NBAビジネスの内幕とかがわかったこと。
翻訳については、原文の文体はわからないけれども、下町の10代の少年たちの会話を、ずいぶん古典的に訳しているなあ、と思いました。たとえば6ページの just do it を「不言実行」と訳したり、ナイキのコマーシャルの口調「若者よ、一生懸命働き、一生懸命練習して、ご褒美にナイキの靴を買おう」も古典的。ひっかかったところもいくつかありました。たとえばp150に「俺は我慢して奴らの望むところへパスを出してやるのに、頭で受けやがるんだ。あいつら塊だよ、パンの塊だ」ってありますけど、パンの塊なんて日本語の会話で聞いたことないから、えっ?って思った。p151の「ずっとこれだよな?」も、どういうニュアンスなのか、よくつかめない。p268には「印象をよくするためにちょっとめかし込んで行ったほうがいいと思ってるんだ」と言ったあと「たぶんスニーカーがいだろうな」とあるんですけど、「めかし込む」と「スニーカー」が普通はつながらないから、ここも、えっ?と思ってしまう。p343ではステッフォンが「うんにゃ」と言ってますけど、そこまでの口調と違う。それと、「彼」という人称代名詞がやたらと出てくるのも気になりました。
訳者あとがきには、「これはバスケットボールについての本であると同時に、アメリカン・ドリームについての本でもある」とありますけど、本文p348には「奨学金の獲得を目指す一連の過程は、〜アメリカン・ドリームの黒人版ではなく、その残酷なパロディになってしまっている」とあって、もう少しこの2つの言い方の間の隙間を埋めておかないと読者に対して不親切です。この著者の言いたいことは、最後の最後の方に出てきて、それはおもしろいし、その後の主人公たちの生き方と照らし合わせてみるとなおさらおもしろいのですが、そこまでたどり着くのが一苦労。NBAで活躍しているステッフォン・マーベリーを知っている人なら、その周囲のことがよくわかるから、どんどん読めるでしょうが、中高生一般にお薦めできるような本だとは思いませんでした。

むう:訳については、アカシアさんのおっしゃるとおりだと思います。わたしも、あれ?と思う箇所がけっこうありました。読んでみて、これは子どもの本ではなく、大人向けのノンフィクションだと思ったし、そもそも井上さんがボブ・グリーンの訳をしているというのが頭にあったので、最初からノンフィクションのつもりで読んでいました。子どもの本という枠をはずして読んだので、さまざまなことを時系列で並べていくなかで、アメリカの社会のある一面が浮かび上がってくるのがとても、おもしろかったです。ある登場人物に沿って読み進んでいく物語というよりは、さまざまな事実を積み重ねていって全体像をあぶり出すタイプの本だと思いました。プロバスケットボールの選手を青田刈りする人々が殺到する有望高校生を集めたナイキ主催の全国大会が、黒人ばかりの選手を白人のコーチや監督が品定めして、あたかも牛の品評会のようだという形容があったりするのも、きついけれど、なるほどと思いました。ローマの拳闘士にも通じるようなプロスポーツの見せ物としての性格や、そこにしか活路を見いださざるをえず、その夢にすら手が届かずに終わってしまう貧困層の子どもたちといったアメリカの実情がかいま見えて、その意味でとてもおもしろかった。ただ、子どもを描いた本と子どもに向けた本は違っていて、これは子供に向けた本ではないように思った。訳文からも、それを感じました。どうしてこの本が福音館から出ているの?という感じですね。向こうでは子ども向けに出ているんでしょうか。

:大人の本、子どもの本という区分けにかかわらず、この作品は名作とは言いがたいですね。アメリカなら、このような本は掃いて捨てるほどあるんです。ナラティブの失敗でしょうか。作者が何を目的として書いているのか、意図がわからない。伝記ならば、このような設定で書くには無理がある。青春物語だとするなら、ひとりひとりの登場人物にリアリティが感じられない。おそらく、語り手の視点の問題でしょう。社会的な問題意識を描くなら、もっと主張やメッセージを明確にすべきですね。「私」の位置の不確かさが問題です。語り手になったり、登場人物になったり、255ページあたりでは解説者になっている。一貫性がないんですね。

ポロン:私は、すっごくおもしろく読みました。オドロキに満ちた物語! 3つの大きなオドロキがありました。1つめは、知らなかったスゴイ世界を知ったオドロキ。いやはや、たいへんな世界です。そんななかで、ここまでがんばる高校生がすがすがしい。4人の子は、みんなタイプがちがうし、私はそんなにこんがらがらなかったな。それぞれの登場人物を応援したくなった。
2つめのオドロキは、この作品がノンフィクションだった、ということ。これは衝撃的でした。26ページの最後の行に、「私はチームに密着する記者として、これからその一部始終を見届けることになるのである」とあるので、てっきり地方紙の記者かなにかなんだと思ってたら、新聞社で働いてるようすとか、自分で書いた記事とかでてこないし、ヘンだなーと思いながら読んでいたんです。学校にも自由に出入りしてるみたいだし、みんなの家のことも知ってるし……。「私」は、どこへでも行けて、自分がその場にいなかったときのこともわかっちゃう「神の目をもつナレーター」で、こういう設定って、フィクションっぽい。それで、フィクションだと思い込んでいたのに、エピローグの最後に「この作品はノンフィクションだが、ラッセル・トーマスと母親の名前は変えてある」という一文を発見して、もーびっくりしました。結局、「私」というのは、フリーライターで、1冊の本(つまりこの本)を書くという契約をした。このリンカーン高校バスケ部について書くための専属ライターだったということでよいのかしら。
3つめのオドロキは、この本が図書館のスポーツの分類の中のバスケットのコーナーにあったこと。こういう本を好きな人も、このコーナーにあるとは思ってないかも。と思う反面、バスケの練習法がのってる本を見たくてきた、普段ぜんぜん本を読まないような子が偶然手にとって、「いいじゃん、この本」っていうような出会いが生まれたりするのもよいなあと思いました。この本、別の図書館では、YAのコーナーにあったのですが……。
あと、文章についてなんですが、全体に一文が長くて、ときどきわかりづらかった。たとえば23ページ「リンカーン高校のチームの選手名簿は……」というところなど、まちがってはいない、正しい、正しいんだけど、入り組んだ文章で、すっと読めなかった。それから日本語では、この単語はちょっと……と思ったところがいくつかありました。たとえば、14ページの1行目、ステッフォンの髪型について「はやりのレザーカット」と出てきますが、次の行では「小さなつるつるの頭」とのことなので、たぶんスキンヘッドなんだと思うのです。だから「かみそりを使った髪型」ということだと推測するのですが、日本語で「レザーカット」といったら、別のもの。ちょっと前にカリスマ美容師という人たちが得意としていたような、長さのある髪にシャギーをいれたようなものを指しますよね。ほかにも、14ページ4行目の「キャンディ・バー」は、日本語ではたぶん「チョコレート・バー」。26ページ9行目や31ページ4行目に出てくる「ハイトップ・デザインのスポーツシューズ」は「ハイカット」のことかなと思いました。

すあま:私が借りた図書館でも、バスケットボールの分類の棚にありました。最初フィクションだと思っていたので、「私」がだれなのかが、わからなかった。装丁の感じは早川書房の本のようですね。大人で、ある程度読みなれた人じゃないとこの本は難しいと思う。作者の興味は、バスケットではなく、バスケット界の影の部分にあるわけだから、『スラムダンク』を好きな子がこれを読むとは思えない。

ケロ:全体を通して、突き放したような覚めた感じを、おもしろいな、と思って読みました。バスケットボールの専門用語や、アメリカの黒人の多く住む地区独特の空気など、わからないところを飛ばし読みしましたが。ただ、他の方も言っているように、最後の一文を読んで、初めてノンフィクションだということが分かりました。このような本の場合、ノンフィクションだということを、きちんと最初に言ってくれないといけないのでは?と思いました。これは、編集という視点での事なのかもしれませんが。それとともに、ちょっと章立てがよくわからなかったです。プロローグ、夏、一流大学による選抜、エピローグなんですけど、なんでここなのかな?という感じ。内容については、山場がなく、それぞれの学生のことが、流れでとらえられない。訳については、ボブ・グリーンの訳者だし、以前に読んだ物にもあったアメリカンコラムニストの匂いがあり、同じ世界だな、と思って読んだので、あまり違和感はありませんでした。

ハマグリ:折りを見て少しずつ読もうとしたら、前に読んだところが頭に入ってなくて、また最初から読むということを繰り返しました。わかりづらいところが多いですね。やはり、「私」が一体だれなのか、なかなかわからなかった。本分の終わりに「この作品はノンフィクションだが、ラッセル・トーマスと母親の名前は変えてある。」と書いてあるけど、これを前に持ってきたほうが、最初からはっきりノンフィクションとわかって読めてよかったのに。長年バスケットをやっている息子(20代)に読ませたら、ぱっと読んで、おもしろいと言ってました。バスケをやっている人なら、練習風景にしても、試合の詳細についても、もっと想像力が働いて、楽しめるのではないでしょうか? NBAの試合をよく見ていれば、選手の生い立ちや裏話にも関心があるので、この本はそのあたりの本当のことが書かれているということで、興味深く読めるのだと思います。バスケをやっている子ならだれでも読んでいるのはコミックの『スラムダンク』。あのときのあのセリフ、あの試合のあのシュート、というのが共通の話題になっています。本でも、そういう存在になれるものが出ればいいのに、この本はYAじゃないと読めないですよね。それから、エピローグで後日談があって、謝辞があり、訳者あとがきで後日談の後日談があるのは、ちょっとしつこい感じがした。エピローグだけで終わったほうが余韻があってよかったのではないかと思います。

カーコ:実はこの本は書評で見て、バスケットをしている息子が昨年高校に受かったときプレゼントしたのですが、読んだ形跡がありません。今回自分で読んで、バスケットやNBAがいくら好きでも、本を読みなれていない中学生には難しそうだ、と思いました。その理由の一つは、固有名詞やアメリカの生活を知らないとわからない言葉が非常に多いこと。もう一つは、この4人の高校生の描き方。彼らの内面をえぐりだすというよりも、外から見て書いている感じ。試合のシーンなども、この子たちに感情移入して読めませんでした。『スラムダンク』を読んでいる子を、それと一味違ったおもしろさでひきつけるところまで行かないのでは? みなさんの指摘している訳文の文体は、私はわざとこういうふうに訳したのか、と思いました。

げた:図書館員としては、福音館書店の本であれば、いい本だろう、と思ってしまうんですよ。あとがきには、古典とあるし。読んでみて、みなさんと同じような感想を持ちました。バスケットボールの本というよりも、ニューヨークの公営住宅街に住む子どもたちが、どうやってはいあがっていくかという社会派の本なのかと。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年2月の記録)


青春のオフサイド

ロバート・ウェストール『青春のオフサイド』
『青春のオフサイド』
原題:FALLING INTO GLORY by Robert Westall 1993
ロバート・ウェストール/著 小野寺健/訳
徳間書店
2005.08

オビ語録:知らぬまにぼくたちは〈入ってはいけない場所〉に足を踏み入れていた…/巨匠ウェストールが描く、輝きと深い闇が交錯する十七歳の忘れがたい日々

アカシア:「エマ・ハリスをはじめて見たとき、ぼくは十歳だった。/戦争中だった」っていう書き出しがうまいですね。それに、ほかの2冊に比べて、この本は人間がちゃんと描けている。p44に「自分自身でさえ怖くなるようなさまざまな迷いを抱えたこの醜い野郎」と主人公の少年が自分のイメージを語るところがありますが、この年齢の男の子の心のあり方がよく出ています。主人公のロバート・アトキンソンとと先生のエマ・ハリスだけでなく、脇役のウィリアム・ウィルソン、ジョン・ボウズ、それにかわいそうなジョイス・アダムソンなどの描き方もうまい。こんな子いるだろうな、というリアリティがあります。文学を書きなれているウェストールのうまさなんでしょうね。スポーツ(ラグビー)を描いている部分も、先生やコーチを出し抜いて秩序をひっかきまわしてやろうという作戦があって、おもしろく読めます。訳でひっかかったのは一箇所だけで、p171の「仲間なんていうと、銀行強盗みたいだね」というところ。あとは、うまい。最近子どもの本で人間をちゃんと描き出しているものが少ないので、そういう意味でも、今日読んだ3冊の中ではこれがいちばんお薦めですね。

むう:とにかく、おもしろかったです。人間もよく描けているし、情景もすばらしい。主人公と先生とがローマン・ウォールに行くときのあたりの風景なんかも目に浮かぶようで、いいなあと思いました。思春期の男の子の、力が有り余っていたり、性のことをもてあましたりといったことがきちんと描けていて圧倒的。まわりの女性もちゃんと描けてはいるけれど、ちょっと男にとって都合のいい女性ばかりという気がしなくもなかった。でもそれは、おそらく主人公の目から見ているからなんでしょうね。ロアルド・ダールもそうだけれど、イギリスには男の子をきちんと書ける男の作家がいますね。とにかく、力のある作家だなあと思いました。

すあま:ウェストールの作品でこの本の前に読んだのが『禁じられた約束』(野沢香織訳 徳間書店)だったので、2冊が同じような印象で、私の頭の中ではセットになっています。大人になりかけ、でもやっぱり17歳、というところがちゃんと書いてありますね。最後は主人公が脅迫されていて、どう決着がつくのかと思っていましたが、納得のいく終わり方でした。読み手の年代によって、主人公の気持ちに添って読む人と、先生の気持ちに添って読む人がいるのではないでしょうか。

ポロン:おもしろくて好きです。青春の甘酸っぱいところと痛快なところが両方入っています。ラグビーにおけるがんばり方もイイ。ジョン・ボウズがとても好きで応援してました。エマが、最後は仕事に一生を捧げました、というのは、男性の願望なんでしょうか?

アカシア:そこは、男性の願望というより、エマが教師だったという部分が大きいと思ったけどな。

ケロ:のめりこんで、泣いて読みました。(「えー、泣いたのー」という声あり)。はい、だあーっと滝のように涙が出ました。何に泣いたのかというと、この切ない恋愛にですよ。こんな風な恋愛を描いて、子ども向け(ま、YAですが)というのは、日本ではないな、と思いました。主人公よりも、先生に感情移入してしまいました。自分の年のせいかな。ジョイスがかわいそうな子っていう意見があったけれど、私はそうは思いませんでした。むしろ、勝者ですよね。主人公に出会って、最初はろくに自分を表現できなかった子が、だんだん自分を確立し、輝いていく様子がえがかれていて。こういうところも、ジョイスときちんと対比されて描かれていて、すごいな、と思いました。

ハマグリ:私は先生の立場で読むというよりは、この主人公の気持ちになって読みました。最初の描き方が、とても読者をひきつける。デブ、デブと言われている子が、いじめた子をのしてしまい、体が大きいことを逆に武器にして、ラグビーで開花していく。頭がいいということにも気付いていく。この子の側から、最後まで読めました。一番好きだった場面は図書館にローマン・ウォールのことを調べにいくところ。司書が執務室にしまいこんでいる本を読ませてもらうくだり。「そこでコリンウッド・ブルースを開けたぼくは、ラグビーをはじめたときとおなじく、一気に栄光の世界へ突入したのだった。まるで、それまで知らなかった自分の家を見つけたような、それがもう何年も待ってくれていたような気持ちがした」(p27)。人類の偉大な財産に触れた喜びが伝わってきました。書き方も文学的で、「だがテニソン・テラスはちょうど未婚の叔母のように、自分の生活を固く守っていた。」(p89)というように、比喩を用いた修飾節が多く、言葉を尽くして書き込んでいます。女性では、エマよりもむしろ、ジョイスの書き方がうまいと思いました。ジョイスとつきあいながら、主人公がエマと天秤にかけて考えていくところがうまく書けています。ただ、この時代のイギリスという背景を味わえるかどうか。今の高校生が読んだとき、『ジェーン・エア』のロチェスターと『嵐が丘』のヒースクリフが引き合いに出されたり、シェイクスピアの『テンペスト』の脇役の名前が出てきてもわからないんじゃないかしら? 日本の読者にとっては限界があるのが残念です。

カーコ:私も『禁じられた約束』に続けて、印象をダブらせながら読みました。感心したのは、思春期の男の子の描き方。感情の機微や友達とのかけひきなど、このリアリティは男性作家にしか出せないのでは? また、読み終えたあとに、一人一人の人物がどういう人だったかくっきりと思い浮かべられます。これは人物がとてもよく書けているからでしょう。しかも、「子どもに書く」という姿勢が貫かれていて、どの人物に対しても目線があたたかい。日本でもこういう世界が書ける男性作家が出てくるといいですね。

げた:私も『禁じられた約束』と併せて読んでみました。。共感というよりは、気恥ずかしいような気持ちを持ちながら読んでいきました。主人公が優秀な子で、うらやましいな、というところも。ラグビーのラフプレーで、バッジをとられるのだけれど、文章の中ではラフプレーだということが読めなかった。原題は Falling into Glory ですが、日本語の書名とはかなり違いますよね?

アカシア:思春期ってつらいことがたくさんある時期だと思うんです。でもその中に、栄光の瞬間があるんですよ。さっきハマグリさんが挙げてくれたところにも『栄光の世界へ突入した」という表現がありましたけど、エマとの関係の中にも栄光があるんじゃないでしょうか?

げた:仮題のときは『栄光への堕落』となっていたのに、出版時には『青春のオフサイド』としたんですよね?

ポロン:オフサイドって、フライングみたいな意味ですか? ちょっと早かった。一瞬早く前に出てしまったということ?

アカシア:書名のオフサイドはいいと思ったんですけど、「青春の」は古くさいし、ダサい。私が中高生だったら「青春のナンタラ」という本なんて読みたくはないですね。おじさんやおばさんが懐古的に読む本かと思ってしまう。中高生に手に取ってほしい本なので、それが残念。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年2月の記録)


走れ、セナ!

香坂直『走れ、セナ!』
『走れ、セナ!』
香坂直/著
講談社
2012-08

版元語録:秋の陸上競技会の100メートル走でリベンジを誓う小学5年生の女の子セナ。だけど2学期早々,陸上部が突然解散することに…。

アカシア:さらっと読めたんだけど、登場人物が全部ステレオタイプなので、がっかりしました。紋切り型の表現が多すぎます。お母さんの秘密というのが、秘密でもなんでもないし。新人賞入賞というけれど、どうなんでしょう? ハードカバーで出して、読者を獲得できるんでしょうか?

むう:すいません。他の2冊がそれなりにインパクトが強いというか、ぐっとこっちに来るものを持っていたので、今となってはこの本についての印象がほとんどどこかに飛んでしまって、ぜんぜんおぼえていません。

すあま:あまり期待せずに読んだんですけど、逆に読後の印象はよかったです。前回の講談社の新人賞佳作は『佐藤さん』だったので、佳作の人も良い書き手に育つ可能性があるように思います。今の子どもの感じを出そうとするあまり会話の部分で失敗する人が多い中で、これは違和感なく読めました。あまり本を読みなれてない子が読むのにいいと思います。

ポロン:おきゃんな文体に、最初はちょっとな、と思ったけれど、読み始めたらそんなに嫌じゃなかった。今時っぽい感じだし、みんなの意見を聞きたいと思いました。だけど、今の子って小学生からスパイクはいてるのかしら? 私の時代はスパイクは中学からだったんだけど……。スパイクをはいたら、タイムも1秒くらいはかるくあがっちゃうので、スパイクをはいてる子とはいてない子が、同じ競技会で走るというのは、ちょっと無理があると思いました。

アカシア:今の小学生に詳しい方が、「これは小学生とは思えない」という感想をおっしゃっていましたよ。

ポロン:走るところが、いまいちカッコよくなかったのが残念。速い人が走ると、それはそれはカッコよく、美しいものなので、もう少しそれが感じられたらよかった。あと、気になったのは「走りが」という言葉。テレビなどで「いい走りを見せてくれました」というような使い方を耳にすることはあるけれど、「走りがすき」といった言い方は、ふつうあんまりしないのでは?

ケロ:以前数学と文学は相性がいいという話が出たことがありましたけど、スポーツと文学の相性がいい本ですよね。良い意味で、単純にジーンと感動できる部分がある、というか。「セナ」という題名から、読むまでは陸上の話とは思いませんでした。また、お母さんがアイルトン・セナが好きと言ってるわりには、レースの事とか、あまり出て来ないですよね。これも、ちょっと残念。もう少し枝葉を広げられる様な気がするのですが。「走れ、セナ!」というタイトルとこの絵は、手に取りたくなるけど。

ハマグリ:見た感じがまずおもしろそうだし、日本の作品で、5年生を主人公にしたものは少ないから、その点がまずうれしい。最近の日本の児童文学は、もっと主人公の年齢が高く、ひねこびたところがあったり、人間との関わりが変にクールだったりするものが多いけど、この本の主人公は、わりと素直で単純で、5年生の子どもらしいところに好感がもてます。確かに登場人物がステレオタイプではあるけれど、ところどころ、今の子どもが共感できるところがありますよ。字面も文章の量も読みやすく、とにかくさらさらっと1冊読み通せる本だと思う。そういう本って貴重なのではないでしょうか。チビデブコンビは、ありがちな設定だけど、それぞれに俳句が上手だったり、数字を記憶する才能があったりしておもしろいので、もう少し書き込めばもっと良くなっただろうに。惜しい。

げた:紋切り型は紋切り型なんですけど、この読者対象で、前向きな作品は少ないので、図書館でも子どもに薦めたいと数をそろえました。

アカシア:だけど、紋切り型の本で人間について知るのは難しいんですよね。もうちょっと深みがあるとよかったんだけどな。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年2月の記録)


真夜中の飛行

リタ・マーフィー『真夜中の飛行』
『真夜中の飛行』
原題:NIGHT FLYING by Rita Murphy 2000
リタ・マーフィー/著 三辺律子/訳
小峰書店
2004.08

版元語録:ジョージアの家系は女性のみ、飛ぶことができる。女性だけが3代にわたって5人で住んでいる古い屋敷はたくさんのつまらない決まり事だらけで、それに反発を示すジョージア。初めて独りで空を飛ぶことになった日、ある事実が明かされ……。

トチ:イギリスの本屋の店員にすすめられて原書で読んだので、邦訳のほうはじっくり読んでいないんですが……。今回のテーマは「秘密」ということですが、この本の場合「空を飛ぶ」ということが秘密なんでしょうか? それとも、主人公が伯母だと思っていた人が実は母親だったという秘密?

ケロ:この本の直接のテーマは、「秘密」ではなく、むしろ「成長」なんですよね。でも、「飛ぶ」にしても「母親」にしても、「秘密」として一つのキーワードになっているかな、と思ったのです。

トチ:原書も邦訳本も装丁が美しいし、本文もきれいに書けているし、主人公の一族の財産がトイレのちっちゃな金具で築かれたものなんてところもユーモアがあっておもしろい。でも好ましいけれど物足りない作品という感じがしました。単独飛行が大人になる儀式というのも、目新しい感じはしないし……それから22ページ「叔母」は「伯母」の誤植ですね。

むう:どうも、私はこういうタイプの本は苦手かもしれない。女の人たちがそれぞれにすてきに生きている、空を飛ぶ、といった設定はきれいだなあと思ったけれど、それだけでした。さらさらと読んで、はいおしまいという感じ。

ポロン:この本は、飛ぶところが気持ちよくて好きだったんですが、伯母さんが出てきたときにハハンときて関係がわかってしまい、ありがちな設定という印象でした。あと、このおばあさんはなぜ威張っているのかがわからなかった。男子禁制なんていって威張っているうちに、一家が滅亡してしまっていいのでしょうか。理由を書いてほしかった。

ケロ:今回みんなで読む本を選ぶ係を担当して、テーマとしての「秘密」という言葉が先に立ってしまったために、素直に読むことが出来なくなる部分があったのではと、選本の難しさを痛感しました。内容についてですが、私は、おもしろくすっと読めました。血のつながりからの束縛や、「飛べる」能力と折り合いがつけられなかったことなどが、自分のルーツがわかることによって、疑問がとけ、生き方に前向きになっていく。この「血のつながり」の象徴として「飛べる」ということを持ってきたところがうまいし、設定としてすんなり入り込めました。飛んでいるときの描写がとてもきれいで、とくに171ページの雁を下に見ながらいっしょに飛ぶところは、絵的にも素敵だし、高いところを飛んでいる雁を下に見ることで、その上の空の広大さを感じることができるのでスゴイと思いました。

げた:新刊のときに読んだのですが、なんとなく物足りない感じがして、うちの図書館にも2冊しか入れませんでした。飛ぶということの美しさ、すがすがしさを読めばよかったのかと思います。もともとの飛ぶ動機付けがあいまいなような気がして、さっと入ってこなかった。伝統といっても、300年も400年もあるわけではない。『魔女の血をひく娘』(セリア・リーズ/著 亀井よし子/訳 理論社)に比べれば、歴史も浅い。

たんぽぽ:私は眠れないときに、空を飛んでいるところが出てくると眠れるんです。飛んでいる情景はとてもきれい。今の若い人たちにおばあさんに縛られるという気持ちがわかるのかなと思いました。

アカシア:イメージとしては心地よい作品でした。ただ、お話のリアリティを考えると、ほころびがいくつもあると思います。登場人物にしても、作者が性格などを説明してしまって、その人の言動で読者がわかってくるというふうにはなっていない。メイブのいきさつなども、作者がただ説明してしまっている。そのせいで、深みがなくなっているのが残念です。「深いスリット」のある服を着ているという描写がありますが、飛ぶときには足も動かすってことなんでしょうか? どんなふうに飛ぶのかという描写があれば、もっとよかったのにな、と思います。48ページに「鉛中毒にならない鉛筆」とありますが、鉛筆なめても鉛中毒にならないですよね。

しらす:まず表紙がきれいでかわいいと思いました。若い10代の女の子が好きそうな内容で、ぱっと見がいい。主人公のジョージアがカルメンに会って怒りで飛ぶ描写がありますが、10代の頃の憤りの躍動感がありました。矛盾点はけっこう気になりました。女性だけの家族なのに、どうやって家系を維持していくのかというのが最大の疑問。魔女っぽいのだけど、ほうきがないので、飛ぶイメージがうかびませんでした。最後の落ち着き方もわからなかった。176ページあたりで、「私は母親のタイプじゃないから」というのも納得しづらい。

ハマグリ:「飛ぶ」ということは魅力的なのに、これを読んでもあまり飛んでいる感じがしませんでした。『シルバーウィングーー銀翼のコウモリ』(ケネス ・オッペル /著 嶋田水子/訳 小学館)を読んだときは、コウモリなのに、自分も飛んでいるような感覚になれたんですけど。だから、飛ぶことにどれほど重要な意味があるのか、伝わってこないんですね。読みながら、もどかしい気持ちが残りました。いろいろな女性が出てきますが、ひとりひとりが描きわけられていないので、絵になって見えてこない。訳は、「〜だけれど、〜」というのを多用している。見開きの中に3、4回も出てくると、気になります。109ページ「白髪まじりのの」は誤植ですね。

チョイ:おもしろくなる種があちこちに散らばってるのに、ほったらかされてる感じがあって、編集者としては、ここをこうしたら、ああしたらと、つい言いたくなるような作品でした。「心を引き裂かれるような悲しみから飛べるようになった」という冒頭の部分が私は好きで、そこが作品全体のモチーフとして生きてくれば、もっともっと深く、いい物語になったのではと思います。「悲しみ」が薄れてくると飛べなくなるとか……いろんな展開が考えられますよね。私はこの頃飛ぶ夢をみなくなったんですが、それはどうしてだろうって、つい考えたりしてました。トイレの小物の発明で暮らしてきた一族なんていう設定や、ちょっとしたディティールに作者のセンスは感じました。いずれにしても、あと何回か書き直せばいいものになりそうなのに、残念! てとこです。

うさこ:第1章の第1行目はとても大事。「ハンセン家〜かならず夜に飛ぶ」となっていて原書通りの訳なんでしょうが、例えば「ハンセン家の女たちは飛べる。どんなに天気が悪くても、飛ぶのはかならず夜」としてくれれば、物語の入り方がぜんぜん違ったものになったと思う。この訳だと、なぜ飛ぶの? その目的は? どうして夜に飛ばなきゃならないの? という問いが最初に頭にインプットされてしまい、ずっとその答えをさがすように読んでいってしまう。物語の1行目は特に大事に訳してほしいと思いました。83ページの10行目「完全無視〜」50ページ3行目「豚肉と名のつくものは〜」などわざわざそんなに暗く重く訳さなくてもいいのに、と疑問に思いました。訳者が真面目に訳されているので、もう少し物語の全体像をきちんとつかみ、原作者が何を書きたかったのかを受け止めてから訳してもらえば、物語がもっとちがうものになったのではないでしょうか。助産師とか、お産の話とか、墓石のことなど、おもしろい要素もちりばめられているのに、物語の位置づけというか、大きい流れにきちんとおさまっていない印象でした。

カーコ:飛ぶシーンや、土曜日に買い物に行ってサンドイッチを食べるシーンはおもしろかったんですが、全体としては物足りない感じがしました。儀式の日に、昼間一人で飛んでしまったことを告白するシーンがこの物語の山場だと思うのですが、あそこで爆発するにいたる主人公の心の動きが今一つわからない。そのへんがもっとていねいに書かれていたら、違っていたかなと思いました。文章でひっかかったところがいくつかあって、たとえば25ページ7行目。「うちには叔母たちもママもおばあさまもいて、常に騒がしかったけれど、そんなうるさいなかで……」は、この家自体うるさい感じがしないので違和感がありました。107ページ「火のないところに煙をたてるんじゃない」は、いいのかしら。147ページの最後「ドリームキャッチャー」は、どういうものかイメージできませんでした。

紙魚:私は、最初の数行を読んだ段階で、この物語全体が何かのメタファーになっているように感じたので、皆さんがおっしゃるほどには、細部に気をとめず読んでしまいました。「ひとりで飛ぶ」にいたる過程と、この年頃の女の子の成長って、そのままシンクロするように思えたんです。だから、実際の生身の女の子の成長そのままは描かれてはいないけれど、感覚的なところはうまく表現されていると思いました。そうやって読んでいくと、あの堅物のおばあさんは、女の子だからこそ経験する拘束力(たとえば、門限とか)の象徴かな、なんて。それから、動機づけがないというのも、女の子ならではの、非論理的な気ままさかな、なんて、いろいろ勝手に考えながら読みました。

愁童:あまりおもしろくは読めなかった。児童文学というジャンルが、やせてきているのは日本だけじゃないんだ、なんて思っちゃった。なんで飛ばなくちゃいけないの? というのがいちばんの疑問。少女が葛藤をのりこえていく成長物語なんだろうと思うけど、飛ぶ家系という設定があるために、肝心な部分はボケボケになちゃってる。作者自身が空を飛べる家系という設定を信じていない感じ。例えば主人公が空を飛ぶシーンで、お腹に風をためて……みたいな表現をしてるけど、これってスカイダイビングのイメージで、読者をシラケさせる。女の子の初飛行の儀式にしても、祖母の存在を過剰なぐらい気にして迎えさせているのに、肝心の祖母は立ち会うことをせず引っ込んでしまい、何の障害も葛藤もなく主人公を飛ばせて終わり! いったい何を書きたかったのかな?という疑問が残りました。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年1月の記録)


屋根裏部屋の秘密

松谷みよ子『屋根裏部屋の秘密』
『屋根裏部屋の秘密』
松谷みよ子/著 司 修/絵 偕成社 1988.7
偕成社文庫
2005.04

オビ語録(偕成社文庫):読みつがれる名作≪直樹とゆう子の物語≫シリーズ/エリコの死んだじじちゃまが屋根裏部屋にのこした秘密とは? 歴史の陰に秘められた悲惨な事実/戦後60年、若い世代にたくされた戦争の罪

しらす:読む前は敬遠していたのに、今回の3冊の中で唯一夢中で読みました。ゆう子とエリコとおばさんと直樹が交代で章が進んでいく。それぞれの思いが違うのに、ストーリーが分散していない。

アカシア:私はこのシリーズは『ふたりのイーダ』(松谷みよ子/著 講談社)しか読んでなくて、この本は今回初めて読みました。やっぱり松谷さんはうまいですね。人物の関係の描き方もうまいし、章ごとに語り手が変わるけど、ちゃんと読ませてしまうのもうまい。アウシュビッツもなかったことにしようというなかで、それに対して書かなきゃいられないと思って書いたと思うのですが、それだけが前面に出ることなく、遺言の謎を追って読ませていく工夫もいい。善良なふつうの人が実は戦争のときはこんなことをしていたと書くのは難しいし、イデオロギーが前面に出ると、物語としてつまらなくなる。でも、この作品では、「日本人も日本のアウシュビッツを持っていたんだ」という作者の驚きを読者が共有できると思います。自然の描写にも、リタ・マーフィーにはないリアリティが感じられました。

たんぽぽ:こういう作品は、これからも手渡していきたいと思いました。でもこの3部作は図書室ではぜんぜん動いてないんです。

げた:うちの図書館でも、閉架の場所にあります。恐ろしい事実が語られているのですが、重たいので、今の子どもたちにはなかなか手渡しにくいです。私の親世代の話なので、実感としても伝えにくい。伝えていかなければならないとは思うのですが、この装丁だと。今の子どもたちは気軽に手にとらないと思います。

しらす:私が敬遠していたのには、松谷さんの本だからという理由もありました。『ちいさいモモちゃん』(松谷みよ子/著 講談社)のシリーズは好きだったけど、この著者は戦争について語ることが多いと知っていたから。子どもには表紙が怖いかもしれない。ただ私は、今回読んで良かったと思いました。

ケロ:いわゆる、戦争の話、というと、私たちの世代は、戦争の話をそのまま素直にやるのを読んできた世代。でも、それが辛すぎる話だったということもあるし、とっつきにくさを自分たちで感じていたということもあって、今の子たちには、何かもうひとつ手法を介在させないと、もはや読んでもらえないのでは、と及び腰になるところがあります。この話は、ミステリーという要素。これがきちんと収まっている。他にも、タイムトラベルなどの手法をとって、こども達の身にひきよせて作るなど、戦争児童文学の試行錯誤はいろいろあると思いますが、それが最近はあまり成功していないんでしょうか?
挿し絵が写真をコラージュして起こしたような、特有の暗い感じなので、違う絵だったらどうだったのかと思いました。こういうドキュメンタリー風の絵って、こわそうでひいちゃうのかな? 戦争の時って、時間がたつとどんどん分からなくなってしまう部分がありますよね。高校のときに本多勝一の『中国の旅』という本を読んで読書会をしたのですが、ある人のお父さんが、この本に書かれていることはまったくのでっちあげなので読む必要はない、と言ったと聞いて、びっくりしたんです。事実を知っている世代がいなくなるので、戦争の話をどういうふうに読んでもらうのかが、私たちの課題の一つだなと思いました。

ポロン:『ふたりのイーダ』を読んだときに、楽しい話かと思って読んだら、ガーンッときて「だまされた」と思ったことあるんです。この本は「あのシリーズだから要注意よ」と思って読んだのでよかったのですが、子どものとき、こういう戦争の残酷なことが出てくるって知らずに読んだらやぱり「だまされた」と感じると思う。謎にひっぱられて、ストーリー展開のおもしろさで読んじゃうと思うけど、戦争のことを知りたいと思って手にとったのではないのに、こんな衝撃的なことを聞かされて、びっくりしちゃう。表紙も「戦争」って顔してないし。こういうのって知らなくてはいけないことだと思うけど、なかなか難しいですね。

チョイ:戦争を子どもに向けて著した本には、やはり色濃く時代性があります。今西祐行さんや竹崎有斐さんみたいに自分自身が戦争に行き、その体験を書いた世代、もう少し若くて、銃後での戦争や疎開体験を書いた人々、第二次大戦は知らないけど、その時起きてたベトナム戦争なんかを書こうとした戦後世代の飯田栄彦さんや岩瀬成子さんたち…というふうに。戦争がどんどん風化していく危機感の中で、どうすれば少しでも子どもに読まれ易い形で戦争の実相を伝えていけるのかって試みのひとつに、タイムトリップとか幽霊とかを使うってのもあったんですね。そういう流れの中で考えると、この本も、書かれた当時としては、精一杯の試みをしてたんだと思います。

たんぽぽ:『泥かべの町:アフガンを生きぬく少女』(デボラ・エリス/著 もりうちすみこ/訳 さえら書房)は読める子がたくさんいますが、これは、読む力が育っていないと途中で投げだしてしまいます。

チョイ:アプローチが長いんですね。高い山は山裾が大きいように、正統な文学的手法で書こうとすると、アプローチが長くなるんでしょうが、それが今の感覚ではもどかしくなってるのかもしれない。

アカシア:読むスピードが速ければ長く感じないと思うけど、今の子どもは読むスピードも遅いですからね。

ポロン:アプローチの長さで、軽薄ではない重さや奥行きが生まれるんでしょうけどね。

アカシア:逆に、この書名だと、戦争の本を読みたいという読者を逃がしているかもしれないね。

むう:まじめな作者だし、じょうずだなと思いました。さまざまな描写もとてもじょうずだし、一人称の語り口もうまい。それに、先の戦争で日本が何をしたかを伝えなくてはというまじめな意図もある。なるほどなあと思って読みました。だから、それなりに納得して読んだのだけれど、最後の章がなあ……。ゆう子が語る二幕目、文書をちり紙交換に出しちゃったというあたりは、おい!という感じでした。チープに落ちたな、という気持ちで残念でした。じゃあ、どうすればよかったのかというと、よくわからないのですが。

トチ:こういうことを書くのに、フィクションとノンフィクションのどちらがいいのかなと思いました。子どもに読ませる力を持った作家がノンフィクションとして書けば、古くならずに残っていくと思うし、いっぽうではフィクションで書いたほうが、子どもがまず手に取るし、心の奥底まで染みこんでいくと思うし……どちらにせよ、こういうことを繰り返し繰り返し次の世代に伝えていくのが、児童文学の役目だと思うのですが、今の日本の児童文学は自分のまわりの狭い世界を描くものが多くて、大きな問題をとりあげるのはかっこ悪いと作家が思っているのかもしれない。そういう印象があるのですが、どうでしょう? こういう作品が今の時代もたくさん出てくれば、それじゃあ手法として『弟の戦争』(ロバート・ウェストール/著 原田勝/訳 徳間書店)はどうか、『二つの旅の終わりに』(エイダン・チェンバーズ/著 原田勝/訳 徳間書店)はどうか、どちらが今の子どもたちの心に届くかという議論ができると思うんだけど。松谷さんのあとをひきつぐ作家はいないのかしら?
ひとつ疑問だったのは、中国の女の子の幽霊が、どうしてこんなにも日本の女の子に友好的なのかということ。もう少し恨みがましくてもいいのでは……と。

紙魚:作者自身が、この物語を書くために中国へ取材に行ったときに、現地の人に申し訳ないほどの歓待を受けたというのを、何かで読んだことがあります。人間って、つらい思いをさせられたから反抗的になるというような、一方的な表現はできないと思うんですね。いつも相反する気持ちを同時に持っていて、そのことが何かの解決につながったりする。作者はそんな願いを持っていたのでは?

アカシア:中国の場合は、日本という国家や政治家を非難しても、ひとりひとりの日本国民はまた犠牲者であったという考えを中央がとっているので、個人で行けば熱烈歓迎されると思います。フィクションかノンフィクションかという点ですけど、ノンフィクションだと「特定の時期に特定の場所であったこと」という視点が強くなるので、子どもが自分に引きつけて読むのは、なかなか難しいですよね?

むう:自分との関わりを持たせるには、フィクションにしないとだめなんだろうと思います。でも、下手にフィクションにすると、今度はトチさんがおっしゃったみたいに古くなっちゃうんですよね。この本もそうだけど。エリコみたいな子なんて、今いないですよね?

アカシア:でも、少女漫画には出てくるじゃない。

むう:この本が古さを感じさせるのは、やはり読者に距離感を感じさせているからじゃないかと思うんです。本来ノンフィクションにすべき資料がフィクションに埋め込まれたような構造になっているから、ちょうど木に竹を接いだみたいな感じになって、読者を引き込みきれない。フィクションになりきっていないんだと思います。たとえばウェストールの『弟の戦争』なら、あれは人の意識が入れ替わるなんていう、絶対に起こりっこなさそうな設定にしている。それが逆にフィクションの強みなんだけれど、この本は、子どもに身近な日常を語っている中に、どすんと事実をはめ込んでいる。その中途半端さがあるから、古く感じるんじゃないかと思います。

アカシア:戦争一般について描くのではなく、731部隊が本当にあったということを伝えるとすると、どうしてもこういう作品になると思うし、これはこれでいいと思います。

むう:731部隊の事実を伝えるという意図はすばらしいと思うし、たしかこれは80年代の作品ですよね。つまり、20年以上前に出されているわけで、その時期にこういう作品を書こうとしたという姿勢は立派だったと思う。この作者に文句をいうというよりも、そのあとに、これを超える形で何か書かれているか、ということが問題なんだと思います。

愁童:戦争体験世代の作家が免罪符を手に入れるために書いているみたいな感じを受ける作品。じじちゃまが箱を子どもに手渡しちゃう設定は、どうかと思った。そんなものポンと渡されたって子供は困惑するばかりでしょう。体験世代がきっちりと決着を付けて次世代に渡す責任があると思うけどね。戦争体験を伝えることは大事かもしれないけど、「ウザイ・キモイ・クサイ・死ね!」みたいな言葉が飛び交っている現在の小中学校の教室の状況を直視する姿勢が無いと、731部隊のようなことを作品として書いても、子供達の対人侮蔑語ボキャブラリーに「まるた」をひとつ加えただけで、書き手の自己満足に終わりかねないような気がするな。

チョイ:さっきも言ったように、自身の体験だけでなく、その後わかってきた戦争の様々な事実を、1980年代という時代に児童文学として表現しようとした試みの一つがこの本で、この本が出たこと自体は無意味だとは思いません。今読むと、古くさいとか、ノンフィクションの方がいいとか言われるかもしれないけど、松谷さんは作家としての自分なりの手法で731を残したかったのではないのかな。ここには、現代の民話や怪異を追いかけてきた松谷さんなりの表現があったと思います。それが成功しているかどうかはまた別ですが……。例えば、桐野夏生さんなんかが731を書いたら、また全然違うこわーい話になって読者がついたりしてね。

アカシア:松谷さんや早乙女さんを超える手法を持つ若い日本の作家って、いるんですか?

チョイ:戦争とか社会問題とかを子どもの本で扱うのはとても難しいから、なかなか成功しないんです。成功しにくいから売れないし、作家も消耗する。で、つい身近なテーマに行くんじゃないでしょうか。

愁童:このあいだ偶然、宮部みゆきの『ICO:霧の城』(講談社)を読んだんだけど、これプレイステーション、ゲームソフトのノベライズなんだってね。立場を越えた生きる者同士としての連帯感や共感、思いやりみたいなものが根底にしっかり書き込まれていて、『オオカミ族の少年』(M・ペイヴァー /著 さくまゆみこ/訳 評論社)と同じように、書き手が読者である子供達に伝えたい人間としての思いみたいなものが良く伝わってくるんですね。ゲームソフトのノベライズ仕事に宮部みゆきを選ぶ編集担当の方の眼力に拍手したいけど、その方の視野に児童文学分野の書き手が浮かんでこない現状というのは、かなり淋しいですね。

しらす:私は戦争を実際に体験した世代と交流がないので、実体験を聞いたことがないんです。人を「丸太」と呼ぶことだって、今の若い人にはショックだと思います。私の周りにも「靖国神社」や「A級戦犯」がなぜあれほど騒がれるのかよくわかっていない人はけっこういます。でも彼らもドキュメント番組やノンフィクション読み物は好きだったりするので、隠された真実を知りたいという気持ちは共通しているように見えます。アウシュビッツやベトナム、イラク戦争で行われていたことを自分たちの国でもつい数十年前にやっていたという真実は、若い人ほど衝撃的かもしれないけれど、その分深く受け止めるんじゃないかなと思います。

紙魚:先日初めて、広島の「原爆資料館」に行ったんです。そのときに、地元の人から聞いたのですが、資料館の展示が年々変わってきているというんですね。見学に訪れた修学旅行生などが気分を悪くしたりすると問題になるそうです。その人いわく、おどろおどろしい展示を少なくしているように感じるのだそうです。もしそれが本当だとしたら、それでよいのか? と疑問です。もうすでに、戦争を体験していない人が、戦争を伝えていかなければならない時代に入ってきています。私自身、「編集された戦争」しか知らない。戦争があって幸せになる人はひとりもいないはずなのだから、戦争はいけないんだ、戦争は不幸なのだという、たったひとつのことをどう伝えていくのかを、若い作家といっしょに考えていきたいです。

カーコ:細部の描写のかげんなど、書き方はうまいですね。でも、現代とのつなぎ方として、舞台がお金持ちの子の山荘だったり、「じじちゃま」と呼んだりとか、今の子が続きを読んでみたいと思うかな、と疑問に思いました。

うさこ:まさに戦後児童文学が生まれた背景を背負っているような作品。文章のなかに「天皇の命令だったんです」とはっきり書いてある。最近の児童文学は、自我の物語ばかりなので、新鮮に読めました。でも、エリコの描き方が真実味がない。じじちゃまから手渡された箱をちり紙交換に出すのは、作家が逃げているような印象がある。こういうまとめ方にすると、読者の中で問題意識として考えることなく、物語が素通りしてしまうのではないでしょうか。

チョイ:一般の文学では、若い世代もいろんな手法で戦争を書いています。例えば福井晴敏さんは、第二次大戦末期に最終兵器にされていく日独混血の人間を設定した「終戦のローレライ」なんかを書きましたが、「創る」ことであの戦争をとらえなおし、新しい読者を獲得しようとする底力を感じます。その点子どもの本は、小さくなっているかもしれない。世界がどんどん狭くなっているこういう時代だからこそ、物語の新たな仕掛けが出来そうだし、作家も編集者も「創る」ことをおもしろがれるんじゃないかと思うのですが。松谷さんは「現代民話考」という大きな仕事も残しているし、過去の作品を今更あれこれ言ってもねえって感じです。

小麦:表向き、戦争の本という顔をしていないので、「だまされた!」と思う読者がいるというのは頷けます。でも逆に、子どもの頃って「こういう気分だから、こういう本が読みたい」と思って本を手にすることってそんなにないと思うので、いい意味で「思ってもみなかった本との衝撃的な出会い」にもなり得るのではないかな? 鮮烈な印象を残す一冊として心に残るというような。まあ、いずれにしてもショックには変わりないんですが。
私自身も子どもの頃、シリーズ第一作の『ふたりのイーダ』を、てっきり楽しい本だと思って読んで、内容にびっくりしたのを覚えています。内容に関しては、かなり前の本だけど、未だに訴えかける力があると思う。戦争というのは、気づいたら始まっていて、どうにもしようがない大きな渦の中に、状況を把握する間もなく巻き込まれていくものだと思います。渦中はもちろん、戦後どれだけ経っても「あの戦争は何だったのか」と正しく説明できる人はどこにもにいない。全貌が掴めないそういった強大な「戦争」を描くなかで、梨花が刺繍した青いスリッパだけは、あたかも自分のそばにあるかのような、生々しい手触りを持ってせまってくる。実体の把握できない大きなものを描こうとする時ほど、身近でささやかな事柄を丁寧に描くのって効果的なんだな、と思いました。
「戦争文学」を読もうとすると、どうしても構えてしまうというか、戦争を知らない私たちと戦争の間に隔たりができてしまう。でもこの作品は、戦争を知らない世代のゆう子たちも、実はじじちゃまを通して戦争とつながっているということを意識させてくれる。「戦争は決して他人事じゃなくて、すぐそばにあるもの」というのは、今現在にも通じるメッセージだと思います。ただ、正直、ゆう子と直樹がいい子すぎる。やっぱりどこかで戦争との間に一線が引かれてしまっているような。実際戦争が始まったら、生きのびるために自分だってどんなに残酷なことをしてしまうかしれない、という切迫感は彼女たちにはやっぱりなくて、「過去の過ちを伝えていく」の善人の立場に立っている。まあ、それは頁数や対象年齢を考えると、仕方のないことなのかもしれませんが……。

ケロ:「だまされて、よかったー。だから出合えた」と思う場合もあるのかな?

