カテゴリー: 言いたい放題でとりあげた本

5番レーン

『5番レーン』表紙
『5番レーン』
原題:5번 레인 by응 소호르 2020.
ウン・ソホル/作 ノ・インギョン/絵 すんみ/訳
鈴木出版
2020.09

〈版元語録〉急に速くなったライバルに勝てなくなり悩んでいた。ライバルの水着が承認されていないモデルではないかと疑うことから引き起こした事件をきっかけに、大きく成長する姿を描く。韓国の文学トンネ児童文学賞大賞を受賞した、瑞々しくさわやかな青春ストーリー。

西山:本作りはきれいだけど、どうにも読みにくくて入って行けませんでした。冒頭の3行ですでにつまずいて……。「ナルは5番のスタート台にあがった。……ひとつだけちがったのは、ナルのレーンが5番じゃなかったということ」タイムが速い順に4番、5番なのかということがなんとなくわかって、なんとか理解はしましたが……。部活や学外のスポーツクラブの在り方が日本と全く違うのだなと、こういうことを知ることができるのが翻訳作品のおもしろさだなとは思いました。

コアラ:おもしろかったです。ただ、韓国のことをあまり知らなくて、いろいろわからないまま読み進めて、いろいろひっかかりながら、少しずつわかっていく、という感じで読みました。名前では、誰がどういう人なのかわからなくて、例えば、主人公のナルと仲のいいスンナムについては、p23で「オレが買った」とあったので、男子だったのかとようやくわかりました。年齢と学年についても、最初のほうで、小学校の水泳部でナルは小学6年生と出てきますが、p19の最後のほうで13歳となっています。日本でいうと中学1、2年生かと思いましたが、p44の中ほどの括弧で「(韓国は生まれたときを一歳とする数え年)」とあって、結局日本と同じ、小学6年生の12歳だとわかりました。これがわかるまで、年齢と学年はひっかかりになっていました。あと、小学校の水泳部とありますが、日本でイメージするような、ただの学校のクラブ活動でなく、オリンピックを目指す選手がお互い切磋琢磨するような、すごくハイレベルなところだとわかってきます。それから、水泳のこともよく知らなかったので、5番レーンの意味もよくわからないままでした。たぶん、4番レーンが予選で1位だった人、5番レーンが予選で2位だった人、ということなのかな、とは思いましたが、はっきりとは書いていなかったように思います。読み飛ばしてしまったかもしれません。それでも、いろいろわかってくると、すごくおもしろくなったし、p132の3行目の恋の始まりの表現など、すてきな表現がいくつもありました。ただ、どちらかというと大人びた表現のある物語なのに、絵がとても幼く感じられて、そこに違和感を感じました。絵が全部カラーで贅沢なつくりだし、きれいな本だとは思います。

アマリリス:ひたむきなスポーツ小説かと思ったら、ナルが水着を盗むシーンがあって、そっちの方へ行くのか! と度肝を抜かれました。そこからの展開は非常に読み応えがありました。幼馴染のスンナムが実はチョヒと付き合い始めていた、というオチもおもしろかったですね。チョヒが、もっとイヤな子なのかと思ったら意外と素敵なライバルとして描かれていたのが印象深かったです。子どもたちがそれぞれ、過去に盗んだものの話をして主人公を励ますのもよかったと思います。ただ文章自体は、ツッコミどころが多い気がしました。以前、すんみさんの別の翻訳を読んだときはスムーズに楽しめたので、今回の作品は原文に問題があるのでしょうか。特に気になったのは、三人称のブレ。ナルとテヨンの視点が、章ごと、段落ごとに入れ替わるぶんにはいいのですが、1行ごとにブレている場面がありました。あと、最初にチョヒの水着の描写があったとき、色は書いてなかったように思うのですが、途中から急に「ピンクの水着」と出てくるので、同じ水着の話をしているのか、遡って確認作業をしなくてはなりませんでした。午後の練習時間の長さもはっきりわかりづらいんですよね。放課後に練習を始めるけれど、毎日夕方6時に公園で月を見ることはできるなら、練習時間は短いのかしら、と気になりました。ところでカラーのイラストが文中にたくさんあるって素敵ですよね。これ、印刷のコストはかなり高いのではないでしょうか。

ニャニャンガ:当初は一部の挿絵を使う予定だったのが、すばらしい絵なので、すべての挿絵を使うために担当編集者が頑張られたと伺っています。

シア:冒頭の「テイク・ユア・マーク」の一文が真っ先に目に飛び込んできて、クールさにしびれました。訳さずにそのままなんですね。よく文章内でフルネームで呼ばれていますが、これはどういう意味合いなんでしょう? 日本やアメリカではフルネームはわりとネガティブな印象なので不思議でした。物語の内容以前に、国の教育レベルが全然違うことに衝撃を受けました。PISA調査でも結果は出ていましたが、日本は世界から完全に後れを取っていることを改めて突き付けられました。小学生のうちからこんな高度な特別チームで一生懸命練習をしていて、中学に入る前の時点でふるい落とされる……それが国全体でのレベルを上げるということなんでしょうね。p 221「国旗が描かれた名札」をつけるなど、強化選手でもないのに仰天なのですが、国を挙げて教育しているんだなと感じました。『スクラッチ』を読んでからこちらを読んだので、余計に日本の部活システムが子どもだましに思えました。部活なんかでお茶を濁しているのにオリンピックでメダルだなんて、日本は負けましたと言っているようなものです。日本でもプロを目指している子はそもそも部活には入らずに、地域のチームに所属しています。素人の教員(ほぼ無償)が指導する部活なんていります? 熱い思い出だけじゃ、世界と肩を並べる力になりませんよ。この作品に出てくるコーチは精神的な暑苦しさがなくて冷静でまさにプロです。揺れ動く子どもたちに余計な口出しもあまりしません。青少年育成のために運動をさせるなどという名目もありますが、世界を見据えるなら早急に考え直していただきたいです。部活動というものにメスを入れるために、学校関係者はぜひ『スクラッチ』とあわせて読んでほしいと思いました。とは言ったものの、小学生なのに古典的な恋愛模様を繰り広げていて、さすが韓ドラの国だと笑ってしまいました。挿絵はかわいらしいのに、トレンディドラマのようなシーンの数々に少々居心地が悪くなります。水着事件の際、一生を棒に振る覚悟で大騒ぎするような年齢相応の子どもなのに、色恋沙汰はレベルが高く、韓国は本当にいろいろ進んでいるなと思いました。

アカシア:こう来たか、と、私はまず本づくりに感動しました。新しい風が吹いてきた感じがします。絵やレイアウトもすばらしいです。韓国は、児童書に対しての国のバックアップがすごいんですよ。それで、こんなに勢いがあるんでしょうか。文章にはそんなにひっかかりませんでしたね。小学校6年生らしい子どもたちが登場して、その心理がとてもうまく書かれています。おとなは、出来心で盗ってしまったなら謝って早く返せばいいじゃないって思うけど、この年齢の子どもだから悩むんですね。恋愛も初々しい感じだし。p111に「だったらお姉ちゃんもいかせない、とアタシが水着をかくしたりしたから」は、みごとな伏線になっていますね。

サークルK:みなさんおっしゃっているように、たくさんの挿絵がとても素敵でページをめくるのが楽しかったです。全部カラーなんて贅沢ですよね。表紙をめくった見返しのところが水玉で(裏の見返しは緑色の水玉に変えてあって、おしゃれすぎます!)さわやかなソーダ水のようです。放課後の水泳部は決して甘いものではありませんが、友達との関係やほのかな恋心などが、重たくなりすぎず展開していくことを示してくれているみたいでした。私が特に気に入っているのは、ナルの姉ボドゥルです。水泳から飛び込みに競技変更した姉に対しナルは納得がいかず、ひどい言葉で姉をなじりますがそんな妹に対して素敵な言葉で今の自分の気持ちを語ります。「競技をやめたって世界は終わらない」(p192)、「あたしはやれることを全部やったから、もう心残りがないの……」(p193)、「水に落ちてるわけじゃないの。……自分で飛んでるの」(p194)、「自分の力で進んだなら、思ったのとちがって下に下に向かってしまったとしても、それは落ちてる事じゃなくて、飛んでることになるわけだから」(同)、これらの言葉はこの作品にとどまらず、手帳に書き留めておきたいくらいの珠玉の言葉と言えるでしょう。「飛び込み」は競技のひとつではありますが、いわゆる「飛び込み」は「死」を連想させる言葉にもなりえます。この本を手に取る子どもたちが、ボドゥルの前向きな「落ちてるんじゃなくて飛んでるんだ」という言葉に救われると良いなあとも思います。また、ナルの友だちテヤンが書く手紙(p 210)にある「僕はいつもナルの味方だよ。ナルが自分の味方になれないときでもね。わかった?」という言葉もこれ以上の励ましはないほどの温かい心のこもったもので(ラブレターと言ってしまっては陳腐な表現になってしまうので、あえてそうは言いたくないのですが)、落ち込んでいる人にはこんな言葉をかけてあげられる人になりたいものだ、と思いました。最後に、この本の中で扱われているテーマの一つに「成長期の子どもがはまり込むスポーツの弊害」もあるような気がします。最近読んだ平尾剛氏のコラムを思い起こしましたので以下をご参照ください。「勝つたびに『俺は特別だ』と思い込む…巨人・坂本勇人選手のような『非常識なスポーツバカ』が絶えないワケ」(PRESIDENT Online https://president.jp/articles/-/63326?page=1 2022年11月14日15:00)

アンヌ:まず挿絵が素晴らしいなと思いましたが、人物については線が柔らかすぎて、体形がスポーツマンというより、ふんにゃりして幼い気がしました。実は私は水泳部に少しだけいたことがあるので、主人公からプールのにおいがしたり、コーチが、p124で「一番遠くにある水を引っ張ってくると考えて」というところなど聞き覚えがある気がして、懐かしい気持ちがしました。p70のお姉さんがサイダーで飛び込みをたとえるところなど、想像できて美しいです。韓国と日本との部活の意味の違いとかに興味を持って読み進んでいたのですが、ナルが自分と勝ち負けだけにこだわっている子なので、だんだん飽きてきてしまいました。それでも、周囲の人々はみんな優しく、彼女を見守っていてくれるおかげで物語は進んでいきますが、もう一つ釈然としないまま、スポーツマンとして成長していこうというナルの意思が語られて終わったなあという感じでした。

ネズミ:私は最初からナルのキャラクターにひきつけられて読みました。水泳のことばかり考えていたナルが、テヤンが現れたことや、姉の変化などを通して少しずつ変わっていく微妙な心理が描かれていてとてもよかったです。はしばしの描き方もよかったです。p104の三日月を見るシーンで、「ああ、でも……月に行っても泳げる?」とナルが言い、テヤンが宇宙の知識を出してくるところ、それぞれの性格が会話の中にそれとなくにじみでています。p133の1行目「いいよ、いいね、どうしよう。このうちどれが、いまの気持ちにぴったりなのかがわからない」と思って、結局スタンプを送るなど、心の動きがうまく表現されているなと。

エーデルワイス:表紙、挿絵が水色と黄緑色を基調とした綺麗な本です。読む前にページをめくって楽しみました。以前リモートの「オランダを楽しむ会」に参加してオランダと日本の小学校教育の違いを丁寧に説明していただいて、どちらが良いとか悪いとかではない、というお話が心に残っていましたので、『5番レーン』を読んで、韓国と日本の教育や部活の違いを考えてしまいました。小学生のまだ体ができていないときに、過酷なトレーニングはどうなのだろうか? 英才教育も大事だけれども、仲間と共に楽しむ部活もいいのではないか? 全国のそんな部活の中から才能のある子たちが出てくるのでは? 世界的バレエコンクールで日本のバレリーナが毎年のように上位に入賞するのは、日本国内に大小たくさんのバレエ教室があるためと聞いたことがあります。子どもたちは楽しんでバレエレッスンしてその中から才能ある子が伸びてくるのだそうです。ナルたちがスマホでやりとりしていますが、日本の小学生はまだスマホは持てないと思うので(それともキッズ携帯?)、どうしても中学生のような設定の物語に思えます。11月15日付日経新聞に「お隣の韓国で、初の絵本が出版されたのは1980年代末。ソウル五輪のころ経済成長をとげ、言論や出版の自由が広がったのが背景だという。日韓の絵本を紹介する、千葉市美術館で開催中の展覧会で知った。大正期から100年超の日本とくらべ歴史の短さに驚く。」(春秋 https://www.nikkei.com/article/DGKKZO65984750V11C22A1MM8000/ 日本経済新聞 2022年11月15日2:00 ※会員限定記事)という記事がありました。韓国での児童書に対する手厚い保護については聞いたことがありますが、なるほどと思いました。

さららん:思うようなタイムを出せず、今までの地位から落ちたカン・ナルは、自分で自分を受け入れられない葛藤を抱えています。そんな閉塞感とは対照的な、透明感のある広々とした空間のある絵が、物語の風穴になっているのかもしれないと思いました。そして幼馴染で水泳部部長のスンナム、親友サラン、転校生で水泳部に入ってくるテヤンをはじめ、群像がよく描けています。焦っているカン・ナルと反対に、テヤンは前向きでマイペース。ナルの姉ボドゥルも、葛藤を経てきたはずなのに、とにかく明るい。ナルの母親も、自己実現のために子どもに何かをさせている親ではありません。そんな周囲の人々が重いテーマの救いになっています。p224で、ナルは苦しい秘密をチームメートに告白しますが、みんなが「とにかくごはんを食べよう」と誘ってくれるところなど典型的です。またテヤンが科学者になりたいと思っていたり、ナルとスンナムとテヤンが公園に1か月通って、月の観察をしたりする章があることで、水泳がテーマの物語に思いがけない奥行が出ています。泳ぐことと空中遊泳の類似など、宇宙への広がりを覚え、気持ちのよい部分だなあと思いました。気になったのは、視点のギアチェンジが時々ぎくしゃくするところです。テヤンと交互に話が進むのかと思いきや、主人公はやはりカン・ナル。ほぼカン・ナルの気持ちに寄り添って読めるのですが、ただその視点が大きく揺れることがあるのです。例えばずっとナルの心理に寄り添った描写だったのに、急に突き放すような「八年の友情に危機がおとずれた」(p45)」という客観描写があって……「八年の友情もこれで終わるのだろうか」と書いてあれば、ついていけたのですが。

ニャニャンガ:ご近所なのに、あまり知らない韓国の学校事情がわかり興味深く読みました。水泳部の女子エース、小6のカン・ナルの目を通して、本気で水泳をすることの厳しさが伝わってきます。ライバルの水着を盗んでしまう場面にはドキドキしましたが、きちんと始末をつけていさぎよかったです。挿絵が豊富にあるおかげで読み進められる読者もいるのではと思いました。

まめじか:物語全体をとおして、ナルは水の中でもがきながら、前へ前へと進もうとします。競泳から飛込に転向した姉が、「自分の力で進んだなら、思ったのとちがって下に下に向かってしまったとしても、それは落ちてることじゃなくて飛んでることになる」(p194)とナルに語るのが、心に響きました。ボーイフレンドのテヤンやチームメイトとの関わりもよく描かれていますし、あたたかみのある絵がいいですねえ。最後の行にある「見てろ」は、日本語で読むと少し強いというか、闘争心をストレートに感じました。

ハル:私は、何人かの方がおっしゃっていたような、大人っぽさは感じませんでした。恋愛も、初恋の初々しい範囲かなと思います。それに、大人の私でも、もし自分がライバルの水着をとってきちゃったとしたらと考えると、それをいろいろ言いつくろって自然に返せる自信はないなぁ。シューズとかラケットとかだったらまだ「間違えちゃった」でごまかせるかもしれないけれど。なので、ナルが「もう水泳もできないかもしれない」というくらいに追い詰められたのも理解できます。全体的にはいいお話だったけれど、デビュー作だからなのか、皆さんがおっしゃるように、読みにくいところはあって、もう少しブラッシュアップできそうだなと思いました。そもそも、4番レーンと5番レーンの説明ってありましたっけ? 予選でいちばん速い子が4番レーンを泳げるんですよね? たぶん。その説明は、必要だったと思います。

(2022年11月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

Comment

スクラッチ

『スクラッチ』表紙
『スクラッチ』
歌代朔/作
あかね書房
2022.06

〈版元語録〉コロナ禍で「総体」が中止になったバレー部キャプテンの鈴音。美術部部長の千暁は出展する予定の「市郡展」も審査が中止。「平常心」と自分に言い聞かせ「カラフルな運動部の群像」の出展作を描き続ける千暁のキャンバスに、鈴音が不注意から墨を飛ばしてしまい…。コロナ禍で黒く塗りつぶされた中三の夏。そのなかでもがきながら自分たちらしい生き方を掴み取っていく中学生たちの、疾走する”爪痕”を描く物語。

まめじか:不要不急という言葉が押しつける我慢、大人が求めがちなものわかりのよさに、中学生が全力で抗う様子が頼もしく、気持ちよく読みました。災害やコロナなど、人生にはいろんなことがありますよね。思いがけないところから墨が降ってきて絵を汚されちゃったりもするし。でも、なんど闇が訪れても、光さす暁の瞬間は必ずあって、それはこの手でつくっていける、浮かびあがらせていけるというのに、ぐっときました。主人公たちが、ぜんぶ人になんとかしてもらおうとか、だれかのせいにするとかじゃないから、応援したくなるんですね。鈴音はディズニーランドに行こうとしている友人を非難したことで、それは帰省した姉を避ける近所の人と同じだと諭されて反省していましたが、そうやって自分のことを省みたり、千暁(かずあき)が絵を通して自分と向きあったりする様が、すがすがしかった。鈴音がすぐに泣いたり怒ったりして、生の感情をストレートに表せるのに対し、千暁はいつも冷静で、人との距離をはかりかねているようです。感情をむきだしにした鈴音の絵と、千暁が洪水のあと避難所で暗い感情を押し殺し、鮮やかなクレヨンで描いたタンポポの絵の対比が、見事だなあと。若干気になったのは、登場人物がみんないい人というのと、手の皮がむけるような過酷なトレーニングは、今の中学では行き過ぎた部活指導にあたり、指導として認められないのではないかということです。

シア:そういう指導の仕方は今の時代アウトですね。でも、残念なことにこういう学校がないとは言い切れないので、今後の部活動の在り方が問われますね。

まめじか:p. 3の「肌色」という言葉は、使わないほうがいいのでは……。「そんなキャラやったっけみのり?」(p 73)、「なんだそれふつうにひどい男じゃないかって思ったけれど」(p104)、「千暁みたいに頭よくないよどうせ」(p277)などは、読点がないのが少し気になりましたが、このほうが一気に読めて勢いが出るのかな。p191の千暁の章で「二宮(みのり)さん」とあるのは、千暁の心の声として「みのり」を括弧書きにしてるのか、それとも二宮さんがみのりのことだと、読者にわかるようにしているのか?

ハル:私はこの「(みのり)さん」の感じ、わかるなぁ。こういう子、いませんか? 親しみは感じているけれど、名前呼びするのは気後れするから、わざわざ括弧をつけて呼ぶ。ちょっと二次元的な表現なのかな。

ニャニャンガ:千暁にとって、この時点でまだ下の名前で呼ぶほどには打ち解けていない相手なので、括弧付けで名前を入れたのだと思いました。

まめじか:「べたべたとネットをくぐって」(p53)、「きゅっと僕を見た」(p104)、「きゅっと姿勢を正して」(p266)、「ペンギンのようにでべでべとかけて」(p149)、「雲が空をごんごん流れてきて」(p331)など、表現が独特ですね。「片手でわしっとつかんで」(p105)、「目元をにこにこさせて」(p109)などは日本語として正しいのかわかりませんが、そういうことを気にしすぎると、表現として窮屈になるのでしょうね。

アマリリス:一人称で書かれているので、この登場人物自身のボキャブラリーなのだと認識していました。だから、違和感なく読めましたよ。

ハル:久しぶりに、っていうと語弊があるかもしれませんが、久しぶりにいいYAを読んだなぁという読後感に浸りました。中学3年生の内面が、実際にそうなのか、本当のところはわからないけれど、表現されているこの子たちの心情や行動が、すべて真に迫っている、圧倒的なリアリティを感じました。体感をともなって想像したり、共感を覚えたりしながら読むことができました。もしかしたら、主人公たちと同世代の読者には、ちょっと長かったかなぁというのは少し気になりましたが、ぜひ、中学生、高校生に読んでもらいたい本です。

ニャニャンガ:とてもおもしろく、ほぼ一気読みでした。スカッと気持ちのいい青春物語という印象です。題名の「スクラッチ」の意味がわかってからは、さらに物語に入り込みました。じつは表紙の絵があまり好みでなかったために読んでいなかったので、今回みんなで読む本になってよかったです。翻訳作品にはない日本語の自由さを感じたので、翻訳者としてうらやましく思いました。p237「によによ笑う」、p247「す、っと、はっかのような空気が僕の肺に流れこむ」などの表現がとくに印象に残りました。またp255の絵を描くシーンにはドキドキしました。千暁が転校してきた理由や、その後、人と深くかかわりをもってこなかった理由などがわかり、鈴音と文菜、健斗との交流を経て少しずつ心がほぐれていくようすがよかったです。千暁の読み方がなかなか覚えられなかったけれど、千の暁という名前が物語とつながり、ぞくぞくしました。最後は、浸水被害の被災を乗りこえる家族の姿に感動しました。

エーデルワイス:とてもよかったです。今どきの中学生が、ため口で本音を語り、清々しい。コロナ禍になって3年ですが、子どもたちにとって1か月でも1日でもかけがえのない日々です。制限や我慢の連続の影響が今後どのようにでるのだろうかと心配です。主人公の鈴音、千暁たち中学生のいらだち、希望がストレートに伝わりました。印象的な場面はたくさんありますが、鈴音の中学生活での最後のバレーボールの試合終了後の場面は青春! でした。千暁が両親と美術館へ行った帰り、カップラーメンを食べたいと提案すると、いつも完璧に美味しい食事をつくる母が賛成して震災直後よく食べていた銘柄を言うところは、震災を体験して心に傷を負いながらそれを言葉にしてこなかった家族がようやく復活した素敵な場面だと思いました。

ネズミ:コロナ時代の中学生活を描いていて、もやもやのたまった感じがよく出ていると思いました。中学生同士のやりとりは、中学生は「あるある」という感じで読むのかもしれませんが、この会話がリアルなのか、戯画化や誇張があるのか、私には判断がつかず、ちょっとやかましく感じられて、途中はとばして読んだところも。あと、途中で説明的と感じられるところもありました。千暁は賢くて、自分で説明をつけていくだけかもしれませんが、p160の4行目で「この病気は仮病だと疑われて理解されにくいこともある、みたいなこともレポートされていたっけ、と思い出す」、p161の6行目「僕自身も親が、特にお母さんが小さい子どもに注意するようにいまだに口うるさいことにうんざりすることもあったけれど……」とか、この子の説明ではなく、物語でわからせてくれたらいいのになと。

アンヌ:よくこのコロナ下の現状と被災者の気持ちというのを描いてくれたなと思いました。きれいな絵を描くことで、母親の期待に添い、過去から目を背け自分を押し殺していた千暁が自分自身を取り戻し、真の創作衝動を取り戻す。それに対して、並行した主人公であるはずの鈴音は魅力的な個性なのに、狂言回し的役割なのが残念です。ただ、千暁の冷静さが、おもしろさを阻んでいる気がしました。あまりに自分や家族を冷静に分析しすぎで、中学生というより作者が顔を出して語っているのをずっと聞いているような気がしました。恋愛的要素を実に繊細に排除しているのも少し不思議でした。

アカシア:私はアンヌさんと違う風にとっていました。千暁はコミュニケーション障害を持っていることを自覚していて、一つ一つをピンダウンしていかないと次に進めないんだと思うんです。それで、友だちもできにくいので、親もそれを心配しているわけですよね。だから、必ずしも理想的な家族じゃないと思うんです。それと、最初ざっと読んだときは、美術の先生が男性だと思ってたんですが、もう一度ちゃんと読んだら、女性だったのにびっくり。全体に、生きのいい日本語ですよね。翻訳ではなかなかこういうわけにはいきませんね。このくらい自由な日本語で翻訳もできるといいんですけど。リアルにコミュニケーションを取った時、人は他者の立っているところに気づき、その人ならではの困難に気づき、自分をより客観的に見ることができるようになっていくんですね。最後の部分ですが、はじめは「私は行くんだ」ですが、次は「私たちは、行くんだ」になっているのが、象徴的ですね。好感をもって、おもしろく読みました。

シア:気になっていた本だったので今回読めてよかったです。スクラッチ技法も好きなので楽しく読めました。流行りの言葉遣いや物、時代を反映したフランクな一人称ものってすぐに古くなるので苦手で、最初は抵抗があったんですがリズムのよい文章でテンポよく読めました。ラストに天気が自分の気持ちに寄り添わないというのもよかったです。虹がかかるとか、心地よい風とか締めの定型みたいなものを壊してもらえてすっきりしました。そして田舎の広さに憧れました。お庭でバーベキューができるとか、家庭菜園というレベルではないものを毎日食べられるなんて羨ましい限りです。この作品では羽化に例えていましたが、中学生くらいは体も心もさまざまな変化が訪れる年齢ですよね。それを汲み取ったよい成長ストーリーになっていると思いました。今の学校生活や学生に求められるものというのは、理不尽ですが明確な正解があって、それをなぞっていけばなかなかよい生活が送れてしまえるんですよね。そういうことをわかっている子は優等生として優遇され、そのレールに乗れば社会でも無難に過ごせます。でもそのせいで、早くから一芸に秀でるということができません。それが今の日本が世界から一歩、もしくは何歩も遅れ気味になっている原因の一つかもしれないですよね……。という風に、子どもたちの成長の話に関してはとても興味深く読めましたが、教員に関しては世間一般ではまだまだアップデートがされていないと感じました。読んでいてもかなり負担が大きくて、千暁のお母さんが言っていたような「呪いをかけ」られている感じです。教員のプライベートを度外視した、“生徒に寄り添うよい先生”が全体を通して描かれているんです。生徒や保護者にとってはよいことだし、今の世間的にも受け入れられていることなんですが、そういうひとつひとつが現在の教員を追い詰めていると感じます。粉骨砕身、滅私奉公、一人の人間としてではなく“生徒優先の正しい教員として過ごすべき”と価値観を押し付けてきた結果が、今日の教員不足に繋がっていると痛感します。聖職と考えて個人的に行う分にはいいと思います。これもフィクションだし、いいと思います。けれどこれを教員の「正解」として求められてしまうのはかなり苦しいと感じました。

アマリリス:今回、自分のなかでは、まったくノーマークだった2作を読む機会をいただけてよかったです。『スクラッチ』は、非常におもしろいと思いました。最初は、ネット用語的なものを盛り込みすぎて、読みづらく感じたのですが、慣れてくると違和感なく、むしろ心地よく読めました。何年か後に古びてしまうことを恐れないで“今”を切り取っているところに覚悟を感じます。美術やバレーに携わる人の成長を描く青春小説としては、そんなに大きく新しい要素はないと思いますが、コロナ禍の閉塞感が再現されていて、今の子どもたちが親近感を持って読めるお話だなと思いました。表紙が、ぱっと見ただけで岡野賢介さんのイラストだとわかりますね。インパクトがすごい。ただ、読み終わってみると、千暁の絵のイメージと、表紙の絵があまりにも違うので、千暁の絵のタッチに近いものを見てみたかったな、という気もしました。あと、文章の細かい表現がいろいろよかったです。たとえばp195「ふつふつとした炭酸のような笑いが、あとからあとから、体の内側に湧き上がってくる」、p314「俺らが全部やったんスよ。仙ちゃんは漂ってただけ」などがユニークだと思いました。

西山:すっごくおもしろかったです。教員像、仙先生が女性なのがおもしろいと思っていた程度で、出てくる教師たちの働き方は気にせず読んでいましたが、確かにアップデートは大事ですね。抑え込まれた痛みを、痛みとして受け止めることの大切さが書かれていて、『フラダン』(古内一絵/作 小峰書店)を思い出しながら読みました。人物やエピソードがばらけずにきちんとつながっていて、読み終えるのを惜しいと思うほど楽しみました。出だしは、少々エキセントリックな感じが鼻についたのですが、p17の5行目で「マシだマシだと思いながらやり過ごすことは、何の意味があるんだろうな」と出てきたとき、一気にこの作品は信用できるというモードに入りました。「被災っていうのは、ずっと続いていくんだな」(p284、6行目)とか、共感できる価値観や感覚が随所に出てくるだけでなく、p305で鈴音の渾身の一撃が決まって勝つわけですけれど、ページをめくると「でも。これが勝負か? これで勝負決まったって言えるのか?」と続いていて、いろいろ制約はあったけど、やれることはやったよね、めでたしめでたしとまとめなかったところ、中学生たちの悔しさに徹頭徹尾寄り添っていて、本当によかったです。千暁と鈴音、仙先生と高瀬先生のことも恋バナにおとしこまないところもよかったです。読めてよかったです。

コアラ:おもしろく読みました。まず文体がいいと思いました。内容に合っています。内容が本当によくて、p267の最終行に、千暁が描いた絵のことを「2020年の、僕たちの姿だ」とありますが、この作品そのものが、2020年夏の中学生を、コロナ禍の暗闇から削り出すように描いています。最近毎年のように起こっている災害についても描かれていて、2020年という年の姿を作品として残してくれて、作者に「ありがとう」という気持ちでいっぱいになりました。ひとつ気になったのが、浴衣姿の鈴音が下駄を履いているところですが、最近は草履でなく下駄を履くんですね。

一同:浴衣は下駄ですかねえ。

シア:草履は履かないですね。足が痛いので下駄風サンダルなどで済ませることも多いです。

アカシア:この本、カバーをとると、表紙の絵はマスクをしてるんですよ。

シア:凝っていていいですね! 図書館の本なのでわからなかったです。カバーをとったらマスクもとれた、の方が仕掛けとしてはおもしろそうですが。

(2022年11月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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シリアからきたバレリーナ

『シリアからきたバレリーナ』表紙
『シリアからきたバレリーナ』
原題:NO BALLET SHOES IN SYRIA Catherine Bruton, 2019
キャサリン・ブルートン/著 尾崎愛子/訳 平澤朋子/絵
偕成社
2022.02

版元語録:シリア人の少女アーヤは、イギリスで難民認定を待っているところだ。内戦で住めなくなったシリアを脱出し、ようやくマンチェスターに辿り着いた。途中、小さなボートで海を渡る際に父と離れ離れになり、気力を失った母を支えながら赤ちゃんの弟をつれて、毎日、難民支援センターに通っている。ある日、同じ建物にバレエ教室があることに気づく。シリアでバレエを習っていたアーヤは、そこで明るい少女ドッティや先生ミス・ヘレナに出会い、踊ることで息を吹き返していく。希望とあたたかさと人間性に満ちた、2020年〈カーネギー賞〉ノミネート作品。

コアラ:難民の少女が主人公ですが、明るさと美しさのある物語という印象でした。美しさがあるのは、やっぱりバレエを扱っているからだと思います。カバーのイラストがアラベスクのポーズだと思いますが、物語に出てくるバレエのポーズや踊りを想像しながら読みました。バレエのポーズなどの専門用語の注が、そのページか見開きの最後に書かれてあって、読みやすかったし、言葉で説明するのが難しい用語であっても簡潔に説明されていて、うまいなと思いました。明るさについては、特に後半から、住むところが提供されたり、オーディションにみんな受かったり、いじわるなキアラと最後に友達になれたり、家族でイギリスに住み続けられるようになったりと、何もかもうまくいくようになっていて、ありえない、という感じでしたが、私はこういう物語もあっていいと思いました。というのも、p 272の6行目にあるように、親切や寛大さというのがこの物語のテーマになっています。シリアの内戦や難民についてのひどい状況をそのまま伝えるノンフィクションも必要だけれど、一方で、親切が繰り返されることによって、世界がよりよくなっていく、希望のある未来につながっていく、というような本があってもいいと思いました。フィクションだからこそ、希望のある読書体験ができると思いました。あとがきやキーワードが最後に付いているのも、背景について理解を深められるようになっていていいと思います。あと、途中に挟まっている、ゴシック体の回想部分について。なんだか胸騒ぎのするような怖さがあって、内容的に、この後恐ろしい未来が待っているのが分かっているからかなと思いながら読んでいましたが、実はページの上に、グレーのグラデーションが入っています。それが胸騒ぎのする怖さを醸し出していたと気がつきました。

すあま:読んでよかったと思いました。現代の戦争と過去の戦争が入れ子のように語られるところが、『パンに書かれた言葉』(朽木祥著 小学館)と共通していました。厳しい状況の中で、子どもだけががんばるのではなく、大人たちが助け合っていくところがよかったです。アーヤと友達になるドッティが魅力的。恵まれた家庭環境でアーヤとは対照的だけど、彼女は彼女なりに悩んでいることがわかってくる。また、アーヤがイギリスにたどり着くまでに何があったのか、読み進むうちに徐々に明らかになってくるのも、謎が解けていくようで読むのがやめられなくなりました。大変なことがたくさん起こってハッピーエンドとなりますが、子どもの本なので読後感がいいのは大事だと思います。ウクライナの問題が起きている今、子どもたちがシリアで起きていること、過去に世界で起きたことに関心をもってくれるといいと思います。本を読みながら、登場人物と一緒に体験をして、いろんな知識が得られたり、興味が深まったりするような本が好きです。

雪割草:とてもいい作品でした。フィクションこそ、現実を伝える力があることをあらわしていると思います。エディンバラに留学していたときに、シリアから避難してきた難民の家族にインタビューして、証言の翻訳について研究していたことがあったので、シリア難民のことを伝える作品を紹介したいと探していましたが、なかなかいい作品が見つからないままでした。この作品は、難民になるというのはどういうことなのか、戦争の体験やその影響による心の傷など、それぞれがよく描かれています。そして、主人公がミス・ヘレナと出会い、前に進んでいくことができるように、人との出会いが大きいことも伝わってきました。p. 261にもあるように、心の痛みをダンスで表現することを通し、「心の痛みに価値をあたえる」、その過程が美しく、リアルに、等身大で描かれていると思いました。

西山:『明日をさがす旅』(アラン・グラッツ作 さくまゆみこ訳 福音館書店)を思い出しながら読みました。ミス・ヘレナと主人公の背景も、『明日をさがす旅』と重なっているということは、多くのシリア難民に共通する体験なのだろうと思います。以前、シリアの難民支援をしている方が、内戦がはじまる前のアレッポの写真を見せて下さったのを思い出しました。都内の通りかと思うような町並みなんですよね。そういう近代的な町が破壊される。最初からがれきの街なのではないということはとても大事な認識だと思います。p.69に「あたしは難民として生まれたわけじゃない」という言葉もあるように、この作品は、内戦の前の日常も回想されて、最初から戦場や難民が存在するわけではないというあたりまえの基本をきちんと腑に落としてくれる。それに、クラシックバレエという切り口も、「難民」を貧しくて、文化的に劣っているイメージで捉える偏見を砕くのにとても効果的だったと思います。そして何と言ってもドッティがいい! おしゃべりで、よく失敗すると自覚しながら、アーヤに対してはらはらするほど率直に話しかけていく。例えば、p.195でドッティの豪邸に招いたとき「アーヤの家って、どんなだった?」なんて聞いてしまうのは、「ここでそれ聞く? 難民の子に?」と思ってしまいますが、ドッティのこの率直さがアーヤと対等な関係を拓いています。これは、日本のティーンエイジャーにとって、とても素敵なお手本になると思います。出会えてよかったです!

ニャニャンガ:イギリスに来てからの話と、シリアから逃れてきたときの話が交互に書かれているので、読者をひきつけるいい形式だと思いました。また、シリアからイギリスにたどりつくまでのページでは上部が黒くなっているのは象徴的に感じました。難民申請についての説明がていねいで勉強になりました。読んでいるうちに、アーヤを応援する気持ちになりましたし、読後感がとてもよかったです。バレエ教室の先生のミス・ヘレナ自身が経験して受けた苦悩が、アーヤのものと重なり、力になったことで前に進むきっかけとなり、安心しました。ただ、表紙がかわいらしくて内容とかみあわず読者を逃している気がします。また、一文に読点が多すぎる箇所があり読みにくさを感じました。

オカピ:とても好きな作品でした。英語圏でも難民をテーマにした本はたくさん出ていますが、読んでいてつらくなるような本も多いです。でも、この本が現実の厳しさを描きつつも、暗くなりすぎないのは、アーヤにはバレエという、すごく好きなものがあって、それに救われているからだと思うし、またドッティや年少クラスのちびっこの描写など、ところどころにユーモアがあるからでは。あと、「わたしたちは、誇りをもって傷をまとう」(p. 87)というミス・ヘレナのせりふもありましたが、難民をけして、一方的に助けられるだけのかわいそうな人たちというふうに描いてないのがよかった。バレエで自分の物語を語るというのが、ストーリーの中ですごく効果的に使われていますね。アーヤはたくさんの喪失を越えて、悲しみや痛みを力に変えます。そして新たな出会いの中で、自分の居場所を見つけていきます。ミス・ヘレナが「この世を去った人たちや、いまだに苦しみつづけている人たちとの約束をやぶることなく、生きていく方法はある」「約束を守る方法は、最初に思ったよりもたくさんある」(p. 262)と語るところなど、読んでいて胸がつまるような場面がいくつもありました。

ハリネズミ:とてもおもしろかったし、難民のことを身近に感じられるいい本だと思います。回想部分と、現在の部分でページの作り方を変えてありますね。回想部分では、アレッポでの中流階級の楽しい暮らしとそれが変わってしまった困難な状況が描かれ、現在進行中の部分では、ボランティアに頼っての英国の難民対応の問題や、バレエに心を向けることによって困難を乗り越えようとするアーヤの心情が描かれています。その2つが交互に出て来ることによって、物語が立体的に感じられます。でも、ごちゃごちゃにならないように工夫してあるんですね。それと、かわいそうにという同情や憐れみが、どんなに人を傷つけるかも書かれているのもリアルで、この作品の骨格がしっかりしていることを物語っています。ほかに日本とは違うなあと思ったのは、有名なバレエスクールのオーディションを控えた子どもたちが結構くつろいでいたり、ほかの企画を立てたりしているところ。ちょっと惜しいと思ったのは、最後がうまくおさまりすぎだと思えた点です。いじめていたキアラと和解し、三人とも入学が許可され、しかもドッティは新設のミュージカルコースに行けることになった(コース設置が決まっているのに知らなかったなんてあり得る?)うえに、パパまで現れる(これは空想かもしれないのですが)? もう一つ、ジェンダー的にちょっとひっかかったのは、p.91の「やっぱり女の子たちの得意技は、ペナルティーキックではなくビルエットだった」という箇所で、「女の子たち」一般ではなく「この女の子たち」だったらよかったのに、と思いました。訳の問題かもしれませんが。

アンヌ:最初は読むのがつらく何度も本を置きました。果てしなく待たされる難民支援センターで、主人公の少女に課せられた弟の面倒や母の通訳と看病等々を見て行くのは、つらくて。けれども、バレエ教室にふと足を踏み入れ、ドッティという友人もできるあたりから、ルーマ・ゴッテンの『バレエダンサー』(渡辺南都子訳 偕成社)や『トウシューズ』(渡辺南都子訳、偕成社)を読んできた身としては、どんなことがあろうともこの子は踊り続けるだろうと思えて読んでいけました。園内にシカのいるバレエ学校ってところは、絶対、ルーマ・ゴッテンへのオマージュですよね? それにしても主人公のたどってきた過酷な道程の記憶が、バレエの道が切り開かれていくにつれ、よみがえって来るというこの物語の仕組みは見事ですが、きつい。読みながら、今、難民として日本に辿り着いた人々も様々な道程を経てきているということを肝に命じておかなくてはならないなと思いました。最後にあっさりパパに会えたとしなかった作者の思いを、読者はあれこれ考えていく終わり方で、それも心に残って忘れさせない仕組みだなと思いました。

ハル:特にラストで胸を打たれて、この本に出合えてよかったなぁと思いますが、この本を子どもたちがラストまで読むには、これだけいろいろ工夫がされていてもなお、ハードルが高いかもしれないなぁと思いました。物語としては、ずっと意地悪だったキアラの心を「不安だったんだ」と気づかせてくれたところもとても良かったです。やはり、文化の違うところから来た人たちとか、難民への偏見をなくすには、まずは知ること、知ろうとすることが大事だったんだと気づかせてくれます。ふと、もしもアーヤが、真剣は真剣でもバレエの才能はまったくなかったら、ここまで道は開かれなかったのだろうかとか、ブロンテ・ブキャナンもアーヤが娘と一緒にレッスンを受けることを認めただろうかと思ってしまいました。その場合は、芸術の道は同情では開けないというお話になったのかな……それは、それで、別のテーマになるか。

エーデルワイス:総合芸術と言われるバレエをテーマにしたのは、世界中の人が同時に共感感動できるからなのですね。作者自身バレエが好きでバレエを習ったことがあるので、バレエレッスンなどの描写がよく伝わってきました。表紙、イラストには好みがあると思いますが、この表紙に惹きつけられて手に取った子どもたちが最後まで読み進めてほしいと願います。シリアのアレッポからコンテナ列車、トルコのイズミル、地中海を渡りキオス島、難民キャンプ・・・ロンドンに辿り着くまでの気の遠くなる程の長い道のり。その間主人公のアーヤはバレエのレッスンをしていなかったのにも拘らずバレエの才能を発揮するのですね。
昨年東京はじめ日本各地でウクライナのキエフ(キーウ)バレエ団のガラコンサートが開催されました。私は盛岡で観劇しました。前の列にはウクライナ人と思われる若い女性が数人ウクライナの国旗を掲げて応援していました。このガラコンサートはリハーサルをバレエ教室に所属している子どもたちに無料で招待して交流を図っていました。最近のニュースで知りましたが、コロナ禍で3年ほど延期されていたロシアバレエ団の東京公演開催には賛否両論があったそうです。芸術には罪はありませんが、ウクライナに侵攻攻撃しているロシアに対してはバレエ公演でも複雑な気持ちになります。

花散里:ドイツ、キューバ、シリアの難民の子どもたちが、それぞれの故郷を追われ、旅立った姿を描いた『明日をさがす旅』でも、日本の子どもたちに読み易いように工夫され編集されたことをお聞きしましたが、本書も〈注〉の付け方や回想の部分のページを工夫しているので小学校高学年の子どもが読むときに読みやすいのではと感じました。挿絵が助けになるのではないかとも思います。表紙裏の地図も難民として主人公が辿った道のりが伝わってきて、とても良いと感じました。
フォトジャーナリストの安田菜津紀さんが8月20日の朝日新聞・読書欄の「ひもとく」、「戦争と平和3」に『戦争は女の顔をしていない』(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著 三浦 みどり訳 岩波現代文庫)などとともに本書を取り上げていて、一般書を読む人たちにも知ってもらえたのが良いと思いました。病弱な母親や小さな弟の面倒を見るヤングケアラーのようなアーヤが、バレエをするときに弟を預かってもらって、ほっとする場面など、心の機微が伝わってくるところも心に残りました。

エーデルワイス:作中に出てくるシリア出身のバレエダンサー『アハマド・ジュデ』の動画を観たんですけど、瓦礫の中で踊ってました。彼は、お母さんがシリア人で、お父さんがパレスチナ人なんですね。お父さんにバレエを反対されながらも意思を貫いて踊り続け、現在はオランダ国籍を取得しているそうです。

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しじみ71個分(メール参加):とても胸を打つ物語でした。どうしても「難民」という言葉で、戦争などでひどい目にあって、故郷を追われた「かわいそうな」人々というイメージを想起してしまいがちですが、この物語を読んで、「難民」という一つの言葉で人々をくくってしまうことがいかに乱暴なことなのかに気付かされました。「難民」という言葉は、ただ置かれた環境を指すだけなんだなぁと。母国からの過酷な逃避行の前には、温かな家庭や友だちとの楽しい時間、充実した学校や職業生活などが普通の人生があったんだ、という当たり前で、とても大事なことを思い出させてくれましたし、穏やかな日常や生命を暴力で奪い去る戦争がどれほど非人道的なものなのかを改めて実感しました。バレエを愛するアーヤがイギリスでバレエと再び出会い、第二次世界大戦でナチスの迫害を逃れてプラハからイギリスにやってきたバレエの先生、ミス・ヘレナと出会ったことにより、住む家を得て、難民申請もかない、バレエ学校にも入学でき、そしてパパを失った悲しみとも向き合いながら、生きる希望を見つけていくという物語展開に、読む人も希望を感じられます。アーヤと友だちになるドッティの存在もとてもよかったです。ドッティは明るく、物おじせず、「難民」だからという型にはまった考え方をせずに、アーヤに向き合い、友だちになろうとする姿がとてもさわやかでした。過酷な環境にある人を、腫れ物に触るようにしてアンタッチャブルな存在にしてしまうより、ときどきコミュニケーションに失敗しても、率直に突っ込んでいく方がいいんじゃないかとも思わされました。アーヤのトラウマやパニックの苦しさや、ドッティのミュージカル俳優になりたい思いと、有名なバレエダンサーの母の期待との間での苦悩など、少女たちのそれぞれの苦悩もとてもていねいに描かれていて、共感できました。尾崎愛子さんの翻訳は華美ではないのに、やさしく、ナチュラルで、胸にすとんと落ちる感じでした。原文は分からないですが、ミス・ヘレナの「わたしたちは誇りをもって傷をまとうの」という言葉がぐっと胸に迫りました。美しい言葉だと思います。こういう物語を読むと、日本の難民認定の率の非常な低さや、入管での痛ましい事件なども思い出されて胸が痛みます。

(2022年10月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

 

 

 

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パンに書かれた言葉

『パンに書かれた言葉』表紙
『パンに書かれた言葉』
朽木祥/著
小学館
2022.06

〈版元語録〉2011年震災後、少女エリーは親戚のいるイタリアに少しの間避難する。おいしいものと温かい人たちに迎えられ人心地つくが、思いもよらない歴史に触れ、エリーの名前のSに込められた本当の意味を知ることになる。戦争を乗り越えて生きてきた人々の“希望”を描く、ヒロシマとイタリアをつなぐ物語。

ハル:「あとがき」に、著者自身への問いとして「物語ることが先か、伝えることが先か」がある、と書かれていますが、ほんとに、そこだなぁと思いました。エリーと同じ中2、中3の子がこの本を読み切るのは、なかなか骨が折れるんじゃないかなと思いもし、でも、だからってこういう本がなくなってしまったら困りますし……。この本に限らず、伝えるための本を、売れる本に仕上げていくというのは、大きな課題だなと思いました。それは置いておいても、『シリアからきたバレリーナ』(キャサリン・ブルートン著 偕成社)もそうですが、今月の本は2冊とも、つらい体験を語ることや、伝えていくことは何のためなのかということを気づかせてくれる本でした。語ること、伝えることは、希望なのですね。

アンヌ:もしかすると、朽木さんの本で私はいちばん好きかもしれません。まず、震災の後の不安の日々の状況を、書いてくれたのがうれしい。水一杯でさえ、汚染されているのではないかと恐怖に震えながら飲んだ日々を忘れてはいけないと思うから。そして、その状況から離れてイタリアに行くところも、いったん恐怖と痛みから話がそれて、不安から過食に走った主人公が、おいしものを食べられるようになるところが好きです。さらに、イタリアで少しずつ物語られる形で話が続くのもいい。いっぺんにすべては重過ぎるし、推理したりする余地があって想像力が膨らみます。そして、イタリアの少年にしろ広島の少女にしろ、生きていた人たちの姿が今回は、生き生きと描かれているのも、読んでいて心が温まる原因かもしれません。おいしいこと楽しいこと、生きることのすばらしさをきちんと味わいながら、忘れないで生きていくことこそが死者への敬意になるのではないかと思うからです。呆然と頭を抱えこまず、詩や言葉を味わって生きていくこと。これこそ「希望」なんだなと主題を感じずにはいられませんでした。

イヌタデ:まず、被爆二世として、一貫してヒロシマのことを書いてきた作者に敬意を表したいと思います。私は柴崎友香さんの『わたしがいなかった街で』(新潮文庫)という作品が好きなのですが、その作品の主人公は第二次世界大戦の被害があった土地、自分の祖父がいた広島、テレビに映る世界の戦場といった「わたしがいなかった街」に思いをめぐらし、時間という縦軸、距離という横軸の同じグラフの上にいる自分の位置を確かめていきます。もちろん朽木さんとは伝えたいことが違っているとは思うのですが、通いあうものを感じました。小さい読者が、戦争を遠い過去のことと感じるのではなく、自分も位置こそ違え、同じグラフの上に立っていると感じることが大切だと思いますので。また、パオロのノートや真美子の日記をはさんでいるのも、巧みな手法だと思いました。モノローグで書かれたものを入れることによって、ナチスと原爆の犠牲者である二人の声と主人公の思いを結び、さらに読者との距離も近いものにしていると感じました。
ただ、作者もあとがきで、物語ることと記録することについて少しだけ触れているのですが、物語として、文学作品として読むと、もやもやしたものが残りました。偶然にも、昨夜読んでいた東山彰良さんの小説『怪物』(新潮社)のなかに、その「もやもや」をはっきり言葉で表した下りがありました。主人公の作家が「戦争は小説のテーマになりえますか?」と問われるのですが、「どうでしょう……個人的には結論がひとつしかないものは小説のテーマになりにくいのではないかと思います」と答え、さらに「結論がひとつだけなら、どのように書いても、解釈もひととおりしかないということになります。それはとても国語の教科書的なものです」といってから「ただし、戦争という題材はずっと書き継がれるべきだと思います」と述べます。「そこで作家は戦争を勇気や受難の物語にすり替えて書きます。そこでは戦争は人間性を試す極限の状況を提供するだけなので、ユーモアが生じることもある」とも。
それからもうひとつ、戦争は被害と加害の両面を持っていますが、当たり前のことですが子どもたちはいつも被害者です。ですから、児童文学でも、被害者である子どもたちの姿が描かれることが多いわけです。でも、それだけでいいのかなと、いつも思ってしまうのです。リヒターの『あのころはフリードリヒがいた』(上田真而子訳 岩波少年文庫)、ウェストールの『弟の戦争』(原田勝訳 徳間書店)、モーパーゴの短編『カルロスへ、父からの手紙』、日本では三木卓『ほろびた国の旅』(講談社ほか)、乙骨淑子『ぴいちゃあしゃん』(理論社)など、戦争を多面的に捉えようとしている作品もあるのですが……。

ハリネズミ:緻密に構成された作品で、福島、広島、ヨーロッパをつなぎ、また過去と現在をつないでいます。子どもたちに戦争を身近なものとして感じてほしいという、著者の思いも伝わってきます。とてもよくできた物語で、おとなにも読んでもらいたいと思います。あえて斜めから見ると、登場人物たちの役割がはっきりしていて、意外なことをする人は出てこないので、安心して読めるのですが、読者も著者が設定した結論に向かって歩かされている感じが無きにしもあらずですね。それと、もう少しユーモアがあってもよかったかも。パルチザンとか白バラとか、おとなはわかりますが、子どもは息がつまるかもしれないですね。

オカピ:言葉の力をテーマに、イタリアのパルチザンやミュンヘンの白バラの活動をつなげ、福島の原発事故から広島の原爆までたどっていくという構成が、見事だなと思います。収容所で亡くなった子どもたちは、広島で亡くなった子どもたちの姿に重なり、心におぼえていくこと、伝えていくことについて書きたいという、作者の思いもよくわかりました。参考文献の量からも、長年の構想の集大成として書かれたのだな、と。ただ、読み手が引っかからないようにしたいという意図もわかるのですが、「ユーロ」や「牧童」にまで註がなくてもいいような……。これは、読書に慣れている子が手にとる本ではないかと思うので。また、目次の前のページのフランス語の引用は、参考文献を見ると、おそらくオリジナルがイタリア語だった本の英訳からで、下の英語の説明部分は訳されていません。フランス語の引用はこれでいいと思いますが、英語の説明部分はそのまま載せないで、日本語にしたほうがよかったのでは。

ニャニャンガ:巧みな構成で夢中になって読みました。主人公の光が日本からイタリアにわたり、現地の人から話を聞く設定なので、物語に入りやすかったです。ノンナから聞いたパオロの話とパオロが残したノート、祖父から聞いた真美子さんの話、そして真美子さん自身の日記が絡み合い、光の心にしっかり残ったことで読者もメッセージを受け取ったと思います。父親が日本人、母親がイタリア人の自分のことを「国際人」という表現が新鮮でよかったです。ひとつ疑問に思ったのは、主人公は春休みに行ったはずなのに、その年のバスクア(復活祭)は4月24日で終わっているという点でした。

ハリネズミ:そこは、私もおかしいと思いました。時系列が合わなくなりますよね。

西山:第二次世界大戦に関して、ドイツのことは児童文学でも映画でもたくさんの作品に触れてきましたが、イタリアについてはそれに比べて圧倒的に知識が不足していたので、まずは、その情報が新鮮でした。この作品からは離れますが、イタリアの児童文学が第二次世界大戦をどのように伝えているのか知りたいです。本作に関しては、朽木さん、思い切ったなと。『八月の光』(偕成社/小学館)など、とても小説的で文学性が高い作品の方ですよね。それが、あとがきからわかりますが、「物語ること」と「伝えること」の間で悩みながら、この作品では「伝えること」に軸足を置くことを選ばれた。「3.11」に関しても、登場人物と同年代の14歳の子たちは直接体験としての記憶はほぼ無いといっていいでしょう。だから、戦争だけでなく、東日本大震災直後の空気も、伝える素材に入っているのだと思います。「伝えること」として、日本が、ドイツ、イタリアと同盟したファシズム陣営だったことは、はっきり書いてもらった方がよかったかなと思います。第2部の広島のエピソードからは被害側の印象で終わってしまうので。イタリア語、日本語、広島弁、残された記録……と多声的ですが、それがカオスとなるイメージはありませんでした。それにしても、日本では抵抗運動なかったのか、出てくるのが与謝野晶子だけというのは、改めて考えさせられます。

ハリネズミ:イタリアのパルチザンのことは、『ジュリエッタ荘の幽霊』(ビアトリーチェ・ソリナス・ドンギ作 エマヌエーラ ブッソラーティ絵 長野徹訳 偕成社)にも出てきましたね。

雪割草:イタリア、広島、福島とすごく盛りだくさんの作品だと思いました。あとがきにもあるように、作者の「伝えなければいけない」という強い意思が伝わってきました。ただ、説明的にも感じました。中高生が読むかな? おもしろいかな?というのは疑問に感じていて、私が子どもだったら読まないと思います。当事者の語りの章は見事でした。全体を通し、「言葉の力」を強調していますが、その大切さがあまり心に刻まれませんでした。

すあま:1冊の本にしては、いろんなテーマ、トピックを詰め込みすぎている感じがしました。イタリア編、広島編として上下巻のようになっていれば、それぞれの物語をもう少しゆっくり味わえたのではないかと思います。p.109に父親から、「災害」という言葉には人為的なものも含まれる、という言葉が送られてきていますが、これがこの物語の柱にもなっているのかなと思いました。主人公は東日本大震災を経験した後すぐにイタリアに行って、そこでホロコーストやパルチザンの話を聞く。さらに夏には広島に行って被爆者の話を聞く、ということになっているけれども、そんなに次々と重い話を聞き続けるのは自分だったら耐えられないかもしれないと思いました。また、主人公は「聞き手」で終わっていて、もっと気持ちの動きとか、内面の成長を描いてほしかったです。父親が広島出身、母親がイタリア出身という設定も、両方の実家へ行って話を聞くための設定のようで、主人公のアイデンティティなど、せっかくの設定が生かされていないように思いました。興味深い話、大事な話がたくさん盛り込まれていますが、情報量が多すぎて、逆に登場人物の魅力や物語のおもしろさの面で物足りない感じがしました。

コアラ:内容が盛りだくさんで、テーマも重く、読むのにエネルギーがいる本でした。主人公のエリーについて、p.180の9行目に「自分のなかの、自分でもよくわからない部分にスイッチが入ったみたいになったのだ」という文章がありますが、今、ロシアのウクライナ侵攻があって、テレビで毎日戦争状態の映像が流れています。エリーみたいに、スイッチが入ったみたいな状態の子どもがいるかもしれません。そういうタイミングの子にとって、この作品は、それに応える本になると思いました。それから、この本のイタリアの舞台が、フリウリという地域で、前回読んだ本の舞台でもあったので、馴染みのある地名だなと思いながら読みました。地図があるとよかったかもしれません。あと、注について。章の最後に注がまとめられていて、読んでいてすぐに参照できないので、読みにくいなと思っていましたが、たとえば、p. 259の「ショア記念館」などは、きちんと読んだ方がいい項目ですし、文章の中で読み飛ばさず、注でいったん立ち止まって考えを巡らす、という意味では、章の最後に注をまとめる、という方法も案外効果的だなと思いました。

エーデルワイス:花散里さんが選書してくださり、感謝しています。選書担当だったのに楽をしてしまいました。表紙の絵も内容も美しいと思いました。作家は作品を仕上げるために資料を集め、読み解きますが、最後に掲載された膨大な資料参考を見ると、被爆二世の朽木祥さんの使命感、今ここで書かねばならないという強い意志を感じます。最近出た、こどものとも2022年10月号『おやどのこてんぐ』(朽木祥作 ささめやゆき絵)は昔話をモチーフにした楽しい絵本です。重厚な物語のあとは楽しいもの、このようにして作家の方は精神のバランスを保っているのかしらと想像しています。

花散里:朽木祥さんの作品はとても好きです。本作品も刊行されてすぐに読みました。 「イタリア」と「ヒロシマ」、二つの物語として、それぞれのストーリーをもっと深く、とも思いましたが、あまり長編になると子どもは読めないかなとも感じました。『八月の光』(小学館)もとても良い作品ですが、子どもたちにどのように手渡したら良いのかといつも思っています。本書は表紙が素敵な絵で良いですし、タイトルにも興味が湧くのではないでしょうか。子どもに手渡しやすい本だと思いました。確かに内容は盛り沢山ではありますが、これ以上、詳しくすると中高生が読むには大変なのではないかと思います。3.11、イタリア、ヒロシマを取り上げ、物語の構成、展開の仕方がとても良い作品だと思いました。イタリアの児童文学で手渡していけるものが少ないので、イタリアの作品をもっと読んでみたいという子どもが出てくると良いのではないか、とも感じました。広島の本町高校の高校生が、高齢の被爆者から話を聞き、絵を描いて原爆資料館に展示されていることも思い返しました。被害者、加害者の視点からも描かれていて、「あとがき」からも朽木さんのこの作品に対する思いが伝わりました。

オカピ:先ほど、子どもが加害者の視点で描くのは難しいという話がありましたが、パオロは、パルチザンの活動で亡くなった市民の数を書きのこしているので、この本ではそうした点にも目配りされているのかと。

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しじみ71個分(メール参加):戦争体験を語り継ぐという、難しくかつ大変に重要なテーマに取り組まれた力作だと思います。第二次世界大戦について、ドイツに近い北部イタリアの人の視点で語るというのも新鮮でした。ファシスト政権下でのユダヤ人迫害については知らないことが多く、学ぶところが多かったです。日本人の父とイタリア人の母を持ち、それぞれの国の戦争の記憶を祖父母から引き継ぐ主人公エリーのミドルネームが、「希望」という意味のイタリア語であり、レジスタンスとして17歳で処刑された大叔父のパオロが血でパンにしたためた言葉と同じであったという結末はとても見事だと思いました。同時に気になった点も少しありました。エリーが祖母エレナから戦争体験を聞くことになったきっかけが、東日本大震災からの逃避であったということです。エリーの心の持ちようの変化のきっかけとして震災体験が位置付けられているのですが、その後、震災について物語の中で深められることがなかったように感じました。震災とのつながりは、戦争が人によって起こされる災害、人災であるという点以外にあまり感じられず、震災の扱いが軽いように思われたところです。2つ目の点は、イタリアの戦争の記憶についてていねいに語られていますが、やはり広島の真美子の被爆体験の方がリアルで胸に迫ったということ、3点目は戦争体験は、生き残った人が語り継ぐしかないわけですが、サラとパオロ、真美子の、戦争で命を落とした当事者たちの描写が挿入されてはいるものの、それで戦争で亡くなった人たちの気持ちに寄り添えるほど深いところまでは読んで到達できなかったような気がします。そのため少し中途半端な印象が残ってしまい、傍観者的な感覚が物語に漂ってしまった気がします。4点目は、広島の方言にすべて注釈がついていたのが少し煩雑でした。全部わからなくてもいいのにな、もう少し流れるような雰囲気を味わいたかったなと思いました。5点目は、震災によって引き起こされた放射能被害を避けて海外に避難できてしまうという設定に、お金持ちなんだなぁと思わされてしまったこと、そして6点目が、エリーの存在が戦争体験を受けとめる媒体に特化してしまって、あまりエリー自身の人柄や思いが色濃く描かれなかったような気がした点です。とは言っても、戦争経験を次世代に語り継ぐという、とても難しい課題に取り組んだ意欲作ですし、広島の描写にはやはりうならされました。子どもたちと読んで語り合いたいと思う物語でした。

(2022年10月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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13枚のピンボケ写真

『13枚のピンぼけ写真』表紙
『13枚のピンボケ写真』
原題:FUORI FUOCO by Chiara Carminati,
キアラ・カルミナーティ/作 関口英子/訳
岩波書店
2022.03

〈版元語録〉第一次世界大戦時の北イタリア。父と兄たちが戦場へいったあと、13歳のイオランダと妹は、母親とも離ればなれになってしまう。戦争が激しくなるなか、家族の秘密を知った姉妹は、祖母を探す危険な旅を決意する……。もつれた家族の糸をほぐし、生きる力をつかみとっていく少女の感動の物語。ストレーガ賞児童書部門受賞作。

ルパン:これもおもしろかったです。『タブレット・チルドレン』(村上しいこ作 さ・え・ら書房)とはちがう、Interesting の方のおもしろさですね。ただ、この13枚のピンぼけ写真、実は実在する写真で、それが最後に出てくるんじゃないかと思いながら読んだのに、結局何も出てこなくて、肩すかしをくらった気分でした。このご時世なので、どうしても読みながらウクライナ侵攻を思わざるを得なくて、ふつうの生活がどんどん戦争に侵されていく恐ろしさを感じました。物語は、結局主人公もそのまわりの人々も誰一人犠牲になることなく終わるのですが、ほっとすると同時に、ハッピーエンドでよかったのかという、割り切れない気持ちも残りました。戦争で多くの人が命を落としたことは間違いないはずなのだけど、児童文学だから、ここに出てきた人はみな無事でした、で終わってよかったのか、それとも、子どもたちにも、現実はそう都合よくはいかないということに向き合わせて、戦争は絶対にしてはいけないと伝えるべきなのか……ここはみなさんのご意見も伺いたいところです。

さららん:1か月前に読んだ印象をお話しすると……。以前もこの会でイタリアの『紙の心』(エリーザ・プリチェッリ・グエッラ作、長野徹訳、岩波書店)を読みましたが、イタリアの作品では恋愛の要素が重要なんだ、とまず思いました。今回の作品でもサンドロがちょいちょい出てきて、主人公の少女イオランダにちょっかいを出します。(後半ではそのサンドロが主人公の心の支えになりましたね。)もうひとつ思ったのは、知らなかった歴史の側面を教えてもらえた、ということ。この作品はオーストリアで戦争が起きると、すぐにイタリアに帰らざるをえない貧しい家族を取り上げています。国境を行ったり来たりして暮らし、戦争になるとまっ先に被害を受けるヨーロッパの人たちの話をあまり読んだことがなくて、新しい歴史の見方がありました。家を追われたイオランダと妹が身を寄せるのは、目の見えないアデーレおばさん。おばさんは堅実に暮らしていて、障碍のある人が、社会で当たり前に受けいられてきたことに好感が持てました。イオランダたちの状況は悲惨で、母親は逮捕され、自宅にも住めなくなり、その後の旅も苦労の連続ですが、登場する人物の温かさに救われます。反発しあっていたお母さんとおばあちゃんが、戦争の中で再会して、和解していく。戦争は悪いことだけれど、悪いことばかりではない。絶望的な戦争のなかに人間の希望の物語があり、若い読者に自信をもってお薦めできる作品だと思いました。ただ、イラストで入っているピンぼけの写真の意味が読み取れなくて……。みなさんの意見を聞きたいです。

アカシア:私は出てすぐ読んだのですが、細部を忘れていて、もう1度読み直しました。戦時下にあっても、名前も知らなかったアデーレおばさんと会い、いないと思っていた祖母に出会い、出産に立ち会い、オーストリア兵に遭遇するなど、子どもはいろいろと見たり聞いたり吸収したりしていって、そう簡単には戦争につぶされないんだというところが描かれているのがとてもおもしろかったです。この挿絵ですが、まったくの抽象模様になっているので、意味があるのかと思って目をこらしているうちにフラストレーションがたまりました。訳文で気になったのは、p.66に「ホバリングというのは、飛んでいる鳥が翼をすばやく動かして、体をほとんど垂直に起こしながら、空の一点で位置を変えずに静止している状態」とありますが、これは違うと思います。ハチドリの場合は垂直ですけど、ワシ・タカ類などは水平なのでは?

まめじか:「戦争はわたしたちの首すじに息を吹きかけ、家々から男たちを吸いあげて連れ去ってしまう。そうして、かみくだいた骨だけを吐き出すつもりらしかった」(p.35)、「戦争という獰猛な鳥は、それからもしばらくわたしたちの頭上でホバリングを続け、一九一七年八月のある日、恐ろしい勢いで急降下してきた」(p.66)など、戦争の暴力性を詩的な言葉でとらえていますね。「兄さんの目にくっきりと映っているのは、戦闘や司令官、敵兵、それに勇気や名誉だけ。わたしたちはその背景に追いやられ、ピントがぼけ、ほとんど見えないくらいにかすんでいた」(p.116)とありますが、この本が描いているのは、戦争が壊す日常で、その1コマ、1コマが、ぼやけた写真に目を凝らすうちに見えてくる。戦争中に流れるデマや検閲など、ちょっとした描写にもリアリティがあります。気になったのは、9歳だったイオランダが人前でサンドロにキスされて、「わたしは、泥のなかでとけてしまうか、地面の割れ目にのみこまれるかして、いなくなりたかった。皮がむけるくらいにくちびるを何度もこすりながら、その場から走り去った。恥をかかされたことに対して、猛烈な怒りがこみあげた」(p.19)というふうに感じたと、書かれていることです。たとえばアメリカや、今は日本でも徐々に、子どもが小さいときから性的同意について教えようという流れがあって、そういう絵本もいろいろ出版されています。この作品の時代設定は昔ですが、読むのは現代の若い人たちなのだから、原書か翻訳で配慮するか、もしくはあとがきでフォローしたほうがよかったのでは。最終的に二人は結ばれたのだから、もしかしたらイオランダも実はまんざらではなかったのかもしれませんが、でも、この時点では、一人称の語りを読むかぎり、本当に嫌だったように読めるので。

コアラ:この本は第一次世界大戦の話だけれど、男の人たちが戦争にかりだされ、残った人たちも爆撃を受けて、街がめちゃめちゃに破壊される、というのは、まさに今も起こっていて、とても戦争を身近に感じながら読みました。人も動物も無残に死んでいく中で、お産婆さんの仕事という、命を取り上げる仕事が、とても尊いものに思えました。というか、生と死を対比させるように描いているのかなと思いました。主人公のイオランダは、この旅でいろいろなものを得たと思いますが、カバー袖の文章にもあるように、「もつれた家族の糸をほぐす」という旅だったと思います。その中で、出産に立ち会って、生まれたばかりの赤ちゃんを腕に抱いたという体験も大きかったと思います。それから、恋の話。嫌い嫌いも好きのうち、というか、最初は拒絶していたはずなのに、いつの間にか恋の相手として描かれている。気持ちの変化はていねいには描かれていなくて、手紙を読む場面とかで読み取れなくもないのですが、恋の描き方はちょっと違和感がありました。あと、妹のマファルダが私はすごく好きで、読んでいて、こういう子は大好き、と思いました。初めておばあちゃんを訪ねていって、何が望みなの、みたいに言われて気まずい空気になったときに、p.169の3行目、「あたしは、お水が一杯ほしいです」と言う場面。単なる無邪気な子ではない、というのも、それまでに描かれていて、こういう子はすごく好きだなと思いました。ただ、タイトルにもなっている「ピンぼけ写真」というのがあまりピンとこなくて、訳者あとがきを読んで考えないといけなかったのが、ちょっと残念でした。

サークルK:「戦争」という大きなものに対峙する、「命を取り上げるお産婆さん」という小さな存在の活躍が描かれているところや、イタリア北東部、オーストリアやハンガリーの小さな辺境のある地域に限定されて焦点が当てられているところが良かったです。顔の見えない歴史上の出来事に回収されない、ひとりひとりの人生が具体性を帯びて立ち上がってくるからです。母をたずねて、母の秘密を追いかける謎解きもあり、読者を引き込む力を感じました。ヒロインのイオレの妹マファルダが「男の人って、仕事がなくてぶらぶらしてると、くさっちゃうんだね」(p.22)と言った鋭い言葉に、子どもの目は侮れないと強く思いました。アレクシエーヴィッチの『戦争は女の顔をしていない』(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ作、三浦みどり訳、岩波書店)にも通じる「戦争というのはね、……男の人たちがはじめるものなのに、それによって多くを失うのは、女の人たちなの」(p.11)という言葉にも首肯しました。ピンぼけ写真をどう考えていいものかよくわからなかったので、みなさんの感想を伺うのが楽しみです。

雪割草:とてもおもしろく読みました。女性たちの目から見た戦争、ピンぼけの中にこそある、日常の生きた証、産婆を通して描く命の誕生といった、これまでも戦争を伝える文学で使われてきた手法ではあったけれど、作品として伝わってくるものがありました。主人公のイオランダは、おとなに近づいていく年齢で、母親、アデーレおばさん、祖母といったしっかり芯のある自立した女性たちと接し、その中で母親の過去とも出会い、一人の人間として見られるようになり、自分を構築し、成長していくのがよくわかりました。文章も詩的で、たとえばp.207の、おばあちゃんの言葉が出てくるさまを描いた箇所などとても素敵でした。それから、すごく子どもらしい妹のキャラクターも、クスッと笑ってしまう愛らしさがあって好きでした。ピンぼけ写真については、私も何かシルエットが浮かびあがってくるはず、と一所懸命目を凝らして見たりしましたが、わからず、疲れてきてあきらめました。

エーデルワイス:最初にある地図を見て場所を確認しながら読みました。美しい文章ですね。たとえばp.228「暮れていく夕日よ おまえはみんなのことが見えるのだから 愛する人のいる場所まで わたしの想いをとどけておくれ……」など。ロバのモデスティーネが好きなのですが、戦争のさなか人間さえ危ういのに動物は……と心配しました。最後まで生き残っているのでほっとしました。お母さんの名前が『アントニア』でお兄さんが『アントニオ』、似ているのですね。日本語の『春子』と『春男』のような感じでしょうか。物語の文章と別に、13枚のピンぼけ写真のイラストと説明文は新しい試みとは思いましたが、そのモアーとした絵にモヤモヤしました。(後日さくまゆみこさんを通じて、原書の挿絵はもっとわからないし、その絵は原作者の意向と知り仕方なく思いました。)

しじみ71個分:こちらの本は、大変におもしろく読んで、深く感じるところがありました。戦時下のイタリアでの子どもの姿が描かれていましたが、物語では戦禍を逃れて一家がバラバラになり、子どもたちは知らないおばあさんのところに身を寄せたり、血のつながった祖母を探したりで、とても苦労はするものの、一貫して、戦争に負けない命の輝きというか、生命力の強さが描かれていて、文章全体が明るく、そのたくましさに信頼感を持って読みつづけることができました。そこがとてもよかったです。戦禍を逃れて苦しむ中でも熱烈なキスを思い出してみたり、逃避行の中で新しい命が生まれたり、おばあさんたちがお産婆さんという命をこの世に送り出す仕事をする職業婦人だったり、戦後に本人も助産師の学校に行ったりと、それぞれのエピソードが物語の中で生命力を語っていました。まあ、ところどころ、オーストリア兵が空腹でチーズを食べただけで何もせずに出て行ったり、警察に捕まったお母さんに何事もなかったり、みんな死なずに男たちが戦争から帰ってきたり、というのはちょっとご都合主義というか、楽観主義かという気もしましたが、辛いことばかりの戦争児童文学だけでなくてもいいですし、こういう戦禍を切り抜けるたくましい話なら子どもたちも読んで希望を持てるのではないかなと思いました。ただ、私もピンぼけ写真には意味のある絵が描かれているんだろうと、最初は一所懸命に読み解こうとしてしまい、また、何か基づく資料写真があるのかなと思ったものの、いくら見ても見えず、解説もなく、あとでやっと、これは文を読んで想像するようになってるのかと気づいて、拍子抜けしてしまいました。

アンヌ:最初に地図を見たので、難民としてイタリア中をさまよう話なのかと思いましたが、家系を遡る話でしたね。子どもたち二人だけになった時も、司教さんとかアデーレおばさんとか頼れる人が次々現れるのには、ほっとしました。最初に猫のお産にお姉ちゃんの手が必要というセリフがあったのも、産婆という職業への伏線だったのかと、あとで気づいてニヤリとしました。ただp.131のキス場面については、最初はさすがイタリア文学、エロスの目覚めも書くのかと思いましたが、やはり主人公がもう少し自分の中にサンドロへの愛が芽生えている部分を書いておかないと誤解を招きかねないと思いました。

ハル:先ほどの原題のことは、「訳者あとがき」にありましたね。『(原題は、イタリア語で「ピンぼけ」を意味するFuori fuoco――フオリ フオーコ――)』ということです。さておき、私もやっぱり、この写真の意図が最初は全然わからなくて、出てくるたびに混乱してしまいました。だんだん慣れてくると、お話の中には盛り込めなかった当時の様子が、ちょっとカメラを横にふったような景色として補足されていて、おもしろくはなってきたのですが、でもこの写真の趣旨も後半にいくにしたがってずれてきているような気も……。最後なんて、エピローグ的な役目を果たしちゃっていますもんね。それに、この、ピントどころの問題じゃなくて現像できてない「もやもやの画面」を見ながら景色を頭に想像することと、挿絵がない本文を読みながら景色を想像することとの違いは、何かあるんだろうか……とも思えました。また、好きの裏返しとは言え、サンドロが同意を得ないキスをする場面は、読んでいてあまり気持ちがよくありませんでした。まあ、文学であって教科書ではないので、かたいことも言えないのかもしれませんが、児童書なので「これは文学だからありなのであって」というのは、ちょっと難しいようにも。やはり少し配慮があってもいいのかなと思いました。もうひとつ、男が起こした戦争に、女(と子ども)が苦労するという構図も、どこか文学のテーマとして捉えられているような気もしないでもなく。おとな向けの本だったらそれでいいですし、過去の時代を描いた作品に今の感覚を入れていくのは危険だとは思うけれど、これからは、女性だって、戦争を男性のせいにしていてはいけないわけで……過去の出来事を未来のために子どもたちに伝えていくときの難しさも、今回は感じました。

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末摘花(メール参加):この物語では何もかもを破壊しつくす戦争という極限状態にあっても人間は小さな命に希望の光を見出だし、災禍に見舞われた人々を励ましていくという様子が描かれています。戦争に踏みにじられた数多くの人々の姿、歴史の裏にかくれた戦禍の中で懸命に生きた人々の姿が13枚の写真に写っているように感じました。自分の運命を切り開いていく少女の成長を描いている希望の物語で、戦争の愚かさ、戦争を起こして弱い市民を顧みないことの非道を訴えているとも思いました。キャプションを読むと、ぼやけた輪郭線の向こうの人々の叫びが聞こえてくるようですが、戦禍の中で生きた人々の苦しみや痛みを伝えるということからも子どもたちに手渡したい作品だと思います。

*後に岩波書店の編集部から原書の挿絵を見せていただきました。原書にも、どれも同じ「ピンぼけ写真」が13枚入っているそうです。編集部からは日本語版の挿絵について別の提案をなさったそうですが、作者の意向でビジュアル戦略としてこうしているとのことだったそうです。

(2022年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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タブレット・チルドレン

『タブレット・チルドレン』表紙
『タブレット・チルドレン』
村上しいこ/作
さ・え・ら書房
2022.02

〈版元語録〉1人1台タブレットの時代。あたえられた課題はなんと子育て!? 生徒2人がペアになり、タブレットの中で人工知能の子どもを育てるという。心夏と温斗のペアがさずかったのは、超毒舌小学生マミだった…。

ハル:初っ端からすみません! 少し前に読んで、どこがという具体的なことを忘れてしまったのですが、読み終わって、おもしろかった! と思ったことはよく覚えています。軽快でユーモアがあって、その中にふと、なるほどなぁと考えさせられるポイントがうまく仕込まれていて……ただ、著者のこれまでの作品を読んだときには感じなかったような、雑さも感じた記憶があります。テンポの良さにのって、私が読み落としてしまったのかもしれませんけれど。

アンヌ:このAIで子育ての仕組みがよくわからなくて、そこに引っかかっていました。現実の授業でもゲームを使ってパソコンの使い方を習っていると思うのですが、この子育てゲームは次元が違っていて、とても怖いなと思いました。主人公の個人情報が入力されているようだし、先生は命の大切さを学ばせようとしたと言っているけれど、これを作った近未来の教育委員会とかの本当の意図は何だったのでしょう。それぞれの子どもの適性とか攻撃性とかが記録され政府によって利用されるんじゃないかなどと思ってしまいました。でも特に説明がなくて、そこは拍子抜けしました。物語自体はとても楽しく後味がよい話でした。AIの子どものセリフと主人公自身の親子関係がダブっていて、主人公が自分を逆の立場から見ることができて、実際の親子関係も少し変わっていく。失恋しても、そこで実際の漫画家に会うという話になり、安易ではあるけれど、主人公が失恋に深刻にならないのも面白い。特に主人公のマンガ脳には親近感が湧きました。

しじみ71個分:テーマ設定が独特で、とてもおもしろいと思ってサクサクと読みました。なのですが、子育てをアプリでゲーム感覚で体験するというのは、やはり私も「たまごっち」を思い出して、どうなのかなとは思いました。私は妊娠中、小学校の総合学習に協力してくれと依頼されて、エコーでお腹の中の子どもが動く様子を見せたり、赤ん坊の心音を子どもたちに聞かせたりしました。中学校だと違うのかもしれませんが、そんな学習の感じかなと想像はしたのですが、その小学生たちは、赤ん坊の様子を見たり、妊婦のお腹に触ったりというところで、戸惑いとか気持ち悪そうな感じを見せていたのが印象的で、アプリだとそういう反応はないだろうなとは思いました。設定があまりリアルではない気がして、おもしろい、おもしろいだけで終わってしまった印象です。子育てをテーマにするなら、もっと命とか、親子の関係とかを深められて、どこかにリアリティがあればもっとよかったなとは思いました。主人公はかわいいですね。能力とか魅力とかに、でこぼこがある女の子で、とても魅力的でした。内省や親や妹との関係で悩んでいるところは、こまかい心情も描かれていて、ぐっとつかまれるところもありました。一方、AIがアプリで子どものキャラクターにしゃべらせて、人間の心夏の心情を読んで意地悪なことを言ったり、怖いことを言ったり、相当高度に描かれていますが、その割に背景の社会状況がそんなに今と変わらず、近未来でもなさそうで、AI技術の進歩度合と社会が合ってない気はしました。また、アプリでは子どもが子どもを育てていることにはなっていますが、遠慮のない家族のような、友だちのような対話相手になっていて、子育て体験をアプリでするというより、むしろ心夏の内省の道具だったのかもしれませんね。AIとの対話から自分や家族を振り返る点では、言葉に説得力がありました。なのですが、それが命の勉強になるとは思えず、いくらAIだとしても、ちょっと軽くて、入り込めないところはありました。また、自分が子どもを亡くしたという先生の告白が唐突でちょっと安易だったかなという感じが否めませんでした。また、白石君に失恋しても、漫画家の先生とつながることができたというのも、できすぎだったかなと思いました。

エーデルワイス:タブレットの世界と現実の中学生活、漫画の世界とおもしろく読みました。ペアを組んで仮想の子育ては斬新な発想と思いました。いろんなタイプの子が出てきて、ユーモアがあり、悪い子はいなかったと思います。主人公の心夏ちゃんが子育てペアの温斗君といい感じかと思えば、親友の美乃里ちゃんと付き合うことに。次に親身になってくれる白石君と仲良くなるのかな?と思えば白石君には彼女あり。結局心夏ちゃんは漫画に邁進する結末が楽しく感じました。

雪割草:私も、テーマが興味深く、おもしろく読みました。村上さんの他の作品に比べ会話が多く、テンポもよくて漫画を読んでいるようでした。タブレット・チルドレンはよいとは思えないけれど、タブチルをすることで、心夏は親の立場にたって、はじめて自分と母親や妹との関係を見つめたり、ペアになった相手との会話を通していろんな気づきがあったりする点は、読者にも一緒に考えさせるので上手だなと思いました。タブチルのようなバーチャルな体験ができる時代が来ていることを思うと、子どもたちの置かれた環境の複雑さを痛感しました。が、子育てや人間関係、人のいのちに関わることは、ゲームでなくリアルに体験していく必要があると思います。あと、温斗がなぜ施設と関係があるのか、なぜ父親が泣くからごはんの支度をする必要があるのかは、よくわからず、踏み込まないスタンスなのかもしれないけれど、意図も少し不明でした。

サークルK:テンポの良い進行だと思いましたが、その会話の速さや漫画的な展開についていくことができず、最後まであまり乗り切れませんでした。タブレット・チルドレンであるマミが「本当の人間になれますように」(p.162)と願う箇所はピノキオの願いを思い出しました。このタブレット・チルドレンたちの造形がもう少し深まるとおもしろかったように思います。カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』(土屋政雄訳、早川書房)のなかのクローン人間が自分のルーツやオリジナルを求めてさまよう展開も想起させられました。読書会の後、「メタバース」についてのテレビ番組を視聴し、アバターがもうひとつの宇宙で動き回る世界がもう少しでやってくる、という話を聞いて、いつかこの作品が実際に起こる可能性もあるのかも、と少し怖くなりました。

コアラ:おもしろく読みました。タブレットで中学生が子育てをする、という設定がおもしろいと思ったし、テンポがよくて言葉のやりとりもおもしろかったです。p.26に「いいよ、もう。お母さんには無理」というマミの言葉があるけれど、同じようなことを心夏も自分の母親に言っていたと気がついて、母親の気持ちに思いを馳せられるようになる。そういう、心夏の成長について、わかりやすく、読者がついていきやすく書かれていると思いました。装丁も銀色でメタリックな雰囲気で、タブレット・チルドレンというのをうまく表しています。p.84の4行目で、カギカッコが2つ重ねてあって、2人が同時に発言しているというのを表現していますが、この方法は、私は初めて見たような気がします。全体として、さらっと読めて、子どもにもオススメだと思いました。

まめじか:「どちらかが、絶対にいやだとか、それは無理だとか言って拒否したら、家族ってどうしようもない。完全に機能しなくなる」(p.142)など、家族というものをずっとつきつめて考えてきた、作者の内から出てくる言葉だなあと思いました。AIの子どもを育てるというテーマは新鮮でしたが、ちょっと気になったのは、みんな男女のペアで育てているようなので、それは社会のステレオタイプを固定することにならないのかな、と。子育てはひとりでも、同性同士でしてもいいのだから。「異性でも同性でも」(p.206)という先生のせりふがありましたが、性も家族もいろんなあり方があるので。

アカシア:最初に読んだときには、あまりにもリアリティがないと思って、おもしろくなかったのですが、もう一度読んでみたら、会話やキャラクター設定はおもしろいと思いました。まあ、子育てについてのインサイトや考えるヒントがあるわけではないので、エンタテインメントですね。同じテーマならアン・ファインの『フラワー・ベイビー』(評論社)のほうが、訳はイマイチですがよく描けていると思います。小麦粉を入れた袋を新生児と同じ重さにしてそれを絶えず持ち歩かないといけないという設定ですが、タブレットよりはリアルに子育てを考えられます。子育てって、何よりもリアルな体験ですからね。先生の子どもが若くしてなくなったから生徒たちにも失敗しないでほしいとか、温斗が施設にいたことがあるなどは、話の大筋に関係ないので、とってつけたような感じだと思ってしまいました。タブチルそのものが、きちんとした教育プログラムにはなっていないですね。

さららん:私が感じていたことは、これまでにほぼ全部出てきたので、つけたす意見はあまりないんです。私もアン・ファインの作品のことを、思い出していました。今回の「反発と自立-親子って楽じゃない」というテーマから考えてみると、主人公の心夏は、母親に対しては反抗期ガンガンだけれど、美乃里ちゃんを始め、友だちとは仲よく普通につきあっています。タブレット・チルドレンのマミのトゲのある言葉にぶつかって、心夏は初めて自分を母親の立場において考えられるようになり、親子関係が少し変わっていく。その辺はまっとうな児童文学、という印象を持ちました。タブレット・チルドレンの存在は近未来なのか、SFなのかわかりませんが、こういうこともあるかもね、というぐらいのビミョーな設定です。ありえないー!ってことも起こるんですが、それも含めて、作家の掌で転がされている感じがします。書き方によっては暗くも重くもなりそうなテーマを、軽い笑い(マミが出てくるところはシニカルな笑い)に包んで、読ませます。物語の展開がいつも少しずつずれていくところは、心夏の頭の中と同じで、漫画的なのかな。心夏が、漫画のネタとして周囲の出来事を捉えているので、べたつかずに読み進められ、小学校高学年から楽しめる作品じゃないかと思いました。作家の村上さんは身近なタブレットを使って、一種の思考実験をやってみたかったのかもしれませんね。

ルパン:『タブレット・チルドレン』という題名を見て、タブレットに振り回される子どもたちの話なんだろうと思いきや、タブレットの中にチルドレンがいたというのには驚きました。ものすごく斬新で、ぐいぐい読めてしまったのですが、ところどころにちぐはぐ感もありました。主人公は「スクールカースト最下位」といいながら、友だちもいるし、男の子ともふつうに口をきいているし、キリエもこの子をいじめているんだけど、案外好きなんじゃないかと思えるくらいかまってくるし……そのちぐはぐ感が楽しかったんですけど、最後の最後に、急に先生の話で重くなっちゃって、一気に臨界を超えてしまった気がしました。そこまでは、ちぐはぐなところもまた心地よく読めていたのですが、さすがに自分の子どもを亡くして、中学生が将来そうならないためにバーチャルの子どもを育てさせる、というのは……いくらなんでも無理があります。あと、この主人公が最後にタブレット・チルドレンのマミちゃんを育てることにする、というのもちょっとなあ……と。私もたまごっちを育てたことがあるので、バーチャルなものに感情移入する気持ちはわかるんですけど、この子はまだ中学生で、これからリアルな友情とか恋とかを経験しないといけないのに、所詮はプログラミングされた映像に過ぎないマミちゃんのために時間を使い続けるなんて。「やめた方がいいよ」「電源切ったらいなくなるよ」って言ってあげなきゃ、と真剣に思ってしまいました。あ、本に感情移入してしまう自分もアブナイのかな……?