きょん:設定は、そんなに目新しいものはないのですが、文章の力があって、松谷さんの世界に引き込まれて読んでいきました。途中で直樹を呼び寄せるところは、段取りっぽくてしっくりこなかったのですが、全体として訴える力がありました。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年1月の記録)


チョコレート工場の秘密

ロアルド・ダール『チョコレート工場の秘密』
『チョコレート工場の秘密』
原題:CHARLIE AND THE CHOCOLATE FACTORY by Roald Dahl 1964
ロアルド・ダール/著 クェンティン・ブレイク/絵 柳瀬尚紀/訳
評論社
2005.04

版元語録:世界一のお菓子工場の秘密とは…?! 国際アンデルセン賞画家Q・ブレイクの軽妙洒脱な挿画と,柳瀬尚紀の新訳でおくる新シリーズ。

チョイ:田村隆一さんの訳で読んだんですが、差別語が一杯あったんで新訳にしたのかなあと思いました。改めて読んでみると、チャーリーっていう主人公は、ほとんど何もしていないんですね。タイトルで想像するほどには、私は楽しくなかったです。

うさこ:前半は、チャーリーが主人公。後半はワンカ氏が主人公。わくわくしてひきこまれて読めました。設定が極端かなという印象はあります。チャーリーが10歳なのに祖父母が全員90歳というのはどうか、黄金切符が特徴のある子どもにあたりすぎる、チャーリーが雪の下から銅貨を拾い持ち主を見つけて届け出もしないまま「ラッキー」という感じでチョコレートを買うのはいいのかな、などと疑問に思いました。テレビアニメ版「フランダースの犬」のネロのことを思い出してちょっとひっかかったんです。子ども心に、良心の大切さというものがやきついていたことがあったので、話がうまくいきすぎると思った。『真夜中の飛行』は、訳者がどれだけ原作者の書きたかったことを理解しているか疑問だったのですが、柳瀬さんはちゃんと理解して独特な訳にしている。

カーコ:大げさな表現が出てきますが、読み始めてすぐに、ああこれはユーモアものだなと思って、そのノリで読んでいきました。次々と出てくる奇想天外な場面を楽しんでいくお話。書かれたのは1964年と古いのに、こうして新たに訳され、新しい装丁で出ると、新しい読者がつくんですね。昨年映画になったので、小学生は「チャリチョコ」と呼んで、学校の図書室でもよく貸し出されているようです。

紙魚:映画化で話題になってから、ふだん児童書の話などしたことのない友人の一人に「この話って、あっちいったりこっちいったりして、最後はもとの場所に戻るだけだよね」と言われたんです。その人としては、こんなシンプルなものが子どもに受けるの? と驚きだったようなのですが、子どものときって、それがおもしろかったんですよね。まさにそのお手本のような本です。

きょん:おもしろいものを次から次へと投げ込んだ、エンターテイメントのお話。しかし、だんだん読み進めていくと、ひとつひとつは、奇想天外でおもしろいのかもしれませんが、それがどうしたの?という気分になって、ちょっと物足りなくもなる。しかし、こそれは大人だからで、もしかして、子どもはこういうのが好きなのかなと思いました。なにも理屈ばかりではなくて、ただ単におもしろいというそういうのも大切なんだなと気づかされました。

愁童:最初読んだときはおもしろかったですね。同世代では好きな人、多いんですよね。時代的背景もあって、チョコレートなんて憧れのお菓子みたいな感じも残っている頃だったし…。子どもと一緒におもしろがって遊んじゃう、みたいな書き方も受けたような気がします。

トチ:ダールの作品そのものよりも、後書きで田村隆一さんの旧訳を揶揄して新訳を自画自賛しているので、だいぶ反感をかっているようですね。脱訳が多いという人もいますが、ウンパルンパ族の箇所などは、ダール自身が改訂版を出したときに削っているんですよね?

アカシア:最初の本ではアフリカからピグミーを連れてきて働かせているという表現になっていて、人種差別じゃないかと問題になったんです。だからかなり早い時期に原作が変わってるんです。おそらく作者自身が変えたんだと思いますよ。

トチ:改訂版にダールのインタビューが載っていておもしろかったのですが、ダールは「子どもが笑うところで自分も笑える」というようなことを言ってるんですね。それから「悲惨と笑いは紙一重」とかね。この物語はダールのそういうところがよく出た作品だと思います。私は大人のものも子どものものもダールの作品が大好きだから、ついつい文句が多くなるのですが、柳瀬さんの訳はダールのにおいよりも訳者のにおいがきつくて、好きになれませんでした。歌を訳すときに英文と同じように訳文も脚韻を踏むというところなど、大胆で、おもしろい試みだとは思うのだけど、そのためにわかりにくくなったり、楽しさが半減したりしているのでは?

むう:ダールっていうのは、とても意地の悪い人だと思います。この作品もそうだけど、視線がシニカルで、悪い子はこれでもかというくらい、徹底的にやられちゃう。そこが、子どもの感覚に合うんでしょうね。なんというか、子どもの描く世界のリアリティのなさにジャストミートしている気がします。バーチャルとは違う意味でのリアリティのなさ。さらにいえば、実に「男の子」の目線だと思う。イギリスでは、子どもの人気は絶大ですね。わたし自身はこの人の大人の作品はともかく、子どもの作品はあまり好きじゃありませんけれど。わたしは、今回柳瀬さんの訳は図書館で何十人待ちだったので読めなくて、田村さんの訳で読んだだけですが、差別用語はともかく、全体としてはそれほどまずい訳だとも思いませんでした。

ポロン:図書館で予約したら、43番目。借りられるのは3か月先だと言われました。

ケロ:選書するときに、この本でやりとりするのは野暮だとは思ったんですが、映画のことや新訳の事もあり、皆さんのお話を聞きたいな、と思いました。この本は、本当に突飛な発想だけど、やはりペンの力ってすごいなと思いました。工場の大きさとか、もちろん可能性という意味でも、こんな工場あり得ないのに、「ある」と書けば、その世界で読者が自由に遊べるのだから! ただ、さびしいことに、今読むと想像力が疲れちゃうんですよね。年取ったのかな? 映画は観たいような観たくないような。想像が制限されちゃうような気がして。

げた:うちの図書館でも、ずっと基本図書として置いていますが、しばらくの間動きが止まっていました。でも、映画が公開されてからは、動いています。今の子どもに、チョコレートがそれほど魅力的かと疑問に思っていましたが、映画でイメージが変わったのでしょうか。新版は判型が小さいので、小学生向きでないですね。それにしても、こんなに訳がちがうとは。

たんぽぽ:前の訳と全然ちがいますね。読後、結局ものわかりのいい子が残ったのかと思いました。新訳では子どもの名前も新たな訳語になり、その子の性格がわかりやすいです。子どもたちは、前の版は大きくて厚いので自分には読めないけど、新しいのは小さいサイズで読めると思うようです。

アカシア:児童文学というよりは、児童向けエンターテイメント読み物。しかも、登場人物が極端で、気にくわない、よくないやつを最後に徹底的にやっつけてしまうのは、昔話と同じ手法です。ダールは、子どもが何をおもしろいと思うか、というつぼをおさえていたんですね。自分がパブリックスクールでさんざんいじめられた体験もあるので、そういったものが作品に出てくるのかもしれません。新訳の方は、とてもよく売れてるそうですよ。脚韻を踏んだ詩にしたのは、翻訳者としての柳瀬さんの挑戦だったのでしょう。 プロの訳者としての心意気を感じます。工夫があちこちに見えてなるほどと感心したのですが、ゆったりと流れる味わいのようなものは、田村訳のほうがあったかもしれません。おじいちゃんのへそくりで買ったチョコレートをチャーリーが食べる気になれないというあたりは、田村訳で読んだときはほろっときたもの。

しらす:映画だとわからなかった悪い子たちの名前が、この本ではわかりやすかったです。語感もおもしろいですし。アゴストロングのにくにくしさったら! 児童文学だとやってはいけないと思ってしまいそうなこともやってるなあと思いました。

小麦:もともと不謹慎だったり、突飛だったりするものが大好きなので、この本の突き抜けた残酷さやブラックユーモアが、子どもの頃に読んだときは、やたらとおもしろかったのを覚えています。時を経て、いい大人になった今でもやっぱりおもしろい。私自身は、訳も映画も古いバージョンの方が好きです。判型もハンディサイズに変わって洗練されたんだけど、昔の、いかにも児童書然とした判型の方が、ダールの破天荒な感じや気持ち悪さが伝わってくるような気がします。映画も、ティム・バートンのリメイク版は映像もすごいし、昔なら不可能だった表現も思いのままなんだけれど、オリジナル版のいかにも手作り感の残る映画の方が、洗練されすぎていない分かえって不気味だし、チョコレートもおいしそう。あまりに作り込みすぎちゃうと、元々の手触りはどんどん奪われてしまうんだな、と思いました。

ハマグリ:旧版の本は、以前映画化された時にそれに合わせたカバーをつけています。もとの表紙絵と全く違う絵なんですが(みんなに見せながら)。今回の改訂版でいちばんよくなったのは、挿し絵。この導入の部分、子どもはきっとおもしろがると思います。見て、このよぼよぼのおじいちゃんおばあちゃんの絵! しかも、おじいちゃんおばあちゃんが、もう一組いる。ベッドが1つしかないから、たがいちがいに寝ているんですよ! なんなんだこの家は! と読者の気持ちは一気に物語の中に入っていくと思います。しかも、これほどにまで貧しい男の子にクジがあたるという、とてつもない飛躍! かならず子どもの心をつかみます。差別表現があって、しばらくのあいだ、図書館でもすすめていなかった本で、改訂版が出たのはよかったけれど、ヤングアダルト向きで、小学生には手に取りにくい装丁になってしまったのは残念。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年1月の記録)


だれかののぞむもの

岡田淳『だれかのぞむもの』
『だれかののぞむもの』 (こそあどの森の物語7)

岡田淳/著
理論社
2005.02

版元語録:こそあどの森のみんなに,バーバさんから長い手紙が届きました。「フー」という名前のふしぎな生き物がいるらしいのです。

愁童:先月の2作と作品の構造が似ていて、またか、という感じで読んだ。他人が望むとおりにかわっていくことなんてつまらないよという、作者のメッセージは分かるけど、作品としては物足りなかった。『魔空の森へックスウッド』もそうだけど、舞台装置は面白いけど、役者が芝居をしていないドラマを見せられているような気分になってしまう。

紙魚:『オオカミ族の少年』の舞台は、まるで実在の森のような湿度や匂いが伝わる、いわばリアリズムの森の延長上にひろがるファンタジーの森。それにくらべて、この物語の舞台は、作者がつくった箱庭的な森。中学年くらいの人たちが安心して歩きまわれるのではないかと思います。他人が望むままに変じていくフーという存在を見せられて、読者は自分自身におきかえて考えてみるという作業もできそうです。そうしたメッセージ性をそそぎこむ、作家の思いのようなものを感じられてよかったです。こうした低年齢の人たち向けの童話って、このところ書く人が少ないので、応援したい。

アカシア:この巻だけを読むと、物足りない感じというか、よくわからないところがあるかもしれませんね。スミレさんとギーコさんがキスする場面なんかも、それぞれの登場人物がもつ背景がもっとわかったほうが、面白さが増しますよね。1巻目を読むと、それぞれの人物の特徴づけとか、物語世界の背景がよくわかります。でも、この巻だけ読んでも、謎でひっぱっていきながら物語の面白さでも読ませるという、そのブレンドの具合が心地よいと私は思いました。挿絵は、岡田さんがご自分で描いているのですが、これは、どうなんでしょう?

紙魚:背景は丹念に描きこんであるのに、キャラクターは単純な線。かなり変わっていますよね。

アカシア:ほかの人の挿絵でも読んでみたいな。かなり違う絵になるかもしれませんよ。これはシリーズの7巻目ですけど、どれもそれなりにひっぱっていく力があるので、ずっと続けて読んでいく子どもたちも多いんじゃないかな。小学校中学年くらいの人が読む本は少ないし。

紙魚:今回の話って観念的ですよね。でもこれまでの巻で、ある程度具体的な説明が積み重ねられているので、作者も安心して観念的になれるのかもしれません。

うさこ:初めて読みましたが、面白かったです。読んでいる途中、居心地のいい空間にいられました。争いや戦いなどが起こらない、いわゆるユートピア的な場所とユニークな登場人物、おもしろいカップリングで、しずしずとつづっている物語。少しも嫌な気持ちがせず、「心地よさ」という余韻を残してくれました。。香草のことなど、大人向けのテイストが入っているんだけど、変にメルヘン的でもなく、小学生向きということを強く意識したものでもなく、作家が自分だけの世界で遊んでいるわけでもなく、そこが読み手に心地よいのかもしれないと思いました。最後読み終わったら、予定調和的だとは思いましたが、このシリーズを読んでいる人はそれがよいのではないでしょうか。晴れた日に、外で読むのもいい。タビトの口調がまるで日本の武士のようで、イラストの雰囲気とギャップがありました。イラストは「上手な絵」という枠には入らないと思うけど、自分の描こうとしている世界をきちんと読者に伝えようとしている、「誠実な絵」だと思いました。

アカシア:タビトの言い方は、テレビで時代劇見てる子どもには、この人はほかとは違うしゃべり方だって、すぐわかりますよね。

紙魚:中学年くらいの読者には、ちょうどいいのでは? 私は全体をとおして、適度な不親切さを感じました。前半では、森の住人たちがそれぞれ、会うはずのない人に出会うという独立したエピソードが続き、バーバからの手紙が届くところではじめて、それらのエピソードが束ねられていく。前半で何もかも明るみにしないで、ゆっくりと読者の想像力を泳がせてくれるところが、よかったです。ふつうの言葉をつかい、やたらと飛躍することもない。むやみに凝ってないところがいいんですね。

トチ:初めて読んだのですが、登場人物が老若男女それにトマトあり、ポットありと工夫されていて、きっと子どもは楽しんで読むだろうなと思いました。初めてこのシリーズを、しかも途中の巻から読む私にとっては、ちょっとお説教くさい話が続いている感じがしたのですが、ほかの巻もそうなのでしょうか? こういうものって、テレビの連続ドラマのように、登場人物が一度しっかりと読者の心のなかに入りこんでしまうと、次からは「あのひと、どんなことしてるのかな?」という興味で、どんどん読みすすめることができ、また次の巻、また次の巻ということになるんでしょうね。ですから、続刊のストーリーは、あまり大事ではなくなるのかも……と思ったりもしました。あんまりよく言えませんが。森ということに関しては、『オオカミ族の少年』のほうが戦わなければならない森であるのにくらべ、こっちは自分の世界を守ってくれる森。グリムの森ではなく、ぐりとぐらの森ですね。

アカシア:小学校の先生をしていた作家なので、子どもが何がわかって何がわかっていないという頃合いをちゃんと知ってるんですね。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年11月の記録)


オオカミ族の少年

ミシェル・ペイヴァー『オオカミ族の少年』(クロニクル千古の闇1)さくまゆみこ訳
『オオカミ族の少年』 (クロニクル千古の闇1)

原題:CHRONICLES OF ANCIENT DARKNESS 1.WOLF BROTHER by Michelle Paver 2004
ミシェル・ペイヴァー/著 さくまゆみこ/訳
評論社
2005.06

版元語録:最初に地上をおおった闇は、巨大なクマの姿を借りていた。少年トラクと子オオカミのウルフ、悪霊に立ち向かえるのは彼らだけ…。

紙魚:『魔空の森』はどこに向かって読んでいけばいいのか、てんでわからない物語だったのですが、この『オオカミ族の少年』は、どこからはじまりどこへ向かうのかということをしっかりと明示してくれるので、とっても読みやすかったです。見返しの地図もおおいに頼りになり、道筋の線をたどりながら、自分が今どの地点にいるかということを把握できました。だからこそ、少年やウルフが成長していく様も実感できたんですね。シンプルな構成ですが、シンプルな分、余計なことに気を散らせずに、自分が想像する世界観がどんどん重層的になっていく。1巻を読んだだけでは、謎がぜんぜん解明されないので、続きが読みたくなります。欲をいえば、紀元前4000年の世界って全く知らないので、もっともっと細かく知りたかった。あとがきを読むと、作者の方はきちんと調べて思い描きながら書いていらっしゃるようなので、その部分ももう少し読みたかったです。あと、匂いの描写がきわだっていましたね。

愁童:今回の3冊のなかでいちばん面白かった。あとの2冊があまりピンとこなかったので、これを読んで救われましたね。作家の思いが行間にあふれている。登場人物たちの人間関係もきっちりと分かりやすく語られていて説得力があると思った。森を書いても、森そのものの湿気とか寒さとか、情景が読み手の中に自由に拡がって行く力があるね。書かれている文章の何倍も読み手の想像力を刺激してイメージを膨らませてくれる楽しさがある。

アカシア:章の最後がどれも、「その先どうなるの?」と気をもませる所で終わるんですね。まだ1巻目なので、疑問はいろいろあって、それがこの先少しずつ解決されるかと思うと楽しみです。人物も、簡潔ながらふくらみのある描写になっていて、アイテムとプロットだけで引っ張っていくネオファンタジーとはひと味違うと思いました。

愁童:父親の「後ろを見るように」という教えを、時折思い出すところなんかもうまい。その時代を生きているトラクに、しっかりしたリアリティを感じさせる効果があるね。

アカシア:オオカミの視点から見て書いている部分は、色がないところなんかも面白いですね。

うさこ:12歳のトラクが父を亡くし、ウルフと後からレンが加わり、知恵と勇気をふりしぼってつき進む姿は、さあ、これからどんな試練が待ち受けていて、どう乗り切っていくのかと、わくわくしながら、引き込まれるように読みました。読み進めていくと、迫力あるリアリティと臨場感にあふれる物語で、実際は6000年前のこの土地や民族、文化を全く知らなくても、まるでそこにいていっしょに冒険しているような感覚にとらわれました。最後の一行まで何がおこるかわからないといった物語のよい緊張感と迫力で、話のなかに没頭してしまいました。

アカシア:読んでいて、「またここでひっくりかえすのか!」という意外性がありましたね。

うさこ:構成は案外シンプルだけど、ディテールがしっかり書き込まれていて、そこが物語をしっかり支え、生き生きとしたリアリティをもってストーリーを展開させています。しかも、ディテールが書き込まれすぎると、全体の流れが悪くなったり読み疲れたりするものですが、それが全く感じられませんでした。
この時代の衣(着ているもの、着方、服や靴の作り方)・食(食料、調理方法、食べ方)・住〈火のおこし方、ねぐらの確保)・祈り・信仰・魂のとらえ方・墓・大自然の一部としての生きのびかた・他のものとの共存やルールなど、いろいろ興味深い点が多かったです。しかも既刊の本にないステレオタイプな表現が一つもなかった。そして、そういう匂いとか皮膚感覚とかがずいぶんリアルだと思い、本や資料の上だけの考察ではないなあと思ってこの原作者のことを調べたら、原作者は実際、東フィンランドからラップランドまで300マイル馬に乗って渡り、原始生活の体験をしている。どおりで、やけに土臭いと感じました。p218レンがオオライチョウをとってきて、調理して食べているシーンは実際食べたいとは思わなかったけど、実においしそうなにおいがしてきました。訳者は実際原始生活体験などはしていないと思うけど、それをほんとにここまで表現できるのはすごいなあと思いました。

愁童:少年と子オオカミのウルフは、親を亡くしたという同じ設定で書かれているけど、きちんと書き分けられているのに感心した。ウルフの感情を擬人化して書いていても、読み手には、いつもオオカミとして感じさせるだけの配慮がされていてうまいなと思った。

アカシア:トラクは、最初子オオカミを食べようとしますよね。そのあたりもリアル。

愁童:そうそう。あの時代なら、食べても当然。

アカシア:子どものオオカミって、大人のオオカミが一度食べて吐き出したたものを食べて育つらしいんですよ。この本では、トラクはたまたま熱があって吐いたんだけど、それをウルフが食べることによって関係が成立していく。そういうところも、ちゃんと書かれているんですね。

うさこ:ちゃんと生態をおさえて書いているところなどは、ウルフをまったく擬人化せず、オオカミとして扱っているってことですよね。

愁童:だから最後、トラクとウルフが助け合っていくというのも、説得力がある。今風のペットと飼い主の関係じゃなくてね。

うさこ:物質的な世界だけをすべてととらえていない。氷河を生き物としてとらえていたりもするし。

アカシア:アニミズム的なとらえ方をしている描写があちこちに出てきますよね。

うさこ:今は、人間が中心で、そこに実在するものだけが世界を構成するすべてとなりがちだけど、この時代、死んですぐの死体に触れちゃいけないとか、死(体)へのルールというか、魂のとらえ方一つとっても、ものすごく多面的にとらえて書いている。この時代に生きた人間は、自分を「ヒト」と自覚していたのかな? 動物や他の生物、鉱物のなかの一つ、くらいに思っていたのかな?

アカシア:human beingとはいえないのかもしれませんね。ほかのものとは少しちがう存在というくらいなのかしら。

愁童:古代人のところまできちっと戻って、その生態を描き出そうとする、作者の意欲と努力みたいな熱気がすごく伝わってくるよね。当時のトラク達の氏族がオオカミとつながって生きていたということに何の違和感も感じさせない世界を見事に描き出して居ると思った。

紙魚:現代が舞台だと自我の問題が軸になる小説が多いですが、やはり古代だからか、自我の問題が影をひそめ、生き抜くということが色濃く出てることに新鮮さを覚えましたね。

トチ:一気に読んでしまいました。原初の森の魅力が存分に描けているところが、ほかのファンタジーと一味違うところ。動植物の名前がたくさん出てきますが、私も読みながら、どんな色でどんな形のものか分かったらもっと楽しめるのにと悔しくなりました。少年、少女、オオカミがいっしょになって冒険するという話なので、男の子も女の子も、そして私のような動物好きの大人も楽しめる、それからさっき言ったように植物が好きな人も……というわけで、ベストセラーになった理由もよく分かります。まんなかへんで出てくる、鳩の腐った死体をすすっている、気のふれた男……あまりにも迫力があるので夢に出てきました! こういうものを読んでいる時いちばんハラハラするのが、主人公が死にはしないかということですが、その点シリーズものは、どんなことがあっても死ぬはずがないと安心して読めるので助かりました。去っていったウルフが、きっと続刊で群れのリーダーとしてあらわれ、トラクを危機一髪のところで救うのでしょうね。続編が楽しみです。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年11月の記録)


魔空の森へックスウッド

ダイアナ・ウィン・ジョーンズ『虚空の森ヘックスウッド』
『魔空の森へックスウッド』
原題:HEXWOOD by Diana Win Jones 1993
ダイアナ・ウィン・ジョーンズ/著 駒沢敏器/訳
小学館
2004.12

版元語録:封印が解け、時空を越えた場をつくり出すバナスの活動が始まった。アンやヒュームら4人が地球を守るために、宇宙の彼方からきたレイナーたちと果敢に挑む。

アカシア:すみません。5分の1まで読んだのですが、よくわからないし、訳にも引っかかって先が読めなくなってしまいました。

愁童:行間に何もない。設定が宇宙規模で多彩な割には、ストーリーは貧弱ですね。

紙魚:読んでいる最中は、なにしろ読みにくくて面白くなかったんですが、冷静に設定をふりかえってみると、要素はなかなかよくできているんです。アンという13歳の主人公が空想でつくりだした、「王様」「奴隷」「少年」「囚人」が、実際に登場人物として動き出し、アン自身もその物語の中にとりこまれていく。もう少し、物語の構造が整理されていたら、面白くなりそうです。もしかして、訳もあまりよくないのかもしれません。一文の中で行ったり来たりするので、頭に入りにくい。

愁童:訳文についてはいろいろあるけど、たとえば20ページ6行目のところなんて、何を言ってるかわからないんだよね。「あの赤い目に自分の姿は見えていないようだ。そう覚った少年は自分が来た道を、静かに急いで戻っていくことにした。/銀色の怪物が視界から消えるまで、彼は懸命に走った。」いったい少年はどう動いたのかね?

アカシア:翻訳者にもいろいろいて、まず全体を読んで作品世界を理解したうえで訳す人と、読まないで頭から訳していく人と両方いるんですよね。作品世界を把握しないで取りかかると、伏線なんかにも気づかなかったりするし、どっかで必ずボロが出ます。とくにダイアナ・ウィン・ジョーンズって癖があって一筋縄ではいかないから、よくよく物語世界を理解しておかないと訳せないと思うんですが、この訳者はどうなんでしょうね?

うさこ:最初の20ページくらい読んだところで、何だか物語に入っていけなくて、あとがきから読みました。それを読んでも、この訳者の文、とてもまわりくどくて、わかりにくい。しかも、あとがきだけで、誤植が2つもあるのにはうんざり。それから、本文の文字組みのレイアウトがひどい。分厚い本、長いお話であればあるほど、読みやすい文字組など読書環境を整えることは大事だと思うんですが。いろいろなマイナス要素が多くて、読みたい気持ちがなえてしまって、読む気になれませんでした。

紙魚:ルビのつけ方も気になりました。こんなにたくさんつけるなら、もう少し漢字をひらいてもいいのにと思うくらい。それから、森の描き方でいえば、『オオカミ族の少年』からは、森への畏れや作者の願いみたいなものを感じましたが、この森は、手につかみとれるような安易で軽い森。どんな森でどんな風が吹いていて、磁場が具体的にどうかわるのかというようなことには、全然ふれずに過ぎてしまう。お手軽な森でした。『こそあどの森』は、やっぱり西洋的な森のイメージなのかしら。

アカシア:日本の森のイメージと、ヨーロッパの森のイメージはかなり違うんじゃないかしら? 日本の森は、森林浴とか小鳥の声とか癒しとか、プラスのイメージと結びついていると思いますが、たとえばドイツの昔話の解釈の本なんか見てると、森は、混沌とか魔物が出てくる得体の知れない場所とか、マイナスのイメージも持っていることがわかります。
*このあと、子どもをとりまく環境・変化する小説・日本の政治など、話は多岐にわたり盛りあがりました。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年11月の記録)


コララインとボタンの魔女

ニール・ゲイマン『コララインとボタンの魔女』
『コララインとボタンの魔女』
原題:CORALINE by Neil Gaiman, 2002
ニール・ゲイマン/著 金原瑞人・中村浩美/訳 スドウピウ/絵
角川書店
2003

版元語録:秘密の扉の向こうの世界に住む、真っ黒なボタンの目の両親たちとの生活を楽しみ始めたコララインだが、やがてその世界に閉じこめられていることに気づいて−−!この秋一押しの傑作ファンタジー!

きょん:忙しい中、細切れに読んでいたので、読み込みが足りないのかもしれませんが……。扉の向こうは夢の世界なのか? 不思議な、暗示的なストーリーだなという印象でした。しかし、なんの暗示なのか、よくわからなくて。両親を助け出すために、知恵を絞り、小さな少女コララインが必死にがんばるんだけれど、ボタンの魔女がいったいなんだったのか、よくわからなかった。“もう一人のママ”というのが、意味を持ったものなのかと思っていたら、最後まではっきりしなくて。案内役だった猫は、こちらの世界でどこへ行ってしまったのか? コララインが助けた3人は、いったい誰だったのか? 訳が、あまりひっかからなくて、盛り上がりもなくさっと読めたのも、印象が薄い要因かもしれませんね。

:不思議な感じのする始まり方ですね。家自体、住んでいる人自身が不思議で何かが起こりそうな舞台設定。コララインは家族にあまりかわいがられていない感じなので、魔女がかわいがるから子どもが寄っていくのかな? でも、なぜ魔女がそうなのかわからない。魔女と対決するあたりは、いちばん盛り上がりがあるところですけど、あの魔女はなんだったの? という違和感が残ります。

:動機が甘いファンタジーだなと思いました。簡単にファンタジーの世界に入りすぎてしまって、ボタンの魔女がなんだったのかもわからなかったし、この物語を通して作者が何を言いたかったのかもわからない。現実の世界に何か不満をもっていたのかどうかもよく伝わってこない。また親との結びつきが書きたかったのかというと、そこも最後まで伝わってこない。そのわりに、主人公が賢すぎて、冒険を簡単にクリアしていく。このイラストレーターは他の作品では好きな人ですけど、この話には合ってませんね。この作品は、アメリカでは、子どもたちと大人の読者の反応が分かれたそうですが、おそらく大人は魅力を感じなくて、子どもに支持されたんでしょう。日本の作品でいうと、例えば「大海あかし」の魅力に近いのではないでしょうか。子どもは、それほど動機づけがなくても、ぞくぞくわくわくするストーリーがあれば、さほど気にせず読み通してしまう。そんな点で、子どもに支持されたのでしょうか。

カーコ:アイテムとストーリーのお話という感じでした。目がボタンの人間のイメージとか、同じ家に住む不思議な人たち、穴のあいた石、黒ネコなど、おもしろそうな道具だてを組み合わせて、ストーリーが作られている。ドキドキするところがあって、子どもには面白いのでしょうけれど、文学として味わったり、考えさせられたりする作品ではありませんでした。あと、コララインは何歳かわかりませんでした。絵を見たら小さい子だけれど、母親とのやりとりからすると10歳くらいかしら。ストーリーからすると読者対象は小学校3、4年くらいかなと思ったのですが、それにしてはこの文章はかたいように思いました。訳もひっかかって、ところどころ何を言っているのかわからないところもありました。

愁童:お化け屋敷のガイドブックみたい。ディテールは、うまく書けていて説得力もあるけど、主人公のイメージが湧いてこない。舞台装置は立派だけど、役者が出てこない芝居を見せられているような感じ。

アカシア:ファンタジーの構造としては、古い家に引越してきて退屈している子どもが、孤独な時間のなかで日常の世界をつきぬけてアナザーワールドに行ってしまうというもので、ピアスの『トムは真夜中の庭で』とかジョーン・ロビンソンの『思い出のマーニー』なんかと同じですね。まわりに遊び相手の子どもがいなくて、つきあうのは大人だけという設定なので、そういう子どもの抑圧した心理状態を書いているのかなと思うんだけど、その辺はよくわかりませんね。文学というよりゲームみたい。ボタンの目の家族っていうのは、アイデアとしては面白いけど、もう一人の母親が魔女というだけで、それがなんなのか背景などは書かれていない。コララインが魔女と対決して囚われの魂を取り戻すところでは、困難の描き方が単純なので、ハラハラドキドキできない。一時代前のファンタジーは、隅々まで世界を構築してからその一部を作品にする、というものも多かったんですが、これは今風のゲーム的ファンタジーで、読者の頭の中に物語世界が構築できませんね。想像もできない。英語のアマゾンなどでは、クリーピーストーリー(不気味な物語)という評でしたが、それを薄めるためにこのイラストにしたのかしら?

うさこ:興味深く読んだのですが、この物語の感想は、まさに疑問の多さ。もう一人のママの目的はなんだったんだろう。ネコの言葉では「たぶん愛する相手がほしいんだろう…」、3人の子どもによれば「命を奪うこと、喜びも奪われる」っていうことですけど、奪ってどうするつもりなのだろうという疑問が残ります。また、ボタンの魔女が「あなたを愛しているのよ」→コラライン「愛していることはわかっていた」ボタンの魔女「あなたを愛しているのは知ってるわね」→コラライン「でも、愛情の示し方がへん」というやりとりがありますが、具体的に書かれていないので伝わってこない。おなかがすいているときにチーズオムレツを作ってくれたことが愛情なのかな?
こっちの世界とあっちの世界が必ずしも対称的になっているわけではないですけど、両方の世界観のバランスが悪いという印象。
p103の「マントルピースの上にスノーグローブがあって…」のところは、コララインはここで両親だとピンときていない。スノーグローブのなかに小さな人間が二人入っているというのは、確認しているのに。この二人を何だと思ったのかしら? p184でようやくマントルピースに手をのばし、スノーグローブをつかみ、ポケットへ。物語の構成が甘いと思いました。それに、コララインはボタンの魔女をずっと「もう一人のママ」という言い方をしてますが、最初は別として実質上だんだんそう思わなくなってからも言い方が変わらないのには違和感を覚えました。
イラストは、p136で「自分のパジャマとガウンに着替えスリッパにはきかえ…」と文にあるのに、p153,154,168のイラストはもう一人のママが用意した(p100で着替えたはずなのに)グレーのセーター、黒いジーンズ、オレンジのブーツのまま。p181で突然ガウンのみはおっているが、足はスリッパかな? p90とp99のガウンの色が違うのはなぜ? p22-23のレイアウトは面白いが、犬は3匹では…など、絵のチェックはどうなってるんでしょう? 大事に作ってほしいので残念。

ケロ:「逆境に負けない女の子」というテーマに沿って読もうとすると難しかったですね。それでは、この本は何の話なのかなと思うと、わからない。主人公の女の子は、引っ越したばかりで近くに遊ぶ友だちもいない。親も仕事が忙しいので遊んでくれない。また、新学期前の中途半端な時期で、新しい環境への不安もあるだろうと思います。そんな自己閉塞感から、妄想の世界を作ってそこで遊ぶ、というのは、子ども的には、すぐにポンと行けるアナザーワールドなのだと思います。妄想しやすい他の階の住人もいますし。その世界に遊ぶことと、その誘惑を断ち切って、現実に立ち向かう強さを手に入れて帰ってくる、という儀式のようなものなのかな、とも思うのですが、深読みのしすぎでしょうか? 気になったのは、ハリーポッターの賢者の石や、アダムスファミリーの手など、なんか、どっかで見たなーというようなものがずいぶんありました。

ブラックペッパー:たいへん読みづらくて、一回向こうの世界から戻ってきて、また向こうの世界に行ったあたりから、行き詰りました。苦しく思いながら読み進めてもコララインを応援する気持ちにはなれなくて、ママがゴキブリを食べるところがすごくいやだった。「毛のないゼリー」って出てくるのですが、ゼリーには普通毛がないのでイメージしにくい。ま、ここはヘンな生物についての描写なので、わかりづらいのは仕方ない、ということはありますが……。あと、イラストが文章と合ってないところがいくつかあって気になりました。p63のナイフを投げる人の服装や、p180のママの髪がよじれてるはずがストレートだったりするところなど。しかし、話自体に熱中できなかったのに、読み終わってみると、嫌な物語というわけでもなかった。

ちゃちゃ:作者のゲイマンは、親や児童書を扱う図書館司書のような大人の女性は「とにかくぞっとする」などというネガティブな反応なのに対して、子どもはけっこう面白がって読むといった話をしていたらしいんですね。私ははじめに原文を読み、次に訳書を読んだところ、日本語版では恐ろしさがすっかり薄まっている気がしました。原書は、筋立ての気味の悪さをイラストが何十倍にも強めているようなところがあって、たとえば魔女がゴキブリを食べるシーンがイラストになっていたり、魔女の目もボタンがとても大きくなっていて、不気味このうえない。ただ、小さな男の子だと、ゴキブリを食べるとか、そういう大人の汚がることを面白がる傾向が強く出る時期があるので、大人よりハードルが低いようにも思います。また、コララインの反応の細かいところが、基本的に子どもの考えそうなこと、やりそうなことなので、そういう意味で子どもは「ある、ある」と思って読んでいくのではないかとも思います。ゲイマン本人は、親がいなくなるというのは大人にとってはとても怖いことだが、子どもにとっては、この世の中はハッピーエンドの物語と同じなので、自分がジェームズ・ボンドになったような冒険気分で読めるのではないかと言っていたらしいですが、この本は女の子が主人公でありながら、実は男の子の感覚に近いものがあるような気がします。ただ、魔女の作った奇妙で空っぽでぼわっとした世界が、そういう世界としての輪郭をきちんと持っていないような気がします。ぼわっとしていて奇妙だというところがリアルに伝わらないため、印象がぼやけているのが残念です。今、映画化が進んでいると聞きました。

小麦:私はするすると面白く読みました。クラシックな作品とは一線を画す、まさに現代のファンタジー。主人公の内面の葛藤や心理、周囲との関係性を軸に描く のではなく、ひたすらストーリーの展開の面白さで、テンポよく引っ張っていく。行間で読ませる『キス』とは対照的だなと思いました。主人公のコララインは、迷ったり悩んだりしないで、彼女自身がストーリーテラーのように元気に物語を切り開いていく。ちょっとロールプレイングゲームっぽいかも。映画やゲームのノベライズ作品を読むときって、小説とは違った、一気に読める爽快感のようなものがあるけれど、この作品もそれに似た読後感がありました。著者のプロフィールに「コミックの原作をしている」とあって、なんか妙に納得してしまいました。文章も映像的。ボタンの魔女の世界で、近所のおばあさん姉妹の舞台を、客席にずらりと犬が座って見ているシーンなんか、なんとも不気味で、デビット・リンチの映像なんかで出てきそう。シーンごとの不気味な雰囲気づくりがうまいなと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年10月の記録)


みんなワッフルにのせて

ポリー・ホーヴァート『みんなワッフルにのせて』
『みんなワッフルにのせて』
原題:EVERYTHING ON A WAFFLE by Polly Horvath, 2001
ポリー・ホーヴァート/著 代田亜香子/訳
白水社
2003

版元語録:港町に住む少女プリムローズの両親が嵐の日に海で行方不明になり、町の人は死んだと決め込む。それを信じない少女が巻き起こす珍事件を素敵におかしく描いたニューベリー賞オナー賞受賞作。

ブラックペッパー:読みやすくて、さっと読めたんですけど、笑っていいものなのかというのがわからない。「明るいブラックユーモアで定評のある作家」らしいけど、指をなくしたりするのも明るいブラックユーモア? 指をなくす場面も、それほど痛そうじゃない。得るものと失うものがあることを示す一つとして指を失うのかもしれないけど、でもなんでそんなショッキングなことにならないといけなかったのか、そういうところがわからない。章の終わりにレシピがついていて、私はレシピを読むのが好きなのでうれしく読んだのですが、ちょっと気になったのはバニラエッセンスの分量。p35の「ティリーおばさんのレモンシュガークッキー」とp73の「ティービスケット」では小さじ2はい。p64の「シナモンロール」では小さじ1ぱいとなっているのですが、日本でよく売られているものは、ほんのぽっちりでいい(材料1kgにつき2〜3mlと表示されています)ので、そんなに入れたら多いのでは……? カナダのものは味の濃さが違うのかしら? それともさじの大きさが違うとか? 1カップの分量も日本は200ccだけど、国によって違ったりしますよね。

ケロ:私は、こういう話はけっこう好きです。章立てで、「足の指をなくす」? えー、なんて思ってたら、「また指をなくす」なんてあって、ブラックだなあ、と笑いながら引っ張られるように読みました。このようなお話なら、「親は帰ってこない、でも、乗り越えたよ」という展開がふつうだと思うんですが、なんていうんだろう、このお話のとぼけた感じとか、不思議なことが起こりそうな感じからか、途中から、両親は帰ってくるんじゃないかな、と思いながら読んでいる自分に気づきました。そんな、ファンタジーとリアリティの中間のふわふわする感じを描くのがうまいなあと感じました。それは、痛そうな話をリアルに描かないこととか、幽霊が出てくるところとかから、作り上げられているのかな?とも思います。それと対照的に、気持ちの流れ、感情は、とてもリアルに描かれていて面白いですね。まわりの大人が、すごく面白かったです。ハニーカット先生とか、すごくいやなやつなんだけど、あー、こういう人いるかもね、と気の毒になりながら読んだりして。

うさこ:ファンタジーではなく、生活物語だと思って読みました。なのに、浮かんでくる映像が、実写ではなく、どこかアニメの映像をみているような気がしました。実質的な人間の世界のことではないというのか……。この子自身が、明るいというか強いというか冷静で、弱さや痛みがあまり書かれていないせいか、胸に迫ってくるものが弱く、感情移入するところまでいきませんでした。わざとリアル感を薄めようとしたのかもしれないけど、あまりにも感覚的な物語で着地しています。
 レシピを集めてどうしたんでしょう? 何か気持ちを整理できたということでは、この子の心の支えとなったのかな……。章ごとに出てきた食べ物をレシピとして紹介しているのは、2時間ドラマのTVコマーシャルで「ちょっとティーブレイク」的な感じもしましたが、深刻な話のなか(特にp81)に、(レシピはのちほど)とあると、話がぬるくなり、効果的ではないように思います。それにレシピはおいしそうだったけど、カットが弱い。せっかく絵を入れるなら、もっと読むのを助けるカットにしてほしかった。レシピでできたものを見てみたいと思うのに、素材ばかりが並べてありますもんね。イラストの役割をもっと大事にしてほしかった。
この本、主人公は11歳なのに、図書館では一般書コーナーにありましたよ。YAシリーズの位置づけが、図書館でも書店でもあいまいなんですね。読む年令と書棚にギャップがあって、読者にきちんとこの本が届いているかどうか疑問に思いました。レイアウトは字が小さくて、しかも教科書体は意外に読みにくいという印象です。書体や行間なども、もう一工夫してほしかった。

アカシア:足の指のところがブラックユーモアだとは、私は思わなかったな。ブラックユーモアというとダールを思い出しますが、それとは違いますよね。主人公の女の子は、まわりの人みんなが親は死んだというのに、生存を信じて待っている。待っている間に、親がいれば出会わないような様々な人に出会うという話。パーフィディさんとかハニーカット先生とかジャックおじさんとかバウザーさんとか、脇役の人たちにリアリティがあって面白い。「作者は明るいブラックユーモアの作風で人気」と訳者後書きには書いてありますが、この作品がブラックユーモアを基調にしているとは私は思いませんでした。訳は軽快で、心地よさがあります。現実には大変なことがいろいろ起こるけど、明るい気持ちでなんとか生きていこうとするこの子の感じが、いいですよね。ただ明るいだけじゃない、という微妙な感じがもう少し出ると、もっと面白かったかな。この作品は、『コラライン』と違って、生活もちゃんと書こうとしてるんですよね。だから生活に密着したレシピも出してくるのかな、と私は想像しました。p63だって、深刻な話をしているのに、生活者のバウザーさんは手を休めない。コララインはゲーム的ですが、この作者はもう少していねいに状況や人物を描写しています。ただ、最後に両親が帰ってくる場面は、この子の夢が報われてハッピーエンドになるのはいいけれど、なんだかバタバタと唐突な感じがして、もう少していねいに書いてほしかったな。読者は、プリムローズといっしょになって読んでいるので。

愁童:両方読んで、印象がごちゃごちゃになってしまった。かたっぽは、ファンタジックなおばけのところをぐるぐるまわる、こっちは現実のいろんな人のところをぐるぐるまわる。主人公が、積極的に周囲の人や状況にかかわっていくようには描かれていない。ご近所の人たちのようすは、よく書けているけれど、主人公の女の子が何を考えているのかよく分からない。おじさんが町を再開発しようとしていて、町の人の反発の様子も書かれているのに、肝心の主人公はどうなのか全然解らない。

アカシア:おじさんの再開発計画についても、主人公の女の子はまだわからないんだと思います。バウザーさんとの対立はちゃんと書かれていますよ。

愁童:まだらボケのおばさんに預けられた後、その家を出て、着るものを忘れてきたのを思いだして取りに行ったら無かった時の女の子の気持ちなんかもう少しきちんと書き込んでくれてもいいんじゃないかな。ここではむしろマダラぼけのおばさんの描写のエピソードとして使われているだけで、主人公側への目配りが薄い気がした。なんか、隔靴掻痒というか、主人公の女の子が何を考えているのかわからない。

ブラックペッパー:そう、女の子が何を考えているか、最後までよくわからない。

アカシア:私はそこは想像できたんですよね。主人公の内的な動きではなくて、表の意識にのぼるものだけを書いて想像させるという手法なんだと思ったんです。だって、この子は本当はつらいんです。だけど、つらいとか悲しいとかを書いていったら、逆につまらなくなる。

ちゃちゃ:この作品は少女の一人称で、一人称の場合、その年代の意識や分析能力などの制約を受けますよね。この場合は、この少女の一人称であることによって、痛みの感覚が完全に切り離されてしまっているのかもしれません。でも、アカシアさんが言われたように、ほんとうは痛いんだけれど、というところがもっと読者に伝わらないと奥行きが出ない。なんだかつるっとした奇妙な感じで、バタバタと終わったような印象を受けました。すらすらと読んだんですけど、最後のところで親が唐突に帰ってきたのは、かなり興ざめでした。

カーコ:私はけっこう面白く読みました。ちゃちゃさんがおっしゃったように、さびしいとか辛いとか痛いとか、負の感情はほとんど出てこないんですね。独立心旺盛で、人に依存しまいとしている主人公像を感じました。それに、脇役がユニークで面白い。人のために動いているようで、実は自分中心のハニーカット先生。ジャックおじさんは、面白そうだけど、近くにいたら大変そう。パーフィディさんのクッキーが、防虫剤臭いというのが、すごくリアルでおかしかったです。そういう細部がとても面白かった。最後に両親が帰ってくるかどうかは、どっちでもいいと思いました。

:深みのあるいい作品になりそうなのに、完成度が低いのが残念だと思いました。人生の真実のようなことをまわりの人がさりげなく言ったり、この子が両親が生きていると信じ続けるとか、魅力的な要素はたくさんあるけど完成度が低い。というのは、大事なバウザーさんが唐突に現れますが、もっと早い段階で現れるべきだったし、重要な役目のおじさんが場所によってイメージが違って全体像がつかめないところなどに、そう感じました。またしゃれたジョークっぽく、レシピはのちほどとか、小見出しでドキッとさせるなど演出がありますが、そういうのが邪魔で、もっとシンプルに書いたほうがぐっと深みが増すのではないでしょうか。それから一人称の文章というのは難しいなとあらためて思わせる作品でした。「レシピはのちほど」は、誰に向かって言っているのかなと。

:時間がなくてp67までしか読めなかったんです。でも、この子のつらさはp16の「こうしてあたしは、服や身のまわりの物を三か所にわかれて待つことになった。まず、ジャックおじさんが買った家。それから、パーフィディさんの家。ここにはお母さんに編んでもらったセーターを、虫に食われないようにおいておいた。それから、もともと住んでいた家。ここはおじさんが貸家に出した。そんなわけであたしは、体が三つにわかれているような、おかしな夢心地みたいな気分だった。あたしはもう、どこでも生活していない……お母さんとお父さんを待つために桟橋にいくとちゅう、あたしは思った。あたしの心は体の中にうまくおさまってない。きわどいところをただよっている。ふわふわ浮かんでいる」なんていう所に表現されていると思いました。現実を横にを置いておかないと苦しすぎるんだなあ、と私には思えました。

きょん:「理由もないのに心の奥に確信していることある?」と、繰り返し出てくるその言葉が、プリムローズの心の叫びなのかな? いろんな大人が出てきて、人物がとてもよく書けていて、そのエピソードがさりげなく断片的に出てきていて、淡々とした感じ、あっけない感じが、この本の魅力でしょうか? ただ、そういうふうにいろんな人やものを書くことで、それらに取り囲まれた主人公プリムローズが浮き彫りになっているところが上手だと思いました。セーターがなくなっちゃうと聞いて、どうなっちゃうのかなと気になってひきつけられる。そんなふうに、いろんなエピソードにひかれながら、読めていく。ラスト、「だけど、べつにかまわない。だって、わたしは知っているから。ここに住んでいれば、なんでも好きなものが手にはいるってことを。しかも、ワッフル(レシピはのちほど)の上にのって。」のところが、すごく好き。ただ、訳者あとがきに「この物語を読んでいたら、希望や喜びというものは人間に本来備わっているものなのではないか、ほんとうの絶望なんてありえないものなのではないか、と思えてきました」とありますが、これはちょっと言い過ぎかしらと思い、不快でした。ハッピーエンドをいっているのかもしれないけど…。

ケロ:p91に、「…きっと喜びって、両親とか、十本そろった足の指とか、自分で必要だと思ってるようなものがなくても生まれてくるんだ。それ自体、いのちを持っているんだな」とあって、そこにもつながっているのかも。私はそこが好きだったんですけど。

小麦:ホーヴァートは大好きな作家です。世の中から3センチくらい浮いた「変な人」を書くのがうまくて、「変なの〜」なんて油断して楽しく読んでいると、いつのまにか最後のところですっと感動させられたりする。おもて向き、いかにも「感動作」なんて顔をしていないし、なんとも飄々としているので、こちらも構えずに読んでいる分、最後の作者の優しさやメッセージが、すっと素直に入ってきます。最近出た『ブルーベリー・ソースの季節』(目黒条訳 早川書房)もそう。「変だけど、それなりに一所懸命生きてる」という、私の好きなキャラクターがたくさん出てくる、好きな作品でした。
帯に「完全なスラップスティックコメディー」とあるように、私もこの作品をある種のコメディーだと思って読みました。帯に引っぱられた部分は大きいとは思いますが。編集の方は、あのラストシーンを読んでこの帯を書いたんじゃないかな? 次々困難に襲われながらも、ことさら騒いだりしない、淡々としたプリムローズの姿勢は、笑っちゃうと同時に共感も覚えます。ほんとうに、困った事が起きた時って、私もこんな風なんじゃないかな、なんて思って。この本はヤングアダルトというカテゴリーに入るんだとは思うけど、組みや造本は大人向き。テキストの量を考えたら仕方がないのかもしれないけど、こういった本をもっと子どもたちに読んでほしいなと思ったので、そこはちょっと残念でした。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年10月の記録)


走っていこう(『キス』の第二話)

安藤由希『キス』
『走っていこう(『キス』の第二話)』
安藤由希/著
BL出版
2004

版元語録(『キス』):うまく伝えられない思い、すれ違う思い。でも通いあわせたい……。三人の中学生が抱えるそれぞれの事件。そして三人が出合った三つの「キス」とは……。あたたかな気持ちを届けるオムニバス。

カーコ:最初にこの第2話だけ読んだときは印象が薄かったのですが、1と3を読んでみたらけっこうよかったので、第2話を読み返しました。大事件が起こるのではない、日常の中の、中学生の微妙な心理が書いてあるのがよかった。だれしも、多かれ少なかれ問題や悩みを抱えていて、それぞれの子がそれを解決しようとするのだけれど、それがうまくいったりいかなかったり。中学生の、そういう当たり前の心情、心の揺れが書けていると思いました。でも、3話のキスはわりに自然だけれど、1話と2話のキスは、嘘っぽい感じがしました。

:ありがちないい話だけど、さわやかでいい作品だと思いました。第一話ですけど、自分の子どもが、こういう男の子に育ったら自慢だなと。自分が中学生だったら、外見の良さにばかりとらわれてしまって、その人の内面的なものまで見抜くことができないから、良さに気づかないような男の子なのだけど。それで私はとても面白く読んだのですが、同僚の男性は、「かつて少年だったぼくとしては、あの男の子は作りすぎで女の人が描いた男の子という感じがする。男ってこんなものじゃない」と批判的だったのが面白かった。自分だけの感覚ではわからないものだなと、つくづく思いました。

きょん:すごく前に読んだんですよ。すらっと読めたのですが、印象が薄くて細部は残念ながら忘れてしまいました。主人公の“あたし”のおとうさんに対する気持ちが、最初はきらいだったのが、マヌケだけど守ってあげたくなる、ずっと一緒にいてあげようという気持ちに変わっていく。この子の心の成長がすごく素直に書けていて好感を持てます。他に好きな人ができて家を出て行ってしまったお母さんが、お父さんが買ってくれたロードレーサーに、これまでは一度もみんなと一緒に乗らなかったけどふと乗りたくなってしまう。そんなお母さんの気持ちも、わかる気がして、ちょっとキュンとなります。また、そのお母さんをだんだん理解して、許していく主人公の気持ちの揺れも、よく描けていると思いました。

ブラックペッパー:たいへんすばやくさらっと読めて、ふわっといい気持ちになりました。でも、これって、良くも悪くも歌の歌詞みたいな文章で、子ども向けの本というよりも、大人が思い出して書いてるって感じ。

:ちなみに、恩田陸の『夜のピクニック』(新潮社)の男の子たちは「あり」ですか?って、先ほどの同僚の男性に聞いたのですけど、あれは「あり」だそうです。

うさこ:読み終わった直後は、行間で読ませる、ちょっとせつない物語だなあと思いました。が、ちょっと離れて考えてみると、この子は冷静でわりと大人で、自己完結している子ですよね。自分なりに消化していくんだけれど、それがどこか嘘っぽい印象。この作者は、主人公と等身大の読者を前に書いているのかな? かつて少女だった、もう少女に戻れない大人が読むとフーンと距離をおいて読めるけど、今、この年齢の子が読んで、本当に感情移入できたり落ち着くところに落ち着けるのか疑問が残りました。結構、コレ的な話は多くて(持ち込み作品などにもあるような…)あんまり新鮮さを感じられませんでした。ささめやさんの絵があるので、どうしても良さげに見えますが。だいたい、お父さんとお母さんがキスするところなんて、中学生の女の子なら、嫌悪感を持つんじゃないかな? そのへんも作りものくさいなあ〜と。

カーコ:でも、この子にとっては、キスはすごくうれしいことだったんじゃないかと思うんですよね。今は不仲な両親にも、昔は愛し合っていたときがあると、信じていたいという気持ちがあるから。私はとてもリアルだと思いましたよ。

アカシア:最初は、時間が前後してフラッシュバックしているのでわかりにくかったんですけど、2度目に読んだら、ロードレーサーに乗りながらいろいろ思い出しているという設定もわかって、この作者はうまいと思いました。第1話の男の子の描き方はともかく、この第2話は、おとうさんのかっこ悪さがよく書けていると思います。宿題を自信たっぷりのおとうさんにやってもらったら全部間違ってたとか、すぐゲップをするとか、しわくちゃのTシャツに着古したジャージという格好とか、かっこ悪いですよ。p96の「『おかあさんはな、ほかにすきなひとがいるらしい』おとうさんがそう言ったとき、あたしはおとうさんってほんとうにばかだ、とおもった。なにを言ってるんだろう、とおもった」も、細かく書き込みはしないけれど、行間からいろんな想像ができるじゃないですか。p93には「おかあさんはなにかすごいものがじぶんの前にある、という手つきでサドルを一度だけゆっくりなでた。/でもどうでもいいわ。/そんな顔をしていた」も情景が浮かんできます。冒頭のトラックの運転手さんとのやりとりとか、テーブルの上のふきんが四角くたたまれていたことからお母さんが来たのを主人公が感じるところにしても、この作品には、ゲーム的ファンタジーにはない細部の描写がちゃんとあります。しかも書き込みすぎていないのがいい。一つだけ残念なのは、中学生くらいの男の子って、「キス」っていう言葉が書名にあると、恥ずかしくて本が買えないんですって。本当にそうらしいの。

小麦:「嘘っぽい」という意見が出ていましたが、私もそれは感じました。この作家はとても器用な方なんだと思います。言葉は悪いけれど、こう書いたらこうなる、ここでこうしたら読者を引き込める、といったことが明確にわかっている。それを書きながら自分でうまくコントロールできるんだと思います。よく剪定された優れた作品だとは思うけど、剪定されすぎて印象に残りにくいという気がします。文中では、中学生の女の子が語り手におかれてますけど、私は「成長して大人になった主人公が、自分の大切な物語を思い出すように書いた」というスタンスでこの作品を読みました。成長して、時を経るにつれ、実際のなまなましさや嫌悪感なんかがうまく濾過されて、この物語が残ったというような。かといって大げさにならず、淡々と文章を紡ぐ感じは、清々しくて好きでした。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年10月の記録)


おわりの雪

ユベール・マンガレリ『おわりの雪』
『おわりの雪』
原題:LA DERNIERE NEIGE by Hubert Mingarelli 2000
ユベール・マンガレリ/著 田久保麻理/訳
白水社
2004

オビ語録:「トビを買いたいと思ったのは、雪がたくさんふった年のことだ。そう、ぼくは、その鳥がどうしてもほしかった」

アカシア:文学としては、すごくおもしろいし、好きな本です。トビにいろいろなイメージを重ね合わせているところも、おもしろかった。ただ、子どもの本だとすると、ものたりないところがありますね。山に連れていって、わざわざはぐれるようにした犬は、その後どうなったのか、子どもの読者ならとても気になるはずです。

カーコ:原著はYA向けに出されているんですよね。トビの使い方が印象的。少年がトビに魅せられていくようすや、冬の寒々とした光景など、イメージが鮮明でした。でも、ストーリーは、わからないところはわからないまま、読んでいかなければならない感じで居心地が悪かった。たとえば、犬を山に置き去りにした後、養老院に行ったときの、オルグマンが拒否する反応が、よくわかりませんでした。お父さんとのやりとりも、どういう気持ちなのかわからないところがあります。

アカシア:私はそこがすごくうまく書けてると思ったけど。オルグマンが繊細な人だから、少年の言い訳を聞きたくないんじゃないかしら。「悲しいような苦しいような、なんともいえない表情」をしていたと書いてあるし。自分がその仕事をしなくてはいけなかったのを、少年に肩代わりさせたことの良心の呵責もあるだろうし。ただ126ページの「なんてこった」という台詞で、そのあたりが伝わるかどうかは難しいところですね。

カーコ:生きていきながら手を染めていく罪や、喪失感が底辺に流れていて、自分が今いるのとは違う場所に連れていってくれる作品。本のつくりからすると、日本の中高校生が手にするとは思えません。

紙魚:父と息子って、言葉でわざわざあらわさなくても、目線とか仕草とか、それまでの人生とか、いろいろなところでお互いに感じ合っている。それがそのまま文章で表現されていて、少ない会話と豊かな地の文から、その関係性がじわじわと伝わってきた。人と人の関係性を、会話だけで表現しようとしていなくて、むしろ、言葉以外の部分であたたかいものを授受し合っているのが伝わってくる物語。いい本でした。

アカシア:カーコさんが言ってた、お父さんとのやりとりでわからない部分というのは、どのあたりなの?

カーコ:やりとりがわからないというよりは、説明がないから、どういうシチュエーションでその言葉が発せられたかを、想像で補いながら読まなければならない。

アカシア:説明しないで読者に読み取ってもらいたいというあたりは、ほかの児童文学作品にはあまりないですよね。わざと読者との間に距離をおいている。だからこそ、しっくりとくるという読者も逆にいるでしょうし。シチュエーションや全体を流れる哀感は、『夜の鳥』(トールモー・ハウゲン著 山口卓文訳 河出書房新社)に似てますね。

ハマグリ:そうね。病気の父親をもつ少年の不安を描いている点で、私も『夜の鳥』と似ていると思ったわ。張りつめた緊迫感がよく描かれている。でも『夜の鳥』のほうが、たんすの中に鳥がいっぱいいる、というような具体的な形で少年の不安をあらわしているので、より児童文学的かも。『おわりの雪』では、犬を殺すことにどうしてこんなに関わるのかな、と思ったけど、最後まで読むと、この子のなかに常に「死」があったんだなとわかりました。この少年の、自分でも整理できないような心のひだを書いていて、夜眠れないときにぽたぽたと水がたれるところなんかも、うまく心理を表していると思う。こういうのを文学っていうのかな。140ページの「みじかい沈黙があった。〜〜ゆるしてくれ」がこの物語の山場よね。

アカシア:お父さんが自分の死を覚悟していたこと、お父さんが覚悟していたことを少年が知ってあわてるようすが、この短い部分に凝縮されてるのね。

ハマグリ:犬を捨てにいくとき、雪のなかを一歩一歩あるいて行くのをえんえんと書いていたわけが、これがあるからわかったの。

むう:この本は、子どもの本ではないと思うけれど、おもしろく読みました。筋で読む本じゃないので、とととっと走り読みができない。読む側も、ていねいに作品の世界につきあわなくてはいけないんだなあと、久しぶりにじっくり読んだ本です。とても静かな印象で、出てくるのも、「命を奪う」こととか「老い」であるとか「死」であるとか「囚われのトビ」とか、全体に沈んでいるんだけど、微妙なところがていねいに書いてあって響いてくる気がしました。「トビ」には、主人公やその父親の自由への渇望のようなものが投影されているようにも感じました。格言というわけではないのだけれど、25ページで「つらいのとはちょっとちがうんだ」と主人公が言うのに対して父親が「むかし父さんも、あることを経験した。ふつうならつらいと感じるようなことだったが、おれはそうは感じなかった。だがそのかわり、自分は独りだと、これ以上ないほど独りきりだと感じたんだ…」と答えるところがあって、しかもそれが決して浮いた感じになっていない。独特の雰囲気があると思いました。たとえば、犬の遠吠えをぶったぎる、といったイメージにしても、なにかあっと思わせられるところがたくさん重なっている作品。つねに「死」がそばにある感じでありながら、トビを買おうという主人公の姿勢には、生きていくという姿勢が感じられて、でもそれが解放されきるわけでもなくという微妙な感じがあとに余韻を残します。さまざまな人との会話が直球のやりとりというのとは違って、自分の思いを口にすると、相手はそれに触発されてまた自分の思いを口にし、といった進み方なのも、独特な感じです。長靴が光ったりとかいった物の描写で心象風景を表しているのもおもしろかった。

雨蛙:薦められることが多くて2回読みました。前回も今回も、いい作品なのだろうと思いましたが、読み進めるのがつらかった。父親の「死」が近いことが、実はどこかでわかっているのに、直接はだれも語らない。でも、主人公のとる行動や、父親との会話のなかにはつねにそのことがにじみ出ているからだと思います。つらかったけれど、忘れることのできない作品であることもたしかで、私も、YAとして出しても十分共感を得られると感じました。日本版のつくりは大人向けですが、子どもたちが手にとりたくなるような工夫がほしかったです。

:文学性の高い作品だなあと思いました。現実世界に密着した話で、欲しいんだけど買えないとか、父親が病気だとか、虚無感とか、現実の厳しさが表れています。物事がうまくいかない生活の質感がよく出ている。とぎすまされた文章というか、飾り気がないのがこの人の持ち味。猫を殺したりという、美しくも楽しくもない、目に見えない雰囲気を描き出すのがうまい。私は甘ちゃんというか、子どもっぽいところがあるので、こういう暗い話は苦手なんですけど、一気に読みました。父と子の幸福な絆に支えられているところに救いがあるからだと思います。ただ悲しくてつらいだけじゃない。出てくる大人が、トビを売る人は別だけど、信頼できる人たちなのもいい。ひとつだけ気になったのは、お母さんの仕事のこと。お母さんは夜の商売をしてたのかな? ハッピーエンドの児童書ばかりを読んでいてこれを読むと、大人の世界に入ったなあと思えるでしょうね。自分の経験から言うと、十代の頃に『異邦人』を読んだときみたいな印象です。

ハマグリ:この作品では随所に「似ている」という言葉が出てきて、それに傍点が振ってありますよね。たとえば18ページでは「あのころぼくが語った話は『ほんとうの話』の影とか鏡像のようなものだった、つまり、『ほんとうの話』とよく似たなにかだった」26ページでは「それはぼくの手の影というより、いろんな動物、なにか奇妙な物体がうごめくのに似ているようだった」86ページ「ひとつの丘に似ているたくさんの丘」108ページ「その部屋は、すこし、星の夜空に似ていた」最後も「そのときぼくは、まあたらしい長靴をみつめるひとに、似ていた」というふうにね。これは、どういうことなの?

アカシア:現実を直視しない、というか直視できない状態をあらわしているんじゃないかしら? お父さんがまもなく死ぬっていうことも、知ってはいてもお父さんも息子も口には出さない。お母さんが生活費をかせぐのに夜の仕事をしていることも、口に出しては誰も言わない。それが嫌だと思っても、ドアが閉まる音と自動消灯スイッチの音が聞こえるのが嫌だというふうにしか言えない。それと同じで、つらい現実からいつでも少しずれたところを見ている、ということをあらわしているんじゃないかな。

むう:この本を読み終わった後々まで余韻が残って、そのなかで「死」というものをずいぶん考えさせられたような気がします。別にこの本が声高に「死」について語っているわけではないのに。ひとつ特徴的な気がしたのは、この本には、「死」と正対する姿はいっさい出てこないということ。養老院でおばあさんが死んだときも、みんなそのことがなかったように日常を続けようとしていたり。でもその描写から逆に、とても受け止めきれないような大きなものとしての「死」の重さがあぶり出されている。直接書かないことによって、重さを出している。

ハマグリ:最後もそうよね。長靴をぴかぴかにみがくんだけど、それを見ないでいる。二重的に見ているということなのかしら。

アカシア:うまく言えないけど、おもてに出ているのは自分が長靴を見ている姿なんだけど、第三者の目で見ると、そんなふうにも見えるとしか言えない自分がいる。

カーコ:トビも、すごく象徴的に使われていますよね。前半はトビが捕らえられるシーン、後半はトビが肉を食べるようすが執拗に繰り返されるのが、生命線みたい。トビが野性や命の象徴みたいに。

うさぎ:私は、登場人物の年齢とか、具体的な設定がわからなくて、入っていきづらかったんです。物語全体に色がないというか、生活感がない。グレーな部分だけが表されていますよね。それが文学作品ということなのかもしれないけど。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年9月の記録)


ほんとうの空色

ベーラ・バラージュ『ほんとうの空色』
『ほんとうの空色』
原題:AZ IGAZI EGSZINKEK by Balazs Bela, 1925
バラージュ・ベラ/著 徳永康元/訳
岩波少年文庫
2001

版元語録:貧しい母親と2人暮らしの少年フェルコーは絵が得意だが、絵具を持っていない。ある日、野原の花のしるで青い絵具をつくり、空を描いた少年は、つぎつぎと不思議な出来事にめぐりあう。少年の淡い恋を描く、みずみずしいハンガリーの名作。

むう:なんか、懐かしい気がした。昔、こういう本があったなあと思わせる雰囲気があります。ある種、古きよき子どもの本だと思う。シルクハットのなかで雨が降る話とか、主人公が聖人になりすますところとか、子どものころに読んだらおもしろがったはず。ただ、最初のところで、主人公が意地悪な金持ちの息子とかんたんに仲間になったのには、あれ?と思いました。そんなにすんなり仲間になっていいのか?、もっといろいろあるだろう、という感じで、そこは物足りなかったな。訳は古いと思います。

雨蛙:私も好きな作品で、最初読んだときに、こんな絵の具があったらいいなと思って、だんだん絵の具がなくなっていくのにハラハラ。結局、「空色」はズボンについたしみだけになってしまう。女の子に言われてそのズボンも手離してしまうけれど、その子の瞳のなかに「空色」を見つけるというのが、うん、いいなあ。だいぶ前に書かれた作品なので、女の子の会話の文体とか、母と子の関係とか、今の子たちは違和感を覚えるところもたしかにあるけれど、いっしょになって空想を楽しめるおおらかさがある作品。青い鳥文庫版の解説を今江祥智さんがつけているんですが、今読むと、ちょっと語りすぎかなって思います。

:この作品は、いつまでも心の隅に残っていそう。強烈な印象はなかったのですが、それは自分がすれてしまったせいかと、物悲しく思いました。子どもの本は大人が読んでもすばらしいと言われますが、これは子どものころに読んでおきたかった作品。最後に、少年が大事な絵の具をなくす瞬間が、肩透かしをくらった感じでした。

アカシア:映像的で、箱の中の夜空といったイメージもきれい。でも、映像なら自分で想像する余地が少ないので問題にならないかもしれないけど、文章で読むとこっちも細かく想像していくわけだから、あれっと思うところもありました。たとえば主人公のフェルコーが箱の中に隠れていると箱を探しにきて持って行ってしまう人たちが出てきます。そして持っていった箱を全部燃やそうとする。この人たちは何がしたかったんでしょう? わざわざ薪にするためだけに箱を集めていたとは考えにくいし…。私は物語中のリアリティを求めるほうなので、こういう所は気になりました。それに、主人公は空色の絵の具の作り方がわかっているのに、だんだんなくなっていくことを悲しんでいるだけで、作ろうとはしない。一度だけ試みてうまくいかなかったら、もうあきらめている。今の子どもだったら、もっと作ればいいじゃない、と思うんじゃないかしら。それから103ページに「紳士は耳にわたをつめていたので、ツィンツのことばがきこえませんでした」とありますけど、この紳士はどうして耳に綿をつめていたのか、知りたくなります。
今、日本だと、フェルコーほど貧乏な子どもはなかなかいないから、貧乏物語の部分は絵空事になってしまいそうですね。ダールの『チョコレート工場の秘密』には極端に貧乏な少年が登場しますが、あれはパロディー。今では貧乏物語はノスタルジックな世界になってしまっているかも。

カーコ:子どもがおもしろがって読める作品だなと思いました。どの場面も明るい色彩が感じられて好きな作品でした。絵の具をなくしてドキドキするところや、チョコレートボンボンを隠しておいてちょっとずつ食べるところなど、読者が共感できそうです。確かに、先生のシルクハットの中では雷が鳴っているのに、フェルコーの箱の空は大丈夫など、あれっと思うところもあるけれど、ほんとうの空色の絵の具は、ドラえもんのポケットみたいに魅力的。聖者のふりをしたり、もらってきたものをお母さんに渡すのに一工夫したり、この子はちゃっかりしたところもあっておもしろかったです。

紙魚:『おわりの雪』の主人公がどうしてもトビが欲しかった気持ちって、わかりますよね。大人になってから見るとどうでもいいものでも、子どものときって、異常なほどこだわりとか執着心をもっていたりしました。ほんとうの空色の絵の具もそうで、そういう気持ちを作者が忘れずに書いているところがよかったです。ただ、ところどころのアイディアに、どうしてそうなっているのかという裏付けがなくて、今の子どもたちがどう読んでいくのかは疑問。正直なところ「愛あふれる悪気ないご都合主義」という感じがしました。

ハマグリ:最近人にすすめられて読み、とてもおもしろかった本。母と二人暮らしの貧しい子どもがいる→窮地に陥る→魔法の力のあるアイテムをゲットする→謎めいた人物に助けられる→不思議なことが次々に起こる、というように、まるで昔話のような構成で、「おはなし」を読む楽しさを味わえます。夜になると筒状に巻いた紙の内側から光がもれてきたというような、美しい場面も印象に残ります。この本は、「子どもの頃に読んで忘れられないのだが、書名を忘れたので調べてほしい」という質問が図書館に寄せられることがとても多かったんですって。子ども心に残るシーンが多いからでしょうね。その昔「5年の学習」の付録冊子にもこの話が入っていたらしいのね。60年代、70年代に東京創元社、講談社から文学全集の1編として出て、1980年に講談社青い鳥文庫、2001年に岩波少年文庫に収録されたという経緯。復刊ドットコムでも票を獲得していたようです。岩波少年文庫では対象年齢を小学4・5年以上としていますけど、物語の内容からいうと、少し下げたほうがいいかもしれませんね。

アカシア:5年生だと、もっと現実的なものに目が向いてしまうから、難しいですよね。矢車草からほんとうの空色の絵の具をつくるというのも、男の子ならそっぽを向きそう。

紙魚:『ほんとうの空色』というタイトルはすごくいいですよね。タイトルだけでぐっとひきつけられる。

うさぎ:子どものときに読んだ風景と、大人になって読む風景ってちがうんじゃないかと思うんですね。シュールな終わり方がいいのかなと思ったんだけど、子どもの頃はもっとちがうふうに読んでいたのかもしれない。お話としてはおもしろく読めたんですが、インパクトがないというか、ご都合主義的でうまく助けが来てハッピーエンドで終わっているのには、こんなんでいいのかなと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年9月の記録)


なまくら

吉橋通夫『なまくら』
『なまくら』
吉橋通夫/作
講談社
2005

版元語録:江戸から明治へ、変わりゆく時代の節目、華やかな京の路地裏にたたずむ、7人の少年たち。明日への迷いを抱えつつも、"生きる"ために必死でもがく彼らの青春を描く。時代短編小説。

ハマグリ:新しく出た短編集ね。どれも江戸時代末期から明治にかけて、少年から大人になっていく途中の少年が主人公になってます。短編として最初からぐっとひきつけるものがあり、おもしろく読めました。話の展開もわかりやすい。挿し絵もたくさんあって、理解を助けています。今の子って、江戸時代の話なんか読むのかなとも思うんだけど、ここに出てくる子たちって、時代は違えども今の子どもたちと同じだと思うのね。何が出来るわけでもない、親も目標にはならない、なんとか今の状況を抜け出したいんだけど、何を選んでいけばいいのかわからないというところに立たされている。心情に接点があるだけに、かえって時代を変えたほうが照れずに読める、ということもあるのではないかしら。ただ、どれも似ているので、途中でちょっと飽きる。まあ全部読まなくても、おもしろそうな話をつまみぐいすればいいわけですけど。

紙魚:時代小説のような外観なので、もしかしたら大人の小説? と思わせられますが、やっぱり中身は、子どもの目線にきちんと寄り添っている。抱えている悩みや問題に、きちんとつきあおうとしている作者の姿勢がとてもいいと思います。それから、たとえば中学生くらいの人がこれを読み終えたら、ああ、これまでとはちがった小説を読めたなあという達成感も持てそう。時代小説も読んでみようかな、なんて気になりそうなので、時代小説の入り口にもなって、その後の読書の世界を広げる本になるのではと思います。

カーコ:文学的ではなく、エンターテイメント的な書き方だと思いました。テーマは、今で言う落ちこぼれ。自分ではなかなか何かをやりとおせない少年に、どこかであきらめず見守ってくれる大人がいる。4篇目の「チョボイチ」までで読むのをやめちゃったんですけど。こういうことって、今の中学生・高校生が抱えている問題だと思うので、ふと手にとって読むとおもしろく読めそうです。ただ、短編だから、ある瞬間をぴっと切り取っておしまい。「やっぱりがんばろう」と思うところで終わる良さはあるでしょうけれど、一方で、そこから先の山あり谷ありを描いたものが読みたくなりました。27ページのハモを届けたるシーンで、主人公が「なさけのうて」というセリフは、この子がこんなこと言うかなと、とってつけたような違和感を感じました。

アカシア:私は最初からエンターテイメントと思って読んだせいもあるけど、すごくおもしろかった。同じような問題を抱えている男の子って現代でもいっぱいいると思うんだけど、この物語は時代が昔で、しかも標準語じゃないから、逆に楽しく読めるんじゃないかな。短編ならではのぴりっとしたところもあり、ドラマもあり、読める作品にしあがってますね。私は、「灰買い」という商売だとか、砥石山のようすとか、細かいところもおもしろかった。短編ごとに主人公は違うけど、挿し絵はどれも同じように見えますね。わざとなのかな? このシリーズは、あまり本を読まない子でも読んでほしいというシリーズだと思うんですけど、この作品はそういう読者にぴったりなのでは?

うさぎ:心地よく読めました。汗っぽくてベタっぽいけれど、それでもいい。挿し絵だけ見ると、一人の少年のいろんな話かと思いますが、ちがうんですね。

:すいません。私、辛口です。『鉄道員』みたいな、しかけられてしまった感じ。安物の人情映画をたてつづけに見せられた感じ。私は子どもに対してサービスしすぎず、できるだけ等身大で生きている大人になりたいと思っていて、すぐに伝わらない部分があっても嘘なく表現したいと思っているので、こういうわかりやすいというか、安易な感動はちょっと嫌なんです。でも、150〜200年前までは、発展途上国と同じような状況にいるようなこういう子どもたちが日本にもいたんだなあと、ハッとしました。ただ、子どもに対してはわかりやすいものばかりではなくてもいいのでは、とあらたに思いました。

雨蛙:時代小説好きのおじさんの一人として、ひかれる本だなあと思いました。お話ひとつひとつは、児童文学。だけど、児童文学にはなじみがなくても、時代小説をよく読むおじさんも抵抗なく入れるし、読めば、子どもに勧めたくなる。口下手なお父さんが息子に「ほら、読んで見ろ」と渡せる本。短編集だし表紙や造りからはかたさを感じないので、渡された子も、興味がなくても、一編二編は読んでみるのではないかと思います。短編としてのトリッキーなところはないけれど、これはこれであり。最初から最後まで、子どもたちへくり返してエールを送っている本なのだと思った。道徳的なにおいがしなくもないですけど、時代小説風にすることで、こういうストレートなエールも、子どもたちから敬遠されることなく、手にとりやすくしているという点で成功している。たしかに、何篇か読んでいくと、また同じような展開かという印象があるけれど、エールのあたえ方にバラエティを持たせれば、もっとずんずん引き込まれる。この話のなかに出てくるような大人が今はいないのかな。

紙魚:時代小説好きの大人でも、いいねえと言ってくれる本ですよね。

むう:とても読みやすくておもしろく、テンポよく楽しめた。でも、読み終わってみると、なんだか道徳の本みたいだと思った。いろいろと素直になれない男の子がいて、それがようしがんばるぞと思い直すという設定自体は、今の男の子に通じるところもあるし、悪くない。いかんせん、全部同じような印象になっているのが難点。もっと変化をつけてほしい。男の子が、成長の過程で先が見えなくて、まわり見てもいろいろとうまくいかなくてといった部分をとりあげるのは大賛成。でもね、と思う。がんばるぞ、の後のほうがもっと大変なわけで、短編でそこまで書くのは無理なのかもしれない。それにしても、七つの作品のうちのたとえば二、三個が違う形になっていれば、こんなに全体の印象が道徳臭くならないのではと感じた。もともと男の子の成長とか父と息子の関係を書いた作品には大いに興味がある上に、この著者の作品は読ませるテンポがいいし楽しめた分、全体の印象の平板さが残念。

アカシア:主人公の年齢はどれも13〜14歳で、名前も夏吉、矢吉、半吉、風吉、長吉、ドジ吉(正吉)なのよね。意図的に同じような作品をそろえたんじゃないのかな。

むう:結末を悲劇にしろとか、そういうことじゃないんです。でも、七つ全部が基本骨格が同じというのは、やはり単調になる。構成に変化をつけるための作品というのが、あってもよかったんじゃないか。そのほうが本全体としてのインパクトが増したんじゃないかと思う。

アカシア:主人公を助けてくれる人っていうのは、短編ごとにそれぞれちがうんですよね。そのあたりは変化がありますよ。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年9月の記録)


つる姫

阿久根治子『つる姫』
『つる姫』
阿久根治子/著 瀬川康男/絵
福音館書店
1972/2004

オビ語録:三島水軍の美しい姫をめぐる一大歴史ロマン/瀬戸内海の大三島を拠点とする水軍の長の美しい娘は、女の身ながら戦へとかりだされていく運命だった…。史実に基づいた悲恋の物語。

トチ:最初に夢のお告げが出てきたり、美しい着物の描写が出てきたり、どんな風に展開して行くのかとわくわくしながら読みだしたのですが、いつまでたってもつる姫がどんなに優れた、男勝りの少女かということばかりで、いっこうに面白くならない。もう読むのをやめようかなと思ったら、4分の3あたりで、やっと戦いが始まった。ところが、それまでのつる姫は弓や剣道の修行をした、普通のお姫さまとは違う存在だったのに、恋をし結婚をするとなると、もう戦いなどどこへやら、ふにゃふにゃの女になってしまう。中学か高校のとき、上級生に「いくら能力のある女の子でも、恋をすると、とたんに詰まらない女になってしまうから、十代のころには男に近づかないほうがいい……」などと、したり顔で言われたのを思い出して、この本はそういうことを書いているのかな、まさかね……などと思ってしまいました。
そして、結婚相手の少年は自爆するわけだけど、自分たちの国を守るとか、民草を守るとかいうより、ひたすら「つる姫を守りたい」一心なのね(国のために自爆するのも危ない考え方だけど!)。戦いっていうものをどう考えているのか、そのために踏みにじられる庶民のことはどう思っているのか、そのへんの目配り、気配りがまったく無いのも気になりました。
けっきょく、作者は何を書きたかったのかな? 何を子どもたちに伝えたかったのかしらね? 悲恋物ってことはわかるけど。名所旧跡に行くと、よく「ここはナントカ姫が身を投げた淵です」なんて由来を書いたパンフレットがあるでしょう? そんな感じでした。

ハマグリ:面白く読みました。どういうところが面白かったのかというと、このなんとも大仰な文体や、手に手をとった二人の瞳がきらきら、みたいな書き方ね。今子どもたちの読むものは似たようなものが多くなっているけど、たまにはこんな毛色の変わったものを読むのもいいんじゃないかしら。両親がかわいらしい姫として育てようとしているのに、馬にも乗りたい、剣も使いたい、戦にも出たいと、何でも兄さんたちと同じようにしたいという気持ちは、読者の共感を呼ぶわね。でも、最後は愛する人の後を追って死ぬ、というところ、今の子はどう思うんでしょうね? 愛する人を守って自分を犠牲にする明成の死に方や、悲しみのなか婚礼衣装を用意して独り海に向かう姫、というのはどうなんでしょう?

トチ:大人の時代物の書き方よね。

ハマグリ:昔は分厚くて、図書館の棚に鎮座ましましていたような本だったわね。福音館文庫で復活して、手に取りやすくなったけれど。

カーコ:最初は、明るく積極的で好奇心に満ちたつる姫が描かれていて、しかもその子がいつか重大な役目を担いそうだというのが父親の夢に出てくるので、どうなるのだろうという気持ちで読みました。でも、終わり方が古くさい。途中、一人で母親のもとに戻ったときも、明成と再会したときも非常に冷静なつる姫が、どうして最後、命を絶ってしまうのか、しっくりきませんでした。お涙ちょうだいの昔の恋愛小説みたいで、こういう終わり方にしようとするところに、時代がかかったものを感じました。また、これは初版と同じ絵なのでしょうけれど、この挿絵は、物語を理解する助けになっていないと思いました。『狐笛のかなた』(上橋菜穂子作 理論社)の絵が、作品のイメージをふくらませてくれていたのと比べてしまって。223ページの絵をはじめ、人物がお人形みたいで、見てわくわくする感じがないのが残念でした。

トチ:絵巻物ふうなのね。どれも同じ絵に見えてしまって、とばしてしまったわ。

すあま:子どものころ読んだという友達が「ずっと読み直したいと思って探していた」と話していたので、そんなに印象に残る物語なのかと気になっていました。題名は地味だけれど、それなりに面白かった。今の子も、古代ファンタジーを読んでいるので、日本の歴史を題材ににしたものも読めるはず。こういう本があれば、歴史にも興味を持つし、昔も自分たちと同じような女の子がいたんだなと共感を持てるんじゃないかな。物語としては、つるちゃんがとてもよい子で、非のうちどころがないのが物足りない。誕生の時には神様の化身のような描かれ方をしていたので、最後は神様になるのか、つる姫の方が殉職して明成が残るのか、と思ったけど違いましたね。最後、つる姫が死んでしまったのがわからなかった。

うさぎ:「史実に基づいた歴史ロマン」とあったので、楽しみにして読んだんです。最初のほうで、つる姫のお父さんが夢を見るというのがあって、つる姫の運命はさあどうなるかと読み進めていくのだけれど、なかなか何も始まらない。ようやく物語が動き出しても、明成の自爆から最後のところまでは大きな疑問が残りました。お父さんの夢の暗示のように、つる姫は神格化して竜神にでもなって何か起こすかと思っていたら、明成の自爆があってから、ものすごくふつうの人間というか、それまでの男勝りは跡形もなくなり、妙に女くさくなって終わってしまった。最後、死んだのがわかって、物語がますます尻すぼみになった印象。悲恋の定石みたいなのを時代ロマンというんでしょうか? 史実にひっぱられてこういう形でまとまったのでしょうか?

アカシア:竜神のエピソードは何で出てくるのかしら?

うさぎ:作者が何を書きたかったのかと、意味づけをしようとしたけれど、しっくりきませんでした。

アカシア:時代は戦国時代で、つる姫が男の子と同じことをしたいっていうキャラなので、どんなふうに社会との軋轢が描かれるのかな、つる姫の勇ましさはどこまで受け入れられるのかな、という点に惹かれて読んでいきました。それなりに面白くは読んだんですけど、最後が死の美学を提示するような形になっているのは問題よね。それに202ページではつる姫が実戦のむごたらしさを初めて目にして「目の前にするたたかいとは、なんとむごいものか。おそろしいものか。/城できく、たたかいの話の勇ましさ、はなばなしさは、うそじゃ、うそじゃ、うそじゃ。/つるは、知らなんだ。/ほんとうのたたかいを、知らなんだ」と言い、206ページには(どんなことがあろうと、罪もないひとびとを、たたかいから守らねばならぬ。/たたかいとは、決して会ってはならぬ物じゃ。ならぬ物じゃ。)と、胸の中で繰り返し叫ぶ、と書いてあります。でも、ここで「罪もないひとびと」と言うのは、味方のことだけなんですよね。つる姫が出陣して戦に勝利を収めると、今回は負けなかったのでむごたらしくならなくてよかった、よかったとなっている。味方さえ勝てば戦はむごたらしいものではなくなるんですか? と突っ込みたくなります。時代の制約を受けている主人公の心情としては仕方がないとしても、現代の人間である作者は、もう少し考えてほしいところです。作者の視点がご都合主義的なんでしょうか。

トチ:でも、時代物だから、今の価値観で書くと嘘っぽくなってしまう。そのへんの兼ね合いが難しいのよね。

アカシア:つる姫が、時代につぶされていくんならつぶされていくで、一貫した物語になるんでしょうけど、単に悲恋の主人公で終わらせてしまっているのが残念。小説のつもりで読んでいると、途中から講談になってしまう。いっそ、つる姫が最後竜神になるんなら、かっこよかったのにね。

ハマグリ:最後の海鈴が鳴るっていうのを、作者は書きたかったんじゃないの?