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末摘花(メール参加):GIGAスクール構想が始まり、子どもたちが1人1台端末を持って授業を受け、家に持ち帰って宿題をするという今、このような児童文学作品が登場してくるようになったのかと思いながら読みました。中学生が担任の提案でランダムにコンピューターが決めた男女ペアになってタブレットの中に設定されたタブレット・チルドレンを育てるということ、会話文が多用されて物語が進んでいくことに違和感を覚えながらも、中学生がタブチルを通して自分を問い直して成長していく姿に、子どもたちは共感して読んでいくのではないかと感じました。

(2022年09月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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りぼんちゃん

『りぼんちゃん』表紙
『りぼんちゃん』
村上雅郁/著
フレーベル館
2021.07

〈版元語録〉第2回フレーベル館ものがたり新人賞大賞受賞作「ハロー・マイ・フレンド」改題『あの子の秘密』でデビューし、同作が第49回児童文芸新人賞受賞というラッキーな作家人生をスタートさせた村上雅郁。3作目の今作は、20代最後に贈る「祈り」の物語。

しじみ71個分:この本もとてもおもしろかったです。暴力をふるわれる虐待ではなく、威嚇やどなるタイプの心理的虐待にあう友だちを助けたい主人公の視点から描かれた作品で、いろいろと考えさせられました。主人公の朱理は虐待にあう友だちの理緒を助けたいのに、普段から背が小さいために赤ちゃん扱いされ、まともに取り合ってくれない周囲を動かし、理緒を助け、自分も成長していくという構成になっていましたが、たくさんのテーマが含まれていて、いろいろ深く考えられた物語でした。とてもおもしろかったのですが、いくつか気になった点がありまして、まず、彼女の心の中の物語世界なのですが、自問自答、内省を良い形で表しているなとは思うのですが、前半の水の精の話が特に冗長で、ちょっと物語の本筋から読み手の気持ちが離れて行ってしまう感じがありました。また、例えばp9の「頭の中に国語辞典でもあるの? ナポレオンなの?」というところとか、作者が前面に出てきてしまう感じの不要な文がはさまっていたりして、ときどき物語の進行を作者が邪魔しているような部分があったのですが、なのに途中でドンと胸に迫る表現があったりして、この作者の世界観は独特だなと思いました。あるいは、若さゆえのコントロールの甘さか、アンバランスさかとも思ったり…。朱理が、理緒のお父さんに突然、バドミントンをさせないでくださいと言ってしまうのは、これはその後どうなるのかを思うと、本当に怖かったです。大人がちゃんと子どもの話を聞いてやらなくちゃいけなかったと思いました。最終的にはお父さんが気付いてくれて、お母さんもお姉ちゃんもみんな味方になってくれて、問題が解決されてよかったのですが、理緒のお父さんがわりと簡単に改心しているのは、そんな簡単な問題ではないと思うので、ご都合主義かなとも思いました。ですが、作者が虐待、友人関係、家族との信頼関係、自己肯定感と自己主張といった難しいテーマに果敢に取り組みつつ、その主人公を支えるのが言葉であり、物語であるという点まで、モリモリのてんこ盛りになった意欲作だと思いました。

西山父親のありようとか、解決の仕方とか注目すべき読みどころはいくつもありますが、私がいちばん新鮮に思ったのは、朱理ちゃんのありようです。難しい言葉を知っているところと知らないところ、あぶなっかしいところも、そのアンバランスさが、ああ、こういう年齢の子どもの姿としてあるかもと思えて、とてもおもしろく興味深く読みました。子どもあつかいされるのをいやがっているけれど、実のところ幼いところもある。そこが子ども像として新鮮に感じました。体の大きさの違いも、子どもにとって切実なのだということが、ちょっとした仕草、赤ちゃん扱いするクラスメイトとのやりとりなどからしっかり伝わってきました。そんな朱理が、自分の言葉を聞いてくれないおとなに絶望していくわけです。父親も母親も朱理をがっかりさせる。朱理がそれぞれを見限る瞬間は印象的です。がっかりの深さが痛みとして胸に響きます。でも、そこで終わるのではなく、もう一度おとなを信頼するほうに転じさせる展開に、大変共感しています。

シマリス: 文章も物語の構成もうまいなぁ、と新作が出るたびに気になっている作家さんで、この本も発売されて間もない頃に読みました。かわいがられつつ、小柄なことでからかわれる朱理のキャラクターが独特で魅力的でした。前作までは、クライマックスでも冗長な会話があって、せっかくの勢いが弱まっていたんですけど、今回は終盤に疾走感があってよかったです。後半に専門知識がまとまって出てくるのですが、その部分が押しつけがましくなくて適量だなと思いました。ただ、ラストの部分、皆まで言うな!!と止めたいくらい、作者の言いたいことを語り倒していて余韻のないのが残念でした。

ハリネズミ:朱理の一途な気もちはよく伝わってきました。おとなが頼りにならないときに子ども同士が助け合おうとするのは、現代的な設定ですね。ちょっとひっかかったのは以下の点です。p119におばあちゃんが朱理に目に見えないオオカミの話をするところがありますが、小学校に上がったばかりの子に、こんな理屈っぽいことを言うでしょうか? p180の後ろ5行はおとなの視点ですね。特におばあちゃんが出てくるところなど、ところどころに大人の視点が出てきて解説しているのが残念でした。

雪割草:おもしろく読みました。赤ずきんちゃんの物語と現実の経験が交錯しながらすすんでいくところやおばあちゃんの言葉がよかったです。ただ、朱理の言葉がときどき自分の言葉ではないみたいで、おばあちゃんの言葉もそうですし、物語が好きで、書くことで世界に関係したいというところなど、作者の姿が見える感じで、もう少し控えめにした方がよいとは思いました。エンディングも、りぼんちゃんのお父さんの態度の変わりようなど、こんなにうまくいくだろうかと疑問に感じました。それから、赤ずきんちゃんの物語をもとにして、狼=悪のイメージで用いていますが、狼は生きもので、狼の目線の世界もあるわけで、悪として描いてしまうのは問題があるように感じました。

ハル:「虐待」の設定がとてもリアルだなと思いました。身体的な暴力だけが虐待なのではなくて、もしかしたらいま読者自身やその友人が抱えているかもしれないその違和感、緊張感、心が重たくなるような感覚、これはひょっとして異常なことなんじゃないか、と気づくきっかけになりうる本だと思いますので、その点では子どもに寄り添った本だなと思いました。ただちょっと、登場人物が作者の思いを語りすぎな気もちょっと。全部がせりふとして書き起こされている感じがします。このくらいわかりやすいほうが、若い読者には読みやすいのかなぁ? でも、私は圧迫感を覚えました。

つるぼ:表紙の早川世詩男さんの絵が、とってもいいと思いました。子どもが手に取りやすいですよね。文章も生き生きしていて、引きこまれる(ちょっと余計な言葉が多すぎる感じはしたけれど!)。そうしていくうちに語り手の朱理が友だちの深刻な問題に気がつき、自分の悩みを考えるのと同時に成長していくという物語の作り方は、とてもよく考えられているし、しっかり調べて書いてあると好感を持ちました。自分の周囲にある輪を1歩乗りこえて、児童相談所という社会にコンタクトしているという点も好感が持てました。ただ、あかずきんちゃんや魔女の話は、作者にとっては物語に欠かせない要素なのかもしれないけれど、あまりおもしろくないし、生硬な感じがしました。それに、児童書としてはこれでいいのかもしれないけれど、大人の読者にとっては絶対にここでは終わらないと予想がつくだけに、ある意味とっても怖い話でした。それに、どうして理緒ちゃんを主人公にして語らせなかったんでしょうね? こういう「友だちにこういう子がいて……」と主人公が語る物語を読むと、わたしはいつも「その子に語らせたらどうなのよ?」と思ってしまうんですけどね。

アンヌ:前半の朱理についての記述と矛盾するような、物語を作る力のある朱理の描写が続くのでおもしろかったのですが、その物語には少々退屈しました。好きなシリーズ本の中の魔女の話と、朱理の物語の中の魔女とおばあちゃんの語りと、記憶の中のおばあちゃんの言葉があって、ここだけで少々へとへとになりました。でも、ここまで来てこの子は考える力を持っている子なんだとわかって、友達の家庭内問題まで立ち入れる人間なんだとわかってくるわけですよね。後半は、本当にこうなったらいいなあ、少なくとも現実に苦しんでいる子が、先生以外の大人にも助けを求めていいんだとわかればいいなと思いました。作者が描くイメージは時にとても美しく、p.26の図書館での「同じ本を読む意味」や、p.40の「おしゃべりに花を咲かせる」ところの描写はとても魅力的でした。

エーデルワイス:ほとんど皆様の感想と同じです。児童書ですから安心した結末になっていますが、理緒ちゃんのお父さんについては心配です。改心しているかもしれませんが、人はすぐには変われません。長い時間理緒ちゃんとお父さんは離れた方が良いと思いました。朱理ちゃんが書いた物語が度々登場し、それが深い意味を持っています。小川糸さんは、幼い時から実のお母さんとの確執があり、その苦しい胸の内を学校の先生にも打ち明けることもできず、作文や物語を書いたところ大変評価され、それで作家になったそうです。文章力を持っている子は困難を乗り越える力があるのですね。朱理ちゃんをよく理解していつも味方でいてくれたおばあちゃん。そのおばあちゃんを亡くし、温かい家庭で暮らしていても孤独感にさいなまれる朱理ちゃん。こんな子はたくさんいるのでしょうね。周囲で気が付いて話を聴いてあげたいです。表紙のイラストには驚きましたが、納得して感心してしまいました。
以前身近でこんなことがありました。複雑な家庭環境の知り合いの女性から、高校生の長男が、両親や祖母の誰にも相談することなく自ら児童相談所に行き、保護されたという電話を受けたことがあります。家族と長男はしばらく面会謝絶。その長男は生き延びることができたと思いました。その女性には「お子さんは頭の良い子ですね。まずは生きていることが大事。いつか会える日がきますよ」と、言いました。その後連絡はありません。

まめじか:一時保護所については、自由がなくて、子どもにとって非常にストレスのかかる場になっているという報道も聞きます。この本ではポジティブに描かれていて、きっといろんな施設があるのだろうとは思いますが、実際のところはどうなのでしょうね。

ネズミ:おもしろかったです。友だちとの会話など、これまで読んだことのない文体でした。今の子どもはこんなふうに話すのかなと思って読み進めました。慣れるまで入りにくく感じましたが、途中からはぐいぐいひきこまれました。理緒の問題は、心あるおとなが見れば、何か変だとすぐ気づくのかもしれませんが、朱理の理解ではそこまで至らないところに、6年生の限界があるのかと思いました。同年代の読者が共感すると先ほど出ましたが、それは子どもの目線で描かれているからでしょうか。朱理が最後、本気で求めたとき家族がそれぞれにこたえてくれるところは、できすぎ感もありますが、安心できました。理緒の父親が改心するというのは、実際はきっとすぐにはうまくいかないだろうという予感も感じられ、ある意味でリアルだと思いました。

ルパン:私は正直あんまりおもしろいと思いませんでした。物語の形式をとっているけれど、結局、朱理がぜんぶしゃべっていて、さいごまで作者の長ゼリフを聞かされている気がしました。劇中劇の中で語られるおとぎ話のアイデアのほうが楽しそうで、その話を書いたらおもしろいんじゃないかと思いました。

(2022年08月の「子どもの本で言いたい放題』の記録)

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ペイント

『ペイント』表紙
『ペイント』
原題:페인트(Par-Int)
イ・ヒヨン/著 小山内園子/訳
イースト・プレス
2021.11

〈版元語録〉少子化が限界を越え、「人口絶壁」状態となった近未来。国は少子化対策として、親に代わって国が子どもを養育するセンターを設立し…。“子どもが親を選べるとしたら”という人類の究極のIFに挑んだティーン小説。

ネズミ:ディストピア小説だなと思って、おもしろく読みました。管理されたなかで理想的な子どもを育て、理想的な親とマッチングさせていくという。ここで行われているやり方を見て、拒絶感を感じたり、なるほどと思ったり、いろいろと考えさせられる物語だと思いました。めんどうくささ、理論や効率だけでは片付けられない緩みのようなところに親子関係の機微があると思うのですが、それがハナの夫婦の箇所であぶり出されるのがおもしろいと思いました。

エーデルワイス:8月7日JBBY主催オンライン講座『非血縁の家族について考える~里親で育つ子どもたち』に参加して感銘を受けたばかりで、今回の課題図書はタイムリーと思いました。この物語では、養子縁組を結ぶ場合、親になる人が子どもを選ぶのではなく、子どもが親になる人を選ぶというところが新鮮でした。最近でも親の養育放棄で幼い子が亡くなるという痛ましいニュースが続いています。実の親に子どもを育てる能力がなかったら国が親に替わって子どもを大切に育てるこの近未来の内容が、いつか実現するかもしれないと思ったりもしました。終盤主人公の「ジェヌ301」が養子縁組をすると思いきや、自分で巣立つという選択をしたところが予想を裏切られて爽快でした。韓国でこの本が青少年に大いに支持されているそうですが、生の感想をぜひうかがいたいと思いました。

アンヌ:私は初読の時あまりにあっけなくて、上下巻の上だけで終わったような気分になりました。外界の様子がはっきりと描かれていないので、養子になれなかったら過酷な運命が待っていて、差別の待ち受けている一般社会に一人で立ち向かうことになるという設定がピンときませんでした。政府が子どもを養育しているなら、才能のある子を見出して英才教育をするだろうとか、19歳で外界に出て居場所がないならまず兵役じゃないかとか考えてしまい、設定に納得がいかなくて物語に入り込めなかったようです。主人公は4年近く様々な養父母候補と会っていて、養子制度のうさん臭さに冷めているようですが、お金や小説の種を目当てにペアリングを申し込んできたハナ夫婦とは友情を結びます。親子関係ではなく、彼らや施設長との友情を基に、主人公は外界に出て一人で生きていくのでしょうか? いずれにしろ続きの物語がないと、物足りない気がします。

つるぼ:ディストピアの物語ということで『わたしを離さないで』(カズオ・イシグロ著 早川書房)を真っ先に思い出し、なにか悲劇的な事件が起こるのではないかと、はらはらしながら読みましたが、満足のいく結末でほっとしました。わたしはアンヌさんと反対で、設定が非常に巧みで、よく考えられていると思いました。外の世界から切り離された、男子のみの施設に舞台を設定したことでYAには欠かせない恋愛とか、その他もろもろのことがすっぱりと削ぎおとされ、親とは、家庭とはという作者の問いかけが真っ直ぐに伝わってきていると思います。まるで一幕物の舞台を観ているようでした。ただ、主人公の年齢が、本来なら家庭を離れて自立していくころなのに、なぜ家庭を必要としなければいけないのかという点が、少々気にかかりました。韓国は家父長制が重んじられ、血筋を大切にすると聞いたことがありますが、その辺のところが日本の読者と受け止め方が違ってくるのかな? 親が決まらず施設を出た子どもが差別され、生きにくさを抱えるということも書いてありましたが……。

ハル:この本は韓国ではYAとして出版されているんだと思うんですけれども、日本ではおとな向けのカテゴリーですね。一読目は私もおとな目線で読んだと言いますか、里親制度は子どものための制度なんだけれど、本当に子どもに軸足を置けているのかな(施設で働く方々ということではなくて、社会が、という意味です)ということを考えさせられました。p21の「ココアはセンターを訪れるプレフォスターの笑顔に似ていた。適度に温かくて、過剰に甘い」といった一文にドキッとしたり。でも、二読目になると、これはやはりYA世代の人にこそ読んでほしい本だという思いが強くなりました。「ぼくの親は何点かな」とか「ペイントで自分の親と面談したら選ぶかな」とかいうことじゃなくて、将来、自分が親になるかもしれない、新しい家族をつくっていくかもしれないことに思いを馳せ、視野を広げる1冊になるんじゃないかと思います。だから、日本でも児童書として出してほしかったなあと思いました。とてもおもしろかったです。

雪割草:興味深く読みました。日本でも非血縁の家族など家族のあり方を考える機会がふえていますが、韓国は血筋を大事にする社会と聞いていたので、そのようななかでこういった作品を書くのは挑戦的だったのではないかと思いました。最後のジェヌの選択は、作者の社会における差別や偏見に対する姿勢があらわれているように思いました。プレフォスターの面接の場面が子ども目線で描かれることで、子どもも親に対して期待を抱くことや、ハナの母親のように子どもを自分の欲求を満たす手段にする親、パクの父親のように虐待する親などさまざまな家族の関係が描かれていて、家族のあやうさについて考えました。子どもだけでなくおとなにも広く読んでもらいたいです。

 

ハリネズミ:とてもおもしろかったです。施設に入っている子どもを養子にするという場合、たいていはおとなが子どもを選びますが、この作品では逆で、子どもが選ぶというのがおもしろいですね。少子化に歯止めをかけるため、産むだけは産んでもらって、育てるのが嫌なら国で育てるという政策になっている近未来ですね。ただ思春期になって複雑な心を抱える子どもを、これまでの積み重ねなしに突然引き取っても難しいと思うので、そこはちょっとリアリティに欠けるかと思いました。まあ、だからこそ思惑があって引き取ろうという人に対しては、センター長やガーディが目を光らせているのでしょうね。ジェヌが最後にペイントをした夫婦は、これまでと違う、飾り気なしで本音を言ってしまうところがあり、だからこそジェヌは気に入ったんですよね。ということは、たいていが美辞麗句を言う人たちだったんでしょうか。2回読んで、結末はどう考えればいいかと思案したんですが、センター長のようにしっかり子どもを見てくれている人がいて、その人の生き方も手本になるとすれば、親はなくてもしっかり歩んでいける、ということなのでしょうか?

シマリス: とてもおもしろく読みました。こういう謎の組織に隔離されている話って、組織に悪が潜んでいたり裏の目的があったりして、システムの目的を暴いていくのが焦点になりがちです。でも、この作品では、そこは最初にさらっと明かされていて、焦点は「親子とは何か」「家族とは何か」に絞り込まれていました。リアルな話でこのようにテーマが明確すぎると、説教臭かったり作者の言いたいことの押し付けになったりするかもしれませんが、近未来の架空の設定にすることによって、そういう生臭さが消えています。素直に、家族とは何か、親とは、血縁とは、そんなことを考えることができました。

西山:たいへんおもしろく読みました。ラストでこれは児童文学だと思いました。悲惨な展開になりはしないかとちょっとひやひやする部分もあったものですから。途中、主人公のジェヌはガーディのパクと親子になるのではないか、ペイント(面接)を進めたあの2人と縁組みするのではないか、そうなればよいのにとどこかで思いながら読んでいたことが、良い方向にひっくり返されました。私の甘い期待は結局親子関係を紡ぐことをハッピーエンドとしていたわけで、染みついた固定観念を突かれた感じです。そうではない着地点を見せてくれたことが、家族とは何かを問う作品として芯が通っていて大いに刺激されました。父母面接を13歳以上の子どものみに可能とした経緯は、p30からp31にかけて書かれていましたね。初読時は、単にこの世界の設定部分としてさらっと読み飛ばしていたのですが、「嫌なことや間違いを口で言える十三歳以上の子どもにだけ父母面接を可能にした」という部分は、もう1冊のテキスト『りぼんちゃん』(村上雅郁著 フレーベル館)とも通じる大事な観点だったなと思っています。読めてよかったです。

しじみ71個分:本当に、とてもおもしろく読みました! 親が産んだ子どもを育てることをしないで、国家に預けて育ててもらうという設定なので、ディストピア的な暗い話かと思ったのですが、ガーディが子どもたちを思い、愛情をもってしっかり育てているし、アキのような、愛らしいまっすぐな子が幸せになり、ジェヌのような冷静な大人っぽい子がちゃんと育って独り立ちしていくという、希望を持って終わる物語になっていて、これは作者が子どもに届けたくて書いているのだなと強く感じました。「親は選べない」と世の中では言われているけれど、それをひっくりかえして、親を子どもが選べる設定になっており、最後までどう物語が進んでいくのか、ずっと興味を引かれながら読み通しました。ジェヌが「ペイント」(=ペアレンツインタビュー)をしたり、ガーディたちのことを考えたり探ったりと、彼による大人の観察を通して、物語が進んでいきますが、その観察がとてもていねいに書かれており、読んで大人として痛いやら、身に沁みるやらでした。手当をもらうために子どもをもらおうとする夫婦や、夫が妻を支配する夫婦が来て、期待できない大人を見てしまいますが、それと一線を画し、親になる自信のなさも含めて正直に自分を見せてくれる大人、ハナとヘオルムが会いにきて、親子という関係をこえて、信頼できる大人としてジェヌの前に現れたのもとてもよかったです。ガーディのパクとチェの存在の描かれ方も、本当によかったなと思いました。血縁でなくても、自分を思ってくれる人がいるということは、どんなに心強いかというメッセージにもなっていると思います。結末も、親子関係の中に自分を置くことを選ばず、自立していこうと希望を持って終わったので、読後にとてもすがすがしい開放感がありました。親子や大人と自我との葛藤は、思春期だと必ずぶつかるテーマだと思うのですが、それに対する作者からの1つのヒントになっていると思います。最近の韓国ドラマを見ても、各所に過去まで遡った家系や学歴、貧富や家族関係など、出自に関する言及が本当に多くあって、韓国社会の中では個人のバックグラウンドはやはりとても気にされるんだと思います。そんな社会であれば、この物語は韓国の子どもたちにインパクトがあるだろうと思いました。細かい点ですが、アキの名前は一人だけ日本語の「秋」に翻訳されてしまっていて、ちょっと日本っぽさを思いだしてしまうので、韓国語の秋の音で「カウル」にした方がよかったんじゃないかとか、年下の人が年上の男性を呼ぶときに「ヒョン」と呼びかけますが、それも毎回、「兄さん」と訳さなくてもよかったんじゃないかなど、素人ながら翻訳はちょっと気になることがあったのですが、物語としてとてもとてもおもしろかったです!

ルパン:未来小説だと思いますが、近未来世界というか、本当にそうなるかも、って思わせる設定で、おもしろかったです。ヘオルムとハナを里親にしなかったのは正解だと思いました。友だちみたいな親はいらないし。この二人なら、お金をもらえなくても、ジェヌが卒業後に会いに行ったら喜んでくれると思います。ガーディのパクはこのあとどんな人生を送るのか気になりました。

(2022年8月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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サヨナラの前に、ギズモにさせてあげたい9のこと

『サヨナラの前に、ギズモにさせてあげたい9のこと』表紙
『サヨナラの前に、ギズモにさせてあげたい9のこと』
原題:WHAT’S THAT IN DOG YEARS! by Ben Davis, 2019
ベン・デイヴィス/著 杉田七重/訳
小学館
2021.06

〈版元語録〉愛犬ギズモが老い先短いことを知ったジョージは、ギズモにさせてあげたいことリストを作り実行していく。さまざまな困難を解決していく物語の面白さと、深刻な背景を持ちながらも魅力的なキャラクター達の愛しさにぐいぐいとひっぱられる、笑えて泣けるドタバタ感動ストーリー。

ルパン:全般的にはおもしろかったのですが、シャロンの描かれ方がどうも…リブは、ほかのだれからも仕事をもらえないのに、シャロンだけが雇ってくれるんですよね。信頼もされていた。なのに、シャロンがずいぶん悪者みたいに描かれているのが違和感ありました。それから、この夫婦が離婚してしまうほど決定的な事件が、ジョージの怪我だったというのも「え?」という感じです。この父親と母親、責任のなすりあいして離婚してしまうわけですよね。ジョージはそのことでいっそう傷ついているのではないでしょうか。

ミズタマリ:正直、前半は間延びしているように思いましたが、読後感はとてもよかったです。犬との友情をはじめ、いろんな形の友情、人間関係が描かれています。ギズモ、つまり犬の一人称だと思っていた章が、最後まで読むと、ジョージとリブが書いたお話を分散して載せていたということがわかります。その仕掛けがとてもおもしろかったし、犬の一人称としては人間に寄り過ぎではないかという疑問も解決しました。気になるところはいくつかありました。まず、犬の腎機能の衰えなのですが、こんな急激に悪化するでしょうか。あと、p.123で、ローザは犬の毛のアレルギーなのだと言います。でも、正確には犬アレルギーは、皮脂などに含まれるたんぱく質由来のはずです。なので、ローザがいい加減なことを言う大人なのだというイメージが焼き付き、後半で誠実な人柄とわかって驚きました。また、p.133で、リブが「約束通り、来てくれたか」と言うシーンがあるのですが、これが男っぽくて、リブは女子だと思っていたけれど本当は男子だっけ、と遡って確認してしまいました。あともう1つ、p.331にギズモが語ることとして「ある種類の肉を買い忘れてしまった」とあるのですが、ある種類、という言葉が不自然に思えました。

西山:最初私はなかなかのっていけなかったんですが、p.81でシャロンがギズモにキスされて声をあげて笑う場面で、ああ、この人は本当に犬が好きな人なのだと好感をもって、やっと作品に入れた気がしたのです。ところがどうもそうじゃなかったということが早々に分かって、好きになれるポイントがなくて戸惑ったままでした。いじめっ子側にべったりになってしまったマットにしてもシャロンにしても、日本の創作だったらこれほど切り捨てなかったのではないか、もっとこまやかに彼らのことも嫌いになれない背景がちらりと書き込まれていたのではないかと思うと、そもそも読み方を変えなきゃいけなかったのかなと、テイストの違いを感じます。安楽死の提案には驚いて、不当な感じがしました。後半がばたばた。そこまでの長さと、後半のエンタメ的なドタバタの連続が不釣り合いに感じて、もっと薄くて、勢い良く展開する本でもよかったのに、と思ってしまいました。1つ質問です。リブの人種って、言葉上では書かれていませんが、表紙の絵で有色人種とわかります。あとp.155に肌の黒いリブが登場しますし、あえて言う必要はないとは思うんですけど、どうしてこういうことになっているのでしょう。

ルパン:p.232ページの挿絵、リブですよね? ここだけリブの肌が白いんですが。

アカシア:そこは私も違和感がありました。そこだけ白い肌で、あとはそうじゃないんですよね。

アンヌ:私は、ギズモの話す章をジョージが書いているとしばらく気づかず、漱石の『吾輩は猫である』の犬版だなあと思いながら読んでいました。リブがシャロンをだましたりけなしたりする場面でも、シャロンは実はリブの母親だから平気なんだろうと思ってしまいました。シャロンは解雇するとき恩着せがましいことを言っているけれど、きっと、リブはかなり劣悪な条件で働かされていたんだろうと思います。ジョージのパニック発作の原因が両親のけんかというのはもう一つすっきりしない説明だと思いつつ、とにかく、老犬の割には大活躍のギズモが楽しくて、ジョージの腕の中で眠る最後でほっとしました。私は『ヘリオット先生奮戦記』(ジェイムズ・ヘリオット著 大橋義之訳 早川文庫)が大好きで、あのシリーズでは、獣医である主人公が動物に苦痛を与えないための決断だとして安楽死を行う場面がいくつかあるのですが、今回はあまり必然性がないようで、それを迫る親たちの態度に疑問を感じました。ジョージはきちんと別れの儀式を組んでいるのですものね。

花散里:いじめられっこのジョージと愛犬ギズモの物語はおもしろさが伝わり、子どもたちもとても読みやすいのではないかと思いました。作者はイギリスの学校をまわって文芸創作のワークショップをしているので、子どもたちを見て作品づくりに生かしているのが伝わってくるようでした。後半に向かって、どんどん読ませる構成がとても上手だなと思いました。犬との触れ合いがよく書かれていて、表紙画とともに子どもたちが手に取りやすいのではないかと感じました。この作者の新しい作品、『ぼくたちのスープ運動』(渋谷弘子訳 評論社)も読んでほしいと思います。

まめじか:タイトルは「ギズモにさせてあげたい」となっていますが、丘に登るとか、有名になるとかは、主人公がしたいことですよね。飼い主目線というか、飼い主の思い出づくりのように感じてしまって……。p.59に、「このころから、ジョージは文字を書くのがあまり得意じゃなかった」とあるのですが、ジョージはディスレクシアなのでしょうか? お話はずっと書いているようなのですが。

花散里:パニック障害はあるんですよね。そういうところとつながっているのかな。

アカシア:ディスレクシアではないんじゃない? スペリングが苦手なのかも。

まめじか:p.98で、マットに対して「きみ」という二人称を使っていたり、「こっけい」(p.248)という言葉で表現していたり、13歳らしからぬ言葉づかいなのは、この子が周囲から浮いてるから?

エーデルワイス:日本語の書名は原題とは違うので、翻訳はおもしろいですね。「死ぬまでにしたい10のこと」という映画 がありましが、それもどきでしょうか? 読んでいて想像する部分が多かったです。両親の離婚は、ジョージの事故がきっかけに過ぎず、前々より隙間風が吹いていたのかもしれないし、親友だったマットがこれでもかこれでもかといじめる理由が全くわかりませんでした。ジョージの何か言った一言が気に障ったのかな? それどもジョージが幼すぎたのでしょうか。p.339の12行目「この一瞬を生きるんだよ」はいいですね。雑種犬コンテストの賞金が400ポンド。1ポンドを164.35円に換算すると65,740円になります。確かにジョージにとって大金ですね。

ネズミ:非常にうまい構成の物語でさっと読めましたが、物足りなかったです。ゴールデンビーチに行くことで、めでたしめでたしのように見えるけれども、両親の離婚でパニック障害気味でひとりぼっちというジョージのかかえている問題も、ヤングケアラーとしてのリブの問題も、それで本質的に解決したわけではない気がして、後半は特に都合のよい展開が多く感じられました。エンタメと思いましたが、それにしては言葉が多く、よく読める読者じゃないと読みとおせそうにありませんし。でも、p.230の高い丘から町を見下ろすシーンは好きでした。視野を広げるのって大切だなと。ただ、気にかかったところがところどころにあって、たとえばp.48の「中華料理を注文した」。少し言葉を足さないと、バーベキューができなかったから出前を頼んだと、読者にわからないかもしれません。また、p.190の5行目など数箇所で「いつぶりだろう」は違和感がありました(参加者から「若者言葉だ」という発言あり)。あと、どうかなと思ったのは、ギズモの一人称の部分の文体。人間の年でいえば78歳の老犬なので、私はもっとおじいさんぽい口調になるかなと思ったのですが、書いているのは主にジョージなのでこれでいいのでしょうか。みなさんがどう思ったか、お聞きしたかったです。

アカシア:読む前にネットで梗概をを見たら、ドタバタって書いてあったで、ああ、ドタバタの話なんだなと思って読み始めました。ジャックは、中学生なのに昔のヒーローの衣装を着て犬にも着せて友達のパーティに行ったりするところを読むと、もしかすると発達がゆっくりなのかもしれません。そのジャックが、空気が読めなくて仲間はずれにされたり笑われたりするシリアスな場面と、老犬ギズモがやらかすドタバタな部分の落差はかなりあります。そこをどう評価するかは、人によって違うかと思うのですが、私は子どもの本として絶妙なミックス具合だと思いました。愛犬が高齢で体力もなくなったときに、死ぬまでに何をやりたいかを考えてリストを作り、一つ一つ実現していくというのも、いいですね。ギズモに何かをやらせてあげるというよりは、ギズモと自分で思い出をちゃんと作ろうということなんだと私は理解しました。医者も家族も安楽死を勧めたのに、それを拒否してもっとすばらしい最期を迎えさせてやれたところも好きでした。タイトルですけど、「9のこと」はすわりが悪いので「9つのこと」くらいでいいような。あと、ギズモがコンテストで優勝するとか、悪党を退治するなんていう部分は、ちょっとできすぎかもしれません。

しじみ71個分:前の選書当番のときに、なんとなくエンタメっぽいかと思ってやめた本でしたが、改めてちゃんと読んでみると案外おもしろかったです。犬の看取りの物語なのかと思えば、そこにちゃんと主人公の成長も重ねてあってよかったです。ジョージがみなさんのおっしゃるように、ちょっと発達に遅れのある子なのかなと思うほど、ちょっと幼くて、友だちのマットの心変わりに気付かず、いじめの対象になってしまいますが、ギズモと思い出作りをしながら過ごす中で、もう自分を大事にしない人は友だちでないと思えるようになり、たくましくなっていくのが心に残りました。リブもヤングケアラーで、貧困のせいでいじめられたりもしますが、ギズモの活躍のおかげで行政の支援が受けられるようになってホッとしました。物語の中では、子どもが大怪我をしたからといって離婚にまでなってしまうかなと思ったし、リブがギズモとコンテストに出ると言った時点で、本番にはリブは来ないなと読めてしまうのでありがちかなとも思いましたし、ギズモが強盗の急所にかみついて御用になるとかは、ちょっとご都合主義だなと思いましたが、最後にゴールデンビーチで夕陽を見ながら家族が和解する中ギズモが旅立つというシーンは、ちょっとぐっと来ました。痛快だったのは、ジョージとギズモが仮装してパーティーにいってみんなに笑われて帰るところ。マットの靴の中にギズモが糞をしてしまうのは最高に痛快でしたね。あと、タイトルが「ギズモにさせたい」というより、「ギズモとしたい」の方がしっくりきたんじゃないかなと後から思いました。

さららん:前半では、何度いじわるされてもまったくめげずに、かつては親友だったマットと仲直りできると信じて突き進むジョージに、どうしても共感できませんでした。現実に起きていることと、ジョージの認識の間に差がありすぎて……。「おいおい」と、つっこみを入れながら読んでいたのですが、ジョージには何か障害があって、人の感情を読み取るのが苦手な子なんだと思いなおすと、違う視野が開けてきますね。ともあれp.131で、ジョージがマットと決別する決心をしてくれて、ホッとしました。両親の離婚は自分のせいだと抱え込んでいる部分もあるジョージですが、一方で、なんとかなるさと前向きに行動するところが大きな長所です。リブに助けながら、ギズモが「死ぬまでにやっておきたいリスト」の項目を1つずつ実現させていく。そしてジョージはリブとの友情を深めるなかで、それまで知らなかったいろんなことに気づきはじめる。最後にギズモは死んでしまうけれど、全体として悲しくてたまらない物語にはなっていないところがいいな、と思いました。物語の終盤で、ギズモが泥棒に果敢に食らいついてやっつけるエピソードでは、瀕死のギズモにそんな体力が?と、つっこみを入れたくなりましたが、ともあれ死を迎える愛犬との暮らしをコミカルに明るく描いた、ユニークな物語です。細かい部分をあまり気にせずに読んでいければ、読者の子どもたちも「ギズモと知り合えたぼくは、よりよい人生を勇敢に送っていかなきゃ」(p.359)というジョージの言葉を素直に受け止められるでしょう。

アカシア:シャロンのキャラクター設定が揺れてるんじゃないか、という声がありましたが、最初は笑ってますけど、あとは「うすら笑い」となっているので、一応ちゃんと書いているかな、と思いました。今回のテーマは「アウトローと友だちになる」ですが、この作品でも『スネークダンス』でも、両方ともアウトローは女の子です。どちらも社会に反発を感じて、家族という点では大変なものを抱えていますが、この女の子のアウトローたちが男の子たちを成長させていき、それによって自分たちも少しずつ変わっていくという設定がおもしろいなと思いました。

まめじか:ジョージは「ウルトラボーイとワンダードッグ」のお話をずっと書いていて、そのことはギズモの章にも出てきます。最後にギズモの自伝をリブに見せる場面があるので、つまりそれは、ワンダードッグのお話とは別に、ギズモの自伝も書いていたということですよね?

アカシア:そういえば確かに、そこははっきりしませんね。

(2022年7月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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スネークダンス

『スネークダンス』表紙
『スネークダンス』
佐藤まどか/著
小学館
2022.03

〈版元語録〉芸術の町ローマで生まれた圭人は、父親が亡くなったことを機に母と日本に帰国する。東京の町をスケッチしていたある日、圭人はスプレー缶を持ちダイナミックに落書きをしている風変わりな少女と出会い…。

アカシア:とてもおもしろく読みました。イタリアと日本の文化の違いに、人間の生き方を重ねているのがおもしろいですね。同じ建物に住むバスケ仲間には、日本人やイタリア人のほかにインド人、韓国人、スコットランド人などもいて多様なのもいいですね。個人的におもしろいな、と思う表現がいろいろありました。[数をかぞえる単位がヨーロッパは3桁ずつ、日本は4桁ずつ]というところは、そういえばそうだと再認識しましたし、[母語や母国語ではなく母校語がいちばんしっくりくる]とか[日本の男子中高生の一人称は「オレ」]、[大理石の国から、木とたたみの国に来たんだ][イギリスはイタリアより差別が厳しい]、[ローマでは美術館などは無料で入れる]などというところ、著者の視点で私も新たに文化を見直すことができました。著者がふだんイタリアに住んでいる方なので、編集のほうでもう少しアドバイスすればいいのにな、と思うところもありました。たとえばp.11の「もちろんさ。マッテオは日本のアニメ大好きだもんな」は、二人称ではなくマッテオと言っているところが日本的な会話になっていて、さすがと思ったのですが、p.7の「いらないってば。この悪魔め!」は翻訳調ですし、p.120の歩のセリフ「あんがと。あとであたしが取りに来る」は、日本語だと「取りに行く」になるんじゃないかな。それと、p.165の圭人の独白「まっぴらごめん」は、今の子は使わない言葉かもしれません。そうそう、圭人(けいと)という名前ですが、ヨーロッパだとKateが女性名なので男の子にはつけない名前かも。著者はあえてそうなさっているのかもしれませんが。今回のテーマで言うと、アウトローの歩を圭人が惹かれたり否定したりしてとても気がかりな存在になっていく、というのがおもしろいと思いました。

ネズミ:私もとてもおもしろかったです。まず、主人公に寄り添って読んでいけるのがうまいなと思いました。そして、タイトルと表紙を見てダンスの話かと思ったら、そうじゃなくて、ストーリーもどんどん思いがけない展開があって、思ってもみないところに連れていかれます。予想がついてしまう物語も多いなか、自然な形で予想を裏切ってくれて、楽しめました。同じ作者の『アドリブ』(あすなろ書房)は音楽でしたが、この本ではローマの建築や絵の蘊蓄が盛りこまれていて、多分作者が意識的にしているのだと思いますが、10代の読者に新しい世界を受け止めやすい形で差し出しているところも好感を持ちました。

エーデルワイス:表紙のイラストとカバーイラストが違っていてオシャレです。題名の『スネークダンス』とカバー絵で主人公の杏里圭人と山中歩が踊っているので、ダンスの話かと勘違いしました。法隆寺の話になるとは! 圭人が宮大工になろうと意思を固める展開に驚きました。作者が住んでいるイタリアならではの内容で、読みごたえがありました。かつてコロッセオでは公開処刑を行っていたものの、今は死刑を廃止しているイタリア。世界中のどこかで死刑が廃止されると、コロッセオでセレモニーが行われることを本文で初めて知り、感銘を受けました。杏里圭人(あんりけいと)の名前は西洋風ですが、日本に「杏里」という苗字があるのでしょうか? 作者がアンリ・マティスが好きなせい? 終盤、圭人の父親を引き逃げした犯人が逮捕され、圭人の心にやっと平穏をもたらしますが、歩の家庭問題は解決していません。歩を理解してくれるおばあちゃんと古き良き家屋に住んでいますが、愛情を全く感じられない父親、若い義母、母親。続編があるのでしょうか?

まめじか:最初のほうでローマの建築の話が続くのですが、それに十分なページを割いてていねいに描いているから、圭人が建築に興味をもち、やがて宮大工を目指すようになる過程にも説得力がありました。先ほど歩の家庭の問題が解決されないという話がありましたが、こういうふうに親が子どもを養育しようとしないことって、現実の世界にもたくさんありますよね。歩は父親とわかり合えず、圭人は父親をひき逃げ事故で亡くし、ままならない現実にそれぞれ直面している。そこでつぶれてしまうのでなく、人との出会いや、好きなことや夢を、前に進む力に変えていく。レジリエンスというか、逆境の中でもちこたえる力を、五重塔の耐震構造に重ね、スネークダンスという言葉で表現しているのが見事だなあと。日本の景観の問題や、イギリスの差別のことなど、長くイタリアに住んでいる作家の方ならではの視点ですね。視野の広さを感じました。

花散里:ローマの古代建築と東京・下町の建築などの対比の中で物語が展開していくので、とても関心を持って読みました。父親を交通事故で失い、日本に帰らざるをえないときの主人公の心の機微も伝わってきました。日本に帰国してからの歩との出会いも興味深く展開して行き、作品の構成も上手だと思いました。法隆寺や宮大工についてもよく調べられていて、法隆寺の心柱の考え方を「スネークダンス」に繋げているところなどが印象的で読後感がよく、日本の作品のなかでも読み応えがある1冊だと感じました。

コアラ:私もおもしろく読みました。前半にローマのことがたくさん書かれているのがよかったと思います。p.26の後ろから4行目、「数は何語で数える?」以降が特に興味深かったです。圭人が日本に来てからは、歩のしゃべり方に少し違和感がありましたが、アウトローだからこういうしゃべり方もアリかなと思えたら、圭人との会話がおもしろく感じられました。p.131からの「11 心柱ゆらゆらゆらり」の章は特におもしろくて、p.133の最後の歩の発言には、そうそう、とうなずいてしまいました。読んでいて、歩の考え方に染まってしまいそうな勢いがありました。p.216の8行目から10行目については、私も以前、揺れることによって揺れを吸収するという方法を知って衝撃を覚えたので、「背筋がゾゾッとした」というのはよくわかると思いました。この本を読んで初めてこういうことを知った子がいるとしたら、やっぱり驚きがあるのではないかと思います。最後もうまくまとめられていて、子どもにおすすめの本だと思いました。

ミズタマリ:冒頭にタバコを吸うシーンがあって、攻めている児童書だなと、いい意味で驚きました。イタリアの文化、日本との違いを知ることができ、異文化に触れられる作品です。イタリア以外に、イギリスや周辺国のことにも言及していて、興味深く読みました。ただ、説明的に感じられる部分もありました。建造物についての説明が続く場面では、興味を持てない子もいるのではないか、そういう子はページをめくる手が鈍らないか、と、ちょっと気になりました。2人の友情は魅力的だし、最終的に、主人公が希望を見つけて終わるので、読後感はとてもいいです。1箇所だけ気になったところがありました。p.93で、「外見の似た女の子同士がうなずきあう」という場面。主人公が「この二人の名前を覚えるのに苦労しそうだ。」となっています。でも、主人公は写真のような詳細なスケッチを得意にしているのですよね。一般の人が、似ている女子同士、区別がつかないと思っても、主人公はぱっと違いに気づく、というようなキャラクター設定に思えたので、ここは若干矛盾を感じました。

ルパン:いい本だとは思いますが、おもしろかったかどうかというと、ちょっと…。最初の部分に説明が多くて、おもしろくなるまでに時間がかかってしまいました。子どもの読者は最後まで読み通せるでしょうか。すてきだと思った言葉は、p.217の「名をのこさず匠をのこす」です。あと、歩が親元を離れているのに、制服を着なかったり悪いことをしたりして、遠くから親の気をひこうとしているところが何とも切ないと思いました。

アンヌ:前半がずっと美術館やイタリアの遺跡の話で長いけれど、私は言葉だけでここまで景色を表現できるのか、住んでいる人の視点からの案内は違うなとおもしろく読みました。イタリアで温かい人間関係を築いていて、イギリス社会の構造とかを友人を通して知っている圭人が、なぜ日本ではこんなに消極的な姿勢で目立つまいとしているのかは少し不思議でした。先ほど、まめじかさんおっしゃっていたように、この作品は今までの作品よりさらに人物の奥行きが深くなっていて、その点も素晴らしいと思います。例えば、死んだ父親像を生きていた時の思い出だけではなく、本当は絵を描きたかったのじゃないかと考えさせて、もう一つ掘り下げて描いているところとか、歩のおばあちゃんがケイトの嘘を見抜いていた場面で、あれ?と思っていたら、あとからこの人は実は塾の先生で、ただ者じゃない人だったとかわかるところとか、ですね。また、建物の構造も、授業で見学に行ったと聞いた形でうまく説明されていると思いました。それにしても、法隆寺の構造とスネークダンスがつながるとは意外でした。歩のペイントが、いたずら書きからシャッターペイントに変わり、町の人とつながりが出てくるところ、それによって圭人も変わっていって最後に大声で叫ぶところなど、読後感もよかったです。

アカシア:今、圭人がなぜそこまでびくびくして構えているのか、という疑問が出たのですが、日本の同調圧力はすごいし、日本人学校などでも「目立つとたたかれる」なんていうことを聞いてたからじゃないかな、と私は思いました。父親がいないし、帰国子女だしなど、マジョリティと違う部分を圭人は持っているので、たたかれることを警戒したんじゃないかな。それから、なんだかこの作品を弁護しているようですが、ミズタマリさんがおっしゃったp.93の2人の女の子違いがなんだかはっきりしない、という場面ですが、私は人物より建物に興味をひかれている圭人ならありかと思ったし、イタリアだと髪や目の色も、着てる服も、肌の色もみんなそれぞれ違うでしょうから、日本人が同じような外見で同じような意見を言うのを前にして圭人がそう思うのも当然のように思いました。

ミズタマリ:私もそれはそう思うんですけど、キャラクター設定としてどうかな、と思ったんです。

アカシア:歩が、好きなことは徹底的に追求するところとか、アウトローぶりを発揮するところがとてもおもしろかったです。圭人も最初は嫌がっていますが、影響を受けていきますよね。それに、たぶん歩は圭人が好きなんじゃないかと思いますが、圭人がそれに気づいてないところも、おもしろいな、と思いました。

ネズミ:親じゃなくても、わかってくれる人がいることを書いているのかなと思いました。おばあちゃんは後になって、面倒見のいい塾の先生だったことがわかって、わが子はエリート弁護士になったとしても、孫の成長を見守っている大人だというのが想像されますよね。

ネズミ:谷根千では古い建物を生かしながらやっていこうとしている建築家の人たちがいます。佐藤さんともその人たちとつながりがあるのかもしれないと思いました。

アカシア:建物も、観光地として売り出すところまでいかないと、どんどん壊されていきますね。もったいないです。古い建物をリフォームして住んでいる人が、耐震はどうなのかときいたら、昔の建物のほうがしっかりしているんじゃないか、と言っていました。

花散里:奈良の宮大工棟梁の西岡常一さんの本など読むと、日本の建築の良さがよくわかりますね。

さららん(遅れて参加):『スネークダンス』というタイトルなので、ダンスのお話かと思って読み始めたら、作品のモチーフは建築。しかも大地が揺れると心柱も動くという、法隆寺の心柱の仕組みから来ていることがわかりました。その意外性がおもしろく、またローマと東京の町の景色の違い、文化の保存に対する意識の違いやなど、蘊蓄もふくめて興味深く読めました。圭人は、日本の中学校では周囲と同化するために、一人称を「ぼく」から「おれ」に変えなくてはと考えます。イタリア語だけを使って生きていれば、存在しない気苦労ですよね。そんなふうに、イタリアから帰国したばかりの主人公のナマの感覚、違う視点を、読者が自然に共有できる作品だと思いました。日本への帰国後、できるだけ目立たないようにする圭人と、父親に反発してグラフィティを続ける歩は対照的な存在です。けれど、古い町並みへの愛情では共通していて、ふたりが友情をはぐくむ過程は王道の児童文学という感じ。歩の父親とその恋人の描き方は漫画的ですが、この作品のエンタテイメント性というか、軽快さを保証するためには、そのぐらいでちょうどよかったのかもしれません。最後に帯のことを少し。「芸術の都ローマで生まれ育ったアンリは」とありますが、主人公の名前は圭人(けいと)だったはず。確認したところ、p.88にフルネームの「杏里圭人」が初めて出てきました。「アンリ」は間違いではないけれど、読者にとってはやはり「ケイト」か「圭人」でしょう。

しじみ71個分(遅れて参加):『スネークダンス』というタイトルから、どういうところに話が落ちつくのか期待を持ちながら読み進めました。はじめはイタリアの観光案内みたいだなと思ったところもありましたが、日本とイタリアの間で主人公のアイデンティティの揺らぎを描くには必要だったんだろうなと後から思いました。最後まで読んでいって、やっと主人公の揺らぎを法隆寺の心柱の揺らぎに重ねて、揺らぎながらしっかりと立つという、柔軟な強さにつなげたんだなと腹落ちしました。主人公が将来の夢を見つけて希望を感じさせて終わり、読後感もさわやかです。圭人の将来を決めさせてしまう、宮大工さんがかっこいいですね。「わたしたちは名を残さず、匠を残す」(p.217)の言葉は胸に沁みました。p.218の「和」の解釈で、「つかず離れずの間合いの『離』を保つことが『和』の前提」というところなどは本当にそのとおりと思いました。おもしろかったのですが、ただ、歩の家族の問題は解消されないで途中で消えてしまったのがちょっと残念だったのと、圭人と歩の怒りはどこで消えてしまったのかという、なんとなく不完全燃焼感はありました。若者が怒りをもって立ちあがるということを伝えるのはとても大事だと思って読みましたが、それをどうやって自分たちで解消したり、解決したり、折り合いをつけていくのかという示唆がないままだったのが気になったのと、「抵抗と抗議のちがい」について掘り下げがもうちょっとあってもよかったのかなと思ったりもしました。

アカシア:この作品は13歳の少年の一人称なので、抵抗と抗議はどう違うかは書けないでしょうね。

しじみ71個分:なるほど。語り手の人称の視点は、読んだときには欠けていました。

(2022年7月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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博物館の少女〜怪異研究事始め

『博物館の少女』表紙
『博物館の少女〜怪異研究事始め』
富安陽子/作
偕成社
2021.12

〈版元語録〉明治16年、文明開化の東京にやってきた、大阪の古物商の娘・花岡イカルは、上野の博物館の古蔵で怪異の研究をしている老人の手伝いをすることになる。博物館を舞台に、謎が謎を呼ぶ事件を描くミステリアスな長篇。

すあま:とてもおもしろく読みました。古道具屋の娘のままでもよさそうだけど、博物館で働く、というところがユニークでした。実在の人と建物が出てくるところもよいと思います。シリーズ前提の1作目ということなのか、まだ明らかになっていないことがいろいろあります。タイトルはちょっと古くて、魅力のない感じがしましたが、あえて少女小説のタイトルに寄せたのでしょうか。サブタイトルと合わせれば興味をひかれるということなのかもしれません。主人公は13歳ですが、すでにかなりの知識をもっていて、ちゃんと目利きができる。古道具屋で仕事をおぼえるところも読みたかったです。付録があって、地図が載っているので、読む時の助けになると思いましたが、とじ込みではないので図書館の本だとなくなってしまうかもしれません。

しじみ71個分:最初にこの本を知ったのは新聞広告で、富安さんの10年越しの作品ということでとても興味を持ち、出てすぐに買いました。最初から最後まで、流れるようななめらかな文章で、ワクワクしたまま最後まで読み切りました。これは子ども向けの本なのかしら、と思うほどに枠を感じさせないおもしろさでした。個人的には、上野界隈で数年過ごした経験があるので、東京国立博物館の裏手の木々の鬱蒼とした感じなど、とてもリアルに感じることができ、怪異研究所はあの広い敷地のあの辺りなのかな?など想像も膨らみ、本当に、とてもおもしろく読みました。明治の上野界隈のノスタルジックで、少し怪しげな雰囲気は、『夢見る帝国図書館』(中島京子著、文藝春秋)にも共通するところがありますね。明治になって世の中が変わって、大阪から東京に出てきて、すべてにわくわくする感じがすごくよく伝わってきました。主人公の少女イカルがまた大変に魅力的で、大人を負かすほどの文物に関する知識や、鑑定のできる感性を持っていて、とてもお茶目な女の子で、主人公と一緒になって物語の中で冒険できました。どういう怪異がこのあとのシリーズで起こってくるのかがとても楽しみです。今回の物語も、黒手匣の紛失から隠れキリシタンと不老不死の島にまでぶっ飛んでしまうというのも、展開やスケールがとても大きくて、驚くやら楽しいやらで、物語のおもしろさを存分に堪能しました。この先は、まだ登場してきていない町田さんがどう物語の軸に関わって動いていくのかが楽しみでなりません。怪異研究でも、文物の鑑定でも、イカルちゃんがこれからどんな出来事に出会って、苦難を乗り越えて、どう成長していくのかが楽しみです!

コアラ:おもしろかったです。明治時代がよく作り込まれていて、今では使われなくなったものや事柄や言い回しも使われていて、その時代の物語として堪能できました。1回読んだだけですが、細かいところまで読み込んでいくと、もっとおもしろいかなと思いました。子どもには馴染みのない言葉も出てくるので、本をたくさん読んできた子どもで、子ども向けの本に飽き足らなくなったくらいの子にちょうどいいかなと感じました。

西山:すっごくおもしろかったです。この作品には大きな謎があるけれど、その興味にただひっぱられてページを繰るのではなくて、読んでいる間ずっと楽しかった。途中の景色、風物、主人公の発言や感性、ぜんぶおもしろかった。たとえばキリンの場面。初めて見るイカルの目を通したキリンの姿、それへの驚き、それだけでもおもしろいのですが、「イカルの知らない、どこか遠い国の草原で、この麒麟という動物たちが走ったり、歩いたり、草を食べたりしているのかと思うと、それだけで愉快になった」(p.34)と続くところで、なんてひろびろとした愉快な感性だろうとイカルのことがすっかり好きになりました。あと、女の子が働くことへのエールになっているところもうれしかったです。アキラが「男だからとか、女のくせにとか、つまらないことにこだわらず、どうすれば仕事がはかどるか考える頭」を持っている(p.96)というのもうれしかったし、「生まれて初めて、自分自身でかせいだ一円二十三銭だ。自分自身で働いて給金をもらったのだ。そう思うだけで胸がわくわくした」(p.340)というところから、これから広がる人生へのときめきで閉じるラストもよかったです。

ルパン:ごめんなさい、前評判もすごかったし、富安陽子さんだし、ということで期待しすぎたせいか、私は正直そこまでおもしろいという感じではなかったです。好みの問題だと思いますが。歴史的な背景と怪異現象とが中途半端にまざっている感じで、うまく波に乗れないまま終わっちゃいました。

マリナーズ: 非常にさわやかで、魅力的な本でした。大変な境遇にある女の子が、いきいきと前に向かって進んでいく、元気の出る作品です。特に前半3分の1は、新しい場所で冒険が始まり、いろいろな人たちとの出会いが続きます。楽しく読ませよう、という読者サービスが徹底していることに感嘆しました。もっとも、黒手匣が登場してからは、長く感じるところもありました。話の展開上、同じ場所に2度忍び込まなくてはいけないのはわかるのですが、何かを見つけるとすぐ足音が聞こえてくる、など、似たパターンの描写が多くて、若干ダレました。あと、文章で間取りを説明するのは難しいのだな、と感じます。どこかへ必死に逃げているのですが、建物全体の作りが把握できていないので、緊迫感を感じられないところもありました。読み終わってから別添の資料に気がつき、意外とシンプルな間取りだったのだなと思いました。最後まで来るとカタルシスがあるので、そのあたりの冗長な部分も必要なものだったのだ、と納得できます。おみつの存在が非常に印象深かったです。あと、細かいところですが、p.171の上野動物園の「ケンゴロウ」ってなんだろうと一瞬考えて、カンガルーか! と気づいたときは笑いました。

サークルK:とても楽しく読み進みました。登場人物がいきいきしているし、私も上野の博物館界隈はとっても好きなので。黒手匣の謎解きが、最後に凝縮されているので読む速度のピッチが上がりました。表紙の雰囲気も裏表紙とつながっていて、実は重要な登場人物もさりげなく書き込まれているところが、読後に「そうだったのか」と思わせてくれる粋な図らいに感じました。朝ドラのヒロインのように、主人公が周りの人の温かさに応援されて自分の境遇に負けずに成長していくというところが爽快でした。続編が待ち遠しいです!

花散里:私も『夢見る帝国図書館』を思い出させるようなおもしろさを感じました。上野の国立博物館から寛永寺辺りは好きな場所ですが、図書館で借りた本には付録の地図はなかったので、子どもたちには歴史的な設定など物語の雰囲気が想像しにくいのではないかと思いました。13歳で目利きの才があるというのも無理があるように感じました。アキラの存在などはもっと伏線があってもおもしろかったのではないかと思いました。物語の結末が分かってからの最後の章はなくても良いように思いましたが、富安さんの作品の中では個人的にはいちばん好きな作品だと感じました。

さららん:生まれ育った場所と作品舞台が近いせいで、タイトルを聞いたときから、この本を身近に感じていました。両親を失ったものの、よき人たちに囲まれ、父親から叩き込まれた審美眼で自分の力で人生を切り拓いていく主人公のイカル。トノサマ、アキラなど脇役の描写も巧みで、怪異研究所という設定や、事実を積み重ねながら黒手匣の謎を解明していく展開にもそそられます。親友となる川鍋暁斎の娘トヨも頼もしい存在で、続編では暁斎も活躍するのかなと、期待がふくらみます。実在の人物名(例えば博物館の初代館長の町田さんや、二代目館長田中さん)を物語に取り込んだうえで、架空の人物を存分に活躍させる構成はよくありますが、その人間関係やセリフに厚みがあり、引きこまれました。見事な日本語で紡がれた物語で、優れた書き手から十分なおもてなしを受けたという感じがします。

アカシア:黒手匣、明の正体、ロッシュやおみつの存在など、謎がたくさん用意してあって、それで引っ張るし、時代考証もちゃんとしてあるので、フィクションは苦手という子でもどんどん読めるんじゃないかと思いました。イカルは、西山さんもおっしゃっていたように、この時代にあっても積極的で勇気ある存在に描かれているのがいいですね。舞台が明治期の博物館というのも、「怪異」を研究する場所だというのも、おもしろい! ただp.247-248で、アキラが床の下で会話を聞いているだけなのに、「黒手匣があるとしたら、聖堂以外は考えられない」というのは、ちょっと無理があるかもしれません。1つ1一つの文章を味わいながら、極上の読書体験ができました。

アンヌ:とてもおもしろくて、続きが待ちきれないほどです。始まりの座敷の怪異現象のところなどは、よくある話なので少しがっかりしたのですが、そこに超能力者らしい前館長が絡んできて、おまじないをし、手を開かない工夫を母がしてくれたという記憶をたどるところが、新鮮でとても素敵でした。わたしも、しじみ71個分さんがおっしゃったように、前館長に早く会いたいです。黒手匣の怪異話もあまり意外性がなく、この事件に絡む神父は、1人にしておいた方がすっきり読める気もしました。でも、それよりなにより、この主人公が魅力的でした。道具屋の女も認めるほどの目利きで、独りで知らない江戸も歩く勇気がある。私の持論に「孤児はお屋敷の扉をたたく」というものがありまして、たった1人で知らない場所に行くから物語は始まると思うんです。そのお屋敷が博物館!これは最高の物語になるぞと思いました。イカルは沈黙を強いられる養家から古蔵に行き、様々なものの知識をペラペラしゃべりだします。このお喋りな女の子には見覚えがあるぞと思い出したのがモンゴメリの『赤毛のアン』でした。先ほど、すあまさんが「少女小説」のような題名と言われたのにも納得がいきます。そして、p.333で唐突に義姉妹の約束を交わすトヨはダイアナではないでしょうか?ダイアナのようにトヨもちょっと体の大きいふっくらした女の子でした。実は私はのちに河鍋暁翠になるこのトヨに興味があります。『がいなもん 松浦武四郎一代』(河治和香著、小学館)では松浦から話を聞かされる狂言回し役として登場しますし、去年の直木賞の『星落ちて、なお』(澤田瞳子著、文芸春秋)の主人公でもあります。この時代の女の子にしては父親の弟子として様々なところに出入りをし、自分1人でも仕事に出かけるトヨは、明治の東京をイカルに案内するのに最適な役なのだろうと思います。続編には、暁斎も出てくるのだろうかとか、稀代の収集家である松浦はどうだろうかとか、ワクワクしながらこの2人の活躍を楽しみにしています。

ネズミ:刊行されたすぐに手にとったのですが、まず登場人物が魅力的でした。たとえばイカルの人物像が、博物館に初めて入ったときの驚き、古道具屋に入ったシーンなどで、説明的な言葉を使わないでくっきり浮かびあがるといったふうに、随所の描き方がすばらしい。大人の存在感が希薄なことの多い日本の児童文学作品の中にあって、まわりを固めている大人の人物が立体的に描かれているのもすごいなあと思いました。フェミニズムとは書いていないけれど、物語全体が女の子を応援するものであり、男女や年齢、職業その他で人を差別しない意識が感じられます。富安さんは現代のお話も書いていますけれど、この物語は少し昔の時代に舞台を置くことで、登場人物を自由に遊ばせられたのかなと思います。もちろん時代考証のためにたくさんの資料にあたられたとは思いますが。イカルとアキラとトヨとトノサマなど、一部の名前にカタカナが使ってあるのは、ひらがなでも埋もれてしまうからでしょうか。音だけで響いてくる感じがよかったです。

雪割草:冒頭から物語の世界観に引き込まれました。道具屋だった父親の商いの様子を、主人公がよく見て自分なりの感性で受けとめていることがわかり、道具屋を知らない読者にも、空気感含めその場がよく伝わってくる描写でした。物語の時代への興味がかきたてられましたし、時代は違っても、不安やわくわくする気持ちなど主人公の心の動きに読者もよりそいながら味わうことができました。この年齢にしては能力がありすぎにも思いましたが、マニアックなところはよく、そういう好きなものがある子への応援のメッセージにもなると思いました。付録がついていたのを今の今まで気がつきませんでしたが、地図はいいものの、登場人物まで視覚化しなくてもいいかなと思いました。

オカピ:仕事ものであり、成長譚であり、ミステリーや怪奇小説の要素もあり、ほんとうにおもしろく読みました。作者がこの時代のことを詳細に調べて、自分のものにして書いているのもすごいのですが、なにより文体の美しさに魅了されました。所作をあらわす言葉ひとつとっても、香るような言葉が物語にぴったり。これはYAなので、難しめの言葉を使えたというのもあるかと思いますが。富安さんの渾身の作だと思いました。大阪弁がぽんぽんはいってくるのも、作品の勢いにつながっています。人の生と死について考えさせるラストもよかった。人知を超えた不思議もこの世にあるという、希望のある結末で、これは書き手の力だなあと。ちょっとわからなかったのは表紙の英語タイトル。”A Girl at the Museum” となっているのですが、これはイカルのことなのだから、”The Girl at the Museum ” のほうがしっくりくるように感じました。

アカシア:この時代のどこにでもいる少女、というニュアンスを出したかったのかもしれませんよ。

エーデルワイス:最初の構想では少年「アキラ」が主人公だったと聞いてびっくりしました。主人公が少女「イカル」でよかったと思います。表紙を見たとき一瞬、富安陽子さんは時代劇小説に移ったか?!と思いましたが、明治を舞台に実在の人物も盛り込み、本当におもしろく読みました。附属のリーフレットを見た時はわくわくしました。登場人物のイラストと紹介や上野界隈の地図など、この本を読む子どもたちにもよい導入と思います。続編が楽しみです。

シア:とってもおもしろかったです。人気が高いのもうなずけます。絵や装丁も凝っていて、偕成社さん力を入れているなと感じました。付録のおかげで裏表紙におみつがいることに気づきました。明治時代のレトロな感じがしゃれていて、関西とは違う異国情緒真っ盛りの上野の輝きをイカルの驚きで表現してくれています。イカルの目利き能力や好奇心旺盛な性格も楽しめました。目利き能力については、こういう環境で育っていたらそうなるんじゃないかなと思います。似たような時代物の『はなの街オペラ』(森川成美著、くもん出版)よりも想定年齢は高いので、幅広い年齢層が読めそうです。ただ、読書家にとって満足度の高い本なので、本にあまりなじみのない子で、とくに女の子だと、もしかしたら『紙の心』の方がおもしろいかもしれません。イカルの幼少期の体験などから見知った怪異が出てくるのかと思っていましたが、珍しい方面からの話だったので意外性が高かったですね。そのおかげで大人っぽい余韻の残る良い話になりました。日本書紀は知らなくとも、有名な玉手箱の話で子どもも納得できる展開になっていると思いました。中高生に人気のある漫画にも非時香果が出てくるので、知っている子はより親近感がわくのではないでしょうか。そして、実在している人物や場所が登場するので、そのことについて調べたり、その場所に行ってみたくなると思います。教養を得るきっかけになりますね。とくに上野博物館は社会科見学や地方だと修学旅行などで行くことが多いと思うので、児童文学として出してもらえてとても嬉しく思います。神田天主堂はカトリック教会だからレノーも神父と表記しているところも細かいですね。また、付録がよくできています。図書館側からするとこういう本から離れてしまう付録は面倒ですが、補足や博物館の敷地や地図などわかりやすく書いてあります。視覚的な図は文章だけでは追いつかない子どもの理解の助けになります。地方や上野を知らない子の支えにもなったと思います。カラーなのも良かったですね。話の内容だけではなく、文体がとにかく綺麗で、言葉遣いもそうですが立ち居振る舞いが古風で美しく、目をみはりました。奥ゆかしさを始めそういう表現が随所にあり、イカルの育ちの良さを思わせます。関西弁も滑らかでした。後半のアキラとの関係も慎ましくて、明治の女の子らしさが垣間見えて良かったです。そしてそういう表現ができる作家さんは貴重なので、ぜひ続編をと、期待しています。ただ、この時代考証がしっかりしているため、「新しくお仕えする者は、だれより早く仕事場におもむき、上役のお出ましをお待ちするのが筋ですからね。」(p.122)という部分に、日本の仕事に対する姿勢の歴史の古さを感じて、少し頭が痛くなりました。とはいえ、女性のイカルは低く見られているのでボランティアなのだろうかと思っていたので、お給料がもらえてほっとしました。ところで、ケンゴロウというのは、カンガルーの過去の和名かと思ったのですが、カンガルーの聞き間違いなのですね。

ハル:みなさんのご意見がうかがえてよかったなぁと、いつも以上に、今日はしみじみ思います。読みやすく、時代設定も好きで、わくわくしながら読みましたが、「おもしろかった」以上の感想を持てずにいましたし、一方では「児童書なのかな?」とも思っていましたが……『赤毛のアン』! そう言われてみると確かに、枠というのか、ある種の様式美的なものも感じますね。わぁ、すごく腑に落ちました。著者も意識していたのでしょうか。そんな観点で、もう1回読みたくなりました。ありがとうございました。

西山ところで、ちょっと気になったのは、p.262の「あったりまえのコンコンチキや!」というところ。「あったりまえのコンコンチキ」って、ちゃきちゃきの江戸っ子の口調のイメージがあるのですが……。

シア:確かに「こんこんちき」は関西では聞きませんね。そもそも、今の時代使っている人がいないのでなんとも言えませんが。

(2022年6月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

 

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紙の心

『紙の心』表紙
『紙の心』
原題:CUORI DI CARTA by Elisa Puricelli Guerra, 2012
エリーザ・プリチェッリ・グエッラ/作 長野徹/訳
岩波書店
2020.08

〈版元語録〉「はじめまして、だれかさん! 」少年はある日、図書館でほこりをかぶる本の間にはさまれていた手紙を見つける。顔も名前も知らないまま文通を重ねるうちに、思いをつのらせるふたり。お互いの日常をつづるなか、ふたりが暮らす「研究所」の不穏な実体が暴かれていくが……。紙のようにもろく燃えやすい心を繊細にえがいた青春書簡小説。

ハル:顔を合わせない相手と、文字だけのやりとりでどんどん盛り上がっていって、口では言えないようなことも、文字でなら言葉にできて……そういう初々しさというか、瑞々しさというのは、わかるなーと思いながらも、ちょっともう見てらんないような気持ちにもなり、序盤で「えー、まだこんなにページ残ってるのに、どうするの?」と思ったのが正直なところです。もう少し早めに物語が動きだしてほしかったです。だけど、「訳者あとがき」の情報によると、イタリアの中学生の支持を集めているということなので、同年代の子たちにしたら、飽きるなんてこともないのかなぁ。そして、ここまで我慢して読んだんだから、これはきっと、とんでもないホラーが待っているのだと期待しすぎてしまったのもあって、結末にも驚きを感じませんでした。主人公以外の子どもたちは、どうなったんでしょうね。

シア:非常におもしろかったです。表紙に原題を大きく入れていておしゃれだと思いました。絵もさわやかな感じで良かったです。内容はさわやかではありませんでしたが。もっと近未来の話だと思っていたのに現代なので驚きましたし、ありえそうな話なので余計に考えさせられました。海外ではロボトミーを元にした話は結構多いので、わりとトラウマなのかなと思いました。半分以降からは一気に読みましたが、もどかしい恋愛ものは苦手なので、序盤はかなりイライラしながら読みました。ユーナがダンに会おうと言い出したので、これはページをめくったら急展開して、やっと研究所の謎についての話になるんだなと思ったのに、やっぱり会えないなんて尻込みするユーナがめんどくさすぎです。チラ見せは上手いのですが焦らされるので、惚気はいいから早く研究所の謎を! と別の意味でハラハラしてしまいました。「ウイルスのせいで全人類が滅亡して、ぼくたちだけが生き残った、そんな映画の一部みたいだ」(p.42)とあり、世界は平和なのかと肩透かしをくらいました。研究所内に鏡がないこととか白い制服や謎の薬など、いろいろと怪しい要素はあったのですが、蓋を開けてみればそこまで大仰な話ではなくて、少々やりすぎな感じもしました。シャワーが10分だけとか、職員が急に乱暴な口調になったりするところは管理される怖さが表れていると思います。この本は書簡体なので2人のタイムラグのようなものが出るところはおもしろかったです。メールなどで展開しそうですが、場所が場所なので手紙というのが研究所の異様さが出ていて好きですね。ただ、偶数時と奇数時でやり取りし合うというのがよくわからなくて、1時間いたら会ってしまうじゃないかと思ったんですが、2人は図書館あまり利用しないんですかね……。それにしても、最近はいわゆる毒親の話が増えてきたように感じます。親の影響力や圧力が注目され始めたのは、親子の関係性や教育を見つめ直す良い機会だと思います。「涙の壺」という表現もとてもロマンチックですが、涙が流れるような状態にしなければいいのではないかとユーナのお父さんに問いたいです。また、若者にはスポーツをさせておけば良いという今の学校教育の甘さも指摘されているように感じて、この辺はもっと主張したいですね。室内で読書をしている子がいたって良いと思います。「ぼくは、本を読めばいろんな場所に行けるんだ、って言い返したかった」(p.85)というダンの台詞がこの本の真のハイライトだと思います。この本には有名な児童文学がたくさん出てくるので、まさに『紙の心』だと思いました。あとがきで各作品について説明してくれているので、子どもたちが興味を持ってくれると良いと思います。でも、メインとなる『プークが丘の妖精パック』は日本人になじみのない本なので、子どもならさらに厳しいのではないでしょうか。題名を読めるのかどうかも心配。『プーク“が”丘の妖精パック』などと読みそうで不安です。気になったのは、「それから、トン川は食いしん坊に」(p.34)という訳がよくわかりませんでした。豚でしょうか。トンカツ? こういうときに訳者の苦労が窺えます。それから、「傷跡は、インディアンが戦いの前に描いて、誇らしげに見せつける、戦いのしるしみたいなものだ」(p.227)とあるのですが、“インディアン”という言葉は今は使わないと思います。

エーデルワイス:おもしろく読みました。主人公たちが暮らす施設を想像しました。清潔だけど、無機質で同じような部屋を移動するのですね。迷いそうです。「××をダンより」のように、形式的な手紙のやり取りをしていますが、顔が見えないほど想像力が働いて心が燃えていくのかもしれないと思いました。そして今どきの若い人のSNSの恋のやりとりも同じようなことかもしれないと思いました。終盤、研究所が火事(放火)で焼けて施設にいた子どもたちが助かるのですが、子どもたちはどうなっていくのでしょう? 元の家に戻るの? ちゃんと生きていけるのでしょうか? 心配です。親にとって都合の良い子ども、デザイナー・ベイビーなど問題提起のお話と思いました。主要なダン、ユーナたち5人は友人同士で、名作の登場人物からつけた仮の名前で、施設では番号とアルファベットで呼ばれ、本名は最後まで明かされませんでした。あえて必要なかったのでしょうか? 5人は元気に幸せに生きていけそうで安心しましたが。

オカピ:管理された場所にいる主人公たちが、人を愛することで、その生活に物足りなさを感じるようになる過程が描かれていて、おもしろく読みました。記憶すること、文字に残しておくことについて考えさせます。何を忘れて、何をおぼえておきたいかが人をつくるのだなと。「興味津々な人よ」(p.16)、「興味津々なこと」(p.107)という言い方は、話し言葉としてなじまないというか、ちょっとしっくりきませんでした。

雪割草:読んでいて最初の方でうんざりしてしまい、途中で休憩しました。イタリアだから情熱的なのかな、精神的に辛い経験をした子たちだから、心の拠りどころをもとめているからなのかなとは思ったものの、お互いを求めすぎていて、ついていけませんでした。近未来のテーマで人間がなんでもコントロールしようとするところから、『泥』(ルイス・サッカー著、小学館)を思い浮かべました。この研究所では、辛い経験を忘れさせるための治療をしていますが、それに対して主人公らが、忘れる以外の方法で生き抜く方法があることに、気がついていくところはいいなと思いました。あとがきにイタリアの中学生に支持されているとありましたが、日本語訳では訳はしっかりしているのはわかるのですが、若い人には受けない文体・言葉遣いだと思いました。それから、手紙でやりとりしている設定ですが、やりとりがすごく頻繁で手紙によっては長文で、ほんとに手紙なの?と思ってしまいました。

ネズミ:秘密をさぐりだそうとし始める後半からは、それがフックになってどんどん読めたのですが、2人のやりとりが中心の前半は、内容の問題なのか、文体のせいなのか、途中であきて、投げ出しそうになりました。後半はひきこまれたものの、都合のよい展開が気になりました。たとえば、骨形成不全症のポルトスが走るなど、ありえないだろうとか、どこかに潜入する計画が、たいがいうまくいくとか。体裁としては、ダンとユーナの手紙の書体を変えてあったらもっと読みやすかったかと思ったのですが、この本はキンドルでも出ているので、電子版を出すにあたって、書体が限られていたのだろうかと思いました。

しじみ71個分:書体に変化を持たせられるのが紙の本だけなのであれば、紙の本ならではの魅力になりますのにね。

シア:『はてしない物語』(ミヒャエル・エンデ著、岩波書店)では文字の色が変わっていましたね。

アカシア:紙の本ならではの工夫が、もう少しあってもよかったのにね。

アンヌ:書簡体小説は好きなので、それなりにおもしろく読み進んでいったのですが、いきなりp.14で「キスとハグを」と出てきたのでびっくりしました。これがただの挨拶なのが、外国小説という感じですよね。全体にSF的な設定が実に曖昧で、この研究所のセキュリティの甘さとか、最後に種明かしされた後も納得できないことが多いです。2人が実際に会わないところも、薬が効いているせいなのかと思ったりしたのですが、でも、それにしては男の子が3人いればやるような冒険に、あっさりダンは出かけたりしますよね。意志までが削られているわけではないらしいので、不思議です。最後まで行きついても、この5人がこれからどうなるのか、放火の罪に問われたりしないかとか、そのハッカーは大丈夫かとか、親との関係は何も解決してないままだとか、いろいろ後味が悪い思いが後を引いてしまい、読み返す意欲がわきませんでした。

アカシア:この本は時間的なリアリティがおかしいんじゃないですか? 手紙の交換で物語が進んで行きますが、1人が書いてから、休み時間にそれを図書館に持っていって本に挟む。それが偶数時だとすると、もう1人は、顔を合わせないために奇数時まで待ってから取りに行って、それから返事を書いて、次の奇数時の機会に図書館に行ってその返事をおく。そういうまだるっこしい方法でやりとりをしているので、たとえばp.115の最初の5つの文章はどれもユーナが書いたものですが、5つ目の文章を書くまでに、どんなに少なくとも9時間くらいはたっている計算になります。でもね、そういう計算だと成り立たないところがいっぱい出てきます。私は物語の構築を支えるリアリティにこだわる方なので、最初のときは途中で読む気がなくなって放り出してしまいました。それから、ダンたちは決死の覚悟で保管所に入ろうとするのですが、そこまでの展開では、保管所に何か重大な秘密があるというふうには読み取れなかったので、なぜそこまで?と思ってしまいました。全体としてすぐれた作品とは、残念ながら思えませんでした。

さららん:今回に関しては、訳者の文体と原文のスタイルが合わなかったのかな。私もみなさんと同じで、書簡体の形をとっているとはいえ、この世代の子たちの日常会話にリアリティがないように思えました。また研究所の中では、子どもたちの動きを阻止しようとする大きな敵は現れません。ダンたちに敵対心を燃やすカーという少年はいるけれど、それは体制側とは関係がない。戦う相手の顔が見えず、豆腐の中に手を埋めるような頼りなさを覚えました。でもひょっとすると、そこがおもしろさなのかも。色々な本の要素が出てくるところもいいし、あとがきも優れているけれど、ディストピアとしての物語に既視感があって、未知のものを解き明かす興奮がなかったのは残念です。

花散里:岩波のSTAMP BOOKSは出版されると期待して読むのですが、この作品が出版された2020年に読んだとき、書簡体で物語が進んで行き、今どきの中高生がどう読むのかなと思いながら読んだことを思い出しました。今回、読み直して、スマホに常に依存している日本の子どもたちが、図書室の本に挟んだ何通もの手紙のやり取りに対して、果たしてどう読むのかなと改めて感じました。前半の書簡体で続くストーリーは、今回も読みにくいと思いました。研究所の秘密が分かっていたということもありましたが、物語のおもしろさが感じられませんでした。巻末に本文に出てくる文学作品の紹介が入っていたり、図書室でのやり取りが舞台だったりしますが、読み返そうという作品ではないと思いました。

サークルK:手紙の部分のやり取りが長かったので、少しもどかしい思いをしながら物語を読み進めました。なぜこんなやり取りや状況に子どもたちが置かれているのだろう、という読み始めからの疑問が次第に解き明かされていくところは、『わたしを離さないで』(カズオ・イシグロ著 早川書房)を思い起こしました。誰に恋しているのかも実際にはわからないのに、よくこんなに妄想をふくらませながら、手紙で情熱を傾けられるなあと苦笑する表現もありましたが、イタリアの中学生にとても人気があったというので、興味深く感じました。こうやって練習(!)して、愛情表現の達人になっていくのかしら、と。小さな世界に閉じ込められて、監視されたり、洗脳されたりするさまは残酷なディストピア小説のミニチュアのようで、『1984』(ジョージ・オーウェル著 早川書房他)をほうふつとさせましたし、39章で「ワールドニュースオンライン版」という記事を使って、状況が説明されている構成は、『侍女の物語』マーガレット・アトウッド著、早川書房)の掘り起こされたカセットテープをめぐる研究者のレポートを思い出しました。物語を読んだ子どもたちがやがて上に挙げた大人の小説に巡り合った時、こんなイタリアの児童文学があったっけ、と逆照射されて思い出してもらえるかもしれません。

マリナーズ:お国柄の違いを感じながら読みました。日本で、中学生くらいの男女が同じように文通し合う物語だったら、こんなふうに恋の駆け引きっぽい言葉をやりとりして楽しむ感じにはなかなかならない気がします。実は、以前、1度読みかけたのですが、p.111あたりからの、お互いの容姿についてあれこれ想像し合うところでうんざりしてしまって、いったんやめたのでした。今回、読み通せてよかったです。後半に行くにつれて、主人公2人の苦しみや、ここに入るまでの経緯が明かされて行きますが、その明かし方が説明的なせいか、切実さがどうも伝わりにくいように思いました。でも、性格を変えることについて、身内が了承している、ということのせつなさ、やるせなさは感じました。自分のアイデンティティを考える、というテーマ自体はとてもよかったです。

ルパン:しょっぱなでつまずいたのは、このやりとり、イタリア語なのにどうして相手が男か女かがわかるんだろう、ということです。見知らぬ相手なのに、はじめから男女の区別がついているのって不思議でした。しかもすぐに恋に落ちるし。そのうえ、やたらに容姿の話が出てきますよね。相手がその子がどうかもわからないのに「赤毛の女の子が好きなんだ」なんて言ったり、デブだったり青白かったりしたらどうするの、みたいな文面もあるし。ヨランダが実際のポルトスを見て思いっきりけなす場面では本当に気が滅入ってしまいました。容姿に自信のない子がこれを読んだらどう思うんだろう。

アカシア:イタリア語だと形容詞などに女性形と男性形があるので、相手が男か女かはすぐわかるんじゃないかな。

西山:ほとんど言い尽くされている感じです(笑)。この研究所にどういう秘密があるのかという興味で読み進めましたけれど、先が知りたいだけでその場その場の描写とか、感覚とかを楽しむという読書の快楽はありませんでした。イタリアのお国柄というのもあるのかもしれませんが、こんなにすぐ男の子と女の子が恋愛感情で盛り上がり、延々それを読まされるのにうんざりしたというのが正直なところです。若い読者なら誰もが恋バナ展開にのめり込むかというと、そうでもないんじゃないかなと思っています。というのは、ジェンダー関連の授業で、何かの問題を男の子と女の子が一緒に取り組んで解決してきた物語で、最後の最後に性的な視線を差し込んで、「恋の始まり」みたいな展開にするのに出会うたびにがっかりするんだよねということを、おそるおそる話した回があったのですが、思いの外共感のコメントが多くて、恋愛テーマじゃないのに恋バナにするドラマとか多すぎるとか、子どもの頃仲のいい男女がからかわれることで気まずくなったとか、嫌な思いをしたとかそういう体験が続々とあがってきたのです。「10代は恋バナ好きにきまってる」という思い込みもそろそろ相対化した方がよいと思っていたところでこの作品を読むことになったので、否定的な感想になっています。あと、ユーナがどんどん受け身になっていって、つまらなくなっていったのが不満でした。本に手紙をはさむというユーナの魅力的な行動から始まったのに、ただただ、「待つ女」になってしまって……。ヨランダといっしょに研究所の秘密に迫っていけばよかったのに……。図書室の本を介した手紙のやりとりとは思えない、ラインのようなやりとりになってしまうところも興ざめでした。

コアラ:以前、本屋さんでこの本を見かけたときに、はじめのほうをちょっと読んで、いまいちかなと思ってすぐに棚に戻してしまったんですけれども、今回最後まで読んで、悪くはない本だと思いました。書簡体小説だと、お互い相手を騙すこともできるし、作者と読者の関係としても、作者は読者を騙すこともできるけれど、ダンもユーナも騙すことなく、お互い誠実で、作者と読者という関係でも作者から騙されることがなかったので、その点ではすっきりしてよかったと思います。研究所の謎とされたことが、少年少女たちの人間的な欠点の除去で、親の望み通りの人間に作り変えられてしまう、ということだったんですが、読んでいてそこに大きな衝撃はあまりありませんでした。そもそも、記憶を無くす薬を飲んでいる研究所というのが不気味で、そこがそもそもディストピアだなと思いました。訳者あとがきに、この本に出てくる本の紹介が書かれてあるのは、よかったと思います。

しじみ71個分:私も、みなさんが既に言われたのと同じように、前半の2人の手紙のやりとりがちょっとかったるいなと思い、読んでいて休憩をはさんでしまいました。また、ユーナかダンか、どっちがしゃべっているかわからなくなっちゃうところがあり、見た感じでパッと分かりやすい工夫があったらよかったなと思います。手紙のやりとりが頻繁すぎて、時間の経過もわかりにくい点がありました。ただ、著者はこういう書簡のやりとりで、心をかわし合うという形を描きたかったんだろうなと思います。頻繁すぎて、チャットのようではありましたが。作品を通じていいなと思ったのは、2人の書簡体の形をとりながら、過去の児童文学作品の紹介をしているところです。また、人と人とのコミュニケーションのツールとして本を使うという設定にも共感しました。『紙の心』というタイトルには、手紙に乗せた自分の心というだけではなくて、本を通じて交流するという意味もあったのかなとも思います。大人にとって都合の悪い、「いらない子ども」を除去してしまうっていうのは恐ろしいことで、本のテーマとしてとても重いと思ったのですが、結果が意外にソフトで、もう少し、ドラマチックな、誰かが死んだり、廃人にさせられてしまったりとか、おどろおどろしい展開があった方が、テーマがもっと生きて、物語も生き生きとしたのではないかなと思います。『私を離さないで』くらいのディストピアがあってもよかったかなと。また、表紙の絵を見ると、ガラス張りのとても近代的な建築物として描かれているのに、火事で燃えちゃうんだ、木造なんだ、というところはちょっと拍子抜けしてしまいました。建物が燃えただけで逃げられちゃうんだなというところは、少しあっさりしすぎていたかもしれません。前半の書簡体の恋愛部分が重くて、後半のスリリングな展開とのバランスがあまり取れていないのかもしれないと思いました。

すあま:読みながら、『ザ・ギバー』(ロイス・ローリー著 講談社)を思い出しました。忘れたい記憶をなくすことができる薬があったなら、犯罪被害者や虐待にあった人など、飲みたいと思う人がいるかもしれない。この物語では、さらにエスカレートして親の望む子どもに変える、という恐ろしい話になっています。逆に子どもが望む親にすることができたら、と思う人もいるのでは、とも思いました。現代の子どもが抱えている問題を解決することができる近未来の世界を描いているようで、実は大人にとって都合がよい、純粋無垢な子どもに変えようとする、時代を逆行するような話になっていきます。近未来の世界のようなのに、紙に書いて本にはさむという、古典的な文通の形をとっているのがおもしろいと思いました。メールやラインでコミュニケーションをとっている今の子どもたちにはかえって新鮮なのかなと。ラストはあっさりしていて、結局は親から逃げ出した、ということで終わったようで、ちょっと物足りない感じがしました。

(2022年6月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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荒野にヒバリを探して

『荒野にヒバリをさがして』表紙
『荒野にヒバリを探して』
原題:LARK by Anthony McGowan, 2019
アンソニー・マゴーワン/著  野口絵美/訳
徳間書店
2022.02

〈版元語録〉ヒバリを見るため、犬のティナを連れて、田舎へハイキングに出かけたニッキーと兄のケニー。ところが季節外れの雪で道に迷い…。ヨークシャーの荒野を舞台に、兄弟、家族の絆をドラマティックに描く。2020年カーネギー賞受賞作。

サークルK:表紙の絵がソフトな感じだったので、2人の兄弟が雪の中で遭難しても最後は助かるのだろうな、と予想しながらも、本当に助かるのだろうか、どんな形で助けがくるのかとても気になって、ぐいぐい読みました。けれど、そのストーリーを追いかけ終わってしまうと、思った通りのお話だったと安心してしまい、強く印象に残ったことを時間をおいて思い出そうとしても、なかなか難しかったです。おそらく引っかかるところがあまりなく、とにかく救助を急げ!という気持ちでしか読めなかったからかもしれません。「40年後」という形での振り返りが書かれているのは親切だと思いました。ケニーが兄に看取られる場面では、その後のニッキーの結婚生活や子どもたちのことも垣間見られて、本編のたった1日の出来事が、「その後」のファミリーにとても重要な役割を果たしていたことがわかりました。

すあま:どんどん大変な状況になっていき、とにかく早く助かってくれ、という気持ちで読み進めました。1日の出来事を描いているんですが、回想の中で2人のことがどんどんわかってきます。読みながら2人に共感していき、最後何とか助かって、ほっとして終わったという感じです。

西山:前回読んだ『青いつばさ』(シェフ・アールツ著 長山さき訳 徳間書店)と構図が一緒なんですね。知的障害を持つ兄と兄を支えるという責任を負う弟2人の、冒険。途中からサバイブできるのかっていう興味で読ませますが、出だしからしばらくは、語り手である弟の「おれ」のものの感じ方、考え方をおもしろく読んでいました。例えば、p.29の最後、車の通る道路から遊歩道へ入ったときに「本を読みはじめたときに似ている」と言ったり、p.74のキジの描写の美しさ。つづく丸焼きはうって変わってひどい臭いが行間から漂い出すような惨状ではありますが、ともかく、キジの姿が目に浮かぶような描写でした。p.81の痛みに関する考察もとてもおもしろかった。崖から落ちて、2人の状況が危機的になってからは理不尽だという思いの方が強くなりました。p.27でティナに危機が訪れそうな、フラグは立っていましたが、ティナの死は人間の不用意でもたらされたものです。なんだか、いい話のようにまとめられた気がしますが、ティナを死なせてしまったことに「おれ」はもっと傷つくべき、悔やむべきでないのでしょうか。人間は死なせなくても動物は殺す。そのドラマ作りには私は違和感を持っています。ところで、「ジョージなんて古くさい名前のやつ、今どきいるか?」(p.109)にはっとしました。日本以外でも、時代によって名前の流行り廃りがあっても当然ですが、考えたことがなかったので。キラキラネームみたいなのあるんでしょうかね。

ルパン:ともかく、この2人の子どもがどうなってしまうのかが心配で一気に読んだのですが、そのためか、読み終わったあと何も残らず…はて、何の話だったかな?という感じでした。表紙の見返しに「家族やこの数年間のことを思い出す」とあるので、ああ、そういうことか、と思いましたが、お母さんが出て行ったことも、お兄さんに障害があることも、お父さんが依存症のことも、それぞれ大変なことなのでしょうが、この生きるか死ぬかの遭難の事実のほうがよっぽど重くて、逆に家族の問題が軽く思えてしまいます。ちょっと手法をまちがえたかと…。犬のティナのえらさだけは印象に残りましたが。最後に、数十年後のことが書いてあって、あれ、ふられたはずの女の子と結婚してる、とか思いましたが、こういう蛇足はそんなに嫌いじゃないです。

ヒトデ:はじめのうちは、ハードボイルドな語り口と、書籍のページ数と文字組から想像した内容とのギャップに驚かされましたが、物語のつかみのうまさに引き込まれ、この2人はどうなってしまうんだろうと思いながら、最後まで一気に読み進めました。なんとなく映画ギルバート・グレイブ」を思い出すような兄弟の物語が印象的でした。2人がはじめて空港にいくシーンが、とてもいいなと思いました。最後のエピローグで、一気に時間を飛ばしてしまったのには、少し驚かされましたけど、ティナやサラの伏線を回収していくためには、必要だったのかしら、とも思いました。読めてよかった作品でした。

雪割草:巧みな語りなのだろうと思いましたが、正直、心が入っていけない作品でした。その理由の1つが、主人公の「おれ」という主語で、古臭い感じがしました。最後の方で、主人公がおじさんになっていて、語り手はおじさんの設定だったのだろうか、であればと少し納得しました。「おれ」は、おじさんぽい言葉遣いが多々あり、たとえば、p.109の「『あの人、偉そうにしないのね。素敵』女の子が言う。おれは…」などです。一人称の語りなので、地の文でももっと「おれ」を省略してほしいと思いました。p.124には、点の打ち忘れか空白があり、p.120の「最悪のことはまだ、もっとあと…」とくどい感じの文、p.8の「灰色の空が、どこまでもどんより広がっているだけなんだ」とすわりが悪く感じられる文、それから全体的に文がばらばらに感じられて、原書を読んでみたいと思いました。それから、ティナは死なせなくてよかったと思います。

エーデルワイス:自然の厳しさがよく出ていました。私は以前よく山に登り自然に親しんでいましたが、方向音痴で誰かと一緒でないと道に迷うタイプで、一歩間違うとこのように遭難しそうです。しかし、ちょっとしたハイキングであっても、最低限の水、食料、防寒具など持参するもの。ニッキーとケニーは甘かったと思います。宮沢賢治の『虔十公園林』をストーリーテリングで覚えている最中で「ひばりは高く高くのぼってチーチクチーチクやりました。」の一節がこの物語とダブりました。死んでしまった犬のティナを、救助の人にニッキーが必死に埋めるように頼むところが納得できず、私だったら連れ帰るのに……と思いましたが、あくまで兄のケニーのことを思ってのことなのですね。

マリナーラ:短いお話なんですけれど、ずっと緊迫感がありました。もうさすがにそろそろ助かるだろうというあたりで、水かさが増してきてピンチが発生して、ページを早くめくりたい気持ちと、めくるのが怖い気持ちが両方ありました。主人公の大変な歩みが、回想の中に垣間見えて、でも、多くは語りすぎないところに余韻がありました。映画『127時間』を思い出しました。アメリカが舞台で、峡谷で岩に手が挟まれて抜けなくなって、だれも助けに来てくれない、という話です。ところで、ヨークシャーといえば、私のなかでは『嵐が丘』だったので、そのイメージも重ねながら読んでいたのですが、後で地図を見たら、この国定公園とブロンテ姉妹の故郷は100キロくらい離れていました。

ハル:心に余裕がないからか、私はちょっとうんざりしてしまいました。下品な笑いが苦手なのもあって、途中まで、私はいったい何を読まされているんだろうという思いでいっぱいでした。この人たち、何をしにきたんだっけ? って。読み終わってみると、心に残るものがないわけじゃないので、場面、場面で、映像的に訴えるものとか、心に迫るものはあったんだと思います。でも、この物語の場合、この結構なひどい状況には、弟がお兄さんを巻き込んだのであって、お兄さんに知的障害があろうがなかろうが、関係なかったんじゃないかという思いもぬぐいきれません。障害のある兄といつも一緒にいる弟=兄弟の深い絆、美しい、というのはどうなのかという思いもあります。でも、たぶん、いろいろ読み落としてたんだろうな、と、いま皆さんの意見を聞きながら思ってはいます。

シア:まず、イギリスはバスに普通に犬を乗せて良いところに衝撃を受けました。ガイトラッシュという魔物も初耳でした。こういう文化の違いなどを目の当たりにできるから海外文学はおもしろいですね。だから積極的に読みたいし、子どもたちにも読ませたいです。2階建てバスもイギリスらしくてテンションが上がりますし、2階建てバスに乗った子どもがどういうリアクションをするのかも表現されていて楽しかったです。この本も薄いですし文字の大きさもほどほどで、子どもたちにはちょうど良いのではないかと思います。特別支援学校に通う兄を持つ主人公の話なのでその辺りも理解に繋がるし、障がいを持つ人が身近にいる子の共感にも繋がるのではないかと思います。1つ違いなのに体は弟のニッキーより大きくて逞しい点が個性もありますが一般的に早熟な障がい者の大変さとか、ケニーを守らなきゃというニッキーの使命に近い気持ちなど、こういう子の世話のシビアさがよく出ていると思います。物語自体は1日の出来事でそこまで盛り上がるわけではないのですが、表現が1つ1つ丁寧で、冗談も下ネタが出るなど子どもらしさがあって微笑ましかったです。また、複雑な家庭の話と相まって内容は真に迫っており、犬のティナの魂がヒバリとなって飛んでいくところは涙を誘いました。先に読んだ『夜叉神川』(安東みきえ著 講談社)のゴンちゃんを思い出しました。やっぱり犬は裏切りません。ラストにケニーのことがヒバリの声として表現されるところでティナとの絆を感じて、良い読後感に繋がりました。でも、この本も田舎っぽさと都会っぽさが混在している気がしました。バス3本乗っただけでスマホが圏外になるイギリスの荒野に行くのに、軽装でヒバリを見に行こうという発想が不思議でした。まるで都会っ子の余裕です。それから、40年後の奥さんがサラなのが世界の狭い田舎のイメージ丸出しでウッときました。「ここから出ていきたい、新しいものを見たい」と言っていたのに、結局田舎から外に出てないじゃないかと。もしくは戻ってきてしまったのかと残念な気持ちになりました。ケニーを抱えているからなのか、田舎のせいなのかはわかりませんが。そして、p.30「去年、ハイタカに食べられそうになっていたところをおれたちが助けたミヤマガラスのことだ。」とありますが、生態系を考えたら動物を助けることにならないのではないかと思います。こういう場面に出会うことのある田舎住まいの動物好きならこういうことには配慮できるのではないかと感じます。

アカシア:山や森をけっこう歩いていた私としては、この2人がきちんと準備もせずに薄着で出発することや、遊歩道から離れてはだめだと言われたのに離れてしまうとか、水の上に身を乗り出してスマホを落とすとか、スマホを取ろうとして崖から落ちるなど、愚かな行動を積み重ねていくことにいら立ち、物語の中に入り込めませんでした。何も愚かなことをしていないのに困難な状況に突き落とされる子どもたちが世界にはたくさんいることを思うと、自らの愚行で困難な状況に入り込んでしまう子どもを主人公にした物語は、”先進国“だからこそ成立しているのかもしれません。物語が家族の中で完結していて、そこから外への広がりはあんまりないのも残念でした。

オカピ:この本は、“The Truth of Things” というシリーズの最終巻なんですよね。p.30にミヤマガラスのエピソードが出てきますが、その巻を読んだことがあります。原書は、ディスレクシアの若い人たちが読みやすいように、字体やレイアウトを工夫しています。たとえば日本の本で、梨屋アリエさんの『きみの存在を意識する』(ポプラ社)もフォントに配慮していましたね。この翻訳の『荒野にヒバリをさがして』は、ディスレクシアの人たちに向けたつくり方をしているわけではなく、だけど、そうだとすると、1冊の物語としては物足りなくて、なんか中途半端だなと思いました。また原書は読みやすいように、「飛ぶことも歌うことも、ヒバリにとっては労働なのだ。不屈の勇気なのだ。そして、それは美しい」(p.130)など、短文を重ねた文体なのかもしれませんが、それをそのまま日本語にすると、ちょっとぎこちないような。「おれ」という一人称の中学生が、「ポンポンのついた毛糸の帽子」(p.21)のようにかわいらしい言葉をときどき使うのも、あまりしっくりきませんでした。

アカシア:そのシリーズ、全部で何巻出てるんですか?

オカピ:全4巻だと思います。

アンヌ:一言で言って、とても痛い物語でした。表紙からして雪山で遭難することは最初からわかってしまっていて、初読の時は、とにかく無事に帰ってほしいの一言で上の空でいました。2度目はもう少し落ち着いて読めたのですが、p.81、82の痛みというものへの考察や、p.113の、折れていない方の足を添え木にするという技術を読みながら、素晴らしいけれど辛い知識だなあと思っていました。p.131のヒバリに身を変えて去っていった魂は、ティナだったんですね。ところどころ詩的で美しい場面があり、カラスやアナグマという動物についての思い出が出て来て興味をひかれたのですが、でも語られることがなくて奇妙だったのは、4巻目だからなんだと今納得がいきました。このハイキングについて行かなかった父親に、読みながら猛烈に怒っていました。自分は荒野に詳しい父に連れて行ってもらったのに、子どもだけで行かせてしまうなんて。2人を追い出したかったんだろうかと考えたりしました。読み終えてみれば、雪山の冒険と家族関係、父親のアル中や疾走した母親についても描かれていて、2人の冒険する少年が厚みを持った人間であることもわかります。「お話」の持つ力を感じさせ、この物語の成立を語るラストもいい話なんだろうけれど、常にケニーの面倒を見るという形で「お話」が出現することにも痛みを感じずにいられない物語でもありました。

ネズミ:先が気になってさっと読みました。ただ、カバー袖に、窮地の中で「家族やこの数年のできとごとに思いをめぐらす」とあるのと、読んだ印象はやや異なりました。今直面している困難が非常にリアルなのに対して、過去の困難については、キジをオーブンで焼いたエピソード以外は具体的な記述が少なくて印象がうすく、また、主人公が知識や思考力を持っている賢い子なのに、雲行きの怪しいなかこんな軽装で出てきてしまったことがちぐはぐに思えて、どこか納得できない気持ちが残りました。

しじみ71個分:わりとあっさり読んでしまって、大変に失礼ながら、「カーネギー賞ってこれくらいで取れちゃうの?」と思ったくらいでした。『青いつばさ』と同じように、お兄ちゃんに障害があり、弟がお兄ちゃんの世話をするという構成ですが、荒野にヒバリを見に行こうとピクニックに出かけたら遭難してしまい、弟は生死の境をさまよう羽目になり、犬のティナはニッキーに体温をあげて自分は死んでしまうという、1日の非常に短い時間の間に起こる出来事と、事件を通して兄弟のきずなや、家族の在り方が見えてきます。決して悪い話じゃないし、兄弟愛が伝わる話だけれど、なんだか言いようのない物足りなさを感じたのですが、それがなぜなのかは、オカピさんのお話を聞いて、やっと納得がいきました。どうして出版社はこの巻だけで出版してしまったんでしょうか…やっぱりちょっとわからないです。でも、この巻だけでもいいところもたくさんあって、私が特によかったと思ったのは、遭難したニッキーが死にかけて生死の境目をさまようところで、ヒバリについて「ヒバリは高く高くのぼっていき、地球の重力からもときはなたれ、そしてとつぜん、なんの努力もいらなくなったようにかるがると舞い上がる。」(p.130)のくだりあたりは、言葉と場面が非常に美しくて、とてもよかったと思いました。また、子ども時代には、ニッキーが遭難して死にかけますが、エピローグで病のために生死の境をさまようのは、兄のケニーになっていて、その立場が反転するうまさはさすがだなと思いました。一点、兄弟の関係性がもっと深く表現できたのではないかと残念に思ったのは、「お話」のことでした。兄のケニーが弟のニッキーに向かって「なにか話をして」とせがむのは兄弟のきずなや愛の深さを物語る、決め台詞だと思うのですが、物語の中で、ニッキーがケニーに語る物語がどのように功を奏しているのかがよく見えてこないので、決め台詞のインパクトが伝わってこないもどかしさがありました。全巻そろってまとめて読めたら、もっと違った感じに感じられたでしょうか。もう1つ魅力的だなと思ったのが、父親の恋人のジェニーの存在でした。妻に去られて、父親はアルコール浸りという辛い家庭の設定ですが、ジェニーのおかげで父親は更生しつつあり、兄弟もジェニーの優しい心遣いに見守られています。この存在がなかったらこの物語はもっともっと辛かっただろうなぁと思います。血がつながらないけれど大事な家族というのが、さりげなく普通に描かれているのは素敵だと思いました。

(2022年5月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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夜叉神川

『夜叉神川』表紙
『夜叉神川』
安東みきえ/著 田中千智/絵
講談社
2021.01

〈版元語録〉全ての人間の心の中にある恐ろしい夜叉と優しい神、その恐怖と祝福とを描く短編集。「川釣り」「青い金魚鉢」「鬼が守神社」「スノードロップ」「果ての浜」   夜叉神川の上流から下流へ、そして海へと続く全五話を収録。

ネズミ:とてもおもしろかったです。人によっていろんなふうに読める作品だと思いました。悪意とか無関心とか憎悪とか嫉妬とか、どの話も負の感情を扱っているんですね。普段しちゃいけない、言っちゃいけないと言われている感情をうまく顕在化させて、善悪ということではなく考えさせてくれます。オーディションとかカードゲームとか沖縄旅行とか、今の子どもたちも興味をもちそうなことをきっかけにして、不思議なことに広げていくのがうまいなと思いました。情景の描き方が美しく、p.230あたりからの「果ての浜」の文章は特に魅力的でした。いろんな人にすすめたい作品です。

アンヌ:読んでいて一番怖かったのが、最初の「川釣り」です。霧の中の女の人みたいな怪異や川の主みたいな魚の化け物が出てきててんこ盛りなんだけれど、それよりも前半の心臓を取り出すのに夢中になっている辻君に感じる恐怖心の方が上でした。そのせいか、辻君の横暴な物言いや異常性格的な描写はなくてもいいような気もします。川の怪異が懲罰みたいな役割なのも少し残念な点です。「青い金魚鉢」は特殊な能力を持つ「物」に魅入られる話として読みましたが、家に閉じ込められていた昔の人と金魚鉢の能力の関係に説明がないのが残念でした。「鬼が森神社」は、p.100のアイドルを目指すリョウの魅力をちょっと百合的な描写で感覚的に描いているところなどとてもうまいと思うし、宝塚ファンの人たちの暴走のニュースなど昔から聞いたことがあるので、苺の行動もまあ、あるんだろうなと思いました。最後には呪いも解いたし、未来に向かって進もうとしている主人公が橋のところで語り掛ける描写もよかったし、なんといっても、鬼が情けない顔をしているラストがよかったです。「スノードロップ」は少年の心の中にある、他者の死を願う気持ちの変遷の話だから、これにはあまり興味を感じませんでした。私は怪談好きですが、幽霊は苦手です。怪談というのはこの世の物語で、この世には人間などの測り知れない世界もあるというのが魅力だと思っていますが、幽霊は人間とその死後の世界のことなので……。うらみはらさでおくべきやと化けて出るような、目的を持ってこの世に帰る幽霊ならともかく、自分たちが死んだと気づいていないような子どもの幽霊は、とてもつらい。だから最後の「果ての浜」は、戦争の悲劇や理不尽さを伝えている点は素晴らしいと思うし、さらにそこから徹底的に目をそらそうとする主人公もリアルでおもしろいと思うのですが、子どもたちの幽霊から弟を守ろうと戦うような感じのところは、受け入れがたい気がしました。

オカピ:これまでに読んだ安東さんの本の中で、いちばん好きでした。鬼神である夜叉はけして、まったくの悪というわけではなく、そうした善とも悪ともいえないような、人間の複雑な部分をとらえた作品です。欲とか暴力とか戦争とか、人の業の深さを思いました。どの話の中でも生と死のドラマが展開するのですが、一話一話がおもしろい。水源から河口に向かい、やがて海に出るという全体の構成もみごとでした。

アカシア:私も、安東さんの作品の中でいちばんおもしろかったです。人が、ふとしたときに見せる怖いものが、どんどん肥大化していくことを、とてもうまいストーリーテリングで表現していますね。さらに怖くする工夫もあるし、はぐらかしもあります。文章表現がとてもじょうずだと思いました。「鬼ケ守神社」の最後の一行は、実は鬼より人間のほうが怖いということを言っているようです。「スノードロップ」のp.158から最後にかけての「自分の命を自分で決めて悪いか?」をめぐるぼくと松井さんとのやりとりは、表面的ではなく深いところからの知恵が湧いてきているように思えて、道徳の教科書とは違ってひきつけられました。「果ての浜」では、子どもの自然な発想として、受験後につらい話をしないでほしいという気持ちをもつ岳が、弟をさがしているうちにトウキビ畑で昔の子どもたちの声を聞いたのがきっかけで、変わっていくのですが、その気持の変化に無理なく寄り添うことができました。p.231の「くりかえし蹴っていた山下の靴。あの靴を自分も履いていたのかもしれない。/今もずっとくりかえし、あの少年を蹴っているような気さえした」という部分は、沖縄の歴史を知らない子どもたちにもすんなり伝わるでしょうか?

シア:おどろおどろしい雰囲気でおもしろかったです。生徒にも気に入られるのではないでしょうか。本の厚みはないし、表紙もダークメルヘンで好まれそうです。オムニバス形式で人の心に棲む鬼を描いているんですが、形式のせいでばらけた感じがしました。最後の「果ての浜」が秀逸だったので、この話だけで書いても良かったかなと思いました。というのも、夜叉神川で繋げるのはいいにしても、夜叉神川の由来など川自体の話が出てこないなと思いまして。「果ての浜」では山下だけでなく、主人公の無関心さを鬼にしたのは良かったと思います。実際、戦争の話は悲惨だし関係ないからと嫌う子も多いし、昔のことや酷い話は自分には関係なくて、もっとハッピーな気持ちでいたいという今の若い世代の気持ちをよく表現していると感じました。愚痴やら暗い話は嫌がられるんですよね。生徒たちの好きなSNSでもとくに嫌われる行為です。でも、暗い気持ちになるようなことをしでかすのも大体この年齢が多いので、その矛盾をこの本はうまくついていると思いました。また、さんぴん茶の名前や味でツボるのはわかりますし、そういう意味でもこの作者は10代っぽさの表現が上手ですね。出てくる子は現代っ子や都会っ子なイメージを受けるのですが、全体的な田舎っぽさもうかがえます。例えばp.184に「女にまるめこまれ、きげんよく鼻歌を歌っている弟が情けない。」とあるのですが、ここは「大人にまるめこまれ」で良かったのではないかと思いました。1話目の辻くんはそういうキャラクターということで主人公から指摘もされていましたが、この岳くんの言葉は田舎の男女差別を思わせます。また、2話目の引きこもりの子の表現なのですが、琴ちゃんは「こだわりが強い」「変わっている」などと発達の問題を疑わせる部分はちょっとどうなのだろうと思いました。引きこもってしまうのは基本的に繊細な子が多いので、そういうことで良かったのではないでしょうか。琴ちゃんのお母さんも食前に害虫の話をするなど変人すぎると思います。そのせいで発達障がいの遺伝について考えてしまいます。それに、敏感な子を大なり小なりこういう状況に追い込む加害者がいけないのに、愛奈ちゃんは「おとなしめになった」というだけで事態の責任に関して何も気づけていません。1話目の「川釣り」のような物事の繋がりを考えた上での罪悪感が生まれないのではないかと思いました。3話目の主人公も改心しているのに、連作の繋がりに違和感を覚えました。違和感といえば、この本は助詞など文章に気になるところも散見されたので、児童書ですし編集者もとくに注意して見てほしいと思いました。p.215「ヌギリヌパ教室が楽しかった」「ヌギリヌバと呼ばれる岩かげに」など、パとバがどっちなのかわかりませんでした。

ハル:1話目で、グッときました。2話目の「青い金魚鉢」は、ちょっと私がつかみきれていないのですが、「末代まで」の怖さが印象に残っています。もしかしたら、強者への無自覚なあこがれもあるのかなぁ。……などなど、ときどき面食らうようなところもありつつ、川さながらに緩急つけながら全体のうねりを高めていって、最後に「果ての浜」に到達する構成が、もう、すごいなぁと思いました。読者、つまり子どもに寄せた書き方ではないのに、非常にこの不安定で繊細な時期の、今の子どもたちに寄り添っているように思え、なんというか、ほんとにグッときました。すごみを感じます。

マリナーラ:タイトルから、本格的なファンタジーかと思っていましたが、日常からちょっとはみ出た別の世界を描く物語で、個人的にはとても好みでした。人が一瞬垣間見せる悪意が、どのお話にも書かれていました。映像的で、ガラスの金魚鉢がゆがんで見える、というのも想像つくし、サトウキビ畑で姿が見えなくなる、というのもイメージが容易だし、その空間に浸らせてくれる物語だと思います。序盤の2話と3話は、夜叉神川をめぐる連作であることがすぐ掴めるように、川の名前が早めに出てきてわかりやすかったです。最後の戦争の話は、工夫を随所に感じました。そういう話は聞きたくないのだ、という主人公の気持ちに寄り添いながらも、戦時中の出来事に少しずつ引き込んでいきます。当時の波照間島、西表島のことは知らなかったので、勉強になりました。

雪割草:主人公の負の感情を超自然的な現象と結びつけて書いていて、おもしろいなと思いました。割と年配の作家さんなのにヤングな設定を描けていて、すごいなとも思いました。なかでも私は「スノードロップ」と「果ての浜」がよかったです。「スノードロップ」は、なぜ松井さんは怒ってばかりいるのかを、子どもの視点で無理なくときほぐして描いていると思いました。「果ての浜」では、まず戦争中の波照間のことを私は知りませんでしたし、その出来事を主人公らが知る方法も、奇妙だけれどリアルでなるほどと思いました。

ヒトデ:1話目の『川釣り』からひきこまれて読みました。辻くんの純粋な悪意みたいなものが本当に怖くて、でもそれが自分の身に引きつけられないものではない、というか。絶妙なバランスで書かれていました。2話目の「青い金魚鉢」も最後のきつねの伏線で、う~ん、さすがだな、という感じでした。4話目の「スノードロップ」、5話目の「果ての浜」は、1話~3話から少しテイストを変えて、闇の中から光へ進んでいく話という印象でした。とくに5話目の「果ての浜」では、主人公の「どうして戦争の話をきかなければならないのか」という問いに、物語のなかでしっかり答えを出しているところが、とってもいいなと思いました。

しじみ71個分:映画でも本でも、私は本当に怖いものが苦手で、1話目を読んで、やっぱり怖くなって後悔したのですが、読み進めるうちに本当に文章がうまいなぁとつくづく思わされ、読み通してしまいました。この本は「子ども向け」に分かりやすく書いてないし、大人向けといってもいいほどです。1話ごとに、表現や構成が練られていて、短い連作集なのに大変に読みごたえがありました。夜叉神川の上流から物語がスタートし、中流、下流へと流れていき、最後に「果ての浜」をもってきて、海に流れ込んでいくという構成にはうなりました。テーマを「光と闇の境」としたのは、各話で日常生活に生じた、ちょっとした亀裂から、登場人物の悪意が溢れて出てきてしまうのですが、その日常の中の善悪の紙一重な感じが、光と闇の世界の薄い境目のように思われたからです。各話で、悪意が吹き出していく人物がいろんな形で描かれ、そのまま「あっち側」に行ってしまいそうなところを、視点になっている主人公が、「こっちに戻っておいで」というように境目で止めてくれて、それが児童文学としての救いの部分なのかなと思いました。1話目の「川釣り」がいちばん怖かったです。魚の命を奪うことを楽しみ、残虐性が発展して、「ぼく」をも脅して楽しんでいた辻くんが、さらに恐ろしい人間になってしまいかねないところを川の神か山女魚の妖怪かに襲われ苦しむ姿を見て、「ぼく」が「クツクツクツ」と笑い、「ぼく」も喜んで闇を発露させるのですが、ここがいちばん怖かったです!「ぼく」は我に返って辻くんを助け、「清らかな流れを見ていたら、なぜだか祈るような気持ちになった」(p.41)、「そしてこの先、ぼくたちがおそろしいばけものになったりしないよう、どうかまもってほしい」(p.42)、という場面で終わります。残虐性は誰もが持っていて、あちらに行ってしまうか、こちらにいるかは紙一重だという恐ろしさを突き付けるとともに、それに自分で気づいた「ぼく」が境目で踏みとどまり、闇に落ちないように祈って終わるという、この展開の鮮やかさは素晴らしいと思いました。あとはやはり最後の「果ての浜」にやられました。この話では、善悪の境を突き破るのは、島にやってきた山下という青年教師で、突然、豹変し、日本刀で島民を脅して、波照間島から西表島に強制疎開させたため、西表島で病や飢えで島民がたくさん亡くなるという惨劇が起きます。でも、境目に立つ主人公の「おれ」は、残虐さに落ちた山下ではなく、西表に追いやられ、亡くなった子どもたちの魂に、ヤギの人形をあげることで浄化させ、連れて行かれそうになった弟を助けますが、海へと川が流れ込み、浄化されるという大きな構成になっていて素晴らしいと思いました。戦争という大きな悪意に、目を向けないこと自体が大きな悪だという強いメッセージを感じますし、そこに主人公が気付くところで、人間性への期待を持たせる物語だなと思います。

ルパン:とてもおもしろく読みました。最初の「川釣り」に出てくる、川の神なのか化け物なのかが言うセリフ、「命をとったら食べてやらなくちゃねえ」というのが名文句だと思いました。ただ、この人(神?)がこのあとも出てくるのかと思ったらこれっきりで、いったい何者だったのかが気になりました。「青い金魚鉢」は、愛奈さんが何の気づきもなく終わるのが消化不良。ちほちゃんの善意で救われてそれで終わり、本人は何の反省も成長もないまま。何の話なのかな、と、ちょっと首をかしげました。「鬼が守神社」は、p.126の「リョウがいない時のわたしたちには、話すことがほとんどなかった」というのが、女子の関係をよくつかんでいると思いました。「スノードロップ」はいちばん好きな話で、「松井さんが死んだらゴンに悪いです!」とさけぶ男の子に好感がもてました。「果ての浜」は…またそういうことを言う、と言われそうですが、この塾の先生たち、こんな南の果ての病院もないところに子どもたち連れて行っちゃって、何かあったらどうするんだろう、とか、この夫婦にまかせてそんな遠くに子ども行かせちゃう親とかが気になっちゃって、お話にすっぽり入ることができず。でも、こういう歴史を知ることができてよかった、と思いました。ちょうど『アジアの虐殺・弾圧痕を歩く』(藤田賀久著 えにし書房)という本を読んだところだったので、それもあって、自国や近隣の国の歴史の闇についてあまりにも無知だったと考えさせられました。

サークルK:どのエピソードにも畏敬の念という気持ちを子どもが感じられるような不思議な存在が表現された、興味深い作品でした。神様と化け物は紙一重の存在であるとか、川そのものも、普段のあそび場と同じ感覚でいると全く違う表情を見せる怖い場にもなりうるとか、二項対立には収まらない「何だかわからないけれど確かに存在しているもの」への畏れ多さが良く伝わりました。またp.16、p.36の血にまつわる表現はとてもエロティックで大人が読んでもぞくぞくっとしました。古いところでは、映画「禁じられた遊び」に描かれた子どもにも残虐性があることを思い起こすならば、子どもだからと言ってエロス(という言葉は知らなくても)がわからないはずはないのですよね。残虐性とエロスの表裏一体なところをこのような形で表現しているところはすばらしいと思います。これらは最後のエピソード「果ての浜」に出てくる「血の島」につながるのでしょうから、伏線としてもとても心に残りました。

西山:まず「川釣り」で、すごいところをお書きになったなと、いろんな意味でどきどきしました。以前、高校の国語の教材で釣りに関するあるエッセイの一部「姫(ヒメマス)殺しの快感」だったか、そういう表現がカットされていたのを思い出しました。釣りは自然との交歓でありつつ、でも、殺生は殺生。幼児期にどれだけ虫を殺したかが命を尊ぶことにつながるといった発言を目にしたことがありますが、命への興味が「殺す」という行為になっているとして、それが命を尊ぶことにどうつながるのか……。とっとと道徳的に無難な出口を目指すのではなく、すごく危ういところのぎりぎりを見せつけられて、「ぼくたちがおそろしいばけものになったりしないよう、どうか守ってほしい」(p.42)という祈りが深く刺さります。そして、作品を重ねて最後にまさか『ハテルマシキナ』が出てくるとは! この構成全体で光を見せていっていると思いました。余談ですが、「青い金魚鉢」で、皿海達哉の短編集『EE’症候群』(小峰書店 1998年)を思い出しました。先生が落ちこぼれの子どもを金魚に変えてしまうんです。こちらも怖いですよ。

エーデルワイス:最近好きな何名かの作家の短篇を読みましたが、長編でおもしろく読んでいた作家も、短篇は?と、思いました。短篇ならではの難しさがあるようです。それに比べ、この作家さんは本当にうまい!と思いました。「川釣り」は怖かったです。個人的には「青い金魚鉢」が好きです。情景が美しいと思いました。

すあま:私はこのタイプの話が苦手で、最初の話から読むのがつらかったです。怖さというよりも、悪意がむきだしなところや、最後に救いがあるのかと思ったら、あるような、ないようなところも、読みづらかったんです。「果ての浜」まできて、これを描きたかったのかなと思いました。夜叉神川をモチーフにしているので、出てくる子どもたちの間に何かつながりがあったらおもしろかったかもしれません。読み手を選ぶ話だと思うので、うまく手渡すことができれば、合う子もいるのかなと思いました。

しじみ71個分:この物語の中ではすべての登場人物が、改心するどうかはわからないまま、オープンエンドになっていますよね。で、主人公の子たちは人間の善性に対して祈るだけなんですよね。実際に、祈っても悪意から帰ってこられない人はいっぱいいるわけで、そこがオープンになって結末まで書かれていないところがミソだし、リアリティなんじゃないかなと思います。

(2022年5月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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タフィー

『タフィー』表紙
『タフィー』
原題:TOFFEE by Sarah Crossan, 2019
サラ・クロッサン/作  三辺律子/訳
岩波書店
2021.10

〈版元語録〉父さんの暴力から逃れ、家を飛びだしたアリソン。古い家の納屋に身を隠すが、家主のマーラという老女に見つかってしまう。認知症のマーラは、彼女を昔の友人・タフィーと間違えているようで――。孤独を抱えたふたりが出会い、思いがけない同居生活がはじまる。カーネギー賞作家が詩でつむぐ、友情と再生の物語。

カタマリ:詩の形態のYAを読むのは『エレベーター』(ジェイソン・レナルズ著 青木千鶴 訳 早川書房)以来でしたが、やはりこちらもとても読みやすかったです。話があっちこっちに行ったり、時間が前後したりしても、詩だとわかりやすいですね。正直、文章のインパクトといい、詩の言葉の力といい、『エレベーター』のほうがより力強いかなと思いました。が、こちらの本も、読んでいくにつれ、彼女のやるせない想いが波のように次々と押し寄せてくるのが伝わってきて、せつなく感じました。最後、希望のある終わり方でよかったです。ただ、自分の年齢のせいか、アリソンだけでなくマーラの視点にも立って読んだのですが、そうすると後味の悪い物語なんですよね。認知症だからこそ感じる恐怖があると思うのですが、アリソンはそれを増幅させています。マーラが混乱していても「すぐ忘れちゃうから」とアリソンが軽く通り過ぎる場面がありました。アリソン自身いくら大変な状況にあるとはいっても、ちょっと若さゆえの残酷さだなあ、と。なので、アリソンがいたことでマーラも救われた、というニュアンスのエンディングが少しご都合主義だなと思いました。

ヒトデ:ラップのリリックのような文体に惹きつけられながら読みました。以前、『エレベーター』を読んだときにも感じたことですが、散文、詩の形式で語られる一人称の物語って、すごく「入ってくる(=自分のものとして読める)」気がします。そうしたわけで、アリソンの絶望的な状況とか、たくましさとか、そのなかでちょっと見えてくる希望とか、ユーモアとか、自然の描写とか……そんなアリソンを通して見えてくるあれこれが、胸に迫ってきました。父親の暴力の描写は、本当につらかったです。日本でも、この形式の物語があるといいのになと思います。「一瞬の出会い」という詩が、『サンドイッチクラブ』(長江優子著 岩波書店)っぽいなと思って読みました。

ネズミ:詩で綴られた形式というのが、新たな発見というか、こういう書き方があるのだとショックなほどおもしろかったです。横組みというのも、短い文章に合っていると思いました。散文で書くと論理性が必要で、整合性を持たせながら順序よく語っていかなければなりませんが、これは短い詩で、断片的だからこそ、時間も場所も自由に出たり入ったりできるんですね。ハードな内容もあるストーリーですが、読んで苦しい場面が続くのを避けられるという利点も。行ったり来たりしながら、だんだんと深く入りこんでいく感じがとてもよかったです。『詩人になりたいわたしX』(エリザベス・アセヴェド著 田中亜希子訳 小学館)や、『わたしは夢を見つづける』(ジャクリーン・ウッドソン作 さくまゆみこ訳 小学館)も、詩の形式でおもしろく読みました。

オカピ:アリソンは父親から虐待を受け、知り合ったルーシーには利用され、マーラの家も荒らされてしまいます。暴力にみちた世界で、砂の城とか、死んでしまうクロウタドリとか、喪失のイメージが重ねられていきます。アリソンもマーラも、手からこぼれ落ちていくものを必死でにぎりしめていますね。アリソンは父親の愛情をあきらめきれず、マーラは記憶を失いつつあって、娘のメアリーが死んでしまったことは忘れているのに、娘がいたことは忘れられない。アリソンの父親は、妻の死にとらわれたままでいる。物語は、アリソンは勇気をもってみずから手を放し、新たな人生を生きはじめるところで終わっています。それが、ヘレナの誕生に象徴されているように感じました。訳もよかったです。日本語の本にしたとき違和感がないように、改行や文字組が工夫されていると思いました。1か所、違うかなと思ったのは、あとがきの「~も詩人による詩形式の小説だ。今年(2021年)もその傾向は変わらず、カーネギー賞はジェイソン・レナルズのLook Both Ways が受賞」という箇所です。前に読んだことがありますが、これは詩で書かれてないので。

ハリネズミ:散文詩だけど、ストーリーがはっきりしていておもしろいと思いました。ただ時間軸が行ったり来たりするので、対象年齢は高校生くらいでしょうか。父親の暴力に怯えて家出をしたアリソンと認知症のマーラが出会うわけですが、ふだんの日常だとまず出会わないふたりが出会うというのが新鮮。その過程でアリソンはだんだん自分の仮面を取っていくし自分の話もするようになって、素の自分に戻っていきます。それも、読者にはよく伝わってくるな、と思いました。さっきマーラの目から見てどうなのかという話が出たんだけど、私もそこは引っかかりました。だれかがそばにいて自分のことを気にかけてくれているのはいいと思うんですが、マーラが最後に行くのは、たぶん孫が住んでいるところの近くにある施設ですよね。でも、この孫のルイーズはお話にほとんど登場しないし、会いに来てもいない。もし著者がルイーズにとってもハッピーエンドにしたいのであれば、このルイーズをもっと登場させておいたほうがよかったのに、と思いました。アリソンは非常に知的な女の子なんですが、16歳になっているのに、父親のことを客観的に見ることができていないのはちょっと不思議。父親については暴力をふるっている場面が多く、いいお父さんの部分は少ししか描かれていない。そうすると、なんでこの子はここまでガマンしてるんだ、というふうに読者は思うんじゃないかな。あとがきのp411「描いてみせた」は、当事者も読むことを考えると、私はひっかかりました。

エーデルワイス:表紙がいつもと反対で中身は横書き。縦書きではないのでドキリとしました。そのうち文章が『詩』の文体で、横書きであることの必然性が分かりました。あとは読みやすかったです。タフィーだと思い込んでいるマーラが切なくて、愛おしい。生きていくには生活が大切です。トフィーことアリーが食べ物を買うためにアルバイトを引き受けたり、家の中を整えたりと具体的に書かれていて好感を持ちました。「トチの実は落ちて・・・」(p.145)のところですが、盛岡市に中央通りというメインストリート(夏の『さんさ踊り』パレードがあるところ)があって、そこはトチの並木道になっています。6月頃マロニエの花が咲き、秋になるとトチの実がバラバラと落ちてきます。頭上に注意と立て看板がでます。私もよく拾いにゆきます。そんなことを思い出しました。

雪割草:いい作品だと思いました。詩の形で綴られた小説には、はじめは違和感があったけれど、だんだん慣れてきて、この形式自体が若者の声を象徴していて、若者は親近感が持てるのかなと思うこの頃です。この作品では、散文詩のぷつぷつと場面が切れる、内的独白の調子が、主人公の置かれた状況の厳しさに合っていると思いました。虐待を受け、守ってくれる大人がいない主人公の女の子と、認知症で家族にも厄介者扱いされている高齢の女性と、2人とも心のどこかで誰かの助けを必要としている気持ちがあって、心を通わせるのがよく描かれていると思いました。そして、主人公が父親から逃れて、携帯をなくし、現実から距離を置いていた時間と、認知症で心がどこかに行ってしまうマーラの時間と、ある意味、2人は特別な時間の中で出会い、一緒に過ごすという描き方も上手だと思いました。「自分の悪いところ、わかってる?そうやってくだらないことばっかり、言ってるところよ」(p.266)など、マーラの放つ鋭い一言もよかったです。エンディングは、大きくはないけれど、ささやかな希望が感じられて、こうしたささやかな温かいことの積み重ねが人生なのかな、と読者も受け取れるのではないかと思います。

アンヌ:横書きだからとためらっていたけれど、読み始めたら止まらず、一気読みでした。認知症の合間に蘇る若いマーラ、恋をしたりダンスをしたりした、一人の人間としてのマーラが見えてくる過程を、時間を行ったり来たりさせながら描いていくところは素晴らしいと思いました。詩ならではの短い言葉による暗示は読者の想像力を駆り立てるし、アリソンがこの家にいるのがいつばれるだろうというスリルもあって、ドキドキしながら読み進みました。それと同時に、アリソンのやけどの理由、父親のDVや、どう見ても悪だくみをしそうなルーシーとの関係は予想がつくから、ページをめくるのがつらいけれどやめられないという感じでもありました。透明人間みたいだったアリソンが、マーラの怪我の後に、きちんと他の大人にも対応できる場面を見ると、尊厳を取り戻したんだなとわかってホッとしました。最後の詩は、かけがえのない友人同士となった2人の別れの場面ですが、マーラが自分を忘れてしまう悲しさと、忘れる自由もある事を歌っているのようにも思えます。詩というのは読み返すとそのたびに違う顔を見せるものだから、もう少し年を取ってから又読みなおしてみたいなと思いました。

サークルK:横書きの体裁でも『エレベーター』を読んで慣れていたこともあり、すんなりお話に入っていくことが出来ました。空白の多い詩の形式ではあるけれど、中身が詰まっていて散文を読むような感覚でストーリーに引き込まれました。以前読書会で読んだ『神さまの貨物』(ジャン=クロード・グランベール著 河野万里子訳 ポプラ社)が散文であるにもかかわらず詩的だな、と思ったことを対照的に思い出しました。父親の暴力から逃れられないアリソンの様子は凄惨すぎて胸が詰まりましたが、実際日常的に暴力を受け続けてしまうと、気力がなえて抵抗できない状態に陥ることがある、と聞いたことがあるので、彼女の場合もそうなのではないかと推察します。それでも彼女は繊細で頭が良く、認知症のマーラが、時々ドキリとするようなことを直言し(「顔はどうしたの」)その一言を糸口にして、すべてを語ってしまいそうになるアリソンの心模様に共感できました。最後に父親にやられたことをアリソンが正直に言うことが出来て良かったです。認知症の当事者と虐待の当事者という全く違う世界を背負っている2人なのに、なぜかリンクしている世界が描かれていることが素晴らしかったです。

しじみ71個分:散文詩で全編が構成されている作品を読むのは初めてでした。ですが、非常に物語性が豊かなので、普通の物語と同じように筋を追ってすんなり読めました。言葉をギリギリまで絞り込んで、主人公から吐き出される気持ちのエッセンスを抽出して描いているように思います。なので、主人公の切迫した心情や痛みが、ダイレクトに響くので、読んで痛くて、つらいところはありました。アリソンは、父の暴力から逃げて、認知症のマーラの家に無理やり入り込み、彼女の世話をしながら生活しますが、介助の人や息子が家を訪れたときには見つからないかと読んでハラハラし、この秘密の生活がどうなるかというスリルもありました。アリソンは、マーラの昔の友人で、すてきな女の子だったタフィーの幻影を借りて、マーラの前で生きていきます。それは親から暴力を受け続け、存在を否定されたことによる自己の喪失を象徴しているのかなと思いますが、読んでいて本当に悲しくつらいと思ったことでした。マーラも認知症で自分が自分でなくなっていく恐怖やつらさを抱えているので、2人の間にはそこに共通点があるのですね。記憶が行ったり来たりする中で、マーラの元気だったときのエピソードが見え隠れしますが、認知症になる前は、おおらかで朗らかな女性だったことがだんだん見えてきて、マーラの温かさや包容力で、アリソンは救われていく様子が分かります。火傷の痕について、マーラに「顔をどうしたの」と聞かれて、1回目は答えなかったアリソンが、2回目に同じことを聞かれて父さんにやられた、と素直に答えたのに対し、マーラが「あなたは何も悪くない」というシーンは胸にしみました。マーラとの暮らしと、ルーシーから頼まれた裏バイトでお金を稼ぐことで、だんだんアリソンには自己肯定感が生まれてきます。アリソンの視点からだけで語られているので、マーラが何をどう考えているのかはつぶさには分からないのですが、アリソンが次第にマーラに対する愛情を深めていき、クリスマスツリーをつくってあげようと考えたところで、改行の工夫で、詩がクリスマスツリーの形になっている(p.317)のは、アリソンのうきうきした楽しい、やさしい気持ちを視覚的に表しているんだと思って、かわいいなと思いました。稼いだお金でマーラが好きなジャズシューズを買ってあげるのも素敵です。結末に向かっていくところですが、ケリーアンが病院で産気づき、それをマーラがさらりと受けてナースコールを押す場面や、パートナーや家族のいない出産におびえるケリーアンを、「みんなひとりきり」といって慰める場面もマーラの強さと魅力を存分に物語っています。そして、最後に、マーラがそれまでタフィーと混乱して認識していたアリソンを、アリソン自身とちゃんと認識して、名前を呼びかけたことで、アリソンが自己の存在を肯定し、自分を自分として認められるようになりますが、そのことを語る「わたしはアリソン」という詩は、物語のクライマックスとして大変に感銘を受けました。3人のこれからがどうなるかという結末ははっきりとしませんし、おそらく施設に入るマーラと、ケリーアンと赤ちゃんと3人で暮らすだろうアリソンたちのそれぞれの人生が本当にうまくいくのか、いかないのかは分からない微妙な感じで終わりますが、登場人物たちに希望を持って、がんばってほしいと思ってしまいました。

西山:いちばんびっくりしたのは、最後に訳者あとがきを読んで初めて、これが「詩」だということを知ったことです。自分にびっくりです。確かに見た目は詩形式ですが、いまどき、1文ごとに改行している作品もあるし、一人称でほぼ心の声でできているような作品にもなじんできたので、その類いかと……。つまり、「筋」と「意味」ばかり追う読み方をしてしまいました。(追記。読書会中は「散文詩」と言われていましたし、自分も使ったと思いますが、これは「散文詩」でしょうか。「散文詩」というのは、見た目は完全に、普通の小説のような感じで、でも、イメージの飛躍などで、明らかに言葉の質が一般的な散文とちがうものと認識していました。) その「筋」「意味」で特に新鮮だったのは、認知症の現れ方で、幼女のようになってしまうのではなく、性欲というのか、異性への意識が出てくる部分です。p.255ページからの「紅茶とカップケーキでおしゃべり」で若者のお尻に注目しているし、p.371からすると、付き合っていた「変わり者のじいさん」は妻子持ちだったんですよね。断片的に見えてくるマーラの人生が興味深かったです。

ハル:いま、海外小説ではこの散文詩の形態がトレンドだということで、1度みんなで読んでみたいな、というより、皆さんに読み方を教えていただきたいなと思っていました。私自身は、「詩」というものにあまりなじんでこなかったので、詩の定義ってなんだ? と思っていましたが、何冊か読んでみて、ようやく、こういう形態でこそ表現できるものがあるんだな、というのがわかりはじめてきたところです。「詩」というと、美しく包んで飾っているようなイメージがありましたが、タフィーの物語は、この形でこそ、むしろ飾らず、うそいつわりのない言葉で綴れるんだろうなぁと思います。なんというか、そのとき、そのときの気持ちに素直で、読者としても整合性を気にせずに受け止められるというか。ただ、私は頭がかたいので、やっぱり縦書きで読みたいなぁと思いながら読み始めましたが、最後のほうでクリスマスツリーが出てきたので、だから横書きだったのか、と納得しつつ、ちょっと笑ってしまいました。もっとも、途中からは縦書きか、横書きかなんて、気にならなくなっていましたが。

ルパン:内容はとてもおもしろかったのですが、正直、私は詩の形式でなくふつうの物語形式で読みたかったです。タフィーがどんな人物で、マーラとどういう関係だったのかとか、もっともっと具体的に知りたい、と思うところがたくさんあって。あと、p.38みたいな形式が何か所かあるんですが、先に左の列を縦に読んでしまい、それから右の列に行ったので、わけがわからなくなりました。これは各行を横に読むべきなんですね。それがわからなくて読みにくかったです。

ネズミ:どっちから読んでもいいように書いているんじゃないかな。

ハリネズミ:ここは、ホットクロスバンていうイースターに食べる、十字が入っているパンの形になっているんだと思うけど。

ルパン:あと、地の文と、だれかのせりふの部分で字体を変えているようですが、それも目立った変え方ではないので、ずいぶん読み進めてから初めて気がつきました。

ハリネズミ:原文はイタリックなんでしょうね。日本語の本ではイタリックは読みにくいしきれいでもないので、普通は使いませんよね。で、イタリックにしただけじゃわからないから太字にしてるのかも。日本で出すならカギカッコにしてもいいのかも。

ルパン:同じ行に2つの字体が入り交じっていたりしますよね。

ハリネズミ:原文どおりなんでしょうね、きっと。日本語版はもう少し工夫してもよかったのかも。

ルパン:ところどころ、せりふは字下げで始まる場合もあるんですけど、そうでないところもあり、まちまちですよね。たとえばp.81は、父さんのせりふは字下げがなく、ケリーアンのせりふは字下げがあり、その次の地の文もそのまま字下げに頭を合わせていて……そういうところが、ちょっと気になりました。

シア:散文詩形式の本は珍しいので、目新しさを感じました。でも読むと普通に読みやすくて、一気に読めました。とはいえ、かなり重い内容なため、こういう形式だと情緒的になるので、さらに苦しさが増すような気もしました。そこも狙いだと思いますが。短い文章が続くので、生徒など若い世代には更に読みやすいのではないかと思います。ただ、本の見た目が分厚いので、そこをどうクリアさせるかが問題ですが。貧困やDV、キャラクターの掘り下げは、さすが海外作品らしい切り込みの鋭さがありました。その辺りは長江優子さんの『サンドイッチクラブ』とは一線を画していますね。とにかく、子どもたちがポエムというものに触れるには良い本だと思います。表紙もオシャレで素敵な作品でした。表紙の女の子の顔に葉っぱついてるよ、と思ったらとんでもなかったって話ですが。

ハリネズミ:アメリカで賞をとる作品は、今、散文詩の形式の物が多いですね。時間軸でしばられず、パッチワークのように書いて全体像を浮かび上がらせることができるという特徴があるようです。あと認知症にもいろいろな段階があって、まだら認知症の人は、意識がはっきりしている時とそうでない時があるようです。昔に戻って若い頃の自分が出てしまったりする人、子どもに戻ってしまう人もいるらしいですね。マーラも、その状況なので、認知機能が戻ったときはきっとつらいのではないかしら。

ネズミ:私は、この本の中では、マーラがアリソンと最後、ダンスを披露するシーンが好きでした。

ルパン:私は、時計をルーシーに盗られてしまったあと、マーラが、それがあった場所をじっと見つめたまま何も言わない、というシーンは、せつなくて本当に泣きそうになりました。

西山:ちょっとうかがっていいですか? これが「詩」だと分かっていたら、改行ごとに間を置いたりして、もっと違う受け止め方ができたのにと反省していて思いついたのですが、こういう作品、欧米では朗読する機会など多いのでしょうか? これ、声に出して読み合ったらおもしろそうだと思いまして。

ハリネズミ:学校で詩を声に出して読むことはよくあると思うし、著者が学校を訪ねて自分の散文詩作品を読むこともしょっちゅうあるかと思います。

オカピ:『詩人になりたいわたしX』(田中亜希子訳 小学館)の著者のエリザベス・アセヴェドは、自身もポエトリースラムをしていますよね。

(2022年4月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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サンドイッチクラブ

『サンドイッチクラブ』表紙
『サンドイッチクラブ』
長江優子/作
岩波書店
2020.06

〈版元語録〉珠子はダブル塾通いをする小学6年生。ぼんやりむかえた夏休みに、無心に砂像を作るヒカルと出会う。強烈な個性をもち、成績もトップクラスのヒカルは「戦争をなくすためにアメリカの大統領になる」という。家庭環境も性格も異なるふたりの少女が、たがいを受け入れ、まっすぐに世界と向きあっていく姿をさわやかに描く。 *2021年度小学生高学年読書感想文課題図書 *第68回産経児童出版文化賞〔フジテレビ賞〕

アンヌ:表紙も題名もおいしそうだったのに、残念ながらサンドは砂でした。それでがっかりしたせいか、おもしろく読めませんでした。特に勝田家の兄弟が苦手で、弟のアイネとハイネたちは傍若無人で、葉真(ヨーマ)もヒカルに「一生負け犬だ」なんて言う。彼の言動を「すがすがしいほど自己中心的」なんていう風に肯定的に感じられませんでした。砂像作家のシラベさんは、ホッとする人格で、最後に「きれいなのは砂が砕かれた地球の一部だからじゃないかな。ひと粒一粒にこの星の誕生から今日までの記憶が宿ってるんだ」(p.236)なんて、心に残ることを語ってくれて、砂は悪くないと思えました。物語の舞台は高級住宅地でしょうか? 500円のクロワッサンが飛ぶように売れて、2つの塾に通わせて私立校を受験させる親がいる安全な場所。そこに、シラベさんの海外での体験や現実の隣国のミサイル実験から、ヒカルの祖母の「戦争はまだ続いている」という言葉が現実として入り込んでくる。けれど、その戦争に関する意識がヒカルや珠子のなかで、どうなって行くのかわからないまま終わっている気がしました。

雪割草:あまりおもしろいとは思えませんでした。さわやかで、砂像というアイディアはおもしろかったけれど、キャラクター設定が漫画っぽい感じがしました。葉真が好きなことがわかっていて、それをやるんだと決めている姿は気持ちよく映りました。でも、家族みんなアーティストで、だから自分もアーティストになるんだという決め方にはなぜ?と思いました。それから、ヒカルがおばあちゃん子なのはわかるけれど、戦争のかぶれ方が極端だと思いました。最後までお母さんも登場せず、ヒカルはどんな家庭の子なんだろうと気になったので、もっと早く家族関係を描いてほしかったです。そして、主人公の珠子の心の整理を受験や塾で表現するのに違和感を覚えました。実際、今の子はこうした環境に置かれているのかもしれないけれど、いいとは思えませんでした。

エーデルワイス:前に読んだきり内容を忘れて慌てました。主人公の珠子とヒカルの対比がおもしろかったです。ヒカルはおばあちゃんの影響が大きくて、おばあちゃんの言葉に囚われているようで心配になりました。現代は塾が大きく存在を発揮して、塾は当たり前のこととして書かれているので、改めてそうなのかと思いました。小学校6年生女子の会話がまるで中高生のような会話に聞こえ、ずいぶん大人びていると感じました。砂の彫刻について知らなかったので、そこが新鮮でした。

ハリネズミ:ずいぶん前に読んだので印象が薄れているのですが、この本は小学校高学年の感想文の課題図書なんですね。私がおもしろいと思ったのは、見えているものだけで判断しないほうがいい、という考え方がずっと一貫しているところです。それと、著者が今の子どもと、歴史とか外の世界を結びつけようとしているのもいいな、と思いました。砂の彫刻については私も知らなかったので、へえ、そうなんだと思ったし、時間をかけてていねいに作ったものでも崩れてしまうとか崩してしまう、というところもおもしろいですね。ヒカルが戦争にここまでこだわるのは、もちろんおばあちゃんの影響もあるのでしょうが、私も少し疑問に思いました。キャラクターは、あえて少しずつデフォルメしているのだと思ったので、リアリティに対する違和感はあまりありませんでした。

さららん:タイトルのつけ方が秀逸で、読むまでは、ずっとサンドイッチの話だと思っていました。目次の言葉選びにも意外性があって、読者を惹きつけます。作者は、少しずつずらしながらイメージの関連性をつくるのがうまくて、例えば珠子がタマゴと呼ばれ、そのタマゴの持ってきたのが「ポンデケージョ」という丸いパン。そのパンも小道具として効果的に使われていますね。ヒカルの家の「漂白剤」の匂いも、ヒカルや祖母の潔癖さの象徴のように感覚に残りました。そして砂像づくりという、まったく知らないアートの世界を通して、子どもたちの成長を伝える点がとにかくユニーク。違う時間軸の中に生きるシラベさんと出会えたことが、人生の岐路にある子どもたちにとって、大きな意味をもちますよね。お金はあるけど、やりたいことがわからない珠子と、貧乏だけれど、頭がよくて、「大統領になったら、戦争のない世界を作りたい…(中略)…世界があたしを置きざりにするつもりなら、ダッシュして先頭に立ってやる」というほど、つっぱったヒカル。2人の立場もキャラクターは対照的で、この2人にちゃんと共感できれば、勝田葉真との砂像づくり対決の物語に夢中になれるはずなんですが、2人の切実さに私はいまひとつ、ついていけなかった。作者には、社会にまず伝えたいメッセージがあり、それに合うキャラクターを持ってきてドラマを作ったのではないかと感じてしまったんです。最後の頁のタマゴの思い、「変わらない景色の中で、砂はたえず動いている。毎日は同じことのくりかえしのようで、そうではないはず。見えない変化が積みかさなって、新しい自分になっていくはず。明日のわたしは今日のわたしじゃない」(p.237)は、少しまとめすぎに感じられ、お話全体の中でこのことを感じさせてほしかったです。このセリフは、ややテレビドラマ寄りだと思いました。

オカピ:塾と学校という、狭い世界で生きていた珠子は、新たな友だちと砂像彫刻に出会い、視野を広げていきます。シラベさんが海外で、銃弾や赤ちゃんのおしゃぶりを砂の中に見つけたという話を聞く場面では、近所の公園から、戦争や難民の問題につなげているのがいいなあと思いました。ペンギンの骨格を調べ、それを砂像づくりに生かすのは、それまでやらされていた勉強が、知りたいことに結びつく瞬間ですね。ヒカルが「ケンペー」という言葉をよく口にするのは、少し違和感がありました。もし今の時代に戦争が起きて、憲兵のような人たちが出てきたとしても、それはべつの名前になるだろうから。p143にあるように、ヒカルは「心だけ別の世界に行ってしまう」ということなのでしょうが。

ネズミ:中学受験や塾に行くのが前提になっている日常というのが、今の小学生にはあたり前のものなのかなと思いながら読み始めました。地方でもそうなのでしょうか。

エーデルワイス:東京とは違い、私が住んでいる地方では、私立中学受験がないわけではありませんが、少ないです。小学生は『くもん』に通っていますね。

ネズミ:そうなんですね。小学6年生にして進路選択を迫られるとこうなるのかもしれませんが、ヒカルや珠子の心持ちや人物像を私は今ひとつはっきりととらえられず、物語に入り込めませんでした。だからか、作者がいろんな問題意識を読者に投げかけているのは好感を持ちますが、やや全体にごつごつした印象というか、取って付けたような感じがしてしまいました。たとえば、p133の、マルタ島の赤ちゃんのおしゃぶりに始まる難民の説明とか。思いがけないところで私たちのすることは世界につながっているというのを、作者は示したかったのかもしれませんが。

ヒトデ:「砂像」というテーマに、著者のセンスが光っていると思いました。タイトルの付け方も魅力的で、著者ならではのものだと感じました。「現代の子どもたちに、戦争のことをどう伝えるか、どう考えてもらうか」という難しい課題に、ハムと祖母とのやりとりや日常に影を落とすように出てくる「ミサイル」という装置を使いながら、この物語ならではの方法でアプローチしているところがいいなと思いました。現代が過去とつながっていること、戦争が決して、断絶した「過去」の話ではなく、現代そして未来にも起こり得るものであることを伝えているところが、とってもいいと思いながら読みました。

カタマリ:初めて読んだときは、砂像の話に引き込まれつつ、要素がいろいろ盛り込まれ過ぎているため、少し散漫かなと思いました。今回再読したときは、散漫には感じず、とてもおもしろく読みました。砂像のはかなく消えてしまう、という特質が物語全体にいい味をもたらしています。登場人物の女の子たちの書き分けもうまいなと思いました。塾で女の子たちがわちゃわちゃ会話していても、誰かと誰かがごっちゃになることもなく、スムーズに読めました。敢えて1つ言うとすれば、砂像バトルが盛り上がりに欠けるんですよね。それは、大会などではなく、私的な勝負だからということもあるのですが、いちばんの理由は、主人公とヒカルは成長しているのに、ライバルの葉真が成長していないからではないかと考えました。最初からすごくできる人で、ずっと似たものを作り続けているんですよね。彼が壁を突き抜けてさらに成長するシーンがあると、主人公たちの頑張りも際立つのかなと思いました。

シア:砂像アーティストというのを知らなかったので、おもしろく読みました。受験期の子どもがストレスから別のものにハマるという話は多くありますが、この本は保護者が適度な距離を持って接している理想的な形だと思いました。そのため、主人公はそれを理解したうえでゆとりを持って自分の進路を考えることができました。現実ではなかなかこうはいきまません。実際、中学説明会の教師ひとりの面談で決めるというのは微妙ですしね。だからそういった意味でもフィクションな面が強いし、戦争や貧困などいろいろな問題も盛り込まれていましたが、どれもふわっとさせていて、なんとも小綺麗なまとめ方をしたなと思いました。まあ、そういうのは嫌いじゃないので、それはそれでありかなとは感じました。まるでサンドイッチの断面のような、作られた美しさではありますが。「サンドイッチクラブ」という題名も“サンド”と“砂”とひっかけていて、ここも上手くまとめていますね。

ルパン:これは、申し訳ないけれどおもしろいと思えませんでした。いろいろ盛り込まれているんですが、何もかも中途半端な感じで。砂像、中学受験、経済格差、ミサイル問題、友人関係……。唯一筋が1本通っているのは葉真かな。「教室の中でじっとしていられないから外に出て砂像をつくる。そして世界的なアーティストになる」という。でも、それも、誰かに何かを伝えたいとか、何かを主張したい、という感じではなくて、ただ有名になりたいだけみたいだし。それでも、よくわからない方向転換を繰り返すヒカルや珠子よりはましかな、という気がしました。葉真の弟たちもなぜふたごの設定なのかよくわからない。このお洒落な名前を出したかっただけかも、と思っちゃいました。ただ、砂像というのはいいモチーフだと思いました。検索したら、すばらしい砂像がたくさん出てきて、感心しました。砂像の迫力とはかなさの魅力をもっと物語の中で活かせたらよかったんじゃないかな、と思いました。

ハル:いろいろな要素がからまっていて、とてもおもしろかったけれど、すごく上手かといったらそうでもないような。ところどころで「どうしてこういう表現になるのかな?」と浮いてしまうような部分もあり、それは私の読み込みが足りないだけじゃなくて、書き込みも足りないんじゃないか……という感じがしました。印象に残っているのは、「世界にはばたくリーダーとなれ」なんてスローガンをかかげている学校の先生が、とてもいい大人だったこと。ヒカルのような子がいる一方で、珠子のように、将来の夢なんてわからない、という読者のことも、それでいいんだと包んでくれて、とても心強く思いました。もうひとつは、ヒカルのおばあさんは、実は戦争を体験していなかったというところ。隔世の感がある、と言うと語弊があるかもしれませんが、ぞくっときました。呪いのように残り続ける憎しみこそが、次の戦争の種になるんだということでしょうか。

西山:どうも腑に落ちない……。長江さんは他の作品でも戦争をめぐる題材を持ち込んで書かれていて、それ自体は賛成だし、題材の選び方も珍しかったりするし、そういう問題意識には共感するのですが、作品というまとまったイメージとして、捕まえ切れません。なんでだろう……。たとえば、ヒカルは最初アニメ的なエキセントリックな設定と感じたのですが、おばあちゃんの呪いに囚われていて、ミサイルへの異様なまでの危機感(危機感を持っていない方が「異様」とも言えると思いますが)とか、その辺がアンバランスで、どう読めばよいのかよくわかりません。ヒカルにさんざん戦争体験を語り聞かせていた祖母が実は戦後生まれだと知った後の、「たぶん、昔話として孫に戦争を語っても、伝わらないって思ったんじゃないかな。自分が体験したように話したほうが迫力でるでしょ」(p55、1行目)は、相当強烈な皮肉と平和の語り方に対する問題提起になっているけれど、この件はこれで放り出されているまま。戦争に怯えているヒカルの状態は病的と言って良いほどだと思いますが、それもほったらかされている。ヒカルは自分に敵対する言動に対する反撃として「ケンペー」を口にしますし、「そうだね。あたしたち、シャベルの使い方がうまいから防空棒を掘るときに重宝されるよ。ケンペーだって、あたしたちに一目おくにきまってる」(p142-143)ともあって、憲兵が味方みたいな位置付けなのも腑に落ちません。おばあちゃんは「戦争体験」どんなふうに伝えたんだろうと。すごくアグレッシブに問題提起しているんだろうけれど、つかみあぐねる感じです。絶妙な表紙絵ですし、ハムとタマゴで「サンドイッチクラブ」なのも楽しい仕掛けではありますが、おいしそうなサンドイッチの話でないことにがっかりする子どももいると思います。小学生の頃、吉田としの『小説の書き方』(あかね書房)が、全然「小説の書き方」の本じゃなかったことにがっかりした経験を思い出しました。

しじみ71個分:この本は再読ですが、料理に関する本かなとタイトルで手に取りましたので、「やられたな(笑)」と思った記憶があります。1回目に読んだときは、砂像を作る話だという以外は、あまり印象に残っていなかったのですが、JBBYのイベントで、長江さんのお話を伺い、こういうことを考えておられる作家さんだったのかと思い、今回、興味を持って改めて読み返しました。はじめて読んだときは、メッセージを伝える素材である砂像から世界が見えるということや、戦争のイメージを刷り込まれた子どもが登場するなどということはあまり記憶に残らなかったのですが、読み直すと、少し作家の考えやメッセージがストーリーから飛び出している感じを受けました。なので、背景やら、物語の彩りの部分を除けば、珠子という主人公の朗らかな女の子が、ヒカルと出会ってサンドアートを体験し、自分で自分のことを考えるようになり、孤独だったヒカルも友だちを得て、日常とのバランスを取り戻していく、というシンプルな友情の物語だな、という印象です。サンドアートはおもしろい着眼点だと思いますが、世界や戦争などの要素が、2人の少女たちの関係や心持ち、成長といった物語の柱に対して、それほど効果を生んでいないのかなという気もしました。表現はところどころ、とてもいいなと思いました。たとえば、ヒカリがライオンの砂像にまわし蹴りをくらわすところで、「ふりあげた足からビーチサンダルがぬげて、雨の中をロケットみたいに飛んでいく。」(p.42)とか、「光の粒子がまぶたをすりぬけて、星のように暗闇の中でチカチカとまたたいている。」(p.128)とか、体感的ですてきな表現がありました。美しい表現をされる作家さんなので、これからの作品にも期待しています。

サークルK:受験を控えた6年生女子のモヤモヤが言語化されていて、受験することがつらくなって逃避していく展開なのかと思いましたが、砂像をめぐる新しい友人たちとの出会いによって自分を見つめなおす機会が生まれていくという物語になっていたのだとわかりました。(ただ、夏休みをここまで使ってもう1度受験勉強生活に戻っても、時間的に間に合うのだろうか、やる気だけでは乗り切れないのではないのかという現実的な心配がありますが。)p.57ページのヒカルの独白は、2022年4月の現在に起きているウクライナでの戦争を踏まえれば、より一層重いものと受け止めました。ヒカルが、だからアメリカに行きたい、と短絡的に発想する所には、世界を救うために飛び出していく行先がやっぱり欧米が主体になってしまうのだな、と少々苦笑してしまいました。

(2022年4月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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家族セッション

『家族セッション』表紙
『家族セッション』
辻みゆき/作
講談社
2021.07

〈版元語録〉普通の家庭に育った千鈴、お嬢様育ちの姫乃、シングルファーザー家庭の菜種。中1に進学する春、3人はそれぞれの親から、「赤ちゃんのときにすり替えられていた。」という衝撃の事実を知らされる。それぞれの家へホームステイをしながら、3人はそれぞれの思いを抱え、悩み、葛藤する。ほんとうの家族とは何か、真の愛情とは――。運命に翻弄されながらも、3人は新しい一歩を踏み出していく。

コアラ:自分はこの家の本当の子どもではないのでは? と私は子どものころ考えたりしていました。血縁の家族か、育ての家族か、というのは、今の子どもが読んでも考えされられる問題ではないかと思います。物語の3人の子どももそれぞれの親も、この問題にしっかり向き合うし、読んでいて引き込まれました。p140の後ろから6行目の千鈴の言葉は、この問題に向き合うことで成長していることがわかります。p167の6行目やp222の4行目など、蟬の声とか朝日とかを、その時の状況説明として効果的に使っているのが印象的で、技術がある書き手だなと思いました。好きな場面はp223の5行目から8行目で、愛されているというのは、心の支えになるし、親が子どもを愛しているということは、態度で示すと同時に言葉にすることも大事だと思いました。あと、タイトルにある「セッション」というのは、うまい言葉だと思いました。その意味は、p158の3行目で「周りの音をよく聞いて、全体の雰囲気に合わせながら、自分の個性を出す。そうすると、そのときの、そのメンバーにしか出せない、いい音楽になるんだよ」と説明されていて、3組の家族がこうなっていくんだというのがイメージできました。ただ、実際のセッションの場面がほんの数行で、あまり活かしきれなかったのかなと残念でした。全体的にはおもしろかったし、いろんな人に読んでほしいと思います。

ハリネズミ:おもしろく読みましたが、いくつかの点でひっかかりました。主人公たちはどの子も自分をしっかりもっているように思えるのに、親たちに向かって「今の家族がいい」とは一言もいわず、姑息な作戦で親たちにそれをわからせようとしています。それがなぜなのか、理解できませんでした。昔は、病院での新生児の取り違えが結構起きていたんですね。著者が参考にしたのは『ねじれた絆』とありますが、このテーマはテレビや映画ではいろいろと取り上げられていますね。私は是枝監督の「そして父になる」という映画がとてもおもしろかったんですね。あの映画の子どもは6歳くらいですから少し違うんですけど、それでも「血縁と一緒に過ごしてきた時間のどっちが大事か」という問いには、一緒に過ごしてきた時間のほうかも、という流れになっています。現代の欧米の作品でも、血縁より一緒に過ごした時間の質のほうが大事、というふうにおおむね描かれている。でもこの物語では、血縁を重んじるという流れになっていて、そこはとても日本的だと思いました。と同時に、これでいいのか、という疑問もわいてきました。

みずたまり: 設定に無理があって、そこを乗り越えないと物語に入れないという意味ではファンタジーだなと思いました。無理があるなと思ったのは、取り違えの部分です。実際にあった事件は、50年前、60年前のことで、現在だったら随所に防犯カメラがあるし、油性ペンで書かれた足の名前が消されてたら、あきらかにおかしいと確認するだろうし、もう少し犯罪が成立した要因をくわしく書いてもらえないと納得しづらいと思いました。でも、それはそれとして読み進めると、先が気になって、3人の反応や感情の揺れが興味深くて最後まで一気に読めました。あって当たり前の家族が揺らぐ、家族とは何か、という問題提起はとてもおもしろく、中学生の読者も考えさせられると思います。ただ、やっぱりツッコミどころもいろいろありました。反抗期の年齢の3人が3人とも、今のままがいいと心から思うだろうか? と気になります。またどの親も、今の子と本当の自分の子と両方大好き、という前提ですが、誰にも愛を注げないタイプの人がいたらどうだろう、とも考えました。

オカピ:お嬢様の姫乃、豊かな家庭ではないけど家族仲のいい菜種など、登場人物は漫画的な印象を受けました。去年『クララとお日さま』(カズオ・イシグロ/著 土屋政雄/訳 早川書房)を読んだとき、その人をその人たらしめるというか、かけがえのない存在にするのは、その人の中にある何かじゃない、特別なものはまわりの人たちの心の中にある、というのに、真実だなあと思ったのですが、この本のラストの選択はその逆をいっているような。生まれという自分では選べないものを重視するのは、血統主義にもつながる危うさをおぼえました。姫乃のおばあさんは「理由のあるほうを選んだらいい」(p182)といいますよね。「理由のあるほう」という考え方は、日本の社会の同質性をますます強めることになるのでは。あと引っかかったのは、p183「世の中には、自分のことも、他人のことも愛せない人がいる。身近な人に、身体的、精神的に暴力をふるう人や、子どもを虐待する人。育児放棄をする人もいる。現に、十三年前、子どもたちをすり替えた犯人は、そういう類いの人間だったではないか。/でも、ここにいる人たちは、そうではない。みんな、自分というものを持ち、お互いのことを思いやり、愛情いっぱいに子どもを育ててきた、信頼できる人たちなのだ」という箇所です。自分たちは愛情深い人間だけど、事件を起こしたのは「そういう類いの人間」だという、レッテルを張るような言葉に辟易しました。

アンヌ:最初から親は血縁家族に戻ると結論づけていて、その中で子どもたちが納得するのを待っているんだなと思い、自然描写の多さといい、いかにも日本的な小説だなと思いました。男親が血縁主義でそうなったんでしょうか? その割に男性たちの影が薄いですよね。「人生、思いどおりになると信じてきた人にはわからない」(p41)なんていうすごいセリフが出てきたりする割には、菜種が裕福な家庭に移ったことについての感慨や元の家庭についてどう思っているのかが描いてなくて不思議でした。13歳というのは、千鈴のように男性ばかりの家に移るには、きつい年頃じゃないでしょうか? 料理を教えにといえば聞こえはいいけれど、実際には2軒分の家事の掛け持ちになる母親も、看護師の仕事をしながらだなんて、たまらないだろうと思います。それなのに、この2人が中心になってこの取り換えっこを肯定するというのが奇妙な気がしました。題名にもある音楽のセッションも生かされていない気がします。いっそ全員で同じ、楽器OKのマンションにでも住んで、毎日セッションしながら、誰が誰の親か姉妹なのかわからないほどの混沌とした関係を作っていく、なんてほうが納得がいくような気がしました。

サークルK:3人のキラキラネームの女の子たちの性格の違いが明らかで読みやすかったです。p126「うらやましい」「ずるい」「ねたましい」という3つの感覚は思春期の女の子が抱えるモヤモヤした気持ちをうまく状況に即して言語化していると思いました。子どもと同じように大人も迷い悩むことがあるのだ、というところまで描いたことは、よかったです。読者の子どもたちに、大人だからって何でも知っているわけではない、何でも決めてよいわけではないということが伝わるのではないでしょうか。ただ、今回ほかの参加者の方の感想を聞くうちに意見が変わって、血統主義万歳的な結末は確かにおかしいし、『ラスト・フレンズ』と比較してみると3人の子どもたち、親たちが幼く薄っぺらなキャラクターに思えてきてしまいました。

キビタキ:赤ちゃん取り違え事件は一時期結構多かったので、ドラマ化されたりもしましたよね。実際の例を見ても、育ての親を選ぶか生みの親を選ぶか、どちらが本人にとって幸せかは本当にケースバイケースだと思います。どちらにしてもつらい選択であることは間違いありません。ここでは3組の親たちがすんなり同じ結論にまとまって、足並みそろえて同じ方向に向かうところに違和感がありました。夫と妻でも違うと思うし、決断はいろいろあるはずなのに、不自然だと思います。でもこの本は子どもたちが主人公なので、子どもの気持ちのほうに重点が置かれているのでしょう。子どもたちは、最初は全く拒否していたのに、いざホームステイしてみると、少しずつその家族なりのよさを感じ始めますよね。結局この本でいいたかったのは、どっちが幸せか、という選択よりも、家族はそれぞれに違うこと、それぞれの幸せがあることに気づくところにあるのではないかと思いました。この本を読んだ子どもたちは、もし自分がほかの家の子だったらどうなっていたか、と絶対思うでしょうね。自分の親兄弟や家庭のことをあらためて見直すきっかけになるだろうし、ひとの家庭にも、外からはわからない絆や感情があることを知ると思いますから、そういう意味ではおもしろいと思います。
余談ですが、私が小学生のころに読んでとても印象に残っている本に、吉屋信子の『あの道この道』(現在は文春文庫)という少女小説があって、それをどうしてももう一度読んでみたくてつい最近読み返したんですが、それが大金持ちのお嬢様と、貧しい漁師の娘が赤ちゃんのときに入れ替わってしまうという話なんです。お嬢様は高慢ちきで、漁師の娘は清く正しく美しいという、絵に描いたような単純な取り合わせの少女小説なんですが、結構おもしろいんですよ、これが。つまり、こっちの家庭に育っていたらどうなっていたか、というテーマは昔からあって、すごくドラマチックなんですよね。

エーデルワイス:今回の課題図書は2冊とも3人の少女が主人公で、さすがと思いました。赤ちゃん3人の取り違え事件は、難しいテーマと思いました。結末がそれぞれの血縁に戻ることに疑問を持ちます。もっと時間をかけたほうがよいのでは? 親が年をとって介護、財産分与など大人の問題が見え隠れしてきます。この3家族は心優しい人たちですが、もしも、よこしまな親だったり、虐待があったり、はたまたこの3人が男の子だったら……? どうなるのだろうと考えたりしました。千鈴が育ての母親に向かって、自分ではなく実の娘「姫乃を選んで!」と叫ぶシーン(p223)はありえない! と思いました。表紙の絵は3人のラストの場面で清々しいです。今後幸せな人生でありますようにと願いました。

雪割草:どう受け止めたらいいのか、とまどう作品でした。結局、親は血のつながった子を選ぶ。ひょっとして、読んで傷つく子はいないのだろうかと考えました。みんな右ならえで同じ選択をするのはいかにも日本的で、人それぞれという描き方ができなかったのは残念に思いました。わたしもp223で、千鈴が母親に向かって「姫乃を選んで!」という場面は、こんなこと言わせるの? とおどろきましたし、恋愛じゃないのだからと苛立たしくも感じてしまいました。それから、きょうだいの態度も割とあっさりしていて、実際、もし一緒に育ってきたきょうだいが、血がつながっていなかったからとほかの家に引っ越してしまったら、もっと悲しむしもっと複雑な気持ちだと思います。作者は、何をもってどんな子にこの作品を届けたいのか、私にはわかりませんでした。「あとがき」なり、作者のメッセージを入れたほうがよいのではないでしょうか。セッションという発想はいいと思いましたが、どのように家族に当てはめようとしているのか、この作品ではしっくりきませんでした。

コゲラ:『ラスト・フレンズ』とは違い、作者が何を書きたかったのか、さっぱりわからない本でした。単に、取り違え事件がおもしろい作品になると思っただけなのかな? 季節を擬人化した文章も陳腐というか、気取っているだけとしか思えませんでしたが、そういう細かいところよりも、とても気になったのは、つぎの2点です。
ひとつめは、ほかの方もおっしゃっているように、最終的には血縁が大事と作者が結論づけているようなところ。血のつながりは温かいものだけど、それによって傷つけられたり、悩んだりする子どももいます。以前、親から虐待されている小学生の子どもが、警察に訴えようとしたのだけれど「血のつながった親のことを警察に言うなんて、自分は悪いことをしようとしているのでは」と悩んで、何日も交番の前を行ったり来たりしたというニュースを見ました。成長すれば、自分は自分、親は親と割りきれるようになるけれど、小さい子どもほど、そういう罪の意識を持ちがちだとも聞きます。「血縁が大事」という考え方のために、救われない子どもや大人が大勢いるのでは? 今は、いろいろな形の家庭があっていいという認識が少しずつですが広まっていて、特別養子縁組制度で子どもを育てている家庭も増えているのに、なぜこういう結末になったのかと、残念な気持ちになりました。親も子も、それぞれの思いや考え方があるのに、文化祭の準備じゃあるまいし、全員一致で決めていいものかと……。
ふたつめは、「犯罪者」に対する作者の考え方です。文中では、取り替えられた子どもの母親、美和子さんにいわせているけれど、文脈からいって作者の言葉と同じと思って間違いないと思います。まず、p46で美和子さんが「犯罪者の中には、全知全能感を持っている人がいるらしい」といっている箇所を読んでショックを受けました。犯罪をおかせば犯人になり、刑を受ければ受刑者になりますが、刑期を終えればわたしたちと同じ市民です。「犯罪者」ではありません。もしかして作者は「世の中には、善良な市民と犯罪者のふたつのグループがある」と思っているのではという疑問がわいてきました。「犯罪者の家族」とか「犯罪者の血筋」といわれて苦しんでいる人たちのことも、頭に浮かびました。そして、p183を読んだときに、やっぱりそうなのかと思いました。ここで美和子さんは「世の中には、自分のことも、他人のことも愛せない人がいる……犯人は、そういう類いの人間だったのではないか」といい、「でも、ここにいる人たちは、そうではない。みんな、自分というものを持ち、お互いのことを思いやり、愛情いっぱいに子どもを育ててきた、信頼できる人たちなのだ」と続け、それが「最初から、あまりにも自然なことだったので、気がつかなかった」といっています。「そういう類いの人間」と「愛情いっぱいの、信頼できるわたしたち」に、はっきり分けているわけですね。以上の2点からいって、いくら軽快におもしろく書かれているとしても、おもしろく書かれていればいるほど、子どもたちに読んでもらいたいとは、とても思えない本でした。

ハル:想像力を刺激される部分や、胸にせまる場面もあっただけに、結末が見えたときには思わず「ええー」と声が出てしまいました。これが大人向けのエンタメ小説だったら文句言いません。子どもの本として、何を読者に伝えたかったのでしょう。実のお母さん、お父さんと一緒に暮らせるのって、当たり前じゃないんだよ、あなたたちは気づいてないでしょうけど、とっても幸せなんだよってことでしょうか? ちょっと意地悪に読みすぎですか? でも、里子、養子、里親、養親、そのほかいろいろな家族や家庭があるじゃないですか。生まれはどうあろうと、さまざまなセッションで家族、家庭は作られていくんだと思いたいです。社会的養護の分野で日本はまだまだ遅れていると聞きますが、ここ最近みんなで読んだ海外作品と比べても、その通りだと思えてしまいました。

しじみ71個分:皆さん既にご指摘のとおり、最終的にあっさりとみんなが血縁関係におさまってしまうのは、納得がいきませんでしたし、何を意図してこの物語を書きたかったのかわかりませんでした。読んで新しいおどろきも発見もなくて……。『スーパー・ノヴァ』(ニコール・パンティルイーキス/作 千葉茂樹/訳 あすなろ書房)、『わたしが鳥になる日』(サンディスターク・マギニス/作 千葉茂樹/訳  小学館)や『海を見た日』(M・G・ヘネシー/作 杉田七重/訳 鈴木出版)など、血縁にもとづかない家族のあり方を翻訳の物語で読んだからかもしれないですが、それらと比べると、主人公たちの気持ちの掘り下げが浅いように思います。赤ちゃん取り違え事件なんて、本当に重大事なのに、子どもたちの葛藤が少ないと思ったんです。もし、そんなことがあったら、これまでの人生は何だったのかとか、自分とはいったい何なのかとか、もっと深刻に悩むんじゃないかなぁ……。反抗しているようで、なんか大人たちの考えたことというか、もっといえば弁護士の計画に、子どもが踊らされているようで気分がよくありませんでした。本当の家族のところにホームステイしている間、口を利かないとかいうのも幼稚だし、子どもたちの気持ちに寄り添えなかったです。大人の中では、看護師のお母さんだけ、心情や考えの描写がありますが、病院関係者という立場で事件の詳細を語らせ、病院に対しても一定の理解を示してしまっているので、とても説明っぽくなってしまいました。著者の考えを看護師のお母さんに語らせてしまっているように見えました。また、このお母さんの心情描写のせいで、物語の視点が親の側にも残ってしまっているので、大人の心情を語りたいのか、子どもの心情を語りたいのか、どっちつかずになってしまったと思います。また、p43の「空っぽの教室に満ちている春の空気は、見知らぬ人がふと気づかってくれる優しさに似ていた」というように、情景に意味づけしてしまうような表現があちこちに見られて、それは読む人が描写から読み取るか、必要であれば登場人物が語るべきであって、著者が説明してしまってはだめなんじゃないかと思い、最初から引っかかってしまいました。

花散里:赤ちゃんの時に取り違えられた3人の少女たちが一人称でそれぞれ語っていき、三人称で語られていく親たち。昨今の児童文学の中でタブー視されてきた家族のあり方として、親の離婚、児童虐待などを取り上げた作品が多い中、この本の救いは、3家族がそれぞれ愛情深く、血のつながりということよりは家族のあり方を描いた作品だとは感じました。それでも13歳のときに取り違えがわかり、血のつながりのために育った家族から離れて暮らすことを選ばされていくというこの作品を子どもたちがどう読むのかと思いました。

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ネズミ(メール参加):状況設定や、3つの家族の関係の語り方が説明的で入りにくかったです。自分がこの親の子どもでなかったなら、ということを、仮定であれ、子どもに問わせること自体、私は受けとめられませんでした。どんなふうに中学生の読者に届ければよいと思うか、他の方の考えを聞きたかったです。

(2022年3月の「子どもの本で言いたい放題」記録)

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ラスト・フレンズ~わたしたちの最後の13日間

『ラスト・フレンズ』表紙
『ラスト・フレンズ~わたしたちの最後の13日間』
原題:ALL THE THINGS WE NEVER SAID by Yasmin Rahman, 2019
ヤスミン・ラーマン/作 代田亜香子/訳
静山社
2021.06

〈版元語録〉16歳の3人の少女たちはあるマッチング・サイトで出会った。彼女たちの目的は……。衝撃の展開に、ラストまで目が離せない感動作!

しじみ71個分:ページを開いてみて、はじめからびっくりしました。作者の実体験にもとづくコメントや、「いのちの電話」の紹介などがあって、また、タイトルも「ラスト・フレンズ」なので、どんな展開になるのか、ちょっと不安を抱きながら読みました。ですが、物語を読み進めていくと、3人の女の子のキャラクターもきっちりと書き分けられ、それぞれの苦しみが、リアルに嫌というほど伝わってきて、3人にとても共感しました。自分が若い頃、非常に精神的に不安定だったことも思い出されてきました。最も共感してしまったのはミーリーンで、わたしはリストカットまではしませんでしたが、自己を否定するネガティブな言葉が頭を支配する感じや、大勢の中で非常に強い孤独を感じるあたりは、すりむけたところがヒリヒリするようで、読んでいていたたまれなかったです。でも、ティーンエイジャーだったら、実際に鬱だったり、性的虐待にあったり、障害があったりしなくても、3人のどこかに共感する点を見つけられるのではないでしょうか。
それから、編集の荻原さんに原文がどうだったか、おうかがいしたかったのですが、例えばオリヴィアの章では、段頭がわざわざずらしてあったり、ミーリーンについても現状の認識と頭の中のネガティブな言葉とでフォントが変えてあったり、見た目の行の配置でも心の状況が分かるようになっていますね。これも、緊迫感を醸し出してとてもよかったと思います。自殺幇助のサイト、メメントモリの存在も物語にじわじわと恐怖感を与えていて、インターネットの危険性も伝わりますね。途中までは3人が自殺してしまうのではないかとドキドキし、後半はメメントモリからの攻撃でスリリングな展開になり、結局最後までドキドキしながら読みました。大変におもしろかったです。

コゲラ:表紙を見て、ていねいな前書きやインフォメーションを読み、おっかなびっくり読みはじめました。3人の少女の性格や、置かれている状況がしっかり描かれていて、それだけにページをめくる手が、ともすれば止まりそうになりました。でも、3人そろって服を選ぶ場面から明るい兆しが見えてきて、ほっとしました。前半とうってかわって、後半は悪意のあるネットのサイトの所有者との闘いで、まさに手に汗にぎる展開。一気に読めました。
作者はもちろんのこと、編集者、訳者の細かい心遣いと熱意が感じられる、よい本だと思います。ただ、図書館や学校で子どもたちに手渡す立場にある方は、神経を使うだろうなと思いました。むしろ、読書会などグループで読むときの課題本としたら、とてもよいのではないでしょうか。先日のニュースで、自殺をしたい子をネットで誘って監禁した事件を報道していましたが、日本の10代にとっても他人事ではないので。p12で、主人公のひとりのカーラ言っていっていますが、「サマリア人協会=サマリタンズ」は日本の「いのちの電話」のことで、カーラがふざけていっているということが、日本の読者にはわかりづらいのでは?

雪割草:展開が気になり、引き込まれて読みました。作者のメッセージが冒頭にあることで、読者への配慮や届けたいという思いが伝わってきました。3人それぞれが、母親との関係によって前に進めるようになるのもよく描かれていて、思春期の読者には伝わるものがあると思いました。それからメメントモリというサイトですが、グループワークを通して自殺をやめさせるいいサイトなのかもしれない、と最初は思ったりしてしました。でも実際は違って、ネットの恐ろしさや世の中の悪意、その子どもたちへの影響を考えさせられました。長く、内容もセンシティブで、出版社にとっては挑戦だったのではと思いました。

エーデルワイス:表紙イラストの3人の少女たちの顔に目鼻口がありません。物語を読む前から少女たちの心情がすでに伝わってくるようです。本文の文字の配列が視覚的に変化して、ミーリーンの苦しい心の叫びが伝わり、つらくなりました。オリヴィアの性的虐待に母親が正面から向き合ってくれてほっとしました。こういう状況の子たちを大人がいち早く気づいて守ってほしいと願います。問題を抱えている子どもに即刻ソーシャルワーカーがつくところがすばらしいですね。最後にミーリーン、カーラ、オリヴィアの3人が、自殺サイトの罠にも負けず、生還できたことにほっとしました。

キビタキ:カバー前袖の文章と、物語の前に「いのちの電話」などのサイトの紹介があるので、ちょっと身がまえてしまいました。読者は高校生くらいだと思いますが、ここを見て読んでみようと思う子と、逆にちょっと引いてしまう子がいるのではないでしょうか。それぞれの少女の一人称で語られる章が入れ替わりで出てくるという構成が、最初は読みにくくて、3人のことを把握するのに少し時間がかかりました。それぞれの抱えている苦しみや心の叫びがうまく描かれていましたが、その分、読み進むのはとてもつらくて、途中でやめたくなりました。後半は、やっと気持ちをわかってくれる相手が見つかったことで3人が楽になっていくので、読んでいるほうも救われるのですが、そう思う間もなく急展開が待っていて、ハラハラし通しだったと思います。3人の主人公は16歳なので、同世代の読者には響く部分が多いのではないかと思いました。

アンヌ:最初に「いのちの電話」が提示されて自殺について書いてあるとわかるので、戦争が始まったという今の状況でこの物語を読み始めるのはきつく、その上事故による下半身まひ、鬱、性的虐待という状況が描かれるので、もうそこから進めなくなってしまいました。でも時間をおいて読み直し始めたら、それからは一気読みでした。3人はごく普通の仲よしのティーンエイジャーのような生活、チェア・ウォーカーになったカーラができるとは思っていなかったような生活を楽しみます。まず、ショッピングモールでお買い物をし、ランチをとる。ここで、普段はグッチを着ているというオリヴィアの言葉に階級を感じましたけれど、でも、彼女のように服を見立てるのが得意な友だちと買い物に行くとお互いが満足できて楽しいですよね。ランチではミーリーンに、ちゃんとしたハラルのお肉を食べさせる店を見つけてあげる。好奇心から宗教上の禁止事項は訊いてくるけれど、そこから先に踏み込んでくれない人たちとは違って、カーラは解決法を一緒に見つけてくれる。いつも遠慮しているミーリーンが気を使ってもらえて喜ぶところは、読んでいて楽しくなりました。それから、性的虐待を逃れてするジャンクフードだらけのパジャマパーティ。ここも楽しくて、このマイナスとプラスの場面構成は、とても動的でリズムがあるなと思いました。ミーリーンが母親に絵を描くことを認めてもらう場面では、現代のムスリム女性が子どもたちには自由に生きてほしいと思っていることも知ることができました。ただ、ここから先のサイトからの反撃などが出てくる場面はスリル満点ですが、少々つらく、まだ読み返す勇気が湧いていません。私の好きな場面は、カーラが救急車に乗せられるミーリーンにスカーフを巻いてあげ、その気持ちが救急隊員の女性にも伝わるところです。他者に想像力をもって接することの大切さを訴えかける見事な小説だと思いますが、実際に死の誘惑を感じている子どもに手渡すのには注意が必要だとも思います。

オカピ:今、日本で、子どもの自死はとても多いですよね。最近、『ぼく』(谷川俊太郎/作 合田里美/絵 岩崎書店)という絵本の特集番組を見たのですが、「子どもの自死をテーマに児童書を出す上で、伝えたいのは “死なないで” ということだけど、それをそのままぶつけても届かない」と、編集者の方がおっしゃっていました。それをどうやって絵本とか、この本の場合はYAという作品にするのか、ということですよね。その番組で、「人間社会内孤独と自然宇宙内孤独がある」という谷川さんの言葉も印象的でした。私は中学のとき、「とくに悩みがあったわけじゃないけど、死にたいと思ったことは何度もある」と友人に言われて、驚いた記憶があります。いじめとか虐待とか、そうした具体的な理由がなくても、ふっと死に引きよせられることがあるんだなって。この『ラスト・フレンズ』では、鬱、性的虐待、父親の死に対する罪の意識など、死に向かう理由が示されていて、もちろんそういうケースもあるのですが。詩の形で書かれた本が今たくさん出ていて、この本でもオリヴィアの章はそうなっています。p115「ミーリーンが床からパソコンを拾って/いう」、p317「ミーリーンはぱっと顔を上げて、ちょっとだけ/ふら/ふら/歩いてから、いう」など原書通りの改行なのでしょうが、そのまま日本語の作品にするのはなかなか難しいのかなと。訳はp6の「ムリやり」「大っキラい」、p8「フツー」、p11「キツい」、p13「アガる」など、カタカナが多いのが古く感じられて、私にはちょっとしっくりきませんでした。地の文なんかは心の中で思っていることなので、今の言葉をそんなに使わなくてもいいような……。シリアスなテーマの本というのもあって、訳が少し浮いているように感じました。

みずたまり:近く感じる死を回避して、生きることに向かっていく少女たち、という大きな流れはとてもよくて、3人のやりとりを興味深く読みました。それぞれの背負っているものはとても重いけれど、友情があれば乗り越えられる、という力強さを感じました。ただ、自殺サイトのハッキングについて詳細が語られていなくて、カメラがいつも都合よく見たいものを撮影しているような気がしました。そのあたり、もう少し仔細に書いて納得させてもらいたかったです。あと、わたしは、3人が中盤で生きる決意をして、自殺サイトの正体を協力して暴いていく展開なのかと想像してしまいました。死と生に対して、よりポジティブに向かう方向を勝手に期待しすぎたので、ああ、そっちではないのね、と途中で軌道修正しながら読みました。

ハリネズミ:苦しい場面がずっと続くので途中で休み休み読みました。もう少しユーモラスなところとかがあると、休まず読み続けられたと思うんですけど。育った環境も文化も違う3人が自殺幇助サイトで知り合って、しだいに友情を結んでいくというストーリーですけど、こういうサイトは実際にありそうで怖いですね。そういう意味では、とても現代的な作品だと思います。性的虐待に関してですけど、この作品では、虐待をしていた男はすぐに逮捕されます。被害者の証言が重視されているということですよね。日本は伊藤詩織さんの件を見ても、まだまだ加害者に有利で残念です。下半身マヒのカーラが、過保護な母親をうるさいと思っていて、独りにしてほしいとあれだけ言っているのに、母親に恋人ができたのかといちいち気にして逆に母親の一挙一動に目を光らせるのは、ちょっと私の中では人物像が結びにくかったです。著者が一所懸命に書いているのは伝わってきましたが、あらかじめこういう流れで書こうという設計図があるせいか、ちょっと堅苦しさを感じました。もっと自然に登場人物が動いていくと、きっとユーモアも入ってくるのかもしれません。

サークルK:表紙の3人の肖像画を額縁に入れて図案化したものを、各章の名前の下に毎回入れている工夫がなされ、3人それぞれの事情を読むときに迷子にならずにすみました。冒頭に「いのちの電話」の案内などが書かれていることもあって身がまえる読者もいるかもしれませんけれど、あえて原題と異なる『ラスト・フレンズ』というタイトルになっているところに(ラストという語には動詞なら「続いていく」という意味もあるので)、これからも3人が友達関係を続けられるという希望を読める気がしました。作中の16歳の少女たちが巻き込まれている日常(たとえば自分と異なる宗教観や結婚観、人生観、罪悪感、性的虐待といったヘビーな内容)に想像力が追いつかないとしても、不気味な自殺幇助団体の「契約」に取り込まれていく様は、現代の日本でもうっかりWebをクリックして思わぬ犯罪に巻き込まれてしまう子どもたちへのリアルな警鐘となると思います。つらい展開のところもありましたが気がつくとぐいぐいと引き込まれて読んでしまいました。

ヤドカリ:読み終わったときに、読めてよかったと思えるような小説でした。著者の伝えたいという思いが強く出ていて、力のこもった作品だと思いました。3人のキャラクターそれぞれに、日本の読者もいろいろなポイントで共感できるのではないかと思います。母と娘の関係が大切な小説で、帯にいとうみくさんが言葉を寄せられているのも、それでなのかしら、と思ったりもしました。編集の面でも非常にていねいに配慮されているなと感じました。

コアラ:タイトル、特にサブタイトルの「最後の13日間」で手に取る人がいるのではないかと感じました。物語に入る前に、「いのちの電話」などの相談先が載っていて、この本を出版する上での気配りがされていると思いました。途中までは自殺に向かって準備を整えていくストーリだし、p5にあるように、よくない引き金を引いてしまわないとも限らない。最初に載せたら、読んでいる途中で気持ちが揺れても、相談先を思い出すことができるので、まず相談先を載せたというのは、とても配慮されていると思いました。カバーの人の絵が、版ズレしているようで、けっこう気になったのですが、p13で自殺サイトのデザインが「微妙にレイアウトがずれてるメニューバー」とあるので、そのイメージからきているのかなと考えたりもしました。性格も環境も全く違う女の子3人が自殺サイトのマッチングで出会います。最初の出会いのぎこちなさはよくあらわれていると思うし、それぞれのつらさも、読んでいて我が事のように迫ってきました。特に、ミーリーンの章の、太字のフォントで書かれている「カオス」の声は、こんな声がずっとしていたらたまらないというか、本当に死にたくなると思いました。p351のカオスの声に囲まれているようなレイアウトは、頭の中の状態、苦しさが、レイアウトでよくあらわれていると思いました。この物語では、自殺サイトで知り合った人や親が救いとなったけれど、現実の世界でも、苦しい状況では、友人や親からの救いを欲していると思うし、そういう生きることへの引きとめも心の底ではかすかに願って自殺サイトで人と知り合うことがあるかもしれない。でも現実では、小説のように心を打ち明けられる関係にはならず、お互いに死へと進んでしまうのかもしれない。そういうことを重く考えながら読みました。苦しんでいる人が、この本を読んで自分の気持ちを誰かに打ち明けられるようになればと思うし、周りの人も、苦しんでいる人の気持ちに寄り添えるようになればいいなと思います。

花散里:この本が出版されたとき、3人の顔が描かれていない表紙画、「自殺」やSNSの問題などを取り上げていることが話題になっていたのですぐに読みました。そのときに本書が著者のデビュー作であり、自身の体験をもとに書かれた作品であるということで力作だと思いました。今回、読み返してみて、中盤までは自殺のサイトで知り合った3人が次第に自殺を思いとどまっていくところ、SNS利用の怖さや、仲よくなった3人の中での葛藤などをていねいに描いていて、とても構成がうまいと改めて感じました。ブリティッシュ・ムスリムの著者は自身と重ね合わせて、後半の追いつめられていくミーリーンをいちばん描きたかったのではないかと思いました。最後にカウンセラーの対応の上手さなど、生きることへ希望をもたせ、読後感がさわやかに感じました。自殺サイト、性的虐待などを取り上げている点で大人にも読んでほしい作品であり、YA世代にはぜひ読んでほしいと思います。

荻原(編集担当者):「サマリア人協会」や「ほっぺ」、そのほか、皆さまご指摘ありがとうございます。オリヴィアのパートは原書のレイアウトになるべく近づけてみています。なかなか同じようにはいかなかったですけれども。また、相談先のリスト(日本語版は国内の各団体にご協力いただきました)は、原書では巻末にありました。それを巻頭にもってくることで、入り口に壁をつくってしまった点も課題になりましたが、今この主人公たちと同じような苦しみを抱えている読者が、もし、途中で本を閉じてしまったら……と考えて、巻頭に載せました。この作品は、著者自身がティーンエイジャーだったときに読みたかった本だ、とのこと。著者が求めた本の力を私も信じて、日本の読者にも届けたいと思ったのではありますが、本当のところ、読者にどんな影響を与えてしまうのか、不安もありました。この作品を選んだそのほかの理由のひとつとして、死生観が信仰に反することに苦しむ、という心情は、日本ではあまり触れる機会がないのではないかと思ったこともあります。カバーイラストの画風と、作中に登場するサイトのレイアウトとの関連は……全然考えていませんでした(笑)。実は、編集担当として、はじめて自分で選んでオファーした作品で、ボリュームも考えずに買っちゃったので、なんとかページ数をおさえようと、文字もぎっちぎちですみません。訳者の代田さんの力を借りて、ようやく形にできたという感じです。皆さまのご意見を、今後の編集の課題にしてがんばります。今日はありがとうございました。

しじみ71個分:この物語で行頭がずらしてあったりするのは、詩的な表現というよりは、頭の中の思考が千々に乱れたり、自分で考えたことを自分で否定したり、心の中で瞬間瞬間に湧き上がる苦悶や葛藤、思考の乱れを視覚的に演出しているだけなんじゃないでしょうか? たとえば、オリヴィアの思ったことに取り消し線が引いてあるのは、自分で考えたことを自分で打ち消しているのを表現しているのだと思いましたし、3人で打ち解けているときは行頭が揃っているので心の落ち着きを表現しているのかなと思いました。

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ネズミ(メール参加):読み応えがありましたが、読むのはつらかったです。この子たちがどうなるのか気になって読み進めましたが、話し言葉で展開するとはいえ、ページ数も多く、読者を選ぶ、ある程度本好きな読者でないと読み通すのがきびしいかなと思いました。
3人それぞれのかかえている問題が重たく、当事者となる読者に手渡してよいか、ためらわれます。むしろ、まわりの大人に読んでほしい。

(2022年3月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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キケンな修学旅行〜ぜったいねむるな!

『キケンな修学旅行』表紙
『キケンな修学旅行〜ぜったいねむるな!』
原題:CRATER LAKE by Jennifer Killick, 2020
ジェニファー・キリック/著 橋本恵/訳
ほるぷ出版
2021.07

〈版元語録〉小学校の修学旅行で、クレーター湖にきたランスたち。ところが、何か様子がおかしい。バスの前に血まみれの男が飛び出してくるし、施設のスタッフはあやしいし――、おまけにどうやら、眠ると別の何かに変身させられてしまうようだ! ランスたち5人は、力を合わせて迎えがくるまで敵とたたかうことを誓う。合い言葉は、「ぜったいに眠るな!」イギリスでロックダウンの最中に出版され子どもたちの人気を博した、SFホラーサスペンス!