アカシア:美しく死んで終わりっていうのは、危険な思想よね。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年7月の記録)


ポリッセーナの冒険

ビアンカ・ピッツォルノ『ポリッセーナの冒険』
『ポリッセーナの冒険』
原題:POLISSENA DEL PORCELLO by Bianca Pitzorno, 1993
ビアンカ・ピッツォルノ/著 クェンティン・ブレイク/絵 長野徹/訳
徳間書店
2004

版元語録:ポリッセーナはお母さんから叱られるたびに「私はもらい子で、本当の両親は王様か貴族なんだわ…」と夢見る女の子。ある日、自分が本当にもらい子だと知って、実の両親を探す旅に出ますが…? 本を読む面白さがたっぷり味わえる、イタリアの冒険物語。国際アンデルセン賞受賞画家による、表情豊かな挿絵入り。

うさぎ:とっても楽しく読めました。物語が軽快でぐいぐい話にひきこまれました。物語の軸がしっかりしているからだろうなあと思います。自分が、この家の子ではないとわかりすぐに本当の親さがしの旅に家出をするというのが、リアリティがないかなと思ったけれど、読んでいくとそうでもない。ポリッセーナが家出したあと残された家族はどうしたのかとか気になりながら読み進めていったけど、途中からは面白さにのめりこんでいつの間にかそれも忘れてしまってた。構成がしっかりしていたからでしょう。訳文も素直で、へんに気取ったところもなく親しめました。女の子の個性が、二人ともしっかり描けていて好感を持てます。分厚い本ですが、読書好きな子は難なく読めてしまうでしょう。

すあま:楽しく読める本。あっけらかんとして、とにかく楽しく読めるお話はあまりないので、いいですね。主人公も、性格的にすごくいい子というわけでもなく、勝手に思い込んだり、完璧な性格でないのが面白かった。どんでん返しの楽しさがあるけど、何度も何度も繰り返されるので、読み手に根気がないと最後まで読み進むのがしんどくなるかも。クウェンティン・ブレイクの絵が物語に合っていてとてもいい。ただ、内容はやさしいのにかなり長いので、対象年齢が難しいかも。エピソードを減らしてもう少し短くてもよかったかな、と思いました。

カーコ:私も楽しく読めました。こういう素直なお話ってあんまりないので、いいですね。何回もどんでん返しがあるけれど、こじつけっぽいいやらしさがない。長さは確かに長いけれど、だからこそ、ハリーポッター・シリーズを読んで、こんな長い本が読めたと思っている子に、「じゃあ、これはどう?」って、次のお話として手渡してやりたいですね。「こんな楽しいお話もあるんだぞ」って。

ハマグリ:お話の楽しさを手軽に味わえますよね。こんなに厚いと、なかなか気軽に勧められないけれど、この本だったら安心して面白いよ、と手渡せる。できごとが次々に起こるし、「実はお姫様でした」といった昔話のような面白さもある。昔話は短いけど、これは読んでも読んでも終わらない。そういうのを読みたい子もいるんですよね。大人が読めば、すぐに先がわかってしまうようなところもあるけれど、そうとわかっていても、お話の楽しさを味わえる本だと思う。

トチ:私もとても面白かった。大好きになりました。たしかに長いけれど、私もカーコさんと同じように「ハリポタ」だって長いんだから、小学生だって読める子はたくさんいると思いました。子どもの読書の楽しみ方のうちには、厚い本を読み終えたという満足感もあると思うから、本好きの子どもにはこたえられない一冊なのでは?
感心したのは、作者が子どもの好きなものを実によく知っているということ。動物が芸をする旅まわりの一座とか、夜になってやっとたどりついた緑のふくろう亭を窓からのぞき見るシーンとか……子どもでなくても、楽しくてわくわくすることばかり。
それから、主人公のふたりの女の子のキャラクターが面白い。ポリッセーナは、最初は元気で賢い、読者の共感を呼ぶ少女だけど、旅を続けていくうちに旅芸人のルクレチアのほうがまっとうな考え方をするのを疎ましく思うようになったり、自分が王女さまかもしれないと思っていばってみせたり、軽はずみな言動をしてルクレチアにいさめられたりする。最初は裕福な家に育ったポリッセーナのほうが常識があって、ルクレチアよりずっとお姉さんのようだけど、とちゅうで立場が逆転する。単なるジェットコースター式の展開で読者をひきつけるのではなく、主人公たちの心の揺れや葛藤もしっかり書いていて、見事だと思いました。
お姫さまものということでいえば、ポリッセーナのほうは単純にお姫さまや貴族というものに憧れているけれど、ルクレチアのほうは「あんたはそんなに貴族になりたいの? あんたの育てのお母さんみたいにかしこくて、やさしいひとでも、貴族でなきゃだめなの?」というような意味のことをいって、ポリッセーナをたしなめる。子どもたちの大好きなお姫さまの話を書きながら、作者がちゃんと言いたいことを言っている。そのへんが『つる姫』とずいぶん違うと思ったわ。
それから子豚の名前だけど、「シロバナ」は「白花」なのかしら? それとも、「白鼻」?鼻のほうだったら、「ハナジロ」かなって……豚をかかえた女の子って設定は、とってもおもしろかったけど。

アカシア:豚をかかえた少女は、きっと「不思議の国のアリス」が下敷きになってるのよね。

トチ:ブレイクの絵がすばらしいわね。笑わないお姫様のイザベッラがついに笑うところなど、絵を見て思わず笑ってしまった。とっても描くのが難しいところだと思ったけれど、表情がすごくいいのよね。

アカシア:私も最初から最後まで面白く読みました。「ハリポタ」は、こんなにちゃんとキャラクターを書いてないしゲーム的だから、「ハリポタ」を読んだ子がこれも読めるかどうかは疑問だけど、こっちは本好きな子が楽しめて、じゅうぶん堪能できる。現実とお話の距離がうまくできていて、お話だけれど、でもありそうって思わせる距離がとてもいい。訳もとてもよかった。ブレイクの絵も動きがあっていいし、同じ絵がいろいろなところで使われてるのね。編集の人が手をかけてるのもわかりますね。

トチ:編集も見事だし、訳も素直でいい訳よね。読者に「素直な訳」と思わせるような訳文を書くのは、本当はとても難しいことだと思うんだけど。204ページの「日が暮れるすこし前に、宿屋が見えてきました。葉を落とした大きな木がまばらにそびえる丘の上に、一軒だけ立っているあの建物が、緑のふくろう亭にちがいありません。たくさんある煙突から(どの部屋にも煙突がついているのです)、冷たくすみきった空にむかって灰色の煙が立ちのぼっていました。まだ日は落ちきってはいないのに、窓ガラスのむこうにはすでに明かりがともっていました。」などというところ、なんでもないようだけど、美しい光景があざやかに目に浮かぶ、すばらしい訳だと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年7月の記録)


ドールの庭

パウル・ビーヘル『ドールの庭』
『ドールの庭』
原題:DE TUINEN VAN DORR by Paul Biegel, 1969
パウル・ビーヘル/著 野坂悦子/訳
早川書房
2005

版元語録:すべてが枯れはてたひっそりとした町に来た女の子。魔法で花に変えられた仲良しの男の子を救うため、秘密の庭を探しています。失われた都に来たお姫様の話。

ハマグリ:お姫様の本というので選んだのですが、コビトノアイが本当はお姫様だったというだけで、他の2冊にくらべて、お姫様の特徴は少なかったですね。私は『夜物語』に見られるような、この作家独特のおとぎ話的雰囲気が好きなんですが、これはまたちょっと違う雰囲気。枠物語になっていて、中にいくつもの扉があり、1つ1つ扉をあけてはちょっと楽しみ、あけては楽しみという形。それぞれの話のつながりが、最後まで読まないとよくわからないので、途中で飽きてしまう人もいるかも。誰に焦点をあてて読むのか、その話によって変わるので、ついていきにくいところもある。寓話みたいな感じですよね。その裏に何かがある、という。それが伝わりにくいから、だれにでも楽しめるわけではない。読み手を選ぶ本でしょう。面白いよ、と手軽に手渡せるものではないですね。

アカシア:文学としての構造は面白いんだろうなと思ったけれど、最後まで読ませる物語としての魅力は物足りなかったな。読者対象は、やっぱり高校生以上かしら。

ハマグリ:最初の、渡し守の小人の場面の雰囲気がとても魅力的で、引き込まれたけど、途中からだんだん変わってくる。

カーコ:構成がしっかりしている本だなと思ったのですが、正直言ってあまり好きになれませんでした。お話の中にお話がある、その意味が最後につながってくるというのは面白いのだけれど、枠に入った肝心のお話一つ一つが、あまり面白いと思えなかったんです。味わいがないというか。コビトノアイがいなくなったあとに、いつも道化がやってくるという、追いかけっこがひっぱってはくれるけれど、それだけでは読み進んでいかせる原動力として弱い。下品な歌があったり、魔法使いのおかしな言葉遣いがあったり、原書の読者はそれだけで笑えてしまいそうですが、日本の読者にはこのユーモアは伝わりにくそう。訳者は苦労したと思うのですが…。また、もう一つ気になったのは、善と悪の対立がはっきりしていること。「悪=魔法使い」という構図が最初から最後まで変わりません。主人公のコビトノアイの成長よりは、ドールの庭をめぐる出来事のとっぴさが中心の作品なので、そうなってしまったのでしょうけれど。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年7月の記録)


キララの海へ

竹下文子『キララの海へ』(黒ねこサンゴロウ2)
『キララの海へ』 (黒ねこサンゴロウ2)

竹下文子/著 鈴木まもる/絵
偕成社
1994

版元語録:うみねこ族を死の病から救うため、サンゴロウは特効薬のガラス貝をさがしに危険な海へと向かった。 *路傍の石幼少年文学賞・赤い鳥さし絵賞受賞

ハマグリ:サンゴロウのシリーズは10巻出ていて、図書館でも子どもたちに読まれているシリーズですね。最初が1994年に1−5巻、96年に6−10巻が出て刷も重ね、結構よく読まれています。1巻目は、ケンという男の子が語り手で、ネコと宝探しにいく話。サンゴロウの船をマリン号と命名したのは、1巻に出てくるケン。装丁とか挿絵の感じがよく、読みやすい組み方で、子どもが手にとりやすい本づくりにまず好感を持ちました。登場人物の紹介が1巻1巻出てくるのもいい。絵を書いているのが夫の鈴木まもるさんなので、息がぴったり合っている。1巻1巻起承転結がはっきりしていて読みやすいけれど、私としては、サンゴロウをかっこよく書きすぎかな、と。もうちょっとユーモラスな面を出してほしいなと思いました。例えば37ページの最初のところに「火をおこして魚を焼いて食べた」とあるけど、これ、すごくおかしいでしょう? だってネコなのに魚を焼いて食べるなんて。あとで、魚を干物にするところもある。でも、ひたすらかっこいい路線で、文章全体がまじめ。ネコが魚を焼いて食べるおかしさみたいな、ふふっと笑える部分を、ところどころにもっと出してほしいな、と、これは私の好みなんですが、思いました。

トチ:今回の選書の仕方がおもしろいなあと思ったのは、「黒ねこサンゴロウ」は、動物を人間と同じように書いている話、「天才コオロギ」は動物と人間の住み分けがしっかりできている話、「天才ネコモーリス」は住み分けができている世界なのに、不思議な力で動物と人間が対等になっている話……と、それぞれが違う動物の扱いをしているところです。「黒ねこサンゴロウ」は安心してすらすら読めますし、本のつくりも絵も、とてもいいですね。小学生が本当に楽しんで読めるシリーズだと思いました。おもしろかったのは、あとの翻訳もの2冊に比べて、非常にあっさりしていること。さっぱりしていて、こてこてしていない。たとえば「モーリス」では、ビッグラットの正体が最後にはわかるけれど、こちらの闇ネコは何者か分からない、怪しい存在。そこまでつきつめて書いてない。小学生向きだから、これで良いのかなとも思うけれど、「……魚を何びきかつった。なまえは知らないが、黄色いしまのある青い魚だ」などというところを読むと、なんの魚か教えてよ、って気になってします。作者が創造した魚でもいいから。『星とトランペット』という、いってみれば日本風の、安房直子風のファンタジーで出発した著者なので、終わり方もいかにもそれらしい終わり方だなあとおもいました。ところで、サンゴロウの住んでいる海と流れ着いた海はどういう位置関係なの? どんどん航海していくと、人間の世界にたどりつくって、そういう設定なの?

ハマグリ:あんまりきちっと書いていないんじゃないかしら。

驟雨:1巻に、日本の海岸に住んでいたウミネコ族が、追われて島に引っ越すというような話がありますね。

:全部読めていないんですけど、サンゴロウが「この島は見覚えがある」というのは、最後には解決していないの?

驟雨:1巻に、サンゴロウが男の子と一緒に船の設計図をとりにいくところが書かれてて、訪れたことがあるからでしょう。

きょん:シリーズ中この1冊しか読んでいないんですけど、すごく好きです。とても心地よい話。装丁もすてき。カバーをはずすと、別の絵が描いてある。読んでてびっくりしたのは、読後感が安房直子さんと似ているということ。不思議な浮遊感があって心地よい。あっさりしているというのは、確かにそうですね。ミリとのかかわりもそうだけど、要所要所で押さえている。「心の波」というのもいい。最後も、猫の世界と人間の世界の境目が漠然としていて、書き込んでいないのがいいですね。

カーコ:図書館に並んでいる背表紙を見ても、本の作りがとてもいいですね。何で今まで手にとらなかったのだろうと思いました。長さも、小学生が読みやすそうな長さで。この本の前に、竹下さんの『ドルフィンエクスプレス 流れ星レース』というのも読んだのだけれど、そちらは一つ一つの文章がさらに短くて、もっと勢いがあって、ストーリーがはっきりしていました。現代的な話題も盛り込んであって。でも、ネコだけの世界のファンタジーで、この本のような不思議さはなかったです。この本は、主人公の印象が強烈なので、ひっぱられて読めてしまう。あと、短い言葉で情景を表していくのがうまいと思いました。16ページの二章の冒頭の描写もそう。色とか匂いとかが、短い文章でくっきりと浮かび上がってくる。そういうところがあちこちにあって楽しめました。ストーリー的には、キララの海でガラス貝を採って、闇ネコにあって遭難するところで、うまく助かりすぎるのが、ちょっとひっかかりました。その辺を書き込まないのが、この作品なのでしょうけれど。

驟雨:安定した感じの本だと思いました。子どもの本ってこういう感じだなという典型のような、古典的というのか、そういう印象。そしてまた、こういう本がずっと受け入れられていく素地があるのが、子どもの本の世界なんだなあとも思いました。子どもの中に、今の過剰で過激なまでの刺激に反応していく部分と、こういうクラシックな世界に反応する部分があるんだろうなあ、と思いました。

:本作りはとてもいいし、ていねいに書かれてます。でも、なぜって考えると、わからないことがありました。カバー袖に「記憶をなくすサンゴロウ」って出てきますけど、記憶をどこまで失っているのか、よくわからない。ナギヒコ先生が、サンゴロウにたのむ理由も、こじつけっぽいですね。

ケロ:なぜでしょう? この作品の場合、いろいろ想像で補いながら読んでるところがありますね。今のところも、ナギヒコ先生に救われたという過去がきっとあって、恩義を感じているのかなとなぜか納得してました。

ブラックペッパー:手にとったとき、ネコが服を着ているので、こういうのって下手すると甘くなりやすいのよねって思ったけれど、この本はそれなりのリアリティがあって、楽しく好きな世界でした。ミリの夢が、鳥になりたいというのが、むむむ。

小麦:すごく人気のあるシリーズなので、存在自体は知っていたんですが、今まで手にする機会がなく、今回初めて読みました。装丁や造本などが、よく子どもの事をよく考えているなという感じ。手に持った感じなんかも好きでした。お話自体は、ほどよく事件があって、ほどよくドキドキして、最後にはうまく収まるという、どちらかといえば平易なものだけれど、この「ほどよさ」が、今の時代にあって、かえって支持されるのではないかなと思いました。子どもたちが暮らす現実は、インターネットやメールなんかが、びゅんびゅんと加速度的に進化するせわしない世界なんだけど、この本の中では、ずっと同じゆるかやな時間が流れている。この本を開けば、いつでもサンゴロウの世界に戻っていけるという意味で、子どもたちも安心して読める本なんじゃないかな、と思いました。

アカシア:「ドルフィンエキスプレス」のほうは、鈴木さんの挿絵もはっきりしてますけど、こっちはもっとぼやっと描いている。それが雰囲気をつくってますね。安心して読めるのもいい。最後は、サンゴロウがサンゴの鳥をお店から買って空を飛ばす、という終わり方ですが、ちょっと腑に落ちなくて、もっと違う終わり方があったんじゃないかな、と思いました。同じファンタジーでも、欧米の作家は立体的に世界を構築していくところがあるけど、日本の作家はイメージにひっぱられて雰囲気をつくっていく、という感じがします。だから、あっさりしてもいるし、下手すると矛盾が出てぐずぐずになってしまう。この作品はぐずぐずにならずにおさまってますけど。

小麦:サンゴロウの設定が、海の男という感じで、かっこいい。小学校の中学年くらいが読むと思うのだけれど、波があって、ほどよい感じ。

ケロ:1、2巻を読んだんですけど、1と2で登場人物や作品世界が違うので、びっくりしました。1で出てくる男の子とのことが、もっと読みたいなと思っていたから、とまどいました。ホテルが出てくるところで、ケンがまた出てくるのかと思ったけれど、そうでもなくて。いきあたりばったりなのか、最初からこういう形で構築して書いたのかどっちなのかなあ、と勘ぐりたくなったりして。よくも悪くも、明らかにならないところが多くて期待が裏切られる感じ。知りたいなと思う部分を、想像しながら読むのか、わからないままにするのか……。どっちがいいんでしょうね?

トチ:最後のサンゴの小鳥が飛んでいくところ、私もこれでいいのかなあって思っちゃった。伏線として、例えばサンゴ屋のおやじが大変な名人で、いままでにも彫った魚が泳ぎだしたとか、なんかそういうことが欲しいと思ったけど、どうなのかしら?

ケロ:「信じていい」で、飛べるかっていったら、人間にはやっぱり不可能ですしね。でも、サンゴロウのように、信じてついていけるキャラクターは、読んで気持ちが安定しますよね。今は、途中で主人公がブラックになったり、ひねったりしているのが多いので。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年6月の記録)


天才コオロギ ニューヨークへ

ジョージ・セルデン『天才コオロギ ニューヨークへ』
『天才コオロギ ニューヨークへ』
原題:THE CRICKET IN TIMES SQUARE, by George Selden, 1960
ジョージ・セルデン/著 ガース・ウィリアムズ/絵 吉田新一/訳
あすなろ書房
2004

版元語録:ニューヨークの街に魔法をかけたのは、田舎からやってきたちいさなコオロギ。アメリカ児童文学の傑作、待望の再刊! 映画化も決定。

ハマグリ:だーい好きな作品。最初に翻訳されたのが74年なので、なんと今から30年前。それなのに挿し絵の一枚一枚を印象的に覚えています。お話も好きで楽しめた。今回の新版は、訳文自体は変わってないけど、漢字が多くなっている。昔は3,4年生の読むシリーズだったけれど、今の3,4年生では読めなくなっているから、それなら5,6年生から中学生に向く体裁に、という意図でこうなったのかなと思います。でも、本当は3,4年生から読んでほしいですね。古きよき時代のアメリカの雰囲気があって、それがまたいい。ネコもネズミもコオロギも、キャラクターがきちっと描かれていますもんね。このあと動物ものは山ほど出ているけれど、これは傑作だと思う。

トチ:吉田新一さんの訳、あらためてうまいなあと思いました。はるか昔、小学生のころ、わくわくしながら物語を読んだ気分を、また味わうことができました。特に好きなのは、マリオがチャイナタウンに行くところ。おじぎを何度もするところや、部屋の様子や、お料理やお皿の描写とか……ああ、子どものころ、こういうところが好きだったなあと思い出しました。それから、ネコとネズミとコオロギが、マリオのために良かれと思ってしたことが、大変な結果になってしまう。子どもって、こういうことがよくあるわよね。この3匹の切ない気持ちが、子どもには身にしみてわかるんじゃないかしら。動物と人間の作品上の住み分けが見事にできている点も、すごいと思いました。視点がコロコロかわる話——マリオの視点、ネズミの視点というように——は、普通は難しいのでは?

:誰だったか詩人が、昆虫の鳴き声を楽しむというのは、日本人にしかない感性だと言ってたと思うんですけど、ここではコオロギの声をアメリカの人たちが喜んで聞く。そこが興味深かったですね。だからチャイナタウンで、サイ・フォンと出会いコオロギの物語を聞いたり、素敵な皇帝のコオロギのかごを手に入れる場面は、バランスが良いなぁと思いました。登場人物のどの視点になっても違和感がなくって、気持ちが良い作品。絵もぴったり。なんと品のいい作品なのでしょう。

カーコ:安心して読める作品でした。なぜこんなに安心できるのかなと考えたのですが、コオロギとネズミ、コオロギとネコ、男の子と周りの大人、どの関係を見ても、視線がとても暖かいんですね。また、3匹が引き起こす事件もおもしろいのだけれど、周りの大人もとても魅力的。最近の日本の作品は特に、大人の存在感が薄いものが多くて、子どもががんばったり苦しんでいる姿は出てきても、大人のステキな部分が出ていないことが多い。ところがこの作品では、スメドレーさんとか車掌のポールさんとか中国人のおじさんとか、大人がステキ。60ページ後ろから4行目で、スメドレーさんが「コオロギは、いちばんりっぱな先生にちゃんとついているんだよ、マリオ。自然の女神にね。……」という語り口を見ても、大人が子どもにきちんと向き合って話をしていると思いました。

驟雨:現代にはないような、ほんわりした世界ですね。アメリカがまだ夢と希望にあふれていた、挫折を知らない時代のお話だなあと思いました。それがいい意味で出ていて、おおらかで、作者の視線がやさしい。本当に安心して読める本ですね。チャイナタウンでちょっとエキゾチックだったり、主人公のコオロギやネズミやネコ、それにマリオの家族など、子どもを引きつける魅力がいっぱいある。それと、悪い人がひとりも出てこなくて、みんな一生懸命に生きているんですね。バブリーになってしまう前の堅実な雰囲気がある。ラストの、ネズミたちが「田舎にいってもいいよね」という終わり方もいいなあと思いました。

:今回あらためてきちんと読みました。挿絵も、特にマリオのお母さんの表情がいいですね。少年マリオと大人のかかわりが、きちんと書かれているので、読んでいて気持ちがよかった。

ブラックペッパー:読んで楽しい本というのは、こういう本だよなと思います。古きよき時代。人々も動物も生き生きしていて、ユーモアもあって。お互いに思いやりがあって、それもとってつけたようじゃなくって、ちゃんとすっとしみこんでくるような。

アカシア:私もこの本は前から好きだったんです。たとえば21ページの「コオロギは、用心ぶかくチョコレートのほうに頭をもちあげ、ちょっとにおいをかぐようにしてから、ひと口食べました。マリオは、コオロギに手のチョコレートを食べてもらったとき、うれしくて、体じゅうがぞうぞくっとふるえました」というところ。今の作品には、こういう描写は出てこないような気がします。それからマリオの家族なんですけど、いつもはお母さんが威張っていますが、「パパがきっぱりと、しずかな口調でいったときには、話はそこでおしまい、ということでした。ママも、それ以上は、もうとやかくいいませんでした」とあります。この家族なりの個性が、こういう一言によく出ています。それから66ページでチャイナタウンを描写するディテール。「入り口にさがっているかんばんには、『サイ=フォン——中国珍品堂』と書いてあり、その下に小さな文字で、『せんたくのとりつぎもいたします』と書いてありました」というんですが、洗濯のことなんてこの物語には関係ないのに、こうしたディテールがあることによって、人の暮らし方のほうにも読者の想像が働く。たっぷり物語を堪能できる要素がちゃんとそろっています。ガース・ウィリアムズの挿絵にも味があって、私は51ページの絵なんかほんとに好きです。
ただね、大人は「古きよき時代のアメリカ」なんて言うけど、子どもにはそんなこと関係ないでしょ。今の子どもたちにも楽しんでもらえるのか、ちょっと不安。テンポがゆっくりだと、大学生でも読めなかったりするんですよ。それに5,6年生向けだとすると、「ネコとネズミとコオロギが仲良くするなんてあり得ないよ」なんて言われないかな? それから「訳者あとがき」に、『シャーロットのおくりもの』とこの作品が〈二〇世紀アメリカの児童文学の古典〉の名に恥じない二大傑作だと、書いてあるんですけど、『シャーロット〜』の方は、死ということをちゃんと取り上げてるんですね。でも、こちらはコオロギが秋になると死んでしまうという現実を、田舎に帰るということにして回避しています。そのへんの甘さが、5、6年生だときついかも。

ケロ:大学生でも、テンポが遅いとつまらなくなってしまう、ということですか?

アカシア:見開きで一つ事件が起きるような話だと、ずんずん読めるんですけどね。

トチ:マーガレット・ミークは、読書力のある人は、さっと読むところととゆっくり読むところがわかると言っているわね。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年6月の記録)


天才ネコモーリスとその仲間たち

テリー・プラチェット『天才ネコ モーリスとその仲間たち』
『天才ネコモーリスとその仲間たち』
原題:THE AMAZING MAURICE AND HIS EDUCATED RODENTS by Terry Pratchett, 2001
テリー・プラチェット/著 冨永星/訳
あすなろ書房
2004

オビ語録:突然かしこい頭脳を手に入れたネコとネズミの大冒険/イギリス屈指のストーリーテラーがおくる痛快な冒険ファンタジー

ケロ:この本は、興味をそそられる感じの本だったので、随分前に買ってあったのですが、お話の最初のところで、なかなか入れなくて、じつは置いてしまってたんです。でも、途中から勢いがついて、中盤以降はばあーっと読めました。モーリスのキャラも、ハードボイルドで渋くていいし。世界観が複雑なので、頭の中がごちゃごちゃになってしまいましたが、パロディが色々入っていたり、ストーリーよりもこまかいやりとりが笑えて楽しめる大人向きの作品ですね。モーリスがいう言葉、ネズミがいう言葉で、後でふっと生活の中で思い出しそうな哲学的なひと言にたくさん出会えました。章のはじめに記されている「うさぎのバンシーの冒険」が、最後までかちっとはまらなかったです。

ハマグリ:魔法使いのゴミを食べて急に賢くなったネズミたちが、そこにあった缶に書いてあった言葉から適当に名前をつけてしまうというというのがおもしろい。このユニークな名前の訳は、初出だけ日本語訳にカタカナのルビをつけ、2回目からはカタカナ名を使ってありますよね。工夫されていると思うけど、やはりカタカナでは意味がわからなくなるので、全部は無理かもしれないが、例えば「サーディン」なんかは「イワシ」と日本語に直してもよかったのでは? いろいろな名前のネズミが次々に登場するので、個性と名前が一致してくるまで苦労しました。最初は情景がなかなかすっと思い描けなくて、そのわけを考えてみると、一つの描写の次にくる文章が、必ずしも前の文章の続きではないような書き方をしている。だから『天才コオロギ』のように、順番どおり素直に読んで情景を積み重ねて読むというわけにいかないんですね。独特のぶっとんだ感じがあって、訳文はそれをよく伝えていると思うけど、それに慣れるのに時間がかかった。途中で、この一見脈絡のない描写の連続、瞬時に視点が変わる動きは、アニメやコミックなんだな、と気がつきました。それで映像的に頭に思い浮かべるようにしていくと、だんだんついていけるようになったの。それでもよくわからなかったのは、91ページの最初の描写。ネズミたちの配置や動きがよくわからなかった。また、うさぎのバンシーさんの冒険を章の最初に出すのは、ちょっと凝りすぎかな。本文との関連がよくわからない章もあったし。マリシアがとてもおもしろい子なので、マリシアが出てきてから会話にメリハリがついておもしろくなりましたね。この作品自体が「ハーメルンの笛吹き」を下敷きにしている上、数々のパロディが使われているんだけど、そのおもしろさが、日本の子どもにはわからないのが残念ね。本当はもっとおもしろいことが随所にあるんだろうけれど、仕方ないですね。作者が知的な遊びをこれでもかこれでもかと楽しんでいることはわかるんだけど、読者も一緒に堪能するには、限界があるんでしょうね。

トチ:みなさんがひっかかった最初の場面ですけど、暗い馬車のなかで、御者に後部座席の怪しい話し声が聞こえてくるっていうところ、わたしは大好き。わくわくする始まり方だと思ったわ。一行がたどり着く町も、カフカの世界を思わせる、不条理というか、官僚がはびこっている奇妙な町。ビッグラットの正体も、ああこういうことなのかと、おもしろく読みました。ただ、ネズミが続々と出てくるので、ピーチ以外のネズミがすぐにわからなくなってしまう。登場人物紹介のページとか、しおりのようなものがあったら、もっと読みやすかったと思います。あっさり味の「サンゴロウ」にくらべて、こちらは中身がぎゅっと詰まっているコンビーフ缶みたいで、少しずつかじっていくとすごくおいしい。でも、一般的に日本ではほのぼのとした、のんきなユーモアが好きだという気がするので、こういう風に次から次へとたたみかけるように繰り出してこられると、息苦しくなるかも。たしかに大人は楽しめると思うけれど、文化的なギャップのある日本の子どもたちはどうかしら。本国での読まれ方と、日本での読まれ方が非常に違う種類の本だと思いました。

:この前に、『半島を出よ』(村上龍著 幻冬社刊)を読んでたんです。あれも登場人物がずらっと出てくるし、しかも朝鮮名などは、なかなか覚えられなくて。この本も、ネズミがいっぱい出てきたけど、だいたい見当をつけて読んだので、登場人物は大丈夫でした。モーリスが魅力的で、ネコの本能と戦うところもおかしかったし。ネズミとり器の名前とか、毒の名前とか、笑えるところがたくさんありました。ネズミと戦う場面の緊迫感、次のページにいくと、モーリスとマリシアのしゃれた場面。場面の緩急がおもしろかった。食器棚が倒れるところで、奇跡的に無傷な皿が、ぐるぐる円を描いてグロイユオイユオイユウウイインという音とともに回る、って表現には、目に見えるようで、笑ってしまいました。こんな風に回る皿を実際に見たことがあったし。マリシアが、ピーターラビットの本をよく言わないのは、作者の評価なのかしら。

きょん:キャラクターの多さと、カタカナ名前で、途中で止まってしまいました。

ブラックペッパー:こういう本はちょっと苦手。いろんなことが同時に起こる、すばやい展開に、頭の回転のかんばしくない私は、ついていくのが大変でした。テリー・プラチェットは、教養あふれる人なんだろうけれど、饒舌で一言多いって感じがして、時々「しずかに」と言いたくなる。ヨーロッパ教養人にとっては常識っていうようなことがベースになっているので、そういうことに疎い日本人にはわかりにくいかも。とってもよくできていて面白い物語だけど、やっぱりハードルは高い……。翻訳は、日本人にも受け入れられやすいようにと、よく工夫されていると思うのだけれど。

小麦:最初、文章が映像化されて頭に入ってくるまでに時間がかかりました。どうしてかって考えたんですけど、日本の昔の物語なんかでは、主人公(語り手)と読者が一緒になって、ほぼリアルタイムで事件や出来事を追っていくという時間の描き方が多いのに対して、この本は、あとから事実関係が明らかにされたり、別のエピソードが突然挿入されたりと、物語中の時間の描き方が変則的なんですね。それに加えて、シーンごとにトーンが変わる。例えば、ネズミ取りにかかって死んだ仲間を前に、死について語ったり、そのネズミを食べちゃうことについて考えたりするシーンがあります。考える能力を手にしたが故の苦悩という感じで、スーパーラットたちが、哲学的なこととか、倫理的なこととかを考える。こちらも「そうよねぇ……」なんて同じトーンで読んでいると、突然コメディタッチのシーンに、ぱっと切り替わったりするんですよね。読んでいる方はあれれっとなっちゃう。物語に寄り添って読むというより、作者に翻弄されているような感じがしました。
文章が映像的という指摘もあったように、本当に最初に映像ありき、というタイプの作品だと思いました。映画のスラップスティックコメディを、文章に落としていったような感じ。今までにあまり読んだことがなかったタイプの作品なので、「こういうのもあるんだなぁー」と思って面白かったです。ただ、『天才ネコモーリスとその仲間たち』という割には、モーリスの存在がやや希薄な感じ。むしろ、ネズミたちの物語という方がしっくりくる感じがしました。

アカシア:今日の課題本の3冊のうち、これを最後に読み始めたんですけど、おしまいまで行き着けませんでした。うまく物語に乗れなかったんですけど、この作品はポストモダンなんでしょうか?

驟雨:私は、これはコミックだと思って読みました。根は生真面目なのを、わざとおちゃらけてみせているような気がしました。

アカシア:翻訳が難しい本ですね。話を頭に入れるまでに時間がかかります。それに、ネズミの名前ですけど、英語圏の子どもならデンジャラスビーンズと言われてもイメージがわくけど、日本の子どもはただ長ったらしい名前だと思うだけでしょう。ちょっとくらい意味は違っても、子どもにわかる名前に変えてしまったほうがよかったのでは? RATHAUS(ドイツ語で市役所)でネズミを駆除している(ここはハメルンの笛吹きから借りてきているんですよね)という設定も、ドイツ語では市町村議会のことを指すRATが英語ではドブネズミを指すってことがわからずに「ネズミの家(ルビ:ラトハウス)気付けネズミ駆除係」と書かれていても面白くない。それに、謎がどうなっているのかよくわからない。細部にはおもしろいところがあるけれど、日本ではついていける読者は少ないと思います。いろいろな下敷きの上に物語が構築されているようなので、その下敷きの知識がないと楽しめない部分が多いのかもしれません。子どもが読むには高尚すぎるんじゃないでしょうか。

トチ:出版社は子ども向けに出したのかしら? 作者は?

驟雨:プラチェットという作家は、出す本、出す本ベストセラーなのに、文学の評論家からは無視されて、ちょっと変な作家という扱いを受けてきたと聞いたことがあります。実際、この本を読んでいても、根は大まじめな人間が、わざとおちゃらけて尻尾をつかませまいとしているような感じがしました。この人のほかの子ども向けの本も読んだことがありますが、ややもすると達者さが空回りしかねないタイプのようですね。その中では、小手先でないというか、達者さが空回りしていないという点で、この本はいいと思いました。カーネギー賞を受賞した理由は、高尚なことを問いかけながらも、笑いをまぶして子どもに楽しめるようにしている点にあったということですが、まったくその通りだと思います。ただちょっと、わからない人はわからなくてもいい、というようなところがありますね。年齢が低い人にはわからなくていい、というのとは違う意味で。なんというか、舞台に登場するのに、スマートに登場せず、わざと転がり出てきて、もうもうと埃を立ててみんなの注意を引く、みたいな感じのところがあって、そのあたりからも、わからない人はそれでいい、みたいな感じを受けました。それと、ひじょうに映像的な書き方をする人だと思いました。ぐっと引いたイメージになるかと思うと、すっと目線が動いたり、今度はクローズアップとか、映画を見ているような気がしました。子ども向きかどうかという点でいうと、やはり子どもに向かって書いているんでしょうね。ネズミとネコを主人公として、意表をつく展開が連続するテンポの速い物語にすることで、哲学的なことがわからなくても楽しめるようにしてある点など、子どものことを意識していると思いました。結末も決して一筋縄のハッピーエンドではありませんが、この本にはそうとう倫理的な側面があって、全体として、著者がこれからを生きていく人たちに伝えたいことがあって書いた、という印象を受けました。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年6月の記録)


フラワー・ベイビー

アン・ファイン『フラワー・ベイビー』
『フラワー・ベイビー』
原題:FLOUR BABIES by Anne Fine, 1992
アン・ファイン/著 墨川博子/訳
評論社
2003

版元語録:フラワー・ベイビーを育て、しかも3週間育児日記をつける…。理科で押しつけられたクラスは不満の嵐。しかし、サイモンは世話をしながら考えます。

アカシア:原書で読んでたんですけど、日本語版の表紙の絵を見てあれっと思いました。この脚の感じだと、幼い子ですよね。せいぜい小学校中学年までにしか思えない。主人公は何歳なんでしょう? アメリカ版の表紙には高校生くらいの男の子が出てます。プロジェクトのやり方や、子どもたちの態度や発言からすると、中学生くらいかな、と思えるんですけどね。導入の学校でみんながわいわい言ってるところとか、先生と生徒のやりとりとか、ただまじめに訳すと面白くなくなって、翻訳が難しいですね。フラワー・ベイビーのプロジェクトをやることになったいきさつとか、主人公が自分の父親のことを考えていくくだりとか、アン・ファインは語るのがうまいなあと感心しました。

ケロ:挿絵を描いたのが外国人ですが、英語版を描いた人が描いたんでしょうか?

アカシア:アメリカ版でもイギリス版でも、この絵は見たことなかったんですけど、日本にいる外国人に書いてもらったのかな?

ケロ:確かに、読んでいて主人公の年齢はよくわかりませんね。英語版でも、読んでいて年令設定がわからない感じがするんでしょうか。

アカシア:小学校低学年とか中学年で勉強が嫌いだったら、こんな作文は書けないんじゃないかな。それに、p112には、自分の父親が「今のサイモンよりほんの少し年上」だったと書いてありますよ。だとするとサイモンは、少なくとも中学生にはなってるんじゃないかしら。だから表紙には違和感を感じるんですね。

カーコ:p87に小学校のことが過去形で出てくるし、もう小学生ではないでしょう。

雨蛙:テンポがよくてとても面白かったけど、その分、訳にひっかかりました。中学生と高校生になる甥っ子たちはどう感じるのか、読ませてみたいですね。ただ、タイトルが「フラワー・ベイビー」のままでは、自分から手に取ることはないだろうな。主人公と同じくらいの男子生徒には、挿絵もかわいすぎる。主人公たちは、授業の内容などから、中学校3年生とか高校1年生くらいじゃないかな。そのわりにやっていることが幼いように思うけど。物語の最後、父親のことを自分で完結させるところは、性急でもったいない。まあ、男子生徒が読むにはいいかなと思いました。

ケロ:父親との関係を、自分の中で納得させるまでに、たしかにもう何段階かあってもいい と思いますね。

アサギ:プロットがとても上手にできてるけど、こういう作品って私は好みではないのね。自分が翻訳を仕事にしていてこういうのもなんだけれど、外国のお話と言う感じが強烈にする。日本の作品とテイストが違うからこそ、翻訳の意義があるのは事実なんだけど、それを考えに入れた上でも、こういう展開は好きじゃないなあと思いながら読んでました。書名は、何のことかまるでわかりませんでした。むろん、本文を読んで、なるほどこういうことなのか、と読者に思わせる効果もあるので、わからないからいけない、とは言い切れないけれど。翻訳はとてもひっかかりました。こんな言い方しないだろうと思ったところがいくつもあったし。それに、p94の「作文の字が間違っている」というところだけど、それなら、訳文にもその痕跡があったほうがいいと思いました。それからp59の5行目に「男の子に人形をあてがえば、すぐにふさぎこむ。女の子だったら、いったいどうなってしまうのだろう」ってあるけど、どういう意味?

アカシア:私もここはひっかかったんだけど、翻訳者が意味を取り違えてるんじゃないかしら。男の子にも育児を分担させようとして、あるいは育児について学習してもらおうと思ってお人形をあたえても、すぐに考え込んだりふさぎこんだりするんなら、女の子たちも未来の家庭に希望がもてないわね、というふうな意味じゃないかな。アン・ファインの原文はなかなか難しくて、意味を深く読み取りながら訳さないと無理だと思うの。

アサギ:ほかにもこんなこと言わないよね、と思ったところがいろいろあったわ。p196の後ろから3行目なんかもそう。言いたいことはわかるけれど、様相なんていう言葉を子どもの本で使うかなあと思って。それはともかく、いいテーマだしプロットも良くできてるから、読後感想文は書きやすいわよね。ところで、父親との関係はこれで解決したのかしら? お父さんのことが吹っ切れたのはわかるけれど、なぜ吹っ切れたのかが良くわからない。 書き込みが足りないんじゃないかな。

アカシア:第一章や第二章で生徒たちが言い合ったり、先生とやりとりする場面なんだけど、話してる内容よりも、俗語でしゃべってるテンポみたいなところで読ませるわけですよね。それを日本語で普通に訳しても面白くならない。これが最初にあると、入り込めない子どもがたくさんいるかもしれないな。

アサギ:確かになかなかお話に入れなかったわね。

ハマグリ:カーネギー賞を取ったし、評判も高かったので、私はとても楽しみに読んだのに、あまり面白くなくてがっかりしちゃった。やっぱり最初の教室の様子が日本の子が読むことを考えると、もっと身近でそうそうこんな風と思えるようでないとだめだと思う。教室での会話が続くところもあまり面白くない。

アカシア:イギリスの子が読んだら面白いんだと思うけど。

ハマグリ:その良さが出てないよね。どうして小麦粉の袋を赤ちゃんとして愛情を注ぐようになるのか、という点もぴんとこなかった。発想が面白いし、主人公がこのプロジェクトによって変っていくというストーリーだけ聞くと面白そうと思うんだけれど、実際に読んでみると納得できるようには書かれていない。

アカシア:最初は「爆発」にひきつけられているのが、だんだんいろいろなことを考えるうちにいとおしくなってくるのよね。その微妙な心理の過程が原書ではうまいと思うけど、訳文では出てないのかもしれないな。

アサギ:頭で書いた作品という印象が抜けなかったですね。

ハマグリ:この本ではそういう良さがわからないからがっかりと言う感じ。こういうのを訳すのは本当に難しいと思うけれど、先生の言葉にしたって「よく見たまえ」「わたしにはわからん」なんて言わないし、会話の面白さは伝わってこない。この先生のキャラはきっともっと面白いのに、残念だと思いますね。話の流れが頭では理解できても楽しめなかったという感じなの。物語の世界にすっとはいれないのは、生徒たちの年齢がわからないせいもあると思う。この本つくりだと、せいぜい5、6年生くらいの感じで、中学生は手に取らない。最初のページにこのクラスが四−Cと書いてあるので、日本の読者はぜったに小学校4年生だと思って読むと思うのよね。4年生と思って読んでいくと、授業の内容がもっと上の感じだから、最初から何か居心地の悪い感じになってしまう。

アカシア:イギリス版は四−Cだけど、アメリカ版は教室番号八になってましたね。

ハマグリ:ともかく四と言う数字を出したら、日本の子は4年生と思ってしまうから、誤解を与えないように工夫してほしかった。

ケロ:勉強が苦手なサイモンが、とても難しい引用をしますよね。

ハマグリ:書名のフラワーは、普通はお花だと思ってしまいますよね。表紙に原綴が書いてあるけど日本の子どもは絶対に小麦粉だとはわからないでしょう。何かもっと斬新な意訳をしてもよかったんじゃないかしら。表紙の絵も内容よりも幼いし、本作りが中途半端ですね。

アサギ:最後の2行、へんに大仰で違和感があったわ。

アカシア:著者のユーモアが、日本の読者には伝わってませんね。

ハマグリ:原書を読んだ方たちの印象からは、ユーモラスなところや、くすっと笑うところがたくさんあるようなのに、日本語ではそういう面白さは全く感じられない。がっかりな一冊でした。

むう:私も原書を読んで、この本はすごく面白いと思ったんですけどね。ほかのファインの本に比べても絶対に面白いんだけれど、それが訳には出ていないみたい。

ケロ:発想はすごいなあって思いました。小麦粉を赤ん坊に見立てることをやらされているうちに、自分がまさしくその赤ん坊だったらということに思い当たって、自分を投げだして出ていってしまった父親のことを考えるようになる、なんて、すごいですよね。でも、プロットがあって、あと肉付けがたりないという気がしました。サイモン像がとてもゆれて、どんな子なのか、よくわからなくなったりしたので。これは、翻訳の問題なのか、もともとの話を読んでもそう感じるのか、知りたいです。読んでいて、翻訳がへたなのでは? とは思いました。あとがきを見ると、はじめての翻訳とあったので、なれていないのかな? とも。
最後は、サイモンがどうやって納得したの? というところもわからない。p248あたりからサイモンが突然語っちゃうんですが、その内容がわからない。流れがぷつぷつ切れて。翻訳の問題なんでしょうか、原作の問題なんでしょうか。

アカシア:ここは、ばんばん投げたり蹴っ飛ばしたりしながら、ちょこっと考えている感じなんですよね。それがカタルシスになってもいる。でもこの訳だと大まじめになっちゃってるから伝わらないかも。

むう:原作を読んでの一番印象に残ったのは、いい子になりそうになって、いろいろ考えて、結局それをバーンと蹴っぽる爽快感だったんだけどなあ。

ハマグリ:そういう爽快感ってこの訳者は全く読み取っていないんじゃないかしら。あとがきを読んでも、まじめ一辺倒な感じ。何か違うんじゃないかっていうギャップがつきまとって、不満が残るんですよね。

:私はとても面白く読みました。訳でひっかかったところもあったけれど、ストーリーの面白さで引っ張られて、読み進めました。最初のところでは、小学校の高学年かなという印象でした。この小麦粉の袋のプロジェクトも へええ、こんなことをするんだ、と思って面白かった。学校でこういう内容をテーマの選ぶこと自体に、国民性の違いや、自由な発想力の底力のようなものを感じました。翻訳物を読むときの面白さは、そういう違いを知る楽しみがあると思う。

アカシア:こういうプロジェクト、むこうの学校では実際にやってるみたいよ。

:もうわくわくして読み進めると、フラワーベイビーを世話するうちに、出て行った父親の気持ちをたどり始め、さらにフラワーベイビーにこんなに愛着を持っちゃって。ゴミ箱行きから救い出したところで、この執着からどうやって解放されるんだろうって、どうなるのかなあと、はらはら。最後の小麦粉だらけになるもって行き方は爽快だった。父親の家出の原因が、ずっと気持ちの奥に沈んでいて、今回のフラワーベービーとの出会いで浮き上がってきて、自分の中で解決とはいかなかったけれど、そこでぐっと吹っ切るところに、子どものエネルギーを感じました。面白さで引っ張られて読んで、訳のおかしいところは皆さんから聞けるだろうと思って気にしませんでした。

カーコ:私はみなさんと同様、最初は文章につっかかって入りにくかったです。フラワーベイビーの研究にのめりこんでいくきっかけが勘違いというのが面白いですよね。勘違いとわかったときどうなるんだろうというドキドキと、父親へのこだわりというサイモンの内面の部分という二つの線で引っ張られて、真ん中まで読んで面白くなってきたところで時間切れでした。p14〜15に出てくる授業科目や、サッカーが部活動みたいなところからすると、主人公は小学生ではなさそうだけれど、それにしては幼稚。原作ではっきりわからないとしても、訳者が編集者と話して、主人公は何年生と決めて訳してくれればもっと読みやすかったのではないかしら。

むう:これって、私がはじめて読んだアン・ファインだったんです。原書で読んで、読み出したらとまらなくなって、ほとんどショックでした。それで、続けてアン・ファインのほかの作品を読んだんですが、たしかもともとがテレビ関係のライターをしていた人なので、ひじょうにテンポが速くてプロットを作るのも上手。職人芸的な意味でもじょうずな人だなと思いました。でもほかの作品は、じょうずさが勝っていて、この作品ほどすばらしいと思わなかった。原書は、表現が切り詰められているので、確かに翻訳は難しいと思います。途中でどんどんまじめになっていって、どうなるか、どうなるかと思ったら、最後の場面で、「ヘーンだ!」と真面目を蹴っぽる。そのぐーっと揺れる揺れ幅が大きくて、最後にすかっと爽快になるんです。でも今回原書と読み比べてみたら、大事なところで意味を誤解しているようだったり、言葉遣いに統一感がなかったり、会話が自然な感じがしなかったりで、読み進むのにとても引っかかった。!一番肝心なサイモンのタフさが伝わらないような形で紹介されたのは、とても残念です!