まめじか:主人公のサイドは善という構図で描かれたエンタメですね。最後に主人公は豪邸に住んでいたことが明かされるのですが、それをよしとするような価値観に底の浅さを感じました。p188で、マックは空気のにおいをかいで、チェッツの行き先がわかるのですが、どれだけサバイバルスキルに長けていても、人間の能力では不可能ですよね。p126では、電話は鍵のかかったオフィスにあり、でも、そのあとp164で、すべてのドアを解錠したとあるのですが、なんでこの時点で助けを呼ばなかったんですか? p146でワーカーたちが「この体は食べ物が必要なんだ。まともな栄養をとらなければ、コロニーは機能しない」「この体は弱い」と話すのですが、読者に必要な情報を伝えるための会話だなと。そもそも、なぜ先生がランスを目の敵にしていたのかもよくわからないし。虫みたいな目というのは複眼のことだと思いますが、これで子どもにわかるかなあ。p175「おぞましい!」、p295「ブタやろう」などは、子どもの言葉じゃないように感じました。「えーん」「うわーん」といった訳語にもひっかかりました。p194の6行目に、読点が重なっている誤植がありました。

エーデルワイス:イギリスの子どもたちによく読まれているということですが、このような内容なら、日本のアニメやゲームの方がおもしろくて優れているような気がします。登場人物の子どもたちが、孤児だったり、サバイバルを生き延びるための訓練を受ける、私立中学受験など多様な子どもたちを登場させているのは現在を反映していると思いました。主人公のランスが睡眠時無呼吸症候群というのを効果的に使っているのは新しいと思いました。ランスが実はお金持ちで……は、拍子抜けしましたが、友人たちと安心してくつろぐ最後はいいですね。(それぞれの親には知らせてあるのでしょう)イラストがあんなにあるより、最初に登場人靴の顔と紹介、冒険の地図の紹介があったらよいと思いました。

アンヌ:おもしろいけれど1度読んでしまえば終わりという感じで何も残らないし、2読目には疑問ばかりになりますね。何しろ設定も解決方法も昔からある古典SFそのままなのであきれました。『宇宙戦争』(H.G.ウェルズ 著 井上 勇訳 創元SF文庫)や『人形つかい』(ロバート A.ハインライン著 福島 正実訳 ハヤカワ文庫SF)とか。まあ、この本をきっかけに、そういうSFの世界も楽しんでほしいとも思いますが。寄生生物という概念を説明するのにテレビ番組を見させるというのも、安直だなあと感じます。トレントの誕生日パーティのエピソードは、まあこの子は一族郎党含めて、人の気持ちがわからないんだなと納得させられました。でも、読者を誤解させる様に書いておきながら、実は主人公の家は大金持ちでした……という幕切れと同様に、後味が悪くて笑えませんでした。

ルパン:なんか、マンガ読んでるみたいでした。マンガならおもしろいのかも。でも、「宇宙人の侵略」というとてつもない非現実の設定のわりには、主人公の秘密が、さんざんじらしたあげく無呼吸症候群だったりとか、親に捨てられてずっと里子だったというバックグラウンドが全然キャラ設定やストーリーに関係なかったりとか、SFなのかリアルな学園ものなのかはっきりしなくて、なんだかものすごくちぐはぐ。ミス・ホッシュやトレントなどの悪役は最後まで救いようがなくて、魅力ないままで終わるし、いろんな名前の子が出てくるけど、どれがどれだか(最初は男か女かすら)わからなくて、ほんとにマンガにしてくれ、という感じです。あと、ちなみに、宇宙人を撃退するのにクマムシを使うんですけど、地上最強の生物というわりには、意外とすぐ死ぬらしいです。温度差に強いだけみたいです。

ハリネズミ:引っかかるところがたくさんありすぎて、楽しめませんでした。たとえばp35に「乳歯が生えてきた」とありますが、この年令で乳歯なんか生えてこないでしょ。作者がいい加減なのか、編集者がいい加減なのか。また夜になって子どもたちが部屋に閉じ込められるわけですが、どうして鍵穴に鍵を刺さったままにしておくのかなど、随所にご都合主義が透けて見えます。p177では装置を入れたリュックをかついでいるはずなのに、絵はそうなっていません。もっとていねいに訳さないと、物語に入り込めません。キャラも浮かび上がってきません。

雪割草:おもしろくありませんでした。読んだ後、何も残らない。ゲームみたいだと思いました。登場人物の描写は外面的で、子どもたちの心の動きもリアルに感じられませんでした。こんなに奇妙でシリアスな状況なのに、物事に冷静に対処する子どもたちは異様だと思います。よかったことを絞り出すとすれば、親がいないなど様々なバックグラウンドの子が描かれているところでした。これは本である必要があるのだろうか、こんな本を出すのか、イギリスで人気と書いてあるが、子どもたちは大丈夫か、などふつふつと思ってしまいました。また、あとがきだけでなく、作者や役者のプロフィールさえ掲載されておらず、滑稽に感じました。

ハル:なるほどなぁ、と思いました。「SFホラーサスペンス‼」とうたわれてしまうと物足りないのだけど、それを児童書に落とし込むとこうなるのかなぁと思いました。でも、うーん、「なるほど」とは思うけど、「イギリスで子どもたちの人気を博した」ってほんとう? と思ってしまう。全体的に表面的で、不安定な感じがありました。これは計算だと思いますが、まとまりのない装丁や落っこちそうなノンブルの位置も絶妙で、良くも悪くも落ち着かない。おっしゃるとおり、登場人物も、挿絵を見るまで、どの子がどんな雰囲気の子なのかもなかなかつかめず。それぞれの告白タイムも、これがあってこその作品なんだとは思いますが、やや無理やりいい話にしようとした感も否めず。トレントをトイレに閉じ込めた理由も、エイドリアンとトレントの間にあった出来事も、すっきりしませんでした。

さららん:ゲーム感覚で書かれた作品だなあと思いました。主人公のランスは、常に動きつづけることで、解決方法を探します。絶対に何か方法があるはずなんだ、と周囲を探しまわると、その何かががうまく出てくる。PCやスマホゲームにはまっている世代には、ランスの判断や行動はすごく身近に感じるんでしょう。ランスには少し先が見えているのか、こんなときはこうする、という判断が早く、戦略も立てられるので仲間たちから頼りにされる。でも、ここで描写される世界には、現実感がまったくありません。例えばp178で、主人公たちは必死に泳ぎます。そのあと、「体が鉛のように重い」とひとことあるものの、息切れもしてないし、服もぬれているのかよくわからない。一事が万事、夢の中の出来事のよう。だからどんな危機的な状況になっても、私には緊迫感が感じられませんでした。でも、ゲーム好きの子どもが読むと、共感できておもしろいのかもしれません。

ハリネズミ:いや、ゲーム好きの子にとっては、こういう本よりゲームそのもののほうが絶対的におもしろいと思います。だから本は、ゲームと違うおもしろさを追求しないと。

ニンマリ:最近、選書される本は賞をとっているなど評価の定まったものが多いので、こういう新しい本を読むのは新鮮でした。ただ、ツッコミどころは非常に多いと思っています。特に大きいところで2つありまして。まず1つめは、人物描写が荒っぽすぎるということです。冒頭、主人公のクラスメイトたちの名前が次々に出てきますが、トレント、エイドリアン、チェッツについては描写が最低限あるのですが、マックとカッチャについては全然出てこないんですよね。そして、クレーター・レイクに到着した後、敵側のボスであるディガーが登場するのですが、そのシーンの描写が「ハゲの大男」のみ。これはあまりに乱暴すぎる気がしますね。作品の前段階のプロットを読んでいるような気になりました。もう1点は、このサバイバルの目的に共感できないことです。一般的には「脱出」と「助けを求めること」が第一目標になると思います。いきなり「敵のことをよく知ろう」という話になるのですが、それは脱出できないし助けも求められない状況に陥ってからではないでしょうか。p126の小窓から電話を見つけるシーンで、主人公は部屋になんとか入る努力をしないんですよね。電話せずピンチを自分の力で乗りきりたい、と思いを明かします。これ以降どんなピンチに陥っても、自分が選んだ道だよね、と突き放したい気持ちになってしまいました。電話がつながらなかったとか、どうやっても部屋に入れなかった、というプロセスがあればよいのですが。最終的に、屋根にのぼれば電波がつながって、スマホで助けを求められたし、オフィスの固定電話も使えたことがわかって、なんだったんだろう、と気が抜けました。作者が子どもたちをはらはらさせようと急ぎ過ぎて、必要な描写やプロセスをカットしてしまったような気がしてなりません。

サークルK:登場人物の個性が際立たされていない(いわゆるキャラが立っていない、という状態な)ので(挿絵を参考にしようとしてもあまり頭に入ってこなかったです)、誰にどう感情移入すればよいのか、だれが主人公なのかさえ、しばらくわからなかったです。そういう意味でほかの方も指摘されていたように、ミステリーの中で楽しめるはずの疑心暗鬼とは異質な居心地の悪さがありました。ミス・ホッシュははじめからランスを敵対視していますが、修学旅行の引率まで引き受けるくらいですからきっと上層部には受けの良いしっかりした教師というポジションがあるのかもしれません。けれど執拗な弱い者いじめをするいわゆる極端なブラックな担任になってしまっていて、この人ははじめから異星人だったのだったかも、と思いそうになりました。挿絵から分かるエイドリアンの褐色の肌や、ランスがアッパーミドルっぽい階級に属しているらしいなど人種や階級などの格差社会にも目配りあり、というサインが散見されると思いました。それだけに、作者の紹介やこの作品についての解題的な解説が最後にほしかったです。

コアラ:タイトルはおもしろそうで、小学6年生だったら絶対に手に取るだろうなと思いました。内容はぶっとんでいて、特に、エイリアンになった人を助けるために、コケを飲み込ませて、コケの中にいるかもしれないクマムシにエイリアンを食べさせるとか、とんでもないけれど、勢いで最後まで読ませてしまいます。こういう作品なんだと思って読んだので、あまり引っかかりませんでした。イギリスでも修学旅行があるんだなあと思いました。出だしで人物名がたくさん出てきて、それもマックとかチェッツとかカッチャとかカタカナで見た目が読みづらくて分かりにくかったです。最初に登場人物紹介があったら少しは馴染みやすかったのではと思いました。

シア:設定がかなり古臭いですよね。1960年代の海外SFドラマや映画のようで。私はこういうカルト的な人気を誇るSFは大好きなので問題ないのですが、これが現代に登場してしまうのかと。そして子どもに人気が出るのかと驚きました。そこはやはりイギリス。尖っていますね。「テレタビーズ」(BBC)を生み出した国はセンスが違います。この古さは子どもには新鮮なのかもしれません。そんな妙な納得感があったので、気になる点もあったのですが細かいことを気にするより気楽にいこうと、するすると読んでしまいました。くだらなさが逆に癖になるスピード感のある本でした。登場人物は少々テンプレ気味ですが、個性もありそれが強みにつながっています。エンターテインメントとしてのキャラクター性はあると思います。大変なことを乗り越えたり、隠し事をすることによって生まれる連帯感など、子どもが共感しやすい作りになっています。B級ホラー映画のような導入もおもしろいですし、クマムシというマニアックな着眼点がB級らしさを高めます。テンポが良く一気に読める本なので、とくに本が苦手な子どもや男の子に良いと思います。海外ものらしい分厚さがあるので、読破できたら達成感もあるのではないでしょうか。イギリス作品のため「ハリー・ポッター」シリーズ(J.K.ローリング著 静山社)の小ネタも散りばめられているのですが、最近の子はハリポタを読まないのでその後の読書につなげられるかもしれません。それにしても、原題は『Crater Lake』なのに邦題がダサすぎますね。表紙がかっこいいのにどうにも締まりません。ですが、そこがまたB級感溢れていて味わい深いと思いました。文章として気になったのはp194「なので、ひとつめの」と文頭に「なので」が使われているところです。口語ではありますが、まだ正しい使い方とは言えないので、子どもの語彙を増やす使命を持つ児童書には適さないと感じます。この本では使われていませんが「知れる」や「ほぼほぼ」もYAや児童書でよく見かけますので、言葉は揺れ動くものですが、子どもは言葉を本からも覚えるということを軽視してほしくないと考えています。

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しじみ71個分(メール参加):イギリスでは人気のあるシリーズとのことですが、さくさくとストーリー展開で読めてしまうからなのかなと思いました。私は、小学生時代あまり本を読まない子どもでしたが、その頃の自分だったら、気楽に読んだかもしれません。バットマンやジョーカーのこととか、あちこちみんなが知ってる「くすぐり」みたいなしかけもあって、ああ、あれね、なんてことを知ったかぶりして話したくなったりするかも。私も、子どもの頃に見たテレビシリーズを思い出して、それなりに興味を持って読みました。物語というより、子ども向けのテレビドラマとして読むととてもよく分かる気がします。頭の中で、いろいろな情景がドラマの場面として簡単に浮かび上がってきます。悪役のはげた大男、というのも「ああ、あんな人」という感じだし、ラストに主人公の家で、みんなでまったりするシーンも目に浮かぶようです。物語を読んで深く考える本ではないですが、でもたまに気楽にポテチをかじりながら読めばいいんじゃん、みたいなときにはアリなのかも。そんな印象でした。

(2022年02月18日の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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ジークメーア〜小箱の銀の狼

『ジークメーア』表紙
『ジークメーア〜小箱の銀の狼』
斉藤洋/著
偕成社
2021.09

〈版元語録〉ジークメーアは、ザクセン公国の北のはずれ、北海に面する洞窟の中で母親とくらしている。泳ぎがうまく、夜でももののかたちがはっきりとわかり、半弓の技にたけていた。ある夜、村をおそった海賊とたたかう百人隊長・ランスを助けたことから、ジークメーアの運命は大きく動きはじめる。母の言葉に導かれ、12歳になる年、ジークメーアはランスとともに旅に出る。旅の目的は、邪悪な魔神をあやつり、ヨーロッパを征服しようとしている隣国・フランク王国の企みを阻むこと。そのためにはまず、古くから伝わる『マーリンの書』に書かれた「小箱の銀の狼」を手に入れる必要があるという……。中世ヨーロッパを舞台に、さまざまな敵と対峙しながらたくましく成長する少年のすがたを描く。斉藤洋の冒険ファンタジー、新シリーズ第1弾。

まめじか:子どものとき、斉藤さんの『ジーク 月のしずく日のしずく』(偕成社)がとても好きだったので、この本が出たときはわくわくして読みはじめました。斉藤さんはアーサー王伝説を子ども向けに書き直していらっしゃいますよね。この本では、アーサー王の要素を上手に入れていて、すらすら読み進めたのですが、作家の中にすでにあるものをパッチワークのようにつなげているというか。オリジナルの世界が立ちあがってこないように感じました。

ハル:これはシリーズものの1巻目ですよね? 最後まで読んで「やっぱり、1巻じゃ終わらないよね」と、がくっときたのですが、それでもやっぱり開幕感がありましたし、今月のもう1冊(『キケンな修学旅行』ほるぷ出版)と読み比べても、物語が豊かだなぁと思いました。セリフが少しかたく感じるところもありましたが、ジークメーアも少年とはいえ冷静で賢く、そもそも特異な存在ですし、読者とはやや距離のあるキャラクターなので、それはそれでいいのかもしれません。挿絵も独特の雰囲気がありますが、入れる位置は、あと少し後ろにしてー! と思う箇所もありました。たとえばp183の元海賊の男が再登場する場面。ハラハラしてページをめくって、先に挿絵が目に入って「あの海賊がいる」と思ったし(顔はちゃんと描き分けられているのです)、p229も箱を開ける前に狼の挿絵が目に入ってしまった。素直に文字だけを追っていればぴったりの場所に入っているので決して間違ってはいないのですが、できればちょっとずらしていただければありがたいです。しかし、つづくにしても、ラストはすごいですね。ショックとともに、続編を渇望させる、これも作戦でしょうか?

アンヌ:魔術と魔物がいる世界にマーリンとかが絡んでくる。そんな、よくあるファンタジー世界を新たに書きだすのに、相変わらず女性は魔女というか賢い女の占い師で、それ以外は宿屋のおかみさんしかいないんだなと、あまり期待せずに読み始めました。フランク王国とか、キリスト教の進行とか、歴史で習う前の小学生にはわからないことが多いのが気になりました。まあ、私自身、ローズマリー・サトクリフの物語で、イギリスにおけるローマ軍の侵略を知ったので、物語さえおもしろければ、そこらへんは理解できなくとも読めるとは思いますが。挿絵は独特で、例えばp15のイグナークの顔など、昔読んだ『ほらふき男爵の冒険』(ビュルガー編 新井皓士訳 岩波文庫)のギュスターヴ・ドレの絵のようなグロテスクさがあって、怖いもの見たさの興味がわきました。物語全体は何か盛り上がりに欠けるような気がするんですよね。続き物だとしても、第1巻を1つの世界として楽しめないといけないと思うのですが、もう少し読者が主人公に感情移入できるような場面がほしい気がします。最後の冒険場面でも、例えば魔物はあまり怖くないし、閉じ込められていた場所の謎解きとか、もっと書き込めないのかとも思いました。手に入った小箱の狼とかについての記述もあまりなくて終わってしまうし、ラストを盛り上げてこそ、次回に繰り広げられる世界への期待がわくのじゃないかと思いました。

エーデルワイス:斉藤洋はさすがうまいストーリーテラーだと思いました。おもしろく読みました。斉藤洋氏が20年ほど前に盛岡にいらしたことがあります。講演会場の小学校の体育館の舞台に立たれると、舞台の端から端ヘと左右何度も移動されながらお話している姿が思い出されました。ストーリーの中では、村に11歳以上の子どもがいない。この解明に続編を期待しています。キリスト教にも触れていますが、多神教の方が柔軟という印象を受けました。

雪割草:書き方や表現、トーンはどちらかといえば好きかなと思います。世界観があるし、小箱の中に狼などエンディングが不思議で、続きがあるなら読んでみたくなりました。ただ、世界観は少々ベタな感じで、登場するのが男性ばかりなので、続きでは女の人にも光を当てて描いてほしいです。人のあたたかさもちゃんと描かれていると思いました。

ルパン:急いで読んだからかもしれないんですけど、全然お話の世界に入っていかれないまま終わりました。長編の1巻だとは知らずに読んだので、ページが終わりかけていても全然クライマックスが来なくて、「え? だいじょうぶ?」と心配になりながら読み、最後は「あれ、これで終わり?」というキツネにつままれたような感じでした。おとなだから読み終わってから、「まあ、斉藤洋だし、『西遊記』みたいにこれから続くんだろう」と思いましたが、子どもはわからないんじゃないですか? いろいろ伏線みたいなことも散りばめられていますが(11歳以上の子どもがいない、とか)、そういったことの理由も明かされないままで、不完全燃焼でした。せめて「続く」とか書いてあげてほしい。

ハリネズミ:私はエンタメだと思って読みました。斉藤さんは、子どもがおもしろいと思う本はどんな本か、ということを調査し、研究してそのセオリーに則って書いている部分もあるように思います。1巻目なので山場はまだこの先にあるのでしょうね。一神教と自然神の対立などが描かれているのも、私はおもしろいと思いますが、今後その辺ももっと描かれてくるのでしょう。斉藤さんがどのように考えているのか、続編が楽しみです。

ニンマリ:佇まいがとても魅力的な小説ですね。イラストも素敵で、世界名作全集を想起させます。1巻はまだ序章で、これから物語が大きく展開していきそうですね。今のところジークメーアは母とランスの言うとおりに動き、受け身なので、主人公への感情移入はまだ薄いです。いつか、ジークメーアが自分の意思で羽ばたいたときに、魅力が高まるのでしょう。個人的には2巻は気になるけれど、とても待ち遠しいというほどではないです。その理由はやはりジークメーアの心情がわかりづらいところにあるかと思います。とても静かな物語なんですよね。ジークメーアに相棒のリスでもインコでも犬でも、何かいて、話しかけることで気持ちがわかったりとか、お茶目な一面が見えたりとかするとぐっと引き込まれるかと思うのですが……。そうするとエンタメになってしまって、この佇まいが台無しになるのかもしれませんね。

西山:斉藤洋って、こういう文章だったっけと驚きました。雑すぎやしないかと……。例えば、p100、半弓が手元にすでに城にあるというのは、ある種のギャグかと思ったくらいです。ふつう、そういうアイテムを1つ1つ手に入れていく冒険が展開されるのではないかと思ったのですが、あれもこれも「実は家にありましてん」という漫才台本になりそうと勝手に笑ってしまいました。ていねいに書かれた本を読みたいなぁというのが読了後一番に感じたことでした。

コアラ:装丁が、ヨーロッパの中世のファンタジーという感じでとてもいいと思います。挿絵も、ヨーロッパの昔話やファンタジーの挿絵っぽくて、よく見ると、左下にドイツ語で挿絵タイトルが書かれていて、右下には画家のイニシャルが入っているんですよね。凝っているなと思いました。ザクセンが舞台だから、ドイツ語で書かれているとそれっぽくていい感じだと思いました。中世のドイツを舞台に、アーサー王伝説を組み合わせたファンタジーで、その設定だけでもワクワクするし、途中まではおもしろく読みました。ただ、最後のほうで、なんだか煙に巻かれたような、すっきりしない、腑に落ちないような形になって、それが残念でした。「洞窟」というのが、大ムカデの口、あるいは腹の中、というのは、ちょっと納得できないし、それより何より、ランスはずっと、「小箱の銀の狼」というのは馬だと言っていたんですよね。p99の最終行からp100の1行目にかけて、「『小箱の銀の狼』という名の、たぶん馬が、どこかにいる」と言っています。ところが、p232の後ろから3行目「小箱を見た瞬間、わたしは、この中に狼がいると直感した。だから、さほどおどろきはしなかった」などと言っているんです。「馬」と言っていたのはどうなったんだと、すっきりしない感じが残りました。それ以外は、おもしろかったです。シリーズ物のようなので、続きが楽しみです。

ハリネズミ:このタイトルとサブタイトルは、続きがあることを想定させていますよね。

シア:オビに「新しい冒険の物語がはじまる」とありますし、偕成社のWebサイトにも「ジークメーア1」と題名の上に書いてあります。だから続くと思いたいのですが、この著者の『ルーディーボール エピソード1 シュタードの伯爵』(斉藤洋著 講談社)が2007年のエピソード1以降音沙汰なしなので、売れ行き次第なところがあるのでしょうか。この本を初めて見たときに、『ジーク 月のしずく日のしずく』の続きだと思いまして、『ジークⅡ ゴルドニア戦記』の2001年からの超ロングパスで続編を書くなんて、児童書界のアイザック・アシモフか! と喜んだのですが、全く違いました。しかし、挿絵も描いている人は違いますが『ジーク』に似ている感じがしますし、『テーオバルトの騎士道入門』(斉藤洋著 理論社)に「ランス」という名の従者が出てくるので、最近流行りのクロスオーバー作品かなと混乱しながら読みました。そのため、この本自体にはあまり大きな感動はありませんでした。最後の川の辺りの描写が読みにくいというか、いまいち想像しにくく、しかも肝心のラストも別にそこまで盛り上がらず、往年の輝きがなくなってきてしまっているようにも感じました。久しぶりに会った方がお爺さんになっていたような感覚です。個人的に大好きだった2シリーズと勘違いしたので、期待値が大きすぎました。とはいえ、最近はアーサー王伝説を知らない子どもが多いので、その辺りを知るのに良い本ではないかと思います。この方の本はどれもおもしろいですし、とくにファンタジーは最高にクールなので、中高生にも薦めやすい本です。p21、p22に「さほど」という言葉が集中的に3か所も出てくるのでここは訂正してほしいと思いました。

さららん:たとえば、洞窟の中に住む主人公は、満潮のときは泳いでいかないと外には出られません。そんなときのために、乾いた服を別の場所に用意しておく、といった描写などに、手触りのある世界を感じました。物語の構成はクラシックですが、マンネリとは思わなかったです。キリスト教、アーサー王伝説についての知識がちりばめられ、その中で登場人物たちもしっかり動いているように思えました。例えば新しい弓をもらった主人公は、古い弓をどう処理するのか。作者はそこまできちんと書いています。母親に対する深い信頼、ランスへの不信感などが、言葉というより、むしろ主人公の行動で表されているため臨場感があります。なお文章は、少し時代劇っぽい感じがありました。例えばp198「ジークメーアはそう思った」までで、心の変化を数行かけて説明したあと、「川で魚がはねた」と、突然短い風景描写を入れて、章を締めくくるあたりなどです。テレビドラマでもよく場面転換に使われる手ですが、作者はそこで、間を取りたいのかもしれませんね。

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しじみ71個分(メール参加):日本人作家による、ヨーロッパを舞台にした時代劇という点におもしろさを感じました。未読ですが、アーサー王物語シリーズを先に書いておられるので、そのスピンオフというところなのでしょうか。ジークメーアの暮らしぶりや能力を描き、続いて冒険物語がサクサクと展開していくので、するすると読めました。ですが、時代物の典型のような話運びなので、斬新さや深い感情移入などはなかったという印象です。まだシリーズ第1巻のせいもあるかとおもいます。何より一番気になったのは、話の終わりどころでした。えー、狼見つけただけで終わっちゃうの?という感じで、もう一つ狼との関わりを語る逸話が欲しかったなぁと思ってしまいました。振り返ると、そこまでにあまり盛り上がりが足りなかったということなのかな…すんごい大冒険をして、苦労して狼を得たという感じがあまりしなかったのでした。でも、とにかく第2巻以降に期待というところです。挿絵はとてもいいと思いました。ヨーロッパの古い銅版画をおもわせるようなイメージは好もしかったです。

(2022年02年18日の「子どもの本で言いたい放題」の記録)

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青いつばさ

『青いつばさ』表紙
『青いつばさ』
原題:DE BLAUWE VLEUGELS by Jef Aerts, 2018
シェフ・アールツ/作 長山さき/訳
徳間書店
2021.09

〈版元語録〉ジョシュはいつも、まるで子どものような兄の面倒をみているが…?  家族の深い絆を描いた物語。オランダ・銀の石筆賞受賞。

ヤドカリ:映画でも本でも「ロードムービー的」なお話に弱いので、熱中して読みました。兄弟が移動していくなかで、主人公が考え、いろいろなことに気づいていくという構成が、よくできているなと思いました。最後のママの決断については、驚くと同時に、これでいいのかしら、とも思いましたが、この物語のなかでは、説得力のある終わり方だったように思います。物語をとおして「翼」や「飛翔」というモチーフが、効果的に使われていたことが印象的でした。読めてよかったです。

ルパン:おもしろくて一気に読んだのですが、気になるところが多すぎて入りこめない部分もありました。まず、ヤードランのことがそんなによくわかっているなら、翼をつけて一緒に高いところに登ったら危ない(そもそも登ること自体が危ないし)でしょうし、10メートルの高さから落とされて骨折だけですむというのもちょっとリアリティがない。奇跡的にそういうことがあったとしても、ギプスをつけて座った姿勢で長時間トラクターに乗って長旅をするなんて考えられない。私も足にギプスをつけたことがあるけれど、ずっと下におろしていたら鬱血してしまうので、読みながら気が気じゃなかったです。こんな大事件があったのに、弟の体よりもツルを野生に帰すことのほうを優先しているヤードラン、そのヤードランを愛情をもって受け入れてくれる施設があるのにまだ家庭においておく決断・・・あまりにもヤードラン・ファーストな気がして、ジョシュのこれからの人生はどうなるのかな、母親はどう考えているのかな、と思ってしまいました。

さららん:2回読み返してみました。作者はベルギーの人で、舞台もベルギーかオランダ、そのあたりか。スウェーデンやフランスにもツルを見にいったと「作者より」に書いてありますので、いろんな土地の要素が混じっているのかもしれません。ともあれジョシュとヤードランのロードムービーとして移り変わる景色が見え、どんどん読み進められました。ジョシュは障碍のあるヤードランを決して嫌わず、自分が守ってあげなくちゃと思い続けている。すごい愛の物語だと思います。11歳というジョシュの年齢の設定(思春期に入る直前?)も巧みですね。兄弟が暮らすのは、障碍のある子をそのまま受け入れる学校や社会があるところ、インクルーシブ教育の進んだ国という印象を受け、ツルの子どもを連れて2人が旅に出る、という設定はもちろん、ジョシュの心の動き、ヤードランの障碍の在り方も含めて、この物語は日本では絶対に書けないものを書いている、と思いました。ヤードランの通う施設の指導員ミカ、ママの再婚相手のムラットやヤスミンも温かい人たちなのですが、ヤードランは「兄弟はいっしょにいなきゃダメなんだ!」(p102)という考えに縛られています。思いこみに加えて、ヤードランはいろんな人の言葉を口移しのように話すタイプで、例えば「ごめんね、ごめんね、ごめんね」と何度も子どもっぽく謝ったあと、「……だぜ」という男っぽい口調になります。昔、パパとママがお芝居で歌っていた歌も丸ごと覚えています。荒っぽいようで、実は繊細なヤードランが初めて見えてきました。ミカの語調が少し変わっていて、最初は男っぽいように感じたのですが、あとで、女らしい口調になっています(p73「みんなに提案があるの」など)。この人物の造形はあえてトランスジェンダー的にしているかな、と思いましたが、どうでしょう?

しじみ71個分:私はとてもおもしろく読みました。弟が兄のケアをするという設定は、韓国ドラマにもあります。お母さんに兄の面倒を見るように言われて、滅私奉公のように世話をするというのは、洋の東西を問わずテーマに取りあげられているのですね。物語の中に流れている感情が本当にやさしくて、いい話だなぁ、と思いました。弟のジョシュが兄のヤードランのことを本当に好きで、いやがりもせず、兄の性質を理解して献身的に世話をしますが、その兄のせいで大怪我をしてしまうというのはつらい。でも、愛情の裏付けがそこにあるので、つらくなく読めました。寝るときに落ちつけるように、息を合わせていく遊びを「呼吸の橋」と呼ぶのもとてもすてきだと思いました。離婚したお父さんがロシア人、お母さんの恋人がトルコ系ベルギー人などなど、家族関係が複雑だったり、国籍や人種の違う人がさまざま登場したりするのがごく自然にあたりまえのように描かれているのは、大変にヨーロッパっぽいなと思った点です。また、私もミカは最初男の人かと思い、ヤードランはゲイの要素も持っているのかなと勘違いもしたのですが、支援施設で働くしっかりした女性で、オオカミの入れ墨を入れているなんていうのもかっこよく、魅力的です。2人の南への冒険を黙って見守りながらついてくるところも、信頼がないとできないことだと思うのですが、ヨーロッパ式のなんというか、個を大事にする視点を感じました。日本だったらすぐ通報されて、連れもどされてしまうだろうなぁ。また、支援施設の名前が「空間」という名前なのも象徴的で、オープンな感じを与えるのもいいなと思いました。そういう文化的な背景の違うところをたくさん感じた物語です。2人は、ツルの子のスプリートを群れに戻すためにあてもなく南に向かいます。ゲーテの詩「ミニヨンの歌」に「君よ知るや南の国」と歌われるのはイタリアですが、この物語の中ではスペインですね。南というのは、ヨーロッパ北部の人にとっては、暖かくて豊かで幸せのあるところみたいな、特別な意味があるのですね。

コアラ:カバーの絵が、なんとなく昔の物語風に思えました。トラクターの絵というのがよくわからなくて、1920年代の車のように見えてしまいました。それで、読みはじめてみると、スマホが出てきて現代の話だったので、びっくりしました。さらさらっと読んでしまって、訳者あとがきのp226の「〈南〉は(磁石の南のことではなく)、いま自分がいる場所よりもっとよいどこかのことです」というところが、いちばん印象に残りました。そういう意味合いがあったんだなと。物語の中では、美しい場面はいろいろあったと思うのですが、ツルの子が糞まみれになる、という場面が強烈で、あまりきれいな印象をもてずに読み終わってしまいました。とにかく、最後に家族でまた暮らすことになってよかったと思いました。それから、私もミカが男性か女性かあやふやに感じました。フィンランドには、「ミカ」という男性がいますよね。登場した最初のほうでは、ミカ先生が男性だと思ってしまいました。

コマドリ:圧倒的な兄弟愛というか、どんなことがあろうともお互いのことが大好き、という気持ちが貫かれているのがよかったと思います。『拝啓パンクスノットデッドさま』(石川宏千花著 くもん出版)のほうも、兄弟がそういう絆で結ばれているので、共通しているところがあり、今回一緒に読めてよかったです。ツルがトラクターの後ろから飛んでくるシーンは映像を見ているようで好きでした。タイトルの「青いつばさ」が象徴的に使われており、ツルの翼と、お母さんの舞台衣装の青い翼が、どちらもヤードランにとっては大きな意味を持っています。またヤスミンが、壊れた翼を縫い合わせて再生させるのも、象徴的な感じがしました。表紙の絵は、たしかに古めかしい感じがしますね。兄弟の顔がリアルに描かれていますが、自分の想像とは違っていたので、ここまでリアルな顔ではないほうがいいように思いました。

雪割草:人への作者のあたたかなまなざしが感じられる作品で、ぐいぐい読ませる語りでした。母親がジョシュに甘えすぎかなと感じたのと、障碍をもった兄とその弟であるからかもしれませんが、兄弟の絆の強さに驚きました。ヤードランが、自分のせいで家族と離れ離れになってしまったツルのスプリートを、家族の元に連れていこうと躍起になるのが、父と母の離婚も自分のせいだと心の傷として負っていたからだったのだということが後半でわかり、胸に迫ってくるものがありました。気になった点としては、装丁がひと昔前のようで、伝えたいポイントがわからなかった(トラクターの絵は必要でしょうか?)のと、「大男」や「チビ」という訳語もイメージに合ってない気がして、古く感じられたのが残念でした。

花散里:障碍を持った兄とその弟という関係ですね。ヤングケアラーが今、いろいろととりあげられていますが、障碍をもつ兄弟がいるとき、親に何かあったときには兄弟に負担がかかっていくので、社会が保障していかなければならないということが言われています。そのあたりのことを考えさせられました。兄のことを「大男」という言い方は気になりました。母親と暮らすことになる新しい男性とその娘である女の子を受けいれて新しい家族を作っていくという感覚も新鮮で、こういう新しいスタイルの家族というのが児童文学の中でも描かれていくのかと感じました。

ネズミ:おもしろく読みました。障碍のある兄弟をもつ子どもの視点から描かれている作品は多くないと思い、いろいろ考えさせられました。お母さんは、『背景パンクノットデッドさま』の母親と対照的で、どこまでも子どものことを思っていて、それでも見えていないこともある。10メートル上から落ちて足を折るだけですむとか、トラクターで公道を走るとか、外国の話だからそれもありかと思って、このテーマに目を向けることができる気がしました。この物語では、最後にヤードランは施設に行かず、家で暮らすことになるわけですが、私は、それが最良だと作者が言おうとしているのではなく、人にも条件にもよる難しい選択を当事者が迫られることを示唆し、読者に問題を投げかけているように思いました。

まめじか:ヤスミンは、兄弟が築いてきた親密な世界に入っていけないさびしさを感じていたと思います。そんなヤスが、ヤードランが壊した青い翼を直し、鉄塔の上にいるヤードランのもとに、はしご車に乗って届ける。あざやかなイメージが強く心に残りました。それまでジョシュがヤードランの世話をしていたのが、ジョシュが怪我をしたり、また2人で旅に出たりしたことで、ヤードランがジョシュの世話をするのも印象的です。p140でジョシュは、車椅子が置きっぱなしになっているのに、だれも心配して見にこないなんておかしいと感じるのですが、そんなふうに思える社会っていいなあと。ムラットとヤスミンはトルコ系だと後書きにありますが、本文には書いてないですよね。もし作者に確認してわかったことなら、それも後書きで説明したほうがいいのでは?

しじみ71個分:私は、ムラットという名前と、ヤスミンについて、p53に「黒い髪の毛と眉毛」とあったので、金髪碧眼ではないからアラブ系の人かなと思って読んでいました。

オカリナ:原書を読む子どもにとっては、名前でどういう人かのイメージがわくのだと思います。私はアラブ系の人かと思いましたが、日本の子どもの読者はわからないので、トルコ系の人だと後書きで書いてあるのはいいな、と思いました。異文化を背負っている人だということがわかれば多様な人たちの家族というイメージを、日本の子どもも持てるので。

まめじか:「大男」という呼びかけや、「空間」という場所の名前は、日本語で読むと、ちょっとぴんときませんでした。

ハル:私は、読んでいてとっても苦しかったです。障碍のある人の自立をどう考えるかという問題については、当事者でないとわからないことも多いでしょうし、口を出すのは気が引けるような思いもどうしてもあるのですが、それでも、「兄弟や家族は絶対に離れてはいけない」なんて、特に本人の強い希望として言われたら、とても苦しくなる人も、少なからずいるのではないかと思います。施設で、家族以外の人とも暮らせるようになることも、自立のひとつだと思いますし、施設で暮らすギヨムたちの家族に愛がなかったとも思いたくありません。ほとんど死人が出てもおかしくない状況ですし、2人に連れまわされたツルの子・スプリートが下痢をしてしまうのもいやでした。お母さんが「ヤードランのことはジョシュが見ていなきゃだめじゃない」といった態度なのもいやでした。ただ3か所、家族に愛があるところ、特に「呼吸の橋」はいいなと思いましたし、p65でムバサ先生がジョシュに「あなたのお兄さんはとても特別な人だけど、あなただってそうなんだからね」と言ったところ、p210でジョシュが「脚が治ったら、たとえヤードランがどんなにうらやましがっても、潜水クラブに通うことにしよう」と心に誓うところ、その3点だけが救いでした。

アンヌ:私も、ミカが、名前だけでは男性か女性かわかりませんでした。でも、ヤスミンがスカーフをかぶっている場面で、今の時代の女の子でスカーフをしているのはイスラム系なんだろうと気がついて。こんなふうに推理しながら読むところも、海外小説のおもしろさだと思います。実は、野生のツルが頭上で飛んでいるのを見て、なんて大きいのだろうと驚いたことがあるので、ギプスの足の上に雛とはいえ、ツルを抱いての道中は大変だろうなと思いました。いちばん驚いたのは、ママの決断です。それでも、ヤードランがママと2人でミュージカルを演じる箇所を読むと、ヤードランには、施設に入って農業をする以外の道や能力が、まだいろいろあるのかもしれない。それを見つけるためにも施設ではなく、家族で暮らすという道も必要なのだろうなと思いました。

マリンゴ: ツルの子どもが登場して、途中からその子を群れに返そうとするロードムービーになることもあって、非常に視覚的で美しい作品でした。障碍をもつ家族が登場する他の多くの本と違うのは、どれだけ愛情があっても、手に負えないほど体が大きくなり力も強くなってしまったとき、リスクが伴う、ということを描いている点だと思います。その解決法は難しくて、外部の専門的な団体に委ねるのが最もいいと思われますが、主人公ジョシュは違う選択をします。ハッピーエンドのように見えるけれど、ハッピーエンドではない。これからどうなるのか、続編を読みたくなる物語でした。特に胸に残った言葉は、p187の「自分の気持ちを話すのは、脱皮するようなものよ」です。一つ気になったのは、ツルの描写です。途中、ツルが車に乗ったり降りたりするシーンで、描写がなくて、今、ツルはどこで何をしているのか、と気になる部分が何か所かありました。もう少し描写が加えてあるとなおよかったかもしれません。

オカリナ:ハードな内容ですが、ツルの子スプリートがそれを和らげているし、トラクターに乗って南を目指すのが冒険物語になっていて、おもしろく読みました。ジョシュとヤードランとお母さんという一つの家族と、ムラッドとヤスミンというもう一つの家族が一つにまとまろうとしている、もともと誰もが不安定になっている時期に、ヤードランが青年期になって力も強くなり意図しなくても暴力の加害者になりうるようになって、さらに不安定になっているという設定です。なので、最後にみんなが一つの家族になっていこうという方向性で安定感を出しているのは、作品としては納得がいく結末なのだと思います。ただ、現実を考えると、ヤードランをどうすれば家族が幸せになるのか、というのは難しい問題だと思います。障碍を持っている子どものきょうだいというのは、丘修三さんの『ぼくのお姉さん』(偕成社)をはじめいろいろな作品で書かれていますが、たいていは世話係や我慢をさせられている方がどこかで切れて、障碍を持っている子にひどいことを言ったりしたりする。そこを乗り越えて次の段階にいくという姿を描いています。でも、この作品では、p143に、ジョシュがスケートボードをしている中学生を見て「一瞬、ぼくはいっしょにやりたくなった。ヤードランのめんどうばかりみるのではなく、自分と同じようなふつうの男の子たちと、ふつうのことをしてみた……」と出てくるだけ。これって不自然じゃないか、と思ってしまいました。それと、障碍を持っている者は、愛情をもった家族が世話をするのがいちばん、という間違った印象を子どもの読者にあたえるのではないかという危惧も感じました。
細かいところでは、p187に「ヤードランにひどいことをしようとしていたママに、ぼくは猛烈に怒っている」とあるのですが、p184ではジョシュも、ヤードランは「空間」に行くのがいちばんいいと悟った後なので、文章の流れとしてあれ? と思ってしまいました。

西山:読み始めて最初に、『ぼくのお姉さん』、『トモ、ぼくは元気です』(香坂直著 講談社)を思い出して、障碍のあるきょうだいを持つ子どもの葛藤が出てくるのかなと思ったんですが、そうではありませんでしたね。冒険がはじまってスプリートを死なせちゃうんじゃないのか、とか、ひやひやしながら先へ先へと読み進めたわけですが、全体としてうーんどうなのかなと思わなくはないです。p23の「お兄ちゃんが困っていたら、助けてあげてね」と母親は言うわけですが、いいのかなこれは、と。この家族は、ヤングケアラーや共依存じゃないのと思いもしました。p143に「ヤードランのめんどうばかりみるのではなく、自分と同じようなふつうの男の子たちと、ふつうのことをしてみたい……」と考えるシーンもあるにはあるのですが、そこだけで、こういう思いが主題となる日本の先の作品とは方向が違っています。ミカがすごくすてきだったから、最終的に施設におちつくんだろうなと思っていたのですが……。ただ、『ぼくのお姉さん』や『トモ、ぼくは元気です』の弟が障碍を持つ姉、兄を負担に感じるのは、周りのからかいやいじめがあったからで、オランダだとそういうことはないのかなと、社会全体の違い故かもとも思いました。あと、ヤードランがソーラーパネルの向きで南を知ったり、いろいろできてしまうのは、物語としてはおもしろいのですが、危うさを感じます。いろいろできない人だったらどうなのか、とても負担を与える症状をもっていたらどうなのか。それでも共に生きる姿を見たいと思います。

しじみ71個分:私は、それまでは、幼いジョシュに甘えて、主に家族だけでなんとかしようとしていたのが、ジョシュの大怪我や2人の南への逃避行という大事件をとおして、さらにもっと、みんなで助けあおうという方向に行くのだと漠然と感じていました。そう思ったのは、p184ページのミカの「うまくいかなかったのは、わたしたち全員の責任だよ」「たとえだれかがいやだと思っても、みんながお互いを守る天使なのよ。全員がね。」というせりふや、p217のお母さんの「ミカがきっとじょうずにたすけてくれるはずよ」というせりふがあるからです。具体的には方法は示されませんが、家族で暮らすという選択肢を大事にしつつ、もっとオープンに「空間」やミカ、ムラットやヤスミンほかたくさんの人の助けを借りて、自分たちの希望を実現していくんじゃないかなという期待をもって読みおわりました。日本だとどうしても、家族だけで頑張るような、閉鎖的な印象を受けがちですが、そうではないと思いたいですね。

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エーデルワイス(メール参加):障碍をもつ16歳ヤードランの面倒を見る弟の11歳のジョシュが主人公。ママがジョシュに兄『大男』の面倒を見てあげてなんて、なんてことだろうと、腹がたちましたが、兄弟愛の強さに胸を打たれました。ヤードランが魅力的。ツルの子スプリートを『南』にいる群れに帰そうとするトラクターでの冒険の旅も臨場感にあふれています。盛岡にツルではありませんが、白鳥が越冬する『高松の池』(湖のような大きさ)があり、たくさんの白鳥でにぎわっているので、ツルの集まる湖の様子が身近に感じられました。ママの恋人の娘のヤスミンの気持ちもよくわかりました。ママが最後に、ジョシュがヤードランの面倒をみてきたのだからと、もう何もしなくてよいというところにホッとしました。

(2022年01月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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拝啓パンクスノットデッドさま

『拝啓パンクスノットデッドさま』表紙
『拝啓パンクスノットデッドさま』
石川宏千花/作
くもん出版
2020.10

〈版元語録〉パンクは死んだ? 自分と右哉にとっては、育ての親のようなものなのに? すべての若き読者におくる青春音楽小説。

オカリナ:とてもおもしろく読みました。今回は兄弟愛というテーマで、もちろんこの作品は晴己(はるみ)と右哉(みぎや)の兄弟が中心なのですが、私は非血縁の人のつながりを描いているという意味で新しさを感じました。2人の母親は、兄弟をネグレクトしていて家にもあまり帰ってこない。晴己は弟のめんどうも見ながら家事もやり高校へ通っているという設定です。母親は「あんたたちのせいで、こんな人生しか生きられなかったんだよ」というのが口癖で、晴己はそれだけは言われたくないと思っているし、弟にもどなったりしてはいけないと自制している。兄弟の父親がわりになっていたのは、まったく血のつながりのない「しんちゃん」という母親の昔の友達。晴己はそのうち血縁へのこだわりを捨てて、「親でなくてもだれかに大事にされていれば大丈夫なのではないか」と思い始める。p166「母親じゃなくたってよかったのか……。/少しだけ、あきらめがついたような気がした。/たとえこのまま離ればなれになってしまっても、右哉はきっとだいじょうぶだ。自分はじゅうぶん、右哉を大事にした」と。そして自分も周りの「しんちゃん」をはじめいろいろな人に大事にされていたことに気づきます。そのうえ、母親にいったん引き取られた右哉が家出して自分の前に姿をまた現したときは、p182「自分が右哉の世話をしているんじゃない。右哉が自分をかろうじて、いまの自分にしてくれているんだ」と認識を新たにします。血縁ではない人と人のつながりが、これからは大事になってくると、欧米の児童文学はかなり前から言ってきたわけですが、日本にもこうした点に焦点を当てて描いた作品が、しかも上質の作品が出てきたという点でとても感慨深かったです。この作品に勇気づけられる子どもも多いと思います。

マリンゴ: 石川宏知花さんは、もともと文章、構成とも抜群にうまい方です。この作品は、テーマが重いですが、文章の疾走感に引っ張られて自分も高揚していく感じがありました。私の興味はハードロックどまりで、パンクの世界はほぼ知らないのですが、知らないなりに心地よく読めました。主人公が、受け身のキャラクターでありながら、世界を広げていく様がユニークで、私も中学、高校時代に音楽をやりたかったな、と思ったほどです。随所にうまいなと思うところはあります。たとえばp126で、加藤さんを菊池さんだと思いこんでいたことがバレますが、p189で「ようやく菊池さんから加藤さんへの修正が完了した」となります。主人公の思いこみの強さや、2人の親しさの深まりなどがうまく伝わります。p218で、あっという間に失恋するところもおもしろかったです。ヤングケアラーの問題として読むと、物語の最初と最後で、状況が変わっていないことは気になります。ただ、実際に似たような立場の子が読んだとき、物語のなかだけで希望の持てる展開が起きるよりも、この終わり方がリアルなのではないかと思いました。

アンヌ:今は、こういう音楽小説を読むのに、YouTubeでその時代の映像まで見られるので、音楽を聴きながら読んでいけるのが楽しかったです。そういう意味で、新しい時代の小説だなと思いました。ガンガンに音楽をかけながら疾走感を持って読み進んでいけたのですが、少し気になったのは場面が変わったことがすぐにわからないかったところです。たとえばp68からp69の電話の場面からスタジオの場面に移るところなど、2回読めば気にならなくなるのですが、最初はひっかかりました。こわれた家族のために食事をつくったりするのが、女の子なら当たり前だとされてきたので、主人公が男の子だから物語となるのかなとも思いましたが、現実に同じ立場にいる子どもたちにとって救いになるかもしれませんね。主人公も弟も物語の中で成長していくので希望を感じます。また、主人公も泣きますが、しんちゃんが泣く場面が多い。そこで、男なら泣くなとか男泣きというような従来のジェンダー的な縛りがないのも、新しい男性像のようで、いいなと思いました。

ハル:以前にしじみ71個分さんがこの本を薦めてくださったときに、早速読んですっかりハマってしまいました。しじみ71個分さんが推薦コメントとして「パンクじゃなきゃダメなんだというのがよくわかる」とおっしゃっていたと思うのですが、まさにそのとおり。パンクについての主人公たちの思いや、メロコアじゃないんだよな、というところとか、登場人物の人間性についても、もう、いちいち共感の嵐。たとえわからない曲でも、音が頭に響いてくるようで、ワクワクしました。愛があふれている作品ですね。作者のパンク(に限定せず、題材そのものかも)への愛、そして作中人物への愛もあふれていますよね。今の中学生にかけてあげたい言葉、見せてあげたい景色、とか言うとこういうのも大きなお世話なんでしょうけど、それが、全部、全部、つまっているようで、読後は快哉の声をあげたくなるような、そんな気分でした。

まめじか:晴己にとってのパンクは、まわりの世界との交点というか、それがあるから社会とつながれて居場所ができたのだな、と。「アイ・フォウト・ザ・ロウ」の歌詞も、ラストのフェスの場面で雨の中演奏しながら、「寿命が半分になってもいいから、一秒でも長く、このままでいたい」と思うところなんかもそうですが、パンクって刹那的な要素もありますよね。でも、この本はそこで終わってなくて、世界への信頼にしっかりと根ざしていて、それが児童文学の描き方だと思いました。主人公は、自分をつなぎとめている存在に気づくんですよね。自分も右哉に支えられているとか、自分にとって必要だったのは母親でもなく父親でもなく、大人になりきれていないしんちゃんだったとか。自分のまわりにも可能性が広がっていると思う主人公の姿に、「手が届かなくても、月に手をのばせ」という、クラッシュのジョー・ストラマーの言葉を思いだしました。

ネズミ:とてもおもしろかったです。同じ作家の『墓守りのレオ』(小学館)は、あまり得意じゃなかったのですが、こちらを読んでよかったです。大事にする人は親じゃなくてもいいということを言うp166、「自分だって、大事にされてきた。しんちゃんにも、万田ちゃんにも。母親じゃなくたって、自分を大事にしてくれるおとなはちゃんといた」というところが、心に残りました。説教くさくならずに、行き詰まっている中学生や高校生の視野を広げてくれそうです。バンドメンバーの羽田さん、園芸委員会で、ラップを歌う女の子など、脇役の登場人物に思いがけないところがあるのもいい。親が不在のこのような兄弟がいたら、現実には福祉行政によって施設に収容されるでしょうから、そうならないところはファンタジーですよね。勢いがあり、中高校生に薦めたい作品でした。

花散里:最初、このタイトルと表紙の装丁にひきつけられました。石川宏千花さんは「お面屋たまよし」シリーズ(講談社)など、これまでの作品から小学校高学年向けの本を書かれている人だと思っていました。ハードコアパンクなど、全く未知な音楽でしたが、晴己や右哉にとってパンクという音楽がかけがえのないものであることが伝わってきました。育児放棄のような母親との関係など、兄弟愛というより家族のありかたを描いた作品だと思いました。これまで児童文学にはタブーだったことが描かれるようになってきていると感じながら読みました。右哉が自分にとってどんな存在なのか晴己が気づいていくところなどを印象深く感じました。子どもの貧困が問題になっていますが、自分が生活費を稼がないといけないと考えながら生活をしている人たちがいることなど、YA世代に読んでほしい作品ですね。

雪割草:このジャンルの音楽には詳しくないのですが、ひきこまれる語りでした。タイトルも装丁もインパクトがあって、対象の読者が手にとってくれるのではと思います。大変な状況におかれた晴己にとって、音楽が、ここではないどこかに行ける、自分の居場所として描かれているのも、たとえそれが読者にとっては音楽でなくとも、共感を呼ぶのではと思いました。だめな母親との関係やその中での心の傷や悩み、右哉に生かされているという気づきなども、リアルに描かれていると思います。色々な困難に直面しながらも、自分はこの世界で生きていける、と晴己が世界への信頼や希望を自ら見つけていく姿も、よく伝わってきました。しんちゃんはおもしろい人で、その存在もいいなと思いました。ヤングケアラーという現代の問題も含まれていて、多くの人に読んでほしいです。

コマドリ:いろんな人物が登場するけれど、うまく特徴がとらえられていました。第一印象でこういう人だと思ったら、そうじゃないとだんだん気づいていくところもよく書けています。主人公が自分の状況を冷静に分析しながら物事に対処していく、冷めたような感じがよく出ていました。親ではない、信頼できる大人の存在も大きいですね。大人にも欠点や弱いところがあるところが描かれているのも良かったと思います。弟が、中2にしては子どもっぽいと感じましたが、これは晴己から見ると弟はいつまでも母に置き去りにされた小2の弟のままだからなのかな、と最後になって思いました。弟が歌をうたう場面はかっこいいんですけどね。歌詞のせりふになりそうな言葉を付箋に書いて柱にはっていくのはおもしろかったです。最後に晴己が小学校の同級生で「コミュ障」とあだ名されていた男子の姿を駅で見かけ、おしゃれな女子高校生と一緒に笑っている様子がごく普通の高校生らしい、と思ったあとに「オレたちは本当に、これからどんなふうにでも生きられるし、どこにでもいけるんだ」と書かれていて、希望が感じられるのがよかったと思います。一つ疑問だったのは、p37で田尾さんを紹介されたとき、「タオさん」のイントネーションからてっきり中国出身の人かと思った、というのですが、田尾さんのイントネーションって田にアクセント? 尾にアクセント? ちょっとわかりにくいと思いました。

コアラ:まずカバーが派手だな、というのが第一印象です。カバーの下の方の出版社名が斜めに配置されていますよね。デザイン的にタイトルなどが斜めになっていても、出版社名はまっすぐに配置されている本が多いので、これはおもしろいな、と思いました。カバーやタイトルで、これはパンクの本だとアピールしていて、中身もパンクの用語がいろいろ出てきますが、パンクを知らなくても意味合いがわかるように書かれています。私はパンクはあまりよく知らなかったのですが、知らなくても全然問題なく読めたし、“パンク、ちょっと聞いてみようかな”という気持ちになりました。p89からの、晴己がしんちゃんにバンドをやることを言ったときの、しんちゃんの反応が印象的でした。それまでの、保護者と保護される子ども、という関係性が変わった、という変化を感じた場面でした。物語は途中まで順調に進むのですが、後半になって、弟の右哉だけが母親に連れていかれます。ここで、主人公も読者も、一度どん底に落としておいて、その後、右哉が戻ってきて夢のステージで演奏する、という盛り上げ方。作者はうまいなと思いました。パンクを知らなくても楽しめる本だと思うので、お薦めです。

さららん:右哉と晴己の人物像も、目に浮かぶようだったけれど、私はしんちゃんという大人のリアリティに魅かれました。パンク好きで、昔好きだった女性の子どもの面倒をずっと見ているしんちゃんは、どこか成熟してないから、晴己がしんちゃんに相談なしにパンクのグループを集めていると聞くと怒りだす。しんちゃんより晴己のほうが大人、というか、大人にならざるをえないのでしょうね。たとえばp142に、自分たちを置いていった母親でも「きらいには、なれなかった。ただの一度も」という描写があります。ここには複雑な思いが描かれていて、母親を嫌うと、自分自身も否定してしまうような、危ういバランスの中で生きている。憎みぬいてもいいような母親を許しているのは、バイト先の花月園の店長もふくめ、晴己の状況を理解して支える周囲の大人たちがいるからだし、特に少々頼りないしんちゃんという他人の、底抜けの善意があるからだと思いました。貧困というテーマも、親子関係や大人と子どもの関係もステレオタイプが洗い流されていて、それがパンクという反抗の音楽を通して、力強く立ちあがってくる作品でした。この世界は捨てたもんじゃない、という希望が、素直に胸に落ちました。晴己が大人になったら、どんな人になるんだろう。右哉にはなにか障がいがあるように思えましたが、それもあえて名称を出さず、右哉は右哉なんだと、型にはめていないところがいいです。

しじみ71個分:とてもおもしろくて深い印象が残った本です。もう、大好きです。パンクについて詳細に書きこんであるのが、登場人物のありようと密接に結びついていて、人物像が際立って浮かびあがってきます。なので、人物をみな頭の中で映像として思い描けるんですね。頭の中で音楽も聞こえてきて、主人公の晴巳と右哉がどれほどパンクロックが好きで、なんでパンクじゃなきゃだめなのか、という必然性が随所に感じられました。これは、モチーフとしてパンクロックそのものについて、とても細かく描きこんであるからなんだろうと思いました。人物の根幹を定義するものになっているのですね。そこが素敵でした。2人の面倒をみてくれる、しんちゃんの人物像もとても魅力的です。2人の母親にぞっこんで、相手にされていないのに、2人の面倒を独身のまま見ているという不器用な優しさや、音楽をあきらめたと見せて、晴己がバンドを組むと知って、すねてしまうところとか、大人になり切れない大人のリアルな柔らかい部分を感じます。平気で右哉だけ連れていく母親も本当にひどくってリアルで。それがあるからこそ、晴己の受けたショックがどれほど大きく、しんどいことだったのかがまたザクっと胸に響いてきます。音楽を通じて、やさしい人々の関係や、晴己の成長がしっかり描かれているので、本当におもしろかったです。不器用な人物の代表格の、擬態でギターを持ち歩いていた海鳴も切なくてよかった。クライマックスの雨の中のライブの描写も本当に、読みながらドキドキ、ワクワクして、演奏が終わって晴巳といっしょにカタルシスを感じ、泣けました。本当に読んでよかった、おもしろかったです!

ルパン:とてもおもしろかったです。ひどい母親なんですが、晴己が右哉を支えているようでいて、実は精神的には右哉の存在が晴己を支えている、というところにぐっときました。子どもたちを世話することで好きな相手とつながっていたい「しんちゃん」の存在も大きいし、「あじさい祭り」や「コミュ障の尾身」のような細かいネタが最後にひとつに収斂するところもよかったです。パンクは全然知らないけれど、それでも楽しめる物語でした。「ワン・ツー・スリー・フォー!」の高速カウントが聞こえてくるようで。「菊池さんあらため加藤さん」がたくさん出すぎて逆にどっちがどっちかわからなりましたが、名前って1度インプットされるとなかなか修正できない、という経験、私にもあります。

コマドリ:晴己は成り行きで園芸部に入るけれど、パンクバンドの世界と正反対にあるような園芸部で自然に自分の場所を見つけていくのもおもしろいと思いました。

ヤドカリ(担当編集者):石川先生との打ち合わせの場で、「パンクロック」の話を書きたいというお話をいただいたことがきっかけになって生まれた物語でした。私からも「なにか音楽モノを」という話をするつもりでしたので、「ぜひ!」ということで動きだしました。どの登場人物たちにも、きちんと眼差しが向けられていること、好きなものがあれば大丈夫なんだよ!というメッセージが、行間からひしひしと伝わってくることが、この作品の魅力だと思っています。デザインの面でも、デザイナーの坂川さんが、一目で「パンクっぽい」と思えるとっても素敵な装幀にしてくださいました。よく見ると、晴己の足がタイトルの「デッド」を踏んでいたり……などなど、色々な遊びを入れてくださっているので探してみてください。ひとつ裏話をすると、ピンクではなく黄色のカバー案もあったのですが、それはそのまますぎる……ということで、現在のデザインになりました(笑)

コマドリ:パンクの曲がわりと古いものが出てきたり、ライブの観客にもおじさんたちがいたりするのですが、パンク好きの世代は幅広いのでしょうか? そういうのはいいなと思いました。

西山:何度か読んでいますが、ますますいい、という感じです。最も印象的なのは「誘われてなにかする分にはしかたがない」「だれかに誘われてすることだったらノーカウントだ、と考えてしまう傾向がある」(p34~35)晴己の感覚です。そういう風に、自らリミッターをかけて自分を守っている様子がほんとに、厳しくて胸に刺さります。ただ、今回、バイトについて「自分がそれを望んでするのはよくても、強制されるのはいやだった」(p220)という、ここはここで分かるし、今までひっかかったことはなかったのですが、前者の考え方と合わせてちゃんと考えると、晴己像はもっと深まるのかも知れないと感じています。あと、やはり、しんちゃん、海鳴のありかたがとてもおもしろく、世界を広げていると思います。間接的にしか出てこないけれど、保健室の先生「万田ちゃん」の存在もよいです。

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エーデルワイス(メール参加):読むのが苦しかったです。現在高校生の晴己がほとんど家に帰ってこない母親の代わりに小学生の時から弟の右哉の面倒をみて生活しています。最低限の生活費なのでアルバイトをしながら学業、家事をこなしています。しんちゃんという愛情もかけくれる支援者がいなかったらと思うとぞっとします。母親に対して過度な期待しない、後で苦しくなるからという、晴己の気持ちが嫌というほど伝わってきます。それでも兄弟は母親を慕っているというのも現実ですね。若者たちの群像劇と受け止め、最後がさわやかに希望の持てる終わり方でほっとしました。

(2022年01月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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海を見た日

『海を見た日』表紙
『海を見た日』 この地球を生きる子どもたち

原題:THE ECHO PARK CASTAWAYS by Hennessey, M. G, 2021
M・G・へネシー/作 杉田七重/訳
鈴木出版
2021.05

<版元語録>それぞれの事情で、養母の家に預けられた三人の子どもたち。みんながバラバラの方向を向いていて、ちゃんと向き合わずに過ごしてきた。そこへ新しくアスペルガー症候群の男の子が仲間入りし、その子の母親に会いたいという願いをかなえるために四人は冒険に出かけることになる

ハル:ここ何回か、里親と里子の家族のお話を読みましたが、今回はだめな里親というか、里親自身も成長していった点が新鮮でした。理想的ではないのかもしれませんが、それでいいようにも思うんですよね。「だめ」の程度にもよるとは思いますが、心が成熟した素晴らしい大人しか里親になれないというんじゃなくてね。p184の観覧車から海を見るシーンが印象的でした。「きっと世界は、そんなにひどいところじゃない」という1行には、励まされもするし、この子たちのこれまでの日々を思ってつらくもなります。

ネズミ:それぞれの声で語りながら、4人の里子や里親の様子がだんだんと見えていく構成、物語としての盛り上がりなど、非常によくできていて、おもしろく読みました。ただ、声をかえての一人称語りは、すぐには状況がつかみにくく、特に日本では、読者を選ぶだろうとも思いました。父親だけ国にかえされてしまった、エルサルバドルからきたヴィク。言葉が出ない、スペイン語圏出身のマーラの状況など、外国から来たということも、よくわからないかも。とてもいい作品だけれど難しそうだなと。

アンヌ:以前読んだ同じ著者の『変化球男子』(杉田七重訳 鈴木出版)では、作者が読者に伝えたい知識──ホルモン剤とか支援団体の存在とか──がかなり盛り込まれた作品でしたが、今回はあとがきに作者の「里親制度」についての思いが書かれてはいるのですが、表立ってはいません。物語も登場人物もおもしろくて、その中で、絶望させない、偏見を持たせないような感じで、里子のことを分からせてくれます。なんと言ってもヴィクの持つスパイ妄想がおもしろくて、夢中で読んでいると話がクエンティンをママに合わせようという「作戦遂行」に移っていき、気がつけば子どもたちがみんな揃って旅に出ていました。ナヴェイアの視点でイライラしながら進んでいく道中の途中で、子どもたちが思いがけず遊園地や海で「楽しむ」ということを知ったり、大声で笑いあったりする場面に行きつきます。クエンティンに母親の死という重要なことを知らせるのに、海辺で砂遊びをしながら話すというところでは、海の持つ力が見事に生かされていると思いました。家に帰った後、ヴィクもナヴェイアもミセス・Kもそれまでと変わっていて、気づかないまま肩の力が抜けている。家族として互いに肩を貸しあって、少しずつ楽になっているという終わり方には感心しました。

マリトッツォ: 読み終わってから、『変化球男子』の著者の方か、とびっくりしました。作風がまったく結びつかなかったです。この本は今回、課題本にしてもらってよかったと思っています。もし自分でたまたま手に取って読み始めていたら、途中、かなりしんどくてやめてしまっていたかもしれないからです。終盤で、ぱっと未来が開かれていくような、なかなか他の本では味わえない満足感があります。これは中盤までの閉塞感があってこそですね。里親を称賛するわけでもなく否定するわけでもない、このリアルさは、著者がこういう活動をしている方だからか、とあとがきを読んで深くうなずきました。クエンティンのような自閉症の子の一人称は、掴みづらいことが多いのですが、他の二人のパートで状況が説明されているのでわかりやすく、バランスが絶妙だと思いました。いろいろ好きな表現があります。たとえば細かいところですが、「足にまだ砂がついていて、シーツにも砂がこぼれてるのがうれしい。ビーチもぼくたちのことが好きになって、それで家までついてきたみたいだった」(p260)という部分、素敵ですよね。一つだけ戸惑ったのは、観覧車の部分です。え、安全バーが必要で何周もするの? と、驚きました。

さららん:里親のミセス・Kのもとで暮らす年齢も境遇も異なる4人の子どもが、1つの家族になっていくまでのお話です。数か月ぶりに読み直してみたのですが、いいものを読んだという印象は変わらず、4人それぞれの在り方がずっと心に残っています。自分も「お姉ちゃん」として育ったので、特にナヴェイアに心を寄せて読みました。しっかり者のいい子に見えますが、自分の未来の夢をかなえるために、ある意味打算的に手の焼ける年下の子たちの世話をしています。でも、クエンティンのママの病院へみんなで行くという1日の冒険を通して、ナヴェイアは大きく変わり、他の子の在り方をまるごと受け入れていくのです。みんなで観覧車に乗って初めて海を見る場面、そのあともう1度病院を抜け出して海にいく場面が、ほんとに効果的で、象徴的です。会話のなかで、4人の関係が少しずつ変化するのがわかり、互いにいたわりあえるようになっていきます。(最後はミセス・Kに対してまで!)自分のことで頭がいっぱいのクエンティンが、英語がほとんど話せないマーラと心を通わす場面など、とてもよかったです。ロードムービーのような展開のため、刻々と場所が移るにつれて感情や考えもゆれ動く、いってみれば「目に見える」物語なので、読者の記憶に深く残るような気がします。それまで英語をほとんど話さなかったマーラが、最後のほうで「まったくうちの家族ときたら」(p277)と首をふりふり言うところ、そこが実に自然で、マーラを抱きしめたくなりました。

雪割草:この作品は、里子の子どもたちを通して新しい家族のかたちを描いているのかなと、読んでみたいと思っていました。最初の印象は、ヴィクがうるさくて口調が老けているように感じました。でも、口調は父親を尊敬しているからでは、と言われて納得しましたし、2回目に読んだときは、ADHDの特徴がよく描かれていると思いました。作品全体を通じては、厳しい状況にある子どもたちが、海の美しさに圧倒されるシーンのように、世界を肯定できるような、希望をもてるような体験をすることや、仲間の存在が生きる力につながるということを、改めて感じることができました。また、原題にある「漂流者」や、「わたしたちは、ひとりでやっていかないといけないの……。」(p161)にあるように、子どもたちの心情もよく描かれていると思いました。私の友人や友人の親が里子を育てていますが、そういった家庭は日本では少ないと思うので、里親制度や、子どもを社会やコミュニティで育てるといった考え方が広まっていくといいなと思いました。「オナカスッキリ! ナヤミスッキリ!」(p180)は子どものセリフとして違和感がありました。

アカシア:これは、吊り広告の言葉をそのまま繰り返してるんじゃないですか?

まめじか:いい作品なんだろうな、とは思ったのですが……。シビアなテーマの作品なのに、今ふうの軽い言葉がいっぱい入ってるのが浮いてるようで、二次元のキャラみたいに感じてしまいました。たとえばヴィクのせりふで、「当ててみ?」(p6)、「オタク、ちょっとヘンタイ趣味入ってます?」(p8)、「タルい」(p30)、「マジ、こわいんですけど」(p155)。一方で「世を忍ぶ」(p11)、「迷惑をこうむる」(p179)など、11歳にしては大人っぽい言葉づかいをするのが、どうもしっくりこなくて。そんな感じで読み進めたので、訳者あとがきの「この世界には、こんなにも、こんなにも素晴らしい子どもたちがいる」という最後の一文でひっかかってしまいました。もちろん、この本に出てくる子たちの状況はとても大変なものですが、そうした子はほかの本の中にも、現実にもいっぱいいるし。あと些末なことですが、マーラがホームレスの男の犬にチョコレートをやっていますが、チョコレートって、犬に絶対食べさせちゃいけないものの1つですよね。p3のクエンティンの語りで、「女の人はこまった顔になって」とあるのですが、アスペルガーのクエンティンは人の気持ちを読みとるのが難しいと思うので、どんな表情が悲しい顔なのか習ったからわかったということですよね。

アカシア:普通は、学習を経てわかるようになると言われていますよね。これまでの多くの作品は、ハンデを持っている子どもが1人という作品が多かったのですが、この作品は、ADHDとアスペルガーの子が登場し、マーラという小さな女の子も何らかの発達の遅れを抱えているのかもしれません。なので、書くのが難しいかと思ったのですが、年齢や性別や障碍も違うのでちゃんと書き分けられ、ひとりひとりが独立した存在に描かれているのがすごい、と思いました。ナヴェイアは、成績のいい子で、ハンデを持っているわけではないと思いますが、黒人なので生きにくさはやっぱり感じています。ナヴェイアがクェンティンを連れていこうとしたときに、白人の女の人に疑念をもたれる場面もありました。生きにくさをそれぞれ抱えている子どもたちだからこそ、お互いとを自分のことのように感じてわかり合えるのだと思いました。ナヴェイアが優等生の自分の殻を脱ぎ捨てて海辺でみんなで楽しもう、という場面は、とても印象的でした。この作品には助ける大人が出てこないので、子どもがお互いに助け合います。しかも、やっぱり問題を抱えている大人のミセスKに子どもたちが保護者的な視線を送っているのもおもしろいと思いました。4人でクエンティンのお母さんを探しにいこうというあたりからは、展開も速くなるのでハラハラしましたし、子どもたちの関係がだんだん密になっていくのもわかって、おもしろく読みました。わからなかったのは、さっきまめじかさんもおっしゃった犬にチョコレートをやるところ。それからp15にミセスKが「養母」として出てきますが、養子ではないので「里親」なのでは?

西山:一気に読みました。作者のあとがきで、現実のことがくわしく書かれてて、これがロサンゼルスの里親制度の抱える問題ということは明示されているわけですが、日本の読者が読んだときに、日本の里親制度にネガティブな印象をもたないかな、とちょっと危うく思いました。海を見た幸せな1日を経て、子どもたちの関係が親密に変化してからの様子に、『かさねちゃんにきいてみな』(有沢佳映作 講談社)を思い出しました。抱えている背景の深刻さは違うとはいえ、異年齢の子どもたちのその年齢らしさや、互いへの気遣いが重なって、状況が違っても普遍性を持っている子どもの本質的な部分を見せてもらえた気がします。(以下、言いそびれとその後考えたことです。クエンティンが他者の中でなんとかやっていけるように、お母さんがたくさんのアドバイスをして、クエンティンがことあるごとに、その言葉を思い出すことでパニックを回避している姿がとても印象的でした。読書会が終わって、つらつら思い返していて、こんなに彼を導いていたお母さんなのに、どうして自分の死を受け入れられるようにする手立てをしていなかったのかとふいに思い至りました。癌を予期できないとしても、いきなりの事故死ではないし、病気にならなくても、いずれ自分の方が先に死ぬのだという現実を、クエンティンが受け入れられるように用意することは最大のミッションなのではと。そう思うと、ちょっと冷めました。)

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ニャニャンガ(メール参加):クエンティン、ヴィクの視点ではじまるため、物語に入るのに少し時間がかかりましたが、ナヴェイアが登場して全体像が見えはじめ、さらにクエンティンのために旅に出たところかにはすっかり引き込まれていました。ミセスKが心を閉ざして子どもたちの世話をしないせいで、ナヴェイアが年下の子たちの面倒を引き受ける姿には胸をしめつけられます。ほかの3人の面倒をひとりでしていたナヴェイアが限界に達したとき、ヴィクが頼りになる存在になり、子どもたちの絆が強くなって、ほんとうによかったです。しらこさんによる表紙も、とてもいいと思いました。ロサンゼルスの里親制度をよく知る作者だからこそ書けた作品です。

しじみ71個分(メール参加): ロサンゼルスの里親制度の実態をリアルに描写していて、子どもたちの切実な実情を伝える本だと思いました。養育に欠ける子どもたちがたくさんいるために、里親にあまり向かないような状況の人のところにも里子が引き取られることがあるというのは、ロサンゼルスに特徴的な事象なのか、全米的な問題なのでしょうか。いずれにしても大変な状況だとまず思いました。最年長のナヴェイアが我慢を重ねて小さい里子たちの面倒を見て、大学に進学して自立することを願う姿はいじらしく、特にp95で、突然「涙が目に盛り上がってきた」という場面には共感して、こちらもウルウルしてしまいました。いろんなことに疲れてるんだろうなぁって思い……。ADHDのヴィクは頭の中に言葉があふれていて、うるさいですが、私には可愛らしく見えて、とても好きなキャラクターです。新入りのクエンティンがアスペルガーで、小さいマーラはスペイン語しか話さないという、それぞれ異なる難しさを抱えた子どもたちがどうなっていくのか、興味に引っ張られて最後まで読み通しました。海を初めて見たシーンは特に印象的で、困難にある子どもたちには子どもらしい家族とのあたたかな思い出や楽しい経験がない、あるいは奪われたりかもしれないということに気付かされて、胸がつまりました。クエンティンの母を探して旅をして、海と出合ったことが、4人の共通の喜びの経験となり、家族として結びついていくきっかけになっていて、そこはとてもうまい装置になっているなと思いました。失意のために、養母としての役目が果たせてこなかったミセスKが、最後に子どもたちのおかげで気力を取り戻し、立ち直るという結末も読後感がよかったです。

(2021年12月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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もうひとつの曲がり角

岩瀬成子『もうひとつの曲がり角』表紙
『もうひとつの曲がり角』
岩瀬成子/作
講談社
2019.06

<版元語録>小学五年のわたしは引っ越してきた町でいつもと違う知らない道が気になり、ずっと先に白い花がさく家が見える路地へと入っていく。

まめじか:英語を習わせるのも家を買うのも、子どものためだと言いながら、実は親の自己満足なんですよね。そうした大人の一方的な思いや、遠いのに自転車通学を許されない不条理な学校の仕組みの中で、朋もお兄ちゃんも窮屈な思いをしています。そして子どもの自我が目覚め、そういう大人の押しつけに反発すると、やれ反抗期だとかなんだとか言われてしまう。そんな中で言いたいことを言えない朋の気持ちが、「先生はいっぱい言葉をもっているのに、こっちにはなにもない」(p88)という語りにこめられていると感じました。朋はひとりの時間に日常のすき間にはいりこんで、そこで不思議なできごとを体験するわけですが、秘密をもつことが成長につながるのは、E.L.カニングズバーグの『クローディアの秘密』(松永ふみ子訳 岩波書店)にも通じます。曲がり角の先は別の道がつづいてる、ここ以外の世界もきっとあるというのを、こういう形で描けるなんて。作者の力量を感じる作品でした。

雪割草:今回の選書係だったのですが、最近読んだなかでとてもよかったので、選びました。まず、私は兄がいるのですが、兄とのやりとりの描写にリアリティがあり、親しみを感じました。しれっと妹に洗いものをさせたり、中学になって変わっていったり、兄も案外考えているんだなと感心させられたり、なんでも兄には話せたり。それから、この作品のように、日常の中でふと、異空間や異次元といった非日常にいくことのできる物語が好きで、子どもの頃から憧れていました。「心って、いつおとなになるの?」(p183)や「ついこのあいだ、わたしもあなたみたいな子どもだったの……。」(p239)とあるように、オワリさんとその子ども時代のみっちゃんを通して、一人の人間のなかに子ども時代が生きつづけていることを感じることができました。また、このふたりをつなぐ存在として、センダンの木を登場させているのもいいなと思いました。ネギを背負った人など、ところどころユーモアがあるのも楽しかったです。ただ、表紙の女の子の絵は、私の想像とは違うと感じました。

アカシア:どんなふうに違ったんですか?

雪割草:本では、もうちょっとおてんばなイメージでした。

まめじか:私も、この子はもっとはっきりものを言える子だと思うので、イメージとは違いました。絵はおしとやかな感じがします。

アカシア:酒井さんの絵は、静的で内容から受ける印象より少し幼い感じがいつもしますね。だから人気があるのかもしれませんけど。

シア:私もイメージと異なって、酒井駒子さんの絵は大人好みになりすぎると思っています。YA辺りならいいのかもしれませんが。表紙から抑えめなのもあって、描写はていねいで良かったんですけれど、心は打たれませんでしたね。将来役に立つから、という言葉がそのとき限りの大人の言葉として扱われていて、悲しく思いました。みっちゃんがそろばん塾を辞めたその後がわかったりすると、大人の方便にも聞こえるような“将来役に立つ”という言葉の意味が生きてくると思うんです。お母さんに隠れて読んだ漫画はどうだったかとか、ダンスはどうなったのかとか、全然わからなくて。大人の言うなりになることと、自分で決めることの本当の違いがオワリさんの人生を通して見えなかったので、このタイムリープで学べるものや成長がなかった気がします。英語にしても、同音異義語の不思議とかいい視点を持っているのに、笑われるからと委縮して言えなくなっていてもったいないと思います。フォローしてくれない人たちがたまたまいただけで。アメリカ人なのに鷹揚に接しない先生も珍しいけど。心を開いたり勇気を出せば、耳を傾けたり足りない言葉をくみ取ってくれる大人もいるという役割をオワリさんがやってくれていないので、見えない将来に時間をかけたくない、で話が終わってしまっていて、結局オワリさんがロールモデルにならず、今回の経験は気持ちが若返ったオワリさんにしかメリットがなかったと思います。子どもが読んだらおもしろいんじゃないかな。「うん、でも、たぶん、わかってないと思うけど」(p250)と最後まで周りと壁を作って、大人と子どもの境界線をはっきりつけてしまう子どもの視点で書かれているので、「だよねぇ!」「わかるぅ!」と今を見ている子どもたちが共感できる作品にはなっていると思います。保護者が読めば気づきみたいなのは得られるかもしれません。気になったのは、なぜ主人公が元の時代に戻れなくなるとか、昔の時代に行けなくなったとかがわかるのかということです。つるバラが決め手なのでしょうか?

まめじか:私は、オワリさんの人生とか、習いごとが将来役にたったかどうかなんていうのは、この本にはなくていいのではないかと。主人公の朋が、今ここだけじゃない世界を知るというのが、この本のキモなので。

さららん:ふつうの家族、絵空事じゃない家族の中にある無数の違和感を、岩瀬さんはいつもうまくとらえています。大人も子どもも、そしてその関係も、ありきたりではありません。いま生きている人間が感じられるところ、そして子どもの反骨心が、岩瀬作品の魅力です。新しい家に引っ越したあと、願いをかなえたママはやけに張りきっているけれど、空回り気味。「わたし」やお兄ちゃんとの関係はもちろん、パパとの微妙にすれちがう関係も会話の中に巧みにとらえていて、「うちとおなじだ……」と驚きました。中学生になったばかりのお兄ちゃんは、コーヒーフロートを勝手に作ってひとりで飲んでいるのですが、そんなエピソードにも妙なリアリティがあります。でも現実の話だけで終わらず、オワリさんというおばあさんが朗読する物語の世界や、時間を超えて主人公が迷いこむ世界など、重層的にいろんな要素が入っていて、かなり凝った造りになってますね。「英語でなにかいおうとすると、普段自分の中にある日本語のいろんな言葉の意味がすうっとうすくなっていくような気がした」(p12)など、英語を学び始めたときのもどかしさを表現する言葉には膝を打ちました。「よりよいって、それはだれがきめるの? 人によって、それはちがうんじゃないの。そんなあいまいなもののために、いまの時間をただがまんして無駄にしろっていうの」(p221)と、主人公がパパにいうところでは大喝采。これが言えないがために、今の子どもたちは炸裂するくらい苦しんでいるんじゃないかと思うのです。「わたし」はほんとに頑張った! オワリさんとの出会い、まったく違う時間、違う角度から自分を見られことが、主人公の力になったのだと思いました。

マリトッツォ:安定の岩瀬成子さん作品という感じで、引き込まれて最後まで読みました。児童文学は、「続ける」「頑張る」「達成する」というテーマがどうしても多くなるので、大人から見て正当な理由がなくやめる状況に寄り添っているこの本は、子どもの味方だなと思います。また、一般的なタイムトラベルものだったら、なぜそこに行ってしまうのか、というロジックが明確でないと入り込めないのですが、この作品は描写がていねいなので、明確な説明がなくてもそんなに気になりませんでした。あと、主人公の「わたし」の一人称と、おばあさんの創作の文章がはっきりと違うので、そういうところにもリアルさを感じました。「わたし」の文章は、同じ言葉を重ねることが多くて、たとえば、「わたしはリモコンで部屋の明かりを消した。リモコンで部屋の明かりを消すのも、この家に来ておぼえたことの一つだった。」(p24)というふうに、重複が多いんですよね。この年頃の子の思考、表現を忠実に再現していると思います。なお先ほど、そろばん教室を辞めて、その結果どうなったのかが書かれてない、という話題が出ましたが、「そろばん塾を辞めても喫茶店の経営はちゃんとできた」ことが、もしかしたらひとつの答えなのかもと思いました。

アンヌ:今回はテーマが「非日常の経験」だったので、てっきりファンタジーだと思っていたのですが、p60まで読んでやっと異世界が現れるので、もしかすると異世界より現実界に比重がある物語なのかと気づきました。なんとなく『トムは真夜中の庭で』(フィリッパ・ピアス作 高杉一郎訳 岩波書店)を思わせるタイムスリップ物なのですが、ファンタジーにある謎とき的要素は全然ないまま終わります。異世界で、犬を連れた男の子やいじめっ子をやっつけることができて自由にふるまえる自分に気づいて、そこで現実世界でも家族に自己主張できるようになるという話がていねいに語られていくのは魅力的でしたが、やはり私としては異世界の方に興味があったので、せっかく、みっちゃんに現実世界で会えても、主人公は相手が自分に気づくかとドキドキしたりしないし、みっちゃんであるオワリさんの方も気づかないままでいるのが、なんだか不思議な気がしました。どちらかというと、朗読している庭に入っていくときの方が、過去にタイムスリップするときよりドキドキ度が高かったり、オワリさんが作る話がおもしろくて謎があったりするので、この現実世界の方がおもしろい気もしました。最後は、主人公がこれからも、またオワリさんに会いに行こうと思っているところで終わるから、いつか、二人がお互いに気づくというか名乗りあう時が来るかもしれません。そんな風に、読者がいろいろ考えて、この物語が続いていく感じで終わるところがこの作品の魅力なのかもしれません。でも、ファンタジー好きの私にとっては、少々不満がある物語でした。

ネズミ:私はとてもおもしろかったです。英語塾をやめたいと言えるまでというのがストーリーの中心だと思います。こうなって、こうなったから、こうなったというふうに結果が差し出されて「はい、終わり」となる本もありますが、岩瀬さんの本は、この物語の前にも後にもお話が続いているのを、ここだけふっと切り取ったような印象があって、そこがほかの書き手と違うなと。曲がり角の向こうに、思いがけない世界があるすてきさ。p8で、マークス先生の言う「エイプウィル」が「四月」のことなんだとわかったあとに、「なんだあ、と思った。それから、疲れる、と思った。」とか、p250のお風呂に入りなさいと母親に言われたおにいちゃんが、「おれはあとで」と答えて、「わたしも」と、わたしがいうところなど、何気ない表現に日常や人となりが透けてみえます。こういう表現が物語を支えているのだと思います。

さららん:会話を「作ろう」とは思っていないのかも。登場人物が頭の中で、いつのまにか動き出して、勝手に話しているんでしょう。

ネズミ:この子が、大人にグサッとささるようなことを言うのも、そういうことなのかも。最後に、英語塾に行かないというのを言えてよかったです。

ハル:作家は皆さんそうだと思いますが、岩瀬さんの小説は、岩瀬さんにしか書けないものだということを特に強く感じます。なんてことなさそうな表現のひとつひとつが素晴らしい。p54で描かれている、お父さんとお母さんのけんかの、端で聞くとうんざりな感じとか、p100で犬をけしかけてきた高校生くらいの男の子に「YTっていうのはおぼえたからね!」とか。いかにもちょっと大人になりはじめた時期の子どもという感じ。p157は、朋がみっちゃんのいる世界は自分がいてはいけない世界だと気づきはじめる場面ですが、p156では「ばいばーい」って無邪気に手を振り合って、p157の3行目でいきなり「後ろはふりむかなかった。ふりむけなかった。ふりむいちゃいけない気がしていた」とくる。そこで読者は朋も気づいていたことを知ってぞっとするわけです。この1行が効いているなぁと思います。そして初読のときから何げに強く印象に残ったのは、作中作までおもしろい! というふうに、あげたらきりがないんですけど、子どもは将来のためでなく「今」を精一杯生きているんだと改めて思い出させてくれるところとか、物語の構成もテーマももちろんなのですが、技巧を楽しむという意味でも繰り返し読みたい1冊です。それから、先ほど、朋がタイムスリップした意味についてのご意見がありましたが、たとえば、みっちゃんが習わされていた「そろばん」だって、今の世界の朋にとったら、学校でちょっと習うくらいのもの。こんなこと言ったら反対意見もいただきそうですが(笑)、朋が習わされている「英語」だって、そのうち同時通訳機みたいなのがもっと優秀になって、いやいや勉強する必要なんてなくなるかもしれない。大人のいう「将来役にたつ」は案外あてにならないぞということを知っただけでも、タイプスリップさせた価値はあるんじゃないでしょうか。

アカシア:岩瀬さんは、言葉の使い方がほかの作家と質的に違いますよね。梨屋アリエさんの『エリーゼさんを探して』(講談社)という作品も、親にものが言えない子どもというテーマですが、梨屋さんのほうは、主人公がお母さんとはすべて「です・ます調」で会話しているという設定で、抑圧された状態を表しています。岩瀬さんの方は、子どもの気持ちをそのまま描いていくという書き方。岩瀬さんは、自分が子どもの時の気持ちを忘れてないんですね。このテーマは、思春期の子どもにとってはとても大きいのでしょうね。嫌なことはしなくてもいいというふうに子どもの背中を押してくれる本なんですね。岩瀬さんは今アンデルセン賞候補になっていますが、このおもしろさを100%楽しめるのは、日本の現代に生きている人たちかもしれないと思ったりもします。岩瀬さんの作品はストーリーラインだけで読ませるものとは違うので、翻訳するのはそう簡単じゃないでしょうね。日本語の堪能なとてもじょうずな翻訳者が岩瀬さんに乗り移ったみたいになって翻訳してくれるといいな。

まめじか:前提となる生活のこまごました背景を知らないと、ね。

サークルK(後から参加):とってもおもしろかったです、主人公と曲がり角の先にいるみつほさん/みっちゃんの関係が、まるで『トムは真夜中の庭で』のトムとハティの関係に似ているのかな、と思ったので。初めての環境に慣れていく子どものドキドキ感が伝わってきました。現代的な両親の期待に(違和感を感じながらも)応えようとしてもがく主人公の姿や、一足先に思春期になってあまり自分の気持ちを話さなくなっていくお兄ちゃんとの関係に、読者は共感できるのではないでしょうか。p30で、お母さんが(賃貸住宅ではない)初めての持ち家に愛着があって、たとえ不在であってもきれいにしておかないと「(台所が)ママに告げ口をするような気がした」という文章にハッとさせられました。人間が不在でも、その人が大事にしているものがその人本人に代わって、人間を見張っていると感じてしまうことは時々あるような気がするから、そういう表現はとても興味深かったです。大人が子どもの先回りをしてどんどんことを進めていくことへの批判――子どもが間違えたり傷ついたりする自由が奪われるべきではない――をこめた主人公の成長物語になっているように思いました。

西山(後から参加):以前読んだんですけど、再読しはじめて、ああこの路地の雰囲気知ってる、この景色見覚えある、この登場人物たちも知ってる・・・と思うのですが、初読時の感想も、ストーリーも思い出せません。自分の記憶の情けなさを棚に上げてなんですけれど、岩瀬成子の作品は、一言一言をおいしく味わう、そういう経験になっている気がします。たとえば、「わたしは塾に行く途中で、急に気が変わる予定だった。」(p30)などという一節がたまらなくおもしろい。そうやっておもしろく読んだのに、覚えていないと……。

アカシア:大テーマのある作品じゃないからですかね?

西山:岩瀬作品は、読書の快を感じる作品ですね。

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しじみ91個分(メール参加):新しい家に越してきて環境に慣れない主人公の朋が、ふと思い立って英語塾に行かずに小道の先の曲がり角を曲がったら過去の空間に行ってしまい、一人の女の子と出会うというお話ですが、嫌なことがあったり、くさくさしたりしたときに、ふっと「どこかに行っちゃいたいな」と思ってしまうときの、「どこか」の感じをありありと体験させられるような物語でした。読んで、子どもの頃、マンションの一室の自宅に帰るとき、いつもと違うの入口から入ったら、角度の加減で廊下の突き当りにあるはずの自宅が見えず、家がなくなったんじゃないかと怖くなった小学生のときの経験を思い出しました。朋が、朗読をするオワリさんと仲良くなって異空間に入り込み、みっちゃんという女の子と仲良くなりながらも、帰れなくなるんじゃないかとこわくなり、こちらの世界に戻ってくる感じは、日常の裂け目に入り込んでしまったときの、空恐ろしい不安をリアルに感じさせてくれ、ちょっと背中がぞわぞわしてしまいました。でも、朋が感じたその恐怖感は、逃避を選ばず、きちんと日常に向き合って行こうとする生命力の裏返しでもあるのかなと思って読みました。また、ほかの方もおっしゃっていることですが、全編を通して、『トムは真夜中の庭で』へのオマージュを感じました。モチーフになるのは双方1本の木で、あちらはイチイの木で、こちらはセンダンの木などと、さまざま両作品間の違いはありますが。過去の異空間にタイムスリップして、おばあさんの若い頃に出会うというしかけには共通するものを感じます。岩瀬さんの物語は、子どもの日常に生じたちょっとしたズレや断層から、日常がゆらいでいく様子を描いているように思うのですが、それを読むと心がざわざわします。でも、それが気持ちよくて、岩瀬さんの物語が好きなんだなぁと自分で思います。お兄ちゃんの晴太の思春期の親離れが進行していく様子も好ましく読みましたが、同時に賢いお兄ちゃんだなとも思いました。岩瀬さんのリアルな描写と、タイムスリップファンタジーとの組み合わせが大変におもしろかったです。

(2021年12月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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神さまの貨物

『神さまの貨物』表紙
『神さまの貨物』
原題:La Plus Précieuse des marchandises by Jean-Claude Grumberg, 2019
ジャン=クロード・ランベール/著 河野万里子/訳
ポプラ社
2020.10

<版元語録>戦時下、列車の窓から投げられた赤ん坊を必死に守る大人たち――。モリエール賞作家が描く、人間への信頼を呼び覚ます愛の物語。

しじみ71個分:これを読んだのは3度目です。この作品は寓話の形を取りながら、背景としてユダヤ人の迫害とホロコーストの歴史的な事実を題材にとって描いています。ホロコーストの事実を訴える文学は多々ノンフィクションにありますが、ホロコーストを描きつつ、寓話として壮大な愛を描くというのはほかにないタイプの作品だと思います。最初に読んだときは、話がとてもハードで、硬質で、大きなテーマを持っているのに対して、翻訳の言葉がところどころ優しすぎるところがあるのではないかと、一瞬違和感を覚えました。そのときは、同様に寓話の形を取っている、『熊とにんげん』(チムニク著 上田真而子訳 徳間書店)を思い出していたのですが、上田さんの訳が、物語とあまりにも融合していたので、その幸福な感覚とつい比較してしまったのですね。ですが、2回目に読み直したときは、大劇作家による、ストレートでかつ壮大な愛の歌い上げが、物語の最後でドカンと胸に迫り、すごく感動しまして、翻訳云々生意気なことを考えたことを反省しました。特に好きなのは、きこりが、最初は赤ん坊を避けていたのに、おかみさんの導きで赤ん坊の胸に手を置いた瞬間に、愛を感じ始めるシーンです。また、きこりも、森に住む戦争で顔が崩れたおじさんも、おかみさんと赤ん坊のために命を擲ち、戦って死んでいくシーンは何度読んでも胸にぐっと迫ります。赤ん坊のお父さんがホロコーストを生き延びて、娘を見付けたけれど名乗らずに去っていくシーンも哀切です。赤ん坊は美しい少女に育ちますが、ソ連で生きていくことになるという未来が、本人にとって幸せなのかどうかは分からないというところにもまたひとつ仕掛けがあると思うのですが、結果はどうあれ、1つの命を守るためだけに、次々と命を投げ出すことになった人たちがあったかもしれない、という寓話に込められているのは、偶然によってでも繋がれていく命への畏敬の念と賛歌、愛なんだなぁと思い、作家自身の深い思いに圧倒されました。

花散里:私も今回読んだのは3回目ですが、改めて胸を打たれました。ホロコーストの作品はたくさん読んできましたが、心に残る1冊になりました。「むかしむかし…」とおとぎ話のように始まりますが、雪の中に貨物列車から投げられた赤ちゃんが、子どもがほしいと願い続ける、大きな暗い森に住む貧しいきこりのおかみさんに拾われていくという物語は、惹きつけられるような作品で、読んでいて重厚な印象が心に深く残っていきます。巻末の「エピローグ」と「覚え書き ほんとうの歴史を知るために」は、最後にドシンと心に響き、この胸に迫る感じはなんだろうと考えさせられました。装丁もとても良いと思いました。歴史を伝えて行くためにも大事な作品かなと思いますが、内容を紹介して手渡していくことが大切ではないかと感じました。

コアラ:感動しました。この本も電車の中で読んでいたのですが、エピローグの最後、p149の「たとえどんなことがあっても、どんなことがなくても、その愛があればこそ、人間は、生きてゆける」のところで涙ぐみそうになってしまいました。でも、ちょっと冷静になって考えると、読者に読み取ってほしいことを、作者が最後に言ってしまっているというのは、どうなんだろうと。「愛だ」と一言で明かしてしまっているんですよね。ただ、そのエピローグを読んで、私は感動したわけだし、やっぱりこの形でいいんだろうとは思います。出だしは昔話風ですが、読んでいてすぐに、これはナチスの強制収容所に送る列車の話だとわかる。歴史を知っているからこそ、幼い命や、赤ちゃんを守ろうとする大人たちの思いとか幸福感とかが、美しく感じられました。やさしい言葉で書かれていて、子どもから大人まで幅広い読者層に訴える本だと思いました。ただし、私はひねくれた子どもだったので、寓話の形で書かれたこのような本を、子どもの私は、好んで手に取ることは、しなかったかもしれません。大人になって読んだからこそ感動したのだと思います。

カピバラ:今回2度目に読んでみたら、1度目に気づかなかったことに気づきました。p4の冒頭の文章です。「むかしむかし、大きな森に、貧しい木こりの夫婦が住んでいた。おっと待って、これはペローの童話じゃないから大丈夫。出だしは『親指小僧』に似ているけれど、貧しくて子どもたちを食べさせられないからって、自分の子どもを棄てる親の話などではない。そんな話はたまらない」。ストーリーを知った上で読むと、すごいことが書いてあるなと、衝撃を受けました。そして結末がわかっているのに、ページをめくる手が止まらず、また最後まで引きこまれてしまいました。ひとつひとつの文章が、そっけないくらい短くて、客観的でありながら、登場人物の心情が読者に向かってどんどん迫ってくるような感じを覚えました。最後の著者の言葉「そう、ただ一つ存在に値するもの、それは、愛だ。」、このことを言うための物語だったんだな、と納得しました。いろんな立場の人が出てくるんだけれど、その行いがいいとか悪いとかは一切書いてないんですね。だからこそ、最後にこの言葉が生きてくるんだと思います。胸を打たれたのは、木こりが最初は赤ん坊を邪魔者扱いしていたのに、赤ん坊の肌に触れ、心臓の鼓動を感じてから一転してその命の輝きに心をうばわれる場面でした。これも最後の言葉に結びついているんだと思います。物語だけでも衝撃的なのに、エピローグを読んでさらに衝撃を受け、覚書を読んでもっと衝撃を受ける。そして訳者あとがきが静かに全体をまとめてくれる。1冊全体の構成がみごとにまとまった本だと感じました。

ハル:最初に読んだときには、戦争を伝えていく小説は、新しい形の段階に入っているんだなぁと思いました。ただ、胸に迫るし余韻が残る作品ではあるけれど、私はどうとらえて良いのかわからないというのがいまの正直なところです。戦争によってもたらされた小さな贈り物によって、木こりが愛を知っていく場面はほんとうに美しいのですが、その向こうには残酷な背景があって、「戦争によってもたらされた」なんていうことはあってはいけないと思うし、描かれていることは一貫してグロテスクでもあり。小さな贈り物を守るために斧をふるう場面は作品の中でも見せ所でもあるけれども、やっぱりそれが「斧でよい仕事をした」と言い切れるのかというのも苦しい。おかみさんや木こりや小さな女の子は、無垢ではあるけれど、人々の無知であることのかなしみも感じます。おかみさんが最後には神様を妄信はしなくなるのも印象的ではありましたけれども。この子の父親が列車から赤ん坊を投げ捨てたのは、この子を救ったのではなく、もうひとりを救うためでしたし……。一言に「泣ける」「心温まる」「美しい」では片づけられない作品だとは思います。

マリンゴ: ホロコーストを描いた物語は、いかに残酷であったか、という描写に重きを置かれることが多いと思います。そのなかでこの本はおとぎ話のような語り口で、残酷な描写を最小限にして、本質的な部分を抽出しています。作者の祈りのようなものが、伝わってきました。ホロコーストのことをよく知っている大人と、ほとんど知識のない子どもとでは、だいぶ読んだ印象が変わってくるのではないかという気がして、子どもの反応も聞いてみたいなぁと思いました。細かいところですが、p77の「まっ黒な胆汁をペッと吐いた」の部分、黒い胆汁を吐くことがあるのか、と調べたのですが、そういう事例があまり見当たらず、気になりました。

雪割草:胸に迫ってくると同時に、美しい情景の浮かんでくる作品だなと思いました。ホロコーストという酷すぎる状況の中で、生と死、子どもを愛しむ気持ち、希望を上手に浮かび上がらせているなと思いました。おかみさんの揺るぎなさだったり、貧しいきこりが「人でなしにも心がある」と仲間の前で叫ぶまでに変わったり、顔のつぶれた男の心の美しさだったり、人間味がよく描かれているとも思いました。運命のような偶然のようなめぐり合わせとしての構造は人間の人生ってこんなものかなと、本質的なところをついているように感じました。ただ、たまに展開が急だと感じたり、時代背景を知っているからわかる部分も多く、ホロコーストを知らない子ども向けではないかな、どう感じるかなと気になりました。

ネズミ:読むのは2回目でした。とてもよくできたお話でしたが、『三つ編み』(レティシア・コロンバニ著 齋藤可津子訳 早川書房)を読んだときと同様、作為や感動させるための仕掛けを感じてしまい、手放しに深く感銘をおぼえるということはありませんでした。きっと私がひねくれた読者なのだと思います。絶対悪としてのナチスを描いた作品はもう無数にあります。ファシズムと抵抗した人々という構図を示すだけの作品で、ヨーロッパの悲劇ばかりに私たちの目を向けさせることはないだろうという気持ちもあって。大人が読んだら時代背景がわかりますが、何も知らない子どもに読ませるのはどうかなと思いました。

アカシア:ある司書の方が、この本を読んだけど何言ってるかよくわからないとおっしゃっていたのですが、読んでみると、私自身はわかりにくくはなかったし、深いものがあるとも感じました。ただその司書の方がなぜそうおっしゃっていたのかも、わかるような気がしました。たぶんいい意味でも悪い意味でもフランス的なのではないでしょうか。最初に親指小僧が出てきますが、英米の作家ならこういう書き方はせずに、もっと一直線に書いていきます。フランスの作品は斜に構えて書く場合が多いと思うのですが、これもその一つだなあ、と感じてしまったのです。「子どもの本なのにそんなに斜めから書かなくてもいいじゃないか」と思う人はけっこういるんじゃないかな。まあ、この本は、子どもじゃなくて大人向きに出ているのかもしれません。味付けが一風変わっている作品なので逆にひと目を引くし、だからこそこの作品もよく売れているのではないでしょうか。こういう作品もあることは、とてもいいと思いますが、たぶんホロコーストを知らないと、フランス風の斜めの味付けが前面に来てしまって、嫌な感じがしてしまうのかもしれません。ちょっとひねった書き方がおもしろいと思う大人のほうが、この作品はより深く理解できるようにも思います。この作品は1つの命を救うためにほかのいくつもの命が消えていくという大変な状況の話でもあるので、ネズミさんと同じように私も、それを斜めから巧みすぎる技法で書いていることにちょっと抵抗がありました。でも、そこに惹かれる人も多いようなのでこれでいいのかもしれません。

エーデルワイス:みなさんも何度か読み直していらっしゃるのですね。読み直すことは大事ですね。この『神さまの貨物』を1回目に読んだとき、歴史的なこと、後世に伝えていくべき大切な内容と理解できるのですが、どうにも好きになれませんでした。何度か読み直して、戯曲として読めばよいのだとなんとか納得しました。アカシアさんの「フランス文学」の特徴、「斜めにみている世界」、をお聞きして、ようやく胸のつかえが降りたようです。最後に生き延びた女の子が旧ソ連の「ピオネール」として国の機関誌の表紙を飾る。その写真を見た医師になった父親が会いたいと手紙を書いた。その後会えたかどうだか分からない。で終わっていて、すっきりしません。第二次世界大戦後の米ソの混沌とした世界を提示したのでしょうか。

アンヌ:1度図書館でこの本を借り出して読もうとしたとき、どうしても読み切れなかったので、今回やっと読めました。お伽話を読んでいるつもりが、少し進むと現実に頬を叩かれる、というような構造のせいで読めなかった気がします。それでも、きこりが赤ん坊を愛さずにいられない瞬間は実に美しく心が温まる思いがしました。父親が娘に名乗らない場面は謎でしたが、エピローグや覚書が続く中で、収容所で亡くなった双子の家族が現実にいたことを知り、もし自分が父親だったら、こんな風に娘の命を助けられたなら僕は何もいらないと祈り夢見ただろうなと思いました。権力がデマで人心を惑わすことへの警告とか、旧ソ連の体制の欺瞞性とか様々な啓発に満ちた物語でもありますが、子供たちにどう手渡せばいいのかわからず、かなりの註や説明が必要になるのではないかと思っています。

西山:はじめてだったんですけど、一気読みでした。すごく興味深かったです。やはりユダヤ人が移送列車から赤ん坊を助けようと投げ出す絵本『エリカ 奇跡の命』(ルース・バンダー・ジー著 ロベルト・インノチェンティ絵 柳田邦男訳 講談社)をすぐに思い浮かべました。しかし、こういう形があるかと驚きました。今の子どもたちにとっては、すでに「歴史」である戦争ですから、昔話のような書かれ方をしてもいいと思います。一方で、抽象化した戦争ではなく、やっぱり事実っていうものを伝える必要もあると思うので、この方法、どうするんだろうと思いながら読み進めてきて、「エピローグ」で「ほんとうにあった話? いやぜんぜん」だなんて人を食ったようなことが書かれていて、しかも、それに続けて「覚え書き ほんとうの歴史を知るために」が来る。年月日と地名と固有名詞の箇条書きのようなこの部分を読むと、私が子どものころこの作品に出会っていたら、虚構もなにも、まるごと、書かれていることは全てほんとだったんだ!と思った気がします。著者の祖父が出てくるのですから。そういう手があったかと驚いたのですけれど、これがいいのか悪いのか、どう考えればよいのかよく分かりません。新鮮だと思ったのは、木こりが自分のやっていることを知っていたという点です。おかみさんの無知ぶりから、木こりも、何も知らず作業にかり出されているのかと思っていたら、十分差別意識をもっている。これは、なかなか厳しい指摘で衝撃でした。生き延びた赤ん坊が長じてソ連の機関誌の表紙を飾るというのも、なかなか皮肉な感じで、そういう展開もはじめて読みました。

さららん:ホロコーストは書きつくされているように思えるけれど、そうか、この手があったか、と私も思いました。昔話のような世界と厳しい現実が1章ごと交代で現れるこの作品を書いたのは、きっと手練れの作家だと思ったら、やっぱりそうでした。短い章をつないでいく言葉が硬質で、寓話の言葉と小説の言葉を巧みに混ぜています。硬質の訳がまたいいですよね。1回目に読んだときは、強烈な後半部分にショックを受けました。木こりの夫婦が女の子の命を救い、愛情をもって育て始めたという話の前半に対して、その木こりが斧で仲間たちを殺すし、情け深い森の男もあっけなく銃で打ち殺されるし、なんて血まみれで残酷な話だろうと、思ったんです。でも2回目に読んだときは、そこはあまり気になりませんでした。エピローグには、この話が作り話だったとわざわざ断りがあり、せっかく読んだものが無に帰すようでしたが、「ただ一つ存在に値するもの――(中略)それは、愛だ。」の締めくくりで、やられちゃいました。ラ・フォンテーヌの寓話やペローの童話のように最後に教訓をつけるふりをしたかと思うと、「覚え書き」まで加えて、現実に起きたホロコーストの記録の一部を伝えている。作者は、文学のジャンルを超える実験を試みたんでしょう。この本の意味がまったくわからない子どもも多いと思います。でも、ひと握りの子どもたちには、忘れられぬ印象を残す作品かもしれません。ここに描かれていたことはいったいなんだったのか?と。

まめじか:収容所の中で起きていることも理解していない素朴な村人のおかみさんは、「列車の神さま」が赤ちゃんを授けてくれたのだと信じています。しかしやがて「列車の神さま」のおかげではなく、雪の中に赤ちゃんを投げた手や、その子を守った人たちの力で赤ちゃんは生きのびたのだと思い至ります。作品にこめられた人間への信頼を感じます。収容所にいる父親の心に希望が生まれ、たとえ当の本人がそれを笑ったり、涙でぬらしたりしても、その芽はのびつづけたという箇所なんかもそうですよね。木こりが赤ちゃんに手をあげようとする場面では、体がふれたときに2人の心臓が響きあい、そのとき木こりは恐怖をおぼえます。いとしいという感情がわきあがってくるのに抵抗しようとするのですが、愛情とかいとしいとか、そういう直接的な言葉をつかわずに表現しているのがすばらしいですね。またおかみさんが赤ちゃんのことを、「わたしの生きがい」ととっさに言うのですが、そんなちょっとしたせりふが真実をあらわしていると思いました。

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ニャニャンガ(メール参加):読みはじめてすぐに、『エリカ 奇跡のいのち』(講談社)の話だと気づき、子どもに伝えるには絵本の方を勧めたいと思いました。この本は、ポプラ社から出ていますが、2021年の本屋大賞、翻訳小説部門 第2位だとすると、大人向けでしょうか。大人向けに感じた理由は、p.25 ひどいことのルビにポグロム、p.135人間性にユマニテとだけあるのは若い読者には親切でないと思ったからです。文章が頭に入らない部分は私の読む力が足りないのだろうと思ったのですが、翻訳についてAmazonレビューに細かい指摘があり驚きました。
https://www.amazon.co.jp//dp/4591166635
フランス語はわからないので翻訳に関してはなんとも言えませんが…名のある方の訳でもあり、有名になると細かくチェックされるのかなと怖くもなりました。

(2021年11月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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徳次郎とボク

花形みつる『徳次郎とボク』表紙
『徳次郎とボク』
花形みつる/著
理論社
2019.04

<版元語録>四歳から小学校六年生まで、祖父とボクの物語。お祖父ちゃんはだいたいのものが、それがどんなに便利でも新しくても高価でも、気に入らない。朝起きて畑に行き、夜寝るまで一度決めたルーティーンは、正月だろうがなんだろうが変えない頑固者だ。そんなお祖父ちゃんのガキ大将だったころの話を聞くうちに、ボクは子どものお祖父ちゃんが大好きになっていく。

アンヌ:児童書というよりすべての世代でそれぞれ共感を持って読まれる本だと思いました。祖父の病院嫌いの場面とか、介護について姉妹でもめる場面とか、今の現実を映していると思います。最初作者が男性だと思っていたので、長女のケイコおばさんの描き方はひどい、介護を担う人の苦労はわかっているのか等と思ったのですが、作者のインタビュウを読んで女性だと知ってからもう一度読みなおしました。主人公の語り口が実におもしろく、p91 の「決まりかな、とボクは思った……決まったな、とボクは思った」とか、p148 の「お母さんの忍耐の結界にはられたお札は今にもはがれ落ちそう」とか、独特の魅力を持つ書き手だなと思いました。主人公が成長しながら死に向かう祖父の気持ちを理解していくという物語よりも、つい介護問題の方に目が行ってしまう世代なので、祖父と3人の息子だったら、こんな風に尊厳を守られたのだろうかとか考え込んでしまいました。

エーデルワイス:「花形みつる」というと『巨人の星』(梶原一騎原作 川崎のぼる作画 週刊少年マガジンコミックス)を思い出し、作者が女性と聞いて驚いています。おじいちゃんと孫の交流を描いていますが、介護をリアルに描いていて、児童書で「介護」を具体的に描いた画期的な内容だと思いました。作者の体験が盛り込まれていたのですね。私事ですが義父母を介護中なので、孫よりも介護する徳治郎さんの娘たちの気持ちに寄り添ってしまいました。97歳になる私の義父も意思が固く、耳は遠くて徳治郎さんとそっくりなんです。徳治郎さんは寝たきりになりますが、最後まで頭はしっかりしていました。世の中たくさんの人が認知症を患っています。今度は的確に認知症を扱った児童書を読みたく思いました。

アカシア:この作品は、子どもの視点で徳次郎をくっきりと浮かび上がらせるのが、とてもうまいなあと思いました。作者は実体験に基づいて描いているのでしょうが、ボクが途中で徳次郎のところに行くより友達と遊ぶほうがおもしろいなと思ったり、母親のきょうだいの言い合いにうんざりしたり、徳次郎の歩く速度が遅くなったのを見て祖父の体力の衰えに気づいたり、などという描写がとてもリアルです。脇役の使い方もうまいですね。エリカちゃんも問題を抱えながらも長所を持った子として立体的に描かれているし、犬のシロは来訪者にぎゃんぎゃん吠えるのに、いつのまにかおじいちゃんの枕元にすわっているし……。最後のほうにヨシオさんという人が出てきて、徳次郎の戦争体験を親族は初めて知るのですが、その出し方も秀逸。死がテーマなのでシリアスですが、文章の随所にユーモアがあるのもいいですね。同じように耳の聞こえない隣の畑のおじいさんとのとんちんかんな会話なんか、想像すると笑えます。この本が産経児童出版文化賞の大賞を取ったときの記事を読むと、徳次郎のモデルは花形さんのお父さんで、お父さんの子ども時代の話がとてもおもしろかったので、それを書こうと思ったのが作品が生まれたきっかけだと語っておいでです。

ネズミ:とてもおもしろかったです。特によかったのは文体で、それぞれの登場人物のせりふや書き分け、特におじいちゃんの口調が巧みで、翻訳ではなかなかできないことだと思いました。高齢者が増えていて、介護と尊厳は大きな問題です。体の不具合をなおすことに熱心になって、クオリティオブライフが後になるというのはよくあることですよね。P.208の1行目に「あのとき、ボクは、わかってしまったんだ、お祖父ちゃんがなにを望んでいるのか。お祖父ちゃんの望みは、自分のやり方で死んでいきたい。多分そういうことなんだ」という言葉があります。また、だれにでもその人なりの人生があるということが見えてくるのが、いいなあと思いました。

雪割草:大変よかったです。読んでいて、懐かしい気持ちになったり、じんわり温かくなったり、電車の中で読んだので泣きませんでしたが、泣きそうになる場面がたくさんあり、いろいろ感じることができる作品でした。おじいちゃんではなく徳治郎としているタイトルからも、ボクがおじいちゃんと一人の人間として出会っているのだと思いました。ボクがおじいちゃんのことをよく観察して、寄り添い慕っているのが本当に見事に描かれていて、こんなふうによく観察して寄り添う力は大切で、ぜひ子どもたちに読んでもらいたいし、おとなにとっても味わい深いと思います。所々、クスッと笑えるところがあったり、親しみがわくところもあったりするもよかったです。特にp60の鳥の巣の場面では、鳥の巣の美しさがわからないいとこたちに向かって「こいつらバカじゃないか」というボクの心の中のつぶやきに、なんだかこう思ったことあったなと妙に共感してしまいました。私は子どもの頃、両親や兄弟、祖父母や曾祖父母と暮らしていて、曾祖父母が老衰のため自宅で亡くなるのを見ました。今は家族で死を看取ることが少なくなっているので、身近な暮らしの中での死を描いているのもとてもよいなと思いました。

マリンゴ: この本は1年以上前に読んでいたので、今回が2度目の読書になりましたが、1回目と2回目で印象がかなり変わった本でした。大前提として、とても読み応えのある本で、人が生きて死ぬリアルが伝わってきますし、3姉妹や姪っ子のエリカちゃんなど、脇のキャラクターも魅力的です。あと、横須賀は多少土地勘があるので、急勾配の坂とか山の上にある畑だとか、そういう風景も目に浮かびました。特に前半、自然の中で虫をつかまえたりおじいちゃんの子どものころの話を聞いたり、そんな場面が鮮やかでした。タマムシが、小道具としてラストに再び登場するのも素敵ですよね。ただ、1回目は、自分が子どもの頃だったらどんなふうに受け止めたか、という視点を持ちながら読んだので、この本に描かれている死への道のりがリアルすぎて、ここまでまだ知りたくなかった、という気持ちになるのでは、と思ったのでした。昨日2度目に読んだときは、その記憶を持って読んだせいで逆に、いやいや素晴らしいじゃないか、死に方の一つの理想じゃないか、と感じました。周りであわてふためきながらも何とかしようとしている大人たちも含めて、みんなが精一杯生きているのもいいですよね。でも、それはわたしが大人として、身近な人の死を経験した後で読んでいるからではないかとも思ったのです。この本の初読と同じ頃に読んだ『昔はおれと同い年だった田中さんとの友情』‎(椰月美智子著 小峰書店)のほうが、児童書としての死との距離感はちょうどいいかも、と感じたのでした。

ハル:ひとが生きて死んでいくさまをおかしみとかなしみをまじえて愛情深く描いた、ありそうでなかった児童文学作品で、わかったような言い方で恐縮ですが、初めて読んだときに、「これぞ文学!」と思いました。おじいちゃんの死が迫る終盤で、「ちっせぇとき」のお月見の話が入ってくるところや、作品の中でのおじいちゃんの最後のセリフが「あくしゅ、してくれ」なところがなんとも美しくて、素晴らしいなぁと思いました。と同時に、版元の理論社は「おとながこどもにかえる本」の位置付けでこの本を出しているのだと思うのですが、まさに、大人が読みたい児童文学なんだと思います。現在中学生のボクの目線がだいぶ大人ですし。だけど、「こども」世代にも、ぜひ、このわめきちらす頑固者のおじいちゃんの魅力や、それをとりまくおばさんたちの愛を想像できるような年頃になったら、ぜひ読んでほしいと思います。

カピバラ:『おじいちゃんとの最後の旅』(ウルフ・スタルク著 キティ・クローザー絵 菱木晃子訳 徳間書店)のおじいちゃんと孫の関係にどこか似ているなと思いました。どちらも頑固でへそ曲がりで、周囲に迷惑をかけることもあるけれども、孫にとっては信頼できるおじいちゃん、大好きなおじいちゃんでもあるわけです。徹底して孫から見たおじいちゃんを描くことで、おじいちゃんの人生を浮き彫にする描き方も似ているなあと思いました。子どもの視点から書かれているという点で、これは子どもにぜひ読んでほしい、子どもの文学として位置づけたいと思います。徳治郎がボクに語る昔の悪ガキぶりが生き生きとしておもしろく、戦争体験もありつつ家族の歴史が伝わってきました。3人の娘たちの会話もリアリティがあって、おもしろかったです。最後に別れのときがくるけれども、ボクにとってはおじいちゃんの人生を肯定して終わることができて、さわやかな余韻が残りました。

コアラ:電車の中でサラサラと読んでしまって、あまり興味をひかれないまま読み終わってしまいました。最初のほうで、竹とんぼが出てきたし、p23で「黒い固定電話」が出てきたので、1970年代くらいかなと思っていたのですが、p75では携帯電話が出てくる。そうすると2000年代くらいになりそうですが、それにしては時代的にしっくりこない気がして、そういうこともあって物語に入れなかったのかもしれません。大人の目で読めば、カピバラさんがおっしゃっていたように、大人同士の会話はリアリティがあっておもしろいなと思ったし、主人公の男の子が祖父の死を見つめるのは大切な物語だと思うんですけれど、心が動かされないまま読んでしまいました。

花散里:徳治郎おじいちゃんのことが印象深く残っていたので、ウルフ・スタルクの『おじいちゃんとの最後の旅』が出版されたとき、この『徳治郎とボク』みたいだと思いました。今回読み直して、改めてとても良い作品だと感じました。孫の視線から見たお祖父ちゃんがとてもよく描かれていて、ボクが成長していくとともに、お祖父ちゃんに対する見方が変わっていくところが伝わってきます。母親と離婚した父親への思いが、お祖父ちゃんの子ども時代とも重なって描かれているのも印象深く思いました。お祖父ちゃんと畑に行くときの様子、昆虫、植物のことなど自然の描き方や、登場人物の描き方も見事だと感じました。言葉の表現の仕方など日本の児童文学のなかで花形さんの作品が好きですが、特に子どもたちに読んでほしい1冊だと思いました。海外の作品で1991年に刊行された『リトルトリー』(フォレスト・カーター著 和田穹男訳 めるくまーく)も環境、家族の絆、人間関係などが描かれた作品ですが、この本と一緒に紹介して前出の『おじいちゃんとの最後の旅』などとともに勧めたいと思います。

しじみ71個分:これを読んだのは2回目です。1回目もすごくいいなと思って、2回目もやはりよかったです。私は生まれたときには既に祖父は2人ともいなくて、祖父のリアルな存在感がまったくないんですね。なので、この徳治郎とボクの関係は私にとっては、とてもすてきで、こんな関係が持てたらいいなと、ちょっと仮想おじいちゃんを頭に描きつつ読みました。自分の父は9人兄弟の末っ子ですし、母方の祖母が大正12年生まれなもので、なんとなくいろいろ自分の状況を重ねて読んでしまいました。ウルフ・スタルクの『おじいちゃんの最後の旅』でも感じたのですが、親子とは違って、微妙な距離感がある、おじいちゃんと孫という関係がこれだけすてきなストーリーを生み出せるのだなぁとしみじみ思いました。親は近すぎて重たくなるのかな。昨今、子どもに、身近な人の生き死にを見せられるのは、祖父母しかないのかなと思いますので、万人にとって共感できる話なんじゃないかと感じました。孫がおじいちゃんを観察して、大変に人間くさく、魅力的に描いていますよね(親だとただ面倒なのだろうと思います 笑)。徳治郎が、自分が生きたいように生き、死にたいように死んでいくという、人間の尊厳を貫き通す姿は魅力的だし、そんなふうに私も残りの人生を歩みたいと思わされました。大人が読んで胸に沁みるのはもちろん、決して子どもに読めなくはないと思います。リアルな死を描きつつ、とてもいい話で、私の好きな本です。人間の死は生前の人間関係に負っているのだということが描かれているのも、重要なポイントだと思いました。

西山:おもしろくは読んだんですけど、けっこう出だしでひっかかってしまいました。80に近いお祖父さんの孫が幼稚園児という年齢でひっかかったり、例えば、p27最後の段落で、「ササゲもみっしり実っていた」と野菜に詳しかったり、「畑は,荒々しいジャングルに出現した勤勉に手入れされた小さな庭園のようだった」とたとえたりというのが、「ボク」がいつの時点から回想しているのか、幼稚園時代を回想しているけれど、かといっておとなの口調ではないし、いったいいくつの子だ?と気になってしまったのでした。先月の、ウルフ・スタルクと読み比べるのもおもしろいと思いましたけれど、身体的に弱っていくことにあらがっている人の最終ステージを淡々と記録した、というそれ以上でもそれ以下でもないというふうに読み終えました。

さららん:おじいちゃんはできることは少しでも自分でやろうとし、気に入らないことには癇癪を起こします。その理由を考え続けたボクが、おじいちゃんは「自分のやり方で、死んでいきたいんだ」と悟るところがとてもいいと思いました。文章も全体に抑制が効いています。例えば、おじいちゃんが死んだ場面でも、死んだとは書いていない。「こうしてぼくは『冒険』を手に入れ、お母さんは『安心』を買いに走った。」(p74)など、切り取り方も巧みです。この作品の良い点は、老いること、死ぬことを、できるだけ具体的に書いてあり、単に孫とおじいちゃんの良い話にはなっていないところ。死に向かう過程をひとつずつ重ねるように描いていて、実際の「死」に触れる体験の少ない子どもたちにとって、学びの多い作品だと思いました。ただ前回の『おじいちゃんとの最後の旅』に比べると、ユーモアやひねりに欠け、エピソードの組み立てが立体的でない気がします。p196で、おじいちゃんが兵役についていたこと、さらに上官に盾ついて、リンチにあったことがヨシオさんによって明かされます。それは家族にとって意外な事実で、権威や押しつけに対するおじいちゃんの反発の根っこであったことが、明らかになるのです。おじいちゃんを理解するうえで大事な要素なので、具体的にどうして盾をついたか、私は書いてほしかった。そこが気になって、クライマックスに気持ちがついていかず、説得力がやや弱いように思えました。作家はあえて書かなかったのかもしれませんが。

まめじか:お祖父ちゃんが畑まで行くのにひと休みするようになるとか、歩くのが遅くなるとか、そういう日常の場面を重ねて、老いることや人生の終わりを迎えることがていねいに描かれています。歳をとって人の手を借りることが増えていくお祖父ちゃんが、主人公やエリカちゃんの心を救う存在になっているのがとてもいいですね。

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ニャニャンガ(メール参加):孫とおじいちゃんの交流を描く物語なので、好みの作品でした。徳次郎じいちゃんが、畑仕事が趣味の自分の父親と重なるところが多く、共感しながら読みました。昔の話をするおじいちゃん、大好きです。父は今年89歳で、わたしはたまにしか帰省せず会っていなかったのですが、父が数年前に大病をして入院お見舞いのため数日通ってつきっきりで話をしたときのことが懐かしくなりました。口の悪さにかけては、徳次郎は『おじいちゃんとの最後の旅』のおじいちゃんに負けず劣らずだと思いました。3人姉妹による介護分担での攻防や、長女の娘エリカちゃんの変化、徳次郎おじいちゃんが弱っていくようすなど、身につまされるようにリアルで読み応えがありました。主人公の語り口について、後半は違和感なく読みましたが、4歳からスタートするにしては大人っぽい語り口なのは仕方ないのでしょうか(わたしは4歳のときの記憶はおぼろげなので少しひっかかりました)。両親が離婚したのに、父親が直接登場する場面がないのは気になりました。唯一登場するのはp62の離婚後の面会日。主人公にとって父親はそれほど薄い存在だったのかと考えてしまいました。

(2021年11月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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大林くんへの手紙

『大林くんへの手紙』表紙
『大林くんへの手紙』
せいのあつこ/著
PHP研究所
2017.04

<版元語録>ある時から学校へ来なくなった大林くん。文香が関心を寄せ続けることで、ついに大林くんの気持ちが少し動く……という友情物語。

まめじか:p7でカレンダーを机に置いて、「ノートだけ机に置くより、ずっとかわいい」というところでまず、「かわいい」という表現でいいのかなと思いました。宮子が大林くんの手紙にひとこと「小さい!」と書くのもそうですが、全体的に言葉足らずの印象です。p22で先生が宮子に学級委員の仕事を手伝わせるのも唐突だし、突然訪ねてきたクラスメイトを前に、大林くんのお母さんが平身低頭で謝るのも理解できなかった。人物像や行動が不自然で入りこめませんでした。「~だもの」「~よ」「~わね」というフェミニンな言葉づかいや「あの馬鹿」なんていうせりふも、小学校高学年の子どもにはそぐわない感じがします。また、小学6年生の子が友だちのことを思い描いたとき、「体は細くて胸はないけれど」(p 64)っていうふうになるでしょうか。文香のお母さんは不登校について「たくさん休むといろいろとめんどうなことになる」「なぜたくさん休んでいたのか、何度も説明しないといけなくなる」「役に立たない人間だと区別されるかもしれない」(p107)と言うのですが、あまりにも乱暴な説明にとまどいました。

シア:私も話に入りこめませんでした。テンポが全体的に緩慢で、どこか漫画的でした。そのせいで悪くするとギャグ寄りになってしまう場面もあって、私は卯沙ちゃんの言葉や態度などのちぐはぐさに失笑してしまうこともありました。どこをとってもドロドロしそうな展開なのにしていなくて、あっさりしています。これが現代的で、現代の小学生なのでしょうか? それなのに、先生はいつも役立たずのテンプレで描かれているので悲しいです。気になったのは、大林君のメールアドレスは了解を得て回しているのかというところ。このネットリテラシーはいただけません。それに、空いている席には誰が座ってもいいんですよね。単なる便宜上のもの。移動教室とかクラブ活動もありますし。すべてをていねいに使えばいいんです。マーキングしたい日本人の感覚だなと思いました。ウルフ・スタルクの本を先に読んだので、すべてが狭く感じました。日本的というべきなのでしょうか。最後にツッコミたいところがあって、p172「携帯を開き」とあるんですよね。スマホじゃないのかと。パカパカケータイなのかと。小学生だからなんですかね。

カピバラ:自分の本心を作文に書くことができない主人公の気持ちが正直につづられているから部分部分には共感する子もいるのかもしれませんが、物語としては一向に先に進まないのがもどかしかったです。結局、手紙もメールも書けないまま終わるという結末は中途半端で、大林くんが何を感じ、どうして学校へ来ないのかわからないし、物足りなさを感じました。宮子、中谷くん、卯沙の描き方ももう一つつっこんでほしかった。最初にクラス全員に大林君への手紙を書かせ、全員で家に届けるなんてこと、本当にやっている学校があるのでしょうか。私はここでまず引いてしまいました。大林君とお母さんの態度も後味が悪いです。歴史好きのお母さんとの会話は、おもしろくしようとしているのだろうけど、効果がないし、違和感がありました。

ハリネズミ:感想文や手紙でついつい思ってもいないことを書いてしまうことはあるし、文香が大林君の席にすわって考えてみるという展開はいいかもしれませんが、物語の流れから見て不自然なところが随所にあって、入り込めませんでした。たとえば、宮子がまわりを巻き込む押しの強い性格だとわかっているのに、文香が大林君のメアドを渡してしまうところとか、大林君の席にだれかが荷物をおいているのを見とがめて文香は自分が席にすわりつづけるわけですが、ほかの生徒が荷物をおくより、ほかの生徒がすわってしまうほうが大林君の存在を無視してしまうことになるような気もします。しかも文香はp129で中谷君が文香の席に座っているのを見ると、「他人(ひと)の席に平気で座るなんて」と文句のような言葉をつぶやくのは変。それと、最後の場面が唐突で、ただ情緒的な言葉でまとめたようで気持ちが悪かったです。物語世界がもう少しちゃんとつくってあれば、いい作品になったかもしれませんが。

マリンゴ:発売されて間もないころに、話題になっていたので読んだ記憶があります。そのときは、いい作品だけれどそんなに尾を引かないないなぁ、と思っていました。学校生活っていろんなことがあるけれど、物語があまりに「大林くん」と「手紙」に集約されている印象だったからです。今回、再読したときのほうが、おもしろく読めました。主人公は、ちょっとADD(注意欠陥障害)気味なのか、部屋の整理整頓ができない子で、周りの人はどうなのかあまり気にしていません。でも終盤、人の部屋はどうなのだろう、と関心を持つようになるなど、視野がゆっくり広がっていく感じがいいと思いました。ただ、これは好みの問題かもしれませんが、最終章の六章がまるごとなくていいのではないでしょうか。五章から、時がほとんど進んでないので、そこで終わっている方が、余韻を残したのではないかと思います。あるいは、六章を入れるなら、何カ月かあとに飛ぶとか、そのくらい話が展開したほうがいいような気がしました。

しじみ71個分:読んでなんだかイライラしてしまいました。学校のクラスのとらえ方が古くさいなぁと思いまして……。不登校の子に対してみんなで手紙を書くことを強制して、みんなで届けにいくなんて、ひと昔まえの教室運営ではないかなと……自分の子どものときの話を思い出してしまいました。先生に大林君へ手紙を書くことを強制されるのも不快でしたし、リーダー格の女子の宮子に強制させられるのも、読んでいて本当に嫌でした。宮子から「小さい」とか言われて、一方的に、こうあってほしい大林くん像を押しつけられるというのもいい迷惑だなと感じてしまい、物語の後半で宮子が少しいい子に見えてきた、という表現もあったのですが、ぜんぜんそのように寄り添った気持ちにはなれませんでした。唯一、共感できるとすれば、主人公の子が思ってないことを書けないというのは正直だと思ったことですが、その先の展開がなく、大林君の席に座って、大林君の椅子の傾きを感じ、彼が見ていたものを見る努力をするというのは、わかるような、わからないようなで……。断絶も含め、不在の人への思いや働きかけがあってこそ、読者の心が動く何かが生まれるのではないかと思いました。主人公の中で、不在の人への気持ちや思いがどう深まっていったのか、まったくわからなかったんです。大林くんが禁じられた屋上に上がって、しかられたけれど、なぜ一人だけ反省文を書けなかったのか、という点をきっかけにもっと大林君の物語を深められたのではないかと思うし、彼のお母さんが必要以上に自己肯定感が低いことにも背景があるはずなのに、それがまったく描かれていなくて、もやもやしたままです。結局、椅子に座ることも、手紙を書くことも、彼の気持ちには迫らず、自分たちの自己満足でしかないのではないかと思えてしまいました。『12歳で死んだあの子は』(西田俊也著 徳間書店 2019)にも感じたのですが、亡くなった子のお墓参りをすることに終始して、その人の不在が訴えかけてこなかった点に共通したものを感じ、思い出してしまいました。人の不在に対する心の動きがないと、物語が成立しないんじゃないのかなぁ……。

すあま:主人公は、感想文や反省文と同じように、手紙も嘘を書いていいと思って、きれいな文章の手紙を書く。先生がいいって言ったので正解だと思ったけれど、そのあとでほかの人の手紙を見て、ハッとする。手紙は相手に気持ちを伝えるものだから嘘ではだめだ、ということに気づいたことから物語が展開していくのだと思ったのですが、うまくいっていないように思いました。共感できる登場人物がいないことや細かい描写がちょっとうるさく感じられることなどで、読みづらく感じました。会話の間に頭の中で考えていることが入っているのもわかりにくかったです。登場する大人である先生や親がきちんと描かれていない大人不在の物語で、今回読んだスタルクの本とは対照的でした。あまりおもしろさが感じられませんでした。

サークルK:p47で「いつかちゃんとした手紙」を書く、と書いた文香の「最後の手紙」がp170で「板、ぴったりでした!」で落ちがつく、という展開に肩すかしをくった、というか愕然としてしまいました。もうちょっと、何か言葉はないのかな。ショートメールなどのやり取りになれているイマドキの子どもたちは、短ければ短い方が心に響くと思っているのかしら、ととまどいました。そしてこの物語が今を生きる小学校高学年の子どもたちに「あるある、だよね」という形で受け入れられているのだとしたら、小学校の現場の寒々しさというか、子どもたちがとても気を使って毎日を送っている息苦しさを思ってつらくなりました。これからを生きる子どもたちがもっと言葉を豊かに紡ぐことができるようになってほしいなあ、と願いながら読みつづけるしかありませんでした。

ハル:今、サークルKさんの意見を聞いて、ハッとしたのですが、確かに私はこの本を、今の子がどう読むかという視点では読めていなかったです。それに、2017年の刊行から少し時間が経っていますので、もしかしたら当時は画期的なテーマだったのかも知れず、あくまで2021年11月現在の感想になってしまうことも、考慮しなければいけないとも思います。そう先に断りつつも、これはいったい、いつの時代の、誰の話なんだと思うような、アップデートされていない感じが、私は受け入れられませんでした。仮にこれがノンフィクションだったとして、すべてが実際にあったことだったとしても、それを描き出して「大人ってほんといやよね」「先生って全然わかってないよね」「同調圧力、ほんといやね」で終わるのではなく、じゃあどう変えていこう、どうしたら未来が変わるだろう、というところまで感じさせてほしかったです。ただ、不登校になる理由が明確でないというのは、現実の世界でも往々にしてあることだとは思います。

ネズミ:正直な気持ちを書けない主人公というテーマはいいなあと思いましたが、物語は残念ながらあまり楽しめませんでした。p15で大林くんのお母さんが、パート先で自分の息子が学校であったことを話すところで、こんなことあるのかなと思ってしまって。不登校のことが、p108で「学校に行かないのはとんでもないことらしいのはわかった」と書かれたあと、それ以上に深まらないのも、物足りませんでした。閉塞的な息苦しさを超える、新たな気づきや共感がもっとあったらと思いました。

ニャニャンガ:主人公の文香が嘘を書きたくないという点には共感しましたが、全体的にどうかといえば共感できませんでした。気になったのは、大林くんが不登校になった本当の理由が明かされない点です。また、担任の先生の行動が怖かったです。立ち入り禁止のところに入ったくらいで反省文を書かされ、学校に行かなくなった大林くんの心の傷を理解しているのだろうかと思うほど、子どもたちに無言の圧力をかけ、無神経な行動をとるなど既視感がありました。クラスのみんなで不登校の生徒に手紙を書くとか、宮子を教師の「使える子」として学級運営をしているのは、わが子が小学生だったときと重なったのでリアルだと思います。でも、大林くんのお母さんは謝りすぎ、文香のお母さんはマイペース、友だちの卯沙はふわっとしているようでしっかりしているなど、マンガのようにキャラ立てしようとしているのかなと感じました。

さららん:この作者は言葉にすると壊れてしまう感覚を、書こうとしたのかなあと思いました。主人公は、最後まで手紙を書かず、読者としてはもどかしい感じ。そして大林くんの気持ちが主人公に少し伝わるのは、親友を通しての伝言と間接的なメールの画面だけ。主人公は大林君の席にすわって、その気持ちを想像する毎日なのですが、そんな主人公を大林くんはちょっと意識していて、最後のほうで「板」をくれます。椅子の傾きを調整するために。関係性に踏みこまないで人物を描いているから劇的な展開もなく、開けられた容器に、読者が「大林君はどう感じているんだろう」「どんな子なんだろう」「なぜ学校を休んでいるんだろう?」と自分の想像で埋めるほかない物語でした。そこには空白があって、書きこみが足りないといえばそれまでなんだけれど、今の子どもたちの感覚に通じる部分があるのかも……そういう意味では現代的なんでしょうか? 友だち同士のコミュニケーションが取れているような、いないような関係は理解できませんが、代わりに物の手触りをていねいに書いている点がおもしろかったです。

ンヌ:読みながら、事件と事件との間に物語としてのつながりがなく、読者が詩や和歌を読むときのように、間を埋めながら読んでいく作品のような気がしていました。実に繊細な感じで。だから、具体的なイメージがうまくわいてこない部分も多く、ハンカチが選べなくて2枚差し出す意味とかは、うまく読み取れませんでした。手紙を書き直すというのはわかるのですが、やっと本当の手紙が書けたのに、それを出す前に中谷君と大林君とのメールのやり取りが始まってしまうという第六章は、先ほどマリンゴさんからもご指摘があったのですが、時間の経過が速すぎる気がして奇妙な感じがしました。歴史おたくの文香の母親は、ユーモアとして描かれているのでしょうが、p107で不登校について「何度も説明しなければいけなくなる」は親の立場の説明だとしても、「役に立たない人間として区別される」という発言をするのには疑問を持ちました。

ルパン:私は今回の選書係だったのですが、この本はある意味傑作だと思って選びました。たしかに小学生としてはおとなびた感があり、中学が舞台のほうがよかったなと思いますが、ものすごくリアリティを感じます。みんな、もやもやしていて、方向性なんてないんですよ。定着して方向がつけられた学校制度の中に閉じこめられた子どもたちの現実です。そして大人たちの現実でもある。子どもが不登校になって、どうしたらいいかわからない自信のない親。自分がどうして学校に行かれなく(行かなく)なったのか自分でもわからない子ども。感想文や手紙を書けと言われてどうしたらいいかわからない友だち。旧態依然の価値観をもち、マニュアルに頼る自信のない(あるいはありすぎる)先生たち。この中の登場人物に似た人たち、私のまわりにはたくさんいます。物語の中で不登校の理由がはっきりしたり、それを解決できる大人がいたりしたら、そっちのほうがよっぽど非現実的です。「個人の自由」や「個性の大切さ」を声高に言いながら、足並みをそろえることを強いる「学校」という社会の中でみんな困っている、という現実をあぶり出した作品だと思っています。みんなが先生に言われて書いた手紙の中で、大林君は主人公の手紙だけに反応した。それを知った主人公は何か自分ができることはないかと模索した。ここで二人はちゃんと繋がりました。答えがなくてもいいじゃないですか。りっぱな大人が出てきて解決しなくてもいいじゃないですか。現実ではむしろそんな大人が都合よく出てきてくれることのほうが少ない。この主人公は何もしなかったわけでも何もできなかったわけでもない。私は「理想の大人や理想の子どもが描けていない」と思う人こそ「大人目線」なのだと思います。もやもやして困っている子どもたちはきっと共感し、「こんな自分でも、できることをさがしていいのかもしれない」と一歩、いや、半歩でも踏み出せるかな、と背中を押されるはず。文章の細かいところで課題はあるかもしれませんが、今回はそういう理由で選びました。

(2021年10月の「子どもの本で言いたい放題」より)

 

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おじいちゃんとの最後の旅

ウルフ・スタルク『おじいちゃんとの最後の旅』表紙
『おじいちゃんとの最後の旅』
原題:RYMLINGARNA by Ulf Stark, 2017
ウルフ・スタルク/作 キティ・クローザー/絵 菱木晃子/訳
徳間書店
2020.09

<版元語録>死ぬ前に、昔住んでいた家に行きたいというおじいちゃんのために、ぼくはカンペキな計画をたてた…。ユーモラスで、切ない物語。

アンヌ:私はおじいちゃん子だったので、主人公と祖父が性格の一致を喜ぶ場面には、心がギュッとつかまれました。船の中で、手と手を重ね合わせるところとかを読んで、相手の温かさを感じるだけで幸せな気分になる感じとか、いろいろ思い出してしまいました。題名からわかるように、この物語は祖父が妻の死を受け入れ、自分の死も受け入れていく物語であり、主人公が祖父の死を受け入れていく過程が描かれています。でも、ユーモアたっぷりの物語で、その中にスウェーデンの典型的な食べ物、ミートボール、シナモンロール、コケモモのジャム等が姿を現し、その食べ物にも一つ一つ意味があって、おいしそうで温かくて魅力的な物語となっています。アダムという頼りがいがある大人が出てきて、p131で祖父を病院から連れ出した自分を責める主人公を、おじいさんはああいう人だろうとなだめてくれるところでは、たとえ老人でも病人でも障碍者でも人権があるということを教えてくれます。嘘が嘘を呼ぶ苦い味も12章の「カンペキなうそ」でしっかり描かれていて、実に見事な物語だと思いました。キティ・クローザーの挿絵も一目見た時からあまりに魅力的で、目が離せませんでした。

ニャニャンガ:ウルフ・スタルクは好きな作家なので、刊行後まもなく読んだので再読です。スタルク最後の作品ということで読む前から胸が熱くなりました。おじいちゃんと孫、人生の悲哀をテーマにしたスタルク作品は最高です。ただ今回は、おじいちゃんがあまりに口が悪くて偏屈だったので、物語世界に入るのに少し時間がかかりました。島から帰ってきたあと、天国で妻と再会するときのために言葉遣いを直そうと努力するおじいちゃんが大好きです。ただひとつ残念なのは、キティ・クローザーの挿絵をスタルクさんが見られなかったことです。対象年齢の読者がどのように読むのかを知りたいと思い「読書メーター」を見てみたところ、勤務校の男子生徒にすすめられたという書きこみを見つけ、きちんと届いているんだなとうれしくなりました。

ネズミ:とてもおもしろく読みました。はじめから、おじいちゃんが死んじゃうんだなとわかるのですが、それでも読者を思いがけないところまで連れていってくれます。ストーリーや人物に無理がなく整合性があって、ほころびがない、完成度の高い作品だと思いました。改めていいなと思ったのは、この本に出てくる人たちが、誰ひとりとして、いい人になろうとしないところ。こうじゃなきゃいけない、というような道徳や偽善がない。看護師さんも、おじいちゃんが患者だというのに悪口を平気で言うんですね。日本の子どもの本とは、人間の描き方がずいぶん違うと感じました。

ハル:皆さんの感想を聞いていて、思い出し泣きしそうです。本を閉じてからしばらく泣いてしまったのですが、もしかしたらこんな体験は初めてかも。私は小さいころ、おじいちゃんのことがあんまり好きじゃなかったので、子どものころにこの本を読みたかったなぁと思います。子ども時代に読んでいたら、愛する人を失うという体験を、この本で初めて覚えたのかもしれませんね。登場人物、ユーモアもたっぷりの表現、イラスト、訳文……そういった全部、この本のすべてに愛があふれている感じがします。そして今度、北欧を旅することがあったら、お皿に添えられたコケモモのジャムも大事に食べようと思いました(以前に旅したときは、なんでおかずにジャムがのっているのかよくわからなくて、よけちゃったので)。

雪割草:あたたかくて素敵な作品だなと思いました。おじいちゃんは、古風で怒ってばかりですが、人間味あふれる描写で、「訳者あとがき」にもあるように、作者の、おじいちゃんのことが大好きという気持ちが伝わってきました。それから、「死」の描き方もいいなと思いました。カラスがオジロワシになって飛んでいくラストシーンへ向かって、p149にはウルフの見えないものへの気づきが書かれていますが、子どもの等身大の体験に近く感じました。ほかには、ウルフとおじいちゃん、ウルフとお父さんの関係が、p59にあるように世代の違いだけでなく、一人ひとりの違いとして描かれているのもよかったです。人生のはじめの方にいるウルフと人生の終わりの方にいるおじいちゃんの交流が、味わい深かったです。

マリンゴ:タイトルから、重い展開をイメージして、今まで敬遠していたのですが、想像とは違ってとてもハートフルで、楽しい部分もある物語でした。「嘘」が出てくるお話って、それがバレたらどうしよう、とハラハラする流れが一般的だと思いますが、この作品は、嘘を言うことを楽しむ少年が主人公で、ピンチに陥っても、仲間のアダムがすらすらと嘘をつくなど、嘘を肯定する展開がおもしろかったです。お父さんの前で、おじいちゃんとの冒険の事実を主人公がぶちまけると、お父さんがまったく信じてくれない、という場面が印象的でした。p126「合宿でなにがあったか、話してみなさい」と言われて、「……寝袋の中にゲロを吐いた子がいた」と答える場面はユーモラスで、笑ってしまいました。事実がすべて正義とは限らない、と考える作者の想いが伝わってきます。大きなことではないのですが、唯一引っかかったのは、p114からp115にかけて、アダムが卓球の試合ですぐに負けた話をしたあとの主人公のコメントです。「すぐに負けて、よかった」「ビリだっていったほうが、うけがいいでしょ」「負けた人のことは、みんな、かわいそうだと思うよね。で、ふだんよりやさしくしてくれる」などと続くのですが、これが、物語の流れのなかで若干唐突なので、後の伏線かと思ったらそうでもなく、少しとまどいました。

ハリネズミ:p114からのところは、ウルフの人となりをあらわしている表現だと思って読みました。融通のきくちょっとちゃっかりした性格の子なんじゃないかな。ウルフ・スタルクは角野さんと同じ時期に国際アンデルセン賞候補だったんですけど、選考期間の間に亡くなられたので、候補から除外ということになってしまいました。さっき、ハルさんが泣いたっておっしゃったのですが、私は、あっちこっちで笑いもしました。しみじみさせながら笑わせもする作品って、すごいです。文章にも絵にもあちこちにユーモアがちりばめられています。たとえば、汗臭い女の人に寄っていくっていうエピソード+p20の絵で、私は噴いてしまいました。子どもらしい視点も随所にあります。たとえばp10「ぼくは、まえからずっと、おじいちゃんが怒りだすときが好きだった。その場にいると、ものすごくドキドキする」とか、お父さんに「わたしの目を見ろ」と言われて、p122「ぼくは見なかった。パパの眉毛を見ていた。目でも眉毛でも、パパにはわからない」とか。p130で、パン屋の店に入って「店の中に入ると、あたたかくて、うす暗くて、いいにおいがして、ぼくはからだがふるえた」とか。スタルクには、上から目線や猫なで声がまったくない。あと、短い文章の中で、じつに的確に表現しています。たとえばp72「ぼくがジャムの瓶を持ってもどると、おじいちゃんはしばらくのあいだ、その手書きの文字をじっと見つめていた。それからふたをあけ、パラフィン紙の封をナイフでそっとはがした」というところですけど、あれだけ罵詈雑言を連発していたおじいちゃんが、おばあちゃんの作ったコケモモのジャムには万感の思いを抱いていたことが伝わってきます。それと、どのキャラクターにも奥行きがある。下手な作品だとお父さんを悪者にしてしまうところですが、お父さんも、p146のお菓子を買ってくるくだりや、そのとなりの絵を見ると、ただの堅物ではないことがわかりますよね。最後のカラスとオジロワシのところも伏線がちゃんとあるし。キティ・クローザーの絵も、ほかのにも増してすばらしいので、スタルクを敬愛していたことが伝わってきます。

カピバラ:私もスタルクは大好きな作家なんですけど、大好きなスタルクの最後の作品だというさびしさと、おじいちゃんの最後の旅という悲しさとが重なって、なんともいえないしみじみとした読後感にひたった一冊でした。スタルクの持ち味はユーモアとペーソスだと思いますが、それが十分に味わえる作品だったと思います。時代も国も違うのに、こんなに親しみを感じる人が出てくる本っていうのは少ないものですが、先ほど「登場人物がみなほかの人に自分を良く見せようとしない人たちだ」という感想がありましたが、なるほどと腑に落ちました。何度も何度も繰り返し読みたい作品です。

まめじか:登場人物が人として立ち上がってきて、この人たちはページの向こうにちゃんといると感じられました。主人公のウルフはおじいちゃんのことをよく理解していて、たとえば「死んだ人を愛しつづけることって、できる?」(p60)ときいたときに「だまれ、ガキのくせに!」なんて言われても、それは「できる」という意味だとちゃんとわかってる。わざと汚い言葉を言わせて、その罰として薬を飲ませるのも、おじいちゃんへの想いが伝わってきます。ウルフは人生がはじまったばかりの子どもで、一方おじいちゃんは人生を終えようとしている。夢と現実の境があいまいになって、おばあちゃんとかオジロワシとか、そこにはいないはずのものが見えるようになったおじいちゃんの目に映るものを、ウルフはときどき感じながら最後の時間をともに過ごして、やがておじいちゃんは船のエンジン音のようないびきをたてて向こう側の世界へと出航していく。たった2日間の冒険が、主人公の心にかけがえのないものを残したのですね。冒頭に出てくる紅葉した葉は、次の世代に命をつないでいくことを思わせるし、コケモモのジャムは生きることそのものというか、人生という大きなものを日常のささやかなものにぎゅっとこめるように描いていて、そういうのも見事だなあと。おじいちゃんが弱っていく姿を見たくなくて病院に来たがらないお父さんの描写には、リアリティがありました。あと、ウルフがバスの中で、汗のにおいがうつるようにおばさんにくっつく場面なんか、ユーモアがあっていいですね。挿絵も物語にとてもよく合っています。キティ・クローザーは現実と想像が入り混じった世界を鮮やかに描き出す画家で、私はとても好きです。死をテーマに扱った作品も多いですね。

さららん:しばらく前に読みましたが、ほんとに短いけど、どこもかしこもおかしいような切ないような、魅力的なお話でした。おばあちゃんのお葬式のときに、汚い言葉を吐いてしまったおじいちゃんは、天国でおばあちゃんと再会するときのために、これからはきれいな言葉をしゃべれるようにがんばろう、と決意します。そんなところに、おじいちゃんがおばあちゃんに伝えきれなかった、深い愛を感じました。そして、この本はあえて直訳風にした翻訳の仕方がすごくおもしろくて! p44の「かわりに息子と、とてつもなく愉快なわたしのおいがまいります」とか、下手にやったら目も当てられない表現ですが、それがものすごく笑えるんです。これは菱木さんのマジックかなあ。シナモンロールはよく食べるけれど、カルダモンロールは食べたことないので、食べてみたいです。おじいちゃんが静かにいびきをかきはじめた場面では、涙が出そうになりました。

サークルK:読書会に参加させていただくようになっていちばん涙を流した作品でした。タイトルがすでに物語るように、主人公のおじいちゃんの死に向かっていくお話ではありますが、悲壮感がなく「命がゆっくりと尽きていくときの時間」ということを作者が尊厳をもって温かい言葉で語ってくれていて、素晴らしかったです。その素晴らしさを翻訳と挿絵がさらに引き立てていました。p61のおじいちゃんと孫がまったく同じポーズで船室の椅子に座っているところはユーモラスで思わず笑みがこぼれましたし、p159の挿絵で孫の男の子がおじいちゃんの大きな手を握りながら最後の時を過ごしている様子には、胸を打たれました。ベッドサイドテーブルにおばあちゃんの写真とほんの少しだけ残ったコケモモのジャムの瓶が置かれていることが描かれていたからです。大好きな妻の作ったコケモモのジャムはおじいちゃんの生きるエネルギーそのものになっていたはずなので、挿絵に空っぽの瓶ではなく、ほんの少しジャムが残された瓶が描かれたことによって、おじいちゃんが明日もまた生きておばあちゃんのジャムを食べたいと思っていたのかもしれない、という希望のようなものが感じられました。p90で示唆されていた「オジロワシ」にp161で見事に姿を変えたおじいちゃんの最期は悲しみに満ちたものでなく誇り高いものであったのだなあ、としみじみ感じ入りました。

すあま:最後に登場人物が死んでしまうことがわかっている話は子どものころからあまり読みたくないのですが、スタルクなら絶対おもしろいだろうと思って読みました。ウルフが両親をだましておじいちゃんを連れ出すところは、途中で見つからないか、おじいちゃんは具合が悪くならないかと、ハラハラする冒険物語を読んでいるようでした。アダムがいたのも大きかった。家族じゃないけど助けてくれる大人が出てくる物語はいいですね。出てくる大人がちゃんと描かれているし、アダムも魅力的な大人で、おじいちゃんとわかりあえている感じもよかったです。日本でも、子ども向けに老いや死、認知症をテーマにした本がいっぱい出ているけれど、ウルフ・スタルクにかなう人はいません。泣かせる、感動するだけでなく、やっぱり笑えて楽しいところもあるのが良いと思います。ウルフはいい子だけど、それだけじゃなくて嘘もつくし、個性豊かで生き生きしている。おじいちゃんが亡くなってしまうのも自然に描かれていて、いいなと思いました。死を描いていると、怖かったり悲しすぎたりするものも多くて、そういう話が苦手な子にも読みやすくて受け入れやすい話だと思いました。来日されたとき講演会でお話をうかがったのですが、物語のウルフに会ったようで、とても楽しい時間でした。訳については、汚い言葉を話す人たちを、キャラクターが伝わるように訳すのは難しいのではないかと思いましたが、すばらしい翻訳でした。

シア:『うそつきの天才』(ウルフ・スタルク著 はたこうしろう絵 菱木晃子訳 小峰書店 1996)という本が大好きでしたので、ウルフ・スタルクだ! と思いながら読みました。「最後の旅」という題名を見て、また題名ネタバレをしている……とガッカリしたのですが、結果的にかなり泣かされました。日本版はこの手の題名多いので、なんとかしてください! おじいちゃんの汚い言葉がかえって生き生きしていて、本当におばあちゃんを愛していたんだなというのも伝わりましたし、変わっている人なんですがとても素敵な人だと思えました。こんな人生いいなと思いながら読みました。子どもに是非読んでほしい本です。挿絵は色鉛筆ですかね、きれいな色合いでした。小学生くらいから読むのにいいと思います。夜に読んだので、シナモンロールとかコケモモのジャムなど、誘惑にかられる1冊でした。

しじみ71個分:読んでもうとにかく感動しました。短い物語の中で、どうして人間関係がここまで書けるんだろうと驚くばかりです。詳細な説明は書いていないのに、おじいちゃんとの関係ばかりか、お父さんとウルフ少年との関係など、全部わかってしまうんですね。キティ・クローザーの絵もすばらしくて、最後のおじいちゃんとおばあちゃんの二人がよりそっている後ろ姿の絵を見て、涙腺崩壊しました……。アダムも看護師さんたちも脇役ながら、人がらがみっちりと描きこまれていて、とても魅力的です。著者はキティ・クローザーの絵を見ることなく、出来上がった本を手に取ることなく、亡くなられたとのことですが、自分が老境にあって、おじいちゃんのことをどういう心境で書かれたのかなと思うと、また泣けてきます。汚い言葉を使うけれども愛情深い人で、短い言葉や行動の中におばあちゃんへの愛情があふれていますね。病院を抜け出して島にわたる際におばあちゃんの姿を見たり、おばあちゃんの腰かけていた椅子に座って窓の外を眺めたり、と不在の人を見る、またその人の見ていたものを見ようとするという行為が、不在の人を思う深さを直接的な言葉でなく語っているところに、ウルフ・スタルクのすごさを感じました。それから、ウルフ少年の嘘も、自分の苦しまぎれの保身とか自分勝手とかではなく、おじいちゃんを楽しませるためで、自分の力で考え、アイディアで難局を切り抜けていくという、この物語に代表されるような、西欧の活力ある子ども像は大変に魅力的ですし、そういう物語が日本のお話でも描かれていくといいなと思いました。

さららん:キティ・クローザーが日本に来たとき、お話ししたことがあるんです。そのとき、日本で何をしたいですか? ときいたら、島に渡りたいと言ってました。このスタルクの本の中に出てくる多島海の風景は、ベルギーとスウェーデンの両方を行き来して育ったキティの原風景でもあるんだ、と思いました。

ニャニャンガ:原書の表紙では、おじいちゃんの足元にタイトルが入っていますが、邦訳では上に移動していますね。空の部分が原書の倍くらいになっていますが、どうやってつけ足したのかなと思いました。

ハリネズミ:日本語版には帯がついているから、タイトルを上にしたのでしょうね。原画が大きかったのかもしれないし、コンピュータ処理で空の部分を伸ばしたのかもしれません。

(2021年10月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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わたしが鳥になる日

『わたしが鳥になる日』表紙
『わたしが鳥になる日』
原題:EXTRAORDINARY BIRDS by Sandy Stark-McGinnis, 2019
サンディ・スターク-マギニス/作 千葉茂樹/訳
小学館
2021.03

〈版元語録〉主人公の少女デセンバーは、鳥が大好きで『鳥類完全ガイド』を丸暗記している。そして、自分も鳥で、背中から翼が生えてくると信じていた。ある日、動物保護センターで傷ついたノスリが自力で飛ぶ訓練をすることになる。 空を飛びたいと願う11歳の少女の悲しくも希望に満ちた感動物語。

ヒトデ:物語のカギとなるビートルズの曲や、ロバート・フロストの詩など、モチーフの入れ方が、とても巧みだなと思って読みました。嫌味なく物語にはまっているというか。こういうのが読めるから、やっぱり翻訳文学っていいなと思いました。「鳥」というモチーフも新鮮でしたし、物語にしっかりハマっていてよかったです。

雪割草:すてきな作品だと思いました。「エリナー・リグビー」がテーマ曲として描かれていますが、知らなかったので調べて聴きました。それで、登校時にエリナーが歌っているこの曲が、悲しい歌詞とメロディーだったことを知り、エリナーのキャラクターをより深く味わうことができました。あとがきにもあるように文章は詩的で、また色でさまざまに表現するところも好きでした。主人公は、自分は鳥だと思っていて、鳥になれば自由になれるのだと、自分の物語(日記)を持ち歩いていますが、ミミズを食べるシーンなどはやりすぎではないか、読者はついていけないのではないかと思いました。ただ、それだけ主人公の傷も深いのだとも思いました。そして、エリナーは献身的で素晴らしい人物だと思いましたが、素晴らしすぎるのではないかと思いました。

カピバラ:デセンバーには、一つ一つの物事がどう見えているのかを、時に詩的な表現を使ってていねいに綴っているのがよかったです。ただストーリーを追うのではなく、一人の少女のものの見方や感受性を共に味わう、といった読書の楽しみがありました。またすべての事柄を鳥の生態や習性と結びつけて考えるのが新鮮でおもしろかったです。オリジナリティがありますね。周りの人々を鳥になぞらえて表現するのもデセンバーならではの見方でおもしろいです。いろいろな辛い体験をしているので、最初はもっと年齢が上の子のような印象でしたが、まだ11歳なんですよね。11歳の身に余るつらい体験を重ねてきたから、自分は鳥なんだと思い込もうとするところが痛ましいです。やっと出会ったエリナーの押しつけがましくない愛情や、シェリルリンのストレートな友情に救われるところはほっとします。あと、意外にソーシャルワーカーのエイドリアンが最後に涙するところは、感動しちゃいました。ずっと見守ってきたんですものね。エリナーが傷ついた鳥を保護して自然に帰す仕事をしているのが象徴的に描かれていると思いました。

さららん:もうすぐ鳥になれると信じ、そのたびに木から落ちて傷つくデセンバー。妄想とか精神障害ではなく、想像を現実とごっちゃにできる、ぎりぎりの年齢として11歳の主人公を設定したのは、正解だったと思います。何が起きているのか見当もつかぬまま読み始めましたが、カウンセラーとの会話を通して、デセンバーが、自分の行動が人から変だと思われることをちゃんと理解している子だと知りました。デセンバーは自分の行動や感じ方を説明するとき、様々な鳥の例を具体的にあげます。その表現がおもしろく、独特な言葉の用法で、ここにしかない世界が作られています。ブルー、ピンクなどの色彩が象徴的に使われ、音楽も聞こえてきました。里親エリナーとデセンバーの気持ちが通じ合うにつれ、エリナーへの共感が増し、飛ぶたびに傷つくデセンバーの姿に、もうこれ以上自傷行為は繰り返さないで!と願う気持ちになりました。大切な友人になるトランスジェンダーのシェリルリンの存在によって、現代に生きる子どもの物語としての厚さが増しています。デセンバーのために、なんとか居場所を探そうとするソーシャルワーカー、エイドリアンの描き方も好ましく、新鮮でした。

まめじか:デセンバーは聡明な面を見せる一方で、空を飛べると思っていたり、自分も剥製にされると思ったりするようなところもあり、そうしたアンバランスな内面がよく描かれていると思いました。ここから飛び立ちたい、自分の居場所を見つけたいという強い思いは、「ある場所に属している」というアカオノスリの学名に呼応し、また渡り鳥の帰巣本能にも重ねられています。餌のネズミをていねいに扱うエリナーを見て、ネズミの運命がわかっているから優しくするのか、自分のことも過去を知っているから優しくするのかと考える場面など、心の動きが繊細に表されています。校長室までデセンバーにつきそってきたシュリルリンが、「あなたはどうしてここにいるの?」と聞かれて、「心のささえになるためです」と答えるのですが、シュリルリンやエリナーやエイドリアンがデセンバーの心に寄り添う姿には胸が熱くなりました。

しじみ71個分:今回の選書係としてこの本を選んだきっかけは、図書館の書棚に並んでいるのを見て、表紙の装丁が素敵だなと思って手に取ったのでした。読んで本当に良かったと思います。前回読んだ『スーパー・ノヴァ』(ニコール・パンティルイーキス著 千葉茂樹訳 あすなろ書房)と内容は似ていて、家族がいなくて里親を転々とし、最後に家族を得るという点は共通しています。スーパー・ノヴァでは主人公は自閉症で、求めているのは最愛の姉でしたが、この本は失われた母親で、その母親が主人公を虐待して大怪我を負わせていなくなるというより厳しい内容でした。里親になるエリナーの名前の由来は、The BeatlesのEleanor Rigbyで、その歌の寂しい雰囲気が物語を通底していると思い、イメージが広がりました。とても切ない歌詞で、教会で結婚式でまかれる米を拾う老婆エリナー・リグビーをはじめ、すべての孤独な人々を歌っていますが、この寂しさを極めたような歌が物語のカラーになっていると思います。里親になるエリナーが娘を亡くし孤独を抱えた人であり、デセンバーも孤独で、孤独な人同士が探り合い、最後に寄り添うというイメージは美しいと思いました。デセンバーが鳥になって飛ぶことに取り憑かれているのも、そういうふうに思わざるを得ないほどに追い込まれた、11歳の体につまった悲しい思いであって、自分を虐待した人でも母と思って慕う姿は読んでいてもつらかったです。お母さんも連れ合いを亡くして精神的に不安定で、それゆえにネグレクトと虐待をしてしまった、ある意味支援の手の足りない人だったのも切ないです。文章が詩的で美しく、言葉からのイメージをたくさん受け取れた物語でした。

アンヌ:最初は本当に「鳥になる」物語かと思っていたのですが、これは飛ぶ話ではなく繰り返し木から落ちる話で、何度も自殺未遂を見させられているようで、読み進めるのが苦痛でした。種しか食べない偏食を自分に課しているデセンバーに、アイスクリームを山盛り食べさせてくれるエイドリアンとか、ゆったり構えて無理強いをしないエリナーとか、まっすぐに友情を示してくれるシェルリリンとか、良い人たちとの出会いがあるけれど、その裏に母親の虐待の事実が少しずつ現れたり、学校のいじめが描かれたりする。その構成は本当に見事だと思うけれど、読んでいてつらいものがあって、後半を読み進めながら、ここでもう一押し誤解があってそれから木から落ちるのかと思うと、つらいなあ、長すぎるなと感じました。詩的表現が心を打つ場面も多いので優れた作品だとは思いますが、読み進められる年齢層はどれくらいなのでしょうか?

アカシア:今日読んだ作品で比べると『いちご×ロック』(黒川裕子著 講談社)が図式的だったのに対して、これは個性をきちんと描き出していると思いました。文学って、こういうもんなんじゃないかな、と。読んでいてたしかにつらいですが、こういう子どもがいるというのは確かなので読んで心を寄せたいと、私は思います。木に登って飛ぼうとするのはこの子の無意識の自傷行為だと思ったし、最後で自分は人間だと何度も自分に言い聞かせているところで、それだけこの子の心の傷が深かったのだと思い至りました。欲を言うと、新人ならではの部分もなきにしもあらずです。たとえば冒頭はどういう状況かつかみにくいし、p54で「剥製にされるんじゃないか」と主人公が本気で思うところで、私はついていけなくて、最初に読んだ時はそこでやめてしまいました。今回もう一度読んだら、作品の深さもわかってきたのですが。それと、里親のエリナーが出来すぎですよね。つらい子どもを受け容れるには、こんなにすばらしい人じゃないとだめなのかと思ってしまいます。

虎杖:同じ訳者による『スーパー・ノヴァ』に設定が良く似てるなと私も思いました。千葉茂樹さん、同じ時期に訳されたのなら大変だったろうなと思ったり、さすがだなと感心したり……。ただ、『スーパー・ノヴァ』の主人公は、お姉ちゃんにとても愛されていたという経験があるのに、この作品のデセンバーにはそれがない。愛されなかったことをナシにしようとおそらく無意識に思いつめたことが、「自分は鳥になる」という思いにつながる。そこのところがなんとも悲惨ですね。作者のあとがきには、実際にいろいろな人に話を聞いたと書いてありますが、このデセンバーもモデルがいたのかなと推察しました。それにしても、色彩にあふれた詩のような文章が素晴らしい。パンプキン畑の描写が特に美しい映画を見ているようで印象に残りました。ただ、エリナーはちょっと出来すぎというか、作りすぎというか……。『おやすみなさい、トムさん』(ミシェル・マゴリアン著 中村妙子訳 評論社)のように、守られている子どもと守っている人が、お互いに影響しあいながら変わっていく様子が見たかったなという気がしました。『スーパー・ノヴァ』の表紙も好きだったけど、この本の表紙もすてきですね!

ハル:私も雪割草さんと同じで、「エリナー・リグビー」がタイトルでピンとこず、読み終わってから調べて「ああこれかぁ!」と思ったので、先に調べてから続きを読めばよかったです。これは失敗でした。作品全体としては、実はちょっとトラウマになりそうなくらい陰鬱な部分もある作品ですよね。たとえば、いじめっ子に追い詰められてミミズを食べる場面とか、繰り返し木から飛び降りる場面とか。それでも、構成力や表現力、人物の魅力で、ぐっと物語に引き込む力をもった作品で、読後はいいお話を読めたという深い満足感がありました。YAとしては、やや読解力を必要とするタイプの作品かなぁと思います。

ネズミ:いい物語を読んだという満足感がありました。心にしみるお話です。鳥がこの子にとっての鎧であり、逃げ場だったのだろうなと思って、胸が痛くなりました。表現のひとつひとつがとても繊細だと思いました。「わたし」が「わたしたち」に変化していくことに象徴されているものがあったり。11歳にしては、全体に大人っぽい感じがしますが、p143からの魔法の杖で遊ぶ場面は、シェリルリンといることから子どもっぽい部分が引き出されているのか、とても印象的でした。タイトルは感じがいいですが、ミスリードしないかなとも思いました。「鳥になる」のが目標なのかと思って読み進めてしまったのですが、そうではなかったので。原題のExtraordinary Birdsというのは、訳すのが難しそうですね。作者の〈謝辞〉に「中級学年むきの作品を書くべき」と言われたとありますが、日本の子どもが読むなら、この作品は中学年より高学年ですよね。

アカシア:日本ではページ数が多いだけで、高学年向けとかYAになってしまうのではないでしょうか。

カピバラ:翻訳もののほうが、設定になじみが薄い分、グレードが高くなるのかもしれませんね。

マリンゴ: 非常に魅力的な本でした。デセンバーが、エリナーのもとに来て、信頼関係を結んでいく物語なのだろうなと、序盤で容易に想像つくのですが、それでも、複数の不安定な要素があって、どういうふうに着地するのか、と引き込まれました。冒頭だけは読みづらくて、数ページ読んでから、人間じゃなくて鳥が主人公の物語なのかな、といったん最初まで戻って読み直してしまいました(笑)。鳥にまつわるさまざまな蘊蓄が随所にあふれていておもしろく、また鳥の一生と人間の人生を重ねている部分なども、説得力があってよかったです。特にp130に出てくるシャカイハタオリという、世界で一番大きな巣をつくる鳥が気になって、調べました。なぜかミサワホームのホームページにくわしい情報が出ていましたよ。デセンバーは、8歳か9歳くらいの幼さを見せるときと、12歳以上の知性を見せるときと、ばらつきがありました。それは、デセンバーのPTSDの深刻さを意図的に見せているのだろうな、というふうに受け止めました。敢えて言えば、エリナーの人柄があまりに優れていて忍耐強いので、デセンバーのような子の信頼を得るためには、里親はここまで頑張らなければならないのか、とちょっとしんどさもありました。なお細かいことですが、「リーキ」という食べ物が登場しますけれど、この呼び方はあまり日本ではなじみがない気がします。ニラネギ、もしくはポロネギと訳してもらったほうが、イメージが湧きやすいかなと思いました。

西山:最初は読みにくかったですね。だんだん加速していって後半は途中で止められなかったのですが、それは、デセンバーに何が起こったのか、その不幸な過去を知りたいという興味で読み進めていて、我ながら、それはちょっといやしい読み方だなと思っています。読みにくかったのは、例えば、鳥が好きなのだったら、ヒメコンドルが不細工だと言ったりする(p38)のかなとか、デセンバーという少女の像が一本に結べず、ついていきにくかったからかと思います。過去の過酷な体験が原因で、彼女の感情面の振幅が激しいのかとも理解しますが、それが読みにくさになっていたかなと。ソーシャルワーカーのエイドリアンが好きでした。デセンバーが彼の心遣いをしっかり受け取っているから、それが読み手に伝わったのだと思います。

(2021年9月の「子どもの本で言いたい放題」より)

 

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いちご×ロック

『いちご×ロック』表紙
『いちご×ロック』
黒川裕子/著
講談社
2021.04

〈版元語録〉受験に失敗し、滑り止めの高校に通うことになった海野苺。そのショックで、友達も作らず、「ぼっち」な毎日を過ごしながらも、クラスのイケメン・シオンへの秘めた恋心をあたためていた。ところが、そんな想いもあっけなくバレ、あえなく撃沈。傷心の苺に追い打ちをかけるように、父親がとんでもない事件を引き起こし、警察のやっかいになることに……。お先真っ暗の苺は、江戸川河川敷で謎の集団の奇妙なパフォーマンスに遭遇する。仙人のような大男、学校1の問題児・笠間緑、そして苺を振ったシオン! 3人が繰り広げるのは……エアー・ギターだった!

ネズミ:非常に勢いのある作品だなと思いました。思った高校に行けなかったこと、母との関係、父親の事件への戸惑い、よくできた姉への劣等感など、いろんな要素がからんでいます。高校生のさまざまな要素を盛り込もうとしているんだなと好感を持ちました。ただ、私の好みの問題かもしれませんが、その勢いについていけない部分もあったかな。特に、ひっかかったのは父親の事件をめぐるやりとりは、すっきり解消せず、消化不良感が残りました。

虎杖:エアギターというのは、テレビでコンテストの風景を見たことがあったけど詳しくは知らなかったので、おもしろいなと思いました。楽器を弾けなくてもできるというのがいいですね。でも、人前で演奏するには、楽器を弾くより勇気がいるかも。濱野京子作『フュージョン』(講談社)を読んだときも、ダブルダッチとか縄跳びの技を知ることができておもしろかったのを思いだしました。文章は軽くて、すらすら読めるし、登場人物もマンガチックだから、中学生は手に取りやすいかな(高校生となると、疑問だけど)。ひっかかったのは、主人公の苺の設定で、受験の失敗で暗くなってる優等生が、たとえモノローグでも、こんな風に話すかなということ。それに、成績が251人中25番で落ち込んでいるらしいけど、ここまで読んだら251人中224人の読者はカチンときて読みたくなくなるかも。お父さんが痴漢で捕まったという事件は、十代の子にとっては大変なことだと思うけど、結局やってたのか、どうなのか曖昧なまま終わりますよね。これって、絶対やってるよね。冤罪だったら、最初から猛烈に怒るだろうし、闘おうとするだろうから。作者も、そのへんのところは気になっているとみえて「このひとは、嘘をいっているかもしれない」なんて主人公に言わせている。いっそのこと、本当にやったという設定にすればおもしろい展開になったのかもしれないのに。変な言い方かもしれないけれど、作者の覚悟が足りないなって気がしました。当然いるだろう被害者(あるいは、被害を訴えた人)のことも、この主人公はまったく考えていないんだよね。実際に痴漢の被害にあった中高生が読んだら、カチンどころじゃなくて猛烈に怒るだろうなと思いました。

アカシア:私はあまりおもしろく読めませんでした。シオンの父親は韓国人なのですが、その設定がうまく生かされていませんね。ただのどうしようもない父親というだけで、それならわざわざこういう設定にする必要がなかったのでは。父親が痴漢を疑われるのですが、もし無実なら最初から家族にはっきりそう言うだろうと私は思ったんですね。最後の娘との和解の場面になって初めて言うなんて、リアリティがないように思います。また娘のほうも高一でそう父親と親しくなければ、父親が痴漢の疑いをかけられたくらいで、これまでとまったく違う人間になろうとするくらいまでぶっ飛ぶこともないように思います。いろんな意味で、文学というよりマンガのストーリーじゃないでしょうか。またエアギターやエアバンドについては、おもしろさを文章で伝えるのは難しいかもしれないですが、この作品からは私はおもしろさを感じられませんでした。出てくるキャラクターも図式的で、魅力を感じるところまで行きませんでした。

アンヌ:一度読んだだけでは、最後がどうなっているのか分からなくて読み返しました。一つ一つの場面では完結しているのだけれど、物語として納得がいくような流れ方をしていないなと思いました。ロクは魅力的だけれど、たぶん難病ものなんだろうなと予感がしてしまって、もう少し別の設定はないのかなと思います。実は裏表紙にUGの絵があったので、最後には出て来てかっこよく弾いてくれると期待していたので、出番がなくて残念でした。

コアラ:おもしろく読みました。ただ、最後のページが、何を言っているか全然分かりませんでした。最後のページの4行目、「さあ、わたしの十五秒はどこにある?」って書いてあるのですが、〈EIGHTY-FOUR〉のパフォーマンスを力いっぱいやり終えたばかりでしょう。「どこにある?」って、これから探すように書かれていて意味が分からない。最後がうまく締めくくれたら、もっと後味がよかったのにと残念でした。全体としては、表現はいろいろおもしろいと思うところがあって、表現に引っ張られて読んだ感じです。エアギターを取り上げているのも、おもしろいと思いました。高校生ならリアルギターもできる年齢ですが、あえてリアルではなくエアギターというところで、リアルな世界での姿とのギャップや、リアルでは出しづらい反抗心とかを描きたかったのかな、とも思いましたし、人目を気にしないでやりたいことをやってみろ、とか、そういうことを描きたかったのかなと思いました。シオンくんが最後にエアドラムを叩く場面は、おお、やるなあ、と思いました。エアだから表現できることって確かにありそうだなという気がします。読み終わってから、YouTubeでTHE STRYPESの〈EIGHTY-FOUR〉を聴いたんですが、この曲を知っていれば、この物語に流れるエネルギーみたいなものをもっと感じられたかなと思います。エアであれ、ロックをやる若者を描いているんですが、文体としてはロック感がなくて、優等生的という感じを受けました。そこが作品としては残念かなと思います。

まめじか:ラストの「わたしの十五秒はどこにある」は、今弾いた曲ではなく、人生の十五秒という意味では? 音楽というのは本来、ほとぼしるような感情の発露なのだということが、エアギターというものに表されていると思いました。自分の思いをぶつけて、自由に表現するというか。一度失敗したらぜんぶだめなのかと、ロクは苺に言うのですが、それは苺が志望校に落ちたことやシオンにふられたこと、父親の痴漢疑惑やUGのアルコール依存症などにつながります。価値観を押しつけ、決めつけてくる大人に対し、苺が自分にとっての真実を見つける物語ですね。ロクが病弱だという設定は、吉本ばななの『TUGUMI』(中央公論社)に重なります。病弱だけど強い魂をもった少女に男の子が思いを寄せ、それを主人公が見守る構図だなあと。

カピバラ:いろんなモヤモヤをかかえた高校生がエアバンドに出会って解放されていく感じがよかったし、高校生らしい比喩とか心の中での突っこみがおもしろいと思いました。でもこの人の描写があまりにも説明的で、新しい人物が出てくるたびに、どういう髪型でどういう服でと、あたかもマンガの絵を上から順に説明するように書かれているんですよね。新しい場所に行くたびに、場所の説明も事細かに書いてあって、ちょっと疲れると思いました。それだったらマンガを読んだほうがいいんじゃないかな。文章を読んでいろいろ想像するような楽しみっていうのがあまりないのが残念です。見た目だけを解説しなくても、雰囲気や性格は伝わると思います。それが文学なので。

雪割草:読みやすかったです。外国籍の背景やいろんな家族のかたちをとり入れていたり、消しゴムのかすに自分を例えている主人公が、エアギターを通して自分を出していく変化を描いていたりするのはいいと思いました。ただ、恋愛模様の描き方や登場人物の設定が表面的なところなど、コミックチックだと感じました。例えば、UG(ロクとシオンの祖父)はヒッピーっぽく、一風変わっていておもしろそうな人物ですが、ダメな感じにしか描けていないのが残念でした。裏表紙の絵の描かれ方も風格がなくてびっくりしました。人生の先輩の年齢の人なので、もっと深みがあって学べるところがあるはずなのに、もったいないと思いました。

ヒトデ:「音楽系」の児童文学が好きなので、今回、推薦させていただきました。「音楽」「バンド」を書いたものではあるんですけど、「エア」というのが、個人的におもしろかったです。「エア」だからこそ、現実の部分をこえて、表現することができる。その着眼点は、この作者ならではのものだと思いました。キャラクターの造形など、マンガ的ではあるんですが、こういった形だからこそ読める読者もいるんじゃないかなと。好みもあるとは思うのですが、ハマる読者はいると思います。私はハマりました(笑)。勢いが楽しいです。

ハル:最後まで一気に突っ走っていくような、疾走感が心地よい作品で、いいねぇ、青春だねぇと、勢いよく読みました。とか言いながら、対象読者よりもだいぶ歳上の私にしたら、途中「ちょっと長い……」と思ったのも正直なところです。でも、青春ってこういうことなのかもねと思います。傍から見たらダサくて全然いけてなくても、何かに熱くなれた時間が、いつか大きな財産になると思うので、読者が何かしら影響を受けて、何かに夢中になってみたい!と思えたら、それはいいことなんじゃないかなと思いました。苺のママと流歌さんがすぐに友達になっているのは意外でしたけど。

しじみ71個分:私は、ああ、青春の爆発だなと思って、その点は好もしく思って読みました。心の中に言い出せないモヤモヤがいっぱい詰まってて、いつも怒りか何かわからないものを抱えていたなぁ、とか自分の若い頃が思い出されました(笑)。制服に口紅でバツを書くなんていう気持ちはとてもよく分かりましたね。苺は受験に失敗したりとか、父親が痴漢の容疑者だったりとか、事件はあったけど割と普通で、ほかの人物は父親の国籍が違うとか、病気を抱えてるとか、それなりの背景があるのに深掘りされないので、苺の視点から見た普通の子の鬱屈は分かるんだけれども、その対比となる部分がない感じがします。エアギターもおもしろいとは思ったんですけど、もうちょっと魅力的にエアギターを書いてほしかったなぁと思いました。そこまでエアギターに入り込む必然性、どうしてエアギターじゃなきゃだめなのか、というところまでは感じませんでした。『拝啓パンクスノットデッドさま』(石川宏千花、くもん出版)は、ネグレクト、ヤングケアラーといった重いテーマを背景にしつつ、パンクへの愛がこれでもかというくらいに描かれていて、なぜパンクなのか、パンクでなければダメなんだという点がとても心にしみて、ぐっと入り込めたんですね。主人公が好きなものは書き込んである方が気持ちに寄り添えるし、設定に入り込めるなと感じました。それと、UGの造形がちょっと物足りないかなと。千葉にはジャガーさんという伝説のヘビメタロッカーがいて、読みながらそういうロックなおじいさんを想像していたんですけど、わりとすぐにUGがエアギターを教えてくれて軽い感じがしたし、ロッカーというよりわがままなおじいさんにしか見えなくて、物足りなさはありました。あとで、The Strypes見ましたが、ちょっと物語のエアギターと結びつかなかったな…残念…。

西山:率直に言ってしまうと、わたしはあんまり好きじゃなかったです。まず、苺が高校生に思えなくて。もちろん、1年生だし、16歳とあるので、実際のところはそんなものかもしれませんが……子どもの本の世界でこんなふうな造形は中学生として読み慣れてきたので違和感があるのかもしれませんが……。作者は、存在しないギターを弾いて見せるエアギターを、映像ではなく言葉で描写するという、「見えない」を二重にして書くこと自体がチャレンジというか、おもしろかったのではないかと勝手に思っています。でも、読者としてそれを楽しむという風にはならなかったわけです。ちょこちょこひっかかりが多くて……。たとえばp76の最後の行で、シオンくんのお父さんが離婚して出ていったことを「クラスメートだけど、そんな話きいたことなかった」とあるけれど、そりゃそうでしょと思います。どんな親しい子だってめったにそんな話はしないし、苺はクラスの中で壁を作って閉じこもっているし、なおのことそうでしょうと。お姉ちゃんに対して屈折していて内心反発していて、心中「夏みかん」と呼んでいるというのもピンとこない。憂さを晴らすためなら違う言葉じゃないかなとか。ラストは説教臭く感じてしまいました。例えば、カラコン外して「素のままの自分」という感覚は大人好みの気がしたのでした。

マリンゴ: 黒川さんの本は、取り上げられる素材がバラエティに富んでいて、次は何かと興味深く読んでいます。『奏のフォルテ』(講談社)はクラシック音楽でしたが、今回はロックですね。いろんな要素が詰め込まれていて、高校生の主人公が混乱してもがきながら、どうにか前へ進んでいく様子が描かれています。いいなと思ったフレーズはp184「百まで生きるより、ずっとかっけー十五秒もあるよ」です。ただ、ストーリーとディテールにそれぞれ気になるところがありました。まずストーリーについてです。父が「自分はやってない」と最後の最後で語るのですが、本当にやってなかったら、引きこもったりとか帰宅したときに謝ったりだとか、そういう言動にならないのではないでしょうか。これは主人公と父が理解し合うシーンを最後に持ってきたいから、敢えて事実を伏せて引っ張っているように思えるんですけども、そのせいで逆にリアリティから離れた気がします。また、ディテールですが、都会の女子高生の一人称のわりに、そういう子のボキャブラリーとは思えない比喩が多くて気になりました。たとえば、p10の「水田の稲の高さくらいは跳んだだろう」とありますが、都会暮らしの女子高生がぱっと思いつく言葉として、「水田の稲」は違和感がありました。もう一つ挙げるなら、p28の「おでんの鮮度でたとえるなら、三日目夕方のはんぺんだ」。16歳の主人公がおでんを食べるとすると、主に家庭でだと思うのですが、お母さんはp104で「潔癖性の気のある」と書かれていて、おでんを三日出すキャラクターとは違いそうです。そうすると、三日目夕方のはんぺんをどこで見たのかな、と。見たことないのであれば、大人ならともかく女子高生が「イメージ」だけでこういう比喩を出すのは少し不自然かなと思いました。三人称で書かれていれば、さらりと読めた気がします。

(2021年9月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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おとうさんのかお

岩瀬成子『おとうさんのかお』表紙
『おとうさんのかお』
岩瀬成子/作 いざわ直子/絵
佼成出版社
2020.09

<版元語録>父の単身赴任先を訪れた小3の利里は、口やかましい父に幻滅した。だが、新たに出会った友と「石の友だち」で遊ぶうちに素直な気持ちを取り戻す。利里が描く父の似顔絵も変化が生まれ…。不器用な父娘の愛情物語。

マリンゴ: 自分の子どもの頃の記憶が引っ張り出されるような作品でした。小さいことの連続なのですが、環境になじめなかったり、期待して裏切られた気になったり、想像をふくらませて変なことやったり、年の近い子と、いわゆる仲良しこよしじゃないけれど、独特の関係を持ったり、そんなことを思い出させてくれるような、生活感のある物語だと思いました。小学生の子が「あのねあのね」と言ってきて、その話を聞いているような感覚ですね。ストーリーはじきに忘れてしまうだろうけれど、また読み返したくなる気がしています。

ニャニャンガ:ほんものの小学3年生の子どもが書いた作文のように感じながら読みました。主人公の利里の視点で描かれているので、そのまま受け止めようと思ったものの、雪ちゃんの友だちが石で、その石に書いたのがマジックではなく絵の具でなければならない理由を知りたかったです。また、母子家庭という設定から背景を考えていたのですが、よい友だちとして終わったので、勘ぐりすぎでした。余談ですが、娘(成人です)に概要を伝えて主人公の年齢を聞いたところ小学3年生と答えたので、中学年のありようを的確にとらえる作者はすごいと思いました。

カピバラ:小3から小4くらいの女子を主人公にしているのがこのところあまりなかったのでそこがまずおもしろかったです。この年代の女子は、自分で結構いろんなことを考える力があるし、大人の言動に敏感なところがありますよね。お父さんは、突然やってきた娘を楽しませようと、無理して仕事を調整して、アスレチック公園や花見に連れていこうとしたり、本を買ってくれたりするけれど、利里はお父さんの思い通りには楽しめないんですね。それどころかお父さんときたら、留守中に部屋を片づけてあげたのに気づかないし、「本はね、さいごまで読まなきゃだめだよ。集中力と根気をやしなうことはだいじだよ」(p44)とか、「おいおい、きょうだいなかよくしなきゃだめだよ」(p44)、「花を見たらきれいだなあって思える心がそだってくれればなって、おとうさんは思うんだよ」(p67)とか、つまらないことしか言わず、利理の気持ちとは随分ずれているのが、よくありそうな感じで、おもしろいと思いました。公園で偶然出会った雪は石に顔を書いて友だちにしている変わった子ですが、利里とはすぐに仲良くなります。随分大人っぽい考え方もするのに、石の人形が本当に生きているみたいに感じて夢中で遊ぶところは、とても子どもらしい。小3でも、まだごっこ遊びを真剣にやったりするので、そういったギャップもよく描けています。ナイーブで傷つきやすいところもあるけれど、ちょっとしたことで気分が変わり、楽しく過ごすこともできる、そんな年頃の主人公が生き生きと感じられました。特に大きな出来事もないし、結末らしい結末もないのですが、日常の細かいところを淡々と描いて共感を得るタイプの作品で、岩瀬さんらしい世界観だと思いました。

雪割草:お父さんが前半うるさくて主人公の気持ちに共感でき、お父さんの描き方がある意味上手だと思いました。お父さんの睨んだような顔を描き直しておどけた感じにすると、お父さんが後半良いところもある感じがしてきて、切り返しがうまいなとも思いました。こういうちょっとしたことが日常に影響を与えたり、自分が変わることで何かできたりすることはあるのだろうなと改めて思いました。

さららん:利里の気持ちになりきって読み終えました。すこーしいろんなことがわかってきて、大人のイヤなところが気になる子どもの目線から見えるお父さんを、実に的確に描いています。たとえば単身赴任の自分の家に泊まりにきた利里に、お父さんこう言います。「・・・会社を休まなきゃいけなくなっただろ。それは会社のほかの人にめいわくをかけることにもなるんだよ。そういうことも、だんだんわかるようにならなきゃだめだ」(p46-47)。利里が泊まることを許した時点で、お父さんは腹をくくらなきゃいけないのに・・・子どもへの甘えを感じます。「利里はこうならなくちゃだめだ」と言える親の立場を使って、子どもに理解を強要しているようです。そんなおかしなことをしている大人に、利里は「しーらない」といえる子で、ほんとによかった。利里は正しい、と思いました。大人って変だな、と思いはじめた利里と同じ世代の読者は、うんうん!と思うでしょう。大人と子どもが少し視点を変えあうことで、お互いが違って見える。そんなテーマと、雪ちゃんという友だちの存在もしっかり結びついています。子育てに関して近視眼的だったお父さんが、かつて自分の言った言葉を、利里の口から聞くことで、自分が何を考えていたかふたたび気づかされる、という結末も、大人と子どもの関係の相互性がくっきり浮かび上がっていて、いいなと思いました。

ネズミ:おもしろかったです。子どものころ私は、日本の児童文学を読むと、「うそ」「こんな楽しいことばかりのわけがない」と思うことが多かったのですが、この作品ならリアルに感じただろうと思います。カバー袖に、(お父さんが)「やたらと口うるさくて、うんざりしてくる」と書いているのですが、本文で利里は、肩に手をのせられたとき「わたしはその手をはらいのけました」「ふーんだ、とわたしは思いました」「あーあ、と思いました」などと言うだけで、「うんざり」とは言っていないんですね。あいまいなまま描いてあるのを、こんなふうにまとめるのはどうかなと思いました。何もかもいいことばかりじゃないけれど家族は家族でいいこともある、と自然に思わせてくれる作品で、いいなあと思いました。

虎杖:岩瀬さんの作品はとても好きなのですが、描くのに難しい年頃の子どもたちのことを、こんなふうに生き生きと、リアルに描けるなんてすばらしいと思いました。単にあたたかいとか、ほのぼのとした物語というのではなく、岩瀬さんの作品には、なんというか頭の上がすうすうしているような寂しさというか、奥深いものを感じています。特に利里ちゃんと雪ちゃんが公園で初めて出会うときの会話がいいですね。子どもっぽいところが十分に残っているのに、自分ではまったくそう思っていない年頃の理屈とか感情がよく描かれていると思いました。雪ちゃんが石ころを集めて、友だちにしているっていうのも。子どもに石ころは付き物って、私は思っているんだけど! お父さんについては、私はそれほど嫌な感じは持ちませんでした。いいお父さんになりたくって、悪戦苦闘しているっていうか、じたばたしているっていうか。最後に、自分が言ったのに忘れていた言葉を娘に言われて、ふたりの気持ちが通じ合う場面もいいですね。「子どもは大人の父である」という、ワーズワースの詩を思いだしました。

まめじか:親という存在を1歩離れたところでとらえはじめるのが、10歳くらいなのではないかと思います。そうしたことを考えると、父親の絵をなかなかうまく描けず、その後部屋に貼った絵がにらんでいるように感じるのは象徴的だと思いました。この本の主人公は父親と離れて暮らしていることもあり、なんとなくお互いぎこちなくなってしまっているのですが、そんな2人があらためて関係を結びなおす過程がたくみに描かれています。利里が部屋を掃除したことには気づかないくせに、「利里にはよく気がつく人になってもらいたい」と言ったり、かわいらしい絵本を押しつけてきたりする父親には、大人の身勝手さがよく表れています。この子は昔、自転車の練習中に「遠くを見ろ」とお父さんから言われたことをふと思い出します。そんなふうに、大人が子どもを支えるようなことを何気なく言って、それがずっと子どもの頭の片隅に残っているのもリアリティがあると思いました。石に顔を描くのはユニークでいいですねえ。石の友だちをつくるのも、父親の絵を描くのも、自分が感じたこと、考えたことを大切にすることでは。そして利里はその価値を知っていくのですよね。

アンヌ:内容紹介に「不器用な父と娘の愛情物語」と書いてあったんですが、どうも父親の勝手な思い入れとか押し付けとかが気になってしまいました。お兄ちゃんが好きそうなアスレチックに連れて行こうとしたり、女の子はこういうものと思い込んでいるような本を買ったり、洗濯物を入れるくらい気を利かしてほしいと言ったり、一緒に暮らしているのに娘のことを全然見ていない。あげくに、桜の花の美しさのわかる人間になれとか。ここまで書かれると最後の「どこまでも考えつづける」とかの長いセリフを素直に受け取ることはできなくなってしまいます。主人公の利里の話はおもしろいのになあと残念に思いました。

ハリネズミ:岩瀬さんの本はどれも好きで、日本からの今の国際アンデルセン賞候補にもなっておいでなのですが、この本、外国語に翻訳するの、きっと難しいですね。この子の心情にぴったり寄り添って訳していくのには、相当な腕前が必要かと思います。それに、物語の焦点がどこにあるのかも、わかりにくいし。岩瀬さんの作品は1+1=2といった式からはずれたりこぼれたりする繊細な部分がおもしろいと思うので。お父さんと娘の利里ちゃんの間には気持ちの行き違いがあって、それが徐々にほどけていく様子が描かれています。昔、自転車の乗り方を教えてくれたときのお父さんの言葉が、ほどけていくきっかけになるんですけど、「目の前ばっかり見てちゃだめ。もっと先のほうを見なきゃ」とか、「利里、遠くまで行くんだよ」「おとうさんも、遠くまで行きたいと思うよ」なんていう言葉ですね。利里がそれを思い出し、お父さんもその時の気持ちを思い出して、ああ、忘れてたなあと思ってそこから関係が変わっていく。ここは、うまいと思ったし、いいなあと思いました。ただ、p92あたりで、お父さんが道徳の教科書のようなことを言っているのは、どうなんでしょうか? 教育ママらしい母親をもつ雪ちゃんは、将来何になりたいかと聞かれて、「郵便局強盗」と言います。雪ちゃんが石をイマジナリーフレンドにして遊んでいるのも、即物的な世界を押しつけてくる母親に無意識のうちに抵抗しているのかもしれないですね。それと、オビに「近づきすぎると見えなくなる」って書いてあるんですけど、これはいいんでしょうか? 本質をとりこぼして的を射てないような気がしますが。あと、表紙ももう少しなんとかならなかったでしょうか?