(「子どもの本で言いたい放題」2005年5月の記録)


クララをいれてみんなで6人

ペーター・ヘルトリング『クララをいれてみんなで6人』
『クララをいれてみんなで6人』
原題:MIT CLARA SIND WIR SECHS by Peter Hartling, 1991
ペーター・ヘルトリング/著 佐々木田鶴子/訳
偕成社
1995

版元語録:父さんと母さんと、わたしたち兄妹一家に、もうひとり家族がふえることになった。そうしたら、お母さんに病気が発見され、赤ちゃんへの影響を心配して、みんなは悩んだり、いらいらしたり。日常のドラマをユーモラスに描く。

アカシア:取り上げられているのが普通の家庭で、子どもがすでに3人いるところに赤ちゃんが生まれるという設定。お父さんもお母さんも普通の感じで、そのあたりは好感がもてます。ただ、ヘルトリングの他の作品と比べて印象が薄いのは、フィリップに視点になったり、テレーゼの視点になったりと動いているからかもしれませんね。

雨蛙:ヘルトリングということで期待して読みはじめたんですが、物語の世界に入るのにわりと時間がかかりました。ごく普通の家庭の日常が淡々と描かれていくせいかもしれません。好きだけれど、ほかの作品と少し違うという印象。一番下のパウルが、視点がずれているのではと思うところがあったことと、おばちゃんが二人出てきて、そのままぱたっと出てこなくなったのが残念だったですね。障害を持って生まれるかもしれないという深刻な状況ですが、終わり方がさすがヘルトリング。家庭ものとしてよく描けています。ただ、クララのことではなく、それぞれの家族の描写が多く、起伏が少なくて子どもには読みにくい面があるかも。フィリップは、カメラ的な役割を背負いすぎているきらいがあると感じました。フィリップ自身の気持ちをもっと描いてほしかったし、お父さんは、その性格を考えるともっと違ったふうに子どもたちに写るのではと思えるところもありました。それだけ、ヘルトリング自身の思い入れが強い作品なのだと思うけど。

アサギ:ヘルトリング自体は好きだけれど、これはインパクトが弱いと思いました。でも、リアリティはある。すごく好きな表現があって、164ページ、2行目の「お父さんは、帰ってくるのがすごく上手だ!」というところ。私は個人的に自分の体験とダブるので、その意味では熱心に読んでしまったわ。最初にドイツでベビーシッターをした家が、この家族と似ていたので。

ハマグリ:ヘルトリングの作品は次々に読んでいましたが、『ヨーンじいちゃん』『ヒルベルという子がいた』など、とても印象的な作品がある中では、この本は印象はうすい。登場人物のだれかが主役ではないから、そうなるのでしょう。でも、5人の家族がそれぞれにいろんなことを考えながら、赤ちゃんを迎える、という雑多な感じが、逆にこの本の魅力だと思います。実際にクララが登場するのは本の最後の部分で、そこに至るまでの家族の気持ちが描かれ、まだ生まれていないけれど、クララは家族の一員だ、と意識していく過程が書けているので、少子化でお母さんのおなかが大きくなってくるのを体験する子どもが少なくなっている昨今、日本の子どもにも読んでほしいと思うな。

ケロ:『フラワー・ベイビー』のあとで読んだので、イメージが作りやすかった。なるほど、いろいろな人の目線で描かれているのは、あえて意図していたのかと思いました。パウルがすることや、ふりまわされてしまうところなど、本当にこんな感じだろうなあと思いますよね。ヘルトリングが自分の家族に近いものを描いているからこそのリアリティ。その中に、味がありますね。二人のおばさんの天然ボケぶりなど、まわりの人たちも味がある。いろいろな色を見せてもらったという印象。ふつう、この手の話だと、クララが生まれて色々あって…という話になると思うけど、生まれてくる前の話を描いていながら、クララに対するまなざしをちゃんと描いているところがすごいなあと思いました。

カーコ:他の本のほうが印象深いというのはあるけれど、何より登場人物が面白いし、日常生活の機微がとてもよくかけていると思いました。書きすぎず、不足もなく、読者が考える余地を残している。日常のごくあたりまえのことが文学になっているのに感動しました。たとえば33ページの3行目からの「こいつ」騒動。ここだけで、この家族のありようがよくわかる。揺れや迷いが出ていて、人物にふくらみがある。あと、組体裁や本を持った具合が、本の内容とあっていて気持ちがよかったです。シリーズ全体として、本作りがいいですね。でも今は、とかく新しいものばかりがもてはやされるので、埋もれてしまうのではないかと心配です。折に触れて、今の子どもに紹介していきたい作品です。

ハマグリ:ヘルトリングは大好きで、いろいろと読んでいます。『ぼくは松葉杖のおじさんと会った』などと比べると、なんとなくごちゃごちゃっとしていて印象が散漫だけれど、日常がとてもよく書けているのがいいなと思いました。ヘルトリングが書きたかったのは、家族に赤ちゃんが加わることによる一人の人の成長ではなく、赤ちゃんが加わることによる集団としての家族の変化なんだと思います。だから誰かひとりに視点を固定する形でなくなって、視点が移るので拡散もするのだけれど、そこが書きたかった作品なんじゃないかと思いました。ただ、訳については私もひっかかったところがありました。

アサギ:ヘルトリングは、原文がとても洗練されているので、訳は難しいの。ヘルトリングはもともと詩人なので、言葉が究極までそぎおとされているから。そのまま訳すとぶっきらぼうだし、かといって足していくと、原文の味がなくなってしまう。行間を読む作家ですね。ネストリンガーと対照的。ところで、このお父さんって、どんな感じがします? 88年に来日したとき、ヘルトリングの奥さんが、「彼には家族というものがわからない」と言っていたのを思い出しました。現実のヘルトリング家は、奥さんが支えていたのではないかしら。

むう:ヘルトリングさん自身、幼少期は家庭に恵まれなくて、今は暖かい家庭を築いているからこそ、こういうものを書きたいと思ったのかもしれませんね。幼少期の厳しかった現実からくる寂寥感やなにかが『松葉杖……』などの作品を生み出したとしたら、これはヘルトリングさんの今が生み出したのかな。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年5月の記録)


となりのこども

岩瀬成子『となりのこども』
『となりのこども』
岩瀬成子/作 網中いづる/画
理論社
2004

オビ語録:こどもの心の影と光。ありふれた日常の中に揺らめく小さなうずきやときめきを切りとる連作集。/どうして、あんな気持ちになったのだろう。

アカシア:岩瀬さんは、すごく好きな作家なので、ファン心理で読んでしまいました。この文体が、私にはしっくりくるんですね。この作家特有の時間の切り取り方があって、それを読むと自分の子どものときのことを思いだします。ほかの作家では思い出さないのに。子どもの細かいところをよく観察しているからかな。子どもの姿を浮かび上がらせるのがうまいですねえ。短篇集なんだけど、読んでいくと、前に出た人があとで出てきたりして、同じ地域の話だとわかっておもしろかったし、子どものころは日常生活のすぐ向こうにファンタジーがあるという状態もよく書けています。あいうえお順に献立を考えるおばあちゃんとかおもしろい。「い」のつく料理を考えているうちに「家出」もかんがえついたのかな、とか。ただ、何歳くらいの子が主な読者層なんでしょう? 大人が読んで面白い作品かもしれませんね。

雨蛙:連作ということで、ひとつの地域の話として、つながりとまとまりがあるのが心地よかったですね。よくありそうなコミュニティの、よくいそうな子どもたちとおとなたちだと思ってしまう不思議な感覚がいい。「あたしは頭がヘンじゃありません」で、竹男くんが人形をもらう場面のように、この子いいなあと思ったり、「ねむの木の下で」で野良猫にえさをやるのがきっかけで友だちになったり、ほっとしたり共感できる場面が多いのもよかった。とても身近に感じながら読め、ついつい個人的な体験と比べてしまう。個人的に言えば、子どものころにすごした環境よりも、都会的な印象を受けた。たとえば、「夜の音」の少年たちとその親の関係とか。自分の体験をふりかえると、もっと大人と子どものつながりが強かったように思ったり。「二番目の子」で、女の子同士が遊んでいる、友達をとられてしまうのも、よく書けているなあと。しっくりくる話が多く読後感がよかった。

アサギ:「緑のカイ」という最初の話が好きになれなかったのだけれど、次からは全部おもしろかった。でも、私の子ども時代とオーバーラップするので、現代の子どもにわかるかな、という気はしました。「二番目の子」もリアリティがあってよかった。最後のほうに出てくるあずさちゃんの、へんにケチくさいところなんかも身に覚えがありましたね。ストーリーとしてぐいぐいっとくるのは、バイクの話。たいへんにいい作品だと思いました。

ハマグリ:最近この人の本を『アルマジロのしっぽ』『金色の象』と読んできたんだけど、『となりのこども』が一番面白かった。「緑のカイ」は、この年代の子どもが持っている未来への漠然とした不安とか、成長することへのとまどいを表現していると思う。第2話では、全く違う子どもたちが出てくるのに、最後にちょっと麻智のお母さんが登場し、第3話では、「あたし」って誰かと思ったらおばあさんで、第一話に出てきた竹男くんが出てきて、という構成もうまい。次はどんな話だろうという期待も出てくる。竹男くんは、おばあさんの家出をどこか面白がってる風で、あいうえお順の献立の「あ」という張り紙をさっさと自分で「い」に張り替えるとか、びん人形の世話をするとか、魅力的なキャラだと思った。この作品全体として、子どもって本当にいろんなことを考えているんだな、ということをよくわからせてくれる。児童文学によくある学校の話でもなく、家庭の話でもなく、子どもが一人でいるときに、子どもの頭の中にどんなことがあるのか。たとえば「夜の音」で、弟が、バイクの事件にかかわった兄のことを毎日とても心配しているけど、一方ではリコーダーで「庭の千草」がうまく吹けないということも描かれて、全く次元の違う悩みも、子どもの中では同一線上にある、といった感じをうまく書いていると思う。また、夕子と愛、麻智とあずさちゃんのように歳の離れた子との関係もうまく書けている。いろんな子どもが出てくるのだけれど、この子はこんなことを思いました、感じましたではなく、徹底的に子どもの行動で描いているところがいいですね。だから、今の子どもが読んでも共感するのでは。大人が楽しめる部分もあるけど、大人のいないところにいる子どもがよく書けているので、やはり子どもに読んでほしいな。

ケロ:挿絵の感じや、お話の内容から、すごく昔、というわけではないけど少し前の風景を描いているな、と感じました。自分の体験と重ね合わせて読むような感じ。今の中学生や高校生が、どんな感想を持って読むのかをきいてみたいです。気持ちとしては普遍なのだろうけれど。「子どものころ、こんなことなかった」みたいな話は、私は個人的にあまり好みではないんです。でも、確かに印象深いし、うまいなとは思います。短編連作というのは、本当に上手な人っていますよね。テーマでしっかりくくっている訳ではないけれど、全部を読むと、しっかりとしたある感情にみたされるという感じ。

:私も岩瀬成子さんファンなので、ファン心理で読みました。「緑のカイ」では、麻智や理沙がちょっと上の年令に感じられた。こういう気持ちになったよね、という気持ちのヒダをうまく切り取っていると思います。子どもは、大人がいないところで育つんだと、どっかで聞いたことがあるけど、これを読んでいて、その言葉を思い出しました。私も妹を邪魔にして、どうやってまこうかと苦心した思い出があって、感じがよくわかります。どの短編もおさまりがよくって気持ちの良い読後感でした。
*「あたしは頭が変では」のおばあさんの人形の名前など、細かいところがすごいとひとしきり盛り上がる。

カーコ:大体もう出尽くしていますが。読み進むうちに仕組みがわかって、ひきこまれていきました。居心地が悪くなるくらい、こういうことあった、あったという感じ。でも、ここに描かれている地域の人間関係は、どことなく一昔前と言う気がしました。今は、知らない人に声をかけられても話すなに始まって、親も学校も管理が厳しくなっているでしょう。ここの子どもたちは、もう少しゆるやか。スカートをはいてパンツを見せるというのも、今の子はしないんじゃないかしら。

アカシア:地方ではまだこういう情景があるんじゃないかな。著者も山口県に住んでいる人だし。

カーコ:そうかあ。ともかく、今の子が読んでどう思うかなあっていう気がしました。高校生の女の子くらいなら、おもしろがって読んでくれるかしら。理論社の本の中では、つくりからしても並製本の大衆路線と一線を画していますよね。とびっきり部数は出なくても、読む人は読んで大事にしてもらいたいという本かと思いました。

ハマグリ:最後の話でお母さんのケータイが出てくるから、そんなに昔の話じゃないのでは?

アサギ:おばあさんも別に昔のおばあさんではないし、昔の話のように感じるのは、全体の雰囲気だと思う。

:時代を超えた、人間の感情の普遍的な部分を書いてあるんじゃないかなって思います。

アサギ:年下のきょうだいを邪魔にするというのは、時代を超えてるわね。だからリアリティを失わない。

むう:今回のテーマを赤ちゃんにしようと思って日本の作家が書いた赤ちゃんものの読み物を探したのですが、見あたらなくて、枠を広げて兄弟も入れようということでこの本を選びました。みなさんがおっしゃったとおりで、この人は細部までとてもよく観察しているし、それを上手に表現していると思います。「あたしは頭がへんでは……」は、なんか高野文子の『絶対安全かみそり』に出てきた幼い女の子姿のおばあちゃんを彷彿とさせる感じで、それが妙に納得できて面白かったです。それぞれの作品に、不思議がすぐ隣にあってたゆたうようなところもあるあの年頃がうまくとらえられていて、こんなことがあったよね、という感じがするんですね。ゆらゆらっとしたところをじょうずに書いている。あと、どの作品も、終わり方が書き過ぎもせず、書き足りないこともなく、とてもうまいと思いました。

ハマグリ:「鹿」の終わり方はどうでした? 最後に出てくる白い鹿っていうのは、ちょっと唐突だと思わなかった?

アカシア:本としては、不思議な存在が出てくる「緑のカイ」で始まって、また最後に不思議な鹿が見えるという終わり方なんじゃないかな。フッと不思議なものが見えるような気がすることってあるじゃないですか。それと、二人の女の子の気持ちが「鹿」を同じように見るということで重なるところを書いているのでは?

ハマグリ:なるほど。さんざんいじわるな気持ちがふくれあがっていたのに、鹿を見るという一致した行為があったために、スッとまた仲良くなれたのね。「また遊ぼうね」って言葉が、素直に出てくるんだものね。それに対して、あずさちゃんが、「いいよ」って返事するのもなんかおかしいし、よく感じが出ている。

アカシア:子どもだけを乗せてる運転手さんが、「おたくら」と話しかけたり、「とうとうきゅうきゅう車がきましたっ」と小さな妹が言ったりするところなんか、定型をはずれたところにある真実をちゃんと書いている。p156から157にかけてのお母さんの心の変化も、短い描写でぴたっとおさえている。プロットばかりのネオファンタジーの対極にある作品ですよね。プロット偏重の作品ばかりを読んできた子どもには、逆にわからないかもしれませんね。こういうものをわかるのが大事なことなのに。アン・ファインも、こんなふうに訳してくれたら、よかったのにねえ。それにしても、ステレオタイプに甘んじる描写がないんですよね、この作家は。

ハマグリ:そう、ストーリー性がないから、あとで思い出そうとすると、こういう話というようには思い出せないのよ。でも、細部のリアリティや、味わいみたいのが残るの。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年5月の記録)


ヒットラーのむすめ

ジャッキー・フレンチ『ヒットラーのむすめ』さくまゆみこ訳
『ヒットラーのむすめ』
原題:HITLER'S DAUGHTER by Jackie French, 1999
ジャッキー・フレンチ/著 さくまゆみこ/訳
鈴木出版
2004

版元語録:自分の親が虐殺者だったら?「ヒットラーには娘がいたのよ」というお話しゲームから,戦争について子どもたちが考える姿を描く。

アサギ:戦争そのものを扱ったというよりも、親の誤りに子どもはどこまで責任があるか、子どもはどう身を処すべきかを扱った作品だと思う。この作品の一番の魅力は発想ですね。「もしヒットラーに子どもがいたら」という前提が斬新。ただ設定のうまさにたよりすぎている感じで、導入にいささか無理があって、お話の迫力が欠ける感じがしました。「デュフィ」とずっと呼んできたのが、最後「総統」に変わるところを、みなさんはどう解釈したのでしょうか。あくまでフィクションなんだけれど、最後のしめくくり、フィクションとノンフィクションの境目みたいに話を流し込んでいるのがうまい。

アカシア:「デュフィ」が最後に「総統」に変わるわけじゃなくて、最初から「デュフィは総統でした。そしてハイジのお父さんでした」(p52)って出てくるわよ。それにハイジは「デュフィ」と呼ぶけど、ほかの人はずっと「総統」と言ってる。

ハマグリ:すごいところをついている話だとびっくりしました。身近なところで言うと、オウムの子どもたちが学校に行くことを社会が拒否するという問題がありましたね。そういうことを大人が説明するのを避ける傾向があるところを、この本では正面きって取り組んでいる。最初のバス停の場面はそれほど面白くないが、お話が始まるとだんだんにのめりこんでいく。お話というものの持つ力をうまく使っていると思う。p60で、アンナがマークに「お父さんやお母さんが信じてることが正しいかどうか、きちんと考えてみたことあるの? 自分の親が考えてることなんだから正しいにちがいないって、思っちゃってるんじゃないの?」と言うところがあるけど、子どもの持つ既成概念を根本から考え直させる。児童文学には、大人の考えていることは正しいという前提で、それを伝えようとして書かれるものが多いけど、この本は新しい視点だと思います。

むう:今回の3冊の中では、一番引きつけられもし、面白かった。冒頭は、どこかぎくしゃくした感じで違和感がありました。唐突にヒットラーの娘の話が始まって、それにすぐにマークが引き込まれるというのが納得できなかったんです。ただ、最後まで読んだ後でもう一度ふり返ると、この女の子の唐突さというか、ぎくしゃくしたところに、すでにラストの秘密があるようでもあり、これでいいようにも思います。ヒットラーの娘という架空の存在を使って、戦争について書いている本だと思って読みました。その際、最高指導者の秘密の娘を中心に据えてその目でまわりを見ていることから、戦争の悲惨さが間接的にしか描かれずに進んでいきます。先ほど言われていたような迫力のなさは、このあたりに起因するのでしょうが、これはこれでいいと思います。後の方でハイジが戦争の悲惨さをまざまざと目にして、自分もそこに巻き込まれていくところはだんぜん迫力があり、読者としてはそこでぐっと引きつけられますけど、その直後に突然ぷつんと話が切れて、マークでなくとも「なんだ? どうなったんだ?」という気持ちにさせらる。このあたりもうまい。戦争を昔の話として書くのではなく、どうやって今とつなぐかを考えた末、こういう設定になったのでしょう。女の子の祖母が、ひょっとしたらヒットラーの秘密の娘だったのかもしれない、という形で終わらせたのは、見事です。後に余韻が残ります。10年後には使えない手法かもしれないけど……。感心しました。

カーコ:みなさんおっしゃっていますが、視点の面白い作品ですね。地の文、お話の部分の語り手と文体の変化もうまい。今回の他の2冊が、1冊は回想録、1冊が取材によるフィクションですよね。第二次世界大戦から半世紀が過ぎ、実体験として語ることができなくなってきた今、こういう書き方が出てくるんだなあと感心しました。マークと父親の会話ですが、日本の親子ならこういう理詰めの会話は不自然になってしまいますよね。でも、この作品は、親の側の微妙な揺れやためらいもとりこんで、うまく考えさせています。海外の作品の会話って、前はいかにも翻訳という感じで鼻についていたのですが、このごろ、こういうのも日本の子どもにとって大切かなと思うようになってきました。

愁童:いちばん感動したのは、児童文学を書く作者の姿勢。お話ごっこみたいな日常の遊びの中に、こういう問題を取りこんで、子供の目線で考えさせちゃうんなんて、すごいなと思った。子どもに向き合う作者の姿勢が他の2冊と基本的なところで違うように思いました。

きょん:『ガラスのうさぎ』と比べてうまいなと思いました。全く想像もつかない「戦争」の事実を、今の子どもたちに読ませるには、一歩離れたところで、子どもと同じスタンスで「戦争」を語る方が、わかりやすいのでしょう。「戦争体験」をそのまま語るという手法より、入りやすいし、一緒に考えていけるのだと思いました。読み始めは、アンナの雨の日の「お話ゲーム」というのが、すごく唐突で入りにくかったのですが、それはお話のための“舞台設定”だと思えば、すんなりと流れていきました。
マークが、自分に引きつけて考えていくところが、身近に感じる「わかりやすさ」なのだと思います。民族問題から、現代の家族の問題まで、上手に盛り込んでストーリーを展開しているところがうまいなあと。特に、「想像のお母さん」とヒットラーについて会話するところなど、身につまされるような感じがしました。本当のお母さんは、「忙しいんだから」ってちっとも取り合ってくれないのに、「お話を聞いてくれるお母さん」なら、こう言うかしら……って想像しているところ。
また、いろんな人(娘アンナや、家庭教師、またアンナのおばあちゃん……)の悲しみがじわじわとにじんでいて、「ヒットラーも一人の弱い人間だったのだ」という感じが伝わってきたように思いました。

もぷしー:戦争体験でもなくルポでもなく、離れた視点で書いています。戦争を生き抜くというのではなく、戦争に進んでいく心理を描いているんですね。気づかないうちに、いろいろなことがすべて結びついて、戦争という方向へ流されていってしまう。冒頭も最後も雨が降り続いていて、静かです。静かに静かに進んでいって、どっと大水になるという風景が描かれていますが、現実の問題とも重ねてあるのでしょうか。児童文学で描かれる親子の関係は、「大人の考え方が正しい」というのか、「大人のいないところで遊んでしまえ」というのか、どちらかになりがちです。その点この作品では、子どもが大人にストレートに問いかけている。お話の部分と現実の部分が交互に出てきて、しょっちゅう現実に引き戻されますが、無関係と思いがちな今の読者にはここが必要なのかもしれません。

アカシア:日本でもホロコーストものは割合たくさん出版されていますよね。でも、そればかりだと日本の子どもにとっては「よその国の過去」という枠の中の一つのファンタジーになってしまうのではないかと思ってたんです。この作品はその点が違うと思いました。時間的に過去のホロコーストと現在の子どもを結びつける工夫をしようとしている。それだけではなく、空間的にもポル・ポトとかアフリカの戦争を出してきて、「今だって同じようなことが行われているんじゃないか」という問いかけもしている。子どもの中には、撃ち合うのがかっこいいと思っているタイプもいるし、友だち関係を大事にするあまり自分の意見をもちにくくなっているタイプもいるし、知らないで流されちゃうタイプもいる。その中にマークみたいなのがいてちょっと待ってよと考えていく。その辺の描き方もリアルです。迫力に欠けるという意見がありましたけど、ハイジの数奇な運命や逃走だけに焦点を当てれば迫力は出るけど、今の子どもと結びつけることができない。作者に思いがあって、いろいろな工夫をしながら子どもに伝えようと一所懸命書いているのがわかります。

ハマグリ:やっぱり考えるきっかけになる本よね。

もぷしー:ちょっと待て、ちょっと待てと、立ち止まって考えさせるところがよかった。装丁もいいですね。

アサギ:去年ドイツで『ヒットラー』という映画が上映されたんですけど、製作中に人間ヒットラーを描くことの是非が問われて、すごい論争になったみたい。上映後ネオナチが力を得たという雑誌記事もあったしね。ゲッベルスの子どもたちが青酸カリを飲むシーンを見た子どもがかわいそうと泣いたとかで、物議をかもしたりもしたの。かといって、ヒットラーを特別残虐な異常な人物として片づけるのは、逆にすごく危険よね。すごくむずかしい問題。といっても、この本は前に言ったようにヒットラーを描いたわけではなく、親子の問題がテーマだと私は思ったんですけど。

アカシア:ヒットラーがもし歴史上希有な怪物だとしたら、今後同じことがくり返される危険性は少ない。でも普通の人間の部分もあるのにいろいろな条件が重なるとああいうことになるだとしたら、これからだって安心できない。だから私はヒットラーの人間的な側面を考えるのも大事だとは思うんです。でもこの本はヒットラーの人間性を描いているわけではないし、最後にはハイジが「ヒットラーの娘」という在り方を捨てて「奥深くに小さな種のようにひそんでいたハイジ自身」(p201)になっていく。そこがいいなあ、と私は思いました。

むう:イギリスの書評誌などを見ていると、学校で本を読んで、それを材料にディスカッションを行ったりもしているようですけど、それには、ある意味で物議を醸す、あるいは多様な感想が出てくるこのようなタイプの本が適していますね。そして、物議を醸す本の場合は、子どもに渡して読ませてそれでおしまいではなく、いろいろ話し合うことでもっと考えさせることも必要になります。そうしないと、読みっぱなしで深まらず、逆に危険です。日本でも本を素材として、そういうディスカッションが行われているんでしょうか?

愁童:日本の学校ではちゃんとしたディベートのやり方を教えてないよね。小さいときから自己主張させてディベートの訓練しないと、意見をぶつけ合うことなんてできない。

むう:ほんとうに子どもの心の深いところに響くディスカッションをするには、子どもたちの幅広い感想をあらかじめ予想したうえで、大人が間口を広く構えて、子どもをうまく刺激しながら議論を深めなければならないと思うけど、それには大人の側にかなりの力量が要求されますよね。そういう大人が、あまりいないということなのかもしれません。

愁童:帯の文句は気になった。これじゃ作者の意図に水をかけるようもの。ヒットラーの子どもだったら、戦争を止められたか? なんていう読み方の方に読者を引っ張ってほしくないよね。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年4月の記録)


生きのびるために

デボラ・エリス『生きのびるために』
『生きのびるために』
原題:THE BREADWINNER by Deborah Ellis, 2000
デボラ・エリス/著 もりうちすみこ/訳
さ・え・ら書房
2002

版元語録:タリバン政権下のアフガニスタン。女性は男性同伴でなければ、1歩も外に出られない。父をタリバン兵に連れ去られ、食糧もお金も手に入らなくなった一家の窮地を救うため、11歳の少女パヴァーナは髪を切り、少年となってカブールの町へ出ていく……。たくましく生きるアフガンの少女を描いた作品。

むう:あまりぱっとしない印象でした。私のようにアフガニスタンのことに関心はあってもそれほど詳しく知らない人間にとっては、はじめて知ることばかりなので、それに圧倒されて読み進めることができたんだけど、物語として面白いというタイプの本ではありませんでした。フィクションの場合、現実そのものが強烈ななかで、それに拮抗するどのような物語を作れるかが問われますよね。イラン映画に「少女の髪どめ」というのがありましたが、アフガン難民の少女が少年と偽って働き、その子が女であると見破った少年が恋心を抱くというもので物語としてよくできていました。別に恋でなくてもいいので、この本にももっと引きつける物語がほしかった。もうひとつ、主人公の母親の印象がバラバラで、継ぎ接ぎ細工のような妙な感じでよくわからなかった。

アカシア:『ガラスのうさぎ』は、主人公ががんばるばかりなのに対して、主人公の女の子とお姉さん、男の子など、日常が書かれている点に好感を持ちました。ただ、私は中村哲さんの本を読んでから、タリバン=悪という単純化はアメリカの攻撃=OKにつながるんだなあ、と思って警戒しているんですが、この本は、タリバンが悪いという北米の視点で書かれちゃってますね。それにp9には「ソ連軍が去っていくと、ソ連軍に銃をむけていた人びとは、まだその銃でなにかを撃ちつづけたいと思った。そこで、たがいに銃をむけて撃ちあいはじめた」とあり、p31には「アフガニスタン政府はいつの時代も、自分たちに反対する者を刑務所にほうりこむ」とありますが、歴史や背景を知らない日本の子どもたちは、アフガニスタン人は野蛮で、アフガニスタンは遅れた国なんだ、と思ってしまわないかと心配です。訳では、p23でお父さんが「われわれアフガン人は、イギリスの支配を望んだだろうか?」とマリアムにきくと、マリアムが「ノー!」と英語で答えるんですね。原文はカナダ人が書いているのでNo! かもしれませんが、日本語ならもっと別の表現にしないと、ここはまずいですね。確かにお母さん像は、私もわかりにくいと思いました。お父さんが刑務所に入れられたとわかっているのに、どうして通りの人にお父さんの写真を見せて歩くのかも疑問だし、最後も、お母さんのほうからパヴァーナを捜してるふうではないさないのは、どうしてなんでしょう?

ハマグリ:異文化世界の中で次から次へといろいろなことが起こるので、目を丸くしながら読んでしまうという感じだったけど、物語としては、今ひとつ物足りなかったわね。お母さん、お姉さんに人間的魅力が感じられません。怒られたり、いばられたりしても、主人公にとっては家族なので、どこかにもっと愛情を感じられる部分があってもいいと思うのに。子どもにどうやって戦争と平和のことを考えさせるかということを最近考えているんだけど、児童文学というのは主人公が子どもなので、戦争を扱った児童文学は、どうしたって被害者の立場で描かれることになってしまう。『ガラスのうさぎ』のような体験ものだと、なんて大変だったんだろう、なんてかわいそうなんだろう、だけで終わってしまっていいのか、という問題があるでしょ。「なぜ、そうなったのか」を考えるきっかけをつかむようなものが、これからの戦争児童文学には必要になってくるんじゃないかしら。それから、子どもにとっては決して楽しい話ではないので、それでも読んでおもしろかったと思えるような、物語としての価値もないといけないと思うの。

もぷしー:書名『生きのびるために』の「ために」に悲壮感を感じてしまいました。パヴァーナの生活と性格を考えると、「生きのびてやる」とまではいかなくても、もっとタイトルに生命力がほしかった。原書の書名のほうが力強いですよね。「未来は未知のまま、パヴァーナの前につづいていた」という終わり方は、まだ続いている感じがあって、この作品に合っています。お母さんの人物像がはっきりしないという感想は、私ももちました。最後にお母さんが作った雑誌が出てきますが、その中身などが書かれていれば、もっとはっきりしたのでは? 思ったより事態は悲惨だというのはわかりましたが、読者は私にはどうしようもない、という気持ちになってしまいます。戦争文学全体として大事だと思ったのは、悲惨、悲惨でなく、責任を感じながら強くなっていくという人の姿。それは伝える意義があるかと思いました。

きょん:現実に起きている話なのに、ドラマのように読んでしまいました。まさに戦争が、フィクションになっているようでした。『ヒットラーのむすめ』もそうでしたが、作中の主人公が、「ではどうしたらいいの?」って問いかけ、その答えを読者が考えながら、読み進めていくことで、戦争についてを考えるきっかけになるのだと思います。
パヴァーナに悲壮感がなく「生き抜く」強さが全面に感じられるので、『ガラスのうさぎ』より気持ちよく読めました。確かに9ページの「ソ連軍が去っていくと〜」の部分は、そんなに断定的に、人種差別的なことを言っていいのかしら……って、びっくりしました。あまりにもタリバンの描き方が乱暴だったし。
父親と一緒にゴザを広げていた市場の一角の建物の高い窓から、時折ものが投げおろされていますが、だれが、なんのために、ということがとても気になりました。これは、想像ですが、建物から出てこれない女の人が、「私は、まだ生きていますよ」というメッセージを送ってるんでしょうか。また、父親と一緒だった女の子が、一人でゴザを広げるようになり、男装しても、女の子だとわかったので、「がんばれ」って応援するつもりで、中からものを投げおろしていたんでしょうか。最後、パヴァーナが、この町を去るときには、もう市場には来られないので、建物の中の女性を励ますこともできないからと言って、花を植えるところからも「同じ女性として、会えないけれども、一方は、かげから姿を見て、一方は想像することで、励まし合っていた」のかもしれないなあと想像しました。すれ違いだけれど、お互いに思いは通じていたのか……と。でも、このシチュエーションは、読者が理解するには、結構難しいと思いました。もう少し、そこのところもわかりやすく描けていたら、よかったのですが。

愁童:異文化を見下して書いている感じがして、好感を持っては読めなかった。宗教的な日常生活の部分は書かれていないし、タリバン=悪、女性のブルカ=女性蔑視みたいな視点ばかりが目立ってしまう。実際には、ああいう圧制下にあっても、庶民レベルは結構しぶとく生きてるだろうし、そういう生活者同士の連帯や生活臭のある部分をきちんと書いてくれないと、アフガンの人は可哀想、イスラム原理主義は悪し、だけみたいな感じになって、日本の子どもには何だかよくわからないのではないかな。

アカシア:訳者あとがきには、この著者はパキスタンのアフガン難民キャンプを取材したと書いてありますよね。だけど、国外に逃げられたのはお金のある人だったと、中村哲さんは言ってました。じっさいにパキスタンの中に入ってみないと、わからないところもあるのかもしれませんね。

ハマグリ:窓のおばさんのことをもっとおもしろく書くといったことが、フィクションの面白さなのにね。事実を土台にしてはいても、もっと子どもが面白く読めるものにしてほしいな。

愁童:家族間の体温も感じられないね。

もぷしー:おねえさんは資本主義的社会のそこらにいそうな人ですね。お父さんも西洋風の理想のお父さん。そのせいか、悲惨な状況に西洋の家族が巻き込まれた、という印象を持ってしまいました。

カーコ:世界で起きているこういう現実を知らせることは大切だと思うんですけど、この本は、お話として読者を最後までひきつけていく吸引力があまり感じられませんでした。パヴァーナの気持ちで読んでいこうとするのだけれど、家族の描写がちぐはぐで、なかなか寄り添わせてもらえない。子どもにこのような現実を伝える書き方、子どもにわかる書き方とはどういうものだろうと考えさせられました。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年4月の記録)


ガラスのうさぎ

高木敏子『ガラスのうさぎ』
『ガラスのうさぎ』
高木敏子/著 (改訂新版 2000)
金の星社
1997

版元語録:刊行して以来、たくさんの人びとに読まれてきた「ガラスのうさぎ」を、戦争を知らない世代の親や子どもたちに向けて、わかりやすく読みやすく編集しました。戦争の悲惨さと平和の尊さを、改めて次世代に訴える一冊。

アサギ:この作品の世界は、私自身でさえ実感しにくいので子どもが実感するのはたいへんなことですね。ただノンフィクションの力に圧倒されました。体験記としては、お汁粉のところや着る物のところなど、状況が髣髴とさせられていい作品。父親の葬式を一人で出すなど、とても厳しい話だけど、主人公が明るくてけなげなのが、作品に希望と光を与えていると思いました。子どもが読むには、想像力の限界を超えてしまっているからとアニメにする気持ちはわかります。

ハマグリ:私もだいたい同じような感想。戦争体験者が子どもに語るということで、今の子どもたちにも読めると思う。主人公は本当にけなげで、応援したい気持ちになって、最後まで読ませる。これがフィクション仕立てで、『生きのびるために』なんて書名がついていたら嫌らしいけど、『ガラスのうさぎ』というタイトルも何のことかな、と思わせて、いいと思う。ただ、こういうものを子どもに読ませて、戦争はよくないと思いました、という感想文を書かせて終わるというのではなく、親や教師と話すとか、そのあとのフォローが必要になってくるのでは。

アカシア:私は昔読んだときは感動したんです。でも今もう一度読んでみると、この本以外にも「悲惨」と「がんばる」がセットになって「けなげ」をアピールする本がほかにもいっぱいあるなあ、とそっちに目がいってしまった。それが課題図書になったりしていることに気づいて、これでいいのかなあ、と思い始めてます。今の子どもは「この子はかわいそうだった」と思い、その中のよい子たちは「戦争はやめましょう」と作文に書いたりするのかもしれないけど、それでどうなるんですかね? がんばりたくない子どもは、どうするんでしょうね?

アサギ:最後の憲法第9条のところで、これだけのことがあったからこそ平和がいいものだということが、子どもたちにも伝わるんじゃないの。

ハマグリ:体験してきた人は、こういうスタンスでしか語れないのでは。

アカシア:この手の戦争児童文学が出続けることに対して、清水眞砂子さんが「子どもは食傷している」と言ってましたよね。それに、今の子にとっては、ファンタジーと同じレベルの非現実的な物語になってしまう。

むう:この時代そのものが今の子にとってまったく縁のない別世界にしか見えないという意味では、やはり今の子にとってはハードルの高い本だと思います。家族のありようや言葉の使いよう、生活習慣等々、すべてが子どもたちの身の回りとかけ離れていて、おいそれとは共感できないかもしれません。しかも、この主人公は一種の優等生で、へんてこな人物が出てこない。結果、じつにクラシックな、いかにも児童文学ですという感じの作品になっている。むろんこの本の力は、作者が事実を書いている、その中をかいくぐってきたということにあるのであって、その意味で、いもしない人物を登場させるわけにいかないのはわかります。また、このような悲惨な事実を子どもたちにきちんと伝えたいという作者の気持ちは重い。しかし、戦争を書いた児童文学がすべてこの本のようなトーンの作品ばかりでいいとも思えないんです。仮にこれがフィクションであれば、いい加減な人間や奇妙な人間、子どもたちの身の回りにいそうな人間を登場させることによって、物語を子どもたちに身近なものにできるはずですよね。この本自体は立派な本だけど、その後の日本の戦争を扱った児童文学が、フィクションであるにもかかわらず、この本をなぞる「ノンフィクションのまがい物」の範疇を出られていないところが問題なのでは? 先ほどのアカシアさんの言葉を借りれば、「ファンタジーで終わらない作品」がない。その時代を生きなかった人間だからこそ書けるフィクションとしての力を持った作品で、戦争と現代の子どもをつなげてほしい。

カーコ:『生きのびるために』と比べると、お話に力があるのを感じました。『ハッピーバースデー』(青木和雄著/金の星社)は、小・中学生からずいぶん支持されているようですが、あの作品を読むような子なら、同じように読めるのではないでしょうか。今回私は2000年刊の新版で読みました。章ごとに語句の解説があったりルビが多くなっていたり、今の子どもにも手渡したいということだなと思います。現代の日本の子どもの本だと、『夏の庭』(湯本香樹実著/徳間書店)にも、おじいさんが嵐の夜、三人の男の子に戦争のときのことを話すというシーンが出てきますよね。あれなどは、全編戦争ものでなくても、そういうことを今の子どもに伝えたいという現代の作家のスタンスかなと思います。

愁童:昔、読んだときも、今回改めて読んでみても、それほど共感は湧かなかった。数ある大人の戦争体験記の一つという感じで、「ガラスのうさぎ」という題名が生きてくる内容じゃないという印象。今の子に読ませる戦争ものとしては、もう無理なのでは? この作品の時代には日韓併合の影響で、小学校にも朝鮮半島から来た家庭の子が何人かはいて、いじめられたりするケースもあったけど、そういうことは書かれてないし、ひたすら小学生時代の作者が、いかにけなげに戦時中の苦労を乗り越えて生きてきたかという話に終始するので、児童文学作品として読まされると、何となく抵抗を感じてしまう面もある。

アカシア:戦争では日本は加害者でもあったわけでしょう。それなのに、日本の作家は被害者の視点ばかりを強調して、アジアの被害者の人たちの視点はほとんどない。ヨーロッパを舞台にしたものは、被害者のユダヤ人の証言や物語が日本でもたくさん出るのにね。いろいろな本が出て、これもその中の一冊というなら、いちばんいいのに。

ハマグリ:70年代に日本の戦争児童文学がたくさん出たけど、疎開の苦労や、被害者としての自分たちを語るものが多かったわね。これからは、もう一歩その先を行くものを読んでほしい。

きょん:あまりに悲壮感があって、べたべたの戦争物語なのですが、思わずかわいそうになって涙ぐんでしまい、嫌になりました。それだけ、「体験」を語ると言うことが「強い」ということなのでしょうか。それとも、これもテレビドラマに涙するのと同じように、ひとつのフィクションなのでしょうか。昔読んだときは、タイトルに出てきた「ガラスのうさぎ」は、掘り出した後どうなったんだろうと思ったことをおぼえています。
今の子どもが、理解できないと言いますが、どこがわからないのか、不思議です。「戦争」は遠い世界のことで、よくわからないのでしょうが、「肉親を失う悲しみ」は、時代を超えて共通だと思います。親が目の前で死んでしまう、兄弟が行方不明になる……自分の身に置き換えて考えればそんなにわからない話ではないと思います。それが、わからないとなると、今の子どもたちが、自分とは、違う状況にある他の人の立場になってものを考えられなくなっている危機的な状況なのかもしれません。それに、敏子さんは、すごくがんばりやさんですが、すぐあきらめてしまうような今の子には、「こんなにがんばる敏子さん」を理解できないのかもしれませんね。

もぷしー:私は母が戦後生まれなんです。「がんばる像」についてですが、『アタックNO.1』は茶化していいけれど、この作品には茶化してはいけないというのを子どもの読者にわからせる気迫がある。子どもが自分で手にとる本ではないなので、課題図書という形でなくても、子どもに手渡せば伝わるのではないでしょうか。

アカシア:戦争はいいか悪いか、と問えば、今の子どもだって「悪い」という子が圧倒的に多いと思うんです。でも、戦争って、したくないのにいつの間にか巻き込まれてしまうんですよね。その辺の視点がないと、「戦争は悪い。被害者は悲惨」ということを伝えれば戦争はストップできるんじゃないか、と勘違いしてしまう。

アサギ:だいぶ前に、子どもを白血病で亡くした友人がいて、その手の本を読んだことがあるの。同じように子どもを亡くしたお母さんの手記というのを、当時、滂沱の涙を流して読んだのよ。なのに、あとになって思い出すのは、同じ時期に読んだ津島佑子の『夢の記録』(文芸春秋)っていう短篇集なの。場合によってはフィクションのほうが、読者の胸の奥に届くこともあるのかと、考えさせられたのを今思い出したわ。この『ガラスのうさぎ』にはノンフィクションならではの強さを感じましたが、もし戦争をいまの子ども達の日常につなげて描くフィクションがあれば、それはそれでとてもいいことだと思うのね。ノンフィクションでは、どうしても事実に縛られるし、書ける人が限られてしまうから。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年4月の記録)


バラ色の怪物

笹生陽子『バラ色の怪物』
『バラ色の怪物』
笹生陽子/著
講談社
2004.07

版元語録:自分の中の「怪物」がうごめきだす。中二の遠藤は、学校の異端児・吉川と仲良くなるいっぽう、中学生でありながら、ネットオークションでお金を稼いでいる三上のボディーガードをはじめることに…。

ブラックペッパー:とても上手に書けている、と思いました。すっと読めて。でも、上手に書けすぎているという気持ちもあります。遠藤が急に強くなるというのが鮮やかではあるけれど、急すぎた。あと、吉川がよくわからなくて。彼女はなんなんでしょうね? 『スターガール』(ジェリー・スピネッリ著 千葉茂樹訳 理論社)のような、反逆児のような。こんな子いるのかな?

:私は、『ぼくは悪党になりたい』(笹生陽子著 角川書店)の方が、得体の知れない人がいなくて、読みやすかった。この本も、主人公の男の子が家の手伝いをするし、母親に心配かけまいと健気だし。そんな子がネットオークションでカードを売り買いしたり、夜の歓楽街に出掛けたり、本人に自覚の無いままに事件を起こしたり、巻き込まれたりする、中学生くらいの子のこわさが実感としてありましたね。急にあんなに遠藤が強くなるところには、私も違和感をもちました。

むう:私はかなり好きです。『きのう、火星に行った。』(講談社)以来、笹生さんの書き方が好きなのかもしれません。現在の世相をうまくとりこみながら、順調に育ってきたバイオエリートみたいな子がうまく出ている。一歩ずれたところに自分を置いている感じが納得できる。主人公が母親と口ゲンカになるところも、この年代特有の人との接しにくさがよく書けている。暴力におぼれていくところも、私は違和感がなかった。ただ、最後のおっかけっこの場面で、突然劇画調になったのがちょっと。全体としては好きですね。

ハマグリ:文章がうまいと思うし、すらすらっと読める本でした。でもこの主人公のような、一見さめているみたいなんだけど実は結構単純という主人公って、あまりおもしろみがない。こういう子は確かにいるとは思うんだけど、個人的には好みではありません。『楽園のつくりかた』(笹生陽子著 講談社)の主人公の方が好きですね。読んでいるときはすっと読めるけど、作品としてはなんとなく後味が悪い。三上なんかの描き方もそうだし、吉川は、最初の出方が印象的なのに、中途半端。人は見かけによらない、別の面を持っているという程度で終わっているのが、とても物足りなかったですね。

きょん:ずいぶん前に読んだんです。全体としてはすらっと読めるけど、私もあまり好きじゃなかった。なんとなく中途半端な感じがしました。子どもの中に潜む“怪物”はちょっと理解できたし、それが、時としてむくむくと頭をもたげて暴れ出し、心を乗っ取る感じは、よく描けているのだけど、結局、最後には怪物の正体を見つけられたのか、それを追い払うことはできたのか、疑問が残ります。吉川は、よくわからなかったんですよね。やはり最後には、飛び降りたのでしょうか……。吉川が、「ふつーの世界」の住人にこづき回され、嫌われながら、なぜ平然と変人ごっこを続けていたのかよくわからなかったんです。せっかくおもしろいキャラなのに、なんでこうなったのかが漠然としすぎていて。問題提起を投げつけるだけで、本の中で自己完結できなくて、そのまま終わってしまったよう。進学私立校に通うエリート中学生の三上の犯罪も、なんだか中途半端で、それでどうなったんでしょう? YA文学で思春期の子どもたちが読者だと考えると、問題を投げつけるだけでも、共感できるのでしょうか? あえて、そこに生き方とか、指標になるようなものを提示しなくても、いいのでしょうか? 中途半端な書き方が、この中途半端な年代には、いいのかしら?