ハル:お父さんの長台詞は、もしかしたらお父さんが、ここでもズレてる、ってことを表しているのかなと思いました(笑)。素直に読むべきか、おもしろがってしまっていいのか、ちょっと迷います。

まめじか:やっぱりちょっと口うるさくて、言うことが教訓くさい。急に変わらないところもリアルだなと。

ハル:はじめて岩瀬成子さんの作品を読んだときは、好きだなぁと思いながら、でも、読者は子どもじゃなくて、児童文学が好きな大人かな? なんて思っていました。もしその時の私がこの本のオビ文を書いたら、こういう感じになっていたと思います。でも、岩瀬さんの作品は、読めば読むほど、主人公と同じ年齢くらいの小さい人たちにこそ、ぜひ読んでほしいと思うようになりました。今回の『おとうさんのかお』も、わかるー!!! というくらい、思い出の中の自分との共感が半端ないです。作者はどうしてこんなに鮮明に覚えているの⁉ と驚いてしまうくらいです。このお父さんと利里のすれ違い、お父さんにそんなこと言ってほしいんじゃないんだよな、とか、そうじゃないんだけどなっていらいらする気持ちが、私もそうだった‼ と、ほんとはそんな経験なんてなかったとしても錯覚してしまうほどリアルに響きます。お父さんと娘なんて、もうまったくすれ違っているようなんだけど、ラストで、お父さんは自分が過去に娘に言った言葉に、自分ではげまされて、ふっと肩の力がぬける。娘もお父さんの言葉やそのときの思い出にふっと心がやわらぐ。とてもいいラストですね。何が大きく変わるわけではないけれど、家族ってこんなふうに近づいたり離れたりしながら、子どもも大人も成長していくんだなぁと思いました。

コアラ:お父さんと利里の会話が、大人と子どもの立場を本当によく表しているなあと、どちらの気持ちもよく分かって、おもしろかったです。皆さんもおっしゃっていましたが、p42からの「しーらない」の章は、お父さんは大人の立場でものを言っているし、利里は子どもの立場で考えていて、それがよく表れていました。私が特に好きだったのは、p46の利里の「おにいちゃんがわるいの」というセリブでした。私には姉がいて、よく「おねえちゃんががわるいの」と言っていたので、利里にすごく共感しました。あと、p90あたりもいいなと思った場面です。子どもは、親の言ったことを後々までよく覚えていて、親にそれを伝えることで、親も昔の自分を思い出すことができる。そういうのっていいなと思いました。ただ、この本で一番気になったのは、カギカッコが字下げになっていないことです。字下げされていない、ということでは統一されているんですが、たとえば、p9の1行アキの後の、「木にのぼっちゃいけないのよ」とか「ほら、ここに書いてあるでしょ」というところのカギカッコが字下げされていなくて、とても違和感がありました。字下げしていないのはどうしてなのかなと気になりました。

ルパン:私はこの本は、あんまり印象に残らなかったんです。岩瀬成子さんに期待しすぎたのかもしれないし、大人目線で読んでしまったからかもしれません。はじめ、雪ちゃんがリアルじゃないって思っていました。おばけか宇宙人か何か異世界の子だって。ふつうに隣の子でしたね。私も石ではないけれど何かに名まえつけてかわいがってたり、心の中で自転車とかと話したりしていましたが、そのことを人には言わなかったなあ。雪ちゃんと利里は初対面の日からうまく共有できてよかったな、と思いました。

しじみ71個分:読み終わって、本当に「岩瀬さんになりたい!」って思いました。この家族の中には、誰も変わった人がいなくて、お父さんが単身赴任しているっていう事情だけで、どうしてこんな物語を書けるんだろうって、もう本当に衝撃です。お父さんが単身赴任で離れて暮らしていることから、お父さんとほかの家族との間にちょっとしたずれが生じたり、かみあわなくなったりする。子どもの期待と現実のずれが生じてしまうのだけれど、同時に、自転車の練習のエピソードを思い出して「遠くを見る」ことについて語りあったり、ちょっとした宝物のような瞬間も見つけたり。だけど、きっとそれもまた、日常に埋もれたり、見えなくなったりするのだろう、という家族の間の機微が、子どもの気持ちに立って、子どもの視点から非常にリアルに書けているのがすごいです。3月のJBBYの講演のときに「子どものときのことをおぼえている」って岩瀬さんがおっしゃっていたのが印象的でしたが、それがこんな表現になるんだなぁと改めて思い知ったというか、衝撃的でした。最後の最後で「おとうさんのところに行ってよかったなと思いました」なんて、本当に絵日記の終わりみたいにサクッと落としちゃうんだというのも「ヤラレタ!」という感じでした。本当におもしろかったです。

エーデルワイス:単身赴任中の普通のお父さんと娘の一コマ。大きな事件はないけれどその時々で思うこと、モヤモヤを描いているようです。幼い子どもでも普段から家族以外の誰かに心のうちを話せたらいいと思います。私の文庫に1年生から来ている女の子がいて、よくいろんなことを話していましたが4年生なってあまり話さなくなりました。いろいろな日常があって、思うことを話して、そして少しずつ大人になっていくのかな・・・と思いました。

ヒトデ:子どもの心情の描き方の巧みさが、さすが岩瀬さん、というべき作品でした。子どものころに感じたいろいろな心情、おとなになるにつれて忘れてしまうあれこれを、思い出してしまうような、そんな作品でした。お父さんが、どうしても好きになれないキャラクターだったので、最後の「自転車のエピソード」で、いい感じにまとめなくてもいいのにな・・・という気がしました。表紙は、これがベストだったのかは、やや疑問です。

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鏡文字(メール参加):岩瀬さんの作品を読んでいつもすごいなと思うのは、語りの目の位置です。作家というのはおおむね大人なので、どうしても目の位置が上にある状態で書いていると感じる(善し悪しではなく)のですが、岩瀬さんは子どもとフラットだな、と感じることが多いです。この作品もそうで、なかなかこういうふうには書けないと思います。それはキャラ設定(こういう言い方が岩瀬作品には馴染まないのですが)でもそうで、利里のある意味利己的な感じがおもしろかったです。少しの変化は描かれているのですが、家族との間でも疎通が深まったりしているわけでもないところがリアルでした。私の感覚としては、もうすぐ4年生という年齢の割に、少女たちは幼く感じました。(おまけ)挿絵で見る利里の絵は初めからうまいなあと思いました(画家さんが描いているからある意味当たり前ですが…)

(2021年07月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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スーパー・ノヴァ

『スーパー・ノヴァ』表紙
『スーパー・ノヴァ』
原題:PLANET EARTH IS BLUE by Nicole Pnteleakos, 2019
ニコール・パンティルイーキス/著 千葉茂樹/訳
あすなろ書房
2020.11

<版元語録>ノヴァとブリジットの姉妹はスペースシャトル・チャレンジャーの打ち上げを心待ちにしていた。でも、その日を前にブリジットは姿を消した…。ひとりの少女の、小さくて大きな一歩を描いた物語。

まめじか:本当に好きな本です。いい本をいい訳で読める幸せを感じました。周囲からなかなか理解されない状況が、酸素がなくて息苦しく、静謐で孤独な宇宙空間に重ねられています。里親の家から脱出したい気持ちがチャレンジャー号の打ち上げにつなげられていたり、ノヴァが母親のもとから連れ出されるとき心の中でカウントダウンをしたり、そうした描写もうまいな、と。この本の大きな魅力の1つは、一貫してノヴァの視点で描かれていることです。感覚が鋭いノヴァが抱えている生きづらさ、妙を得たあだ名をつけるような聡明さも十分に伝わってきました。ブリジットがいない中で自分は楽しいと思っていいのか、新しい家族と幸せになっていいのか悩むなど、ノヴァが胸の内で感じていることには普遍性があり、多くの人が共感できるのでは。1か所、p77の「色のときとおなじことをするから」で、「色のとき」というのがなにを指しているのか、わかりませんでした。

虎杖:とてもおもしろく読みました。三人称とモノローグが交互に出てくる構成が、秀逸ですね。それにしても、これだけの知性の持ち主である主人公が、自分の思いを周囲に伝えられない悲しさと悔しさは、想像を絶すると思いました。帰ってこないブリジットと、宇宙船の打ち上げの日が刻々と迫るスリリングな展開も素晴らしい。チャレンジャー号のことは、アメリカの子どもたちはよく知っていると思うけれど、日本の読者はどんなふうに読んでいくのか、ぜひとも知りたいと思いました。表紙は、私は好きです。違う表紙だったら、本全体の印象がずいぶん違ってくるでしょうね。

ネズミ:とてもおもしろかったです。虎杖さんがおっしゃるように、三人称とモノローグを組み合わせた構成がみごとだと思いました。モノローグの部分が、実は落書きのようにしか見えない字で書かれているというのが途中でわかって、衝撃を受けました。ほかの人には見えない豊かな内面の見せ方がうまい。一方で、読者を選ぶというのか、ある程度読書慣れしている子どもでないと読みにくいかなという気もしました。表紙のかわいらしさにひかれて手にとるとギャップがありそう。アメリカの子どもにとっては、宇宙開発とかチャレンジャーなどに親近感を持つのかもしれませんが、日本の子どもだとそれほどでもないのかなというのもあって、間に立つ図書館員などがうまく手渡してほしいです。

さららん:冒頭からブリジットの不在を知らされて、なにか大変なことが起きているのがわかりましたが、ノヴァの里親のあたたかさが救いとなり、安心して読み進められました。チャレンジャーのカウントダウンへまっすぐに向かう現実の時間と、三人称の過去の描写、ノヴァの手紙を通して思い出を語る部分がうまく絡まりあっているのは、回想への入り方が巧みだからでしょう。ノヴァは「考える」子どもで、手紙には整理された文章が書かれています。けれども、ほかの人の目にはただの落書きにしか見えない、という状況はすごくおもしろいフィクションの作り方ですが、理解するには相当の読解力が必要です。p254~256はゴシック体なので、ブリジットへの手紙という前提ですが、実際には現実の緊迫する時間を書いているので、ここは普通の書体で地の文にしてもよかったのでは、と思いました。

雪割草:とてもいい作品だなと思いました。言葉によらないコミュニケーションの深みを感じることができました。「ムン」という言葉1つをとってもいろんな意味があり、この言葉の響きも気に入ってしまいました。ノヴァというキャラクターも、ユーモアがあり想像力もあり、親しみがもてました。それから作者のモチーフの使い方も上手だと思いました。宇宙への1歩と里親からの脱出、チェレンジャーの事故とブリジットの事故、それでも諦めない宇宙計画と生き続けるノヴァ。生還し、スーパー・ノヴァからノヴァとして生き続ける描き方も巧みだと思いました。少し気になった点としては、後半の展開が早く感じられ、前半とテンポに差があるかなというのと、原書のタイトルがデヴィット・ボウイの歌詞から引用していると思うのですが、‘planet earth is blue’の後に続く言葉の、人間の限界を示唆する含みが、タイトルを変えることで消えてしまわないかということです。答えは出ていないのですが考えています。

カピバラ:同じ訳者による『ピーティ』(ベン・マイケルセン作 鈴木出版)を思い出しました。脳性麻痺で重度の知的障碍と他者から思われている主人公の豊かな内面世界を描いた作品です。『スーパー・ノヴァ』も、ノヴァの一人称部分を読むことによって、自閉症といわれる人たちがどんな世界にいるのかについて理解を深められる本でした。言葉がわからないと思われて、簡単な言葉をゆっくり話しかけられたり、幼児向けの絵本を使われたりすることの辛さ。字が読めるし、書けるのに、理解されない辛さ。パニックを起こすことを、フランシーンは「メルトダウン」と表現していますが、どうしてそういう状態になるのか、ノヴァの一人称部分を読むとよくわかりました。父も母も亡くし、ついには最愛の姉まで亡くしたことが最後にわかるのはとても辛いですが、里親のビリーとフランシーンの愛情のこもった態度に救われます。特に娘のジョーニーは、今後ノヴァにとってブリジットの穴を埋めてくれる存在になるだろうという希望がもててホッとしました。またこの作品はやはり時代性が色濃く、チャレンジャーの打ち上げや、デビット・ボウイの歌や、ドクター・スースの絵本など、80年代の雰囲気が出ています。障碍者への理解やソーシャルワーカーの姿勢が、今から見るとずいぶん遅れているのもこの時代だからこそと思います。その点、今の日本の子どもたちには最初のうちピンとこないのではないかなと、ちょっと心配しました。タイトルと表紙の絵からイメージしていたのとは全く違う内容でした。

ニャニャンガ:自閉症の人たちのことが自然にわかる良本だと思います。ノヴァをいとおしく感じ、感情移入して読みました。里親家族がいい人たちで、本当によかったです。スペースシャトル・チャレンジャー号の発射のカウントダウンとともに、ブリジットがノヴァの前から姿を消した理由にたどりつくまでを、読者が予想しながら読み進めるのがつらいです。私はあまりにつらくて結末を先に読んでしまいました。子どもがどのように読むのか知りたいです。とくに好きな場面は、p240から241にかけての、ノヴァが自分から同じクラスのマーゴットの手をにぎる場面で、ノヴァがさらにいとおしくなりました。

マリンゴ: 障害をもつ子のお話は、何かができるようになっていく、あるいはできることを周りが気づいていくという物語が多いと思います。でも、この作品は真逆で、何かを失うことを自覚する場面がクライマックスになっています。そのため、とてもひりひりするけれど、引き込まれました。チャレンジャーの事故の当日、主人公が「姉ブリジットはもういない」と気づく、という構成なのだろうと予想はできます。でも、打ち上げまでのカウントダウン、という形でストーリーが進んでいくので、緊張感がありました。日本の小学生の場合、チャレンジャーのことを知らない子も多いですよね。そうすると、事故の描写のところで、え?と驚いて、史実を調べたりするのかな、と思いました。

コアラ:私は大泣きしました。p179の、ノヴァがブリジットのカードを胸に抱いてふるえるところとか、ノヴァは自分の感情を言葉にして出すことができないから、体にあらわれるんですよね。読んでいて本当に胸にせまってきて、ブリジットがいなくなってノヴァがどんなにつらいだろうと、涙が止まりませんでした。ノヴァがブリジットの十字架のところに行く場面のp286も、涙なしでは読めませんでした。この本を読み始めるときに、カバーの袖の部分を読んだのですが、「スペースシャトル・チャレンジャーの打ち上げを心待ちにしていた」とあって、私も皆さんと同じように、チャレンジャーの爆発事故のことを覚えていたので、この本のどこかで悲劇が起こる、ということが初めから分かっていた状態で、読んでいてずっと気持ちが重かったんです。それに、タイトルが「スーパー・ノヴァ」なので、この子が超新星のように爆発するんじゃないかと、本当に心配していたのですが、この子は生き延びて、いい家族にも巡り合ったので、それだけはホッとしました。チャレンジャーの事故を知らない今の子どもが読んだら、また別の読み方をするかもしれません。あとがきを読むと、著者はアスペルガー症候群かもしれないと診断されたということですが、ノヴァの圧倒的な存在感というかリアリティは、当事者としての感覚からくるのかもしれないと思いました。自閉症スペクトラム障碍のことを知る上でも、いろんな人に読んでもらいたいです。

ハル:この本の好きなところ、心に残ったところはたくさんありますが、ひとつは表現力です。ノヴァが初めてプラネタリウムを見たときの感動や、初めて想像の宇宙に飛び出した、その平穏な世界、安心感が、真正面から迫ってくる感じ。ノヴァの空想の宇宙の真ん中に自分がいるような、表現がサラウンドで迫ってくるような感覚がありました。これは、原文はもちろん、きっと翻訳の力もとても大きいのだと思います。そして、自閉症(だと思いますが)や障碍のある子のことをもっと知りたいと思わせてくれるところも良い点ですが、私にとっては、里親や養子について考えさせてくれたという点も大きかったです。p108のラスト、ノヴァが姉のブリジットから自分の名前の由来を聞いた場面ですが、「自分がスーパーなんだって知ってからは、もうあんまりこわいものはなかった」という一文が心に残りました。障碍のありなしもどんな家庭に生まれたかも関係なく、人生は何があるかわかりません。突然ひとりぼっちになるかもしれない。けれども、特に子どものころに、特定の誰かに守られ、愛されていた記憶、自分が誰かのスーパーだった記憶があるということは、きっと大きな助けになるんだと思いました。もちろん、施設に携わる方たちは精一杯に子どもたちを見守っているのだと思いますが、やはり、子どもには愛情のある家庭が必要なんだと思うようになりました。

ハリネズミ:著者が自分も広範で多様な感覚障碍と言われていたという体験に重ねて書いているせいか、リアルで、ノヴァに感情移入して読めました。日本でも、今は施設より里親を奨励するようになっていると聞いています。この物語に登場する里親のフランシーンとビリーは白人と黒人のカップルですが、そういう設定もいいですし、その娘のジョーニーもノヴァをあたたかく受け容れてくれる。真剣に理解しようとしてくれる人が少数いるだけでも、ノヴァのような子どもが強くなれるということを示しているのだと思いました。お姉さんのブリジットは、学校の成績もよく、ノヴァやお母さんの世話をし、まわりの偏見と闘い、しかも妹の分まで背負って里親との諍いや、里親への期待や、失望にもてあそばれてきた存在です。それなのに、ろくでなしのボーイフレンドにふらふらと休息の場所を求めてしまったのですが、それはそれでリアルなのかもしれません。先ほどチャレンジャー事故を知らない日本の子どもにとってどうなのか、という疑問も出ましたが、私は、知らなくても読めるのではないかと思います。ノヴァがいろいろな人からお姉さんは亡くなったと聞いても、どうしても現実のこととして向き合うことができない。でも、ノヴァもチャレンジャー事故によって「死」と直面し、人は死ぬ存在だということを受け容れられるようになっていくというストーリーなので、爆発事故をあらかじめ知らなくても、物語にはついていけるんじゃないでしょうか。また先ほどから出ていますが、ノヴァが、スーパーなんだと聞かされて育ったのは自信をもつうえで大きいと思います。でもスーパー・ノヴァだったら超新星爆発を起こして終わるのですが、最後のところで、自分はスーパー・ノヴァじゃなくてノヴァだ、というふうに思うところがあります。そう思って生きのびていくという点も、とてもいいと思いました。それと、チャレンジャーの事故で亡くなった教師の地元では、子どもたちもみんな学校のテレビでリアルタイムの実況を見ていたんだとわかって、子どもたちのショックの大きさが並大抵ではなかったのだと知りました。

アンヌ:この本を読む直前に、脳梗塞で失語症にかかった人の記事を週刊誌で読んでいたので、相手が言う言葉も自分で話したい言葉もわかっているのに、それを話せないノヴァのもどかしさやつらさが、いつ大人の自分にも起こるかもしれなという思いがしてドキドキしながら読みました。ブリジットへの手紙で、これまでの経過とブリジットがいない絶望感がわかっていきます。それでも、特別支援学級での友人や高校生のボランティアとのコミュニュケーションが少しずつ取れていき、最後には、里親にも文字が書けることにも気づいてもらえるようになる。よかったとホッとしたところで、チャレンジャー号の爆発事故が起こり、ブリジットの事故の記憶が同時に蘇るところは圧巻でした。それでも、爆発後も生き残る白色矮星ノヴァという終わり方は静かで詩的で、ノヴァという一人の人間の力を感じられて読み終えることができました。

ヒトデ:はじめは、どうしてデヴィッド・ボウイのこの曲を使ったのかわからなかったのですが、読み進めていくうちに、曲のもつ「よるべなさ」のようなものが、ノヴァの状況とリンクしてきて、物語を象徴する1曲として使われることに、説得力を感じました。物語の最後に光の見える、巧みな作品だと思いました。「チャレンジャー」のエピソードは、おとなの読者でしたら、知っている話ですが、子どもたちは、これをどう読んでいくのか、気になりました。描かれているモチーフが、どれも好きな作品でした。

エーデルワイス:はじめ、映画の「スーパーノヴァ」と同じ話かと思いましたが違いました。表紙の絵と内容がこれまた違いました。読み進めていくうち主人公のノヴァの気持ちがズンズン伝わってきて、息苦しくなりました。最近認知症本人の視点から描いた「ファーザー」を観ましたが、発達障碍をもつ本人から見た世界を描いたのだとすると、映画のシナリオのように読めばよいのかと思いました。ラストはデビッド・ボウイの歌で締めくくられたなら決定的。ノヴァを母親のように守り育てたお姉さんにとても惹かれます。

しじみ71個分:今日は奇しくもアポロの月面着陸の日でしたね。図書館関係でも、欧米では自閉症への意識が高いです。自閉症の子ども専用の図書館利用日を設けるなど、さまざまな自閉症の子たちと本を結ぶ活動をしています。イギリスの司書さんが東田直樹の『自閉症の僕が跳びはねる理由』(エスコアール出版部, 2007)を挙げて自閉症の人の内面がよくわかる本として紹介していたことも印象的でした。それくらい、自閉症の人たちの内面を言語化するのは非常に難しいことなのだろうと思います。それをものすごく丁寧に描きこんでいるところに惹かれました。話せないために重い知的障害があると思われている主人公の葛藤から、おはなし会で、特別支援学校関係者から、2歳くらいの知能だから赤ちゃん絵本を読んでください、と言われた事例を思い出し、ますます悩ましさが深まりました。外見と内面のギャップを周囲の人がどう理解するのか・・・。とても素晴らしい視点を与えてくれた本でした。1つ気になったのは、こういった自閉症やアスペルガー、ディスレクシアなど障碍のある子どもを主人公とする物語の傾向として、外見からは分かりにくかったり、コミュニケーションが取れなかったりするけれど、みんないつも内面が賢くて、理解のある大人の助けを得てさまざまな問題を乗り越えていくというパターンが多いことです。自閉症の場合、重度の知的障碍がある場合ももちろんあると思うし、実際はいろんな子たちがいると思うので、そこはちょっと気になるところです。スーパー・ノヴァについては、ネットの辞書で、大質量の恒星が一生の最後に一気に収縮して大爆発を起こす場合と、主星が伴星から移ってきったガスの重さに耐え切れずに大爆発を起こす場合があると書かれていましたが、ノヴァが影のようにいつも一緒で、頑張り続けたブリジットがはじけてしまい、結果事故死するというストーリーなので、スーパー・ノヴァはブリジット、ノヴァは生き続けるノヴァを象徴しているのかなと思いました。また、ちょっといい加減な引用ですが、スーパー・ノヴァは、爆発した後に水素より重い元素を放出して、それが新しい星の元になるというようなネットの説明もあり、ブリジットの事故がきっかけで、ノヴァが里親と出会い、新しい家族が始まるという結末もスーパー・ノヴァはブリジットを象徴しているようです。通奏低音になっているデヴィッド・ボウイのSpace Oddityの歌詞も不穏じゃないですか。これもブリジットを象徴しているのかなぁとか思ったり。いろいろ考えさせられる要素の多い本でした。

ハリネズミ:ノヴァのお母さんはどうなっているんでしたっけ? 亡くなっているのかもしれないし、施設に入っているのかもしれない。書いてないので、子どもの読者は気になるんじゃないでしょうか。

まめじか:施設にいたら「いたむ」という言葉は使わないから、亡くなっているんじゃないかな。

ハル:私は、お母さんは亡くなっていると思っていました。p85の最後から始まる場面で、ブリジットは里親から「養子にならないか」と言われることを期待しています。もしお母さんが生きていたら、里親と「ほんものの家族」になりたいとは思わなそうですし、アメリカの法律はわかりませんが、お母さんが2人を手放さないんじゃないかなと思います。

ハリネズミ:ああ、たしかに。なるほど。

ニャニャンガ:ところで、この作品は謝辞が長いですが、基本的にすべて訳さないといけないのでしょうか? 大量の個人名は、日本の読者に必要な情報なのかなと思うことがあります。今、訳している作品も謝辞に人名が多いので伺いたくなりました。

ハリネズミ:本によって違うと思います。省いてもいいと著者や原著出版社が言う場合もあるし、契約によってはすべて載せなければいけない場合もあります。

ルパン(遅れて参加):ブリジットがかわいそうでなりませんでした。ノヴァのよき理解者で、優しい心の持ち主なのに。生まれてきた親によって人生がこんなに大きく変わってしまうなんて。ノヴァにはブリジットの分も幸せになってもらいたいです。ブリジットもいっしょにビリーとフランシーンの子どもになれたらよかったのに。「ときには、約束をまもれないこともある」「ときには、宇宙飛行士も星に手がとどかないこともある」ということばに涙が出ました。子どもがみな幸せに過ごせる世界にしていかないと、と思いました。

(2021年07月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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イルカと少年の歌〜海を守りたい

『イルカと少年の歌』表紙
『イルカと少年の歌〜海を守りたい』
原題:SONG OF THE DOLPHIN BOY by Elizabeth Laird, 2018
エリザベス・レアード/作 石谷尚子/ 訳
評論社
2020.09

〈版元語録〉海に近づくな、と厳しく言われて育ったフィンが、ある日海に落ちてしまった。溺れる! と思ったが、なんと水の中で自由に動き回れることがわかる。フィンは、詩にも歌われた、イルカ族の乙女と漁師の間に生まれた子どもだったのだ。人間のイベントのせいでイルカに危機が迫っていることを知ったフィンは、勇気をふりしぼって立ち上がる。紛争地帯の子どもを描き続けてきたレアードが、海洋汚染をとりあげた作品。

マリンゴ: プラスチックの海洋ゴミの問題という、堅いテーマを、イルカの妖精にまつわるアイデアでくるんでいます。その世界観に、力技で読者を引っぱり込んでいる気もしますが、学校の仲間がフィンの変貌ぶりに驚く場面に心情を重ねられるので、違和感なく読めました。気になるのは、イルカや海中の描写が最低限しかないことですね。私の友人にドルフィンスイムをやる人がいるので、動画などいろいろ見せてもらったことがあります。その動画の迫力を思うと、イルカが目の前に迫ってきたり、仲間として一緒に泳いだりするリアルさに欠けている気がします。さらに、なぜ1頭のイルカとだけ友達になるのかもよくわかりませんでした。スーパーのイベントで風船をいよいよ飛ばす、という場面で、南京錠という小道具が生きてくるのは意外でした。最後の最後で偶然によって解決するというのは、若干肩透かしをくらった感じになりましたが、ステレオタイプな展開になるよりも、いっそいいのかな……とも考えました。

ニャニャンガ:テーマありきという印象を持ってしまったので、読者が純粋に物語を楽しめるのかなと思いました。それでも後半、風船が飛ばされるのを子どもたちがどうやって阻止するのかが気になり、読むスピードが増しました。挿絵のピーター・ベイリーの絵が昔話風なのに対し、現代が舞台の物語でファンタジー要素がからむ物語とのアンバランスさが残念でした。自戒を込めて訳文に対してコメントしますと……p32のほか全体的に読点が多いこと、主人公のお父さんの表記が段落内で不統一なのが気になりました。初出はミスター・マクフィー、ほかの場面ではフィンのお父さん、フィン目線ならお父さんなどにしてはと思います。p105で、フィンの視点で語られている段落内で「~イルカのなだめ方を心得ているらしい。やさしく~」が第三者の視点なので混乱しました。

雪割草:エディンバラにいた時にスカイ島に行ったことがあり、こじんまりした北の離島の雰囲気が似ていて懐かしくなりました。子どもたちが自ら行動して、偶然もあるけれどやり遂げるまでを描いているのはよいと思いました。でも、後半に出てくる二人組の男やサッカー選手など、登場人物のセリフがプツプツ切れていたり、不自然に感じるところが多々ありました。言葉のせいか、絵のせいか、作品の雰囲気がひと昔前の感じがしました。そして、セルキー伝説をもとにしているとあとがきにありましたが、それならばそうした要素をもっと取り入れるべきだと思いました。

アンヌ:まず、この副題は何だろう?と思いました。いきなり主題を手渡された感じです。最初のうちは、『月のケーキ』(ジョーン・エイキン著 三辺 律子訳 東京創元社刊)を思い出すようなさびれた漁村が挿絵でも描かれていて、ファンタジーの舞台として魅力を感じながら冒頭の詩に思いをはせていたのですが、どうも違ったようです。なんだか、ファンタジーが道具として利用されているような気がする物語でした。出てくる子どもたちは現代の子どもたちで、パソコンやスマホを使い、サッカー選手がスターで、環境問題も知っている。だから、このフィンの変身が全然説得力がない。いじめにあって海に落とされて、泳いでみたら泳げた。気が付いたら海と一体化した気分になっていた。イルカと遊んだ。風船を飲んだイルカが助けられなくて悲しい。これくらいは伝説や魔法がなくてもできることだと思います。さらに気になるのが、もう秘密がなくなったと言って、いきなり育児放棄をやめる父親のことです。彼だけはフィンと同じように伝説の中を生き、さらにフィンの母親殺しでもあるんだから、いっそこのまま身を持ち崩していても不思議ではないのに、妙に中途半端に救済されている感じです。後半のサッカー選手との絡みをワクワクする展開と言えば言えるけれど、そういう物語として終わらせるのなら、ますます伝説は必要ないと思えてきて、ファンタジー好きとしては納得がいかない感じでした。

エーデルワイス:アザラシ伝説の語りを聴いたことがあります。日本の羽衣伝説と似ています。挿絵は好きです。ファンタジーとしての物語と考えると、この挿絵は合っているのかもしれません。ですが、物語は海の環境問題とアザラシ伝説を無理やり組み合わせたようで、しっくりきません。主人公のフィンがイルカの乙女と漁師の間に生まれた子どもにしなくてもよかったのではと思いました。設定は別にいろいろと考えられます。p94の1行目から「わたしを見てよ。わたしのお母さんはアフリカ人。この村の人たちから見れば、これはすごく変わっているのよ。」……多種多様なお互いを認め合うシーンのようで好きです。余談ですが作家は素敵な挿絵をつけてもらえて(『きつねの橋』も)羨ましいと思いました。

ハリネズミ:私は、社会や子どもを取り巻く問題をテーマにして書く本は、とくべつおもしろく書かないといけないと思っています。そう考えると、この作品は、プラスチックの海洋汚染というテーマばかりが前面に出てしまい、キャラが立っていないもどかしさがありました。また訳も、あちこちに穴があってすらすら読めない。編集の点でも、もっと工夫する余地がある、という残念な本でした。私は、せっかく子どもが考えるよすがになるような本が、いい加減に出されていると、大変辛口な感想になってしまいます。
まず編集の点ですが、会話が原文どおりのサンドイッチ方式([ 「A」○○は言った。「B」] という形。AとBは同一人物の言葉)に訳されていて、しかもそれが日本語版では3行に改行されているので、何人もで会話している場面だと、誰の発言だかわからなくなります。たとえばp172の「そのとおり! まさにそういうこと」って、誰の台詞でしょう? また、挿し絵はピーター・ベイリーという昔から活躍している画家ですが、日本語版にはその名前がない。
つぎに原著の問題だと思いますが、海洋汚染といっても、イルカと風船に特化された話になっています。風船は毎日は飛ばさないと思いますが、ペットボトルやレジ袋などは毎日使い捨てにしている人がいるので、そっちの方が大きな問題かもしれない。入り口は風船でも、読者をもう少し大きな問題へと誘う書き方のほうがよかったのではないかと思いました。また、ほかの方もおっしゃっていますが、伝説と現実問題がうまく融合していない。それと、ジャスが防波堤から落ちる場面ですが、結構な高さがあるらしいのに、水深は浅いとあり、それなら溺れないのはいいとしても逆に首の骨を折るんじゃないかと心配になりました。挿し絵が少し昔風なのはいいとしても、ジャスがアフリカ系、アミールはパキスタン系なので、肌の色は白くない。でも、挿し絵からはそれがわからない。英語圏の人は名前から、ルーツを推測することができますが、日本の子どもにはそれができないので、肌の色の違いは絵からもわかるようになっている方がいいと思いました。
最後に翻訳の問題です。最初に出てくるドギーですが、ドギーって犬のことなので変だなあと思ってアマゾンで原書のLook insideを見てみました。するとDougieだったので、それなら「ダギー」だな、と。それからp9のチャーリーの台詞が「父ちゃんが家のちっちゃい舟で」と訳されているのですが、原文はin my own wee boat。家の舟ではなく、チャーリーはペギー・スー号という小型のヨットをもらっていて、それのことですよね。後でそのヨットで子どもたちが海に出る場面が出てくるので、それの伏線になっている。ほかにも、p32には、「フィンはひとりでいてもへいっちゃらなので」という訳がありますが、前の場面ではフィンは友だちがほしいと思っているわけだし、それで誕生日のパーティものぞき見しているわけですから「へいちゃらを装っているので」などの訳にしないとまずいし、p284の「言葉をかける前に」は、「答える前に」なんじゃないか、など随所に引っかかって、スムーズに読み進むことができませんでした。

ハル:ファンタジーとリアルが融合した構成自体を否定するつもりはないのですが、この作品に関してはちょっと、どう読んだらよいのかというとまどいがありました。イルカの妖精だったお母さんの死についても、どうとらえて良いのかわからない。お母さんが海に向かった理由も、歌の内容とはどうも違うようですし、作者は漁そのものを否定的にとらえている可能性もあるけれども、これが、イルカ漁やクジラ漁に限定してのことだったら、さまざま意見はあるだろうとは思います。それよりも、プラスチックごみは今現在、関心が高い事柄だと思うのですが、風船を飛ばすことの是非については、既にだいぶ認知されていることだと私は思っていました。なので、子どもはともかく、大人もそのことを知らないということは、このお話は30年前とか、少し前の時代の設定なのかな? でも読んでいくと、やっぱり現代の話だよなぁ……と、その点がいちばんひっかかりました。スコットランドがどうかは置いておいて、舞台は「片すみのとても小さな村」(p7)ということなので、もしかしたら、そういった情報が少ない土地ゆえの認識のズレ、ということもあるのかもしれませんが、ちょっとよくわかりません。フィンが、自分のもつパワーを知ったあとで、確かに切羽詰まった場面ではあるのですが、「ちがうよ、バカ」(p142)とか、「ばかじゃない?」(p260)とか、急に言葉がきつくなっていることにも戸惑いました。フィンを見直した友だちの、手のひらを返したような態度もしっくりきません。全体的には、悪者と良い者をはっきり決めて描くタイプの、子ども向け映画のような作品だと思いました。主人公たちと同じ年ごろの読者にとっては、わかりやすく、義憤というか、強い問題意識を芽生えさせるお話なのかもしれず、これはこれで良いのかもしれませんが、どうかなぁ……。

西山:伝説の詩からはじまるので、抒情的な世界を期待して読み始めたのですが、あっという間に伝説はそっちのけで現実の話だけになってしまって、ちぐはぐな印象を受けました。ファンタジー部分を全部削って、長さもずっと短く、子どもたちがおとなを「ぎゃふん」と言わせる小学校中学年ぐらい向け作品にしてしまったほうがよほど納得できます。タイトルもThe Song of a Dolphin Boy なのに、「イルカと少年の歌」でいいの?と思ったのですが……。でも、歌も、ドルフィンボーイも単なるつかみの設定だけのようだから、どちらにせよ大差ないとも言えますが。「イルカくん」(p62)には、びっくりするほど違和感を感じて、え?いつから「イルカくん」呼ばわり?と思い、読み直してしまいました。サッカー選手がちんぴらの暴力を止めるときの「がまんがならないことのひとつが、いじめだ」(p250)と言うセリフにも同様の軽薄な幼さを感じました。

まめじか:p188で、子どもたちが環境保護の運動をしようとしていると知ったら、大人はきっと応援してくれるはずだという箇所は、社会の問題や政治から子どもを遠ざけないあり方が透けて見えて、好意的に読みました。訳文については、三人称の文体の中に一人称が入るときの接続がうまくいってないのか、ぎこちない印象を受けました。現代の話なのに「きまってら」(p9)、「不公平ったらありゃしない」(p121)、「お食べ」(p162)、「へんちくりんだ」(p220)、「わしら」(p250)など、昔の児童文学に出てくるような言葉づかいも気になったし、「ドギーにはふさわしくない」(p8)、「スリッパでひっぱたいてやる、まちがいなく」(p66)、「ここはほんとにすばらしい」(p89ページ)、「家にいてくれなくちゃ!」(p107)などは原文をそのまま訳したようで、もっと磨けたのでは。一番ひっかかったのはp94の「アフリカ人」。エチオピアのルーツをもつジャスのことですが、大雑把にひとくくりにするような言葉にとまどいました。

サークルK:プラスチックごみという公害問題をあまり道徳臭くならないように、イルカと人間から生まれた男の子フィンの日常に託して描こうとしたのだろうと感じました。子どもたちの日常のなかには、仲間外れと和解、友達への尊敬、家族の交流も含まれますが、私はストロムヘッドという架空の漁村にいる、様々な親子の描き分けに魅かれました。母親を亡くしたフィンと愛妻を失った漁師のマクフィー氏、2人の子どもたちを溺愛するラム夫人、複雑なルーツを持つジャスとジェイミソン教授という親子関係など様々でおもしろかったです。ストロムヘッドの村の様子がわかる挿絵はノスタルジックで良かったのですが、登場人物のルーツのわかるような書き込みが少なく残念でした。

シア:ルーツや自分探しのファンタジー小説かと思ってワクワクしたんですが、いつの間にか頑張る環境保護少年団な展開になってしまい、ああ、これいつもの海外児童文学だとガッカリしてしまいました。イルカのお母さんという設定は素敵だったので、もっと生かすか、いっそなくすかしてほしかったですね。フィンは陸と海の架け橋的な存在になるのではなく、イルカのことしか頭にない少年になっています。「海を守りたい」という力強い副題を日本版はつけていますが、完全に「イルカを守りたい」でした。どちらかというとイルカとの交流よりも友達との交流がメインでしたし。フィンがやっと泳ぎ出してからなかなかドキドキしながら読んでいたんですけど、p60まできたところでイルカの挿絵があったので変身のネタバレされた! と思ったんですが、フィンは変身しておらず、そのことも加えて肩透かしを食らいました。p142でフィンは「体が引っ張られるような気がした」とあるんですが、その後は何も触れられることもなく、半分イルカであることの必然性が後半は皆無です。海の大切さについても、プラスチックごみの問題についても今話題になっているのでそれを書きたいのもわかるんですが、なんともテンプレ気味で、全てにおいて消化不良でした。

ルパン:正直、おもしろくなかったです。全体的に訳文が読みにくかったし、フィンが泳げるようになるところも、イルカが漁師と結婚するところも、唐突すぎてなんだか話に入り込めなかったし。

さららん:ファンタジーの設定のなかに、環境問題を取り上げた意欲作だとは感じました。背景の異なる子どもたちが、力を合わせて、環境を守るために行動をはじめるところは好感が持て、昔ながらの児童文学を読む楽しさがありました。ただ前半で何か所か、疑問を感じるところもあって……。ひとつは、海に落ちたフィンを見つけられないまま、子どもたちがあきらめて家に帰ってしまうところ(p52)。大人の助けをなぜ呼ばなかったのか?と疑問でした。もうひとつはp78で、息子に対して謝罪しつつ、母親の秘密を告白する父さんの心理の変化の早さです。作者はお話をどんどん先に進めたかったのでしょうね。

カピバラ:セルキー伝説はとても魅力的な題材なので、イルカと猟師の間に生まれた子どもというファンタジーの要素が取り入れられているのはいいなあと思ったのですが、ファンタジーよりも海洋プラスチック問題のほうが、著者の言いたかったことのようです。とまどった方が多かったようですが、私はおもしろいところもあったと思っていて、最初は仲間外れにされていた少年が、次第にまわりの子どもたちもまきこんで、環境問題に目を向けていくところや、親と子が一緒に取り組んでいく様子はおもしろかったと思います。

(2021年06月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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きつねの橋

『きつねの橋』表紙
『きつねの橋』
久保田香里/作 佐竹美保/絵
偕成社
2019.06

〈版元語録〉ときは平安時代、京の都。主人公・平貞道は一旗あげようと源頼光の郎党となる。ところが、妖怪の白きつね・葉月と知り合い、立場を超えて互いに助けあうようになる。貞道はすこし先輩で弓の名手である季武ととりわけ仲がよく、少年時代の藤原道長の護衛をしたり、盗賊・袴垂討伐に加わったり、葉月が守る不遇な斎院の姫を助けたり、といそがしい…平安時代、源頼光の郎党貞道が、妖怪きつねの葉月と京都を舞台に活躍する。

まめじか: 貞道がキツネの葉月を助ける一方、葉月は大極殿のもののけを追いはらって貞道を救い、また斎院の姫のためになんとか扇を手に入れようとします。人と妖狐が境を越えて助け、助けられる古の世界のおおらかさ、そこに生きる者たちの懐の深さがいきいきと描かれていますね。手柄をたてたいと思いつつも損得考えずに行動し、義理堅くもある、若い三人の仲間関係もほほえましく読みました。

ハル:やっぱり、鬼や、人を化かすキツネがいた時代の物語には、ロマンを感じますね。このお話そのものもおもしろかったですし、カバーも挿絵も本当にお見事で、目でも楽しめました。読者対象は「小学高学年」になっているようですが、実際、5~6年生でどのくらい楽しめるものなんでしょうね。中学で『今昔物語』を習うころになったら、より楽しく読めるのかも? ほんとうのところはどうなんでしょう。とっても知りたいです。

ハリネズミ:エンタメとしておもしろく読みました。ただキツネというと、どうしても『孤笛のかなた』(上橋菜穂子著 理論社/新潮文庫)を思い出してしまうのですが、あっちはキツネの哀しさなども浮かびあがるように描かれていたのに、こっちの作品は3人の若者が大盗賊をとらえるのに策略をめぐらせ、キツネの力も借りるという設定で、深みはあまり感じませんでした。リアリティに疑問な点もいくつかありました。牛車の乗り心地の悪さなどは読んでいてなるほどと思ったのですが、当時牛車というのは身分の高い者しか乗れなかったのに、身分が高くない若者が君主の息子の牛車にためらいもなく乗ってしまうという設定。また上橋さんには人間とキツネは異種であるという視点が強くありましたが、これはそうでもない。それから、そもそもキツネの葉月はどうして斎院のお姫さまを可哀想に思ったのか、というのが、描かれてはいませんでした。当時は、庶民の中にもっともっと可哀想な子はいっぱいいたと思うし、キツネは神社につきものと言っても、斎院がいるのは賀茂神社で稲荷神社ではないのに。まあ、そんなことはさておいて、エンタメとして読めばいいのだと思いますが。

エーデルワイス:キツネの出てくる物語は好きです。これは時代を超えた青春ものと思いました。「麦縄(むぎなわ)」(p137 10行目、小麦粉と米粉をねって棒状にしたもの)が出てきて、当時から小麦粉があったのかと驚きました。(後日調べたら前弥生時代中期頃から日本で稲作と共に小麦粉は栽培されていたとか。)作者は貞道と葉月(人間とキツネ)の関係をもっと描きたいのでは? 続編がありそうで、楽しみです。

アンヌ:始めに貞道って誰だろうと調べてみたら、子どもの時から大好きだった『今昔物語』の牛車で酔う話に出てくる貞道で、<頼光の郎党共紫野に物見たる語>の季武、公時の3人が活躍する話なんだ、と思ってワクワクしました。『今昔物語』に出てくる女性は大声で笑ったり自分自身の足で出歩いたりしていて、他の物語のお姫様とは違う姿で登場します。ここでは葉月はキツネではありますが、『枕草子』の清少納言が定子に仕えたように、斎院に仕えて働くことに喜びを感じているようです。女房や女官や下働きの女性に化けたりする姿も、この時代の働く女性を映しているようです。五の君の姉上が斎院の扇や衣装をあつらえることに夢中になる様子に、この時代のお姫様は実はお針も使えなくちゃいけないんだということも思い出しました。ちょうど『御堂関白記』の周辺を調べていて、馬を献上することの重要性や、道長が物の怪を自身で調伏したことを知ったところなので、この作品の頼光や頼信と多田の領地の話や、鬼に対峙する五の君の姿には納得がいきました。『今昔物語』には盗賊の話が多くありますが。その中のスターと言えば袴垂。うまくキツネの話<高陽川のきつね女と変じて馬の尻にのりし語>と合わせて楽しい物語になったと思います。できれば続編で、鬼か酒呑童子が出てくる物語も読んでみたいと思っています。

雪割草:別の時代を舞台にした作品が好きなので楽しく読みました。人と動物という異なるもの境を超えて描いているのもいいと思いました。でも、当時の暮らしならではの言葉がたくさん出てきて、対象年齢の子どもはうまく想像できるのかなと疑問でした。聞いたことがあるものもいくつかありましたが、調べてやっとわかるものの方が多かったくらいです。地図や、「侍所」がどこにあるのかなど住まいの配置図がほしくなりました。この作品はすぐ映像になりそうだけれど、言葉で感じさせる世界が弱いなと思いました。

ニャニャンガ:恥ずかしながら物語が書かれた背景を知らないため、新鮮に感じるとともに、物語に入るのに時間がかかりました。貞道がキツネの葉月に出会い心を通わせて互いに助け合う点に集中することで物語に入れました。佐竹美保さんの絵が大好きなので楽しめました。「階(きざはし)」「渡殿(わたどの)」「殿舎(でんしゃ)」「蔀戸(しとみど)」など、なじみのない言葉にたびたび出くわしたので、注がほしくなりました。本文前に略図や周辺図があるので、同じように解説図があれば読む助けになったと思います。会話がわりとくだけた感じだったのが読みやすさに通じる一方、地の文とのアンバランスさを若干感じてしまいました。

マリンゴ: とても引き込まれる本でした。時代背景やこの物語の設定をうまく説明しながら、ストーリーに引っ張り込んでくれていると思いました。1つだけ気になったのは、五の君が大極殿に侵入したシーンです。キツネの葉月に会った後で、得体のしれない影に襲われるので、葉月に化かされているのかと思って気軽に読んでいたら、そうではなくて鬼のしわざ、と後でわかります。緊張感が薄れてもったいないなと思いました。ついでに言うと、終盤のクライマックスに至るところでは、おとりと本物の話がいくつも出てくるので、交錯してちょっと紛らわしかったです。動物としてのキツネの生態の描写がほとんどなかったのに、そこがまったく気にならなかったのは、「キツネが人を化かす」ということについて、日本人の共通認識があるからかなと思いました。外国語に翻訳されるときは、説明や注釈がかなり必要になるのかもしれません。

サークルK:最近の読書会では、いじめや青少年期に悩む子どもたちが主人公のお話を読む機会が多かったので、登場人物の冒険を共有しながら爽快な物語展開を楽しむことが出来ました。端正な挿絵も美しく、物語にぴったりです。貞道とキツネの葉月の出会いに始まり、五の君と鬼の遭遇や斎院の美しい扇をめぐる怪盗袴垂との戦いなどのエピソードが次々に繰り出されて宮部みゆきさんの時代物の作品を思い出しました。因縁のできた袴垂や、陰陽師にまたもや都への出入りを禁じられた葉月について、それでもまだ決着のついていないエピソードもあったので、これから続編が発表されるのであれば楽しみに待ちたいと思います。

西山:同じ年にでた『もえぎ草子』(久保田香里、くもん出版)と比べると、なんだか物足りないというのが、以前読んだときの印象でした。再読して、さらさら読めてしまうことが強みでもあるかもしれないけれど、平安時代にどっぷりつかりたいと思うと物足りなさになるなと思いました。例えば、3人が公友の家でくつろいでいるp137のシーンなど、アニメか何かで見たことあるような印象を受けます。繰り返しになりますが、それを敷居を低くしている利点と取るか、濃厚な物語世界を削ぐ欠点と取るか、分かれるところだと思います。

しじみ71個分:帰りの電車の中だけでツルツルッと読めてしまいました。歴史物としてはとてもおもしろかったのですが、貞道の人物像やキツネの葉月の内面が見えてはこなかったので、読んで深く感動するようなことはありませんでした。また、ルビはふってありましたが、子どもどころか、大人の自分でもわからない難しい言葉も多くて、説明や注がほしかったなとは思います。歴史好きな子たちが知らないことを楽しんで調べつつ読むような物語なのかな、と思いました。

カピパラ:今回は課題本を選ぶ係だったのですが、リアルな現代ものは最近ちょっと辛いものが多いので、純粋に物語を楽しめるような作品を読みたいなと思って探したところ、この表紙の絵と帯の文句がとても魅力的でこれに決めました。上橋さんの『鼓笛のかなた』のような話なのかな、と期待して読みました。一条大路を進む牛車とか、侍所での郎党たちの様子とか、内裏の御簾の奥にあかりが灯り、姫君や女房たちの姿が浮かんでいる情景とか、そういった舞台装置や装束の描写が多く、平安朝の雰囲気が味わえます。時代背景は平安だけれども、頼光に仕える若者たちの熱い青春物語といった雰囲気があります。会話が現代風なのは、厳密にいえば突っ込みどころですが、等身大の若者の気持ちが伝わるので、あまり難しく考えずに楽しめばよいと思いました。時代物は小学高学年にはわかりにくいという意見がありましたが、小学生でも漫画で昔の時代にタイムスリップする話などが人気なので、結構楽しめると思います。

さららん:最後まですっと読めました。主人公の平貞通と、親友で弓の名手の季武、大柄で人のいい公友の三人組の描かれ方が気持ちよく、心理的深さはなくても、活劇の登場人物としてちょうどよく感じました。平貞通はただがむしゃらなのではなく、主君たるべきものについて、考えることもあります。きつねの葉月に対する感情も、最初は人を化かす狐に対する警戒心が感じられましたが、葉月の斎宮に対する思いやりにほだされ、少しずつ、変化していくのがわかります。「まずはためしてみる。だめならほかのどこでもいってやる。西でも東でも、北でも南でも」(p213)という貞通の言葉に、葉月に対する深い理解と愛情が感じられました。体制の中で差別される弱いものを守ろうとする姿勢、共に行こうとする姿勢が自然体でいいな、と思いました。

シア:大変おもしろかったです。さすが時代物がお得意な久保田さんの作品という感じでした。頼光が主君というところでテンションが上がり、これはアクションものに違いないと確信し、楽しく読めました。頼光四天王が登場しているし、髭切も盗られたままなのでシリーズ化する気なのかなと期待しています。牛車の乗り心地までは考えたことがなかったので笑ってしまったりもしました。ただ、調度品が名前だけでは古典を習う中学生以上じゃないとわからないと思うので、巻頭の地図みたいに解説や絵があると良かったかもしれません。それから、ラストシーンで葉月は人間の姿にもかかわらずしっぽが出てしまうのですが、挿絵ではしっぽではなく耳が描かれていました。構図的に描きにくかったのでしょうか?耳についての表現は文章中になかったので、少し混乱しました。また、「そういう間柄だからこそ、姉君は手を差し伸べられるのだ。立場を競い合っているといっても、べつに相手を蹴おとしたいわけじゃない。けれど、家の隆盛はうつっていく。むかしはときめいていた家が、主をなくしてさみしくなる。それを姉君はかなしいと思われるんだ。」(p133)という五の君の台詞ですが、こんな綺麗事を言っているけどこれが後の満月オジサンなのかって感じですね。そしてこの姉君は詮子のことだと思われますから(彼女はかなり政治に介入して中宮定子を追い落としたのは有名な話なので)、いや、蹴おとしてるよね!と突っ込みを入れたくなりました。いくら子ども向けの本とはいえ、美化しすぎではないかと思います。久保田さんの作品の『もえぎ草子』では清少納言がかなりキツい性格に描かれていたので、もしかしたら久保田さんは式部派なのかもしれないと思いました。

しじみ71個分:源頼光というし、四天王も出てくるので大江山の鬼退治とかの華やかなエピソードが語られるのかと思ったら、割と地味な話の連続だったので、拍子抜けしたところがあったのかもしれません。ですが、終わり方を見ると、確かに続きがありそうな感じですね。そうすると、この先に貞道たちが試練を超えて強くなっていくような、盛り上がる話が出てくるのかもしれませんね。

ルパン:これはおもしろかったです。p14の4行目で「貞道は立ちあがった」とあり、8行目でまた「貞道は立ちあがった」とありますが、そのあいだにいつ座ったのかな?

(2021年06月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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チェリーシュリンプ〜わたしは、わたし

『チェリーシュリンプ』表紙
『チェリーシュリンプ〜わたしは、わたし』
原題:THIS POST IS PASSWORD PROTECTED
ファン・ヨンミ/作 吉原育子/訳
金の星社
2020.12

〈版元語録〉学校の課題がきっかけで、仲よしグループから仲間外れにされるダヒョン。友人関係を見つめなおし、「わたしは、わたし」という思いを強めていく。韓国の中学生の日常、心情を鮮やかに描いた、すべての10代へのエール。

まめじか:日本の中学生が読んだら、お隣の国でも同じようなことで悩んでいるのだとわかって親近感をおぼえると思うので、それはとてもいいと思いました。ただ、ここで描かれている友人関係の摩擦やモヤモヤした思いは日本にもあるので、日本の物語の韓国版という感じ。韓国の街の様子や食べ物が描かれているのはおもしろかったのですが。一読者としては、翻訳ものだったら、日本では書かれないような、違う景色が見られるような作品を読みたいなと思います。たとえば絵本の『ヒキガエルがいく』(パク・ジォンチェ作 申明浩・広松由希子訳 岩波書店)は、カエルたちが行進する姿に普遍的なものを感じますが、その一方で、作品の背景にはセウォル号の事件で真実が解明されていないことへの憤りがありますよね。p158で「バスの中でのことがずっとひっかかっていた」とあるのですが、話し続けるヘガンに冷たい態度をとったダヒョンは、そのことをそんなに気にしていたのですか? 数ページ前ではそんな様子はあまり感じなかったので。

けろけろ:p155で、イヤフォンをはめて、ヘガンの話を拒絶してしまったことを言っているのでは?

西山:韓国の絵本はたくさん出版されていますが、読み物はめずらしいなと思って手に取り、大変興味深かったので、この会で取り上げようと思いました。韓国でも、こんなに同調圧力が強いのかと、同じであることにまずびっくりしました。同時に、友だち関係で神経をすり減らしている10代は日本の創作で見なれているものの、悪口などここまであからさまに描かれていないと思い、違いにも驚き、とても興味深かったです。あと、とにかく、食べ物がよく出てきて、いちいちおいしそう。これが、けっこうな魅力となっていますね。文化の違いを最も感じたのが、やけに簡単に物をあげることです。誕生日とか何かの理由もなくプレゼントなんかしようとして、きっと拒絶されるぞと思いながら読み進めると、相手はすんなり喜んで受け取ってしまう。贈り物の考え方が違うのでしょうか。韓国文化に詳しい方がいたら教えてほしいと思いました。韓国のイメージがアップデートされた感じでおもしろかったですね。

カピバラ:韓国の中学生の日常を描いた物語は初めて読んだので新鮮でした。最初は人物名が男子か女子かすぐにわからないので読みにくかったけど、それぞれの描き方がうまく個性を表現しているのですぐに慣れて物語に入り込めました。仲良しグループに入る、つるむ、違和感を感じる、はずれる、という関係性がうまく描けていたと思います。日本の中学生女子にも「あるある」なことが多く、読者は共感を持つと思います。でも、人をけなす言葉がずいぶんときつく、はっきりしているのは韓国だからでしょうか。主人公が、自分の気持ちを素直に表現していて、友だち関係から複雑な心境に陥ってしまい、そこからなかなか抜け出せなかったり、逆にちょっとしたきっかけで妙に単純に立ち直ったりするところなど、この年頃の女の子の心理が手に取るようにわかります。どの子にも友だちに見せる表面の顔と、裏の顔があることが描かれていて、人の言葉に左右されずに自分で本当の姿を見極めることが大切だということが、読者にも伝わると思います。韓国の食べ物がいろいろ出てくるのが興味深かったし、コスメショップでいろいろ買い物するのも韓国らしいのかなと思いました。中学生だけでコスメや洋服を買いに行ったり、しょっちゅう食べ物屋で食べたりするんですね。文章にはいいなあと思う表現が随所にありました。「ものすごく楽しみで、通りに飛びだしていって拡声器でお知らせしないといけないくらいだ。」「その日以来、幸せウイルスのアプリが体にインストールされたみたいだった。」(p99)、「地球はわたしを攻撃する方向に自転しているようだった。」(p200)とか。この本も、読者は女子だけなのかな? 副題に「わたしは、わたし」が付くと女子しか手を伸ばさないのではないかと気になりました。女子は主人公が男子の本でも読むけれど、逆はあまりないようなので、もっと読んでほしいからです。

アカシア:前半はダヒョンが使い走りをさせられているのに、どこまでも合わせよう合わせようとしているという状態にいらいらして、早くなんとかしなさいよ、と言いたくなりました。でも日本と同じように韓国にも同調圧力やいじめがあることはよくわかりました。後半ウンユと知り合いになって、自分は自分らしくと思い始めてからは、周りの人々のことも、表面と実際はかなり違うということがわかっていく。そういうところはとてもおもしろく読んだのですが、前半がもう少し短くてもいいように思いました。食べ物がたくさん出てくるのもおもしろかったです。ただ、これは読者である私の問題なのですが、ここで初めて見る名前がいっぱい出て来て、すぐにイメージがわきにくかったんです。たとえば同じ名前の人を知っていれば、それを思い出して、同じでなくてもイメージがしやすいんですけど、女性名か男性名かもわからず、古い名前かキラキラネームかもわからないので、とまどいました。欧米の名前だと読み慣れているからそうでもない、ということを考えると、いかに自分が韓国の作品を読んでこなかったか、ということですね。それから最初のコピーライト表示ですが、書名が英語で書いてあってハングルでないのはどうしてなんでしょう?

コアラ:おもしろく読みました。グループ内での立場とか、そういうところは日本も韓国も変わらないんだなと思いました。ダヒョンの恋心がかわいかったです。印象に残ったのは、p190の6行目から、「わたしたちはみんな木と同じように独りぼっちなの。いい友だちなら、お互いに日差しになって、風になってあげればいい。自立した木としてちゃんと育つように、お互いに助け合う存在。」これはとてもいいと思いました。私が中学生なら、メモ帳にメモして持ち歩きたくなるいい言葉です。この木のたとえは、ダヒョンがチェリーシュリンプのブログに書くところでも出てきます。ページで言うとp206以降ですが、このあたりはどれもメモしたくなるくらい、いい言葉がありました。それから、この本に出てくる大人が、ちゃんと大人として存在しているのもいいと思いました。子どもにしっかりしたアドバイスをしているのが印象的でした。あと、ヘガンの口癖の「ヤバい」という言葉ですが、韓国語ではどういう意味の言葉なんだろうと興味を持ちました。

マリンゴ: とても魅力的な本でした。思春期の子たちのぐちゃぐちゃした人間関係、大好物です(笑)。特にいいなと思ったのは、ヒロインのダヒョンのウザい部分が書き込まれているところですね。とてもいい子なのにわけもなく嫌われる、のではなくて、ああ、こういう子はたしかに疎まれるかもしれないな・・・と思わせる部分をしっかり描いています。たとえば仲間に好かれるために積極的に悪口を言うところ、しゃべりだしたら止まらなくなるところなど、リアルです。日本が舞台ならば、少しユーモアを入れ込まないと、しんどい物語ですけれど、よその国のお話として距離を置いて読めるから、重苦しくても楽しめました。韓国の子たちのおやつ事情、食生活などもいろいろわかってよかったです。終盤、オトナがいいことをいろいろ言っていて、その言葉が印象に残りました。「世の中の人全員に好かれるのは不可能」(p188)、「憶えていてあげること、それが愛」(p193)などです。最近、一般書の韓国文学をちょくちょく読んでいます。チョン・セランなどがとても好きです。この本にも出会えてよかったと思っています。

ルパン:韓国の名前がなんだか耳に心地よかったし、翻訳ものといえば欧米の名前、という感覚があるからか、とてもエキゾチックに感じました。それにしても、実によく食べ物が出てきます。これと化粧品ネタがなかったら、このまま日本を舞台に置き換えてもいいくらい、日本の中学生と通じるところがあり、共感がもたれるのではないかと思いました。この読書会、リモートになって遠方や地方の方も参加できてよかったな、と思っているのですが、唯一対面でなくて残念なのが、みんなでおやつを食べられないこと。いつもアンヌさんが課題本にちなんだおやつを差し入れてくださっていたので、今回もし対面だったら何を買ってきてくれたかなあ、なんて想像しながら読んでました。

イタドリ:これから韓国の作品が、絵本だけでなく、どんどん紹介されていくんでしょうね。みなさんがおっしゃるように、食べ物のことやコスメのことだけでなく、子どもたちの暮らしの様子がわかるようになるので、楽しみにしています。『ハジメテヒラク』(こまつあやこ著 講談社)は、自分が一歩外に出て実況することで、物事を客観的に見られるようになるし、この本の主人公も新しい友だちを得ることで、人間関係を新しい視点から見ることができるようになる・・・テーマは、似通っていますね。ただ、日本の作品には母親を厳しい目で否定的に描いたものが多いような気がするんですが、この本のお母さんは、なかなかいいですね! こういうお母さんに育てられても、ウジウジしちゃうのかな?

ヒトデ:なによりも出てくる食べ物の描写がおいしそうで、「胃袋」に響く小説でした。韓国の小説は、一般書でも何冊か読みましたが、どれも「身体的な描写」にハッとさせられることが多かったように思います。この物語も、そうした意味でとても「身体的な(内臓的な)」小説だと感じました。大変な状況にあっても「食べる」ことで、主人公の身体にエネルギーが通って、物語が進んでいくような、そんな印象を持ちました。物語のなかに描かれている「高校入試」のシステムが複雑なのにも驚きました。アラムとの「落としどころ」は、読む人によって意見が分かれるのかもしれないなと思いつつ、私は好きな終わり方でした。

雪割草:とてもよかったです。登場人物が、家族やその子が置かれている環境とともによく描かれていると思いました。主人公や友だちのウンユが変わろうとする姿もていねいに書かれ、リアルに感じました。読んだ後に心に残る言葉のある作品が好きですが、この作品はまさにそうで、木や風を使った表現の箇所がよかったです。おとなの存在、おとなの視点が、作品でよく作用しているとも感じました。タイトルのチェリーシュリンプという生きものを知らなかったので調べてみました。日本では見慣れないこの生きものは、主人公がブログのタイトルに使って説明している以上の意味が韓国で何かあるのか、少し気になりました。

けろけろ:韓国料理がとてもたくさん出てきて、主人公たちがそれをエネルギーにしている感じがおもしろいですね。帯の表4側に作者の日本の読者へのメッセージがありますが、作者は日本の作品を読むときに、その街並みや食べ物をとても楽しんでいたようで、韓国の話を書くときに、それを意識して書こうとしていたんだなと思いました。友人関係がすべてというこの世代に、国を超えてエールを送っている感じに、とてもじんと来ました。韓国の女子のいじめが、日本とあまりにも似ているのに驚きました。ただ、翻訳ものであることが、いい距離感を生んでいて、日本の作品だとリアルすぎるところが少し薄まって読めるんですね。私の好きなシーンは、主人公のダヒョンがウンユに、亡くなった父親について話すところ。ふたりの関係がしっかりと結びついていくのが、視線などでうまく描かれているなと思いました。SNSのいじめって、残酷ですね~。文字の会話が続いていくなかで、そこで発言していない子がいることにみんな気づいているのに知らんふりしている。透明人間みたいになってしまう。日本でも、こんなシーンがきっとあるんだろうな、と思うと、胸が痛みます。魚住直子さんの作品も韓国で人気ですが、なにか通じるものを感じました。

ハル:「ザ・中学生あるある!」という感じで、実際にこういう経験をしたかどうかはおいておいても、主人公の心情表現は、まるで中学生、高校生のときの自分の日記を読み返しているようなリアルさを感じました。「私の日記か」というのはつまり、リアルなだけに、浅く散らかっているというか、文章が上滑りしていく感じもあり、「ときどきこういう、リアルなんだけどどこか軽くなってしまう小説ってあるよなぁ」と思いながら読んでいたのですが、後半の10章あたりでぐっと引き込まれて、主人公が書き溜めていたブログを公開したところで、ああいいなぁ、と思いました。特に主人公たちと同世代の読者たちは、身近な解決策やヒントをもらったような、勇気づけられた気持ちになるのではないでしょうか。ただ、結局、チェリーシュリンプは特にキーとして登場するわけでもないし、全体的にすごくよくまとまっているかというとそうでもないようにも感じましたが、良い作品だと思います。「日本の小説を読むのと変わりがないんじゃない?」というと、そうでもなくて、やっぱり、日本と似ているようで違う文化もおもしろく、韓国の子は買い食いの習慣があるんですね、いろんな食べ物が出てきておいしそうでした。

ネズミ:主人公が、学校での人間関係を克服して、ブログを公開できるようになるまでの成長を描くというテーマはいいですが、『ハジメテヒラク』と同じで、こちらも読むのが苦しかったです。同調圧力がどうにも苦手で。苦しいのは、それだけ真に迫っているからでしょうね。そんなことがあるの?と、驚くようなことが次々あってもどうにか読み進められるのは、舞台が日本ではなく韓国だとわかっているからでしょうか。

ニャニャンガ:『きらめく拍手の音』(イギラ・ボル著 矢澤浩子訳、リトル・モア)、『82年生まれ、キム・ジオン』(チョ・ナムジュ著 斎藤真理子訳、筑摩書房)などの一般向け韓国作品は読んだことがありますが、子ども向けの韓国作品ははじめて読みました。本作では韓国の様子がわかり興味深かったです。ただ、特定の子を嫌った理由が冒頭の人物紹介に書いてあったのはネタバレではないかなと感じました。韓国の大気汚染がひどいことは本書を通して知りました。聞きおぼえのある食べものが多く登場しますが、キムパグはキンパのほうが一般的かもしれません。「目がふっと震える」(p135)はすてきな表現と思った一方で、「バスが無表情」(p195)という表現には引っかかりました。「アナジュセヨ」(ハグしてください)の勘違いのくだりについては、最初に出てきたところで詳しく書いてくれたらわかりやすかったです。まじめ虫という表現は、『82年生まれ、キム・ジオン』のママ虫を思いだして韓国特有の表現なのかなと思いました。

さららん:登場人物たちがみんな食べることに執着しているのがおもしろく、私もそこにバイタリティを感じます。特に主人公は、仲良しグループに気を使い続け、次第にハブられていきますが、これだけ食べることが好きなら、この子はきっと負けない!と感じられ、そのおかげで読み進めることができました。友だち同士言葉で激しく言い合い、傷つけあうところも描かれ、陰湿な場面もありますが、主人公は自分の意志で、仲良しグループのトークルームを抜けることを選びます。クラシック好きなことも隠していたけれど、自分が選んだものを肯定し、表に出していける環境をだんだんに作っていきます。このぐらいタフで楽観的でありたいと願う読者は、韓国はもちろん、日本にもたくさんいるかもしれない。また江南からの転校生は優秀だという妬みや、うどん屋でクラシックをかけるのはヘンだ、といったものの見方に、日本よりさらに階級化された社会を感じました。

アンヌ:最初はいじめの話だと、いやいや読みだしたのですが、おいしそうな食べ物が次々と出てくるので、読んでいて楽しくなってきました。つらい思いをしている主人公の話で、どうもおなかも弱いらしいので、まさかこんなにおいしそうな話になるとはと意外でした。作者がこんな風に食べる場面がたくさん出しているのは、子供の生命力を読者に感じさせるためではないかと思います。それにしても、中学生や高校生の頃って、本当に嫌になるほどおなかがすいていたなと思い出します。私は食べ物で本を読み解く主義なので、試しに数えてみたら食べ物が出てくる場面は28場面。食べ物は全部で60品目以上ありました。そのうちダブっているものや中華街の食べ物や日本でも手に入る食べ物を抜いたら、24品目が韓国固有の食べ物でした。まずいとされるのはハンバーグ屋のハンバーグと飲み物だけというのもおもしろいところです。また、先ほどご指摘があったように、同じページ内に注がついていて、どういう食べ物かすぐわかるのも魅力でした。作者と翻訳者の、韓国を紹介したいという気持ちが感じられるところです。今、日本の若い人が夢中の韓国コスメの話も楽しく、こんなに若い時からお化粧品を買うんだなとか、p194のコスメ屋さんに4人で行く場面で、お父さんにも乳液をプレゼントするんだとか、韓国では父母の日というのがあるんだとかいうことを知りました。知らない生活習慣や韓国のおいしそうなものが出てきて、外国文学を読む楽しさを堪能しました。ダヒョンがこんなにつらい生活の中でも自分を見失わなかったのは、やはりブログという形で一度言葉にして心の中のものを外に出して、自分の好きなもの、自分を形作っているものを見つめていたからだろうと思います。課題をこなすために集まったグループのうち、3人が将来は記者になりたいと言っていて、作者は言葉が好きな人間を応援しているとも感じました。ダヒョンもウンユも言葉を知っている子だなと思います。p190のウンユの言葉で始まる木と風のたとえは実に詩的で、さらに、ダヒョンのブログの中でそのとらえ方が変わっていくところも、ダヒョンの成長が感じられていいなあと思いました。それぞれつらい別れを知っているからこその言葉だと思いました。私はいじめっ子にもいじめるわけがあるという擁護はあまり好きではありません。作者はアラムがウンユにまとわりついてうまくいかなかったことや、つらい境遇にあることを最後の方に記しています。だからといって関係をどうにかするということではなく、アラムが困っているのを察したダヒョンがポーチを机の上に置いて、そのことを相手がどう思ってもいいと立ち去るところは、実に爽快感があってよい終わり方だと思いました。

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エーデルワイス(メール参加):女の子特有のグループでのいじめの問題は韓国も日本も同じようです。ほとどの子が塾に行っていることや、音楽、映画、恋心も。コスメの浸透にはちょっと驚き、韓国の美味しそうな食べ物がでてくるのは楽ししかったです。ページ内に小さく注釈があるのはいいですね。「大気汚染注意報」も驚き。マスクを付けて登校とは。最初に登場人物の名前の一覧があるのは助かりました。韓国の名前に馴染みがなく、途中で誰か分からなくなり時々確かめながら読みました。ボス的な女の子のアラムが実は寂しい家庭環境にあることを知った主人公のダヒョンが、アラムの席に整理用品をそっと置くラストは爽やかです。コミュニティ新聞つくりグループの4人中3人が将来は物を書く人になりたいというのは作者の投影でしょうか。

しじみ71個分(メール参加):中学生女子の「あるある」な物語で、自分が中学生のときのことを思い出しました。中学生のあたりは、まだ自我の確立なんて全然できていないし、自分が何者かもまったく分からない時期で、自分の周りの小さな世界に所属したくても、どうしてか世界と自分とが、食い違ってしまう、自分は周りと何か違う、息苦しいと気づき始める頃なのだろうと思います。誰でもこんなことあるよね、と思わせてくれる物語で、チェリーシュリンプに象徴される、自分らしさを大事にすることの気づきを得て終わってくれたので、読み終わってスカッとしました。中学生女子の間の同調圧力の理屈の無さ、未熟さ、想像力の欠如から、なぜか自然に誰かを無視したり、仲間外れにする仕組みがリアルに描かれていると思います。理由が分からないけど、友だちが嫌っているから私も嫌いと思い込むとか、空気を読んだつもりで悪口を言ってしまうとか、なんて馬鹿馬鹿しいことかと思いますが、結構、大人でもあるなと居心地の悪さも感じさせてくれました。また、韓国の中学生のコスメ事情など、関心事も細かく描かれて、とても興味深かったです。また、とてもおもしろいなと思ったのは、結構、ウジウジした内容なのに、主人公のキャラクターのおかげか、物語が湿っぽくなく、カラッとドライな印象のあることでした。日本の物語だともう少しじめっと湿っぽくなるかもしれません。そのドライさは、主人公の思考や受け止めに表れる芯の強さや朗らかさから来るのかなと思ったのですが、書き方の客観性かもしれないですし、そこに作者の気持ちや意図ががあるようにも思いました。

鏡文字(メール参加):登場人物紹介で、ある程度の筋が見えた感じで、どう物語を決着させるかという興味で読み進めました。ラストのシーンはなかなかいいのではないかと思いました。韓国でも今時の中学生はいろいろ大変なんだな、とも。学校生活など、日本の子どもにとってもさほど違和感がないように感じました。その分、あまり新味もなかったかも。ベトナム戦争のことなどがチラッと出てきて、やや唐突な印象。本筋にからまないことで出てくるのはいいのですが、あとほんの少しだけ踏み込んでいいような気がしました。p216で母親が語る「生きていれば、疎遠になったり、思いもよらない時期にまた会ったりするの。人間関係なんて、みんなそういうものじゃないかしら」という言葉は、子どもがどう受け止めるかはともかく、大人としては多いに納得です。翻訳物は、書かれた背景など、訳者のあとがきを読むのが好きなので、それがないのが残念でした。

(2021年05月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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ハジメテヒラク

こまつあやこ『ハジメテヒラク』表紙
『ハジメテヒラク』
こまつあやこ/作 
講談社
2020.08

<版元語録>『おはようございます。実況はわたし、出席番号三十三番、綿野あみがお送りいたします。』 ひそかな趣味は脳内実況!そんなわたしがなぜか生け花部に……。2019年度中学入試最多出題作『リマ・トゥジュ・リマ・トゥジュ・トゥジュ』で講談社児童文学新人賞受賞のこまつあやこ氏、待望の2作目。ユーモラスで爽やかな青春小説!

アンヌ:とてもおもしろかったけれど、わかりにくかった点が1つあります。脳内実況と現実の実況の違いについてなんです。二重カギ括弧で濃い文字が脳内実況、カギ括弧で濃い文字が現実の実況、と気づくまでに時間がかかりました。声に出して実況しているところは、普通の会話と同じ文字にしておいて二重カギ括弧でくくれば、十分通じたのではないかと思います。主人公は他人の恋心や秘密を勝手に話してはいけないということが、ある意味最後までわかっていないようで、それを主人公の個性としてとらえていいのかどうか気にかかるところです。小学生のうちは、ついうっかりということですむのですが。でも、そんなことはどうでもいいくらい元気な気分で読み終えられたのは、このコロナ禍の中、大声で叫べないことが増えていて、例え脳内でも読みながら叫んでいて気持ちよかったからもしれません。競馬の実況中継が絶叫系だからでしょうか。華道部のところの二十四節気は何となく知っていたのですが、七十二候の話はよく知らなかったので、いろいろ調べるきっかけになっておもしろ読めました。

さららん:主人公の一人称の語りに、「おーっとどうする」のような、つっこみも交えた三人称的実況が入り、おもしろい効果をあげていますね。次章への好奇心をそそる章の切り方も上手です。心情を風景に投影した描写、例えば「家庭科実習室の壁紙が貼り替えられたように、白くまぶしく見えた」(p131)も、わざとらしさがなく好感がもてました。仲間外れ、ジェンダー、差別といったモチーフが重くなりすぎずに編み込まれ、いやだった自分を変えたい、という主人公の願いも、自分らしさを否定せずに実現させることができて、よかったと思います。文化祭での生け花の実況中継をやめたいと思いはじめる主人公を、無理強いせず、あえて後ろに引いて待つ姿勢の野山先生(p149)に、大人のあるべき姿を感じました。

ニャニャンガ:クラスの人たちを実況中継することで孤立感を紛らわせる発想は、斬新です。友だちから浮きたくなくて目立たないようにしている主人公に、共感する子どもたちが多いだろうと思いました。学生時代の私は孤立するのがいやで無難に受け流した記憶がありますが、今では「浮いていてなにが悪い」と思うので、主人公もその結論に達したのがよかったです。1つだけ気になったのは、頭の中で考えるだけでも、するっと実況中継できるようになるのかしらという点です。もともと才能があったのかもしれませんが、私には無理だと感じました。

ネズミ:私は、友だちづきあいや部活を中心においた本は苦手なんですよね。学校生活で、友だちや部活ありきと思いたくないという気持ちがあって。でも、実況によって自分を客観視していくというのは、目のつけどころがおもしろいと思いました。人のことをよく見ることにもつながっていくので。生け花部を通して、まわりの先輩や同級生のことを知っていくというのはよかったし、作者が成長物語としていろんなテーマを盛り込もうとしているのも好感が持てました。

ハル:まさに今回のテーマの「中学生あるある」という言葉がぴったりの本ですね。2回読みましたが、やっぱり楽しいし、おもしろかったです。なぜか著者の姿が浮かんでしまうのですが、デビュー作の『リマ・トゥジュ・リマ・トゥジュ・トゥジュ』(講談社)と同じく、とても楽しんで書いているなぁという感じがします。物語から得るメッセージもさまざまありますが、言葉のおもしろさも感じさせてくれるのが、こまつさんの作品の好きなところです。1点だけ、最初に読んだときも思いましたが、肝心の、文化祭の実況が、実況としてはあまり上手じゃないというか、言いたいことが前面に出てくるとリズムが普通になってしまって、実況口調がうすれてしまったのは、読んでいてちょっとひっかかりました。といっても、ほとんど影響ないぐらいのつまずきでしたけど。読後感がさわやかで、心が落ち着くし、ぜひ中学生に読んでほしいです。あ、もう1点ありました。巻末に「『立冬』の『山茶始開』は、ふつう『つばきはじめてひらく』と読みますが、この『つばき』はツバキ科の山茶花(さざんか)のことなので、『サザンカはじめて開く』といたしました」という断り書きがありましたが、これはどうしてツバキのままじゃいけなかったんでしょう?

イタドリ:普通、椿は冬から春にかけて咲くけれど、文化祭のある秋に咲くのは山茶花だからでは?

アンヌ:p198で部長が活けるのが山茶花だからでは?

ハル:なるほど! ありがとうございました。

けろけろ:こまつあやこさんは、力のある、これからの作品が楽しみな作家さんだなと思って、今回選書させていただきました。先日も、児童文学者協会の新人賞を取られましたね。小学校高学年で、自分の失言から仲間外れになって、中学になっても踏み出せずにいる主人公。仲間外れになったときに、「実況中継をしたらいいんじゃない」というアドバイスをされるというところがおもしろいですね。人間関係の外にいったん出るというのは、的確なアドバイスだったかもしれないと思います。中学で、うっかり入った華道部の部員の個性がうまく描けてますね~。特に私の推しは、城先輩。絶対いなさそうな人物だけど、描けちゃうのがフィクションのいいところですよね。私も華道を教わっているのですが、枝を切り落として姿を見つける感じとか、枝はひとつとして同じものがないなど、テツガク的なところがあり考えさせられます。お花をいけるシーンが伏線としてもう少し入ってもいいのかなと思いました。カオ先輩の進路の問題、マイちゃんの出身の問題など、結構盛りだくさんなのですが、バランスを考えたら、枝をもう少し切ってもよかったのではないかと思いました。

雪割草:全体としては、おもしろく読みました。特に、「実況」という語りの手法は、新鮮でした。生け花ショーの実況をするのに、生け花部の部員それぞれを観察するなど、「実況」が一人ひとりを知ろうとする切り口になったり、生け花ショーなので、お花を使ってそれぞれの個性を表現しながら実況したり。でも作品の最初の方は、「実況」がうるさいと感じてしまいました。それから、マイちゃんのお母さんがベトナムの出身であるなど、外国にルーツのある子どもを登場させているのもよかったです。友だちとの関係のところは、仲よしグループのような関係が苦手だったので、実感というより大変だなと思って読みましたが、主人公が、友だち関係のなかで負ったトラウマを乗り越えようと挑む姿は、同年代の読者の共感をよぶだろうと感じました。生け花のことはわかりませんが、日本の伝統文化でもあるし、もう少し踏み込んで描きこんでほしかったと思いました。

ヒトデ:今回の課題になった『ハジメテヒラク』と『チェリーシュリンプ〜わたしは、わたし』、舞台になる国はちがいますが、どちらも中学生たちの「友人関係」を描いた物語として読みました。はじめは、「脳内実況」に少し乗れないところもありましたが、p20を越えたあたりからグイグイ読み進めることができるようになりました。何よりもまず「実況」という装置が発明だと思いました。地の文と同じ「描写」をおこなっていても、それがより深まっていくというか・・・これまでに読んだことのない「読み口」の文章でした。物語の運びは定石通りではありますが、「人間関係を生け花にたとえていくこと」や「クラスの外で居場所を作ることの大切さを描いている」など、良い所がたくさんあった物語でした。城先輩の恋がむくわれなかったのは、少々残念でしたが(笑)

イタドリ:私もアンヌさんとおなじように、脳内実況しているところと実際にしゃべっているところが同じ活字なので、わかりにくいと思いました。内容についていえば、私が子どもの本を読んだときの感想って、おおざっぱにいえば3つに分かれるんですね。①『彼方の光』のように、「ぜったい読んだほうがいいよ」と、子どもに熱烈に押しつけたい(?)本 ②「なにかおもしろい本ないかなあ」といわれたときに、「これ、読んでみたら」と手渡したい本 ➂「ちょっとやめといたら」と言いたくなる本。これは、②の本かな。さわやかで、明るくて、楽しく読める作品だと思います。生け花については、もうちょっと掘り下げて書いてもいいかなと思ったし、いとこのお姉さんが、最初と最後だけちょこっと出てきて、主人公のヒーローというには、あっさりしすぎてるかな。その軽さが読みやすさに通じるのかもしれないけど。

ルパン:私は何回か競馬場に行ったことがあるのですが、あの馬たちの疾走の迫力に取り憑かれる人がいるのはわかる気がします。地鳴りのような馬の駆ける音とともに観客の歓声と怒号が鳴り響くあの雰囲気をことばで伝える実況放送はすごいと思います。なので、競馬放送の話になるのかな、と思ったら生け花部、というのはちょっと驚きでした。はじめはなかなか入っていかれませんでした。ストーリーはよかったのですが、私は主人公のあみちゃんに、正直あまり感情移入できませんでした。小学校のときにクラスの輪から外れたいきさつも、もう少し同情させてくれるシチュエーションだったらよかったな。というわけで、自分で好きで手元に置きたいという本ではなかったのですが、これを文庫に置いて、悩める年ごろの小中学生に手渡すにはいい作品だと思います。勇気づけられる子もいるかもしれないから。この作者の『リマ・トゥジュ・リマ・トゥジュ・トゥジュ』はとてもよかったので、またほかの作品が出たら読んでみたいです。

マリンゴ: 地の文、心の声の実況、会話をうまく重ね合わせていて、新しさがありますね。最後、たたみかけるように感動を連鎖させてクライマックスを作っているところも、本当にうまいと思いました。文化祭当日、大事な実況がぐだぐだになっていくのも、テンパっている感じが伝わってきてリアリティがありました。相手のことを知ると見方が変わり、いじめ突破の一歩にもなる、とエールを送っているのもいいと思います。先ほど、生け花の描写が物足りないという意見がありましたが、これ以上深く踏み込むと、どこの流派かを描かざるを得ないことになります。流派を選ばずに、ある程度、お花のことをちゃんと表現しているという点でも、この作品は巧みだと思いました。また、七十二候の入り方もおもしろく、知らなかったことを教えてもらえました。

コアラ:タイトルではどういう話かまったくわからなくて、カバー袖を見ると、実況の言葉だったので、放送に関する部活の話かと思ったんです。ところが、本文はバスケ部のマネージャーの話で始まり、仲間はずれのことが語られ、いじめの話かと思ったら、突然競馬場に連れていかれるし、バラバラで話が見えなくて、この本は興味が持てないかもしれないなと、ちょっと投げ出したくなりました。それでも、部活で生け花というのは新鮮で、主人公の行動にハラハラさせられながら、飽きずにおもしろく読み終えました。生け花の実況、というのは、私もおもしろい発想だと思います。実況というとスポーツの絶叫を思い浮かべますが、将棋のテレビ放送では実況のように解説していますし、静かで表に出ないものにこそ実況というのはアリだと、この本を読んで思いました。マイちゃんがベトナム人のハーフというのも、物語を奥行きのあるものにしていますよね。それから、主人公の「あみ」の欠点というか、人の代わりに告白してしまうクセが、結局治らなかったのが、私はおもしろいと思いました。欠点を直すことが成長、ではなくて、生け花に出会って人を見る目が変わって世界が広がったことで成長する姿を描いていると思います。中学女子にぜひ読んでほしいですね。

アカシア:職業や部活を取り上げた作品はけっこうあるけど、これはその隙間をついていますね。実況アナと生け花ですもんね。実況っていっても、種類はいろいろあると思いますけど、これは古いけど古舘一朗のプロレス実況みたいなノリ。そこが笑えました。居心地の悪い現実に、突拍子もない実況で切りこんでいく感じが爽快でした。『リマ・トゥジュ・リマ・トゥジュ・トゥジュ』にも、マレーシアからの帰国子女が登場していましたが、ここにもベトナムからやってきた口数の少ない少女が出てきます。この作家さんには何らかの志があって、意識して出しているのだと思います。内容は、リアルな物語と言うよりは、マンガ風というかエンタメ的なおもしろさ。私はこの部長がそれほど魅力的な人物には思えなかったせいか、あみがその恋を応援しようとして頑張る下りも、ちょっと白けてしまったし、早月がどこかへ引っ越して音信不通という設定にもリアル物なら無理があると思いました。中学生くらいの年齢だと同調圧力を必要以上に意識してしまうので、共感を呼ぶ作品だと思います。

カピバラ:ひとり実況の形で見たこと感じたことを語っていく部分になると急に生き生きとしておもしろかったです。テンポがよくてどんどん読めました。友だちづきあいにいろいろ悩みはあっても、自分なりに考えながら少しずつ前に進んでいくところに好感がもてました。友だち、先生、親など、それぞれの描写はそれほど深くないけど、特徴をとらえていて人物像が浮かび上がってきました。現代の子どもたちの学校生活を扱った物語って、最近は特にひりひりとつらいものが多いんですけど、この本はそこまで深刻ではなく、気楽に読めて楽しめるし、この薄さもいいですよね、ちょっと読んでごらんってすすめるのにちょうどいい。お母さんがベトナム人の女の子が出てきますが、それがわかってからも、違和感なく同じように接するところもよかったです。タイトルはなんのことかなと興味をひくのでいいと思いますが、表紙のデザインはどう見ても女子向きで、男子は手にとらない感じなのが残念です。男子も登場するし、男子にも読んでもらいたいのに。

西山:表紙がすごくきれいでいいと思っていたのですけれど、「女の子向けの本」の顔になってしまうことのマイナス面もあるのですね。実は・・・こんなに個性がある、特徴的なことがいっぱいでてくるわりには、前に読んで、内容をすっかり忘れていました。言い訳的にいえば、盛りだくさんで、私にとってこの作品が1つの像を結んでいなかったのかなと思います。実況が心の声でもあるんだけども、隠している自分の本音とかいうのではなく(ふと思い出したのは、『ぎりぎりトライアングル』(花形みつる著 浜田桂子絵 講談社)です。おどおどした主人公コタニの内面の声が、がらっとイメージの違う歯切れのいいツッコミ満載だったのとおもしろさでは共通しつつ、質は違うなと)、自分事を他人事にしてしまうというのが、つらい子どもにとってはすごい提案なのかなと思います。「脳内実況してみると、まるで人ごとのようにこの状況に何だか少し笑えてしまった」(p51)とあるように。 人ごとにしちゃうっていうところで、そこに救われる子どもの実情を思うと、闇は深いなという気がします。競馬といえば、『草の上で愛を』(陣崎草子著 講談社)は、広々とした競馬場の空気みたいな印象が残っています。そういうのがなかったかなぁ。

まめじか:この本では、友だち関係にとらわれていた主人公が実況によって、いったん自分を外に置いて、客観的に見られるようになっていきます。友人との距離感がつかめず、自意識にふりまわされていた子が、余分な枝葉を取り払うように心を整えていく過程に好感がもてました。ジェンダーのステレオタイプを破るような男子の華道部部長、ベトナムにルーツのある同級生など、多様な登場人物が出てくるのもよかったな。中学生が手に取りそうで、しかも品のある表紙がすてきですね。後ろのカバー袖に小さく描かれているのはなんでしょうか。スポイト?