愁童:最初は3冊のなかでいちばん面白いかなと思ったんだけど、『きのう、火星に行った。』のほうが面白かった。中学生あたりに読ませるという意識が過剰なんじゃないかという気がしました。吉川の奇矯な行動を出してきて、読者の関心をパッと引きつける冒頭の書き出しなんかうまいなって思ったんだけど、その後、ほとんど吉川が書き込まれてこないのが残念です。最後の方で、青いつなぎを着た男を裏と定義し、それに吉川を重ねて遠藤が納得するシーンには違和感が残りました。だって、青いつなぎの男は、読者からは裏には見えない。外見のハンデにもめげずに、倉庫で普通に仕事をしている設定になっていて、むしろあっぱれなぐらい表なんじゃないですか。吉川を、こんな風に説明するんじゃなくて、ストーリー展開の中で上手く書き込んでくれれば、遠藤との交流を通じて作品の奥行きが出てきただろうに、惜しいなって思いました。

ブラックペッパー:吉川がああなったのは、塾に一緒に行っていた子たちから仲間はずれにされたのが原因なんですよね。

愁童:でも、その描写はないわけで。

ブラックペッパー:そこがずっと謎だったのが、あとから明かされて「真相解明!」っていうつくりなんですよね。

愁童:文章で書くならば、グレーゾーンも書かないと、立体感が出てこないじゃないですか。

ブラックペッパー:私は、吉川が、派手なことをしたいのに温室によく来てるということがピンとこなかったですね。お花に詳しかったり。

むう:吉川やつなぎの男の人っていうのは、多数派と少数派の対比なのかな。マジョリティーとマイノリティーみたいな。

愁童:それは裏とはちがうんじゃない。青いつなぎの男は少数派かもしれないけど、裏じゃないと思う。

アカシア:中学生ってすごく難しい年齢ですよね。社会からは疎外されたところにいて、でもあれこれ思い悩むし感受性も強い。だから常識の物差しでは量ることができない吉川みたいな女の子だって出てくるのはわかるんです。ただ最初の出だしを読んだときは純粋エンターテイメントのドタバタなのかな、と思ったんだけど、読んでいったらそうでもなくて、どっちつかずになっていた。私も『ぼくらのサイテーの夏』(講談社)や『きのう、火星に行った。』のほうが、心理の揺れがきちんと描かれていて作品としての質は上じゃないかと思いました。
今日は出席できないトチさんから、メモを預かっているので、みなさんにもお伝えします。

トチ(メモ):三上くんの正体がなんなのか知りたくて、最後まで読みました。途中から「光クラブ」にヒントを得ているんだなと分かりましたが、歳のせいでしょうね(リアルタイムで知っているわけではありません。念のため)当時より今のほうがずっとこういう事件(というか犯罪)が起こりそうな時代ですし、題材の選びかたがなかなか鋭いし、おもしろいと思いました。というわけで、三上くんがらみのストーリーは、おもしろかったし、遠藤の気持ちもきめこまかく、よく描かれていると思いました。ウサギのような宇崎くんもおもしろい。
でも、三上くんのストーリーと、吉川や、頭にけがをした青いつなぎの若者の話がどうからんでいるのか、わかりませんでした。よっぽどオツムが悪いのでしょうか? 一見バラ色の怪物のような吉川や、けがのせいで通行人に気味悪く思われている男の人のほうが怪物ではなく、三上くんのような優等生のほうが怪物だといいたいのでしょうか?でも、それじゃあまりにも単純すぎて……どなたか教えてください。
青いつなぎの若者の話は、分からないを通りこして、憤りすらおぼえました。94ページの「『魔界じゃ姿が醜いやつほど強いってことなんすかね』……遠藤はふとつぶやいた。青いつなぎの若者のことをぼんやりと思い出しながら。この世のものとは思えないほど醜く、そして強い者」とか、86ページあたりの若者をことさら英雄視した吉川の言葉とか……「もはや存在そのものがリアルの域を超えているね」なんて言われたい人間がいるんでしょうか?

カーコ:今回選書するときに、中学生が主人公になっているものを選ぼうとしたんです。今の中学生にどんな本が届いているのかが、少しでも浮かび上がればいいと思って。笹生さんは、中学生によく読まれている作家だし、話題にもなっていたのでこの本を入れました。でも、これは読後感がよくありませんでした。衝動を抑えられない感じがうまく出ているので、中学生が読んだら、ほかにもこういう子がいるのかと思うかもしれないけれど、もっと明るいものを見せてほしい。また、保護者の立場で読むと、おそろしいですよね。親の知らないところで、子どもがこんなことをしているなんて。東京都では昨年条例が出て、中学生の夜間外出は禁止になり、違反すると親は罰金を払わなければならなくなっています。だから、現在の東京都ではこの物語の設定はリアルじゃないですね。

紙魚:笹生さんのほかの作品にもいえることですが、冒頭の吉川の登場のしかたや、それぞれのキャラクター、物語の設定にきれ味があって、すっと鮮やかな印象が残ります。キャラクターのデフォルメがうまいので、多少、心情描写がうすくても、どんどん読み進めていけちゃう。ただ、その鮮やかさが切れ切れとしていて、なかなか一筋のものにつながっていかない。だから、読んでいるときはおもしろく感じられるのだけれど、吉川とか、つなぎの男とか、この物語にどう機能していたのかがつかみにくい。

すあま:同じ時期に出版された『サンネンイチゴ』(笹生陽子著 理論社)を読んだところなのですが、どちらも中学生のとんがった女の子が出てくるので、いっそのこと同じ子のちがう話(シリーズもの)でもいいような気がしました(他の参加者から「出版社がちがうから無理」という声あり)。読んでいる間はおもしろかったんだけど、読み終わってみるとそうでもなかった。吉川さんは、疎外されたのが原因で変わった行動をする子になったように描 かれていますけど、もともとの性格なのか、実はとても気持ちが弱いんだけど時々爆発するのか、わかりませんでした。見た目と行動の奇抜さだけでは、キャラクターとして弱いので、もう少ししっかり描いてほしかったな。青いつなぎの人との関わりも、ハンカチ拾うだけで終わっているのが物足りませんでした。

アカシア:私は、ハンカチ落とすなよ、と思っちゃった。月並みすぎるじゃないですか。

むう:吉川っていうのは、おそらく主人公が変化するための触媒なんでしょうね。だから、それほど主人公との関係が濃くならなくてもいい。ほどほどの関係で推移するんだけれど、それでいてまったく軽い存在ではないわけで、主人公はちょこちょこと刺激を受けていて、それがあるからこそ三上君との世界で自分の今まで知らなかったところを発見する、という流れなんじゃないかな。さらに、吉川にとっては、つなぎの男の人が触媒みたいな存在だったんじゃないかな。つなぎの男の人との深い交わりがあったからではなく、自分の抱えている問題があって、そこに男の人を外側から見ていて自分なりに受けた刺激が加わってはじめて今の吉川が生まれたと、そういう構造なんじゃないかな。だから、吉川やつなぎの男の人はあまりいろいろと書き込まれていなくて謎が多いままなんじゃないかな。つなぎの男の人の扱いにはかなり問題ありだと思うけど。

愁童:確かに触媒って言われるとわかりやすいね。でも、吉川が触媒で、青いつなぎの男が吉川の触媒っていうのは、すごく分かりにくい。吉川が触媒なら、吉川をもっと書き込んでほしかったな。

すあま:吉川は、あこがれの人を遠藤に見せたかったんですよね。

愁童:隔靴掻痒という感じがするよね。本当の触媒としての共感が生まれない。

ブラックペッパー:うー、でも、吉川は自分を見せないようにしている子だからね。

愁童:読者は、吉川への魅力に引きずられて読んでいる部分があるのに、最後は、表・裏みたいな簡単な図式で終わってしまうのは残念だったな。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年3月の記録)


ルビーの谷

シャロン・クリーチ『ルビーの谷』
『ルビーの谷』
原題:LUBY HOLLER by Sharon Creech 2002
シャロン・クリーチ/著 赤尾秀子/訳
早川書房
2004.07

版元語録:ダラスとフロリダは孤児院育ちでひねくれ者のふたご。夏休みの間、美しいルビーの谷で暮らす老夫婦に引き取られた。ところが問題を起こしてばかり…。

紙魚:いちばん馴染めなかったのは、このふたごの年齢。13歳とありますが、会話や行動からはとても13歳とは思えない。だから、この子たちの像をつくりあげられないまま読むのがしんどかったです。会話もおかしいですよね。ほかにも、いろんな疑問が残ります。後半、孤児院の院長夫婦がやっきになって買い物する描写が続くところなんかは、コミカルに見せたいのか、それぐらいひどい人なんだという深刻さを出したいのか、どちらなんでしょう? Zが最後どうなったのかも気になります。それから、老夫婦にとっての旅の意義とはなんだったのか? 前半部分でそれがちゃんと伝わらないと、夫婦の生活実感とか、二人がそれぞれ子どもをつれて旅に出る意味など、うすっぺらいものになっていまいます。文章からは伝わってこないけど、実際のところはこうなんじゃないかと思って読む感じでした。

カーコ:確かに、私もずっとちぐはぐな感じがあり、これは原作の問題なのか翻訳の問題なのかと思いながら読み進んだところがあります。ふたごの視点と老夫婦の視点を使うことで、思っているけれど言わないこと、思っているけど伝わらないことなどが、鮮明になっていて、そこはうまいと思いました。自然に年長者の思いが、読者に伝わってきますし。会話が多く、本来は読みやすい作品のはずなので、子どもの本としての目配りがもっとほしかったです。ルビーの谷の美しさなど、心にしみる部分があるだけにもったいない。また、『ホエール・トーク』(クリス クラッチャー著 金原瑞人訳 青山出版社)を読んだときも感じたことだけど、外国のもののほうが、大人が断然くっきりしています。日本の大人は、子どもたちに大人の文化を見せていないのかな、と考えさせられました。

アカシア:私も、ダラスとフロリダは、読んでいてもっと小さい子たちかと思いましたね。でも絵を見るともっと大きいのよね。老夫婦の気持ちや人柄はよくわかるんだけど、ふたごの描写は、ステレオタイプだと思いました。カーネギー賞作品なんだから本当はもっといい話なんだけど、翻訳がそれを伝えていないのかしら? 私も、孤児院の院長夫妻には全くリアリティが感じられなくて、それが作品全体のバランスを崩していると思いましたね。ここでまたトチさんの、メモを紹介します。

トチ:(メモ):原書のタイトル(Ruby Holler)を見たときに「なにこれ?」と思ったのですが、holler は hollow(窪地)の方言なんですね。大声で叫ぶ holler と窪地のhollerをかけている、なかなかしゃれたタイトルです。それはともかく、『ロラおばちゃんがやってきた』(2005年2月)のときのハマグリさんの台詞を借りれば「いい人たちがでてくる、いいお話で、感動しなければと思って読みました」(本当は、いい人ばかりではないんですけどね)。1章の「銀色の鳥」で、この子達はいずれ銀色の鳥に導かれるようにして、温かい家庭に引き取られるのだろうなと思いましたが、たちまち3章で、長い道筋の末にたどりつくのだろうと思っていた温かい家庭の持ち主があらわれたので、ちょっとびっくりしました。後はもう、そうなるだろうなと思うような道筋で進んでいき、「それからはみんな、いつまでも幸せに暮らしましたとさ」で終わる……現代のフェアリーテールですね。
アマゾンのreviewを読むと、フロリダの言葉がショッキングでそれが面白いということですが、残念ながら翻訳版ではそれが感じられません。putrid とフロリダが口走るところがとってもおもしろいとアマゾンでは子どもの読者が何人か書いていますが、これを「むかむかする」と訳しているのでしょうか? フロリダの言葉もダラスのそれも、今どきの大人よりも上品で、古めかしい。140pのフロリダの言葉に「わたしのオツムがいかれたんじゃなきゃ、これはベーコンよ……」とあるけれど、この子が「オツム」なんて言うかなあ?
ルビーの谷の夫婦がなんで別々に冒険旅行にでかけるのかなと最初は思ったのですが、仲のよい夫婦なので永遠の別れのリハーサルなのかなと思い、そこはちょっとほろっとしました。深読みでしょうか? それから、フロリダとダラスを夏の間だけ引き取ったのは、旅の道連れにするのに、若くて元気がいいからということなのでしょうか? ちょっと勝手なのではと思いましたが、どうなんでしょう? 自分たちにとっても便利だし、孤児たちも喜ぶだろうしということなのかしら? そのへんのところがよく分かりませんでした。
また、トレピッド院長夫妻があまりにも漫画的に描かれていて(特に買い物のところなど)、軽すぎるかなと思いました。Zがふたごの実の父親だったというところもねえ。フェアリーテールとして読めばオーケーなのかもしれないけど。
これ、本当にカーネギーを取ったんでしょうか? 好き嫌いはあるにしても『ふたつの旅の終わりに』(エイダン・チェンバーズ著 原田勝訳 徳間書店)などとくらべてあまりにも小粒なのでは?

愁童:3冊の中でいちばん読みやすいんだけど、主人公がもっと幼いと思って読んだものだから、孤児物語定番ものみたいな感じがしました。あちこちで似たような話を読んだなという感じ。Zの書き方にもう一工夫あれば、もっとおもしろくなったのでは?

きょん:私も主人公が13歳とは思えなかった。6歳くらいの印象ですよね。ふたごと老夫婦と、2つの視点で書かれた、それぞれのエピソードが、ばらばらに入っているのだけれど、それが、うまくかみあわさっていて、パズルのピースをはめ込んでいくように世界ができていくのはおもしろい。このストーリーの中では、老夫婦のそれぞれの旅は、あんまり意味がなかったんだと思いました。作者にとっては、老夫婦とふたごが、旅に出るまでの複雑な心の揺れや迷いを描きたかったのではないでしょうか。行かない方がいいんじゃないかとか、ふたごと老夫婦のそれぞれが離ればなれになるのは初めてだから大丈夫かとか……。はじめは、子どもたちは、旅に行くつもりなんか全然なくて、夜汽車で逃げ出そうと計画しているのに、旅に行って帰ってきてから夜汽車に乗るのでもいいか……とか。心の揺れと迷いがよく描かれていておもしろかった。そして、子どもたちが心をひらいて旅についていくというのは、よく伝わってきました。
子どもたちは、もしかしたら、愛情をかけられずに施設で育ったため、粗暴で感情が未成熟で幼く感じるのかもしれませんね。老夫婦に出会うことによって、人間的な心をとりもどして、心も人間としても成長していくのかもしれない。Zは、重要な脇役だけど、最後はどうなるのか、ちょっと中途半端な伏線だった感じがします。
最後に、フロリダが、はっきりと「行きたくないここにいたい。こんなにやさしくしてもらったの初めてだもん」っていうところが、本当に印象的だった。今までは、「いたいかもしれない」「今までとは違うかもしれない」と予感していたけど、はっきりと言葉にしていない、それは、言葉にしてしまうことで、裏切られるのが怖いからで、今まで裏切られてばかりいたから、信じてはいけないと思っていたから……という、その感じが、痛々しいほど伝わってきました。

ブラックペッパー:読み終わって、まるくおさまって、いい気分でした。私は年齢にはひっかからなかったけれど、時代はいつなのかと気になった。この状況って、現代にありうるのかと。だって、こんなお仕置きしたりする孤児院、経営者は逮捕されちゃわない? これはいつの時代の話なんですかね?

:「リモコン」って出てくるから、現代ですね。

ブラックペッパー:今なのね、やっぱり。で、あんまりリアリティを求めずに読んだから、女の子は元気がよくて、男の子はぼんやりしてて、いろいろあったけど最後は「よかったね」という感じ。Zがお父さんだったというのは、ちょっと。でも、お父さんだとは名乗ってないないので、まあ、それもいいかなと思いました。

アカシア:子どもたちを孤児院に帰すわけにはいかないし、老夫婦がひきとるわけにもいかないから、こういう結末にしたのかしら? そのためにはZが必要だったのかも。Zは近くに住んでいるから、子どもたちはまたルビーの谷にもしょっちゅう来られるわけだし。

ブラックペッパー:私は、老夫婦がひきとって、Zがちょくちょく来るという結末になるのかなと思ってました。

:この本と前後して読んだ『ダストビン・ベイビー』(ジャクリーン・ウィルソン著 小竹由美子訳 偕成社)も捨て子になって里親や施設を転々とし、辛い子ども時代を送ったため、大人を信用できなくなった子どもが思春期に自立していく話なんですが、そっちは過酷な状況がさほどリアルに伝わらなくて、妙にほのぼのとしていました。孤児院の院長夫妻は、奥さんがフロリダを我が子として育てようとしてうまくいかなかった挫折感がコンプレックスになっているせいで、ふたごが神経に触ってしまうんでしょうか? Z・謎の男ですが、推理小説好きとしては、ZはZでいいけれど、老夫婦にはZと呼ばせず、名前(ボブでもジョンでも)で登場して、後で同一人物だったって方がおもしろかったのに。Zに石を探させるところは、リアリティを通り越して滑稽でしたね。

ブラックペッパー:私は、最初の登場人物紹介に「謎の男」と書いてほしくなかった。

愁童:そうだよね。ふだんから老夫婦の家に出入りしているのに、老夫婦まで「Z」と呼んでいるのはリアリティないよね。

:それから、フロリダの「むかむかする」という表現が気になって数えてみたら、30ページまでに8回位使っているんです。その後、フロリダとティラーがお互いを理解し近づいていく流れの山場でティラーが「むかむかするっていうのはいい言葉だな」と言うので、これは、本当はキーワードなんでしょうね。なんかぴったりこなかったんですけど。

すあま:今の言葉でいえば、「むかつく」とか「きもい」とか、若い子がよく使う言葉に当たるのかな?

アカシア:これが、トチさんの言ってたputridなのかも。

むう:私は、ずいぶん古典的な本だなあと思いました。ほとんどみなさんがおっしゃったことで尽きているんですけれど、院長のショッピングのエピソードや、Zの扱いがまるで宙ぶらりんなところは持て余しました。途中で院長夫人がふたごをひきとろうと考えるところで、「おっと、ここですこし心の綾などが見られるのかな?」と思ったら、そうでもなく続いていってしまうし、なんだかとっても変。老夫婦の設定には好感がもてたし、ふたごの揺れる気持ちとか、何度もドジをして、そのたびにすくみ上がりながら少しずつ心を開いていくところなんかはいいなあと思いました。何かをしていくなか、何もしないでただいっしょにいるなかで絆が培われていく感じがよく出ていると思いましたし、老人二人とふたごとの心の変化だけでも十分だった気がするんです。ふたごが家出しようとするんだけれど、一方で老夫婦に見つけてほしいと思っているあたりもリアルでよかった。でも、それと院長夫妻やZの扱いのお手軽さがなんともアンバランスで……。カーネギー賞は、どちらかというと子どもが読めるのかなというくらい文学性が高かったりする本に与えられる賞だと思っていたので、この本がカーネギー賞だというのはかなり意外でしたね。

ハマグリ:この本の印象は、はっきりいって退屈。早く終わらないかなと思いながら読みました。目次を見ると、66もの章に細かく分かれている。中には1ページしかない章もあり、それぞれに最後をうまい切り口でパツンと切ったりして、しゃれた構成にしている。でも、その切り方がどういう意味なのかよくわからないものもあって、よさが十分に味わえませんでした。また、老夫婦とふたごのイメージと、実際にくりひろげられている会話やキャラクターと、この本の挿絵のイメージがばらばらで、かみあわない感じがしました。また、院長夫妻は最初は、昔からよくある意地悪な孤児院の院長のような雰囲気だったのに、途中から突然、滑稽な買い物風景が出てきたり、おもちゃの宝石にだまされたりするなど、急にマンガみたいになって、一体どうしたのかと思いました。Zが親だったというオチも、とってつけたようでいただけません。

カーコ:院長夫婦をマンガのキャラクターみたいにして、読みやすくしようとしたのかしら?

ハマグリ:文脈からいっても、院長夫妻が単なるおバカな人たちになるのは、ありえないでしょう。トチさんのいうように、現代のフェアリーテイルとして読めばいいのかしらね。

すあま:私もおもしろくなかった。カーネギー賞だからおもしろいはずなのにと思ったんだけど、どうしておもしろくないんでしょう? 話に乗っていくことができないのは、原作のせいなのか訳のせいなのか、どっちなんでしょう? とんちんかんなことをしたりするのを、もうちょっと楽しみたいんだけど、言葉づかいのせいか入り込めませんでした。原作はもっと違うものなのではという疑念がわきました。院長たちのチャチな犯罪は、リンドグレンやケストナーの昔の作品に出てくる安っぽい悪者みたいですが、かえって逆効果。話の本筋と別のところでハラハラドキドキさせようとしたのかな?

ブラックペッパー:でもあれがないと、Zが活躍できないんですよ。

すあま:老夫婦が本当の子どもたちに2人ひきとることを反対されているけれど、その先どうなるかが書いていないので、何となく腑に落ちないまま終わってし まう。シャロン・クリーチの他の作品は読んでないんだけど、ニューベリー賞も受賞している作家だし、本当はおもしろいのでは?

ハマグリ:筋も腑に落ちないとすれば、訳のせいだけではないわよね。

すあま:ふたごが、よかれと思ってやるのに老夫婦の大切なものを壊しちゃうなんていうすれ違いも、もっとおもしろく訳してほしかったな。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年3月の記録)


スカイラー通り19番地

カニグズバーグ『スカイラー通り19番地』
『スカイラー通り19番地』
原題:THE OUTCASTS OF 19 SCHUYLER PLACE by E.L. Konigsburg, 2004
E.L.カニグズバーグ/著 金原瑞人/訳
岩波書店
2004.11

版元語録:両親のいない夏休み、マーガレットは大好きなおじさん兄弟の家へ、近隣の人々から取り壊しを求められたおじさんたちの創作タワーを守るため、少女は戦う。

すあま:カニグズバーグの新作ということで、ある程度、期待をもって読み始めました。前半はおもしろかったんだけど、後半の塔をめぐる争いになってから、あんまりおもしろくなくなってしまいました。主人公をキャンプでいじめていた子たちが最後に出てくるけど、そんな簡単に関係が修復されてしまうものなんでしょうかね?

ハマグリ:私も期待して読んだんですけどね。カニグズバーグはとにかく周到に考えて、最初から最後まできちんと作る人なんだなということはわかったけど、実はあまり楽しめなかった。この主人公みたいな、ちょっと大人びた女の子を書くのはうまいと思う。二人のおじさんの雰囲気も、他の作品にない感じで、ユニークでよかった。犬のタルトゥーフォも脇役としてとても効いている。でも、よくわからないところも多かったし、ピンとこないところがあった。でもカニグズバーグなんだからきっとおもしろいに違いないという思いがあって、それに邪魔されてしまったかもしれない。やっぱり、私は初期の作品のほうが好きです。

むう:私もかなり期待して読んだんですが、読み終わって、作者は何書きたかったんだろうと思っちゃいました。当然ながら、文章はうまい人だし、主人公や二人のおじさんはとても魅力的なんですけどね。そもそもカニグズバーグは繊細で自立心の強いタイプの子を書くのがとても上手で、ここでも「わたしたち」という言葉にこだわる主人公の気持ちはとてもよくわかる。でも、ずっと読み進んでいって、半分近くまでキャンプの話が続いて塔の話に入ったところで、ふと、タイトルが「スカイラー通り19番地」なんだから、これからはじまる塔の話が本番ということなのかな、と思ったのだけれど、どうもそうじゃないんですね。前半のキャンプの話はぐっと主人公に引き込まれて読み進んだのだけれど、後半の塔の話になると、印象がまるで変わってきちゃって、ひどくちぐはぐな感じを受けました。塔の話になってからの展開がずいぶんドタバタしていて、きちんと書き込まれていない感じですね。主人公やおじさん以外の人々が、ジェイクにしてもそうなんだけど、なんとなく周辺にとどまっていてあまり活躍していない印象が残ったんです。あと、最後に塔を大企業が買っちゃうという結末はひじょうに不満でした。「ステップ3のあと」の部分の書き方が、懐古調で妙にたんたんとしているせいもあるのかな、読み終わってとっても寂しい感じが残りました。ああ、さすがのカニグズバーグにも、最盛期のような輝きはなくなってしまったのか、と思いました。

:最近出てた他の作品が読みにくかったので、これはカニグズバーグを読んだなという感じが持てました。カニグズバーグの新作だと期待しすぎちゃうので、いろいろ厳しい意見が出るのでしょう。おじいさん二人が、映画『ウォルター少年の夏休み』の雰囲気に似て、うまく伝わってきました。ただ、塔がどういう形なのかイメージが持てなかった。塔をアウトサイダーアートという言葉で価値を高めて、買い取ってもらうというのも、解決の一つかなとは思いました。でも、やはり寂しさが残ってしまいました。

ブラックペッパー:私は、その寂しさは、ロレッタさんとピーターのせいではないかと思うんですけど。ジェイクならわかるけど、会ったこともない人に電話で頼んで解決しちゃうのが達成感がなくて、寂しいのでは? 私は、女の子が歌を歌うところが好き。「わたしたち」の言葉にこだわるところも。

紙魚:しかも、ジェイクはロレッタさんと結婚しちゃうんですからね。聞いてないよーと思いました。

ブラックペッパー:あと、「カピシ」はcapisciだと思いますが、「カピーシ」がナチュラル。もし、わざと変ないい方をしてるのであれば、傍点つけるとかしたほうがよいと思う。OKは「オーケー」とか「オッケー」ならいいけど「オケ」じゃダメなのと一緒。許容範囲をこえています。

きょん:寂しかったのは、塔を記念碑のようにしてしまったからだと思います。マーガレットたちは、そんなことを望んでいたわけじゃないでしょう。窓をあけて、塔が見えるというその状態が大切でしょ。自分たちの生活空間の中に自然にとけ込んでいる“塔”が大切だったのだと思うのに。

ブラックペッパー:でも、壊されちゃったら、もっと寂しい……。

きょん:どうしてスカイラー通りに残すことが無理なのかわからないですよね。あの塔の周辺の町並みは、都市計画の中で旧市街のように残そうとしていた地域なのだから、塔を残すことだって可能なのでは? 事実の記録じゃなくて“お話”なんだし。

アカシア:私は、暮らしの中に塔を残すのは今の現実社会では無理なんだ、とカニグズバーグがあきらめちゃったような気がして、それが寂しかった。

きょん:登場人物は、ユニークでおもしろかった。あと、マーガレットがなぜイギリス国歌を歌っているのかがわからなかったんです。

ブラックペッパー:ひとりで歌をうたっちゃうっていう気持ち、あると思うなあ。あと歌詞もいい! とくに2番。

きょん:最後、ピーターはどうなったんでしょう??? ちょっとラストは、バタバタととりとめもなく集結していくところが残念でした。何となく妙な感じが残る本でした。

愁童:ぼくは、ええっ、これ、カニグズバーグなの? という感想。ほかの作品のように、存在感のある印象的な人物がバーンと出てこない。書きたかったのは、ひょっとして、アウトサイダーアートだったのかな、なんて思っちゃった。スチールパイプを組んで、がらくたをぶらさげている塔を、記念碑として残すというは、説得力に乏しい。つまんなかった。ジェイクにはひかれたんだけど、いじめっ子たちをつれてきて運動をするというのはご都合主義に過ぎないんじゃないか? カニグズバーグのものとしては説得力に欠けていて、がっかりしました。唯一キャンプの女の子を問いつめる場面ではカニグズバーグらしさを感じたけど……。

アカシア:私は、カニグズバーグの作品は、人物の描写のうまさとリアリティへのこだわりが特徴だと思ってるんです。で、人物に関していうと、校長先生はただの性悪でなくて厚みのある人物としてうまく書かれていると思ったし、「わたし」「わたしたち」にこだわっている主人公の女の子の描写もうまい。おじさんたちも魅力的。ジェイクの意外性もいい。でも、リアリティという点では、あまりいただけませんでしたね。もっとリアリティにこだわる作家だと思っていたんだけど、私が読み落としているんでしょうか? たとえば塔を守るためには、そこに取り壊しの人が入ってきたら所有権を主張して無断侵入で訴えて阻止しよう、という作戦を立てるわけですよね? でも、途中から方針が変わったのか、塔に立てこもってしまい、これは危険だからと警察に保護されてしまう。最初の作戦でいけばこんなことにはならなかったんじゃないかって、疑問がわきましたね。それに、おじさんたちは、いろいろな描写から生活の質にはとてもこだわっている人だと思えるのに、ケータイの会社に塔を保存してもらう、という終わり方でいいのか、ということも気になりました。私も、この塔が地域の人々の生活の中にあるからこそ意味があるのだと思っていたので。それとも、スカイラー通りでの塔の役割はもう終わった、とカニグズバーグはみなしているのでしょうか? その辺がよくわからなくて、もどかしかったんですね。それから校長のカプラン先生ですけど、ジェイクについてスカイラー通りまでついてきてしまうなんて、少なくとも翻訳で読むかぎりリアリティがありませんよね。残されたキャンプはいったい誰が面倒を見ているんでしょう? それから、これは訳の問題ですが、ジェイクの「回顧展」ってあるけど、回顧展って、ふつう死んでからやるんじゃない? 私はこの言葉が出て来た時点で、ああジェイクは死んでしまったんだ、と思ってしまいました。そしたらまた登場してきたのでびっくり。この作品でも下訳の人が入っているのかしら? カニグズバーグは一言一言がゆるがせにできない文章を書く人だと思うので、翻訳者ご自身が最初から取り組んでいらっしゃれば、読者のもどかしさはもう少し減ったのかもしれませんね。

ハマグリ:そうだよね。もっとおもしろいはずだよね。

カーコ:筋としてはすらすら読めるのですが、登場人物が増えて、設定も作品のつくりも複雑になって、最後のおさまりがつきにくくなっている感じがしました。『ホエール・トーク』(前出)も『ホー』(カール・ハイアセン作 千葉茂樹訳 理論社)もそうでしたが、社会的な問題解決というと、弁護士や各方面の人々が登場します。私はうっとうしく感じるのですが、アメリカでは普通のことなのでしょうか。校長先生も街づくりをする自治体も、正義の旗じるしをかかげているのに、実際は個々人の幸せにはつながっていないとか、おじさん二人にとって時間は過ごすためにある、とか、おもしろいところはいろいろありました。生きることに肯定的なのがいいですね。ただ、一人称でなくてはいけなかったのかなと思った部分がありました。たとえば、131ページ後半、街のことが書かれている部分は非常に三人称的で違和感がありました。ゴシックで書いてある章タイトル(?)も、しっくりしませんでした。きらいではないけど、問題がしぼりこまれていた初期の作品のほうが、私は好きです。

紙魚:イギリスの田舎に、意味のない鉄塔を立てている人がいるという話をきいたことがあります。おそらくカニグズバーグは、その鉄塔のことが頭にあって、この物語を書いたのではないかしら。でも、それがうまく物語のなかにとけこんでいなくて、キャンプのいじめの話、塔の話、その後の結末、という固まりのまま、ぶつぶつと途切れているのが残念でした。ジェイクがいじめっ子たちを追いこむ場面は痛快だし、「わたし」「わたしたち」という概念をおりまぜたりするところなんかはさすがですが、自分たちの(主人公もわたしたち読者も)手の届かないところで、物語が動いていく寂しさが残りました。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年3月の記録)


ロラおばちゃんがやってきた

フーリア・アルバレス『ロラおばちゃんがやってきた』
『ロラおばちゃんがやってきた』
原題:HOW TIA LOLA CAME TO VISIT STAY by Julia Alvarez, 2001
フーリア・アルバレス/著 神戸万知/訳
講談社
2004

オビ語録:あの日、ぼくは幸せな魔法をかけられた/両親の離婚でかじかんだ少年の心を/おばちゃんの笑顔と料理であたためていく/ユーモアとやさしさいっぱいの物語

むう:ささっと読めて、おもしろかったです。ロラおばちゃんという人に原色を思わせる魅力があって、(主人公の)ミゲルがおばちゃんの存在が「はずかしい」と思いながらも魅かれていくところがいいし、子どもたちとおばちゃんのやりとりが面白かった。パパとママの離婚があまり重たくなく扱われているあたりが、アメリカだなという感じでした。ニューヨークの3日間の最後にパパが(自分の描いた)絵をミゲルにくれようとするのに対して、ママのことを考えたミゲルが、ニューヨークに置いておいた方がいいというあたりに、主人公の優しさが出ていると思った。楽しく読める良い本という感じですね。(最後の)サンタクロースが実はおばちゃんというあたりも、クスッという感じで面白かったです。

アカシア:私はなんかちょっと物足りない話だなと思いました。むうさんは、おばちゃんに魅力があると言ったけど、私はもっとその魅力が浮き上がるように描いてほしかった。タイトルが「おばちゃん」で、会話は「おばちゃん」と地の文の「おばさん」の両方が出てくるのね。でも、地の文もミゲルの視点になっていたりするので、機械的に二種類の使い方をするとかえって趣をそこねるような気がしました。それから47pに「ミゲルが妹を『ニータ』と呼ぶのは、なにかたのみごとがあるときと決まっている」とあるけれど、それ以前の、頼み事をしていない所でも「ニータ」と呼んでいるので、あれ? と思ってしまいます。54pには「内地のやつら」とあるけれど、「内地」という言い方でいいんでしょうか? それと196pで、(ドミニカに行った主人公が)ホームレスの子どもを見て、自分の幸せを感じたと言っている場面がありますが、他人の不幸を見て自分の幸せを感じるという著者の視点に疑問を持ちました。そんなこともあって、作品全体があまり好きになれませんでした。

愁童:物足りなさと、もどかしさを感じた。陽気なロラおばちゃんの性格設定は分かるけれど、子どもたちがトップシークレット扱いにしなければならない理由がいまいち説得力に欠ける。だからロラおばちゃんが街の人々に受け入れられて、母親の誕生パーティに沢山集まってくれる結果になっても、主人公たちが、その変化にどう関わっていったのかが、読者には英語を教えたこと以外にはあまり伝わってこない。天性明るいロラおばちゃんの振る舞いを、子供達はただ眺めていただけみたいな感じで、物足りない。アメリカの子どもたちにとっては意味のある作品かもしれないけれど、日本の読者にとってはどうなのかな?

ハマグリ:私もみなさんと同じような感じで、ニューヨークからヴァーモントにやってきた子どもたちが、いろんな人種が暮らしているNYと違って白人ばかりのヴァーモントは暮らしにくいなと思っているところへ、ラテン系の明るいおばちゃんがやってきて、英語はしゃべれないのにみんなとすぐに仲良くなっていく……という暖かでさわやかなお話という設定だとはわかるんだけど、読んでいてつまずくところがたくさんあった。たとえば6pで、ママがミゲルに「おばさん」でなく、スペイン語で「おばちゃん」と呼んでくれと頼むけど、日本の子どもにとっては分かりにくい。英語とスペイン語と、たどたどしい英語を全部日本語に移し変えるわけだから、無理があるとは思うけど、もう少し工夫できないものか? 22pの空港におばさんを迎えにいくところ、「ふたりはカウンターの向こう側を見た」とあるけれど、ふたりはカウンターのどっち側にいたの? おばさんはどこにいたの? 情景が見えてこない。ほかにも情景が見えないところがたくさんありました。38ページの雪の上に歩いて字を書くところも。41pの「足跡は、文字から離れるのではなく、文字に向かっている」も??でしたね。101pの「ネコとイヌの嵐だよ」は、英語を知っている大人なら分かるけど、もうちょっと子どもにも分かるように訳さないと不親切じゃない? 103pの後ろから4行目「マジだよ……『オ』がついていることばは、なんでもだ」というところも、子どもに分かるように工夫が必要。168pには、「白文字で『ハッピーバースデー』と書いてあるたくさんの風船を飛ばした」とあるけれど、挿絵は黒文字になっている。
とにかく、情景が目に浮かばないので、楽しめるところまでいかなかった。私はぜんぜん面白くなかったわ。原書だったらもっと面白いというわけでもないんじゃない?

アカシア:翻訳や編集ももう少し工夫が必要だったと思うけど、原作自体のストーリーにもそれほどの魅力がないのかも。

カーコ:私がいいなあと思ったのは、おばちゃんが子どもたちに与えてくれるおおらかさです。白と黒だけのヴァーモントの風景のなかで、派手な服を着て、ひたすら明るいおばちゃんの姿とか、英語は不自由なくしゃべれるのに臆している子どもたちに対して、英語ができないのにどんどん友だちができるおばちゃんの好対照。「ああ、こんなこともあるのか!」と、子どもたちが思っていくところがよかったです。いろいろ指摘されていますが、もしかしたら、訳者がスペイン語もできる方なので、英語とスペイン語がまじりあった違和感を読みとばしてしまっている部分があるのかもしれまんせん。ドミニカとか中南米とか、遠い世界のことを知るという面白さはあるのでは?

アカシア:確かに子どもにとっては、知らない世界が見えてくる、というのは面白いことなんだけど、今ひとつその世界が生き生きと見えてこないんですね。おばちゃんのツケぼくろなんて、本当は面白いところなんだろうけど、その辺のユーモアがイマイチ伝わってこないのが残念です。

トチ:おばちゃんの服装と、お料理のところは面白かったけど。ドミニカ料理って、食べたことないから。ユニークなおばちゃんだ、面白い……と言葉では言っているけれど、やっていることは別に面白くないのよね。『シカゴよりこわい町』(リチャード・ベック著 東京創元社)のおばあちゃんみたいに、強烈なことをやるわけではない。アメリカに住んでいる子どもたちにとって、おばちゃんの派手な服装や身振りや、英語のできないことが面白いだけで、ドミニカにはそういう人たちはいっぱいいるでしょうし……言葉で言うだけじゃなくて、ストーリーでおばちゃんのキャラクターを語っていかなきゃ、読者には物足りない。それから、おばちゃんが子どもたちと話すときは「 」の中が平仮名で、すらすらしゃべっているでしょう? これは、スペイン語でしゃべっているのかしら? 子どもたちに習った英語で訳の分からないところを言う箇所は面白かったけど、ここはカタカナでしょう?原文はどうなっているのかしら?アメリカの読者はスペイン語もある程度分かるから面白い部分もあるかもしれないけど、日本の子はそれをさらに日本語に訳したものを読むわけだから、分かりにくいうえに面白さも半減しちゃうわね。

すあま:ロラおばちゃんのイメージが浮かべられないまま、終わってしまった。いろいろなできごとが、すべてさらっと解決してしまい、不満が残った。150pで、(がんごじじいの)シャルルボア大佐が「チャーリーズボーイ」と(野球チームの少年たちのユニフォームに)書かれているのを見ただけで、なぜ和解してしまうのかもわからなかった。原題が“How Tia Lola came to visit stay”で、visitを消してstayになっているのは、最初は主人公の子どもたちに拒絶反応があったけど、最後には大事な家族の一員になったということを意味しているということなのかと思ったが、ミゲルにもそんなに葛藤がないので、どうなのか。ミゲルの気持ちについていくと、肩透かしを食らうことが多かった。物足りなかったし、作者がなにを意図していたのかも分からなかった。

ハマグリ:良い人のでてくる、良いお話なので、感動しながら読まなければと思ったんだけどね……

トチ:ハマグリさんって、いい人なんだねえ!

(「子どもの本で言いたい放題」2005年2月の記録)


佐藤さん

片川優子『佐藤さん』
『佐藤さん』
片川優子/著 長野ともこ/絵
講談社
2004

版元語録:高校一年の少し気弱な主人公の男の子。彼が幽霊に憑かれている「佐藤さん」と出会い、彼と彼女のふしぎな関係がはじまった。

トチ:とても面白かった。最後まですらすら読めたし、なによりいかにも今どきの子どもらしい、生きのいい会話がうまいなあと思いました。森絵都の『カラフル』(理論社)とか、朝日新聞に浅田次郎が連載していた『椿山課長の七日間』(朝日新聞社刊)のような、ユーモラスな幽霊ものですよね。でも、後半になって親による虐待とかいじめなどが出てきたところで、良くある問題をそれほど掘り下げないで取りいれて、お手軽にまとめたなあ、と少し残念でした。最後に作者紹介を見たら、なんとまだ18歳か19歳なのね。さすがに子どもたちの会話はうまいわけだと納得しました。でも、それだったらなおのこと、同世代にしか分からない心の動きなどを、もっと書いてほしかった。この作品はこれでエンターテインメントとして完成しているのでしょうけど、これくらい軽やかで読みやすい文章を書ける人なので、これからもっともっといろいろな面を見せてほしい。どんなものを書いてくれるかと、わくわくしてます。

カーコ:書き出しがとても面白くて、この二人がどう近づいていくのか、ぐっと引っ張られて読んでしまいました。佐藤さんが学校の内外でキャラクターを使い分けるところとか、優柔不断な主人公が悩むところは面白かったから、二人の変化やクラスメートの男の子との話でまとめたほうがよかったのでは? 最後に虐待がからんでくるのは不自然。同年代だからか、話し言葉がうまい。崩れすぎず、ちょうどいい書き言葉になっていて感心しました。

ハマグリ:「ぼくは佐藤さんが怖い」という出だしの一行がとてもうまい。最初がすごく面白くて、ぐっとひきつけられた。はきはきしない性格で、押しの強い有無をいわせぬ子を苦手とする主人公の気持ちがとてもよく書かれていると思った。言葉遣いも地の文もこのような性格の一人の男の子の感覚を細かく表現できている。若いのに才能のある作家が出てきたと思う。それにユーモラスなところがあっていい。幽霊の安土さんは今日はいない、だって九州に行っているからなんて、おかしい。幽霊ならどこにいたって出るときは出るのに。ところどころ笑える部分があって、このところこんなに笑った話はなく、楽しかった。でも私もカーコさんと同じく、佐藤さんが実は虐待されているというところにきて、なんだそっちへ行くか、と思ってちょっとがっかりだった。それと小学生時代にいじめられていた清水を克服するために会いに行く場面で、清水が実は自分もいじめられていたとやたらべらべらしゃべるところが嫌だった。清水はもっと清水であれよ!と思った。これじゃあ主人公がちゃんと乗り越えられないじゃないか! この世代の感じ方を言葉で表現するのはうまいけれど、一つの物語としてのまとめ方はこの人のこれからの課題じゃないかと思う。

トチ:ストーリーがないっていうこと?

ハマグリ:部分部分が面白いから最後まで読めたけれど、構成がいまいちだし、ストーリーとしてのまとまりをつける点ではこれからじゃないかと思う。

アカシア:文章が面白いと思ったし、私は幽霊の扱い方は『カラフル』よりも面白いし『ウィッシュリスト』(オーエン・コルファー著 理論社)よりは、はるかに面白かった。一番引っかかったのは、高校生の男の子の描き方。私の息子が高校生だった頃、こんなだったかなあ、と思って。主人公は、手を握ることもできなくて、佐藤さんをどんなふうに助けてあげられるのか、と聖人君子みたいなことばかり考えている。ひこ・田中の『ごめん』(偕成社)とはずいぶん違う世界。女性の作家だから、やっぱり男の子は捉えにくいのかな、と思ってしまった。まあ佐伯くんのような子もいなくはないんだろうけど、中学生という設定にしたほうが自然なんだろうと思いました。物足りなかったのは、虐待の部分と並んで、香水事件の終わり方。p97で、田川さんが急に、お父さんの浮気の話をぺらぺらしゃべる。それまでそう仲良くなかったクラスメートに? とここは、不自然。それから、p30の「安土さんは……空気椅子してるんだろうな」というとこ、私はよくわからなかったんだけど。だってベンチはそこにあって、安土さんはちゃんとすわってるんでしょ?