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鏡文字(メール参加):意識的に外国ルーツの子を登場させていることに好感が持てました。着眼点がおもしろいし、するすると読めました。ちょっとマンガチックかな、という気もしましたが。けっこう長い間、なぜ従姉に連絡しなかったのかが謎です。

エーデルワイス(メール参加):以前の課題で読んだ『リマ・トゥジュ・リマ・トゥジュ・トゥジュ』が印象に残っていて、今回もよかったです。さわやかで。それこそ胸がキュンキュンしました。『ハジメテヒラク』は華道からきたタイトルなのですね。花を生ける様子に実況をつけるなんて、おもしろいです!中高の部活ですから流派は出ませんでしたが、華道には池坊、小原流など、伝統と子弟制度があり面倒だと思っていました。この物語の華道の様子は自由でいいなと思いました。『リマ・トゥジュ・リマ・トゥジュ・トゥジュ』ではマレーシアの帰国子女。今回はベトナムにルーツのあるマイちゃんが登場。アジアが身近に感じられます。

(2021年05月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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ワタシゴト〜 14歳のひろしま

『ワタシゴト』表紙
『ワタシゴト〜 14歳のひろしま』
中澤晶子/作 ささめやゆき/絵
汐文社
2020.07

〈版元語録〉修学旅行で広島平和記念資料館を訪れた5人。それぞれに悩みを抱え、戦争とは遠い世界で暮らす14歳の胸の内は……。 登場人物に共感を覚えながら、物語に登場する被爆資料などを通して平和について深く考えていく作品です。

ネズミ:前に同じ作者の『3+6の夏』(汐文社)を読んで、これも意欲的な作品だとは思ったのですが、私はうまく入れませんでした。それぞれの物語で、今の現実の中でいろんな問題を抱えている子どもが中心になって展開するのですが、現実の問題は解決されないまま。どれもがハードで重い問題なので、苦しくなったのかもしれません。あえてこういう描き方をしているとは思ったのですが。

サークルK:本の扉を開けると、タイトルについて掛詞(私のこと、記憶を手渡すこと)になっているという説明がなされ、手に取った子どもたち、まさに14歳くらいの人たちが読むときには、大きなヒントになることが書いてあるのだろうと思いました。1つ1つ読み進めるごとに、パズルがはまっていくように登場人物と彼らをめぐる出来事が明かされ、よく練られたお話だなと思いました。とくに「ワンピース」は、展示されているワンピースからの声がみさきだけに聞こえてきますが、その声がすべてひらがなで、句点もない独白になっているところ、そしてその内容が素朴で温かくて、最も心を打たれました。ただし、全体に思春期の子どもが抱えている問題がてんこもりのように詰めこまれている感じなので、よく言えばすべて装備されているけれど、すきがないというか、かっちりしすぎている印象があって。いいお話の連作だとは思ったけれども、もうちょっと遊びがあって、読者が想像できる余地を残しておいてくれてもいいのかなというふうに読みました。

西山:まずは、タイトルに、なんと絶妙な!と感心した作品です。戦争に限らず、体験者と非体験者をどうつなぐか─それが大きなテーマだと思うのですが、それが「ワタシゴト」という言葉で、要点を押さえている。5話のうち最初の3話は、今までもあった構造だと思うんです。現代の子どもの今の生活や抱えている問題が、何らかの物やことを通して、戦争体験と重なってつながるという構造。後ろの2話は新しいと思いました。感情的に迫っていくという仕立て方じゃなく、石に対する知的好奇心で被爆瓦にせまっていく。教師たちも一緒に動いていくし、風通しの良い刺激的な作品でした。最終話は、わかっていない子どもにわかっている大人が伝える、という関係に一石を投じていて新鮮でした。子どもの方がよっぽどわかっている場合があるとか、辛すぎて向き合えないことがあるとかいったことは、「伝えたい大人」は頭の隅に置いておいた方がよいと思っています。

ハリネズミ:とてもおもしろかったです。戦争や原爆を伝える児童書として、これまでの作品とはひと味違うと感じました。子どもたちが頭で知るのではなく、自分の実感を通して追体験するというコンセプトがいいなあ、と。現実の問題が解決しないという声もありましたが、そこがテーマじゃないですよね。たとえば最初の「弁当箱」だと、母親が嫌味を言いながら渡した弁当箱を俊介が払いのけると、弁当箱は下に落ちてしまう。その俊介が被爆資料の黒こげの弁当箱を見て、時間がたってまっ黒にアリがたかっていた自分の弁当箱とその黒こげの弁当箱の両方を頭に思い浮かべる。よくあるタイプの日本の児童文学だと、そこで母親をババア呼ばわりして弁当を無駄にしたことを俊介が反省したりするわけですよね。でも、この作品はそうじゃない。「くそっ、あの日、弁当箱を抱いて骨になったあいつは、どんなやつだった?」(p27)とそっちへ想像をもっていく。そっちへ視野が広がる。ここがすごいところじゃないでしょうか。アーサー・ビナードが『さがしています』(岡倉禎志/写真 童心社)という絵本でやろうとしたことを、これは物語でやろうとしている。戦争や原爆を今の子どもに伝えるのに教訓や説教や脅しじゃなく、とてもいいバランスでこの物語はできている。それに、先生たちがちゃんと大人に描かれているのにも好感を持ちました。赤田さんの後書きに「『ひろしま』には絶望や悲しみだけでなく、人を惹きつける力のようなものがあると、私はこのとき思いました。学校の日常生活ではけっして掬いあげることのできないものが、『ひろしま』にはあるのだなあと思ったのです」(p121)とありますが、私はこの後書きが物語を裏から支えていると思いました。

ルパン:これは、傑作だと思いました。そして、どのお話にもそれぞれにドキッとする言葉がありました。たとえば石のところでは、「あの熱で人も焼かれたのよ」とか、ワンピースのところでは「レースがやけなくてよかった」とか、靴のところでは、「口うるさい妹へのおみやげゲット」とか。中学生の心情が自然体で書かれていると思いました。こういうテーマの作品だと、まじめすぎてひいちゃうことがあるんですけど、これはそれぞれ物語として独立しているので、子どもたちにも自然に手渡せると思います。原爆を目撃していない作家が、新しい形で語り部になっていくんじゃないかと思いました。あと、赤田先生のあとがきは、私はけっこう好きです。「花買って来いよ」と言った男子中学生のエピソードとか、ぐっときました。

まめじか:今の子どもたちの内面と過去の戦争を、原爆の遺品をとおしてつなげる手法がすばらしいと思いました。資料館に入った俊介が「腹を立てながらも、前に進むしかなかった。ここを出るためには、ともかく前へ」と思いながら歩くのを、つらい環境の家を出たい気持ちと重ね、お弁当がなくてカレーパンを食べているのをからかわれたときの思いを「怒りはカレーの味がした」と表すなど、描写が見事です。亡くなった人たちがたしかに存在していたのを感じ、戦争や原爆を自分の問題としてとらえられるようになる過程がよく表されています。黒田先生が「考えていることがみんな同じなんて、ありえない。正解なんて、どこにもない」と思うのも、ひとりひとり受け止め方やその深度が違うことを認めているようで好感がもてました。高校のとき、平和記念公園の慰霊碑の前ではしゃいで写真を撮るクラスメイトを見て、「たくさんの人が亡くなった場所なのに」と言って怒っていた友人がいて、そのときはその気持ちが十分に理解できなかったのをふと思い出しました。中澤さんと赤田さんとの出会いがあって、このような作品が生まれたのはわかるのですが、最後の「私のひろしま修学旅行」は作品の中で浮いているというか・・・。内容はいいのですけど、新聞記事か副読本を読んでいるみたいで。知らない先生が突然出てきた印象です。赤田さんについては、中澤さんがあとがきの中で書けばよかったのではないかと。

カピバラ:原爆資料館に展示された遺品を見たことで、今の中学生が自分の抱えている問題とつなげて考えるという構造がうまいと思いました。過去の出来事と切り離すのではなくて、当時の同世代の子どもが何を感じたかを今につなげることで、何かが生まれることを期待する、著者の希望が伝わってきます。まさに、追体験ですよね。1話ずつがとても短いけれど、会話をうまく使って印象に残る光景を切り取っていく書き方は印象的なのですが、短いだけにちょっと乱暴な描き方だと思うところもありました。短編連作は読みやすいし、今の子どもたちには、どの話かに共感できる部分があるだろうと思います。

エーデルワイス:『ワタシゴト』のタイトルが新鮮で、ささめやゆきのイラスト、表紙、背表紙、タイトル文字がおしゃれでセンスがよく、好きです。この本の出版社の汐文社は『はだしのゲン』(中沢啓治/著)のように、平和を考える本を出しているのですね。5話のうち、「いし」「ごめんなさい」は共感できました。他の話は、子どもの抱える問題と戦争を考えることを無理やり押しこめた感じが否めないように私には思えました。子どもの本は目に見えるところで解決策を提示してほしいと思っています。

ハル:この本も、タイトルどおり、戦争を自分のこととしてとらえさせてくれる作品です。もう少し幼い子に向けた本なのかなと思って読みはじめたら、1話目の出だしからなかなか衝撃的で、ぐっと心をつかまれました。5つある物語は、中には私の中で少し消化不良というか、共感までいかないものもありましたが、「いし」がいちばん好きでした。平和記念資料館をつくった長岡省吾さんのことを彷彿とさせるようなお話で(長岡省吾さんについて書かれたノンフィクション『ヒロシマをのこす』佐藤真澄著/汐文社 もおすすめです)。最後の「わかっています」の重みが、ずんと心に響きます。人それぞれの感じ方、表現の仕方があってよくて、この子はこの子なりに「わかっている」んですよね。小説はここで終わっていますが、きっと、その場にいた子どもたちも本当に絶句するほど、重みをもって響いた一言だったんだと信じたいです。1話、1話、とても余韻の残る作品だったので、巻末の「後付」があれこれあって、ちょっと、饒舌すぎたかなぁ、もうちょっと余韻を味わいたかったなぁという感じもしました。

しじみ71個分:私はたくさん読んだ中から選ぶということができないので、選書担当として、タイトルから当たりをつけて読むしかないのですが、この本は薄いし、『ワタシゴト』というタイトルは、人の痛みを自分事として考えることだろうから、分かりやすすぎるかなと思ったものの、ささめやゆきさんの表紙絵で手に取って読んでみました。読んで「すっごい本だな!!」と思いました。全て、修学旅行で中学生たちが広島の平和記念資料館で亡くなった人たちの遺品を見て、その人たちに思いを寄せ、痛みを感じ、自分にフィードバックして考えるという内容になっている短編集です。短編はシーンをどれだけ鮮やかに切り取るかが命だと思うのですが、すべてが鮮やかでした。すっごくおもしろいなと思ったのは、児童文学の役割そのものを書いているということです。子どもの体験に言葉を与え、誰かが書いた言葉を通して子どもたちが追体験するのが児童文学の一つの機能だと思うのですが、子どもたちが広島の遺品で故人の思いや痛みを追体験したのを、さらに追体験するという構造で書いているところに新鮮なおもしろさを感じました。遺品のバックグラウンドを想像し、自分の中にある言葉にできないもやもやとしたものと照らし合わせて考えるという営みといいましょうか。また、「いし」の章はとくにおもしろかったです。恐らくアスペルガー等の障がいのために、人とのコミュニケーションが苦手な子が、瓦を焼く実験を行い、瓦が溶けるのを見て、どれくらいの高温で人々が焼かれたのかを理解するというアプローチには、斬新さを感じました。追体験させ、語り継ぐという児童文学の役割を正面から考え、書かれた作品だと思いました。でも、何人かがおっしゃったように、たしかに巻末の先生の文章はそんなに長くなくてもよかったかなという気はしました。

マリンゴ: 人よりも「モノ」を切り口に、戦争に対して自分なりの共感、共鳴をしていくところが、非常に新鮮でした。とはいえ、第1話は人物造形がつかみづらくて、読むのに苦戦しました。この主人公の男の子の友だちが出てこないので、それなりに友だちがいるタイプの子なのか、孤高の子なのか、あるいは男子にも疎んじられているような子なのか、そのあたりがよくわかりませんでした。第2話でようやく、この物語の魅力に気づいた次第です。なお、1、2、3話は、自分の持ち物の記憶と、現地で見たものの記憶を照らし合わせるという同じ構造になっているので、違うアプローチの作品を挟みこんでもいいのに、と思いました。タイトルの『ワタシゴト』はとてもいいと思います。戦争を、現代の自分のことに結び付けて考えられるお話はなかなかないのですが、それが伝わるタイトルだと思いました。

さららん:私も『さがしています』を思い出しました。原爆と修学旅行に行った子どもたちを結びつける物の印象が、とにかく鮮明でした。たとえば「くつ」の章で、雪人は優等生の印象を壊そうと、ハイカットのカラフルのスニーカーを履きます。それが黒づくめのおばあさんに「その靴はええね。千羽鶴の柄は、ここを歩くのにぴったりじゃ。やさしく歩くのに、ちょうどええ」と言われたり。思春期にある子どもたちの反抗心や悩みと、広島で見る物、触れる物がどの話でも意外な結びつきを見せるのがおもしろかったです。「ワンピース」の中の、えんじ色のレースの襟のエピソードは、それが声として聞こえてきたりします。物語のそれぞれに埋めこまれた場面の印象が強く残れば、その「塊」を頼りにストーリーを思い出せるんじゃないかと思うのです。五感を通して、子どもたちの記憶に残りやすい物語じゃないでしょうか。新しい取り組みの1冊って感じがします。

アンヌ:私はこの物語の現代と過去がうまくつながらなくて、みなさんがどう読んだのかを聞いて、なるほどなと思っているところです。最初の「弁当箱」で、凛子たちがお弁当の中身を再現した話とその味わいから、作った母親の気持ちにまで至るというところと、俊介が投げ捨てたお弁当に自分の嫌いなおかず以外の何かが入っていたのではないかと思うところには感じ入ったのですが、間の凛子の母親のエピソード等が多すぎて、物語の行方がすぐにわからなくなったのかも。「いし」はおもしろかったのですが、最後の一言にどれほど真実味があるのかと思ってしまったり、「弁当箱」の俊介が最後の赤田圭亮さんのH君のように思えたり、変な読み方をしてしまったようです。

ハリネズミ:さっきから何人かの方が「問題が解決しない」とおっしゃっていることについてです。第一話には、ふだんはお弁当を作ってくれないネグレクト気味のお母さんが出て来ます。14歳だと、客観的にどうなのかは別としてこのお母さんが主観的に唾棄すべきものとして巨大な存在になっている。それ以外考えられないという状態になっているかもしれない。そういう場合、一歩引いたところから状況が見られるようになると、気持ちの上では楽になることもある。たぶんひどいお母さんなんでしょうけど、そこはなかなか変わらない。でもちょっと引いて少し距離をおくと、自分の人生をもう少し広い視野でみられるようになってくる。そうしたら、気持ちが楽になるかもしれない。実体験を通して他者にふれた子どもたちは、日常は変わらなくても別の視点を獲得して生きやすくなっていくんじゃないかな。だとすると、ある意味ではこの作品も、視点を変えるとか視野を広げるという解決策を提示しているのかもしれません。

しじみ71個分:私は解決しないままでいいと思いました。解決したらきっとお話がもっと軽くなってしまっていたのではないかと思います。

(2021年04月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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ぼくたちがギュンターを殺そうとした日

『ぼくたちがギュンターを殺そうとした日』表紙
『ぼくたちがギュンターを殺そうとした日』
原題:WARUM WIR GÜNTER UMBRINGEN WOLLTEN by Hermann Schulz, 2013
ヘルマン・シュルツ/作 渡辺広佐/訳
徳間書店
2020.03

〈版元語録〉第二次世界大戦終戦直後、混乱期のドイツの農村。十代前半の少年たちは、ある日ふとしたことから、難民の子ギュンターをいじめてしまう。ギュンターはそのことをだれにも訴えないが、大人にばれるのをおそれた仲間のリーダーは、「あいつを殺そう」と言い出す。表立って反対することができない主人公フレディは、隣家の年上の少女に助けを求めるが…? 子どもたちのあいだの同調圧力といじめ、大人が果たすべき役割…現代にも通じる問題を、戦争の影の下に描き出す一冊。人間を深く見つめる作者が、危機的状況におちいった少年たちを温かく見つめ、ヨーロッパで感動の渦を巻き起こした、ドイツ発の話題作。10代~

アンヌ:主人公のフレディが農家のおじさんの家で暮らしていた時の様子が、丁寧に描かれていると思いました。たとえばp135でレオンハルトの母親と黙々とジャガイモの選別をして、レオンハルトが出てきても、箒で泥をはいて最後まで仕事を終わらせるという描写に、フレディには、もう農家の仕事が身についているんだなと思いました。それにしても、村中の大人がこの子たちがギュンターをいじめたと知っているようなのに、なんでレオンハルトだけは、殺せばバレないと思いこんでいるのか不思議です。難民であるこの一家には、村の様子が入ってこなかったからでしょうか。大人たちも戦争で人を殺し、ユダヤ人を追放した迫害者でもあったのに、自分の村では正しい大人として子供を厳しく罰しようとする。この矛盾に、戦後すぐのドイツという国の葛藤を感じられる物語だと思いました。ただ、それがうまく書けているかと言うと、奇妙などっちつかず感がありました。フレディが物語の終わりごろから妙に傍観者的になったり、作者が大人の話者として顔を出したりするせいかもしれません。

さららん:ギュンターへのいじめからまずいことになり、リーダーのレオンハルトの、「あいつを殺そう」という言葉にフレディは反対できません。力の強いものに弱いものが徐々に支配されていく恐ろしさは、ほかの児童書でも読んだことがありますが、この本の背景、戦後すぐのドイツに東プロイセンから難民が押し寄せた時代のことは知らず、その点だけでも自分にとって新しい1冊でした。親類も復員してきて、フレディのまわりにはナチスのSSだった青年たちがいます。その1人のヴィリーにフレディたちは救われ、グスタフにもフレディは変わらぬ好意を持ち続けることが最終頁(p149)でわかりますが、そこで複雑な思いにとらわれました。SSというだけで偏見の目で見られる時代が続いたのかと思う一方、少年の素朴な感情の中でSSの行為を許して、それですむのかという疑問です。ドイツはホロコーストだけではなく、こういうふうに同国人を受け入れ直してきたのか、という発見がありました。ギュンターはなにかの障がいがあるようですが、最後まで謎の少年で、欲を言えば、もう少し彼の内面を知りたかったです。

マリンゴ: ヒリヒリし過ぎる物語で、途中で何度、本を閉じて深呼吸したかわかりません。普段はそんなことしないんですけど、後ろのほうをめくって、ギュンター死なないよね?と確認してから読み進めました。子どもたちの非常に短絡的な、浅はかな考え方、計画、そういうものがリアルです。大人たちは既にじゅうぶん疑っていて殺したら即犯人はわかるのに、逃げ切れると思いこんでいる視野の狭さが表現されています。そして時代性。大人たちだって殺し合いをしてきたんだから、自分たちがひとり殺したっていいだろう、と子どもが思ってしまう・・・。大人は「戦争は別だ」と考えますが、その理屈が「正しい」わけでもないんですよね。これを読んで思い出した作品があります。まったくタイプが違う小説なのですが、去年末の「このミステリーがすごい!」で1位を取った辻真先さんの『たかが殺人じゃないか』(東京創元社)です。根底に流れる感情が似ていると思いました。これからお読みになる方のためにネタバレは避けますが、御年89歳の作家が書いた昭和24年の物語です。戦争の頃、たくさん人が殺し合った記憶が鮮明で、だからタイトルの『たかが殺人じゃないか』という考え方が生まれるわけなのでした。

しじみ71個分:自分が少年時代に実際にあったことを描いている、と作者の後書きにありますが、第二次世界大戦直後のドイツの雰囲気が大変に理解しやすく、その中で子どもたちの心理をヒリヒリと描きだしているのがすばらしいと思いました。東プロイセンからの難民や、お父さんを亡くした子などが、疲弊と貧困の中で労働させられ、大人から体罰を受けるなど困難を抱えるなかで、行き場のない怒りをいじめとしてぶつけてしまい、それがエスカレートしていく様子にはドキドキさせられました。ギュンターを寄ってたかっていじめたことは、周囲の大人たちにはみんなバレているにもかかわらず、子どもたちは近視眼的になって、ギュンターを殺すことでいじめの事件を隠蔽しようとします。それは家を追い出されてしまうかもしれないなどという不安からでしたが、こういった子どものときの卑怯な気持ちは自分の中にもあったと思い出され、それをえぐり出されるような気分でした。でも、作者は、いじめや同調圧力や、戦争と殺人の境界線など、複雑な難しい問題を大きなあたたかい目で見ていると感じます。大人が戦争で殺した殺人は殺人ではないのかという問いは、決して解決しません。SSにいた従兄のグスタフもいい家庭人であるにもかかわらず、ユダヤの人たちに残酷なことをしてしまったという事実を透明な視線で見ているようです。普通の人が殺戮を行えるという、その細い境界線をいかに考えるか・・・。今にも通じる重要な作品だと思いました。

ハル:原書は2013年発表ということで、最近の本というわけでは決してないのですが、とても新しいものを感じました。こういうふうに戦争を伝えていく必要があるんだな、というか、これからはこういう形で戦争を伝えていくようになるんだろうな、と思いました。戦争を過去のひどく恐ろしい出来事として認識させるのではなく、自分の心の中にもあるものとしてとらえさせ、自分のことに置き換えて想像させ、より身近な問題に落としこんでくれる作品です。ぜひ、主人公たちと同じくらいの年頃の子にも、その子たちを取り巻く親世代の人にもおすすめしたいです。でもひとつだけ・・・注釈は、なければないで不親切だし、あればあったで煩わしいし。特に最初のほうは、注釈で気が散ってなかなか集中できませんでした。巻末とか章末にあるのがいいような? でも、うーん、難しい! 注釈は悩ましい問題です。

エーデルワイス:ショッキングな題なので、覚悟して読みましたが、とてもおもしろかった。作者の実体験に基づいていることに興味を抱きました。宣教師の父親とは何があったのでしょうか? 戦争が背景にありますが、時代を超えた青少年の危うさを描いていると思います。異質なものを排除するいじめの問題、親から子どもへの暴力の連鎖。この本のおかげで同作者の、『川の上で』『ふたりきりの戦争』(どちらも徳間書店)も読んでみました。また同時代、第二次世界大戦末期のドイツと旧ソ連の国境が背景の『片手の郵便配達人』(グードルン・パウゼヴァング/著 高田ゆみ子/訳 みすず書房)、『神さまの貨物』(ジャン=クロード・グランベール/著 河野万里子/訳 ポプラ社)も読みました。

カピバラ:この著者の『川の上で』を前に読んだのですが、とてもおもしろくて力強い本で、今でも印象深く残っています。今回の本も重厚な作品でした。たくさん子どもたちが出てくるんですけど、どの子もやり場のない不安をかかえ、不安と隣り合わせに生きている。だから自分よりも弱い者が目障りで、いじめてしまう。それがどんどんエスカレートして、後戻りできないところまで行ってしまう怖さがよく描かれていました。大人たちも疲れ果てていて、子どもを虐待したり、理不尽に押さえつけたりしようとする。大人たちも戦争で多くの人を殺しているんだから、ギュンターを殺したぐらいで大騒ぎしないだろう、と少年たちが思ってしまうところは背筋が凍りました。でもそれが戦争の真実なのでしょう。しかしこれは戦争中の異常な空気の中でだけ起こることではなく、今の社会でも起きているので、それが怖いと思いました。私も、殺さないんだよね、殺さないんだよね、殺しちゃったらどうしようと常に緊張しながら読んでいきました。ちょっとホッとしたのは、ギュンターが馬のことに詳しいとわかって、フレディがちょっと見方を変えるところと、ルイーゼという元気な女の子の存在です。戦争の時代の事実をもとにした話として、貴重な本だと思うんだけど、今、日本の子どもたちにどんなふうにすすめたらいいのか、難しいところだと思いました。

まめじか:戦争といじめを重ね、組織的に行われる暴力を描いた作品で、とてもおもしろく読みました。子どもは戦争でひどいことをした大人に不信感を抱き、また家庭によっては体罰や脅しで子どもを押さえつけようとし、そんななかで暴力が連鎖していく。同調圧力から抜け出せない人間の弱さ、フレディが自分の目で見て判断しようとする過程がよくとらえられています。チェコやポーランドの旧ドイツ領だった地域で暮らしていた住人が戦後、土地を追われたことは、ドイツの他の児童文学や絵本でも見たことがありますね。

サークルK:迫害されていたのはユダヤ人だけではないことがわかるので、子どもたちが『アンネの日記』などを読んでナチスに迫害されたのはユダヤ人だけだ、というように思いこんでいるとしたら、ことはそんなに単純ではないのだと気づくことにもなり、新しい想像力の目をひらかれると思いました。ただ、タイトルがショッキングなので、こわいもの見たさに手に取った子どもがどんな衝撃を受けるのかは心配になりました。映画で言うと『スタンド・バイ・ミー』の世界を彷彿とさせるのですが、この物語はみんなが協力してひどいことをしそうになる、その過程で大人になっていくという物語だと思います。最後に「日本の読者のみなさんへ」の中で、作者は物語のフレディなのだと告白しています。日本の、と書いてあるので、原作では語られていないのかもしれませんが。一般的には、一人称の「私」語りであっても、それを作者そのものと重ねて読むことをよしとしないこともありますが、子どもの本の場合、このようなカミングアウトは作品そのものの評価にはあまり影響がないのかしら、ということも気になりました。

ハリネズミ:日本の子どもたちにも共通するテーマが描かれていると思いました。主人公のフレディは、みんなでギュンターをいじめた後気分が悪くなる、お姉さんに相談の手紙を書こうとするけれど実行できない、ギュンターが学校を休んでいるのを知って様子を見に出かけて行くと同じく様子を見に来ていたレオンハルトに遭遇するなど、心のもやもやを抱えて右往左往する過程がとてもリアルに描かれていると思います。いとこがたくさん出てくるので、あれ、いとこの名前が違うじゃないと、最初ちょっと混乱しました。いじめがばれないように殺人を考えるというのは極端な気がしますが、著者の実体験だと知って、戦争が影を落としているこの時代には本当にあったことなのだと怖くなりました。そういう意味では後書きがものを言っていると思います。

西山:ナチスの時代を描いた作品はいろいろと読んできましたが、ドイツの戦後の時期を描いているのを新鮮に受けとめました。あれだけのことを起こし、モラルが崩壊して、それがその後の人生や子どもに影響を及ぼしていないわけがないのに、ハッとさせられたという感じです。隠しているつもりの行動がおとなたちにバレバレとか、子どもらしい迂闊さ?は普遍的で、でもやっていることの桁が違って、怖さひとしおという感じでした。障がい児をいじめて、それを隠すために嘘をつき口裏合わせをする「歯型」を書いた丘修三さんに、読んでみるようすすめたいと思いました。津久井やまゆり園の事件も思い出しました。

ネズミ:物語に入りこむまでに、ちょっと時間がかかりましたが、事件が起こってからは一気に読みました。当時の農村部の暮らしぶりの描写に、『アコーディオン弾きの息子』(ベルナルド・アチャガ/著 金子奈美/訳 新潮社)を思いだしました。ちょうど時代も同じくらいで、人々が手仕事で暮らしている様子が似ています。生活の手触りが伝わってきて。『アコーディオン弾きの息子』では、フランコ側の思想を持つ父親が内戦中に人殺しに関わっているのではということで、主人公は苦しむのですが、大人のやっていることが子どもに反映するというのも同じです。それから、この大人たちの子どもへの接し方は考えさせられました。何が起きたか勘づいているのに口を出さないんですよね。なかなかこういうことはできそうにないので。内容とは関係ありませんが、もう少し字組みがゆるいと読みやすいかなと思いました。

ハリネズミ:ルドルフおじさんが脱走兵だということを、村の人たちは知っているわけですが、密告したりしないんですね。日本だと逃亡兵だとか義務を遂行しない者に対して厳しく糾弾たり密告したりということもあったと聞いていますが、ここにはもっと大らかな人間関係が存在しています。ある意味、村人のその大らかな目は、ナチスに荷担したりSSだった者たちを無条件に許していることにもなるわけですけど。そういう大らかで普通の「いい人」たちが、戦争となると否応なく殺人あるいは殺戮へとつながる行為をしてしまう。そのことをこの作品は浮き彫りにしていると思います。

アンヌ:村の人たちは、だれがナチスの親衛隊だったとか、あの人はダッハウにいたとかも知っているんですよね。でも、駐留軍に密告されたりしないで村で暮らしていける。

しじみ71個分:この本を読んで、先日、JBBYのノンフィクションの学習会で取り上げた『命のうた~ぼくは路上で生きた 十歳の戦争孤児~』(竹内早希子/著 石井勉/絵 童心社)という本を思い出しました。その本の中にも終戦直後の困難を抱える子どもたちの姿が描かれており、それと共通する点を感じました。戦争直後の姿というのは、あまり読んだ経験がなかったので、重く受け止めました。

さららん: p22に、男の子が着るのに恥ずかしいものとして、「股割れズボン」がでてきますが、どういうものか知りませんでした。できれば、注が欲しかったです。

ハリネズミ:私は中国の保育園で子どもたちが股割れズボンをはいているのを見たことがあります。寒い地方や季節だとズボンを脱がなくてもトイレができるので便利なのかな。でもヨーロッパにもあったのは知りませんでした。まあ文字を見ればどういうものかは想像がつきますが。

ルパン:ハラハラしながら読みました。タイトルが「殺そうとした」だから、きっと殺さないんだろう、とわかっていても、やっぱりドキドキしました。どう解決するのか、ギリギリまで引っ張ってくれましたが、私としては大人が出てきて収めてしまうのはちょっと拍子抜けでした。ここで女の子が銃をぶっぱなしてくれたらもっとよかった。せっかくフレディが一生懸命考えたことだから。とてもおもしろくて一気読みだったのですが、登場人物が多すぎてちょっと混乱しました。

西山:子どもはそういうことをするという面がありますよね。昔、元教員から聞いた話です。川で遊んでいて、一人がおぼれてしまった。でも、一緒にいた子どもたちは、禁止されている場所で遊んでいたことを叱られると思って、おぼれた子をそのままにしてしまったというのです。とんでもないけれど、でも、子どもの一面ではある。

しじみ71個分:いじめの果てに殺してしまうのは今の世の中にもありますね。生死の境界、やっていいことと悪いことに関する認識がとても薄く、感情が育っていなくて、結果として殺してしまうというようなことが今でも起こっているのを思うと、本当に難しい問題だと思います。

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鏡文字(メール参加):薄い本だったのですぐ読めるかと思ったのですが、予想以上に時間がかかりました。固有名詞も多く、特に前半は読みづらかったです。イジメの発覚を怖れて殺してしまおうという発想に驚かされますが、事実に基づいた物語とのこと。第二次世界大戦終結直後という、多くの大人たちが人を殺すことに手を染めた時代背景ゆえのことなのかもしれません。父の不在や難民の存在が当たり前という社会状況にあって、だれもが傷を負っており、良きロールモデルもなかなか見出せない子どもたちの姿が痛ましく感じました。終盤ははらはらしながら一気に読めました。おそらく自身も心の闇を抱えつつ、軌道修正を提示するヴィリーが印象に残ります。少年たちのその後を知りたくなりました。

(2021年04月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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王の祭り

『王の祭り』表紙
『王の祭り』
小川英子/著
ゴブリン書房
2020.04

〈版元語録〉妖精をつかまえるために森にでかけたあの夜が、すべてのはじまりだった──。女王陛下の革手袋をつくるため、父親といっしょにケニルワース城へ向かった少年ウィル。そこで女王暗殺の計画に巻きこまれたウィルは、妖精の力を借りて女王を助けようとするが、思いがけず、時空の歪みに投げだされ……。16世紀のイングランドと日本を舞台に、〈時〉と〈処〉を超えて繰りひろげられる、壮大な歴史ファンタジー。

まめじか:時代の波の中で様々な制約を受けている人々が、それでもその中で自分の人生を生きるということが描かれています。主人公のウィルは自信のない子です。父親の仕事を継ぐのが当然だと周囲からは思われているけれど、その覚悟はできてないし、じゃあ何をしたいかというと、自分でもわからない。でもウィルは詩と物語が好きな子なんですよね。だから型通りの言葉を並べただけの暗唱で失敗してしまったのかな。この本に描かれているのは、権力争いの中で庶民が翻弄される、混沌とした闇の時代です。目の前で雑兵が母親の腕を切り落とすし、育てられない子どもが売られていく。そうした記憶が内にたまっていっても、こらえて吐き出さないお国に、狐は「秘めたる怒りを怒れ。心の奥底をわめけ」と言う。お国は舞い、人は芝居をし、あるいは見世物を観て、胸の内に煮えたぎる思いを吐き出すのでしょう。舞台は現実の対極にある夢の世界であり、現実を映したものでもある。「この世は舞台」というシェイクスピアの言葉にもつながりますね。実在の人物では、信長が外に開かれた精神をもち、新しい風を吹かせようとする人として描かれているのがおもしろかったです。複雑な筋の物語なので、中高生はどこまでついていけるのでしょうか。女王を愛しているがゆえに、ほかの人と結ばれるくらいなら殺してしまおうとするレスターの想いの強さ、ハムネットのぎらぎらした生命力というか、どんな状況に置かれても生きのびようとするしぶとさは、もう少し筆を足さないとピンとこないような。これだけたくさんの登場人物を、このページ数の中で掘り下げて描くのは難しいのでしょうが。女王がなぜローマ教会からにらまれているのか、その背景にある国教会とローマ教会の対立は中高生の読者にわかるでしょうか。

ハル:ローマ教会との関係はp15に説明がありましたよね。「女王の父・ヘンリー八世は彼女の母アン・ブーリンと結婚するために、妻のキャサリン王妃と離婚しようとしたが、離婚を禁じているローマ教会はそれを認めなかった。そこでヘンリー八世はローマ教会を切りすてた」。それから「ヘンリー八世は新しくイングランド国教会を設立し、国内のカトリックの教会や修道院を廃し、その財産を取りあげた」とあります。

ハリネズミ:おもしろく読んだのですが、信長像はこれでいいのかな、と思ってしまいました。信長は立派な君主のように描かれていて、エリザベスは信長に出会って王とは何かを知るということになっているんですが、実際の信長はとても残虐で評判が悪いという側面もあるようなので、ギャップがありました。ウィルの不思議なおばあさんがいろいろと話をしてくれて、妖精と遊びなさい、という部分は作者の想像だと思いますが、おもしろかったです。革手袋とエリザベス女王を結びつけるくだりもおもしろかった。最初の方はぼんやりでぼんくらなウィルが後半になると別人のようにしっかりするのは、どうなんでしょう? 登場人物が多すぎるので、もう少し整理してもいいのかな、とも思いました。トリックスター的な存在だけでも、パック、死の馬車の御者、ハムネットと複数出てきます。女王の暗殺をねらう勢力は2派あるんでしょうか。それとも司教とレスターは手を結んでいるのでしょうか? 急いで読んだせいか、そのあたりが頭の中であいまいになっています。リアリティという点では、一座の主のお豊がスペイン語が話せるのはありか?と思ってしまいました。それから、ふつうこういう物語では異世界に行っている間は時間がたたなかったりしますが、日本は異世界ではなく現実世界なので、ちょっとひっかかりました。

アンヌ:また信長かと読み始めましたが、イギリスのウィルの話になってからは、とてもおもしろくなりました。おばあさんのおまじないの方法とかパックの帽子とかの仕組みもうまく仕込まれているし、手袋の古びをつけるためにウィルを城に連れて行くとか、おもしろく話が進んで行きます。エリザベートが出て来てマンガの『ベルサイユのばら』(池田理代子/著 集英社 )のような宮廷の恋かとおもしろくなったところで、日本にワープしてしまうのは残念でした。お国については、怒りを踊りにするところとかがうまくイメージできなくて、出雲阿国へのつながりが読み解けませんでした。ただ、お国たちや河原にいる人たちがみんなで今様を謡い踊るところに『梁塵秘抄』の歌も出て来て、いつかこれを読んだ人が学校で古典を習うときに、「あれ、この歌、いつか読んだ物語の中に出てきたな」と思えたらすてきだと思いました。『平家物語』や後白河法皇との関連で知ってしまうと、白拍子が権力者のために舞い踊る歌のように思いがちですが、もともとはこんな風に大衆の中から生まれてきた歌だという事が感じられる場面です。コンフェイト(金平糖)や抹茶がこの時代のものとして出てきますが、そんな風に物語の中で無意識に味わった食べ物や古典文学に、大人になってから再び出会い、気付けたらすてきだと思います。

はこべ:アイデアがおもしろいですね。特に前半は、ささっと読んでしまいました・・・が、思いだしてみると、訳がわからない箇所が出てきて(ラベンダーの花模様の小箱は、いったいどうなったのかなとか)、まめじかさんにメールで訊いたりしました。総じて、イングランドが舞台の部分は、すらすらと物語が進んでいるし、よく調べて書いているなと思いましたが、日本に舞台を移してからの後半は、盛りだくさんの上に駆け足で書いているという感があって、不満が残りました。どうしたって日本史のほうが馴染みがあるので、しょうがないかもしれないけれど。それと、登場人物がとても多いので、最初に登場人物の紹介を書いたほうが良かったのでは? さてさて、読みおわってから、作者は何が言いたかったのかなと考えてしまいました。おもしろかったら、それでいいのよ・・・と、言われそうですけどね。わたしはアメリカの少年がタイムスリップしてシェイクスピアの劇団に入るスーザン・クーパーの『影の王』(井辻朱実/訳 偕成社)が大好きで、あの作品にはファンタジーのおもしろさだけでなく、ずっしりと心に響くものがあったと記憶しているけれど・・・。

コアラ:おもしろく読みました。歴史上の実在する人物を書いているのに、窮屈さがなくて、自由に想像をはばたかせている感じがとてもよかったと思います。エリザベス女王と織田信長を対面させるというのも、一見無理がありそうですが、なんとなく設定を受け入れて読み進めることができました。作者がうまいのだと思います。お国たちの小屋にエリザベス女王がかくまわれるというのは、さすがに無理があるとは思ったのですが、それでも読み進めることができたのは、それまで、それぞれの人物や生活がしっかり描かれていて、物語の中に入り込めていたからだと思います。信長がカッコよく描かれていますが、作者は信長が好きなんじゃないでしょうか。好きな物事を書いている、という感じがあって、好感を持って読みました。シェイクスピアにまつわる部分も楽しめたし、歴史上のことを知っていると、より楽しめると思いますが、知らなくても、不思議な体験をするファンタジーとして、おもしろく読めると思います。織田信長さえ知っていれば十分楽しめる。小学校高学年くらいからおすすめです。

エーデルワイス:私も楽しく読みました。よくも、よくもこんなに盛りだくさんの内容を、と感心しました。NHKの大河ドラマ『麒麟がくる』を観ていたので、明智光秀も出てくるこの本はタイムリーでした。映画「エリザベス」やエリザベスの母アン・ブーリンの映画「1000日のアン」も思い出しました。細かいことを言えばうーんと思うこともありますが、時空を越えて日本の歴史とイギリスの歴史をドッキングさせるなんて、こういう発想はおもしろいと思います。

マリンゴ: 評価が難しい作品だと思いました。よく評価すれば、幻想的で先が読めなくて、生きる力強さと儚さが同時に感じられる物語であると言えます。ウィルが後のシェイクスピア、というのもおもしろいです。劇中劇も、あ、ロミオとジュリエットっぽい、と仕掛けがわかるのも楽しいと思いました。ただ、悪く評価すれば、バランスが悪いようにも思います。イングランドのパートはおもしろいのだけれど、織田信長の時代に移ってから読むスピードが落ちました。7年のタイムラグがあるのは、お国を登場させるためだと思いますが、そのせいで、信長がすぐに暗殺されます。王同士がわかり合うには時間が短すぎる気がしました。ウィルとお国、信長と女王の両方の巡り会いを1冊に入れて、盛りだくさんではありますが、多少無理が出ているように思いました。あと、装丁からは「洋」の香りがあまり漂ってこないので、少しもったいないかなと感じました。

さららん:とても読みやすい文章で、おもしろくて一気に読みました。エリザベス朝の詩や、日本の曲舞、古い言い回しもいろいろ出てきて、言葉の重層感を楽しみました。設定もダイナミックで、かっこいいキャラクターも出てきます。ただ伏線が複雑にからまりあい、せっかくの魅力的な登場人物(例えばエリザベス女王の女性の護衛など)が使いきれていないように思われ、盛り込みすぎの印象を受けました。エリザベス女王は自ら決断して行動する存在としてではなく、悩める人として登場します。日本に来たあと信長に強烈な印象を受け、王たるものはどうあるべきかを考えはじめるのですが、私には人物像として物足りませんでした。女王暗殺の陰謀をイギリスで企んだイエズス会のエセルレッドが、日本で女王に再会するなど、手の込んだ設定もあります。ただ、エセルレッドは物語の本筋から離れたあと、「弾圧される日本の信者とともにあれ」と禁教後も逃げつづけたといいます(p311)。浅薄な敵役のイメージだったので、そこまで書く必要があったのか、わかりませんでした。

すあま:時間の流れについては、p5が「1575年日本」、p18が「1575年イングランド」となっていて、ここは同じ時。イングランドから日本に来たときに、日本の方の時が進んでいたので、お国は年をとっていたのですが、ウィルは11歳のまま。イングランドに帰るとまた1575年だったということで、ウィルは行って帰っても年はとらなかった、ということだと思います。この著者は2010年に『けむり馬に乗って〜少年シェイクスピアの冒険』(叢文社)という本を出していて、あらすじを見るとほぼ同じだったので読み比べようと思ったのですが、この読書会には間に合いませんでした。物語については、やはりちょっと登場人物が多すぎて、それぞれの人物についての物語や描写が中途半端になっていると思いました。登場人物たちがこの後どうなるのか、続きがあってもよいような話なので、これだけでは物足りない感じがします。お国が出雲の阿国でウィルがシェイクスピア、というのは、大人はおもしろいけれど、子どもにはわからないのでは。

サークルK:すごくおもしろかったのですが、p45あたりになってようやくウィルとはウィリアム・シェイクスピアのことだったのだ、とわかりました。そこまで読み進むまでは信長の話に、エリザベス女王がどのように絡んでくるのかつかめずに、気の弱いウィルの存在をつかみかねました。たしかに信長とエリザベス女王は同時代の人なので、目の付け所はおもしろく、歴史を習い始めてそれが好きな子どもたちにはぐいぐい引っ張られる展開だと思いますが、あまりに勢いに任せて進んでいくので、読後はそのスペクタクルだけが残ってしまうのではないかと気になりました。登場人物も日英それぞれ歴史上重要な人物なので、その人たちが架空の世界でこれだけ動いてしまうと、一通りの日本史、世界史を知っている大人でさえも、頭を整理するのが大変かもしれません。ですので、表紙にもなっている「死神の馬車で女王一行が信長の城に突っ込んでいく場面」以降は史実の整合性よりもタイムスリップとかエリザベス女王はちゃんとイギリスに帰国できるのか、というところに集中して読むようになりました。革手袋を作る職人階級のウィルの祖母が、上流階級風の口調で語っているところも気になりました。けれど、エリザベス女王が、王としての風格十分で国を引っ張る女性としての描写が多かったので、読者の女の子たちへのエールになることも感じられました。

西山:前の『けむり馬に乗って』も読んでいます。かなり手を入れたとは聞いていますが、構成や登場人物は変わっていないと思います。何度読んでも、その都度読む快感を感じる作品です。いちばんに魅力を感じるのはパックですね。人間とまったく違う理屈で生きている存在が、愉快です。場面場面に演劇的なおもしろさがある気がしています。例えば、p32最終行の、母親がウィルを抱きしめて、口に干しアンズを押し込む場面など、どきりとして、映画のワンシーンのように思い浮かびます。お金をつぎこんで作った実写映画が見たいとかなり本気で思います。建物、装束、人物などなど、極上の歴史エンターテインメント映画になると思うんですよね。手袋を届けに訪れたケニルワース城でウィルたちの部屋が調えられていく様子とか、見たいシーンがたくさんあります。教科書に名前が出てくるけっこうな有名人が、続々と登場するオールスターキャスト的おもしろさもあります。それも、世界史は世界史、日本史は日本史で習うことが、クロスするのが中学生ぐらいの読者にとってもエキサイティングだと思います。絢爛豪華な名前が出てくるだけじゃなくて、ウィルの人物造形としては、父親の抑圧で自己肯定感がもてないことなど、時空を超えた普遍性があります。その点でも、子ども読者に伝わる作品だと思っています。日本に行ってからのウィルがちょっとしっかりしすぎなのは、興ざめかもしれません。最初のときは、細かな年表があったけれど、なくなったのがよかったのかどうか。表紙は断然よくなっていると思います。サブタイトルの「少年シェイクスピア」がなくなってしまったので、『王の祭り』で初めて読む人が、ウィル=シェイクスピアと気づくのに時間がかかってしまうのは、マイナスだったかもしれません。シェイクスピアと最初から知っていて読むと、あの作品の元ネタはこれ?みたいなマニアックな楽しみも出てきますので。

木の葉:改稿前の作品『けむり馬に乗って』と比べると、『王の祭り』は30ページ分ぐらい増えています。物語の大筋は変わってませんが、かなりの加筆修正を施しているようです。私はどちらも刊行直後に読んでいます。今回、読み直す時間がなかったのですが、読みやすくなったと思った記憶があります。一度出した本を別の形で出版するというのは、よほど愛着があったのでしょうね。為政者である信長とエリザベス1世、そして文化を担う者である出雲阿国とシェイクスピアを同時代人として物語に登場させるという着想を得た時、作者は夢中になったのかも、などと想像してしまいます。盛りだくさんのエピソードで、印象に残っているのは、手袋をめぐるくだりです。とはいえ、やはり読者を選ぶかな、という気もしました。歴史的なことにある程度の下地がないと、世界に入りづらいかも。信長はファンも多くラジカルな人ではあったようですが、どうしても叡山焼き討ちなどが頭に浮かんでしまいますし、為政者としての魅力を私はあまり感じていません。もともと権力者の話にあまり関心がもてないこともあり、信長とエリザベスの邂逅? それが? みたいに思ってしまう自分もいて、よく作り込まれてはいるけれど物語世界に心惹かれる、というわけではないというのが、正直なところです。

ハル:私はとってもおもしろかったです。遠い昔に生きていた人たちの物語を想像することで歴史が立体的に見えてきますし、悠久の時の流れのロマンを感じます。ロマンといえば、信長って、やっぱり作家にとっては、こうもロマンを掻き立てられる人物なんだなあと思ったり。でも、皆さんがおっしゃるような信長の残虐性については、時代性も加味しないといけないとは思います。登場人物としては「お国」がちょっと弱いかなぁと思いました。ときどきズバッと庶民代表みたいなセリフを言ったりもしますが、なんでこの子がこういうことを言うんだろうと、共感できるほどには人物に深みを感じませんでした。そのほか、物語上気になる点はいくつかありましたが、全体的にはおもしろかったです。ただ、この本を、いったい何部、誰に売ろうか、と我がこととして考えると頭が痛いというか・・・。YA世代の読者にどうしたら届くのかなぁって・・・。余計なお世話ですけど。

ルパン:この本に関しては最初に発言してしまいたかったんですけど・・・でも、みなさんのご意見を聞いてからでもやっぱり感想は変わらないです。まったくおもしろいと思いませんでした。「みんなで読む本」でなかったら40ページくらいでやめてたな。次々いろんな人を出してくるけど出しっぱなしだし、実在の人物も架空の人物もごちゃまぜで、何しに出てきたんだかわかんないのばっかりだし。エリザベス女王と信長を会わせてどうすんだ、っていう感じで。いろんな通訳が都合よく出てくるのも無理があるし。好きな子のために異世界にとどまることもないし、イギリスへの帰り方もよくわからないし。しかも主人公はシェイクスピアでしたとか、あとがきで、劇中劇は実は『ロミオとジュリエット』だったんですよ、とか、なんかもう作者がひとりで遊んでるのにつきあわされた、っていう感じで腹立っちゃって。しかたなく最後まで読みながら、「あ、そうか、この作品にはきっと続きがあるんだな?! 第2巻で、この三つ子とか〈ばばちゃん〉とかが出てきて活躍するわけね」って思ったんだけど、これで終わってるし。みなさん「おもしろかった」とおっしゃっているので、なんか水族館の回遊水槽のなかで1匹だけ反対向きに泳いでるイワシみたいで申し訳ないですが、はっきり言ってつまんなかったです。ゴメンナサイ。

ネズミ:非常に意欲的な作品だと思いました。私はファンタジーが得意ではなく、途中で頭がこんがらかりそうになりましたが。イギリスの場面と日本の場面とで、イギリスの場面のほうはウィルの気持ちにそって読んでいけるのですが、日本は、お国がそれほど前面に出てこなくて、群像劇のような感じがしました。それだからか、場面によってテンポに乗りづらく、読みにくく感じるところもありました。1箇所だけ気になったのは、p11の「青い目の伴天連」という言葉。伴天連はポルトガル人かスペイン人かではないかと思うので、だとすると、目の色は茶色や黒だったのではないかと。裏をとっていないので、間違っていたらごめんなさい。

花散里:とてもおもしろく読みました。先程、YA世代はどう読むかと言われていましたが、小学校上級くらいで読めるように書かれていると思います。ウィルと妖精パックが物語の中心であり、ファンタジーとして読んだときのおもしろさが非常にあり、日本児童文学の中でもとても良く書かれている作品だと思いました。物語はシェイクスピアがウィルと呼ばれていた少年時代にパックと出会い、エリザベス女王の暗殺事件に巻き込まれ、女王を助けよう馬車に乗り込んで、時空を超えて降り立った所が日本の都であり、少女の頃の出雲のお国と出会うというストーリーは壮大な歴史ファンタジーだと思います。エリザベス女王と信長、イギリスと日本の戦国時代を結ぶ物語は、ペスト菌や手袋の挿話などを盛り込み、庶民と権力者の生活を対比させて世相を描き、飽きさせない趣向が随所に感じられるなど、題材が独創的であると思います。参考文献が多く挙げられ、物語の時代背景について充分に調べてうえで丁寧に物語が描かれたことが伺われます。日本の児童文学としては稀にみるスケールの大きなファンタジーとして高く評価できると思いました。子どもたちに向けて書かれた「あとがき」からも、子どもたちがそこから歴史や文学に関心を広げていくように書かれていると思いました。佐竹美保さんの挿絵で新しく刊行されたことにはとても意味があると感じました。

カピバラ:おもしろいことを考えたよ~という本だなと思いました。いろいろとつっこみどころはあるんですけど、信長も、出雲のお国も、エリザベス1世も、シェイクスピアも、真偽のはっきりしない逸話が多い人たちなので、どんなふうに料理しようとも自由だ、というところがあるのだと思います。そしてこの4人が同時代に生きた人物だというところに目をつけたのがおもしろいと思います。『江戸でピアノを〜バロックの家康からロマン派の慶喜まで』(岳本恭治/著 未知谷)というおもしろい本があって、私は時々開いてみるんですが、上の段に徳川15代将軍が順番に紹介されていて、下の段には同じ時代のヨーロッパの音楽家のことが書かれているんです。綱吉とバッハ、家重とモーツアルトといった具合にね。日本とヨーロッパで同じ時代に生きていた人たちということで、『王の祭り』もこれと同じ発想ですよね。この物語の時代にはグローバル化なんて概念は当然ないわけですが、今の子どもたちは今この地球上で世界にどんなことが起こっているかを知って、地球はひとつという意識をもっていかなければならないので、この本のような視点をもつことは大切だと思います。実在の人物が登場する物語ということで、歴史に興味をもつきっかけになるといいなと思います。

さららん:最後にレスター伯爵が、女王に箱に入った手紙をさしだします。前にレスターからの箱を開いて森に入っていく場面があったけれど、これは別の手紙なんですね?

カピバラ:細かいことを気にしないで楽しめばいい本なんじゃないかな。

(2021年03月のオンラインによる「子どもの本で言いたい放題」より)

 

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彼方の光

『彼方の光』表紙
『彼方の光』
原題:TROUBLE DON'T LAST by Shelly Pearsall, 2002
シェリー・ピアソル/作 斎藤倫子/訳
偕成社
2020.12

〈版元語録〉実話をもとに描かれる、一気読みの逃亡劇。黒人奴隷の少年サミュエルは、年老いたハリソンから、カナダへの逃亡を告げられる。親代わりのハリソンを一人で行かせるわけにはいかず、サミュエルはハリソンとともに北をめざす。自由になるための、終わりなき旅がはじまる。自由を求めた二人の息をもつかせぬ物語。

木の葉:読み応えがありました。2人の逃亡を助けてくれるのは善人ばかりではないし、現代の考え方だと肯定できない人もいることにリアリティを感じました。黒人差別を扱った読み物では、主体的で向上心のある人物像が描かれることも多いですが、この本の主人公はそうではなく、境遇ゆえに、とくに最初の頃は無知で無力。いつまでも奴隷主をだんな様と言い続けるのが切なかったです。彼らを助けるさまざまな人の中では、川の男が心に残りました。とても苛烈ですが魅力的です。このところ日本でも多く翻訳されている黒人の苦難の物語を、アメリカの白人の子どもたちはどんな風に読むのか興味があります。というのは、日本の読者にとって、黒人差別の問題はホロコースト同様、ある意味では良心の呵責なく読むことができるからです。日本人がもっと取り組まねばならない日本の問題がある、ということでもあるのですが。それから、逃亡先としてのカナダという国について、もっと知りたくなりました。

ハル:それがもっとも悲しい部分なのかもしれませんが、主人公の少年が逃亡すること自体に消極的だったためか、劣悪な環境に私の気持ちが引っ張られすぎたからか、期待したほどハラハラドキドキはできませんでした。小説としてのおもしろさは、私にとっては満点じゃなかったです。木の葉さんもおっしゃっていましたが、白人の子や、いまの子たちが、どう読むのかなというのは、私も気になりました。

ルパン:私はとてもおもしろかったです。はじめ、サミュエルが、白人の所有者から逃げ出す意味が全然わかっていないところにイライラして、「ちゃんと言うこときいて!」とか「つべこべ言わずにハリソンについて行け」とか「なんでこの子を連れてくんだ!?」とか思いながら読んでいたんですけど、最後の最後で機転をきかせて、一緒にいたおとなたちも助かっちゃうところでは、「よーし!よくやった!」と、思わずガッツポーズでした。あと、せつなかったのは、白人のドレスを何枚も盗んで重ね着して逃げていく黒人女性が、「川の男」に、それを脱いで置いて行けと言われるのに脱ぎたくなくて、最後は川に流されてしまうところです。死と引き換えてでもきれいなドレスを着ていたかったのかな、と思うと・・・この女性も記録に名前が残っているんですよね。実在の人物とあるだけに、このあとどうなったかと思うと心が痛みます。

ネズミ:物語として楽しんで読みました。きっとカナデイにたどり着くのだろうと思って読み進めたのですが、途中で思いがけない展開があって、ドキドキしながら先を読まずにいられませんでした。当時のさまざまな事情が物語にとりこまれていますが、その一方で、予備知識がなくても楽しめる作品になっていると思います。ハリソンの冗談めかした口調など、登場人物の言葉づかいがていねいに訳され、物語としての豊かさを感じました。

花散里:表紙画から感じる重たい暗い印象が、読んでいてもずっと続いているような気がしました。顔を傷つけられたり、ろうそくの火に手をかざさせられたり、人としての尊厳を奪われ、まるで物や道具のように売り買いされ、家畜のようにこき使われた奴隷たちについて、現代の子どもたちはどのように読むのかと思いました。現在でも問題になっている黒人差別について、このような歴史的背景を知り、この本からも考えてもらえたらと思いました。川の男や、たくさんの服を着て香水をつけた女の人など、登場人物も印象的な人がいて、物語の厚みを感じましたが、「シゴーコーチョク」は子どもに意味がわかるのでしょうか。「あとがき」の字が小さくて大人に向けて書かれているのかと思いました。地下鉄道についてなどを知るためにも最後の地図は役立つと感じました。

カピバラ:タイトルから、きっと最後は光が見えるのだろうと予測できたのですが、それでもやはりハラハラどきどきの連続で、帯に書いてあるとおりまさに「一気読みの逃亡劇」でした。非常に過酷な状況が描かれていますが、主人公サミュエルの子どもらしい見方や考え方がときにほほえましく感じられるのに救われました。情景描写が細やかなので臨場感がありますが、すべてサミュエルの目を通して描かれているのが良かったと思います。たとえば、p165真ん中あたり、「頭の上には、大きな鉄製のランプが天井からさがっていた。思わず、黒いクモがあおむけになって、足の一本一本に白いロウソクをもっているところを思いうかべた」。情景がとてもよくわかると思います。
印象に残った描写が随所にありましたが、中でも、p113で川を渡してくれた男が語ったことです。「老人と旅をしたことがある」というんですね。8歳の時、年寄りの黒人と鎖でつながれて歩かされた。「その老人は、おれたちをつないでる鉄の鎖をもちあげて、その重さができるだけおれにかからないようにしてくれた」という部分です。ハリソンはぶっきら棒でサミュエルに優しい言葉などかけはしないけれど、この老人と同じ気持ちを持っていることを暗示していると感じられ、印象に残りました。だからこそ、ハリソンがおじいちゃんだと気づくところは感動しました。地下鉄道を扱った物語は今までもいくつか翻訳されており、私もそういったものを読んで初めてその歴史的事実を知りましたが、まだまだ数は少ないので、この本が翻訳されたことはとても良かったと思います。今またBlack Lives Matterで日本でも関心を寄せる人が増えてきたので、子どもたちにも知ってほしいと思います。一般文学では、奴隷制度を扱う場合にどうしても事実を知らせるという意味で残忍な描写を描くことが多いですが、児童文学は、奴隷制度に抵抗する活動として「地下鉄道」にかかわる人々の勇気や人間愛を描いて、過酷な運命や差別を乗り越える力を伝えようとすると思います。それが大人から子どもへのメッセージになっていると思います。

まめじか:サミュエルは物音に驚いて急に逃げだすような臆病な子で、絶対に川に入らないと言い張るなど、強情な面もあります。そんなふつうの、等身大の姿が描かれているのがよかったです。農場の狭い世界で育ち、トウモロコシ畑より先には行ったことのなかったサミュエルは、「わしらのもんはなにひとつない」「池という池、魚という魚はぜんぶ白人のもんだし、連中は、わしらのもってるもんはなんであれ取りつくそうとする」というハリソンのせりふに集約されるような状況で、自分の人生を取りもどすための旅に出ます。命がけの逃避行のあいだ、深い悲しみの中にあって現実と幻の境がつかなくなったテイラー夫人やグリーン・マードクなど、いろんな人に出会います。決して善意で動いているような人たちだけじゃないし、黒人谷で暮らす人々も、中には助けてくれる人もいれば、見捨てる人もいる。サミュエルは人に会うたびに、信用できるかを判断し、その過程で人を見る目が養われ、最後には知恵を働かせて危機を脱する。そこに説得力がありました。

ハリネズミ:アメリカの国内だとまだ奴隷所有者に雇われた追っ手に捕まる可能性があるので、別の国であるカナダに逃げるのですね。では、カナダが過去に人種差別のまったくない国だったかというと、そんなことはなくて、先住民に対する差別はずいぶんあったと聞いています。アメリカやカナダには、Black History Monthという黒人の歴史を学ぶための月があって、アフリカ系の人たちが連行されてきたことや、社会の中で果たしてきた役割を、学校などでも勉強するんですね(あとで調べたら、今はイギリス、アイルランド、オランダなどでも同様の月間があるようです)。そういう際には、このような本も使って、白人でもアジア系でもみんなアフリカ系の人たちのことを学び、多様な見方を身につけていくんですね。そしてそういうところから、たとえばローラ・インガルス・ワイルダー賞という名前も、白人の歴史しか見ていなかった作家の名前を冠しているのはまずいんじゃないかという意見が出てきて「児童文学遺産賞」に変わったりする。一方、社会を変えていくための様々な工夫が、日本ではとても少ないので、女性差別にしてもなかなか変わらないんじゃないかなと思います。この本で何を日本の子どもに伝えるか、という点で言うと、いちばんはカピバラさんもおっしゃっていたように、「地下鉄道」のことかと思います。実際に鉄道があったわけではなく奴隷を逃がすための人間のネットワークですが、この「地下鉄道」にかかわったいちばん有名な人はアフリカ系のハリエット・タブマンという女性で、「車掌」(案内人)になって、多くの奴隷の逃亡を手助けしました。タブマンは20ドル札の絵柄になることがオバマ政権で決まっていたのですが、トランプがストップさせ、今はまたバイデンが実行しようとしているようです。タブマンは黒人ですが、白人も先住民も逮捕覚悟でこの「地下鉄道」の担い手になっていたのです。中には金儲けになるからと考えた人もいるのでしょうが、それにしても見つかれば重罪になるわけですよね。そうした危険にもかかわらず、人間を人間として扱わないのはおかしいと考える人たちがいたことを知るのは、日本のこどもにとっても希望になると思います。斎藤さんの訳もいいし、ずっとこの子の視点から旅路を追っていくのがとてもいいと思いました。希望はなかなか見えてきませんが、「光」という言葉があるのでそれを頼りに読み進めることができると思います。

アンヌ:読み始めた時はサミュエルたちがカナダを目指しているとは気付かず、暗闇の中を行くような逃避行だと感じて読むのがつらく、何度か本を置きました。川の男に会って「自由黒人」という言葉を知り希望を持て、そこからは一気読みでした。黒人谷で病床のハリソンの枕元でベルが「沈黙は永遠の眠りを招く・・・だから、あたしは家のなかをたくさんの言葉で一杯にするの」と言う。このp235のベルの言葉は、言霊で命を結び付けようとするようで、好きな場面です。そして、そんな瀕死の時でもハリソンがサミュエルに祖父と名のらないほうがつらくなくていいと思い込んでいることに、とても悲しい思いがしました。読み終ってから地図があるのはよかったと思いました。表紙の絵は、原書では三日月と身をよじる少年の絵だったけれど、日本語版は満月と影絵で、なんとなく希望を感じられて、いい表紙だと思いました。

はこべ:最初は頼りない主人公が、逃避行をつづけるうちに成長していく様子と、史実に基づく重みが2本の柱になっている力強い物語で、一気に読んでしまいました。冒頭の、主の息子が主人公を残酷な目にあわせる場面にあるように、観念的ではなく、すべて細かい描写で綴っていく手法が効果的で、素晴らしいですね。特に、川の男。こういう人物を創り上げる作家はすごいと思ったら、実在の人物なんですね。主人公たちを救う活動に協力しながら、銃をつきつけて相対する未亡人も、実際にモデルがいたのではないかしら。克明な描写で登場人物の背景や心の内まで浮かびあがらせているのは、優れた翻訳の力があってこそだと思います。たしかに描かれている事実は暗いものだけれど、子どもの目で語られているので理解されないということはないし、暗いから、難しいからとためらわずに、ぜひ子どもたちに薦めていただきたい本だと思います。

コアラ:地下鉄道のことは、この本で初めて知りました。多くの人がサミュエルとハリソンを助けてくれますが、相手が本当に味方なのか、裏切られるんじゃないかという状況が、サミュエルの側に立って書かれています。ハリソンでさえ、途中で、訳のわからないうわごとみたいなことを言うんですよね。何を信じたらいいかわからない状況に放り込まれた感じで読みました。印象的だったのが、p169で、ハリソンが「紙に書いたものが嫌いだ」と言って、牧師が書いた自分たちの物語を破って捨てたこと。善意が相手に喜ばれるとは限らないことがよくわかったし、それほどハリソンがつらい思いをしてきたということが、読んでいてつらかったです。p266の4行目では「あのときのぼくはカナダのことを考えようとしていた」という文章が出てきます。あ、助かったんだな、助かった後でそのときのことを振り返った文章なんだな、と思いました。それで、そのあとの場面でつかまった時も、どんな風にこの絶体絶命の危機を乗り越えるんだろうと期待して読むことができました。「あのときのぼくは〜」のような文章は、けっこう大事だと思います。あと、花散里さんと同じように、私も「あとがき」の文字が小さいと思いました。地下鉄道という言葉は「あとがき」にしか出てこないんですよね。この文字の小ささだと、本文を読み終わった子どもが「あとがき」まで読むのかな、とちょっと残念でした。暗い感じの物語だけど、日本の子どもたちにも知ってほしいと思いました。

エーデルワイス:サミュエルが、賢い機転の利くような子ではなく、逃亡に引きずられるようについていくような、好奇心と少年らしい危うさがあり、そこが好きです。そして最後の最後でみんなを救うところが素敵。購入した本には「史実に基づいた・・・」とあるようですが、図書館の本には帯がないので、あとがきを読むまでそのことはわからない。地図は最後でよかったのか、最初にあった方がよかったのか、疑問に思いました。サミュエルが追い詰められる、不安な心境の表現に、p12に「ぼくはのどがつまるような気がした。まるで、大きなヘビがのどに巻きついたみたいだ」とありますが、この表現は度々出てくるので、いかに厳しい逃亡かわかります。ハリソンはサミュエルの母親の合図の毛糸玉を見て逃げることを決意するのですが、果てしない距離を、人から人へと繋いで運ばれてきたことを想像すると、すごいネットワークだと思います。またカナダまでの逃亡ルートがわかっていて底力みたいなものを感じました。

マリンゴ: 教育をあまり受けず、常に威圧されながら育った黒人の少年の、いつも怯えて追われているような、自由とは何かを考えたこともないような感じが、とてもよく伝わってきました。人に恵まれて、裏切られることがないので、逃亡劇としては順調だけれど、ハリソンが病気になったり、白人のパトロールが来たり、最後の最後、船に乗る前にクライマックスがあったり、山場が作られているので、ハラハラしながら一気に読めました。どうでもいいことをしゃべり倒している白人の行商人など、キャラクターがそれぞれ立っているので、物語がより魅力的に思えます。地図を見たい!と思ったら最後に用意してくれていたのもありがたいです。

しじみ21個分:大変に重厚で、読み応えがある作品でした。アメリカの作家が主にはアメリカの子に向けて自国の歴史について書いているのだろうと想像したのですが、今のブラック・ライブズ・マターを考える上で必ずアメリカ国民として知ってなければいけないことなのではないかと強く感じました。私は察しが悪くて、なんでハリソンが足手まといになるサミュエルを連れて逃げるのか、全然わからなかったのですが、あとで謎解きがあって、「あー!」と思いました。私も川の男の印象はとても強くて、ドレスにこだわって駄々をこねるヘイティの乗る舟を足で川にけり戻してしまうシビアさに、逃げる方も支援をする方も命懸けだったということを感じるとともに、彼がサミュエルに伝えた言葉が最後にサミュエルを鼓舞し、みんなを救ったという結末に結実してさらに印象深くなりました。逃避行の間、サミュエルとハリソンが暗い中でずっと息をひそめ、身を隠していなければならなかったつらさは想像を絶します。でも、逃げおおせて最後に「ヒャッホー」と終始気難しかったハリソンが歓声を上げて、青い空を見上げている場面には大きな解放感があり、とても読後感が気持ちよかったです。黒人奴隷の歴史の事実は、おそらくもっと陰惨で、家畜よりもかんたんに殺されていたのかもしれません。その過酷な事実を日本の子どもがどこまで感じ取れるかというのが肝だと思いましたが、歴史を知るということは非常に重要だと思います。あとは、これも察しが悪かったのですが、「カナデイ」が「カナダ」だとはじめはわからなかったし、レバノン川がどこなのかとずっと気になっていました。後半で突然、カナデイはカナダとして文章の中で通用し始めたところには少し違和感がありました。また、シゴーコーチョクというようにハリソンの喋りは、カタカナで傍点が、どういうなまりや言い間違いがあってこうなっているのか、元の英語がわからないので気になってモヤモヤしました。

さららん:自分が黒人の歴史をどのくらい理解し、自分のものとして捉えているかが、この本を読んで問われますね。BLMの報道を見るときの目が変わり、その意味でも読むべき1冊でした。主人公たちの状況はとても過酷です。命を失うことになっても、人間として生きてほしいとの思いから、老人ハリソンは大きな賭けに出たのですが、その怒ったような口調にも、サミュエルへの深い愛情を感じました。それは優れた訳だからこそですね。船を漕いで渡してくれた男は冷酷な一面を見せますが、同時にサミュエルにとても大事な教訓を与え、人間の複雑さを感じさせる魅力的な脇役でした。モデルがいたと聞いて、納得しました。最後に、サミュエルの機転を認めたカナダ国境の警察官の粋な計らいも忘れられません。

すあま:だれがいい人か悪い人かわからないため、最後まで読み終わらないと安心して眠れない、という感じでした。地下鉄道など、物語の背景についての知識があった上で読んだ方がいいのかな、と思ったけれど、逆にこの物語を読むことによって知ることができればそれでよいとも思いました。主人公が泣いてばかりでだめだったのが、次第に生き抜く力をつけ成長していくのがよかったです。お母さんについては、だんだんと何があったかわかってくるようになっていますが、だいぶ想像で補わなければならないので、もう少し明らかにしてほしかったと思います。最後は、後から回想する形であっさりした感じでした。ずっと重苦しいので、読むのはちょっとつらかったです。もう少しユーモアがあってもよかったかな。

サークルK:図書館に本が届いたのが当日だったため内容についての細かな個所はパスさせていただきますが、人種差別ということから、最近の映画で『ドリーム』(原題: Hidden Figures マーゴット・リー シェタリー/原作:邦訳『ドリーム〜NASAを支えた名もなき計算手たち』 山北めぐみ/訳 ハーパーコリンズ・ジャパン)というNASAで優秀な仕事をした黒人女性の実話を思い出しました。また、作中の「地下鉄道」という奴隷たちを逃すための秘密の手段についても、マーガレット・アトウッドの『侍女の物語』(斎藤英治/訳 ハヤカワepi文庫)の続編『誓願』(鴻巣友季子/訳 早川書房)に登場する「地下の逃亡路」を思い出し、『彼方の光』に描かれる実話が大人向けのフィクションにもつながっていくことを実感しました。これを児童図書として読む子どもたちの想像力を深く刺激して問題意識を持つきっかけになるのだろうな、とみなさんの感想を伺って思いました。

カピバラ:p180の「ボンネットをかぶると、つばが大きくて、目の前の小さな丸いすきま――大皿くらいの大きさだった――のほかにはなにも見えなかった」ですが、小さな丸い隙間なのに大皿ぐらいというのがよくわかりませんでした。

はこべ:顔の周囲をぐるっとおおうくらいつばが大きいボンネットだと、そういう状態になるんじゃないかな。

ハリネズミ:目の前が大皿の大きさくらいしかあいてないということなんじゃないかな。

カピバラ:「小さな」「すきま」だともっと小さいんじゃないかと思うのにどうして大皿?と思ったんです。

ハリネズミ:先日のイベントでは、翻訳者の斎藤さんが、この本での黒人の人たちの会話は、南部の黒人言葉でふつうの英語とは違うのでどう訳すか悩んだけれど、カナダをカナデイと言っているところだけはそのまま残したとおっしゃっていました。さっき、地図が前にあったらいいか後ろにあったらいいかという話が出ましたが、地図が前にあったらカナダまで行けるのがわかってしまうので、後ろでいいのだと思います。それから地下鉄道で逃げた人で、子連れというのはめずらしいようです。

ルパン:今、テレビ番組でアイヌを侮辱する発言があったということが問題になっていますが・・・「あ、イヌ」というダジャレを言った芸人だけでなく、番組を作るスタッフとか、テレビ局の人が誰もアイヌの歴史を知らなかったというところに問題を感じます。アイヌの人たちがそう言われて差別を受け続けてきたという事実を誰か1人でも知っている人はいなかったのかな、と。私は子どものときに『コタンの口笛』(石森延男/著 東都書房など)という本を読んでそのことを知りました。その時は意味がわかっていなかったけれど、ずいぶんあとに、大人になってから気がつきました。あの本を読んでいなかったら私もこういうことに鈍感になっていたかもしれない。児童書の役割って、そういうところにもあるのかな、と思います。ですから私はこの本は文庫の子どもたちに読んでもらいたいと思います。

ハリネズミ:『コタンの口笛』はよく読まれて映画にもなったと思いますが、批判もあります。今ならアイヌの人が書いた作品も読めるといいですね。BLMについては、アフリカ系の多くの作家が書いていますが、ピアソルは白人の作家です。だから白人の子どもたちにも読みやすいということも、もしかしたらあるのかもしれません。

エーデルワイス:逃亡中の食べ物の話はリアリティがあります。列車で逃亡したら、トイレにも行きたくなると思いますが、それは出てきませんね。大人の本だったらその辺も書くのでしょうか。私たち東北人は震災の時トイレで苦労したので。

(2021年03月のオンラインによる「子どもの本で言いたい放題」より)

 

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明日をさがす旅〜故郷を追われた子どもたち

アラン・グラッツ『明日をさがす旅〜故郷を追われた子どもたち』表紙
『明日をさがす旅〜故郷を追われた子どもたち』
原題:REFUGEE by Alan Gratz, 2017
アラン・グラッツ/作 さくまゆみこ/訳
福音館書店
2019.09

〈版元語録〉ナチスドイツから逃れるユダヤの少年、カストロ政権下のキューバを出てアメリカに向かう少女、内戦下のシリアからヨーロッパをめざす少年。故郷を追われて旅立つ3人の物語が、時代や国を超えて同時進行で語られる。彼らの運命はやがて思わぬところで結びつくことに……。命の危険にさらされ恐怖と闘いながらも、明日への希望を見失わず成長していく子どもたちの姿を描く。歴史的事実を踏まえたフィクション作品。

花散里:時代も場所もちがう3人の登場人物が、交互に語っていく物語ですが、各ページ上の柱に場所と年代が記されているのが、読んでいくときの助けになりました。ホロコーストの話は過酷で、この物語のヨーゼフの話も、読んでいていたたまれない思いでした。カストロ政権下のキューバから逃れる少女イサベル、内戦中のシリアで爆撃を受けて難民となりヨーロッパを目指すマフムード。それぞれ故郷を追われ、海路、陸路で困難に立ち向かいながら、やがて最後につながっていく構成の上手さに圧倒されて読みました。難民のことを取り上げている作品が多い中でも、特に印象深く感じました。日本の難民受け入れ問題を取り上げた『となりの難民』(織田朝日/著 旬報社)や、空爆が続くシリアの町で瓦礫の中から本を救い出し図書館を作った『戦場の秘密図書館』(マイク・トムソン/著 小国綾子/編・訳 文渓堂)などとともにブックトークなどで紹介して、ぜひ、日本の子どもたちにも読んでほしいと思いました。

サークルK:3人の主人公たちの置かれた立場、年代、環境は全然ちがうのに困難にあることだけは同じで、この次の展開はどうなるのだろう、と思うところで次の子どものエピソードにつながっていき、よく言えばリズミカルに、別言するとあわただしい感じがしました。後ろの地図をたどって、こんなに移動をしなければならなかったのか、家を追われて故郷を捨てなければならなかったのか、と納得できました。現代の読者は、2015年のスマホを持っているマフムードに共感しやすいように思いますが、彼を入り口にして、単なる年号と出来事でしかなかった歴史が共時的につながっていることを実感できると思います。2度と繰り返してはいけない戦争、ということをうまく伝えているなあ、と心を動かされました。

さららん:3人のエピソードが、ひとつずつ順番に終わるたび、私も展開がすごく気になりました。ヨーゼフ、イサベル、マフムードの話をつなげて、飛ばし読みしようと思ったけれど、作者の意図を尊重して我慢しました。3つの話は時間も場所もばらばらで、いったいどう絡み合うのか? という期待が最後まで続きます。どこが史実で、どこがフィクションか、迷いながら読み通したけれど、編集部による断り書き(p386)と「著者あとがき」を読んで納得しました。難民受け入れを拒むハンガリーの兵士は催涙弾を撃ち、沿岸警備艇はボートに乗ってマイアミ直前まで来た人々を捕らえて、キューバに送り返そうとする。今起きている現実は強く心に響き、よくぞ書いたと思いました。ストーリーを時系列に進めながら、主人公に過去の思い出を語らせる難民の物語はワンパターンになりがちだけれど、この本の、刻々と3つの「今」を伝える重層的な作品づくりはお見事。それが現在につながって山場を迎えるところに、物語の醍醐味を感じました。

木の葉:本自体も内容も重い本でした。ドイツ、キューバ、シリアの異なる場所の異なる時代の物語ですが、ベルリンに始まってベルリンで物語を閉じます。構成的にとてもよくできていると思いました。少し前に読んだ『三つ編み』(レティシア・コロンバニ/著 齋藤可津子/訳 早川書房)を思い出しました。同時代ですが、インド、イタリア、カナダの女性の視点で交互に物語が進みます。視点が変わることで、いいところ(悪いところ?)で次の視点に移ります。狙いはわかるのですが、少しストレスでした。銃口をつきつけられたところで章が切り替わっても、このあとも物語は続くので大丈夫、というのが前提で読んではいても、ちょっとあざといな、という気がしました。いろいろ考えさせられる物語でした。2015年は、ヨーロッパで難民が大きくクローズアップされた年で、そのことを思い出しました。ホロコーストをひきおこしたドイツがいちばん難民を受け入れています。どうしても、では日本は? と思ってしまいますが、あとがきの訳注でさりげなく日本の状況についての情報がフォローされています。日本の入国管理局の問題なども、作品化できないものだろうか、などと思うのですが・・・。ただ、若い頃にキューバ革命を熱い目で見ていたことのある立場からすると、ナチス、シリアと並列的に語られることが、なんだ切なく感じました。革命家と為政者とは違う、ということなのでしょうか。

ルパン:すみません、まだ3分の1くらいまでしか読めていないんです。でも、ここまでのところでいちばん印象に残ったのは、p92です。「どっちの側だ」と聞かれ、答え方をまちがえたら殺される、という緊迫した状況で、子どもが「爆弾を落とす人たちには反対です」と声をあげて、一家が救われる、というところ。場所と年代の違う3つの物語が交互に語られ、時系列が行ったりきたりするので読みにくいなあ、と思っていましたが、さっき花散里さんが「ページの上に場所と年代が書いてある」とおっしゃったので、「あ、ほんとだ!」と思いました。ここから先は読みやすくなりそうです。

まめじか:安住の地にたどりつけなかったヨーゼフがいて、友人を失い、祖父を残して上陸したイサベルがいて、妹と生き別れたマフムードがいて、その3人の人生がつながる構成です。現実に起きたこと、起きていることの厳しさがきちんと書かれていますが、ひとり助かったヨーゼフの妹が、何十年もたってからマフムードの家族を助けるなど、結末に希望があり、とても好きな作品でした。イサベルは新しい土地で、ずっと探していたキューバのリズムを見つけ、これからも故郷とつながっていくのでしょう。平澤さんの装画もすてきで、物語にぴったり。ただ、いかにも社会的なテーマを扱ったという感じの、お行儀のいい装丁なので、もう少しポップなほうが、子どもは手にとりやすいのでは? と思います。

ハル:まず、構成が見事だなと思います。最初に1938年のユダヤの少年の話からはじまり、すぐ2章に移ったかと思ったら、1994年のキューバの少女に飛ぶ。そこでハッとさせられ、さらにすぐ3章に移ると、今度は2015年のシリアの少年へ。ああ、第二次世界大戦で終わったと思っているような出来事、子どもが、もちろん大人もですが、故郷で安心して暮らせないような出来事が、今もまだ続いているんだと、一気に身近な問題として胸に迫り、終始、他人事ではないような思いで読みました。そしてやっぱり、子どもたちのたくましさ。難民たちの行進が始まる場面は、思い出しても胸が熱くなります。「著者あとがき」で、著者が〈あなたにもできること〉を提案してくれているところもありがたいです。「自分は何をどうしたいだろう」と考えるきっかけになります。内容も、ボリュームも、重たい本だけど、主人公たちと同じ世代の読者にもぜひ読んでもらいたいです。

西山:親切な本作りだなと思いました。目次を見て、一瞬混乱しないかと心配になったのですが、ページ上部の柱を見れば、すぐに「だれ・どこ・いつ」が分かるようになっている。気になったら、巻末の地図も見られる。ストレスなく読み進めました。キューバのイサベルのおじいさん「リート」が、ヨーゼフたちの船に関わっていたらしいということがだんだんと分かってきますが、だからといって、劇的な安っぽい再会にしなかったのに厳粛さを感じて好感を持ちました。シリアのマフムードのパートがあることで、現在進行形の今の問題なのだとより身につまされました。p30で、「あの子を助けないと」とつぶやいたマフムードは結局自分の身を守るために「見えない存在」になってその場を去ります。爆撃による破壊や、本当に生きるか死ぬかの危険性はもちろんだけれど、日々魂がそがれていくこういう傷つき方があるのだということが、胸に刺さり、また、今の日本に生きている子ども読者にとってもそれは知っている感覚で受け止めるのではないかと思いました。やめろって言えてこそ、健やかに生きていけるのだと思います。この、マフムードが、見える存在になる決意をしていきますね。「シリアでは、目立たない存在になることで生きのびてきたからだ。でも、マフードは今、ヨーロッパで見えない存在になると、それは自分にとっても家族にとっても死を意味するのではないかと思いはじめていた」(p262)と。それが、国境を越えようと歩く子たちの群像の表紙とひびきあって、今の世界への問題提起となっていると思いました。また、p130で物事は「変わっていくんだから」「待ってるほうがよかったんだ」と言っていたリートがp339で「世界が変わってくれるのを待っている間は、チャベラ、何も変わらないんだ。わたしが、変えようとしなかったからだ。もう同じまちがいは、二度としないぞ」と海へ飛び込む。ここに強いメッセージを受け取ります。

マリンゴ:さっき電車のなかで読み終わって、最後の章で泣いて鼻をぐずぐずさせていたので、時節柄、周りのひとに「こいつ風邪か?」という目でにらまれてしまいました(笑)。3つの強力な物語が折り重なってくるお話ですね。章の最後でたいてい何か悪いことが起きるので、だんだん章末に近づくのが不安になりました(笑)。3作が同時進行するので、登場人物が多いのが若干ややこしいですね。本の3分の1まで行ったあたりで、「リート」って誰だっけ、と最初までさかのぼって確認しました。でも、このリートが一番印象的な人物になりました。キューバでは傍観者だったのが、時を経て当事者になってしまう・・・読者も、これは他人の物語ではなくて、自分もいつか関わる物語なのかもしれないと考えながら読めると思います。帯に、この3作がひとつにつながることがにおわされているので、冒頭からいろいろ想像しちゃいました。最後みんなマイアミにたどりつくのかな、とか。そんなシンプルな形じゃなくてよかったです。ユダヤ人を迫害したドイツの人が、贖罪の気持ちもあって、シリアからの難民を受け入れる、という構図をなんとなく想像していたので、ラストで「ああユダヤ人に救われたのか」と意外に思ったりもしました。長いあとがきが素晴らしいですね。細かいところまで事実をすくい上げるおもしろさが伝わってきます。3つが絡まりあっているので、フィクション度が高いのだと思い込んでいました。あと、無気力になった人たちが何人も出てくるのが、印象的でした。精力的に立ち向かえる人ばかりではない。それがリアルさを感じさせました。

トマト:交互につづられる3つの物語が、それぞれ強い力を持っています。でも、どの話も危機一髪のイイところで中断されてしまうので、読んでいてかなりイライラしました。次にくる物語を飛ばして、同じ主人公の話だけを一気に続けて読んでしまおうかと思ったくらい。その気持ちを抑えるのが大変でした。いじわるな本ですよ。でも、しばらくすると、気にならずに読めるようになったのが不思議です。結局、読み終えてみると、この構成で良かったのかなあと思うけれど、ひとつの物語に一気に入り込める構成ではないので、よほど本が好きな子でないと途中でいやになってしまうのではないかと・・・。また、日本の多くの若い人は、ホロコーストのことは知っていても、キューバのことは知らないと思うので、知識不足と3つの物語が混在する複雑さが加わって、読み終えることが出来ないのではないかと。そこがいちばん気にかかります。表紙は、悪くない。いいと思います。

カピバラ:3つの時代、3つの国を舞台に、3人の話が入れかわり立ちかわり出てくるのが最初は読みにくかったけれど、同時進行で進む構成は、緊迫感を出すのにとても効果的だし、描写が具体的で目に見えるように書かれているので、臨場感もありました。最初から緊迫した状況が続き、つらいことがあまりに多く読むのをやめたくなるほどだったので、これを翻訳した訳者はさぞやつらい思いだったろうと推察します。それが最後にきて、3つの物語が決して別々のものではなく、すべてがつながっているとわかり、衝撃を受けました。そこで一気に、難民問題は現在進行形であることを感じさせる、うまい構成だと思います。いろんな人が出てくるけど、ひとりひとりの小さな決断が積み重なって、大きく歴史を変えていく不思議さ。ドラマチックなおもしろさも感じました。読者は高校生以上でしょうか。日本の子どもにぜひ読んでほしいけれど読書力が必要だと思います。

さくま難しいという声もあったのですが、原書の読者対象は9歳からで、アメリカではベストセラーになっています。日本ではこのページ数があるだけで小学生向きにはなりませんよね。日本語版は読者にわかりやすくという工夫を編集部でもいろいろしてくださっています。原書には挿画もないし、柱やカットもないのですが、多くの子どもたちが読んでいるようです。中学年の子がみんな読めるとは思いませんが、高学年や中学生だったら十分読めるのかと思います。そう考えると、日本の子どもがいかに長いものを読めなくなっているのか、ということでもあるような気がしています。
私も最初に読んだ時は、次々にこれでもか、これでもか、とつらい状況が出てくるなあと思いました。セントルイス号の話に出てくる警官がキューバから脱出する話に出てくるおじいさんだということもちゃんと意識できていませんでした。それがセントルイスという名前でつながるということがわかり、ルーティとマフムードがつながるということもわかって、感動して、翻訳したいと思ったのです。難民という共通項を持った3人の物語が並列されているだけかと思ったら、そうじゃなかったんですね。固有名詞はそれぞれの地域の専門家にカタカナ表記の仕方をうかがいました。訳すときはまず最初はこのとおりの順番で訳し、見直すときはそれぞれの人物の話に沿って流れを見ていきました。難民を、どこか別のところで起こっている出来事としてではなく、自分にもう少し近い存在として日本の子どもにも意識してもらえるような本があればと考えていたので、それには長いけどこの本はいいのではないかと思ったのです。
1つの章がはらはらどきどきさせるクリフハンガーの状態で終わり、別の人物の章に変わるというのはどうなのかと思ったのですが、訳しているうちに全体を通していくつかのキーワードがあるのもわかりました。たとえばマフムードは「見えない存在」になりたいというのがp30に出てきますが、次のヨーゼフの章でも「見えない存在」になったみたいだというのが出てきたりします。あと章から章への音のつながりみたいなものも感じました。
原文を読んでいて細かいところで疑問に思ったところもありました。たとえばヨーゼフがユダヤ人であることを示す紙の腕章をつけていたというところですが、紙の腕章というのは聞いたことがなかったので、ホロコースト教育資料センターの石岡さんにうかがってみたりしました。石岡さんがドイツの専門家にきいてくださって、この時代はまだ腕章は一般的ではなかったし、紙の腕章が絶対になかったとは言えないけれど今のところ聞いたことがないと言われました。最終的に著者に問い合わせたところ、「多くの資料にあたって書いたのだが、今はほかの作品を書いているので、どの資料だったのかということは今すぐ言えない。しかるべき団体に問い合わせて疑問があるなら「紙の」という部分を取ってもかまわない」と言われました。ユニセフについても、数字がちょっと違うと思ったので、日本のユニセフに問い合わせて少し変えたりもしました。それからキューバがとても悪く書かれているところは少し気になりましたが、お父さんが逮捕されそうになっているのを子どもの視点で見ているので、そこはそのままにしました。家族の問題にしろ、家が破壊されたにしろ、社会の抑圧があったにしろ、子どもは翻弄されてしまうんだと思いました。何か疑問やおかしいところがあったら、直しますので教えてください。