みんな:幽霊は、ちゃんとすわれないのよ。だから、やっぱりすわってる格好をしてるってことよ。

すあま:私は、主人公たちが高校生だと思わずに、中学生だと思って読んじゃった。それは挿絵のせいかとも思ったが、登場人物の内面の描き方からもそう感じられた。あとがきを読んだら、作者が中学生のときに書いていたことがわかったので、そのせいかもしれませんね。88pに「聖子泣き」(嘘泣きのこと)という表現が出てくるけど、これ、かなり古い表現なので、この本の時代設定や作者の年齢が気になってしまった。でも作者は若いし、現代の話だったのでびっくりした。

トチ:「どざえもん」っていう言葉だって江戸時代以来伝わってるんだから、「聖子泣き」も生き延びるかも。

すあま:こりゃあいいぞ!という感じで読み進んだんだけど、佐藤さんの虐待にからむ話の展開でがくっときてしまった。それから、もっといろんな幽霊が出てくるのかと思ったのに、ストーリーは結局普通の学園ものになってしまった。
幽霊を背中にしょってる女の子と幽霊が見える男の子という設定がユニークだったのに、あまり幽霊である意味がなくなって相談相手のお兄さんになってしまったのも残念な気がした。

むう:なかなかおもしろく読みました。でも、最後のところがだめだったな。虐待とかいじめとか、おいおいまたか!という感じ。うじうじした主人公がほんの少し変わって、恋が実って、それでいいじゃないかと思う。肝試しのところまでは楽しく読めて、156ページの「だって佐藤さんは地球と同じくらいすごい勢いでまわっていて、その佐藤さんを離したらぼくはあっという間に振り落とされてしまうだろうから」という文章が出てきたときは、これで決まりだ!よし、よし!という感じだったのに、次をめくったら「スタバの前で転んで笑おう」が出てきたので、なんだこれは?と思った。最後の一章はよけいだと思う。いじめの連鎖だとか虐待を扱うならもっとちゃんとしてほしい。いかにもステロタイプでがっかり。幽霊の安土さんがとりついたままではまずいというので、安土さんを昇天させるために作った章なのかもしれないけれど、安土さんがとりついたままで終わってもよかったんじゃないかと思う。社会性がなくて小粒だといわれたとしても、そのほうが作品としてはいい印象が残ると思った。それと、全体に中学生の物語という感じで読んでたので、高校生の話だといわれると、ちょっと幼い感じがしました。

トチ:この作家も一応取り上げているというだけで、いじめや虐待を掘り下げているわけではないでしょ。そういう意味でみると、日本の作家は全体に社会性がないですね。社会から隔離されたところで生存しているみたいです。これでいいのかなという感じがしました。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年2月の記録)


ホエール・トーク

クリス・クラッチャー『ホエール・トーク』
『ホエール・トーク』
原題:WHALE TALK by Chris Crutcher,2001
クリス・クラッチャー/著 金原瑞人・西田登/訳
青山出版社
2004

版元語録:プールがない、しかも部員たったの7人の水泳部。もちろん全員ハミ出し者。あるのは熱い情熱と固い絆、それと一台のマイクロバス。そんな彼らが手にいれたものとは…。

ハマグリ:ほかの2冊に比べると読み応えがある本。最初はカタカナ名前がどれが誰だかのみこめなくて、なかなか先に進めないところもあったけれど、個性的な人物ばかりで、途中から読めるようになった。面白いというより、いろんなことを考えさせられる重い話だった。単純に悪い子と良い子で分けるのでなく、どんな子もみんな根っこは同じ、育っていく過程で救いの手を差し伸べる大人にどれだけ出会ったかで決まる、ということがわかる。一人の人間の中の強さと弱さも描かれているし、加害者と被害者が単純にいい悪いでは決められないということも感じられた。主人公の性格、ものの見方がよくわかる書き方で、苦しみ悩みをかかえ、大人に反発しながら斜に構えた皮肉っぽい見方で語るのが、若い読者に共感を呼ぶと思う。最初は悲惨な状況にいたにもかかわらず、養父、養母、カウンセラーによって救われ、コーチや、ジムに住んでるおかしなおじさんとの出会いで育っていく様子がわかる。でもこの子は実はおだやかで優しい部分があるとも感じられ、ほっとする部分もある。ひねった表現もあって、しっかり読まないとどういう意味かわからないところも多かった。小鹿を殺される描写がリアルで感情がよく伝わり、お父さんが殺される時にその感覚がダブる場面がうまい。当時の歌やら、この時代の流行ものなど、わかるところもあれば、わからないところもあったが、アメリカのティーンエージャーなら、もっとわかって楽しめるところだろう。

アカシア:これは大人の本として出ているのかもしれませんね。訳も、62ページの「サハラ砂漠代表チーム」など、わからなくてもいいや、という大人の本特有の直訳調だもの。私もハマグリさんと同じで最初のうちは人物の特徴をつかむまでに時間がかかったけど、だんだん面白くなってきた。定石どおりに話を作っている所から来る快さもありますね。みんなそろってハンパものの子たちが、同じような立場の、学校から白い目で見られているコーチと一緒に努力して何かをやりとげる。おとうさんが見かけはごついけれど繊細な心を持っているなんていうのも、定石ですね。随所にメッセージが散りばめてあるのも、若い人に受ける要素かも。ただね、私は生まれてきた話というよりは、公式にあてはめて面白く作った話という感じがしてしまって、後書きに書いてあるような大傑作とは思えなかった。

すあま:読み始めたときは、暗くて重い話かと思ったが、途中からだめな子たちが集まってがんばるという、読みやすい話になった。よくあるパターンだけど、重いテーマを扱っているのに読みやすかったのは、そのせいかもしれない。最後のセリフが、「こういうものって、どこに置けばいいんだろう」っていうんだけど、「こういうもの」というのが何のことなのかわからなかった。

アカシア:ここ、たぶんすごく大事なことを言ってるんでしょうけど、今のままではわかりませんね。訳者もわからなかったのかもしれないけど、こういうところは、それこそ著者に確認するなどしてから読者に手渡してもらうといいのにね。

むう:この本には、ドメスティック・バイオレンスが大きく絡んでいるけれど、そのあたりはよく描けていると思った。アメリカのYAでは、サラ・デッセンなども含めてドメスティック・バイオレンスがよく取り上げられているけれど、この本は、ドメスティック・バイオレンスの背景や被害者の有り様などの扱いがリアルだと思った。でもドメスティック・バイオレンスだけを書いたら重くて重くて読めない感じになりかねない。それが、青春物語に絡まり、いかにも反抗的で男気もあるハイティーンという主人公の設定も手伝って、読めるものになっている。これを読んで、つくづくアメリカにはある種過剰なマッチョな男性文化が伝統としてあるんだなあと感じた。その病理みたいなものとしてドメスティック・バイオレンスが出てくるということもよくわかった。小説としては、ぐいぐい読ませて最後までひっぱっていく力があると思う。それに、結局クリスがジャケットをもらえて終わるところとか、最後のホエール・トークの章でお父さん自身も知らなかった子ども、つまり血のつながらない兄弟と主人公が出会うとか、意外性も持たせつつ、きちっと落として終わっている。それが、定石通りということでもあるのかもしれないけれど。ただ、この本はいかにもアメリカらしいスポーツ至上主義的な高校生活、チアガールやスポーツ選手が異様にもてはやされる高校生活にどっぷり浸ったところで書かれていて、それは日本とだいぶ違う気がした。おそらく、アメリカの子のほうがこの作品を自分の生活に引きつけて読めるんじゃないかな。私自身は、アメリカ的なスポーツ文化やハイスクール生活の雰囲気があまり好きでないので、ちょっと引いてしまうところがあった。

すあま:スポーツで学校のポイントが決まるというような、アメリカの高校のしくみも、わかりにくかった。

カーコ:筋がはっきりしているので、どうなるんだろうとぐいぐい読みました。アメリカの文化的なことや固有名詞やらダジャレやらが、わかりづらいですが、人物の人となりがはっきりしてきてから、面白くなりました。ばらばらなメンバーなのに、いつのまにか連帯感が生まれて、一人一人が救われていくというのがいい。救われるには、自分のほうに求める気持ちがないとダメだ、というお母さんのセリフがよかった。文化だけでなく、親子の接し方や、たたみかけるような理詰めの論理展開が、日本にはない感じ。大人の本として作ってるようなので、確信犯的に直訳調にしているのだと思いました。考えさせられるところの多い本なので、高校生に手にとって読んでほしいですね。

ハマグリ:175pの体をかいてるようなかっこうをするところで「ぼくはカニじゃないんだから」って、どういうこと? ゴリラならわかるけど。

アカシア:カニにもゴリラにも見えるのかなって思って読み飛ばしたんだけど。よく考えてみたらそうだねえ、変だねえ。

トチ:crab って毛じらみのこともいうって、リーダーズに出てましたよ。たぶんこれのことじゃないかしら。原文は読んでないけど。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年2月の記録)


No.6

あさのあつこ『NO.6』
『No.6』
あさのあつこ/著
講談社
2003-10

オビ語録:どうしてあの夜、ボクは窓をあけてしまったんだろう? 飢えることも嘆くことも戦いも知らずに済んだのに。

愁童:子どもに活字を読ませようと言う意味では手頃な作品だと思った。ただ発想が劇画コミック風で、エリート対ノンエリートという設定でぐいぐい書き進められているけど、一歩踏み込んだ感情移入がしにくいのが残念。活字物を読み慣れた子には、やや物足りないのでは?

アカシア:#1を読んだだけでは謎が多すぎて、まだよくわからない。ずんずん読めるには読めたけど、本文中の写真は気になりましたね。とっても思わせぶりだし、私は読んでて自分が物語からイメージしているものと違うものを見せられて不愉快でした。わざと違和感をねらってるのかしら? でも、読んでて邪魔だったなあ。

ハマグリ:私も写真が気持ち悪かったわ。

アカシア:出たばかりの時に読もうと思ったんだけど、はじめの目の写真で(13p)読むのを止めちゃったんです。風景みたいなのは、まだいいんだけど。このシリーズは背表紙も愛想がないのよね。わざとねらってるのかもしれないけど、あまりうまくいってないのでは? それから4p「踏みこんでこれない場所でもあった」と「ら抜き」表現が出てきますね。地の文で。でも、それで通すってわけでもないみたい。どういうことなんでしょうね?

きょん:私も写真が気持ち悪かった。デザイナーが入っているのかなぁ? 全体に劇画調だし、書体の違う部分も馴染めなかった。思わせぶりでなところばかりで、じれったかったのですが、文章が読みやすかったので、勢いで読んでしまいました。#2を読み始めたら面白くなってきて。著者の書きたいことが何となくわかってきましたが、#3まで読むと、まだ続くのか〜って。主人公紫苑は天然と呼ばれて、純粋培養されていて、今の子どもに似ているのかな。でも、この純粋さに強さを持ち始めるところが、すごくストレートな生き方ドラマになっているように感じました。

ケロ:この本、売れてますよ。出てすぐに興味があって読みましたが、とにかく使われて いる写真が嫌でした。これは、あくまで好みの問題ですが、特に、29pの写真は紫苑なのかしら。目が一重だし、いや〜ん、という感じでした。あさのあつこさんの作品は「バッテリー」(教育画劇、角川文庫)もそうだけど、前向きで先行きに希望のある作品が多いなかで、なぜ、このようなSFを書きたかったのだろう?と、正直、思っていました。「未来都市」の設定やストーリーは、あまり新しくないと思いましたし。でも、2巻のあとがきを読んで納得するところがありました。今まで、「希望」という言葉を気安く使ってきた自分、でも、世界では、そんなことじゃすまされない、リアルな絶望がある。それに対してのあさのさんの思いをぶつける、渾身の作品なんだなと。今の日本の若者の代表「紫苑」と、戦場で生きる「ネズミ」が、どの辺で分かり合え、接点をみいだすことができるのか? あさのさんは問いかけながら作っている、ということがわかりました。2巻目以降で成功するといいのですが.

きょん:その辺は#2でクリアに打ち出していると思う。私もあとがきで納得しました。だから#3を読むと、今の子どもが無くしつつある、生きていく上での“飢餓感”や、生きている意味を訴えているのかもしれない、と思いました。

ハマグリ:私は#1しか読んでいないので何とも言えないけど。二人の少年の出会いがあり、お互いが探りあいながら、反発したり共感したりというのは「バッテリー」と同じですね。「バッテリー」ファンは気に入るのでしょう。じっくりと読む気になれず、ざっと読んでしまった。中学生くらいだと読みやすいとは思うし、好きな人は好きになると思う。設定が2013年になっているけど、50年位先の設定だと思わない? 2013年だと近未来にならないよね。ロングセラーで長く読ませる気がないのかしら。

むう:図書館のほうで3冊揃ってから連絡が来たのと、『パーフェクト・コピー』が手に入らず読めなかったこともあって、どうせだからと3冊読みました。すいすい読めましたが、特に新しいとは感じはしませんでした。劇画調というか、コミック調というか……。先ほどどなたかおっしゃっていたみたいに、読者に手にとってもらうためにそうしたのかもしれませんけれど。設定にしろストーリーにしろ、どっかで見たな、読んだなあという感じでした。みなさんも言ってらしたけれど、あの写真はもったいぶっていていただけませんね。あと、登場人物の名前がどうにもなじめなくて……。紫苑だとか、沙布とか、火藍とか、何とかしてくれ!という感じ。表現も、漢字が多かったり妙に固かったり小難しくしてあったりで、劇画的ですね。ただ、#2の「あとがき」と#3の「言い訳にかえて」を読んで、なるほどとは思いました。つまりこの作品は、9・11以降のアフガニスタンでの戦争やイラク戦争、日本人人質事件などの流れにこの作者が自分なりに反応して生みだした作品じゃないかな、と思ったんです。
#2のあとがきに、「若い人たちに向かって物語を書くことは、希望を語ることに他ならないはずだ」と思ってきたが、自分は何も知らず、知ろうとしないまま生きてきたのではないかと思わされた。個人は必ず国と繋がり、国は必ず世界と結びついていて切り離すことができないということに気づいて、どうしてもこの物語を書きたくなった、というようなことが書いてある。さらに#3の「言い訳にかえて」では、「新聞で読んだテロリストと呼び捨てられる若者の言葉が耳を離れません。」として、「どうしたら、ぼくはきみたちと友達になれるのだろう」というテロリストの言葉が引かれている。この作品は、一方に、ある種ナイーブというか、エリート育ちの人の良さを持ったガードの低い紫苑がいて、もう一方に自分以外はみんな敵という感覚でひとり生き抜いてきたネズミがいるという構造なんだけれど、それが、たとえば今の日本の若者と戦場となっている国々の若者、という対比につながる気がしたんです。紫苑は、平和で生きることに必死にならずにいられる今の日本の若者、ネズミは常に命の危険にさらされている戦火の中の若者というように。どちらも偏っていてどちらか片方だけでは通用しないと、おそらく作者はそう思っていて、ネズミでも紫苑でもない生き方や見方を模索しているんじゃないのかな。あるいはふたりが成熟していく方向を模索しているといってもいい。それで、#2はその気持ちに沿って筋が動いていったんだけど、#3になると、もともとがかなり重たいテーマだから、作者が思っていたほど外側が動かなくなっちゃった。内側の話が勝ってきて、出来事としてはあまり進行しなくなっちゃったんじゃないかな。
 とにかく、とてもまじめな作品だとは思いました。作者が言いたいことを持っていて、それをエンターテインメントという形で表現しようと四苦八苦している感じ。その意味で、この先がどうなるのかひじょうに気になります。ディストピアものは気が滅入るんであまり好きじゃないけれど、これは続きを読むかもしれない。それと、近未来にしては2013年は近すぎるという点なんですが、これは深読みのしすぎかもしれないけれど、ネズミと紫苑の対立は今もあるんだ、『No.6』のような要素は現代にもあるんだ、という意味が込められているのかなってふと思いました。

すあま:よくある設定で、崩壊、純粋培養、特権階級など『ブルータワー』(石田衣良、徳間書店)や、『セブンスタワー』(ガース・ニクス、小学館)と似ていると思いました。1巻でハチの奇病が出てくるけど、その後の巻ではどこかに行ってしまった。話が広がりすぎて収まりがつかなくなっている感じだけど、この先どうなるか知りたくて読んでしまいました。でも主人公に共感はできなかったな。「バッテリー」も、なかなか完結しない(注・6巻が1月に刊行、やっと完結)し、このシリーズも終わらないのでは。登場人物の名前だけど、今も当て字のような名前が増えてきているから、2013年頃ならこんな名前も出てくるかもしれませんね。ファンタジーと言うよりSF。子どもが読んでどんな気分になるのかな?

:私もすぐに『ブルータワー』を連想しました。タワーとドーム、選ばれた人と外に暮らす人との対立、反乱。そして登場人物の名前の漢字が当て字っぽい。あれあれって思いながら読みました。#1と#2を読んだだけなので、この先どうなるのか気にかかります。あさのさんの作品は初めて読んだのですが、どれも「なんでこんなに引っ張るのよ〜」って感じなのでしょうか? 連続物は完結して読まないと感想が述べにくいと思いました。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年1月の記録)


ブループリント

シャルロッテ・ケルナー『ブループリント』
『ブループリント』
原題:BLUEPRINT by Charlotte Kerner, 1999
シャルロッテ・ケルナー/著 鈴木仁子/訳
講談社
2000.09

版元語録:不治の病に冒されたピアニストのイーリスは、自分の才能を永遠のものとするため、クローンの娘スーリイを生む。親子であって双子でもある二人の蜜月はやがて去り、スーリイはコピーではない自前の生を求めはじめる-。

アカシア:ドイツ人は、クローンの問題が好きなのかしら? これも、『パーフェクトコピー』もドイツの作品ですよね。設定はおもしろかったんだけど、娘と母親というだけでも思春期は大変だと思うのに、娘が母親のクローンという設定だから、なおさら大変。しかもドイツ人だから、感覚的に反応しあうというより、議論しちゃう。読んでて息苦しくなっちゃった。言葉でぐいぐいつめていこうという作者のエネルギーに感心はしましたが、やや食傷気味。あなた=わたし、わたし=あなた、わたし=彼女=わたしたち、の関係がくり返し出てくるんだけど、「もうわかったからいい」という感じ。それから、エピローグに架空のデータを出してノンフィクションっぽくしてるのも、意図がよくわからなかった。しかも、この最後のほうに「クローン人間の数はふえているが、わたしたちの数をこえて暴走するようなことはけっしてないだろう。自分を複製する許可は、ドイツでは生殖可能人口の0.32パーセント内におさめることになっている。これは、一卵性双生児の自然出生率にあたる。自然が望んだ遺伝的多様性は崩れない」って書いてあるけど、これ単純に変ですよね。だって、自然の一卵性双生児とクローンを会わせたら倍の数になって自然の摂理を崩すわけだからさ。
名前は、母親がイーリスで娘がスーリイというのは、日本語で読んでるかぎり意図は伝わるんだから、わざわざアルファベットでIRIS、 SIRIとルビを振らなくてもいいのにね。
考える材料は提供してくれるけど、楽しい本というのじゃないですね。

愁童:僕はドイツ人の作品にしては、論理に整合性がないと思った。141pに「16歳なのに32歳のイーリスの人生を丸ごと受け継いでいた」とあるが、これは変だ。クローンといっても、細胞分裂をして成長していく事をきちんと書いているのに、16歳の少女に、32歳の女性の人生経験が、そっくりコピーされているという設定にするなら、その根拠もきちんと書いて欲しい。クローン=コピーみたいな思い込みに足をすくわれているような気がした。クローンと一卵性双生児を比較するというのもよくわからない。双生児なら同じ時間を並列に成長していくわけだけど、この作品では親子として、全く異なった直列的な時間を生きているわけだから、似て非なる部分にきちんと目を向けて、そこを書き込んでくれないと、クローンだから何でもありみたいな雑な感じを受けてしまう。

:クローンとして生まれた子が、親に反発していくという設定の作品は、初めてでした。憎しみや苦しさばかりが突き刺さって物語として楽しめなかった。息苦しかった。

すあま:今回の本を読むまで、クローンというのは親子のイメージだったのですが、双子を作るという感じなんですね。この本では、親子だけど双子でもある、という新しい設定なので、最後はどうなるのかということが知りたい一心で読みました。でも、作者はクローンを肯定していないから、主人公は苦しむばかりで楽しく生きられなかったのだと思う。57p「メディクローン」「エゴクローン」は、一般的な考え方なのか知りたい。メディクローンでも、結局はエゴクローンということにならないのか。この本も、「クローンをどう考えるか」というテーマではなく、子どもの心の成長にスポットを当てた方が、もっと興味深かったと思う。出版年を考えると、まずは「クローン」という問題を読者に突きつけるだけで終わっても仕方ないとは思うけど。

ケロ:現状として、「クローンが、是か非かが問われている」中で、本の中でクローンの結末をどのように描くかというのは、とても難しいと思います。だって、「クローンを認めてしまう」と「クローンを肯定してしまう」ことになりますもんね。だから、クローンの主人公は、ハッピーエンドにさせられない。作者は、本の中で登場人物に悩ませるしかない。結末も、ここに持って行くしかないのではないでしょうか。

みんな:ストーリー自体、「クローンを認めてしまうと、こんなに大変なことになっちゃいますよ」という流れになってしまうんだよね。

むう:なんかしんどい本でした。この子、ものすごく突っ張ってるんですよね。中ほどでも、「ふつう」のみなさん、どうしてわたしを怖がるの?みたいな文章があって、いかにも自分は違うのよというとんがった感じがするし、お母さんの葬式のときには、自分を作り出した博士につばを吐きかけるし、最後の芸術作品だって、とっても攻撃的。なんかつんけん、つんけんしているのばかり見せられて、げんなりしちゃった。
最近、自分のペットが死んで、かわいがっていたペットのクローンを作ったという話がありましたよね。その延長として、自分の子どもが死んで、その死が受け入れられずに子どものクローンを作るというケースが考えられるんだろうけれど、それだって十分エゴイスティック。そもそもクローンを作ることがエゴイスティックなんだろうな。けど、このお母さんにはそれよりもっとすごいエゴを感じちゃった。自分の才能を愛して、自分を永遠にしたくてクローンを作っちゃうみたいな感じでしょ。そもそも動機がとんでもなくゆがんでるし、まあほんとうに嫌な人。そのクローンだから、この子も猛烈に自我が強い。それでもってお母さんとの関係がゆがんでるから、性格がどんどんとんがって攻撃的になる。しんどい人間同士が正面からぶつかるのにつきあわせられるから、読んでいる方はひたすら疲れる。設定からしてゆがんでいるから、楽しくなりようがないんだよね。そのうえ、どうしてもクローンでない母と娘の間にも存在する葛藤が重なってくるから、もうひたすら重い。母と娘の間の葛藤をクローンという題材をかりて語ったというわけでもなさそうだし……。あと、この子が親から離れようとして、乳母さんの息子のところに転がり込むでしょ。それはそうするしかなかったんだろうとも思う。でもね、そこから親のところへいったり来たりしてて、別に独立して自活するわけでもない。結構勝手な子なんだよね。とにかく主人公が魅力的じゃなかった。

アカシア:登場人物にもう少し感情移入できるようになってれば、もう少し違ったのにね。

むう:なにしろこの子、怒ってばかりだから。そりゃあ、つらさはよくわかる。わかるけど、もっと切ない部分も見えないと、読む方はうんざりして、ついていけなくなっちゃう。乳母さんの息子さんとの場面は感じがいいと思ったけれど……。

ハマグリ:児童文学の中では「自分とは何なのか」「自分は何になりたいのか」という自分探しをして成長していくものが多いのに、この話は、最初から「自分とは何か」がわかった上でストーリーが進んでいくのがおもしろいと思った。娘の中に自分を見る、あるいは母親の中に将来の姿を見る、というのは、普通の親子関係にもあって、ひじょうにデリケートな部分だと思うけど、クローンだから全部同じということで、そのデリケートな部分が何から何まで極端に描かれるので、読んでいて苦しくなってきた。母親も、おばあちゃんとうまくいってなくて、おばあちゃんにしてみれば、娘の育て方を間違えたわけでしょ。それを今度は娘と孫でもう一度見せつけられるところが、ぞっとするほどイヤだった。それから、音楽というものが何の助けにもなっていないのは残念。乳母とその息子の存在は、唯一人間的なものを感じさせるので、この二人とのつながりから何か見いだしたりするのかとも思ったが、そういうこともなく救いがない。最後まで化けもので終わるのが残念だった。

愁童:遺伝ですべてが決まるわけじゃないんだから、環境によって違ってくるというところをもっとふくらませて書いてくれればもっと良かった。

ケロ:「もし、クローンが存在したらどうなるのか」という部分がおもしろいのに、そこの想像力が貧困だと思った。母と子の確執のところ、母の恋人になりすますところなどは、おもしろかったので、いっそのこと、ホラーにしちゃったら、おもしろかったと思う。でも、そうはいかないまじめな作者なんでしょうね。あと、疑問だったのは、母親は、病気で死ぬ運命にある。だから、クローンを作ったはずだけれど、クローンの娘も同じ原因で死ぬ危険性は大きいはず。その部分について、実行に移す前に、母親があまり逡巡していないのがふしぎだった。

すあま:最後に、実は母親もおばあちゃんのクローンだったということになっていたら、おもしろかったかも…?

(「子どもの本で言いたい放題」2005年1月の記録)


パーフェクトコピー

アンドレアス・エシュバッハ『パーフェクトコピー』
『パーフェクトコピー』
原題:PERFECT COPY by Andreas Eshbach, 2002
アンドレアス・エシュバッハ/著 山崎恒裕/訳
ポプラ社
2004.11

版元語録:ぼくはクローンなんだろうか。ぼくのチェロの才能も、ぼく自身も、だれかのコピーでしかないんだろうか……!? 15歳の少年ヴォルフガングの、ゆれる心を描くSFミステリー

ハマグリ:この本は近未来の話だということだけれど、いつ頃のことなのかはっきり書いてないの。クローンを作るというんだから、近未来だろうなと思うけど、それにしては古めかしい感じがした。『ブループリント』は主人公が誰のクローンか最初からはっきりわかっていたけれど、これは主人公がクローンらしい、誰のクローンだろうと思いながら読み進んでいくので、意外な展開もあるし、読みやすかった。でも、厳格な感じのお父さんが急に気が狂ったみたいになる展開が唐突で、えーっ?という感じだった。前半は、主人公の悩みや、女の子に対する気持ちなどを割と丁寧に描いていたのに、後半で急に話を収めようとして無理したのかな。お兄さんの正体が最初のひげ面の男だったのも、え?この人だったの?という感じで。いくらひげ面だって、全くわからなかったなんておかしいじゃない。どうもやり方が陳腐。最後に、ええええ?という読後感が残りました。母親についてもいろいろと疑問が残った。絵が暗いということだけで説明しようとしているのに無理があるんじゃないかな。ガールフレンドは、ただかわいいだけの子じゃなくて魅力的だし、その子への気持ちはうまく書けているけれど、古めかしい。会話の訳し方のせいもあると思う。親友のジェムの口調が子どもらしくないの。「たまげたぜ」なんて普通言わないでしょ。

アカシア: CDで聞くチェリストがパブロ・カザルスとかヨーヨーマなんだから、近未来じゃなくて今の話なんじゃないの?

ハマグリ:それに、トイレの水を紐を引っぱって流すでしょ?クローンを持ってくるんだったら、未来にしたほうがいいんじゃない?

ケロ&すあま:実は現代にもクローンはある、と言いたいんじゃないのかな。

ハマグリ:面白く読んだわりには、違和感が残ったわ。

ケロ:ばばっと読めるのは読めたけれど、後半、父親がマッドサイエンティストになって、おいおい、という感じなってしまいました。陳腐ですよね。陳腐といえば、ヴォルフガングのことが新聞にすっぱ抜かれたときの、学校での反応が、とてもおかしかったです。こうなるの?という感じ。主人公が、真相を知るためにガールフレンドと一緒に姿を消すシーンも、まず、彼の書いた伝言が風に飛ばされる、というのが笑える。また、そういう状態になったら、父親としては捜すのが当たり前だし、まわりも協力するのがふつうなのに、そのへんの反応も変。同じ街にすんでいるというだけで、簡単に巨匠と面会できちゃうのもなんだかなー。なにか、先に筋があってそれに合わせてストーリーを作っているというお手軽さを感じました。最後のほうの警察が出てくるドタバタも陳腐。お話として全然だめだと思っちゃった。お兄さんがフリーライターだというんだけど、この人の意図がよくわからないですよね。 なんで写真を集めていたのか、すべてを明らかにしたいのか、そのあたりも曖昧で。

きょん:お兄さんにとっては、父親は愛憎が絡む存在で、チェロがいやで逃げ出しはしたけれど、やっぱり父親だからというのがあるんじゃない? 父親がどうしてそんなに自分とチェロに執着するのかとか、父親のことが知りたくて、調べたんではないかしら。

ハマグリ:そういうことが丁寧に書けていればいいんだけどね。そうじゃないから。前半は主人公の心が書き込まれていていいと思ったけれど、後半はつじつま合わせのドタバタになっている感じなのよね。

ケロ:前半は自分の将来に悩むという話なんだけど、それと後半の世界観がずれているんじゃないかと思いますね。

きょん:陳腐な話でドタバタでもあるんだけれど、兄さんが父を調べ尽くしたあたりにはあまり違和感を感じませんでした。おそらく父を知りたくて調べていたんで、別に告発したいわけじゃなかったんじゃないかな。
この本のもう一つのテーマは、「才能」をどうとらえるかということだと思う。「ぼくにはチェロの才能はあるのだろうか?」と主人公は常に悩んでる。ここでも、チェロの音がクローンの主人公と兄では違うという事実を押さえて、「遺伝子だけが、才能を決めるのではない、すなわち遺伝子だけ完全にコピーしてもその音楽を奏でる人間性が大事である」とはっきり打ち出してる。いってみれば、クローン人間も感情がある普通の人間であり、人格形成には、環境や経験が大きく関係していて、遺伝子のみが人間の本質を決定するのではないということを提言しているように思った。これは、クローン以外の人間にもいえることで、クローン問題から離れて、普通の子どもたちにも、「才能」について考えるきっかけになるように思う。
はじめは、クローンの予備知識もないし、重いかなと思ったけれど、人間ドラマとしてわりとすっと入れて読めました。お母さんは、愛していたヨハネスを取り返したくて、それがクローンでもいいくらいに思い詰めて、疑いながらもヴォルフガングを生んだんですよね。でも、生んだとたんに「このクローンはヨハネスと同じじゃない、この実験は失敗だった」「この子は、ヨハネスとは全く別の誰かだ」と言っている。遺伝子が全く同じでも、同じ人間とはいえないという、クローンのことを、ちゃんと押さえていると思った。だから逆に、そこまで割り切れていてなぜ暗い絵?と不思議だった。

ハマグリ:母親の父親に対する気持ちがよくわからないのよね。

きょん:母親の気持ちもだし、そういった周辺の書き方が甘いんじゃないかなと思います。テーマはちゃんと打ち出していると思いましたけど。そうそう、それと、本の作りに関していうと、章末の注が多すぎると思いました。もっと文中に入れ込めばいいのに。読みにくかったです。

アカシア:注に関しては、ま、読みたい人は読んでちょうだい、という態度なんじゃないかな。こういうふうに章末についていると、邪魔にはならない。読みたくない子どもはすっとばすしね。
それより、リアリティの有無にいつもひっかかっちゃう私としては、この作品は読むに耐えなかったですね。ストーリーに破綻が多すぎる。『ブループリント』を先に読んで、クローンについての情報がインプットされてたせいもあるけど、基本がお粗末。たとえば、主人公のヴォルフガングは、最初自分は父親のクローンかと心配する。でも、父親に自分の若い時の写真を見せられて同じ顔はしていないとわかる。この時点で普通なら自分はクローンじゃないと安心するはずなのに、まだクローンだろうかとうじうじ心配してる。 PTA会長も、新聞にゴシップまがいの記事が出ただけで、ヴォルフガングには学校を辞めてもらおう、などと言う。写真一枚見せればすむ話なのに、この大騒ぎはなんなの? リアリティなさすぎ!それから、ジャーナリストが現れたとき、当然この人が記事にするだけのものを握っているという設定だから、普通ならヴォルフガングは、この人がどこまでどんな事実をつきとめているのかたずねるはずでしょ? でも、外国語はいくつできるのか、とか、クローンについての知識をたずねたりするだけ。このジャーナリストが実はヴォルフガングの兄だと最後でわかるのも、不自然。兄が、いまだにチェロにさわれないほど父親を毛嫌いしているのに、父親のことを調べようと思いつくのも変。
それからp18の学名として出てくるのは、ただのドイツ語名よね。それにp207には「コックス・オレンジの木はすべて、十九世紀に一本のリンゴの木からつくられたクローンである」って書いてあるけど、普通の読者はオレンジがリンゴの木のクローンだって思っちゃわない? もう少し説明しないと不親切。こんなにひどいものを、わざわざ翻訳して出版しないでほしい。

ハマグリ:お兄さんの父への気持ちが書けていないのが致命傷ね。

:『ブループリント』を先に読んで疲れきった後だったので、物語として面白く読めました。つじつまが合わず変だなぁと思うところはありましたね。例えば286pに父親がドアの外に出てドアが開かないように塞ぐけど、290pで重たい書類戸棚を一人で動かしたことになっている。どうやって動かしたの?とか疑問は残りました。245pの事実が明らかに流れや場面はまるでサスペンス劇場の残り30分みたいでした。ところでヴォルフガングを身ごもって慌てて結婚、というのって、変じゃありません?

アカシア:それまでは籍を入れてなかったんじゃない。向こうではそういう人が多いから。

:女の子絡みのところは、青春物語として楽しく読めました。

何人か:でも、有名な音楽家の教授に、こんなにすぐすぐアポが取れるかなあ? 最初からこの教授しかいないっていうのも、お手軽だよねえ。

:教授が才能について語っているところが、作者のいいたいことだったんでしょうね。まあ、「火曜サスペンス劇場」を本で読んだという感じでしたね。

すあま:私は、クローンというより天才に興味があるんですね。それでこの本も、兄のような天才をもう一度作りたいという願望があって、それを叶えるのにクローンを作ったけれど失敗した人の物語という感じがしました。天才を人為的に作れるか、という問題はおもしろいと思います。でも、主人公が数学で才能を発揮する、という展開の仕方にに納得いかない。他の楽器くらいでいいような気がします。数学、というのも、先生に言われてではなくて、好きな女の子に近づくために始めるとか、もう少し工夫があってもよかったのでは。
とにかく、すっきりしないまま終わりました。最初のほうで登場したマツモト君がその後も登場して活躍すればおもしろかったのでは、と思ったりしました。シドニー・シェルダンを意識しているようなので、こんな感じなのかな。

アカシア:クローンだって真空状態・無菌状態の環境で暮らすわけじゃないでしょ。そうするとエゴから自分をつくりだした人——『ブループリント』だったら母親だし、『パーフェクトコピー』だったら父親——を当然恨んだりするようになると思うのね。だからその人の意図を素直に汲んで素晴らしい芸術家なり科学者なりになるっていうのは考えにくいわね。
この後、クローンというテーマで書くとすると、ゴシックロマンにでもしないと難しいのではないかという話でひとしきり盛り上がりました。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年1月の記録)


ママは行ってしまった

クリストフ・ハイン『ママは行ってしまった』
『ママは行ってしまった』
原題:MAMA IST GEGANGEN by Christoph Hein, 2003
クリストフ・ハイン/著 松沢あさか訳
さ・え・ら書房
2004

版元語録:まぶたにうかぶママの顔は、いつも笑っています。笑うことしか知らないみたいに。もう一度、生きているママにあえたら! でも、ママも、ママの笑顔も、この世にはもどってきません。

アサギ:この作家はドイツでは純文学で有名で、ふだん児童書は書いていないのね。原作も最初は大人の本として出されて、そのあと子どもの本として出しなおしたみたい。作品自体はおもしろく読んだんだけど、ものすごく古い感じがするのは、この作家が東独出身ということと関係があると思う。西側世界からみると、数十年昔の感じがするわね。上の兄のカレルは15歳でガールフレンドができて、弟や妹が「あの二人はキスするのかどうか」を話題にしてるけど、西独では、十数年前から、生理が来たらコンドームをもたせるよう学校で女の子の親に指導しているくらいですからね。
ところどころ好きな文章がありました。たとえば、大司教がピエタを見にきて、彫刻については一言も発しなくても、はじめからおわりまでその話をしていた気がするというところなんか、印象に残りました。文学性を感じましたね。それから、作品の中でくりかえされる「悲しめることの幸せ」って真理よね。訳は、気になるところが、ちょこちょことありました。パパは大司教のことを「あんた」と呼んでるんですけど、これはduを「あんた」と訳してるんだと思うんですね。だけど、二人称のduとSieについて言うと、これは間柄の距離が近いか遠いかをを表すものなので、duを機械的に「あんた」と訳すとおかしなことになります。それから、ママもパパも10歳の主人公の女の子に対して「わたし」という一人称を使ってますけど、これも、どうなのかしら? 145ページの「宿屋兼食堂」っていうのは「旅館」のことでしょうね。

トチ:いかにもベテランらしい、手馴れた書き方で、死をどう受容していくかを書いた作品ね。幸せな仲の良い家族で、父親は腕のいい職人だし兄たちは成績優秀。世間的にも認められていて経済的にも安定していれば、こういう理想的なかたちで死を乗り越えていけるわよねと、ちょっと意地の悪い見方をしてしまったけど。安心して読めるし、子どもたちもしみじみと読むのではと思ったけれど、新鮮な驚きはない。今の世界とか、今の児童文学と少し離れたところにある作品ね。おもしろかったのは、父親が、亡くなった母親に子どもたちを会わせないところ。日本では考えられない場面で、こういう文化の違いとか、考え方の違いを知るというのも、翻訳ものを読む楽しさよね。ですます調のやさしい語り口で書いてあるけれど、ところどころ難しい言葉や、難しい考え方も出てきて、主人公の女の子の年齢や、対象とする読者の年齢をどの辺に置いているのか分からなくて、とまどってしまった。兄のパウルが主人公のウラに対して「そんなことないはずだがな」(p.45)と言ったり、ウラの友だちが「わたし、泣けてきちゃうの」(p.34)なんていうところは、子どもの会話らしくないなと思いました。

:1月にお母さんが死んでから11月くらいまでの話になっていますけど、お母さんを失った喪失感みたいなのがあまり感じられませんでした。『ミラクルズ・ボーイズ』(ジャクリーン・ウッドソン著 理論社)では、子どもたちが母親を亡くした悲しみが切ないくらい伝わってきたけど、この作品からは、ひとりひとりの悲しみが迫ってきませんでした。台詞が長くて、教会で牧師さんのお説教を聞いてるみたいに感じました。大司教のキャラクターはおもしろいとは思ったけれど、全体に淡々とした日記を読んでいる感じ。「お相伴する」とか「お対のデザイン」なんていう言葉が出てくるので、よけい古い感じがするのかもしれませんね。

紙魚:確かにリアルな生活や家族が描かれている作品ではないけれど、死をどうとらえるか、どう乗りこえていくかという問題をわかりやすく書いているという点では、作家の志のようなものを感じました。死と芸術、家族と再生の物語が、この子たちの時間を追って生活の中で描かれています。生活を読むというよりは、生活に意味をあたえるという作品だと思います。ひとつひとつの実際の死を細かに書いていくと、リアルな悲しみを感じすぎてしまい、死について思索する間をあたえてもらえない場合もありますが、ゆっくり読むことができ、それが、この家族たちのゆっくりとした一歩ととらえることもできました。それから、芸術についての記述はうなずける箇所が多かったです。ただ、本文中のカットと表紙の絵が合ってないような気がしたんですが。

アサギ:これ、カットも表紙の絵もズザンネ・ベルナーっていう、アンデルセン賞の最終候補になった人が描いてるのよね。絵本作品とは、また違う趣だけど。

ケロ:私は、このカットは父親の作る彫刻をイメージさせていると思って、しっくりきました。『タトゥーママ』とは、リアリティという点でまったくちがうけど、現実感のなさに、いやな感じは持たなかったです。それは、家族が意見交換するひと言ひと言が、じっくり読め、心に響いたからだと思います。この作品は、そのひと言ひと言を言いたいがために書かれているようで、ある意味、哲学的な本ですね。とくに、司教さんの言葉で、「あんたたちは、ママがいなくなって不しあわせだとおもっている。だが、かんがえてごらん。それはあんたたちが以前にとてもしあわせだったからだよ。わたしは妻や子をうしなうかなしみをあじわうことはない。しかし、そのかなしみを手に入れることができるものなら、わたしはあるいは、どんなに高い代償でもはらうかもしれない」と言いますけど、この言葉はこの家族にとって大きな励ましになっていると思うし、読者の心にも響くと思います。気になったのは、登場人物の年齢設定。ウラは、まだ人形遊びをしているなど、ちょっと10歳とは思えない。どういうことなんでしょう?

ハマグリ:出たばかりのときに読んだんだけど、ものすごく印象がうすい本でした。作家に言いたいことがあって物語にしたのだろうというのはわかるし、悪い感じはしないんだけど、あまりおもしろみが感じられなかったし、子どもたちににすすめたいという気も起こりませんでした。主人公はたしかに10歳の女の子にしては、幼く描かれていますね。一文一文が短い文章は原文に忠実に訳されているんでしょうが、そのせいか文章全体も幼い感じを受けました。お父さんがピエタという芸術作品をすばらしい出来に仕上げるということが最後のキーポイントになっているんだけど、芸術作品の良さを文章に表わすというのは難しいことなので、どんなにいい作品なのかがよく伝わってこなくて、残念でした。

むう:なんか古めかしいなあという印象でした。温かい家庭が悪いわけじゃないし、身近な人の死の悲しみをどう乗り越えるのかを書くのも結構だと思う。ピエタ像に微笑みを入れることで最後に宗教的なイメージに昇華していくのもなるほどなあと思うんだけれど、なにしろ心に迫ってこない。ふうん、そうなんだ、という感じ。すてきだなと思う台詞があるにはあるけれど、人間が悲しみを乗り越えるときというのは、そういう言葉のすばらしさで乗り越えるんじゃないと思う。もっとデリケートな細かいことの積み重ねがあって、やっとコトリと落ちるようなものでしょう。なんだか、さらっと読めてしまって後に残らない本だった。

愁童:ぼくもあんまりおもしろいとは思わなかった。数学の公式集を読んでいるような、ごくあたりまえのメッセージ。オリジナリティが感じられない。筆力でキャラクターを描ききると言うより、ストーリーの枠組設定で読者の中に誘発される喪失感や同情心に寄りかかって勝負しているような感じを受けた。作者の関心が、母親を失った女の子にあるのか、妻を失った職人の方にあるのか、どっちなんだ、なんて思った。どうでもいいような部分で、説明しすぎだったりして、訳文の影響もあるかもしれないけど、あまりぴんとこなかったな。

アカシア:さっきトチさんが出来すぎの家族って言ってたけど、実はそうでもない。上のお兄さんは買い物にいっても何を買うべきか忘れちゃうし、下のお兄さんもオリジナリティがありすぎて社会に適応できなさそう。お父さんのところにも、ガールフレンドがたくさんくる。どうも、そんなにパーフェクトな家族でもない。
日常の出来事が淡々と描かれているのは確かだけど、けっこう味わいが深いな、と私は思いました。お父さんが妻の死を乗り越えていく姿を見て、ウラが自分も乗り越えていこうと思うのも、ちゃんと伝わってきた。私もウラは幼いとは思ったけど、作家が東独の人だと聞いて納得しました。統合後はどうなのかわかりませんけど、以前の東独の人ってとっても純粋で、すれてなかったから。今出ている作品の多くはもっと刺激が強いから、これを読むと淡々としすぎて印象が薄いという感想につながるのかも。でも、ママの墓石には名前と生没年しか書いてないけど、「パパも子どもたちも、そういう気持ちは大きな字で書いてみんなに知らせることではない、とおもったのでした。だって、墓石はメガホンではないのですから」という表現とか、お兄さんたちの性格の描写とか、パパがウラに「おまえがなにを見つけだすか、おまえ自身とおなじように、どきどきしながら待っているよ。でも今からもうわかっていることがある。ウラはきれいで、かしこくて、勇気のあるおとなになるんだ。ママとそっくりにね。それをママは、ちゃんとおまえにプレゼントしてくれたのだから」と言うところとか、なかなか味わいがあります。大傑作とはいえなくても、ちゃんと文学を書いている作家ならではの作品だと思いました。

トチ:最初は大人向けの作品として書かれたと聞いて、なるほどと納得したわ。淡々とした日常を綴っていくうちに人生の奥底が見えてくる・・・・・・日本で言えば庄野潤三のような味わいのある作家なのかも。

愁童:司教をフレンドリーな性格として描こうというのは理解できるけど、キルスト教文化の中では、司教様と普通の職人とじゃ身分がちがうんじゃないの。そのあたりの微妙な上下感覚が感じられる訳になってないのが残念。

紙魚:お兄さんたちがそれぞれユニークなのに、会話にそのおもしろさが出ていない。

:葉巻がよく出るのには何か意味があるの?

アサギ:ドイツでは昔おみやげというと、その家のお父さんには葉巻、お母さんにはバラの花束、子どもにはチョコレートっていうのが定番だったの。いちいち考えなくていいから、楽だったのよ。

カーコ:私ははじめつまらなくて、読み進むのがすごくつらかった。でも、全体としては、女の子の心理描写が今回の3冊の中ではいちばん細かく書かれていて、いい本だと思いました。じゃあ、なんで読みづらかったのかなと考えると、それは主人公に視点が定まっていないからじゃないかと思うんですね。だから、トチさんが言ったように、誰に向けに書かれているかわからないという印象にもなってしまうのでは? 家族が言葉でお互いの気持ちを説明しあうところは、あいまいな表現を好む日本人と対照的ですよね。お母さんが亡くなったあと、だれもかれもが同情してくるのに違和感を覚えるとか、バカンスの初めにお兄さんがお母さんの決まり文句を言ってしまって気まずくなるなんていうところは、一家の心情を浮き彫りにしているエピソードですね。最近はストーリー展開ばかりで読ませる本が多くて、こういう作品は少なくなっているような気がします。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年12月の記録)


タトゥーママ

ジャクリーン・ウィルソン『タトゥーママ』
『タトゥーママ』
原題:THE ILLUSTRATED MUM by Jacqueline Wilson, 1999
ジャクリーン・ウィルソン/著 小竹由美子/訳
偕成社
2004

版元語録:頭からつま先までタトゥーを入れた、気まぐれで世界一すてきな母親への愛情。著者自身が最も気に入っているという作品。 *ガーディアン賞受賞作品

ケロ:壊れていく母親を見ているドルの気持ちがつらいなあと思いながら読みました。子どもは親を選べないのに、こんな母親でも好きでいるという現実がきちんと書かれているだけに、つらい。こういう状況にある子どもが読んだとき、果たして助けになるのかなあと、疑問を持ちながら読んでいきました。でも、最後にカタルシスがありましたねー。客観的に母親を抱きしめるというところが、主人公本人の救いにもなっていて、これなら「子ども向け」の作品としてオッケーだ、と納得できました。全体の中では、ドルとスターの父親が両方とも見つかるのは話として出来すぎという感じがしましたが、自分の中にもお父さんはどんな人なんだろう、という興味があったので、ご都合主義な感じを受けずに楽しんで読めました。お母さんのマリゴールドは、精神的にも不安定で、かなり特殊な存在。でも、お母さんがひとりの人間として満たされず特別な存在になりたいと思っている、というのはよくあることだと思うと、ひいてしまわずに感情移入しながら読めたかな。

ハマグリ:ジャクリーン・ウィルソンの作品は、今までもたくさん読んでいますが、どれも困難な状況におかれた子どもを書いている。結末は安易なハッピーエンドではないけれども、必ずどこかに未来への道がついているのがいいですね。それからどんなにすごい状況でも、ハハハと笑える部分が必ずあって、楽しませてくれるところもすごい。この明るさは、イラストによるところも大きいでしょうね。ドルとスターという姉妹は、大好きでお互いをとっても必要としているんだけど、それゆえに許せない部分があって、ぶんなぐりたいくらいの反感ももっている。そうした関係もよく描かれています。リアリスティックな作品のなかでは、この作者のものは子どもに勧めたいわね。

むう:うまい人だなと思いました。出だしからこっちを引き込んでぐいぐい引っぱっていくあたりも、この家族のある種のチープさもよく出ていて面白かった。ただ、わたしの視点がどうしてもふりまわされる側の子どもたちに寄ってしまって、「このお母さん、なんだかなあー」と思うところもありました。だめ母さんでも好きで好きでしょうがないという子どもの気持ちはとてもよく描けているし、それが切ないんだけれど。ミッキーが見つかったり、主人公のお父さんが見つかったりで、どうなっちゃうんだろうと最後まで引っぱられたし、この子たちがそれぞれに家族とは別の世界に触れたうえでふたたびママを抱きしめるというのもいいと思ったけれど、最後の338ページのお母さんの台詞にはすごく引っかかった。病院のカウンセリングの時間の話で、「しつこくしつこく、小さなころのことをきかれたわ。で、しまいに、ひどい話をぜんぶぶちまけちゃった。お母さんのこと、お母さんがあたしにしたこと、どれだけお母さんをにくんだか。そしたら、気がついたの。あたしもおなじだって。あたしも、おなじようなことをあんたたちにしてきた。ふたりとも、きっとあたしのこと、にくんでるわよね」って言うんだけど、こんなふうに説明しちゃうのはお手軽だなあ、と思って。この台詞、いらないですよね。ここまでで、このお母さんはまるで信用できなくて、それでも子どもたちはこの人が好きでということがわかるんだから、それでいいじゃない。

アカシア:私は、この台詞がすごくきいてると思うんです。お母さんは初めて精神科病棟で治療を受けてるわけだから、この台詞がないと、これからはまともな母子関係になるのかな、と読者は思ってしまう。でも、このお母さんは、これまでも時には「自分はだめな母親だ」って言ってきたけど、状況はちっとも変わらなかったんですね。ここも、この台詞があることによって、読者に「また言ってるけど、これからも変わらないんだろうな」と思わせる。だから、娘たちは、ここで心底悔い改めたお母さんを選び取ったんじゃなくて、お母さんは変わらなくてもそれでも好きなんだ、という設定がより強く浮かび上がってくる。

むう:つまり、だめ押しみたいなものということかな。でも、そこまでする必要があるかなあ。この本を読み終わって、まず、力があるなあ、うまいなあと感じたんだけれど、同時に、「でもなんかざらざらしてる。なんだこの違和感は」と思ってその原因を考えるうちに、このお母さんの台詞に行き当たったんです。自分のなかでここだけが消化しきれない感じで。

ケロ:でも、キルトづくりをさせられて、パーツが合ってないと娘に言われ、「どんなキルトになると思う? 信じられる? クレイジー・キルトっていうのよ」って台詞、やっぱりこのお母さんならではって感じですよね。状況的な大変さは変わらないけれど、あきらかにこの子たちの心境は変わっている。

愁童:ぼくも、むうさんといっしょ。心理学ブームだからって、セラピストの定番みたいなところによっかかるのはどうかな。こういう子どもを幸せといえるのかなとは思うんだけど、原題のThe Illustrated Mumには、作者のメッセージがうまく込められているように思った。Illustrateされちゃったママで、それに振り回されるけど、それでもママはかけがえがないという、のっぴきならない母子関係。その中で、主体的に生きざるを得ない子の、母が居てこその幸せみたいなことについて考えさせられちゃった。

アカシア:この作家は、本当に子どもに寄りそって書いてますよね。現実にこういう子どもはいっぱいいるんでしょうけど、その子たちが気持ちの出口をさがしていくところが書かれている。ハマグリさんはリアリスティックな作品として子どもに勧めたいと言ってたけど、私は純粋にリアルなんじゃなくて、エンタテインメント的な要素がとても強いと思う。娘たちのお父さんがそれぞれ都合よく見つかるなんて、リアルじゃないですよ。ただ心理的な動きはリアルで、読者の気をそらさない。うまいです。子どもたちに大人気なのも、当然ですね。
これだけひどいお母さんだったら家出するのがふつうで、なかなかお母さんを受け入れるところへは行き着けない。でも、家出したスターのことが心配なあまり、スターがきらいだったタトゥーを消そうとして、お母さんは体中に白ペンキをぬりたくってしまう。その異常な行動から、最後に娘たちがお母さんを抱きしめるところまでは、下手な人が書いたら嘘臭くてとても読めない。でも、この人が書くと、ついていけるんですよね。うーん、すごい。
あとね、さっきのお母さんの台詞について、もう一言。マリゴールド自身の母親との関係がここで初めて出てくるんですよね。文学好きな読者にとっては、なくもがなと思う気持ちもわかるけど、これがないと、マリゴールド=クレイジーですませてしまう子どもの読者もいるような気がします。

カーコ:お話としてはおもしろくて読ませられたんですけど、いったい誰が読むのかなと思いました。実際にこういう状況にいる子の力になるのでしょうか。どんなに悲惨な状況に置かれていても、子どもがお母さんを好きなのは当然のこと。10歳の子がこんな目にあって、健気に母親を支え、精神的に自立していなければならないというのが、あまりにもかわいそう。わざわざ子どもに読ませたいとは思えませんでした。大人に対する理解を子どもに強制しているように感じました。

アカシア:渦中にいる子は読むだけの余裕がないかもしれないけど、まわりの子がそういう子を理解するのにはとても役立つ。それに、オリヴァーとか、ドルのお父さんとか、里親のジェインおばさんとか、味方になって支えてくれそうな人物も登場し、ドルの世界も広がって孤立無援ではなくなっている。10歳の子に「健気」を押しつけることにはなってないと思うけど。

ケロ:これほどスゴイ状況まではいかなくても、今のお母さんって少なからずこういう部分があるので、子どもとしては、少しシンクロできるのではないでしょうか? 映画『誰も知らない』(是枝裕和監督)は、救いがまったくないけれど、これはユーモアがあり救いがあると思うので、母の「こういう部分」を理解するなり判断するなりする材料になるのではないでしょうか。

愁童:下の階のおばあさんの描き方がうまいね。批判的な世間の目の代表みたいな存在なんだけど、文句を言いながら電話を取り次いだりと、結構助けたりしちゃう。このおばあさんの存在感で、主人公一家のハチャメチャな生活に立体感が出てくるよね。

アサギ:私は時間切れで、まだ半分しか読んでないんです。イギリスならともかく、翻訳して日本の子どもにこういう物語を読ませる必然性がわからない。せつない感じがしちゃってね。

トチ:それはまだ読んでる途中だからじゃない?

アサギ:日本の状況とは、ずれていると思いません?

アカシア:日本も、もうすぐこうなるんじゃない? お金もうけのために自分の子どもに売春させる親だって出てきたくらいだから。

アサギ:まあ、このお母さんの場合、憎めないところもあるけれど。

トチ:子どもには、なにがあっても親についていくという生物的な本能もあるし、親から離れられないってこともあるしね。

愁童:姉妹の母親への思いの、それぞれの年齢による微妙な差が、うまく書かれているよね。

トチ:まず、これほど暗くて悲惨な状況を、これほど明るく、ユーモアもまじえて書ける作者の力量に感心しました。書きようによっては限りなくいやらしくなる母親も、切なく、かわいらしく描けていることに、またまた感心。昔の児童文学って、『小公女』のように不幸な主人公が状況が変わることによって幸せになるというのが典型だったけど、この作者は環境が変わらなくても、主人公の内面的な変化や成長で救われるということを一貫して書きつづけている。このほうが読者である子どもにとってずっと現実的だし、救いにもなるわよね。それから、作家であれば誰でも一度は「狂気」を書いてみたいのでは、と思うんだけど、ウィルソンもそうだったのでは?そんな作家魂が垣間見えるような気がして、おもしろかった。

:はらはらしながら読みました。でも、お母さんの幼さが、わりに魅力的に書かれていて、学校にショートパンツ姿で迎えにいくシーンなんかもおもしろかった。みんなから鼻つまみにされている母親でも、娘である当人だけにわかる愛情を抱いているのは伝わってきましたよ。スターに父親が見つかり行き場が出来た時から、お母さんが崩れていくという流れはすごかったですね。そのスターが距離をおいて離れて暮らしたことで、また優しくなれるというのもわかります。このままの暮らしを続けていたら破滅するしかないですよね。

紙魚:主人公の環境があまりにもひどいので、読むのがつらかったです。アルコール依存症の親とかに読んでもらうと、子どものつらさがわかっていいかもしれないと思ったくらいです。作中ときどき顔をのぞかせる、オリヴァーのやさしさとドルフィンという美しい名前には、かなり励まされました。スターとドルの姉妹って、年齢の差や性格のちがいから、母親への接し方が全くちがうのですが、その時々どちらの気持ちにも共感できて、どちらの方によって読んでいっていいのか、かなり振りまわされました。だから最後までお母さんへの好き嫌いが決められなかったのですが、それもやっぱり、この作家のうまさなんだと思います。家族ならではの、ひとつのところにとどまらず常にぐるぐるとスパイラルして動いている感じが、とてもうまく表現されていたと思います。

トチ:大人は怖いもの見たさで悲惨な物語を読みたいということがあるけれど、子どもはどうなのかしら?

アカシア:極端な設定を使うと、はっきり見えるてくるものもあるんだけど、それをどう描くかというところが大切よね。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年12月の記録)


祈祷師の娘

中脇初枝『祈祷師の娘』
『祈祷師の娘』
中脇初枝/著
福音館書店
2004.09

版元語録:祈祷師の母、そして父にも、妹の和花にもお祓いの能力がある。でも、春永にはその力が全くない。そんな彼女が、初恋、友情、家族愛の中で自分をつかむまでを描く。

:タイトルから判断して、古い時代の話かと勘違いしました。祈祷師の世界を描いた児童文学は、はじめて読みました。私は九州生まれですが、小さい頃、肌が弱くて祈祷師のところにいったことがあるんですよ。治らない病気や相談事があると、みんな自然にに行ってました。

愁童:今でも、こういうことを日常生活の中に自然に織り込んでいる所ってあるよ。

トチ:文学作品としてよく書けていて、おもしろかったです。縁日で買った金魚が自分では向きが変えられないので、水槽に手をいれて変えてやるところとか、死んだ金魚に、つつんだ新聞紙の字がうつっているところとか。周りの友達の描写も実にうまい。宮部みゆきやスティーヴン・キングは超能力を持つものがこの世界で生きていくことの苦しみや悲しみを描いているけれど、この作品は家族のなかで自分だけが超能力を持たない者の悲しみを書いているところがおもしろかった。最後に超能力がなくても人を救えるということが分かって、主人公も救われるのよね。いま玄侑宗久の『リーラ:神の庭の遊戯』(新潮社)という本を読み終えたところなんだけど、ここでも同じような世界が描かれているのよね。こういう文学がいま流行なのかしら。私はあんまり子どもたちを霊的なものにのめりこませたくないほうなので、この作品を児童文学として子どもに手渡すことに一抹の不安がよぎったことも確か。こういう世界もある、ああいう世界もあると子どもたちに伝えるのはとてもいいことだと思うんだけど・・・・・・

アサギ:超能力を授かったものの悲しみといっても、私には違和感バリバリですね。『黄泉がえり』(梶尾真治著 新潮社)とか『秘密』(東野圭吾著 文春文庫)とか、このところ、こういうのって流行っているんでしょうね。この人は、こういう力を肯定して書いているんでしょうが、どれだけ信じて書いているのかしら?

カーコ:私もどうとらえていいかわからない感じでした。主人公の春永は最後に、超能力も血のつながりもないけれども、この家族の中で生きていこうと決心するわけですよね。学校での、一見仲の良い友だちとの確執とか、男の子が祈祷に興味を持ってくるところとか、うまいなと思いましたが、なぜ祈祷師という設定にしたのか、わかりませんでした。時代的にはいつごろが舞台なんでしょうね?

アカシア:ひかるちゃんが小学校で留年しているという記述があったので、昔のことだと思ったんだけど。

アサギ:でも、アンパンマンが出てくるし、義務教育の留年は今でも希望すればできるのよ。

アカシア:挿絵(卯月みゆき)が、昔なつかしい感じじゃない? 超能力に違和感を感じる人が多いみたいだけど、日本でもたとえば沖縄のユタは日常生活に浸透してますよね。アフリカのノーベル賞作家が書いた自伝なんかにも、霊能師はごく自然に出てくる。今はよくも悪くも日本の都会は近代合理主義におおいつくされてしまって、「気」のようなものを迷信と決めつけてしまう。さっき霊的なものに惹かれる危険性という話が出ましたけど、この作家はちゃんとコックリさんの危険性も書いてるし、きちんと修業しないと祈祷師にはなれないと書いて、ふわふわととびつくことに警鐘も鳴らしている。

アサギ:でも、スタンスがわからないのよ。私は、肯定するってところがそもそもわからない。それとね、総ルビはやりすぎよね。読みにくい。

アカシア:合理的な考えからはずれて切り捨てられたものを拾い上げてみるっていうスタンスなんじゃないの? それから、昔の子どものほうが漢字が読めたのは、総ルビの本が多かったからだという説もありますよ。

愁童:ぼくはおもしろかったですね。こういう力を信じているってわけではないけど、会社の優秀な技術系の同僚に、生活の中に、こういう「おがみ屋さん」との接点を大事に持ってる奴が居たんですよね。この作者は、そういうものを取り込んだ近隣の人達の日常にきちんと目配りをしていると思う。ひかるちゃんがなんでこうなっているか、なんてことも、きちんと書いている。奇異な題材を用いて、日常の中にある影の部分に光を当てているように思いましたね。

むう:冒頭で、「おかあさん」と「母親」と「お母さん」と三種ずらりと出てきたのにはちょっと戸惑いました。でも、それも後になると納得できて、今回の三冊のなかではいちばん自然にひきこまれて読むことができました。ちょっと前に理科系の顔をした超常現象がブームになって、そういうものにはアレルギーがあるのだけれど、この本には、まともらしく見せようとする嘘臭さがない。おしつけがましさがなくて、生活に溶け込んでいる様子が書かれているので、こちらもすうっと入れてしまう。それに感心しました。それと、読んでいて主人公の心のひだが手に取るようにわかる。この本の主人公は、超能力者という世間からはぐれた人々の中でさらにはぐれた普通の子なわけです。かなり特異な設定なのだけれど、人間の持っている普遍的なところがしっかり書けているなあと思いました。最後のほうで、超能力を持っていなくても人を助ける力はあるというところに収めるのもうまいですね。あと、この主人公が母親に置いていかれたにもかかわらず安定しているのは、周りの人にちゃんと尊重されて育ってきたからだと思うんですが、そういう子が主人公だからこそ読後感がいいんでしょうね。

ハマグリ:ディテールの書き方がうまいわね。主人公の目に映った情景をくっきりと切り取って描くのがうまい人だな、と思った。会話もいきいきとしている。でもこの四人の家族のつながりって、とても不自然なので理解できない。自分だけが祈祷師の力を備えていないということで主人公が悩むのはわかるけれど、そんなことに悩む前に、この家族がこうやって成り立っているというところに来るまでの悩みがあったはずじゃないの? この主人公が、このおかあさんという人をおかあさんとして受け入れなきゃならないというのがそもそもよくわからなかった。変則的な家族だけど、このような家族として成り立つまでの過程が全く書けていないので、違和感が非常にある。最後の駅の場面でも、このおかあさんをそこまで思う気持ちがよくわからない。

トチ:その部分はディテールで書けてると思うけど。『タトゥー・ママ』で主人公が終わりのほうで里親の家に行って、すぐに好きになるでしょ? あれと同じじゃない?

アカシア:現代の児童文学には、血のつながりのない者たちが血縁に頼らずに家族の関係を構築するっていう物語が多いわよね。それに、昔だって戦争とかいろんな事情で、血のつながりがない人と暮らしている人って日本にもいっぱいいたんじゃない。

ハマグリ:血のつながりにこだわっているわけではないの。

愁童:おとうさんといっしょに水をかぶったりする行為とかで、その辺は書けていると思うけど。

ハマグリ:どうしてこんな変則的な家族ができたのかってところをもっと納得させてほしいの。だって、おかあさんとおとうさんは兄妹なわけだし。こんな家族の形になぜここまで固執するのかがわからない。

愁童:冒頭の部分で、自分の母親の顔を知らない記憶の原点みたいな描写が出てくるけど、ここは文章が妙に持って回った表現で、頂けないと思ったな。

ハマグリ:結局、四人の家族ができちゃってからの話になっているので、どうしても不可解な感じがある。

ケロ:テーマが「母親」だったこともあって、そっちの切り口で読み進めました。そのせいか、超能力などの設定には違和感をもたなかったです。だから、祈祷師の血=家族の血ってこととしてすんなり入りました。主人公は、自分の出生の事から、血縁を含めて、誰かとつながりたい、といつも感じているんですね。主人公がふらふらと山中君のことを好きになっちゃうのも、結構自分勝手な友だちといつまでもつきあっちゃうのも、だからかな、と思います。春永は、いつもどこかでその答えを求めている。それが切ないですね。それにしても、「今、つきものをはらったから」という会話が出てくる家族ってすごいですよね。余計リアルに感じました。ひとつぶっとんだ設定をおくと、他が光って見えてくるんですね。おもしろかったです。

:『祈祷師の娘』というタイトルと「自立の物語」という帯の文言が、あまりにも相反していて、読む前はなんだかしっくりきませんでした。でも読んでみると、まさに自立の物語が描かれていました。どこにでもいるようなふつうの少女の生活を単純に書いたのでは、なかなか自立という部分は浮かびあがってきません。でも、「祈祷師」という普段垣間見ることのできない設定を加えたことで、逆にもっと切実なリアリティがうまれていると思います。もともと私は、非科学的なものにはクールなので、占いなんかにも全然興味がないのですが、こういった不思議な力が生活に入りこんでいるというのは、人間として余裕があって、じつは生き方の幅が広いのではないかとも思うことがあります。そんなことをも感じさせてくれる本でした。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年12月の記録)


マイがいた夏

マッツ・ヴォール『マイがいた夏』
『マイがいた夏』
原題:MAJ DARLIN by Mats Wahl, 1988
マッツ・ヴォール/著 菱木晃子/訳
徳間書店
2004.05

版元語録:長い髪が美しい少女マイが転校してきて以来,ぼくと幼なじみのハッセとのあつい友情にひびが入りはじめる。そして夏の終わりに…。

アカシア:舞台となっている時代の、この年齢の男の子が、とてもうまく書けてますよね。ハッセがわざと危険な位置でダイナマイト爆破を見る冒頭の場面、プレスリーのレコードを聞きながら子どもたちが踊る場面、犬に吠えられそうになりながらイチゴを盗む場面、おばあさんがロープを渡そうとする場面など、一つ一つのエピソードが生き生きとしていて、リアルに浮かびあがってきました。訳もとても読みやすい。ただ設定からして、大人が少年時代を回想して書いているということなので、客観的にこの年齢の少年を分析する文章が随所に出てきます。それに、たとえば5ページの「片手で女の子の髪をつかもうとしながら、もう片方の手で地面の深い穴をさぐっている12、3歳の少年たち。どこにでもいる少年たち。彼らは、どちらの手がつかもうとしているものにも気づかないふりをし、無邪気に生きているように見える。だが本当は夜明けがくるたびに、自分の中にひそむあこがれを感じ、子ども時代の終わりのにおいをかぎつけている」などという文章には、ノスタルジーも感じます。そういう部分は、同年齢の子どもが読んだら、どうなんでしょうね?

ハマグリ:たしかに、突然30年経った今の自分の見方が出てきますね。子どもの気持ちに沿って読んでいける物語だけに、そこは物語世界から引き戻されてしまう感じはあったけど、とても描写が生き生きとしていて、おもしろく読めました。語り手の少年は、ちょっとおとなし目で、それに対して親友は魅力的でハチャメチャで、という設定は、少年たちの出てくる物語にはよくあると思いました。『スタンド・バイ・ミー』(スティーブン・キング著)のゴーディーとクリスもそうだし。脇役の人物描写も上手で、特にママがうまく書けていると思う。シチュエーションを目に見えるように書ける人で、冒頭の爆発を見物するところの黄色いジープの描写が、今度は黄色い蝶に転換していくあたり、うまいし、マイが手首に結んでくれた水色のリボンの色も印象的に使っています。結末は悲しいのだけれど、二人のやることはいつもどことなくユーモラスなので、楽しく読めました。子どもの世界をとてもよく知っている人だと思いました。

ケロ:単館上映の映画館で上映される映画を見ているような感じで読みました。今回のテーマが、「何かが始まって何かが終わるという、ひと夏の物語」なので、どの本も、どういう結末になるのかに引っ張られるような気持ちで読み進めました。特にこの話は、結末をにおわせる部分が多いので、非常に気になりながら読みました。でも、それだけでなく、結末までの一つ一つのエピソードの重ね方が上手で,確実に厚みになっているという気がします。主人公の劣等感や悲しみ、恋心など……。たとえば、父親が牝牛に絞め殺されてしまったということを主人公が知るところなどは、悲しいのに、ユーモラスで切ないですね。ただ、「13歳の男の子ってこうだったよね」というように、昔の自分を達観して、さらに今の読者に「そういうもんだよね」と同意を求めているように感じるところがあります。読者が大人ならまだしも、まさしく13歳くらいだったら、素直に読めるもんなのかしら?と、私も思ってしまいました。

トチ:たしかに子どもの読者にとっては遠い昔の、遠い国の物語なので、ついていけるかなあとは思いますが、ひとつの文学作品としてみると大変な傑作だと思いました。なによりも登場人物のひとりひとりを、多面的な人間としてしっかり書いてある。貧しくて、心身の発達がおくれているトッケンという男の子にしても、ただの可哀想な子どもではなく、なかなかしたたかな面も書かれていておもしろいと思いました。物語の導入部は、まるで映画を見ているように、小さな島のいろいろなできごとを語っていますが、しだいに読者の不安をそそる3つの爆弾がそのなかに埋め込まれていく。1)ダイナマイト 2)マイの心臓が悪いこと 3)主人公がそのマイに水泳を教えてやると言い出すこと。それが最後には雪崩のように悲劇に結びつく展開になっていく。悲劇が起きてからの説明を、それまでの書き方と違う主人公と警官の対話にしたあたりも、とてもうまい書き方だと感心しました。一つ一つの情景描写もすばらしく、特に教室で主人公の前の席にすわったマイの髪の毛が主人公の机にさっと広がり、通り雨のようにまたさっと消えていくという描写が、情景だけでなくそのときのかすかな音まで聞こえるようで印象に残りました。菱木さんの翻訳も、いつもながら美しくて見事な訳文だと感心しました。

ブラックペッパー:今月のテーマは「ひと夏の思い出」ということで、選ばれた本3冊のうち2冊が書名に「〜の夏」と、夏がついていますね。書名としては、いちばんキマりやすい季節なんですね。春夏秋冬のなかで、本でも映画でもタイトルの登場回数ナンバーワンなのではないかしら。そして、みんな、はかない恋をしちゃったりするのよね。これも夏という季節のなせるワザか……? と、まあそんなことはいいんですけど、私はこの本、とっても好きでした。最初、手にとったとき、400ページもあってけっこうなボリュームだわと、ちょっと敬遠したい気持ちだったのですが、私の好きなスウェーデン、それもゴットランド島が舞台だとわかって、急に興味がわいてきて、ぐんぐん読み進みました。もー、なんという乙女ゴコロあふれる、愛らしい少年たち! 初恋のとまどいといいますか、心の揺れが細やかに、とってもよく描かれてると思います。いいですねえ。大好き。ひとつ不満をあげるとすれば、マイが死んでしまったこと。死なないでほしかった……。マイがいなくなるってことは、書名からも見えるから最初からわかっていたとはいえ、〈死〉ではなくて転校してしまうとか、仲良しではなくなって遠い存在になるとか、そういうのがよかった。だって最後が〈死〉だと、おさまりはいいけど衝撃が大きすぎる。それまでの繊細さが薄らいでしまう感じ。

アカシア:乙女ゴコロって、繊細っていうこと? ある時期のことを切り取った形で書くとすると、「死」を出して区切りをつける設定になるのかも。

ケロ:髪を切ったところを読んだとき、一瞬、マイは死ぬのではなく、「憧れのマイ」という対象が消え、恋が終わるのかなと思いました。髪を切るという行為は、マイが今までの自分でない、新しい自分に脱皮したいという思いのあらわれですよね。このあたりから、マイが2人の男の子とは、違う道を行ってしまうのかしらなんて思ってしまった。

アカシア:男の子たちは、マイが髪の毛を切ったのを見て実はがっかりするのだけど、わざと知らない気づかなかったふりをする。その辺のやさしさも、うまく描けてますね。

むう:正統派文学だなと思いました。厚さがあるだけでなく、読み応えのある本でした。スウェーデン人の知人がいてそのイメージが重なるからかもしれないけれど、作者の目線がとても誠実でていねい。先日、読書週間にあわせて重松清さんのインタビューが新聞に出ているのを見たんです。重松清さんは、「若い人たちが本を読むというのは、その本の中に、読者自身にもよくわからない自分の気持ちを体現する人物や出来事があって、本を読むことでそういう自分の内面が見えてきたりわかってきたりするという意味があるのだろう。あるいは本を読むことによって、自分とは違う人生を体験できたりもするのだろう。それは大事なことだと思う」といったことを述べてたと思います。これはそういう、思春期現在進行形の人が同世代の人間の行動を見て共感するタイプの本とは違うような気がしました。どちらかというと大人の回想文学で、ノスタルジックだし、同世代の若者には理解できないような細かい分析まで入っている。その意味で、大人が読む本なのかなと思いました。古いフランス映画に、やはり2人の男の子と1人の女の子が出てくる「さすらいの青春」(アラン・フルニエ原作)という青春映画の名作があったけれど、それに似た感じですね。きらきらした青春映画。チェンバーズもこの世代を主人公にして描いていて、誠実さという点ではヴォールと似ているけれど、あちらは主人公と同世代の読者にもっと直接的にがりがりと迫ってくる点が対照的だと思いました。

ハマグリ:子どもは、大人の観点で書いているところは読み飛ばすんじゃないかしら。ストーリーがおもしろいので、子どもの読者でも引っ張っていけると思います。やっぱり中学生くらいが読むんでしょうね。

むう:この時期の男の子の危うさや、初々しさがよく書けているのには感心しました。とにかく他人の目が気になって、自信がなくて、妙に突っ張って。大人の目から見れば些細なことに右往左往しているあの時期がみごとに描写されていて、読み終わったとき、「初々しい」っていうのはこういうことだったんだなあ!と思わされました。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年10月の記録)


ホリス・ウッズの絵

パトリシア・ライリー・ギフ『ホリス・ウッズの絵』
『ホリス・ウッズの絵』
原題:PICTURES OF HOLLIS WOODS by Patricia Reilly Giff, 2002
パトリシア・ライリー・ギフ/著 もりうちすみこ/訳
さ・え・ら書房
2004.04

オビ語録:ホリス・ウッズは、生後一時間で捨てられた小さな芸術家。だれにも心をひらかない。ただ、あの夏の日々だけは別だった……。/感動を呼んだ「ノリー・ライアンの歌」原作者ギフの新作。

アカシア:絵を一枚ずつ見ながら物語が進んでいく構成は、おもしろいと思いました。ただ、リーガン家の人々が、拒み続けているように見えるホリスに飽くまでも執着する理由がわからないんですね。ホリスの魅力がじゅうぶんに伝わらないから、なるほどと思えないんだと思うの。それにスティーブンが冬の山荘にいろいろなものを運んでくるところなんか、リアリティがなくて、ご都合主義的な『小公女』みたいに思えてしまう。ホリスが里親をたらいまわしにされていたという設定は、キャサリン・パターソンの『ガラスの家族』(偕成社)とも共通してますね。でも『ガラスの家族』には突っ張り具合が具体的に書かれていてリアルだったけど、この作品はあまり具体的な記述がないので、その後ホリスが人間を受け入れる存在に変わっていく部分が、逆にうまく伝わらない。とにかくリアリティが希薄でしたね。

ハマグリ:現在の進行と過去の回想が立体的に構成されているけれど、凝っているわりには内容が薄いですね。リーガン家との出来事の回想が間に挟まっていて、過去に一体何が起ったんだろうと思わせるけど、それが少しずつ小出しに延々と続くので、いい加減に言えよ!と思ってしまう。そこまで引っ張っておいて、ラストは何だ!と拍子抜けしてしまう。絵を一枚一枚出してくるのも洒落ているけれど、あまり効果がないように思いました。リーガン家の人たちがなぜホリスをそこまで受け入れようとしているのかも今ひとつ理解できないし、なぜホリスが彼らだけにそこまで心を開いたのかも分からなかった。ジョージーに対してこれほど優しくできるというのも、納得がいくようには描かれていません。心の動きが伝わってこないのね。もっとホリスのことが知りたいのに、回想シーンに邪魔されてしまう感じもあるし。

ケロ:そうですね、私も、引っ張りすぎだよ、とつっこみを入れながら読んでしまいました。でも、リーガン家との出会いのシーンは、なかなかいいと思いましたよ。24ページ。ゲームをしてわざと負けてあげるあたりの優しさがうまく描かれているので、斜に構えるホリスが、この家族を「かけがえのない家族」と思えることに説得力があります。また、ホリスに帽子をかぶせて鏡にうつすシーンで、ホリスがとても美しい、というところなど、あっ、そうなんだー、とホリスのイメージを少しずつ軌道修正しながら読むところがありました。

ブラックペッパー:そこは、愛情を持っている人から見ると可愛いということかな、って思ったけど。顔立ちが整っているわけではないのだろうと。

ケロ:そうか、そうですよね。だいたい、全体に「ホリスってどんな子なんだろう」と思いながら読んでいた感じがします。それだけつかみにくかったのかな、ホリス像が。読み進めていると、あっさり読んでしまうのだけれど、あとで「何で?」とひっかかってしまったり、浅い感じがしたりするところも、『ノリー・ライアンの歌』と似ている印象を受けました。あと、わざとそういう印象をあたえる設定にしてるのかもしれないけど、スティーブンは死んだんだ、と思って読んでしまいました。

トチ:『マイのいた夏』のマイが死ななくて、スティーブンが死ねばよかったってわけ? というのは冗談だけど。私も、主人公がこれだけスティーブン一家に対してしでかしたことで悩んでいるのだから、死んでるにきまっていると思って読んでいたので、最後まで読んで拍子抜けしてしまったわ。それに、ホリスという子がどうしても好きになれなくって・・・・・・スティーブン一家や彫刻家のおばあさんが気に入るような娘には、とても思えなかった。訳文のせいかしら。ホリスのモノローグでストーリーが語られていくわけだけれど、12歳の女の子が語っているようにはとても思えない。「おやじさんはスティーヴンを愛している。当然ではないか」なんて、12歳の女の子が言うと思う? 原書では、もっとみずみずしい、いかにもこの子らしい語り方をしているんじゃないかしら。それから田舎の少年であるスティーブンが自分のことを「オレ」といっているのに、なんでホリスのことを「きみ」なんて気取って呼んでるのかしら?

アカシア:原文では、セリフにもっと繊細さがあるのかもしれないわね。

トチ:自分の絵について話しているところも、原文ではもっと繊細なのかもしれない。それから彫刻家のおばあさんに「〜してあげた」ではなく「〜してやった」とずっと言っているのも気になった。尊敬している目上の人に対する言葉としては、乱暴よね。それから、これは原文のほうもそうだと思うのだけれど、ケースワーカーをこれでもかとばかり嫌らしく描写しているのが、嫌な感じ。彫刻家のおばあさんは映画スターのように美しいので、初対面のときから気に入ったけれど、ケースワーカーはいつも同じ服装で、サイズもXLだから嫌だ・・・・・・なんてねえ。
それから、里親制度も日本とアメリカでは違うと思うんだけれど。日本は里親になる人たちは本当に奇特な人だけれど、アメリカでは自分の利益のためになる人もいると聞いています。そこのところを知らないと、「せっかくうちで育ててあげるといってくれているのに、なぜいろいろな文句をいっているのか」と、日本の読者は不思議に思うんじゃないかしら。

アカシア:ホリスはこの作品の最後では、里子ではなくてリーガン家と養子縁組をするのよね。里子は一時的に預かってもらうということだけど、養子は親子という恒久的な関係を法的にも結ぶということですよね。そのあたりも、訳文の中なり後書きなりではっきりさせておかないと、最後のホリスの安心感が日本の読者には伝わりにくい。それと、さっきトチさんから「きみ」が変だという話が出ましたけど、私はスティーブンが父親を呼ぶときの「とっつぁん」にもひっかかりました。スティーブンのほかの部分の口調と合ってない。

ブラックペッパー:やっぱり不思議なのは、リーガン家の人々がなぜホリス・ウッズをこんなに好きになって、ホリス・ウッズもまたなぜリーガン家の人々をすぐに受け入れたのか、ということ。だって、ホリス・ウッズって、こんなに「悪い、悪い」って言われてて態度も悪かったのに、すぐにうち解けて相思相愛になるなんて、ちょっと変じゃない? そういうところが全体に雑な感じ。作者の中では、世界が緻密にできあがっていたのだと思うけれど、描かれていない部分が多いから読者には伝わりにくい。そして構成が凝っていることで、よけいにその描かれていない部分、すかすかしたところが目立っちゃう。骨太なストーリー展開で大きなうねりに引き込まれるような作品だったら、描かれていないところがあっても気にならなかったり、想像をふくらませて自分で補うことができたりするけど、この作品はぶつぶつと途切れながら進んでいくという構成だから、どうしても「すかすか」が気になる。
訳も気になるところがいくつかあった。たとえば73ページに「アメリカ南西部へ行く」ってありますよね。日本語では、日本の中を移動するのに「日本の〜地方へ行く」とは言いませんよね。「アメリカ南西部」と言われると、えっ、今いるのはアメリカではなかったの? と思っちゃう。こういうところ、もうちょっと工夫できるのではないかしら?

アカシア:リーガン家の人々は、何でも許してくれるやたらに優しいだけの非現実的な存在に思えてしまうわね。リーガン家の人も、ホリスも、立体的な存在として伝わってこない。

ハマグリ:ホリスが魅力的になっていないのは、この口調にもその一因があるよね。

むう:カレン・ヘスの『11の声』(理論社)やロイス・ローリーの『サイレント・ボーイ』(アンドリュース・プレス)のように何枚かの写真を使ってそこから物語を構成していくという作品もあることだし、目次を見て、この作品は絵をいくつか使って物語を構成しているらしいと思って読み始めました。話としてはけっこう波瀾万丈なのだけれど、読み終わったときには、軽いというか浅い本という印象しか残らなかった。私も途中はずっと、スティーブンが死んでしまったんだと思っていました。思わせぶりな感じがしますよね。ホリスは、自分が加わることでスティーブンの家族の平和を壊してしまったと思ったから家を出ていくわけなんでしょうけど、そのホリスにとっての重さをもっときちんと描かないと伝わらない気がする。読者にすると、「え? スティーブンが生きてたんだったらいいじゃない」みたいになる。それと、再会したスティーブンがホリスに、「きみは、まだ家族ってものを知らないんだよ」と言いますよね。ここでホリスは、実際の家族はいつも和気藹々としているわけではない、ということをはじめて知らされる。著者はこの瞬間を書きたかったのだろうけれど、一つ一つの人物や情景の書き込みが足りなくて、平板になってしまっているから、読者にすると、ただ「ああ、そうですか」となってしまう。

ハマグリ:この子がどんなに悪い子でも、よく描けていれば読者は応援したいという気持ちになるものだけど、これはそうならないのよね。

トチ:人間に対する見方も意地悪よね。ソーシャルワーカーは訳のわからない、鈍い人だときめつけている。ユーモアもないわね。ソーシャルワーカーの特大サイズトレーナーはもしかしたらユーモアを書いている部分なんでしょうか?

ブラックペッパー:私も、ここは面白いと思うべきところなのかな、と思ったけど、ユーモラスとは思えなかったな。

(「子どもの本で言いたい放題」2004年10月の記録)


美乃里の夏

藤巻吏絵『美乃里の夏』
『美乃里の夏』
藤巻吏絵/作 長新太/画
福音館書店
2004.07

オビ語録:ひと夏の出会いと、別れ/「美乃里」と「実」——おなじ名前をもつ男の子との、小さな銭湯でのふしぎな出会いと、そして別れ。より深く、よりやさしく、人を知ること、愛することをおぼえはじめたのは、美乃里10歳の夏だった。 切なくも美しい純愛と成長の物語。

ブラックペッパー:こんなにお風呂掃除が好きなんだったら、うちのお風呂も掃除してほしい……。読んで嫌な気持ちにはならなかったけれど、よくわからなかった。このおじいさんは恐い人なのかと思ったら、すぐやさしくなってるし。最後のお手紙のせいか、美乃里ちゃんのナルシス的なものを感じた。須賀君が好きって言ってたけど、「須賀君を好きな自分」が好き、「三角関係に悩む」自分が好きって、結局自分がいちばん好きだったのでは……と思っちゃった。

トチ:「ミノリ」という名前が同じだということに何か意味があるのかと思ってずっと読んでいたけれど、けっきょく何もないのね。それから「実」のほうは、あの世から来た子だと思っていたけれど、最後のところでそうではないと知ってショックだった。だって、あまりにもリアリティがない、幽霊みたいな子なんですもの。

ブラックペッパー:小学校5年生の男の子が、知り合いでもない女の子にハンカチをさっと差し出したりするかしら?

ケロ:私は最初、実は銭湯の精なのかと思ってた。

トチ:もうひとつリアリティがないのは、片腕の不自由な老人がひとりで銭湯をやっているということ。お風呂屋さんってとてもひとりではできないでしょ。番台だけじゃなくって、火をたく係りとか人手がいる仕事なのに。それから、最後の「実」が施設の子どもだと分かったというところ、本当に腹が立った。施設の子どもだと分かったら、主人公は実に会いにもいかないでしょ?かわいそうな施設の子どもは、自分とは違う世界の人間だと思っているのかしら。施設についても、老人ホームについても、あまりにもセンチメンタルで薄っぺらい書き方をしているので、不愉快になったわ。

ブラックペッパー:なぜ木島さんが厳格だったのか知りたかったのに、それが最後までわからなかったのが不満。

ケロ:長新太さんの絵、いいですよね。なんか、新鮮な感じがしました。ぜんぜん関係ないんですけど、家の近くにすごい銭湯があるんです。とても古くからある銭湯のようで、常連さんなんでしょうね、みんなマイロッカー、マイグッズキープ状態に、まずびっくり。お風呂場はきれいなのだけど、外側の壁にびっしり生えているツタが内側の壁にまで入り込んできていて、ジャングル風呂状態なんですよー。なかなか、ファンタジックな世界です。銭湯というのは、シチュエーションとしておもしろいと思うので、もっとそのおもしろさがいかせればいいなと思いました。掃除をおもしろがるのが変、というのも、描き方なのでは? それに、昼に揚げ出し豆腐、ってアリですか? よくわかりませんが、ちゃっちゃと作れる、でもとてもおいしい、というメニューの気がしません。仕事中なんだから、そういうメニューのほうがしっくりくるでしょう? いきなり、お手伝いの子たちにまかせて、80のおじいさんが、まめにいそいそと揚げ出し豆腐作るってのもねー。
それから、これだけ男の子と仲よくなっておいて会えなくなっちゃうことってあるのかな。突然12年後の手紙ってのがねえ。その前に、捜せばいいのに、という感じ。いろんな意味で、よくわからない本でしたね。

ハマグリ:文章は下手ではないのでさらさらと読めるけれど、何か現実感がないというか、銭湯のような日本独特の場所や、揚げだし豆腐とか、旬のみょうがを薬味に、なんていう日本的なものを使っている割に、匂いや空気感が伝わってこなくて、単にこぎれいになってしまっているわね。面白いシチュエーションを作ろうとしているのに、伝わってこない。銭湯の絵の、見えない半分を見るというのは確かにわくわくするけど、ただつながっているというだけだし、それに銭湯に妖精というのもそぐわない。発想はいいけれど、不消化に終わっています。この男の子のあまりの現実味のなさに、私もてっきりこの世の者でないと思っていたから、え、なんだと思いましたね。最後の手紙の部分は、いらなかったと思う。唯一よかったのは、美乃里とお父さんが仲がいいこと。今どきこういう無邪気に仲が良くて、口うるさい母親に対してタッグを組むような父娘の関係を書いているのは珍しい。

アカシア:長さんの絵はいいですね。例えば13ページの絵の美乃里も、いかにも背が高いのを気にしている少女の感じがよく出てる。いっぽう文章となると、とにかくリアリティがなさすぎ。スポーツ少年の須賀君が女の子二人とと交換日記なんかします? それに、まだ夏休みに入ってないのに、この学校の生徒ではない実君がなんで校庭にい合わせるわけ? ここで、だれもがファンタジーだと思っちゃいますよね。銭湯の掃除だって、最初は面白いかもしれないけれど、夏中してたら、よっぽど惹きつけるものがないかぎり飽きるでしょ? だって小学校5年生なのよ! 木島さんが千代子さんと突然一緒になる、という運びにもびっくり! 私は木島さんが銭湯を休むところで、実君を引き取ろうとしてるのかな、と思ったの。それに、そもそも千代子さんは体の具合が悪いんだし、孫の実君は掃除でもなんでも一所懸命やる子なんだから、実君を施設から引き取って一緒に暮らすほうがリアリティがある。
192ページの実君の手紙も、この年齢の男の子が書いた手紙とは思えない。しかも「とつぜん、さよならしてごめんね、美乃里ちゃん。美乃里ちゃんにいうと心配すると思ったんだ。ただ、ぼくはすごく楽しかったんだ……」なんて、施設の子だから楽しかった、と作者が言わせてるみたいで、嫌な感じ。感傷的な憐れみのようなものが感じられて、すごく不愉快です。こんなものがリアリスティックフィクションとして、伝統ある出版社から出されているなんて! 最後の手紙もナルシズムの固まりだし、ディテールもちゃんと立ち上がるように書いてほしい!

トチ:多分、銭湯なんかも調べてないと思うよね。

アカシア:美乃里と実が手伝いにくるまでは、老齢の木島さんが銭湯の仕事も毎日の暮らしも何もかも一人で切り盛りしてたなんて、ファンタジーよね。この本のどこがおもしろいのかなあ。

むう:ほとんど、みなさんのおっしゃったことで尽きている気がします。私も、はじめからずっと、この少年はこの世の存在ではないように感じていました。『トムは真夜中の庭で』(フィリパ・ピアス著 岩波書店)じゃないけれど、この少年がおじいさんの少年時代で、時間がぐちゃぐちゃになるファンタジーでもおもしろいかなって思ったけれど、結局は実在の子だったので、なんだあと思ってしまいました。

ハマグリ・アカシア:そういう設定だったら、おもしろい作品になったのにねえ。

むう:全体にふわふわした作品で、最後にこの手紙が来ることで、さらにべたべたに甘い印象を残して終わっていますね。全体として思わせぶりな本でした。

ハマグリ:せっかく新人が出てきたのに残念よね。

むう:木島さんの戦争で受けた傷の話とか、老いの問題とか、いろいろなことを盛り込んでいる意図はわかるんですけどね。たとえば、田舎の盆踊りで少しぼけたおばあさんが主人公の浴衣を自分のだというエピソードは、老いを取り上げたつもりなのだろうけれど、しっかり書けていなくて、ちょっと出してみましたレベルで終わっている。だから、それぞれのエピソード立体的にきちんと組み合わさってこない。ところで、この本の帯には「成長と純愛」とあるんですね。

ハマグリ:げーっ。

アカシア:オヤジ編集者のコピーですかね?

むう:強いていえば、花火をふたりで観るところがそういう感じなのだろうけれど、これは純愛じゃなくて,憧れですよね。

ハマグリ:自分の発想に酔ってるだけ。

トチ:お風呂屋さんならお風呂屋さんで徹底的に調査して書けば、おもしろかったのに。これでは単なる飾りになってしまっている。

ハマグリ:頭の中だけで書いているのね、きっと。日本の作家になかなかいい人が出なくて,困ったわねえ。福音館は、どこがいいと思って出したのかしら?

(「子どもの本で言いたい放題」2004年10月の記録)