西山:p47の3行目「見ててくれたといいんだけど」は、ひっかかりました。あと、p173ほか何か所かで、おぼれないように「足をける」という表現が使われていますが、私は違和感を覚えます。どういう動作かはちゃんとわかりますが。「水をける」という表現も使われているので、使い分けがされているのかとは思いますけれど。

さくま:ありがとうございます。考えてみます。

花散里:イザベルの物語の中でパピ(お父さん)、リート(おじいちゃん)というのが、最初に記されている(p21)だけだったので、その後、読み進みながら、パピは名前? リートは? と、何度か前のページをめくり返しました。セニョール・カスティージョ、セニョーラ・カスティージョというのも、ページが進むと、父親とか、お母さんの、とか記されていなくて、子どもにはわかりにくいのでは、と感じました。

さくま:なるほど。

トマト:この作品は、アメリカでは中学年以上向きに出版され、売れているんですか! 日本の子どもは、移民問題を身近に感じていないから読めないのでしょうか。

さくまテーマが何にしろ、日本では300ページ超えると出版がむずかしいと言われます。アメリカとかドイツとかだと小学校高学年向きくらいから、この本に限らず厚い本がたくさん出てるんですけどね。漢字の難しさもありますが、日本の子どもの読解力、読み取って考える力も落ちているかと思います。

トマト:母国語が英語ではない家庭が多いニューメキシコ州で、school librarianをしている友人を訪ねたときのこと。そのときはブッシュ政権だったのですが、学校が国の要請を受け、英語が苦手な子ども向けの読書指導をしていました。朝や放課後に、教師全員がそれぞれ少人数の班を受け持ち、絵本を読み合う授業なのですが、そのプロジェクトに取り組む学校には、学校図書館用にかなりの額の予算をつけてくれると言っていました。その結果、学校全体で読書指導を活発に行えるというわけです。国が、学校教育の中で、読書の授業を大切にしているという点が、日本と違うと感じました。

さくま:それと日本では国語の教科書に載っているのは短い文で、先生が独自に1冊の本を選んで生徒たちみんなで読み合うなんてことも、ふつうは出来ない。だから長い本を丸ごと読むことなしに大人になる場合もあるわけです。でも、アメリカとかドイツでは、長い本をクラスで読んで、それについて討論するということをやっていますよね。文学は正解を追い求めなくて住むので、多様な意見を受け入れることにつながっていくから、日本でもやればいいと思うんですけどね。

木の葉:「今の子どもは」、と思いすぎのような気もします。小学生でも、読む子は読むと思いたいです。思い切って手渡してみてもいいのかも。読み通せたら自信になるのではないでしょうか。

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エーデルワイス(メール参加):緊張感あふれる内容ですがとても読みやすかった。国も年代も違う3人の主人公とその家族が過酷な旅をしますが、読んでいて移動を一緒に体験しているように思えました。つらい場面が多く、どうなるかとハラハラしながら最後まで読み通しました。イラストも効果的で、多くの人に読んでほしいと思います。ドイツ兵が、ヨーゼフとルーティのどちらかを選べと母親に迫るところでは、映画「ソフィーの選択」を思い出しました。シリアからドイツに逃れたマフムードが年をとったルーティと会う場面は感動的でした。

(2020年02月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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オオカミが来た朝

『オオカミが来た朝』表紙
『オオカミが来た朝』
原題:WOLF ON THE FOLD by Judith Clarke, 2000
ジュディス・クラーク/著 ふなとよし子/訳
福音館書店
2019.09

〈版元語録〉オーストラリアのある家族の日常のひとこまを、1935年から2002年まで4世代にわたり描く短編集。父親をなくした少年ケニーが家族のために仕事を探しに出た朝の出来事(オオカミが来た朝)、ケニー一家のもとにやってきた年老いたおばさんをめぐる騒動(メイおばさん)、近所にやってきたインド人の難民一家の苦悩(想い出のディルクシャ)ほか、時にユーモアをまじえて繊細に語る全6編。

カピバラ:オーストラリアを舞台にした物語を久しぶりに読んだ気がします。時代が少しずつ新しくなっていく構成がおもしろかった。最初は、1編が短すぎて、もっとその主人公のことが知りたいのにすぐに次の話へ移ってしまうのが物足りないように思いましたが、しだいにこの本の全体に共通するテーマが現れてきました。貧困、老人、ディスレクシア、障害のある人、難民、移民といった人々を登場させ、そういう人たちにくもりのない目で接していく子どもたちが、人間とは単なる見た目とちがう面をもっているということや、大人の価値観の裏にちがう真実がかくされているということを、ふとした瞬間に気づく。そういうところをとてもうまく描いています。その子どもたちが大人になったときにきっと良い効果をもたらすだろうことを予感させるので、つらい場面も多いけれど希望をもって読めるというところが良かったです。そして大人になってから再登場する人物もいるのでおもしろかったです。

さくま:私もとてもおもしろく読みました。4代の家族の物語ですが、児童労働、難読症や貧困や有色人種への差別、他者への無関心などかなりシリアスな問題が入ってきています。でも語り口がユーモラスで、短い文章の中で、その人その人が浮かびあがるような描写をしてます。たとえばp21ですが、ケニーとダンは父親が亡くなった次の日、母親につらい思いをさせたくないと、そっと物干し紐から父親の衣類をはずします。ちょっとしたエピソードですが、家族を思いやる心情をうまく表現しています。エピソードのつながりも随所でうまく使われています。ケニーは入れ歯なので弟にからかわれたりするというエピソードが最初の章に出てきますが、世代が変わっての章にも、ケニーはそれがゆえに弟にも会わないというところが出てきたりします。またクライティとフランシスはケンカすると頭を冷やすために外を別々に走ってくるというのが第2章に出てきますが、5章では大人になった二人が、別の国に住んでいるにもかかわらず同じことをする。そんなつながりがいっぱいあるので、前のエピソードを思い出しながら読めて深みが増すように感じました。最初の物語に登場するケニーが、最後の物語では曾孫の前に少年の姿であらわれて励ましてくれるのもいいですね。翻訳もじょうずだと思いました。

花散里:『オオカミが来た朝』というタイトルが印象的で読んでみたい作品だと感じました。6つの話がひとつひとつちがうようでいて、つながっていくという構成がおもしろいと思いました。「オオカミが来た朝」のケニーが仕事を探そうと古自転車で荒れ地を行く場面にハラハラし、次の「メイおばさん」ではケニーの2人の娘、クライティとフランシスがおばさんに振り回され、「字の読めない少女」ボニーの話と続き、世代を越えて物語が進んでいき、後半では一層、引き込まれるように興味深く読みました。

サークルK:本の最初にあるファミリーツリーの人物像をたどりながら読み進めることができました。生没年などもはっきり書いてあることで、物語に登場しない人たちも多数いましたが、その不在がかえって、登場人物の人生を下支えするようにも思えました。姉妹の喧嘩の描写も親密だからこそ傷つけてしまう関係であることが分かりましたし、ケニーの父親が亡くなってその洗濯物を母から見えなくするという思いやりも、後半のストーリーに生かされていて、書き手のうまさを感じました。エピソードとしては、列車から投げられた赤ちゃんの個所は、ほんの2~3行でありながらあまりにも残酷で、何度も読み返してしまうほどでした。

さららん:ひとりひとりの人物像がとても印象的です。なかでも字の読めないボニーの存在が心に残りました。すごく意地悪な部分と優しさの混然一体としたところに実在感があり、予定調和的でない結末が気に入りました。この本のどの話もナラティブが自然で、作為を感じさせません。章末にある注のつけ方もいい。「思い出のディルクシャ」では、物語の最初に登場したケニーが、脇役の大人として再登場し、バラバラに見えた話を静かにつなげています。父親の洗濯物を隠すケニーたち、赤い服を着た妹のことを親には話さないカンティをはじめ、悲しみを抱える大人をさらに傷つけないよう、心を配る子どもたちの繊細さを見て、大人と子どもは、互いに守り、守られながら生きているんだと思いました。p156で、カンティは憎むべき兵士のことを思い出し、あの若い兵士は洗脳されていて、でも洗脳されたらだれでも暴徒になるんだと、考える。善人と悪人、敵と味方を単純に分けないこういう考え方、想像力こそ、今の時代に必要なのだと思います。

木の葉:よくも悪くも自己主張の強くない本だなと思いました。読んだのはそれほど前ではないのですが、強く印象に残っているものがないのです。たまたま英語圏の翻訳ものを続けて読んだせいもあるかもしれませんが。かなり深刻なテーマもあり、優れた短編連作なのだとは思います。文学的な香りもします。が、もともと長編が好きなので、ここに書いてない部分の物語を読みたかったな、と思いました。そんななか、字を読めないボニーという少女のことは立ち上がってくるようで記憶に残りました。この中では、「メイおばさん」の話が好きです。

ルパン:いちばん強烈に残ったシーンは、インド人の家族の女の子が列車の窓から投げ捨てられるところです。映像が浮かんでしまって、ほかの場面がかすんでしまうほどショックでした。このできごとを引きずって生きなければならない遺族の悲しみ、さらに、知的で豊かな生活を取り上げられ、貧しく差別される人生、それでも故国に帰るよりまし、という悲惨な人々が今もたくさんいるのだろうと思いました。最後の「チョコレート・アイシング」の章では、毎晩激しいケンカをしている両親が心配ですが、ふたりを案じている息子のジェイムズが、ひいおじいちゃんのまぼろしを見ますよね。その光景がとても感動的でした。自転車に乗って仕事を探しに行く、少年だった曽祖父の姿を見て、自分もがんばろうと思うんですが、きっとケニーの物語が代々語り継がれていたからですよね。親の話、祖父の話、曽祖父の話を子どもに伝える親がいるから伝わっていく。日本では、戦後まだ75年しか経っていないのに、語り継ぐということがほとんどできていなくて、みんなすっかり遠い昔の話だと思っている気がします。私自身、父から戦争の話を聞いているのに、そういうことをほとんど子どもには伝えてきませんでした。自戒をこめて、伝えることの大切さを訴えていかなければならない、と思いました。

まめじか:カンティがおかれた状況は、いまの難民の人たちにも通じますね。弟がうそをついたと決めつける先生に反発しながらも、カンティがなにも言えない場面では、子どもの自尊心がよく描かれています。また列車の窓から妹を放り投げた兵士を思い出したカンティは、戦争になると、ふつうの人も洗脳されてひどいことをするようになると気づき、また迫害は憎しみや軽蔑からはじまるのだからと、意地悪な隣人も見下すまいと思います。世界に対する子どもの洞察や、憎しみに心を奪われない善性は、時代を経ても変わらないのだと、どの章でも感じました。ジェイムズは、海に入った母親がもどってきたときに大きな喜びをおぼえ、自転車に乗ってやってくるケニーの姿を月の中に見て励まされます。ボニーをかばったフランシスは、だからといってボニーが感謝することはなく、おびえた姿を見られたために、よりいっそう自分を憎むと悟ります。フランシスとケイティは、認知症のおばさんが想像の世界で幸せそうなのを見て、頭が混乱するのもそう悪くないと考えます。子どもたちの日常はそれぞれ厳しく、甘ったるい、ただのいい話でない中で生の断片を切り取っているのが、クラウス・コルドンの『人食い』(松沢あさか/訳 さ・え・ら書房)を思わせますね。障がいのあるデフィーに、ディスレクシアのボニーが読み方を教える場面なんかも。

ハル:この表紙と、「前書き」なのか「献辞」なのか、わかるようでわからない冒頭の1ページの感じや、何世代もの謎の家系図から、どうも最初は入り込めなくて。1話目のオオカミが登場するあたりまでは全然頭に入ってこなくて、これは困ったなと思っていました。でも、そこから一気にぐっと引き込まれましたので、読まず嫌いしなくてよかった! と思いました。この本が書店の目につくところに並んでいたとして、私のような人もいるだろうと思うと、もったいないなぁと思います。そして、のめり込んで読んでからは、家系図がいいなと思いました。大人に振り回されて犠牲になるのはいつも子どもたち。戦争もそうですし、家庭内の争いごともそう。「字の読めない少女」のボニー・ケニーも、とばっちりで前歯が欠ける大けがをしたジェニーも、子どもたちをとりまく環境は、ほんとうに理不尽です。そこから立ち上がる子どものたくましさ、生きる力を感じました。「想い出のディルクシャ」に登場する妹のようなことは、少なくとも当時、実際にこういうことがあっても不思議ではなかったということですよね。3歳の少女を目の前にして、こんな残虐なことができるとは、信じたくない気持ちです。

マリンゴ: 一家の家系図が冒頭にあるのだけれど、それでも章ごとに主人公が変わり年代が変わるので、少しつかみにくかったです。逆に、家系図があるがゆえに、登場人物がどこにいるか毎回探してしまったり、この人が今回取り上げられる意図は? とチェックしすぎてしまったかもしれません。普通に短編集だと思わせておいて実はつながっていると、気づく形でもよかったのではないかなぁ、と。これは読書が大好きな子ども向けの本で、読み慣れていない子が手に取ると、難しく感じる可能性もあると思いました。なお、最近読んだ『掃除婦のための手引き書』(ルシア・ベルリン/著 岸本佐知子/訳 講談社)も、断片的でひりひりしたエピソードが続き、最後まで読むと作者の人生が立ち上がってくるので、『オオカミが来た朝』が好きな人は、こちらも好みかもしれませんよ。

トマト:すごく好きです。でも表紙が暗い印象で、これでは読んでもらえないのではと思い、とっても残念。第1話のケニーの入れ歯の話が印象深いです。急死した父親の葬式のとき、ケニーは悲しむよりも、自分が入れ歯だと知られたくないという気持ちが先行してしまうけど、そんな自分をひどい人間だと責めている。子どもは、大人が思う以上にいろいろ苦悩しながら一生懸命生きているんだということがよく分かります。ケニーがどれほど入れ歯のことで傷ついていたかは、ケニーが死にそうになるまで入れ歯を外さず、娘すら父親が入れ歯だと知らなかったというエピソードで裏付けされますが、このケニーの心情が実に細やかに、いい感じのユーモアを交えて描いてあるから重くなりすぎていません。姉妹の出てくる話は、イギリスの兄弟姉妹を描く古き良き物語のようで、楽しく読めました。あんたバカね、と言われていた妹のほうが、賢そうにしていた姉より機転がきくというエピソードがおもしろくて、ユーモアのある会話に魅力があります。私は、家系図が冒頭にあっても気になりませんでした。読みながらたびたび家系図を見て、それぞれの物語の登場人物のつながりも確認できたから、良かったと思います。すべての物語の中で、子どもたちが心を痛めたり、自分を励ましたりしながら一生懸命に生きています。この本の最後の物語は、両親の激しい言い争いを毎晩2階の子ども部屋で聞いておびえるお兄ちゃんと弟の物語です。それまでの物語では、貧困や戦争に翻弄される家族と子どもを描いていましたが、この「両親の不仲」という問題は、子どもにとって最も身近で、最も怖くて、誰にも相談できない重大な問題だと思うので、これを最後にもってきたことがスゴイと思いました。自分だって怖いのに、弟を不安がらせまいとして一生懸命なお兄ちゃんの気持ちがよく伝わってきます。最後に、このお兄ちゃんの祖先であるケニーが、自転車に乗って現れる場面は、「子どもだってたくさん辛いことがあるんだよな。分かるよ。頑張れよ!」と応援しているのだと思い、深く感動して泣いてしまいました。

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エーデルワイス(メール参加):作者の意図することは充分に分かりますが、この構成は読みにくかった。「メイおばさん」の章で認知症のメイおばさんを、子どものクライティとフランシスだけに預けて母親がでかけてしまうところとか、「チョコレート・アイシング」で、ケニーが出て来て両親の不仲に胸を痛めているジェイムズに「くじけるな」というところなど、腹が立ちました。何の解決にもなっていないのに励ましてどうする、という気持ちです。

(2020年02月の「子どもの本で言いたい放題」より)

 

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思いはいのり、言葉はつばさ

『思いはつのり、言葉はつばさ』表紙
『思いはいのり、言葉はつばさ』
まはら三桃/著
アリス館
2019.07

〈版元語録〉友達のジュアヌが見せてくれたハンカチに刺繍されていた、女書(ニュウシュ)。 その美しい文字に、チャオミンは夢中になってしまう。 中国・湖南省に実際に伝承されてきた文字をテーマにした児童文学。

木の葉:きれいな本だなと思いました。タイトルも好き。テーマもいいと思います。おもしろいものを見つけたな、と。ただ、まはらさんの作品としては、ちょっと物足りなかったです。私はたぶん中国への関心が高いほうなので、女書(ニュウシュ)というのも聞いたことがありましたが、改めてちょっと検索してみました。女書は湖南省江永地方に伝わるものとのことで、この地域は、漢民族と、少数民族であるヤオ族が混ざり合って暮らしている地区だそうです。ヤオ族は、歌や踊りが上手で女書もヤオ族の影響を受けて七言句の韻文だとのことです。作品の中で、少数民族はハル族という架空のものにしています。そのため、女書という実際のものを使いながら、いい意味でなく、ファンタジーっぽいものになってしまった気がして残念でした。時代設定が明確でないことも、もやもやさせます。それから、人名ですが、多少中国語がわかる人間は、どうしても裏の漢字を探りたくなるけれど、あまり見当がつきませんでした。

さくま:女書(ニュウシュ)については知らなかったので、テーマに興味をもって期待して読んだのですが、内容はちょっと物足りなかったです。ニュウシュのことは男性には(父親にも)知られないようにとさんざん言っておきながら、父親はすぐに認めて筆まで買ってきてくれるし、警察が来た時にはこの主人公は「そこはニュウシュの勉強をするところです」と言ってしまいます。シューインとの仲も、憧れだけで深まらないうちにシューインは嫁入りをしてしまう。またシュウチーとのことも、大変だと思わせておきながら、「ワン」ではなく「ヤン」だという言い訳と、纏足の臭い靴をぶつけられただけで警察は引っ込んでしまう。もう少し綿密に物語世界を構築すれば、もっとおもしろくなったはず。それにニュウシュが役立ってチャオミンが活躍するという場面がないのは残念でした。結婚するシューインに三朝書を書くという場面は出て来ますが、それで辛さそのものが解決されるわけではなく、辛さをまぎらわせるため、となっています。結局、縛りや枠の中でなんとかやっていくということが大事という価値観になってしまっているように思いました。巻末に参考資料が3点上がっていますが、舞台となる場所も見に行かずに他の文化のことを書いてしまっていいのかなあという疑問が残りました。ストーリーが深まっていかないのは、そのあたりにも原因があるのではないでしょうか 。

花散里:まはら三桃さんのこれまでの作品とはちがった印象を受けました。装丁がきれいで美しく、タイトルも印象的で、中国の暮らしなどが分かり、好きな作品でした。女書のことを知りませんでしたので、見返しの模様が女書だとはわかりませんでした。纏足のことも、子どもたちはこの作品で詳しく知ることができるのではないかと思いました。少年、ワン・シュウチーとの出会い。シュウチーがいろいろな事情を抱えていて、後半の展開は興味深く読めました。女の子にすすめたい作品ですが、男の子には難しいでしょうか。

カピバラ:女書という、表舞台には登場しない文化についてとても興味をひかれました。だれにも言えない想いを、言葉につづって相手に伝える、ということは、今このデジタルな時代にかえって新鮮に感じられます。でも物語としては登場人物の造形が通り一遍で深みがなく、展開も盛り上がりに欠けて印象が薄かったと思います。一昔前の少女小説みたいな感じがして、作りものめいたというか、うそくさい感じを受けました。中国の民族間のちがいや文化についても、もうちょっと知りたい気がしたし、フィクションじゃなくてノンフィクションだったらよかったのにと思いました。見返しのデザインが女書だということも、どこにも書いてないので物足りなかったです。

トマト:読む前にネットの情報で、中国で女性だけが使っていた女書という文字のことや纏足を扱うものだと知り、期待して読み始めたのですが、予想していたのとちがい、軽く読める本だという印象でした。

マリンゴ: 私は非常に魅力的な物語だと思いました。辺境の部族のことをよくこんなに徹底的に取材されてるなと思ったら、あとがきで、登場する民族が「一部私の創作」と書かれていて、ひっくり返りましたけれど(笑)。それでも、がっかりという感じではなく、魅力は失われないと思いました。女文字は実在するわけで、事実とフィクションの境目をうまく描いた作品だと思います。ただ、この本の後で、『明日をさがす旅』(アラン・グラッツ/著 さくまゆみこ/訳 福音館書店)を読むと、その境目の描き方がさらにうまいので、違いはあるなと感じました。シュウチーが村に帰っていくシーンでは、ひとりでは抗えないことに対してあきらめないで戦っていくことについてのヒントを、チャオミンが得た気がしました。とてもいい言葉だと思ったのは、p239 「生活をするために必要な分以上のお金は、贅沢のために使うのではない。人の命を救うときに使うんだ」です。

西山:まず、装幀が美しい! ♯KuTooと絡めて、ちょっと書くつもりだったので、これは外せない作品だ、と嬉しく読みました。よくこんな題材を見つけてきたなと、感心したのですが、編集者からの働きかけだったんですね。まはらさんは、作品ごとにいろんな題材で書いてこられているけれど、本当に目のつけどころがおもしろいなと思いました。ただ、この物語の時代がいつなのかが気になります。前近代イメージで読み進めてきて、p103で「いいアイディアだね」の台詞が出てきて、へっ?! となっちゃったんです。あとで「警察」が出てきて、決定的に、いつの話だ? となってしまいました。「反体制」で警察に追われ、けれど、ジャコウという高価な賄賂でなんとかなるというのは、気になりすぎて、ちょっと物語から気持ちが離れてしまったのが残念です。でも、全体としては、豊かな女性の文化を感じさせてくれるし、「結交姉妹」というシスターフッドが、女同士の支え合いを見せてくれたし、女の子の育ちを応援しようという感じで共感をもって読み終わりました。

まめじか:エンタメとして読んだので、細かいところはあまり気にせずに楽しみました。文字を知り、世界を広げていくチャオミンの姿がすがすがしいですね。気持ちを言葉にしたいという想い、はじめて文字を書いたときの神聖な気持ちと胸の高鳴り、書き終えたあとのつきあげるような喜びが伝わってきました。纏足に象徴されるような、女性が力を奪われた社会にあっても、喜びや悲しみをつづることで支えられ、自由になれるのだと感じました。けして豊かではないグンウイやシュウチーが、貧しいわけでもないチャオミンのために落花生をくれたり、お母さんがチャオミンをあたたかく見守っていたりするのも、読んでいてあたたかな気持ちになりました。

さららん:私もエンタメとして楽しみました。ニュウシュという素材をとりあげ、子どもたちを楽しませながらも、少し考えさせる作品だと思います。文字を書くことで女性が自己表現を知り、生活の辛さから解放されるという要素がよかった――書き方は軽いかもしれないけれど。主人公チャオミンのはずむようなかわいらしさにひっぱられて、読み進めました。フィクションとしての中国は、作り物めいているかもしれない。でも、子どもが安心して中に入っていけるという面もあります。漫画を多く読んでいる子が、本の世界に向かうのにちょうどいい橋渡しになるかも。チャオミンの字がだんだんうまくなっていき、素朴だけれど心が伝わる表現ができるようになるところに、成長を感じました。珊瑚の筆があたたかかった。

コアラ:中国の女書というのは初めて知りました。見返しに飾りのようなものが印刷されていて、最初は単なるデザインかと思ったのですが、読み終わってみると、これが女書かもしれないと気がつきました。とても繊細ですよね。カバー袖の「わたしのちいさなサンゴの筆で、あなたへ言葉を送ります」とあるのも、最初はあまり意味がわからなかったのですが、読み進めていくと、とても思いのこもった手紙の書き出しだとわかって、胸が熱くなりました。日本人が、中国の女書のことを書く、というのがおもしろいと思いました。あとがきを読んで、作者がいろいろ調べたことがわかったのですが、調べて書いたことをあまり感じさせないのが、いいとも言えるし、時代設定をきちんとしていないとも言えると思います。登場人物、特にチャオミンがとても生き生きしているのはいいと思いました。「結交姉妹」というのもいいですよね。年上のお姉様への憧れがよくあらわれていると思います。女書の背景には、女性たちのつらい結婚生活があったということですが、現代の子どもが読むときには、仲間内だけで通じる暗号のようにとらえてもおもしろいんじゃないか、子どもたちが女書のような暗号を作ってみたりしたらおもしろいかも、と思いました。

ハル:チャオミンが覚えたての文字で書く手紙が、まっすぐで、言葉に綴る喜びにあふれていて、初々しくて、絶妙に胸をつき、作家はうまいなと思いました。題材も、お話も、大人の私はおもしろかったのですが、纏足しかり、前を向いて歩き続ける希望や、自由を求めての抵抗ということよりも、つらくてもこっそり文字に綴って耐える、というほうが強く印象に残り、子供が読んだときに「つらいときは書きましょう、歌いましょう」そして耐えましょうと、秘めてたえることが善策なのだと思わないといいなと思いました。

ルパン:おもしろく読みました。私が読んだこの著者の作品のなかでは、これが一番よかった気がします。ただ、『思いはいのり、言葉はつばさ』というタイトルが優等生すぎて、自分からは手に取らなかったかもしれません。中身のほうがずっとよくて、最後までふわっとした感じで読めました。耐えていた女性たちの歴史とか、知らない人のところにお嫁に行ってつらい目にあう中国女性の悲しみとか、ほんとうはつらいことがたくさんあるのでしょうが、少女たちの友情、親子の愛情などで美しいもので包まれている印象です。漢族の中にも貧富の差があったり、ほかの民族に対する差別意識があったり、それぞれプライドがあるのですが、いじめや争いにつながらず、友情で結ばれていくところがよかったです。「軽い」というよりは、本当に「ふわっとした」感じが全編にただよっていると思いました。纏足の靴を投げつけたらあまりの臭さに警察が逃げていく場面で笑っちゃったんですけど、そんなに簡単に脱げたのかな、という疑問が残りました。脱ぐのはたいへんだったんじゃないんでしょうか?

木の葉:時代背景については、近現代だとは思いました。纏足がいつごろまであったのか、というのはひとつのカギかなと。実は清代には禁止されていたものだそうです。清王朝は満洲族なので。ただ、実際には行われていました。辛亥革命後の1912年に纏足禁止令が出ますが、なかなかなくならず、1950年代まで続いたようです。物語に警察も出てきますので、イメージとしては解放前(1949年)ぐらいでしょうか。

さくま:当事者しか作品は書けないとは思いませんが、自分にルーツがない場所を舞台にするときは、やっぱり細心の注意をはらったほうがいいように思うんです。アイヌをとりあげた菅野雪虫さんの『チポロ』(講談社)にも同じような違和感を感じたのですが。ノンフィクションでなくても他者の文化を大事にしながらもっと対象に迫っていってほしいです。おもしろいテーマ、というだけではまずいんじゃないか、と思いますが、考えすぎでしょうか。

西山:歌や衣装は実在の民族のものを下敷きにしてるんですよね、きっと。

トマト:装画がかわいいですね。若い女性が手に取りたくなる本だと思う。この作品は、時代をさかのぼった中国の奥地の村を舞台とし、主人公は漢民族と少数民族の間に生まれた少女なのだけれど、読者はこのイラストのイメージで読んでいき、例えば私が思い浮かべるようなリアルな中国ではなく、中国の雰囲気が漂うふんわりとしたアニメーションのような世界を思い浮かべて読んでいるのだと思う。それはそれで悪くはないのだけれど、少し物足りない気がしています。

マリンゴ: まはらさんの作品だと、徹底的に取材して事実に基づいて書いたもの、と思ってしまうんですよね。

西山:カタカナ名前より、漢字にルビのほうが、その人物と漢字が表す意味が結びついて入っていきやすかったかなと思います。見た目は紙面が黒々としてしまうけれど。それぞれの名前に当てられる漢字が分かるなら知りたいです。

木の葉:ですよね。漢字が見えない。たとえば、「チャオ」というカタカナから考えられる中国語の音は4種類あって、カタカナでは多種類の音を統合してしまいます。昨今は、映画などでも、カタカナ表記が一般的ですが、もともと漢字は表意文字なので、漢字にルビをふってくれたほうが、しっくりきます。

花散里:結交姉妹になったシューインは、美人で裁縫も文字も上手、という魅力的な女性のようなので、どんな漢字なのかと思いました。

西山:「〜さんにわたしは書きます」という手紙の書きだしがなんとも愛らしい! 中国の手紙の書き出しの定型として、こういう形があるのでしょうか?

木の葉:私は、歌なのではないか、と思いました。

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エーデルワイス(メール参加):美しい文体です。「ニュウシュ」は文字や書というよりなんだか模様のようですね。女性同士で手紙を交換していたなんて、子どもの頃に読んだ吉屋信子の少女小説(母世代のベストセラー作家)を思い出しました。女学校の憧れの先輩に「お姉様になって」と告白するなんていうこと、書いてありましたよね。漢族の女性は『纏足』するけれど、ハル族の女性は『纏足』をしないとか、民族によって違うのですね。それにしても痛そう。切ないけれど爽やかな読後感でした。

(2020年02月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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ルイジンニョ少年〜ブラジルをたずねて

『ルイジンニョ少年』の表紙
『ルイジンニョ少年〜ブラジルをたずねて』
かどのえいこ/文 福原幸男/絵
ポプラ社
2019.01

<版元語録>移民として2年間暮らしたブラジルで出会ったルイジンニョ少年はじめ多様な人々との交流を描いた、角野栄子のデビュー作を復刻!

まめじか:角野さんの『ブラジル、娘とふたり旅』(集英社、あかね書房)が大好きで、子どものころに何度も読みました。はじめて見たブラジルがニューヨークみたいだと思ったというのは実感があり、昔に書かれた本ですが新鮮みがあります。叱られたルイスが壁に向かって立ちながら手と足を鳴らす場面が好きです。心臓に響くようなオノマトペは、角野さんだから生まれた言葉ですね! 気になったのは最後の「ブラジルについて」です。日本人がアマゾンを開拓したことが肯定的に書かれていますが、今はアマゾンの開発も種の絶滅も深刻な問題になっていますよね。ブラジルの人が日本人を尊敬しているという文章もひっかかりました。こうした部分は、復刻版として出すときにはあとがきでフォローしたほうがよかったのでは。

ハル:文章がもう、イキイキしていて、みずみずしくて、あんまり上手で楽しくて、感激して泣きそうになってしまったくらい。「なんて素敵なエッセイだ!」と読み切って、「復刻版あとがき」の冒頭で、小説だったことを知りました。もちろん、小説だったとしても良いものは良いんですけどね。でも、気持ちはとてもわかりますが、この表紙が……どうなんでしょう……。絵も、とてもいい絵だとは思います。装丁も、当時の雰囲気をそのまま再現することは、思っている以上にきっと繊細な作業なんだろうとも思います。でもやっぱり、いま読んでほしいと思ったら、どうなんでしょう・・・。本文に手を加えない以上は、やっぱり絵も装丁も当時のままで、外側だけ新しくするのもつじつまがあわないでしょうか。復刻愛蔵版としてコレクションにしておくのはもったいない気もしますが、でも、復刊の意図がそこにあるんだとしたら、やっぱりこのままが正解なのかな。

ネズミ:復刻版って、ほんとにそのまんまなんだと、出たときに驚きました。今のように情報がいくらでもあるわけじゃない時代に、見たことのない世界に飛び込んでいくようすがとても新鮮でした。50年以上前の経験に基づいたお話とはいえ、ラテンアメリカの人たちに今の感じる気質を伝える部分がたくさんあります。ブラジルの人びとの暮らしぶりを伝えるフィクションは少ないので、貴重な作品だと思います。角野さんの作品では、『ナーダという名の少女』(KADOKAWA)もブラジルが舞台ですが、こちらのほうがより日常のようすが伝わってくる気がします。p44のサンバを踊ろうと誘いかけてルイジンニョが「立てるんでしょ。あるけるんでしょ。それでどうしておどれないのさ。ほら、ちゃんとうごいているじゃないの。」と言うシーンが印象的でした。サンバを、白人も黒人もインディオもみんな踊るというのが、生き生きと伝わってきます。

マリンゴ:1970年の本なのですが、角野さんの幻のデビュー作の復刊ということで、とても興味を持って読みました。装丁が、自分が子どもの頃に読んでいた本と同じ、とても懐かしいデザインです。そういえば昔の本は、作家紹介のところに住所まで書かれてましたよね(笑)。ただ、一方で、当時と同じ体裁で出したため、新刊の印象がなくて、今の子どもが手にとりにくい気がします。そして内容についてですが、ブラジル移民と聞いてイメージするもの、たとえば農地開拓とそれに伴う苦難など、と、サンパウロでの角野さんの体験がまったく違うことにびっくりしました。こんな大都会への移住もあるのですね。角野さんのエッセイをよく拝読して、好奇心旺盛であちこち出かけられるエピソードは知っていましたが、ここまで行動的とは。角野さんの創作の源泉に触れられた気がしてよかったです。

サンザシ:絵は古い感じが否めませんが、文章はみずみずしいですね。ただブラジル語とか、今は差別語と言われているインディオという言葉が出て来て、ええっと思いました。たぶん角野さんも変えたい箇所とか言葉はあったと思うんですけど、それを始めると際限がないので、思い切ってそのままの形で出したんでしょう。p81に「わたしは日本人、あなたはブラジル人よ、という区別をしていたのです。なんてちっぽけな、なんてみみっちい気もちでしょう。わたしはこの国のめずらしいものを見に、観光旅行にきたのではなかったはずです。ごちゃまぜの生活をするためにきたのです。わたしの顔の色が、きいろで、あいてが黒でも、白でも、オレンジ色でも、わたしの国が東でも、北でも、西でも、そんなことが、なんだというのでしょう。たいせつなことは、もっと大きな、やさしい気もちをもってくらすことだと、このときはっきりとわかりました。やっと、ごちゃまぜの生活をするということの意味がわかったような気がしました」とありますが、多文化共生の視点がちゃんとあって、それを子どもにわかるように書いてあるのがいいと思いました。とはいえ、これを出したときの角野さんは若いので、欠点も長所もきちんと見たうえで受け入れると言うよりは、長所を評価して、わくわくしながらそこに飛び込んでいくというスタンスですね。今は森林破壊の問題など欠点も見えているでしょうから、今あらためて書いたら、もう少し違うスタンスになるでしょうね。

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西山(追記):読書会後に読みました。サンバの場面に限らず、なんだが、「たのしい!」がうずうずして、じっとしていられないという感じの文章ですね。ルイジンニョの落第が発覚して、エイコさんが気をもむほどの修羅場になっていたのに、下の道路で起こった事故にすぐ興味を移して親子三人仲良く野次馬になっている様子、吹き出しました。ところで、「ルイジンニョ」って、今なら「ルイジーニョ」と表記するのでしょうか。角野さんのルーツであることが実感されて、多くの読者が感慨深く読むと思いました。

しじみ71個分(メール参加):大人の「えいこ」の目線で描かれるブラジルの暮らしと人々は本当に生き生きとしていて、読んでいると心が浮き立ってきます。擬音の魔女というべきか、決して本当のサンバのリズムを音写したような、とまでは思わないのですが、擬音がうきうきわくわくとした雰囲気を伝えてくれます。学校の成績の件でえいことルイジンニョ少年は仲たがいをしてしまい、少年はえいこを許さず、なかなか元通りにはなりませんが、この点には非常に深いリアリズムを感じます。最後は幸福なサンバの祭りの中で修復されていきますが、ある意味甘さを廃した、人の現実を見つめる鋭い視点が貫かれていると思いました。えいこの目を通して描かれるブラジルの美しさ、雄大さ、おおらかさは本当に魅力的で読むほどに引き込まれていきます。ブラジルはこんなに素晴らしい国なんだということが、えいこの一人称で語られるので、個人的体験から導き出されたものとして非常に深い強い説得力を持って伝わります。こんなものを20代で初めての作品で書いてしまうなんて、やっぱりすごい人だなぁと心から思いました。

エーデルワイス(メール参加):角野栄子さんの1970年デビュー作なのですね。分かりやすいし、温かいお人柄が滲み出る文章です。さすがに挿し絵は古いかな。1959年に東南アジア、アフリカそしてブラジルに2年間滞在。それからヨーロッパ9000キロ自動車旅行。驚きです! アクティブな海外旅行が珍しい時代。グローバルな見方を確立されたのですね。

(2020年03月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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あたしが乗った列車は進む

『あたしが乗った列車は進む』表紙
『あたしが乗った列車は進む』
原題:TRAIN I RIDE by Paul Mosier, 2017
ポール・モーシャー/著 代田亜香子/訳
すずき出版
2018.06

<版元語録>ママを亡くし、いっしょに暮らしていたおばあちゃんも亡くなり、主人公「あたし」は、一度も会ったことのない大おじさんに引き取られることに。カリフォルニア州パームスプリングスから、ロサンゼルス経由でシカゴへ。ひとりで乗った長距離列車の3日間の物語。

ハル:胸に迫るラストでした。思い出しても込み上げてくるものがありますね。素敵な物語でした。長距離列車や、広い大地や、人間関係も、海外の小説ならではの魅力もあって、読み応えもありますが、全体的に少しおしゃれというか、詩的な部分もあって、ところどころ、わかるような、わからないようなという部分もあったように思います。もともと機知とユーモアに富んだ、魅力的な主人公なんですよね。列車の中で出会ったひとたちが、みんな夢中になっちゃって、多少いい人が多すぎると思わないでもないですが、この子がここに至るまでを思うと、古い自分の殻を破るには、このくらいの応援が必要なのかもしれません。

ネズミ:すごく好きでした。地味な本ですが、いろんなことを考えさせられるいい作品だと思いました。列車に乗っているときって、できることは限られていて、景色を見ながら内省的になりますよね。そんな旅の最中の心の動きにそって物語が進んでいき、父親がわからず、母親が死に,おばあちゃんも死に居場所がない、この子のよるべのなさが浮かび上がっていくのがうまいなと。受けとめてくれる人が早く見つかってほしいと思いながら読み進めました。列車の中での人との出会いはどれもおもしろく、とくにテンダーチャンクスに詩の本をもらうというのが、意外性もあってとてもいい。ただ、この子の目の高さが違うという設定は、そうじゃなければならなかったのかなと思いました。『ほんとうの願いがかなうとき』(バーバラ・オコーナー/著 中野怜奈/訳 偕成社)のハワードが、足が悪かったのを思い出し、優しい声をかけてくれる人にそういう特徴を持たせなければならないのかなと。だけど、次に踏み出していく物語として、とてもいいなと思いました。求めている子どもの手に届けたい作品です。

ハル:私は最初、「目の高さがちがう」とあるのは、初恋の特徴的なものというか、意識しはじめた男の子の顔のこまかな特徴を、チャームポイントとしてロマンチックにとらえているのかな? と思っていましたが、読み進めていくと「いいほうの目」(p183)とあって、そこで初めて、そういうことかとわかりました。

西山:列車で移動していくという仕掛けが生きていると思いました。回想にふけったり、あちこちに思いが飛んだりすることで、ライダーの抱えているものが見えてくるのだけれど、それが、読者を謎で引きつけ続ける思わせぶりな方便では無く、長距離列車に揺られながらの物思いとしてとても自然です。車窓の風景が変わっていく様子、せっかく親しくなってもやがて訪れる別れ・・・人生の比喩としてまとまった世界でした。この本を読んでいるときに、ちょうど卒業生にメッセージを伝える機会があって、この中から1節を紹介しました。「悪いことはいっぱいあったけど、それでどうにかなったりしない。あたしは、自分で選んだふうにしかならない」(p162)。もう1カ所カルロスさんの言葉「もっともすばらしい人たちは、いろいろ感じることができて,心に希望を抱いている人間だよ。まあ、それはときに、傷ついたり失望したりするということだけれどね。ときにどころか、つねに傷ついたり失望したりしているのかもしれない」(p226)。望むからこそ傷つくこともあるけれど、「こうしたい」「こうありたい」という思いを捨てず、自分で自分の人生を選んでいってね、と伝えました。あと、心が解放されていく過程でトイレをめちゃくちゃにしたり、恋のめばえがあったり。一色でない心の動きが物語を味わい深くしていました。来年度、学生にすすめようと思います。

マリンゴ:ずいぶん前に読んだのですが、ぼろぼろ泣いてしまって困ったのを覚えています。どこで泣いたんだっけ、と思ってざっと再読してまた泣いてしまいました(笑)。やっぱりラストですね。深刻な内容ですけれど、電車の走る疾走感のおかげか、どこか爽やかさが漂うところが魅力だと思います。ヒロインが、お菓子やパンを手に入れると、計画的に少しずつ食べないで全部一気に消化してしまうシーンが印象的です。身体的な飢餓感は、精神的な飢餓感と直結しているのだなと思いました。

サンザシ:私もかなり前に読んで、読み直す時間がなかったので、細かいところは忘れています。日本は自己肯定感の低い若者が多いって言われてますけど、この本の主人公の少女も自己肯定感がとても低いんですね。『太陽はかがやいている』という小さな本をお守りのように持っているものの、自分は太陽と縁遠い存在だと思っています。助けはいらないし自力でなんとかしようと気を張っているけど、ひ弱でもある。読んでいくと、ドラッグ中毒の母親とニコチン中毒の祖母にネグレクトされた少女だということがわかるんですが、嘘もつくし万引きもします。しかもあったことのない大おじさんの住むシカゴに行かなきゃならない。読者もそれは大変だと思って読んでいくことになります。過去の出来事と現在の出来事の両方で物語は進みますが、現在の流れの中で出会うのはいい人たちばかり。列車の中の出会いがすべてプラスに働くというのは現実にはあり得ないかもしれないけど、まったく希望のなかった少女が未来への希望を取り戻していく物語としてはよくできていますね。鏡を割るのは、自分の存在を否定しようとしている自分を壊す行為なんだと私は思いました。そこが象徴的でとてもおもしろいと思いました。自己肯定感を持てない日本の子どもにも読んでもらいたいな。

まめじか:自己肯定感が低く、自分にも周囲にも価値を見出せないライダーはアレン・ギンズバーグの『吠える』を読んで、「生き残れない人たちは、べつにどこも悪くない」「正されなきゃいけないのは、その人たちを破滅させる世界のほう」だと悟ります。ライダーの怒りと心の叫び、それと汽車の警笛が響きあうラストが圧巻です。ライダーのような、困難な状況下の子どもが出てくる本を書いているアメリカの児童書作家のジェイソン・レノルズが前に「自分の中の人間的な部分のスイッチを切ってはいけない。泣いたり怒ったりするのを恐れるな」と若者に語っていたのを思いだしました。

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アンヌ(メール参加):実に、鉄ごころ、鉄道好きの人の心を打つ小説に出来上がっていて、だからこそ、男の子が主人公ではなくてよかったと思える作品でした。というのはラストの運転手席で警笛を鳴らす場面などは、まさしく鉄の夢だから。主人公を男の子にしてしまうと、ずっと鉄道に夢を抱いてきたということになってしまって、主題とはずれてしまうからです。そうではなくて、このラストは、主人公が怒りを吐き出しつつ近づいてくるシカゴに、未来に向かっていく場面で、でも、少し鉄の私にはうらやましい場面です。読んでいて主人公のつらい過去の出来事にも身をさいなまれたけれど、何より途中で本を置きたくなってしまうほどつらかったのは、主人公が飢えていて、それが相当深刻なものだということを、誰も本人でさえ気づかないということ。せっかく手にしたお金をブレスレットに変えてしまうところを読んで、もう、地団太踏んでしまうほどでしたが、でも、ここら辺から物語はかなり詩の世界に物語が滑り込んでいて、この現実感のない行動はまさしくティーンの物語だとも思えてきたし、まあ、ニールにプレゼントできるものがほしいよね、仕方ないなと思いました。おばあちゃんが作るパンケーキの場面はおいしそうで最高なのに、それが死と結びついてしまうところも、おいしいもの好きの私にはつらいところでした。

しじみ71個分(メール参加):カリフォルニア州パームスプリングから、シカゴまでの数日間で、肉親を亡くし、傷だらけの心を抱く少女“ライダー”が、車内で出会った人々とのつながりの中で心を開き、自分を見つめ、芽生えた新たな希望を持って新天地に向かうという話で、温かで穏やかな読後感をもたらします。車内での数日の間に、母は薬物中毒でそのために亡くなり、その後共に暮らした祖母は決して優しさを前面に表す人でもなかったこと、恐らく互いに思い合っているのに表せないまま死を以て家族と隔てられたこと、詩を解し、知恵があり、心優しく、美点を多く持ちながら、求める愛を得られなかったために自己肯定感を持てずに育ったことなど、ライダーの持つ背景が明らかになっていくと同時に、列車に同乗する人々が交流の中で、家族のようにみなライダーを応援し愛し支えていくという展開は巧みで引き込まれました。少女ライダーが詩を媒介にボーイスカウトの少年テンダーチャンクスとつかの間初恋を経験するくだりも美しいし、旅の途中で母の遺灰をまき、別れを告げる場面も非常に心に残ります。ニール、ドロシア、カルロスなど見守る大人も大変に魅力的です。短い文を重ねていく文体で、回想と現在の場面を鮮やかに交差させ織りなしていく手法も見事だと思いました。愛は肉親でなくても長期間でなくても子どもに自信と希望を与えうるという力強いメッセージも感じます。
ただ、しばらくして、もし、ライダーが特段賢くもなく、詩も愛さず、心優しくもなく、自己肯定感を持ちえず自暴自棄で粗暴で他人を傷つけることを厭わない子だったら、こんなに車内の大人たちは彼女に共感し、同情し、支えようとしただろうか、また、同乗する人々がこのように好人物でなければライダーはシカゴまでの間で希望を持てるだろうかとふと考えてしまいました。そう思うとこの物語は痛ましい経験を持ち傷だらけだけれども、素晴らしい才能を秘めた「選ばれた」子どもが、偶然にも包容力のある大人たちに囲まれて自分を発見し傷を癒し愛することを知る、非常に「幸運な」物語のように見えてきます。児童文学の向日性というのは時に大事な要素だと思いますが、そんなにうまくいくことが現実にどれくらいあるだろうかと思うと逆に切なくなり、少し白けた感が残りました。

エーデルワイス(メール参加):「あたし」の過酷な生い立ちがどんどん分かって、(特にp201の12行目など)列車を降りてからの生活が必ずしも幸せになるかどうかが分かりませんが、読後感が爽やかです。車中で出会った人たちが皆温かい。誕生日を祝ってくれ、ママの遺灰を森に撒くのを見守ってくれる。初めての恋と共にたくさんの愛情を知って、さらに詩人になると目標をもちます。列車の中でお腹をすかしたところはなんとも可哀想ですが、あれこれ考えお金を稼いでいるところがたくましいですね。精神科医ローラがp79で「なりたい自分になれるよう努力して。そして自分を愛するの。それができてはじめて、自分の気持ちや他人の意思を、心から信用できるようになるの」と言いますが、ここがこの物語で一番言いたいところかと思いました。

(2020年03月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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リスタート

ゴードン・コーマン『リスタート』表紙
『リスタート』
原題:RESTART by Gordon Korman, 2018
ゴードン・コーマン/著 千葉茂樹/訳
あすなろ書房
2019.07

<版元語録>人生は、やり直せる! チェース・アンブローズ、13歳。夏休みに屋根から落ちて記憶を失った。どうやらおれは、アメフトのスター選手だったらしい。しかし、それ以上にとんでもないワルだった・・・。

マリンゴ:非常に引き込まれる作品でした。この物語では、記憶を失った自分が「素」の自分で、記憶を失う直前の自分が、環境に影響された自分なんですね。どんな環境にいるかによって人は変わるし、その環境を自分がどういうふうに生かせるか、あるいは生かせないかによっても、人は変わるのだ、というメッセージが伝わってきました。一番悪いやつ、首謀者、と思われている人物も、周りがそうさせている部分が大きいかもしれないと思います。気になったのは、音楽室のチューバが泡だらけになるバトルシーン。描写は細かいのですが、具体的にどこに誰がいて何が起きたのか、わかりづらかったです。なので、後で動画で誤解が解けたときも、「なるほど!」という鮮やかな印象には至りませんでした。あと、ラストの裁判シーンが出来過ぎというか、うまくまとまり過ぎているように思います。

西山:『弟の戦争』(ロバート・ウェストール/作 原田勝/訳 徳間書店)のラガーマンの父親を思いだしたりして、マッチョな価値観が満ちている場は本当にいやだなと思いました。本筋とは関係無いのだけれど、「お前のかーちゃんでべそ」的、女親を蔑む悪口って、世界共通であるのだなと思うと、男親ではそういうのは聞かない気がして興味深いですね。たまたま最近読んだラテンアメリカの小説で久しぶりに「イホ・デ・プータ(売春婦の息子)」を見ていたので、気になったのですけれど。老人の戦争体験を今の子どもが知るというのは、よくあるパターンですが、ソルウェイさんの屈折の仕方がとてもおもしろかったです。勲章をもたらした戦場での活躍の実態が書かれていて、それを誇れない過去として無意識に封印しているらしいところに共感を覚えました。

ネズミ:うまいエンタメだなと思って読みました。章ごとに語り手が入れ替わって、その人の視点で語る手法は『エヴリデイ』(デイヴィッド・レヴィサン/作 三辺律子/訳 小峰書店)に似ていますね。これまでの自分をチャラにして、全く新しい自分で生き直したいというのは、誰しも一度は思ったことがあるのでは? なので、あり得ないハチャメチャな設定だけれど、おもしろく読めるだろうと思いました。ただ、日常の食べ物や生活ぶりなど背景はアメリカの文化が色濃いので、海外文学を読み慣れていない中学生にはややハードルが高いかな。わからないところは読みとばしてしまえばいいのでしょうけれど、たとえば、p277 「見た目は列車相手にチキンレースをして負けたみたいだ」のチキンレースとか、私もわからないところがありました。主人公は13歳だけれども、高校生ぐらいに思えてしまうし。ラストはできすぎているけれど、元気が出ますね。

サンザシ:最初にエンタメ系だと思って読めばよかったんだけど、そうじゃなかったので、記憶喪失した人の性格がまったく変わるなんてあり得ないし、ストーリーラインが漫画風だなと思ってしまいました。チェースのお父さんががらっと変わるのもどうかなと思ったし、最後にソルウェイさんの証言で少年刑務所行きを免れるのも出来すぎだし、昔のワル仲間のベアとアーロンが勲章を盗んだんじゃないかと疑うのも短絡的だと思って、物語の中に入り込めませんでした。あと、ブレンダンがユーチューブの企画をするわけですけど、三輪車で洗車マシンを通るとか、全身タイツにシロップをかけてローラーブレードで葉っぱの山に突っこむなんていうのが全然おもしろいと思えなくて。つまり、最初にイメージした物語と違う展開だったので、私は楽しめなかったということだと思います。青いドレスの少女の謎、というのはうまいなと思いました。ちょっとひっかかったのは、ソルウェイさんが戦争で手柄を立てたことを少年たちがすごいと思っているところと、ベアとアーロンがどうしてワルなのかという裏側が書かれていないところでした。

ネズミ:ユーチューバーになりたいとか、再生回数をあげようとかは、今の中学生は共感できるのではないでしょうか。

サンザシ:気持ちはわかるけどね。最後のだけはちょっとおもしろいだろうなと思いましたが。

まめじか:ランチルームをサバンナにたとえている箇所なんかすごくおもしろくて、ユーモアがありますよね。チェースは記憶をなくして自分探しをはじめるんですけど、自分という人間がわからなくなったり、自分という存在にも恐怖を感じたりするのは思春期の若者の普遍的な姿ですよね。そんなチェースが自分に似たソルウェイさんにシンパシーを感じ、必要とされる経験を通して成長していくのはいいなと思いました。ただ戦争で勲章をもらって英雄視されるのは、児童書・YAとしてどうなんでしょうね。アメリカの本にはときどきありますが。そういうところはなんだかマッチョな感じが鼻について、あんまり好きになれなかった。p132に「死んだ人間は、自分がどの軍服を着てたかなんて気にしない」とは書いてありますけど。

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しじみ71個分(メール参加):主人公チェースは中学アメフトの州大会チャンプであり、チームのキャプテンであるという輝かしい経歴を持ちながら、一方、暴力的で悪事を好み、学校の同級生たちを苛め抜き、転校させるまで追い込み、教師も止めることができないほどの暴君であったが、屋根から落ちた衝撃で記憶喪失となって性格が変わり、まっさらな他人の目で自分のやってきたことを見つめ、失敗したり誤解されたりしながら、学校の仲間や過去に迷惑をかけた老人たちの応援を受けて人生の再スタートのチャンスを得る物語で、そんなことってあるかと思いながらも面白く読みました。ただ、自分の犯した悪事に向き合うのは記憶喪失にならないでもできるのではないかとも思います。記憶喪失という装置を使って、半ば他人の目で自分の悪事を他人事として振り返るのと、自分の犯した罪に自覚的に向き合うのとでは葛藤の深さが違うようにも思われ、記憶喪失を利用したところは、作家のちょっとしたずるさを感じました。主人公は最後に全てを思い出して、正しい行動をとろうとするのですが、改心とか葛藤など心の揺れや苦しみをそのまま普通に描くことはできなかったのだろうか、と思います。ビデオクラブ部長のブレンダンの人物造形は魅力的です。YouTubeにのめり込んで何とか面白い動画を撮ろうとする姿は滑稽でありながら真摯で、今時のアメリカの若者の雰囲気を感じます。このビデオクラブの存在がチェースの再スタートのきっかけを与える重要な役割を果たしていますし、力は弱くともブレンダンの聡明さがチェースを救う構図もとても良く、昔のアメリカ製ホームドラマで描かれていたようなアメリカの良いところを思い起こさせられました。

エーデルワイス(メール参加):三谷幸喜監督の映画『記憶にございません』も同じ設定ですね。記憶喪失になって、良き人間になるという発想はよくあることなのでしょうか? 主人公のチェースはアメフトの花形スターですが、やはりアメフトのスターだった父親にコンプレックスを持ち、本当の愛情を求めていたのかもしれません。アメリカらしい大人気のアメフト、スマホ、ユーチューブと現代的ですね。父親の妻と娘(チェースの妹)に助けられるところに、新しい家族像が出ている気がします。チェース、ショシャーナ、ブレンダンが交互に一人称で語るのは、面白いと思いました。

(2020年03月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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希望の図書館

『希望の図書館』表紙
『希望の図書館』
原題:FINDING LANGSTON by Lesa Cline-Ransome, 2020.07
リサ・クライン・ランサム/作 松浦直美/訳
ポプラ社
2019.11

<版元語録>一九四六年、アメリカ。「黒人は、図書館に入れない」とラングストンの母親は言っていた。しかし、新しく越してきたシカゴの町で、ラングストンは、だれもが自由に入れる図書館を見つける。そこで、自分と同じ名前の詩人が書いた本と出会い、母親の「秘密」にふれることになる…。読書の喜びを通じて、小さな自信と生きる勇気を手に入れていく少年の物語。

たんぽぽ:おもしろかったです。最初は、差別を描いた本かなと思いましたが、違っていました。主人公に、心なごむ場、図書館があり、本当に良かったと思いました。個人的には、お母さんが好きな詩の作者の名前を自分につけてくれたことを、お父さんにも話し、心ゆくまで語り合ってほしかったです。

マリンゴ:非常に落ち着いた静かな筆致で、素敵な作品だと思いました。母が詩人ラングストン・ヒューズをとても好きだったことを主人公は知って、でもそれを父には言えない、というくだり。「本」に出会って、世界の見え方が変わってくる象徴的な場面で印象的でした。ほぼパーフェクトな本ですが、少し気になったのは、終盤まで、ラングストンが小学中学年くらいにしか思えない点でした。たとえば、階段を上がるフルトンさんのおしりを見るシーンが、幼い子の反応のように思えたりして。クレムと話すようになって、ライモンと対決するあたりで、急に中学生らしくなる印象がありました。

まめじか:ラングストンは11歳ですね。

マリンゴ:なるほど。11歳だと、小学中学年とは誤差の範囲内と言えますね。うーん、やはり幼い気はしちゃいますけども。あと、最後の7行くらいが、物語を総括しすぎていて、ないほうが余韻が残ったかもしれないとは思いました。

サークルK:原題は“Finding Langston”(ラングストンをさがして)というものですが、邦題は読者にわかりやすいように、主人公にとって図書館が希望そのものになっていくテーマそのものを表現していて良かったと思います。実在する詩人のラングストン・ヒューズの詩を知識として知っていたら、さらに重層的に楽しめるのだろうと思われました。フィクションの中に、このような形でノンフィクションをうまく取り込んでいるところがうまいと思います。母・妻を亡くして田舎から都会へ引っ越してきて、息子と父親がすれ違ってしまうのかと思いきや、徐々にまた歩み寄っていく描写や、フルトンさん(パール)が単なる隣人ではなくなっていく描写も行き届いていて、しみじみとさせられました。

カピバラ:まず、なんて素敵なタイトルでしょう。日本の読者はタイトルに「ラングストン」という名前があってもピンとこないでしょうから、変えたのだと思いますが、良いタイトルだと思います。本を読むのが好きな子どもが、はじめて図書館に行ったときの気持ちは想像しただけでワクワクするものがありますが、ラングストンは、帰り道がわからなくなったので聞こうと思って、偶然に図書館を見つけるわけですね。その場面の描写がとてもリアルで印象に残りました。閲覧室に通され、「図書館の空気を吸いこむと、古い紙や糊のにおいと、木のにおいがした。母さんがよく作ってくれた、ピーチパイよりいいにおいだ。ここにある何もかもが新しくみえ、ぼくのくたびれたくつが、もっとくたびれてみえた」(p46)と、目に入ったことと、においを描写しているのがリアルで良かったです。いちばん好きなところは、その後の「ぼくは本棚に近づいて片手ですうっとなで、帰り道をきくことなんてすっかり忘れていた」というところと、「どれでも好きな本を、借りられますよ」と司書に言われ、「どれでも好きな本」と、誰に言うともなくささやいた、という描写。気持ちが手に取るようにわかり感動しました。お父さんや亡くなったお母さんの描写もとてもうまく、どんな人なのか、息子とどんな関係性だったのか、よくわかりました。特にお父さんは、妻を失った悲しみが大きく、働くことにいっぱいいっぱいで、息子への愛情をうまく伝えられない。でも父と子は、たった2人の暮らしの中で、少しずつ理解しあっていくのがうれしかったです。ラングストンは、ラングストン・ヒューズの詩に大きな共感をおぼえ、勇気づけられていくのですが、優れた詩、あるいは文学には、どれほど子どもの背中を押す力があるのかがわかり、印象に残りました。2020年に読んだ本の中でいちばん好きな1冊でした。

木の葉:出版からほどなくして読んだのですが、今回再読する時間がとれず、あまり内容は覚えていません。ただ、とても読後感がよかったことだけは、よく覚えています。今回、パラパラと本をめくって、フルトンさんも素敵だったな、と思ったり。それから、ラングストン・ヒューズの詩をちゃんと読んでみたくなりました。本のサイズと形はどうなのでしょうか。私は広げて読むのに、ちょっと持ちづらいなと思いました。

さららん:私もp46の図書館に入ったときの描写、「図書館の空気を吸い込むと・・・ピーチパイよりいいにおいだ」というところが、いいなあと思いました。そこに至るまで、アラバマから父さんと2人でシカゴに来た主人公ラングストンの、暗い日々の描写が続いただけに、図書館で初めて解放された主人公の心情に、強く揺さぶられたんだと思います。リサ・クライン・ランサムはすごくいい作家だ、と感心しながら読み進めました。ラングストンが詩の中に見つけた母さんの秘密を、父さんにあえて明かさないところが、父さんと息子の関係に奥行きを与えています。そして物語全体を通して、言葉の力を信じる気持ちが強く伝わってきます。p136でフルトンさんの朗読を聞いたあと、ラングストンが「今夜はぼくの頭の中の〈声〉がぎこちなく詩を読むのをききたくはなかった」という一文がありましたね。フルトンさんの声をしみじみ味わっていたかったと感じる主人公は、そこで音の芸術としての本物の詩に出会ったんでしょう。司書のクックさんもふくめて、未知の大人との出会いにより、知らない世界に目を開かれ成長していく主人公を描き、その主人公が今度は父さんをも変えていくところに惹かれます。

まめじか:スコット・オデール賞を受賞したときから気になっていた本です。そのとき調べたので、11歳だということがわかった上で翻訳を読むことができましたが、たしかにラングストンの年齢はわかりにくいですね。言葉づかいも少し幼く感じました。p183で、なぜ詩が好きなのかときかれたラングストンは、「だれかがぼくだけに話しかけている感じがする」「ぼく以外のだれかが、ぼくのことをわかっていてくれている感じがする」と言いますが、これはまさに詩の本質ですよね。自分の心に直接語りかけてくるような親密さというか。北部への黒人の移住とか、ポートシカゴの事件とか、アメリカの歴史を背景に、南部にくらべてにぎやかすぎて寝つけないとか、ラングストンが五感で感じたことがしっかり描かれています。

しじみ21個分:コロナで読書会が延期になる前に読んで、今回読み直しましたが、ますますこの本いいなあと思いました。ラングストンの視点にずっと寄り添ってお話を読むことができました。また、表現が非常に体感的でリアルだったので、図書館の中に初めて足を踏み入れたときの感覚、中を見回す感触、図書館の請求記号がわからなかったり、図書館で知らない言葉をおぼえていくときの頭の中の動きの感じだったりとか、ラングストンの感覚を追体験することができ、映像が眼前に広がりました。また、息子から見たお父さんの姿っていうのもリアルで、田舎から大都会シカゴに出てきて働き詰めで、不器用で、不愛想で息子への愛情もうまく表現できないという人物像もしみじみと胸にしみてきました。アメリカと日本とで文化的な背景が異なるなと感じたのは、詩の描かれ方で、アメリカでは詩や詩人がより高く評価され、浸透していると感じました。ラングストン・ヒューズの詩も多く引用されていましたが、自分が好んで聞いていたブルースから受ける印象と全く同じで、物語の後ろにブルースが聞こえているような感じを受けました。図書館司書の描かれ方も親密すぎず、でもきちんと利用者のニーズに応えているという点がリアルで好感が持てました。また、フルトンさんが読んだ詩を思い出し、つっかえつっかえになった自分の声を思い出さないようにするというのもいじらしくて、胸にぐっときたところでした。

アンヌ:私はラングストン・ヒューズの詩を知らなかったのですが、以前読んだ『リフカの旅』(カレン・ヘス/作 伊藤比呂美+西更/訳 理論社)と同じく、児童書の中で詩と出会うと主人公になって詩を読めるので、この物語のおかげで国も言葉の違いも関係なく詩と出会うことができてうれしいです。引用されている詩を調べようとしている途中なのですが、元の詩の省略されている部分とかを知ると、なるほどこういうふうに作者は物語の中に生かそうとしたのだなと仕組みがわかってきてさらに楽しめます。図書館に行くと偶然手に取った本に運命を感じることがあるのですが、この主人公も図書館で詩に出会い、その中に自分に語りかけてくれる言葉を見つけることができたし、母の秘密を知ったりもするし、父や周囲の人と会話できるようにもなる。そんな図書館と詩の魅力が詰まった読み応えのある本でした。

エーデルワイス:『ソロモンの白いキツネ』(ジャッキー・モリス/著 千葉茂樹/訳 あすなろ書房)の設定によく似ているなと思いました。主人公の男の子が母親を亡くし、父親と都会に出て、学校でいじめられ、居場所がないという。この本の主人公ラングストンは図書館に居場所を見つけました。酒井駒子の絵の表紙が素敵で好きなのですが、原書にも元々の表紙があると思います。日本人に合わせて表紙を変えているのでしょうか?そこのところを教えて頂きたいです。都会にいる黒人が田舎から来た黒人を差別することもあるのですね。黒人を蔑視する言葉に、北部の「ニグロ」に対し、南部の「カラード」の言葉があるということも今回初めて知りました。ショックでした。あと、詩が日常的に、家庭でも暗唱、朗読されるというのが素敵でした。p152~153、p163、p164など印象に残っています。

サンザシ:原書のFinding Langstonの表紙には、日本語版と同じような服装のアフリカ系の少年が大都会のビルの狭間で立ち尽くしているところが描いてありますね。それだと図書館や本とのつながりがわからないから、酒井さんに依頼したのでしょうね。判型も小学校高学年から手にとってもらいたいということで、敢えてYAとは違えているんでしょう。ただ主人公のラングストンは、最初は寂しいんですけどかなりのエネルギーを持った子どもなんで、この表紙絵とはちょっとイメージが違うように私は思いました。それから当時のアメリカ南部と北部はずいぶん違ったのですね。南部のアラバマでは、黒人が図書館を利用できなかったことは、初めて知りました。それから、黒人の貧しい少年にとって、自分と同じような境遇の作家が書いた作品を読むと、そこに自分がいるような気になるし、主人公といっしょになって本の世界が体験でき、そこから次の一歩が踏み出せるようになるということが、よくわかりました。p183でクレムが「詩のどんなところがいいの?」ときいたのに対して、ラングストンが「そうだな……だれかがぼくだけに話しかけている感じがするのが好きだ。それに、ぼく以外のだれかが、ぼくのことをわかってくれている感じがする……ぼくの気持ちを」と言っているのですが、ここはとても重要だと思いました。p10に「まるで立派な住まいみたいに〈アパート〉って呼ぶけど」とありますが、日本のアパートのイメージとアメリカのアパートメントとは違うので、ちょっと違和感がありました。それから、ラングストンが親の手紙をこっそり読む場面で、p116「読めない部分もあるけど、読みたくない言葉もあった。〈ヘンリー〉とか、〈愛してる〉とか、〈ティーナ〉とか」とありますが、どうして読みたくないのかがよくわかりませんでした。

まめじか:自分の両親がストレートに愛情を示し合っているのが気恥ずかしかったんじゃないですか?

サンザシ:日本人ならそうでしょうが、アメリカ人だし、母親が亡くなっていて、2人が愛し合っていたということがわかるのはうれしいんじゃないかな、と思ったんですけど。

しじみ21個分:父と母との秘密、2人の心の奥底、に踏み込みたくはなかったということですかね?

サンザシ:主人公の年齢は、私も中学生かと思っていました。

アンヌ:p130に、「あと二年したら、ぼくも高校生になる」とあります。

サンザシ:私も中1だと思って、それにしては幼いなと思っていました。特に前半部分は小学校中学年くらいのイメージですよね。アメリカの学校制度は地域によっても違うのですね。この本だと中1だと思って読む読者が多いかもしれないので、もう少し工夫してもよかったかもしれませんね。

すあまラングストンに共感して読み進めることができました。自分が初めて大きな図書館に連れて行ってもらったときのうれしかった気持ちを思い出しました。そして、ラングストンが図書館で手にした本が物語ではなくて詩なのがよかったと思います。詩であったことで、ブルースの好きなお父さんにもわかってもらえたのでは。そして、一緒に図書館に行くというラストもいいなと思いました。フルトンさんは、最初はいやなおばさん、という印象だったのが、ラングストンの目を通してだんだん素敵な女性に思えてきました。表紙の絵の印象で、幼い男の子の話なのだと思って、これまで手にとっていませんでした。実際に読んでみたら、もっと男同士の親子の話で、ラングストンも体格がよくて、いい意味でイメージが違いました。それから、物語には出てこなかったけれど、ラングストンがいつか詩人のラングストンと図書館で会えるといいなと思いました。

花散里:この本が出版されたときにすぐ読んで、とても良い本だったという印象が今も強く残っています。今回、読み返して、やはりとても良い作品だと思いました。酒井駒子さんの絵はあまり好きではないので表紙画は気にかかりました。この作品に登場してくる図書館司書は良いと思いました。シカゴ公共図書館ジョージ・クリーブランド・ホール分館についても作者あとがきで知ることが出来て良かったです。ラングストンという名前を付けたお母さんのことは最初、読んだ時から印象に残っていましたが、今回、読み返して、お父さんがとても印象に残りました。フルトンさんも最初に登場した時の印象が段々と変わり、ラングストンに詩を読んでくれるときのフルトンさんの様子がとても良いと思いました。ラングストン・ヒューズの詩を読み返したりしたいと思い、本を購入しました。絵本『川のうた』(E.B.ルイス/絵 さくまゆみこ/訳 光村教育図書)も読み返しました。詩を読んでいくことなど、この作品を子どもにどうやって手渡すのかは難しいと感じていますが、読んでほしい作品だと思います。

ルパン:こちらは先ほどの作品と反対に「おもしろかった」ということしか覚えていないくらいです。最初から最後まで夢中で読みました。いちばん印象に残っているのは、フルトンさんのお尻が揺れる描写。インパクトありすぎて、なんかすごいおばさんというイメージだったので、お父さんと再婚する可能性があるとわかってびっくりしたことです。

シア:すごくいい本で、丁寧で心情豊かな描写で、文句の付けようがありません。話の軸もぶれていないですし、内容も素晴らしい。フィクションですがリアリティがすごいです。アメリカの当時の文化や歴史について理解しやすいし、興味がわいてきます。背景描写まで細かく書き込まれています。お母さんはかわいそうな設定ですが、「すきっぱ(透きっ歯)」という表現がされているので、幸せであることがわかります。「すきっぱ」はアメリカでは幸せを運んでくると言われていて、人気があるんです。そういうところが細かいなと。この本は図書館というものが古くから地道に社会に与えてきたものや及ぼす影響など、その偉大さについて伝えてくれます。最近の図書館は指定管理者制などが取り入れられ方向性を見失ってきているので、ぜひ、みなさんに読んでいただきたいと思います。図書館が連綿と守ってきたものを今一度教えてくれる1冊です。

ハル:先ほど話題に出たp116の「読みたくない言葉」(~読みたくない言葉もあった。〈ヘンリー〉とか、〈愛してる〉とか、〈ティーナ〉とか。)のところですが、私なんて一瞬「やだ、お父さん不倫?」とか勘違いしてしまいました(笑)。こんな人は少ないと思いますけど、やっぱり「読みたくない」は、もうちょっと気を使った表現でもよかったのかなと思いました。全体として、ラングストン少年の目で見た景色や感覚、なつかしいアラバマの描写も美しくて、引用されている詩もとても効果的で、良い本に出合えたなあという気持ちになりました。私はあまり「詩」にはなじんでこなかったので、私もこの本で、「詩」というものに出合えたような気がします。ただ、邦題の『希望の図書館』はちょっと違う話を連想させるような・・・。「希望の~」って、ちょっとテーマと違うんじゃないかな・・・と違和感を覚えました。でも、このタイトルで、この判型で、この装丁で、いかにも名書!という感じでまとまっていて。これも読者の手に届けるための工夫なんだろうなぁと、勉強になりました。

ネズミ:とてもよかったです。アメリカという国で図書館がとても大事にされているということを痛感しました。知というのか、知識に誰もがアクセスできるという、図書館の精神や理念というものがしっかりあるんだなと。私は、お父さんがラングストンと話すときに、妻のことは「お前の母さん」とか「母さん」と呼んでいるのに、自分のことを「おれ」と言っているのが、ちょっと気になったのですが、みなさんは気になりませんでしたか? 子どもと話すとき、自分のことを「父さん」と呼ぶかなと。全体にラングストンが幼い印象だったからかもしれませんが、なんか、ちょっと突き放した感じがして。

サンザシ:そこは日本人になじみやすい表現を使うか、文化を伝える方を前面に出すかで違ってくると思います。アメリカ人なら、日常会話の中で自分のことをyour fatherとは言わずやっぱりIを使いますよね。そういう文化だということを伝えるのも大事だと私は思います。PTAなどでも「○○の母です」と言う人が多いですが、欧米ではたいていファーストネームでやりとりしてますよね。○○の母、○○の父、○○の夫という規定の仕方がいいのかどうか、そこも考える必要があるのではないでしょうか。翻訳者の悩みどころの一つですね。それからこの本はシリーズになっていて、ライモンが主人公のとクレムが主人公のが出ています。あとの2冊も読みたいな。

(2021年02月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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しずかな魔女

しずかな魔女の表紙
『しずかな魔女』
市川朔久子/著
岩崎書店
2019.06

<版元語録>中一の草子は、学校に行けなくなってしまい、 今は図書館に通う日々を送っている。ある日ふとしたことをきっかけに、初めてレファレンスを希望する。やがて司書の深津さんから渡されたのは「しずかな魔女」というタイトルの白い紙の束。ふたりの少女の、まぶしい、ひと夏の物語だった。 物語を読み終えた草子の胸に、新しい何かが芽生える。それは小さな希望であり、明日を生きる力だった。

ネズミとてもおもしろく読みました。こういう図書館はないだろうと思いましたが、子どもを受け入れる場所としての図書館、ひとつの居場所というのが提示されていて、いいなあと思いました。魔女の修行の中で、ところどころに印象的な言葉がありました。たとえばp142の「魔法にはね、ひとつだけやってはいけないことがあるの」「それはね─人を操ること」というセリフ。生きることを後押しする、こういう部分にひかれました。それに、文章がとてもきれいでした。

ハル子どものころは特に、おとなしいことをネガティブにとらえがちなので、どちらかというと控えめなタイプの子は読んで励まされるでしょうし、ひかり側に共感できるような元気のいいタイプの子にとっても、新しいものの見方を示してくれる1冊なのではないかと思いました。構成やストーリーそのものも、決して目新しいものではないかもしれないし、時々ふと、そういえばこれは司書の深津さんが書いた小説(の体裁)なんだったな、と思い出すと、若干「いま、わたしは何を読んでるんだっけ?」という気持ちにもなりましたが、表現の豊かさによって、作品として成立しているのかなと思いました。みずみずしい描写で、刺激を受けました。子どもにとって夏休みがどれだけ特別か、「夏休み」の大きさをしみじみ感じます。

シア不登校の話で始まったので、またこの手の話かと思って読み始めました。市川さん、よく不登校の話を書いているなという印象です。『西の魔女が死んだ』(梨木果歩/著 楡出版ほか)を思い出しました。でも、作中の物語はすごくおもしろくてのめりこみました。肝心の主人公のことはすっかり忘れてしまっていました。蛇足だったかと思うくらい。キラキラなエンディングを迎えたのに、野枝ちゃんの将来が冴えなくてがっかりしました。しかし、レファレンスの回答として出典が明らかにされていない自分の小説を渡すというのはちょっと乱暴すぎではないでしょうか。それから、「図書館は静かな場所」というステレオタイプな考え方が、今の時代に合っていなくて古いと感じました。まるで『希望の図書館』(リサ・クライン・ランサム/著 松浦直美/訳 ポプラ社)と同じ時代みたい。

ルパン半年くらい前に読んだんですけど、「おもしろくなかった」ということしか覚えていませんでした。このたび読み返したら前よりは印象がよかったのですが・・・不登校の子の話が中途半端で不完全燃焼としか言いようがないです。作中の物語では「ひかりちゃん」のキャラクターがすご過ぎて、私はついて行けませんでした。

花散里私は図書館司書をしていますが、読んでいて、この設定はあり得ないと思うことが多く、いろいろと気にかかりました。司書が登場してくる作品としては『雨あがりのメデジン』(アルフレッド・ゴメス=セルダ/作 宇野和美/訳 鈴木出版)が大好きで、あの本の中の図書館司書が理想だと思っています。作中の物語も構成が弱いと感じました。ユキノさんの存在もわかりにくいと思いました。友達の両親が離婚してしまうかもしれないというときに手紙を書くということもあり得ないのではないでしょうか。読後感があまりよくない作品でした。

すあま市川さんの物語では、主人公を家族ではない大人が見守って助けてくれる。この本でも、司書の深津さん、ユキノさんがそういう大人です。物語としては、作中の物語が終わったところで今度は外側の話を忘れていました。中の物語はおもしろかったし、登場人物も魅力的だったけど、この話だけだったら物足りないかもしれませんね。中学生の草子が小学4年生の物語を読む、ということなんですが、実際に中学生が小学4年生に共感しておもしろく読めるのかな、と思いました。物語全体で、いい人ばかりが出てくるので読後感は悪くならないのですが、この著者の他の作品と比べると何か足りない気がしました。

サンザシ:不登校の草子に寄り添って読み始めたら、間に野枝とひかりの話が入っていてそっちの方が長いんですね。私には、間のこの物語を読めば草子が元気になるとは思えなくて、ずっと草子が心配でした。市川さんは文章がいいので、それにひかれてどんどん読み進められるし、間に入っている話にも共感はできるんですけどね。私は『小やぎのかんむり』(市川朔久子/著 講談社)がとても好きだし、あれは第一級の作品だと思っているのですが、それに比べると、この作品はちょっと小ぶりの佳作でしょうか。それから、p166の「あざやかな色のリュック」の若い男は、p15で「館長」に「ここの机って、勉強とかダメですかね? レポートちゃっちゃっと終わらせて、ついでに試験勉強もやりたいんスけど」とたずねる男だと思うのですが、ということは、この「館長」が自分の息子に一般利用者を装わせて、草子の前でたずねさせた、ということ? そこまで行ったらやりすぎじゃないかな。

エーデルワイス作者の市川朔久子さんは、この先、大人向けの小説家になってしまうような気がします。p144の9行目から12行目にある、「ひとつだけやってはいけないこと、人を操ること・・・」や、p145の13行目の「じぶんの心はじぶんだけのものですからね」のように煌く言葉がたくさんありますね。でも、ストーリーが凝り過ぎている感じもしました。

アンヌ初めは主人公の草子に興味が持てず、つらい場面も多くてなかなか読み進められなかったけれど、作中の物語が始まると楽しくて、ユキノさんをはじめとしたお年寄りの生き生きとした様子も魅力的で、近所に昔あった古い団地を思いだしました。洋服の色彩について鋭い感覚を持つリサちゃんについても、家族が「美大出身の友人は雷が鳴るとまず稲妻の色を見たがる。世界の見方が違うね」と話していたので、そんな風に様々な視点で世界を「見る人」がいるということが描けていて良かったと思います。1か所いらないかなと思ったのが、館長と息子の小芝居の場面。p15はともかく、それがバレるp165は、必要はあるのかなと。ただ、不登校の子がコロナ下のネットの授業は参加できたのに、対面授業になったら出られなくなったという話を聞いているので、草子がこんなふうに守られているのはよかったなと思いました。

しじみ21個分やさしい表現の、とても好もしい作品だと思いました。まず、図書館で働く者として、図書館が子どもたちにとって居心地のいい場所として肯定的に描かれているのはうれしいです。不登校の子が図書館で過ごすという描写は、やはり、鎌倉市立の図書館が夏休み明け前の8月に発信した「つらかったら図書館においで」というメッセージを踏まえているのかなとも思いました。ただ、p12に、図書館の司書は静かな人と描かれています。それはいかにもステレオタイプで、静かじゃない図書館員もいるしなぁ、とちょっと固定的な捉え方だとは思いました。見た目としても、物語の中に白いページがはさまっていて、目次もあって、さあ、これから物語が始まるというぞ、という工夫もおもしろかったですし、物語の入れ子構成も凝っていました。作中の物語も2人の女の子の理想的な夏休みが描かれていて、とても好ましいのだけど、正直好ましいというだけで終わってしまったかなという感じです。なんというか全般にリアリティがなくて・・・。図書館の可能性が表されているのはとてもありがたいし、ユキノさんという理想的な大人像も素敵で、こういう風に子どもに接したいとは思うのですが・・・。それから1点引っかかったのが、図書館でおばあさんに「学校はどうしたの?」と問われて、心の中で「くそばばあ」という言葉が浮かんだにもかかわらず、それを小学校のときの同級生の男の子の言葉にすり替えてしまっているところです。それはちょっと主人公がいい子すぎてずるいと思いました。自分の言葉で「くそばばあ」と心の中で言ってほしかった。作中の物語に任せてしまうのではなく、本編の物語で主人公の心の中の葛藤みたいなのがもっと深堀りされてもよかったんじゃないかなと思ったというところです。

まめじか草子は幼稚園の運動会で転んでしまったとき、大人の目を気にして自分と一緒に走りだした先生の欺瞞に拒否感を示していますが、深津さんや館長やユキノさんはそれとは対照的な存在として描かれていますね。おもしろく読んだのですけど、おばあちゃんとの魔女の修行というのが『西の魔女が死んだ』に重なり、あまり新しさは感じませんでした。視点を変えると新しいものが見えてくるとか、日々を丁寧に生きる生活の豊かさとか。中学生は子ども時代を思い出し、ノスタルジーを感じながら読むのでは。中学の1年1年ってとても大きくて、自分がガラッと変わってしまったように感じますよね。私はそうだったな。

西山市川さんの作品は、まず言葉が好きです。p57の「いいないいなあ」など、ほんのちょっとしたところでひかりの体温の高い感じが伝わってきたり、読むことの「快」を感じます。ベースとしては、草子の、学校という場に合わないというメンタルな部分ですが、お話の中で2人が迷子になるまでずんずん歩いたり、アリを見たり、ツリーハウスもどきを作ったり・・・この、中身だけでいいと私は思ってしまいました。読者対象の年齢によって違うのでしょうけれど、魔女修行が結局は心の持ち方を変えさせるという着地点は、本気で魔女になりたい子には肩透かしになるなあと思いました。自分が小学生の頃、吉田としの『小説の書き方』(あかね書房)にがっかりした経験を思い出してしまいました。入れ子構造が活かされた装丁もきれいだけど、どうなんでしょう?『コロボックル』シリーズ(佐藤さとる/著)とか、過去にいくつか例がありますが、全体を入れ子にしたことで、疎外される印象を受けたのを思い出しました。作り込んだフィクションのおもしろさも好きなのですが、この作品では、私は作中の物語だけの方がよかったかな。子どもが減った団地の有り様は、それとなく見まもる「小さなおばあさん」の存在含め、とても興味深かったです。

さららん前に読んだ時には悪い印象をもたなかったのに、あとから中身をよく思い出せませんでした。読み返してみて、文章の美しさを再認識。おいしいお菓子を食べているような気がしました。先ほども指摘があったけれど、草子の幼稚園の運動会のときのエピソードの出し方が見事で、それひとつで、大人のぶしつけな行動に耐えられない草子という子どもが見えてきました。中の物語も、子ども時代のきらめきにあふれていて、楽しかった。ただ、入れ子の外と中が組み合わさったときの感動が薄く、それが印象の薄さにつながったのかもしれません。中の物語では、最後に野枝がひかりの両親宛てに手紙を書いたことが功を奏して、ひかりが団地にもどってきてくれます。2人の時間のきらめきは、その時間の喪失を描くことでいっそう際立ち、読者の心に残ると思うので、2人が10年後に再会してもよかったかなーと思いましたが、でもそれでは大事な「魔法」の意味が描けなくなりますね。ひかりのすこし芝居がかった言葉遣いがほほえましく、赤毛のアンの姿が重なりました。また、子どもたちの体温の高さという点では、森絵都さんの本を思いだしました。

木の葉市川さんの文章が心地よくて、このまま草子さんの話としてずっと読んでいたかったです。作中の物語はアイテムとしても定番というか、割と平凡な印象でした。「しずかな子は魔女にむいてる」という言葉はとても素敵ですが、それが生かされているかというと、微妙です。入れ子にしたために、どちらも中途半端となってしまったような気もします。『西の魔女が死んだ』は、私も連想したのですが、あのおばあさんが苦手だったことを思い出しました。それから、野枝という名前は、私はどうしても伊藤野枝を連想してしまうので、少し違和感がありました。私も市川さんの『小やぎのかんむり』は好きな作品で、あちらの方がいいと思います。

カピバラ:2015年に鎌倉市中央図書館が「学校が始まるのが死ぬほどつらい子は、学校を休んで図書館へいらっしゃい」というツイートを出し、大きな反響を呼んだ、ということを思い出しました。これには賛否両論ありましたが、図書館側では、図書館はそういう子の居場所になれるんだという意識が生まれた、ということを聞きました。あくまでも見守るという姿勢は変えず、平日に毎日来る子がいたらなんとなく気にかけるようになったそうです。図書館はそういう場所であってほしいという思いが、著者にもあったのではないかと思います。深津さんは、まさにそういう子どもを見守る存在ですが、現実にこんな司書がいるのかな、とは思いました。やはり自分の水筒を貸すのはありえないし、図書館は出版物を扱う場所なので、いくら自分が書いたものだからといって、出版されていないものを渡すことはありません。でも、図書館はこうあってほしい、という意識が現れているのかな、と思いました。入れ子になった物語がある形式は、2つの物語がどういうつながりがあるのか、謎解きのおもしろさもあって魅力的です。「しずかな子は、魔女に向いてる」というのはすてきな言葉で、きっと著者はこの言葉がとても気に入っているのでしょうが、言葉の魅力が先に立って、それがどういうことなのか、という点は意外とあっさりしていたかなと思います。野枝とひかりのように正反対の子どもが仲良くなれるのか、という意見がありましたが、私は、ひかりのように屈託がなく、思ったことをすぐに言葉にできる子に野枝が惹かれるのはよくわかりました。

サークルK書き出しが柔らかい感じで表現が美しいので、読み出しやすかったです。表紙も本の森のページに入っていく感じがして、挿絵もかわいらしいですし。優しく詩的な日本語に触れられる作品だと思います。p163の「絶海の孤島に来ています」という司書さんの草子への手紙でストーリーを終わらせても良かったのではないかとは思いました。そのあと、「館長さん」とその息子とのやり取りや、司書さんとのやり取りなどは冗長に感じました。すべてに落としどころをつけようとしすぎている感じがして、もったいないと思いました。

マリンゴとても魅力的な物語でした。本編が実は、長い長い序章で、別の物語がすっぽり入り込み、最後にまた本編に戻るという構造が、わたしは非常にうまく機能していると思いました。自分の気持ちを伝えられるのは自分だけなのだ、というメッセージもとてもよかったです。あと、行こうと思えば世界のどこにでも行けるし、誰とでも会えるのだ、と不登校の子に、世界を広げるメッセージを伝えているのもよかったのではないかと。唯一、私が引っかかったのは司書さんですね。不登校のひとりぼっちの女の子に、実話と思われる2人の女子のかけがえのない友情の物語を読ませる司書さんって、デリカシーがどうなんだろう、と。とてもデリカシーある人として描かれているだけに、ちょっと気になりました。

たんぽぽ表現がきれいだなと、思いました。ラストは、「ああ、こういうことだったのだ」と、すっきりしましたが、そこにたどりり着くまで、ちょっと長かったです。「しずかな子は魔女にむいてる」という言葉が、少しイメージしにくかったです。

木の葉図書館を舞台にした作品は結構あって、私も、図書館の存在によって救われる物語は好きです。とはいえ、「図書館=いい場所」という描かれ方が前提となっているようで、そのことには少し疑問も感じています。すべての図書館がすばらしいわけではないですし、現実に問題や矛盾はあるはず。職員の待遇面もどうなのか、なども。本好きは本にまつわることをつい善的に捉えてしまいがちであることにも、注意が必要かな、という気がしています。

(2021年02月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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アーモンド

ソン・ウォンピョン『アーモンド』表紙
『アーモンド』
原題:아몬드 by 손원평 , 2017
ソン・ウォンピョン/著 矢島暁子/訳
祥伝社
2019.07

<版元語録>扁桃体(アーモンド)が人より小さく、怒りや恐怖を感じることができない16歳の高校生、ユンジェ。そんな彼は、15歳の誕生日に、目の前で祖母と母が通り魔に襲われたときも、ただ黙ってその光景を見つめているだけだった。母は、感情がわからない息子に「喜」「怒」「哀」「楽」「愛」「悪」「欲」を丸暗記させることで、なんとか“普通の子”に見えるようにと訓練してきた。だが、母は事件によって植物状態になり、ユンジェは、ひとりぼっちになってしまう。そんなとき現れたのが、もう一人の“怪物”、ゴニだった。激しい感情を持つその少年との出会いは、ユンジェの人生を大きく変えていく――。怪物と呼ばれた少年が愛によって変わるまで。

マリンゴ:非常に読み応えがありました。主人公と、ゴニ。どちらも、非常に極端なキャラで、一歩間違えれば非現実的な物語になりそうなのに、現実のなかに落とし込んでいるのがすごいと思います。人それぞれに成長のしかたやスピードは違って、考えることをあきらめなければ、少しずつ変わっていけるのだと、感じられる本でした。ただ、実在の本と架空の本を取り混ぜているのは、あまり好ましくない気がしました。p125で、『ライ麦畑でつかまえて』(J.D.サリンジャー著)とおぼしき内容の本が登場します。でも、p126のP.J.ノーランという作家は架空の人物なんですよね。注釈はついているのですが、別ページにあるため、それを見る前に、ノーランの名前を一生懸命検索してしまいました。少しくやしいというか腹立たしいですね(笑)。

サークルK:タイトルを見たとき、何のことだろうと不思議に思いました(読み進むうちに解明されましたが)。挿絵が斬新で、モダンな感じでした。(皆さんがおっしゃっていた、男の子の顔色が明るく変わっていくことには気づきませんでした。)始まりが衝撃的なシーンで、映画を見る思いで読みましたが、あとがきで作者が映像関係にも造詣が深いことを知り、納得しました。脱北者を扱った韓国映画では「クロッシング」(2008)があり、(「母をたずねて三千里」の父子・悲劇版とお考えいただければと思います)今回の3作品を読んで、その映画のことも思い出しました。

ルパン:おもしろく読みました。まず、プロローグがいい。「アーモンド」が何をさしているのかわからないのだけど、「あなたの一番大事な人も、一番嫌っている誰かも、それを持っている」という一文に心ひかれました。そしてp29でそれが脳の中の「扁桃体」であることがわかると、「アーモンド」が物語全体を支えるキーワードとなり、作者の言いたいことがひとことで言い表されている気がしました。ストーリーは映像的というか、殺人事件など非日常な場面がまるでテレビドラマか映画を見ているように目に浮かんできました。そういう意味ではエンタメなのかもしれませんが、この主人公がゴニに対する友情や、自身が生きるよろこびを感じ始めるところはとてもいいと思いました。

ハル:私自身も読んでおもしろかったし、YA世代の子が読んだらよりいっそう感じるものは多いと思うのですが、積極的にYAとしてその世代の子にすすめたいかというと、そうでもないのかなぁと思います。設定だったり、突然の悲劇だったり、ラストのもっていきかただったりが、うーん、これは一般文芸かなと思いました。いつも読む英米の翻訳の本とは違う文化に触れられたのも、新鮮でおもしろかったです。

さららん:どんどん読めてしまった。エンターテイメントとして見事でしたね。冒頭で、「怪物である僕がもう一人の怪物に出会う」との断りがあり、そのあと「その日、一人が怪我をし、六人が死んだ。・・・・・・」と事件の描写から、第1章が始まったので、猟奇的な物語かな?と覚悟をきめて読み出しました。でもすぐにトーンが変わり、むしろ感情のない少年の透明な悲しみに包まれた物語でした。p50-p51の描写(意味が心に響かない少年には、本の楽しみ方もほかの人とは違う)のところなど、この少年の感覚を表していて、リアリティを深めるのに役立っていたと思います。余談になりますが、私には、韓国の小説や映画は血が出て終わる、という印象があって、この作品もやはりそうでした。

アンヌ:主人公は扁桃体異常と言われるし、目の前で祖母も母親も襲われるし、この子はどうなっちゃうんだろうと思いながら読み始めましたが、意外に母親が周到に彼を守る方法を考えていてくれたので、ほっとしました。脳の異常ならば、成長と共に変わって行くだろうと推測がついていたので、ゴニが出て来てからは、そっちの方が心配でした。せっかく再会した親に、また捨てられていますよね。作者は最初にバーンと映像を出すような描き方がとてもうまくて、映画のようにぞれぞれの場面が目に浮かんできます。おばあさんが襲われるところとか、映画だったらここで、不意に無音になるだろうな、なんて思いました。けれど、逆にそれがちっとも怖くなかったりすることもあって、たとえば、不良の親玉のようなまんじゅうはともかく、針金の顔が美しいのは、ありきたりに思えてつまらない気がしました。ぼくは死んだと言いながら話が続いて行って、最後はちょっと拍子抜けという感じもしました。

木の葉:おもしろく読みました。主人公のユンジェと思われる表紙の少年が、章タイトルにも描かれてますが、だんだんと背景の色が明るくなっていくことに、今気がつきました。社会のありようは日本とさほど変わりなく、祖母を失い母を植物人間状態にするクリスマスイブの殺傷事件やそれへの反応なども、日本でもありうると感じたのですが、この物語のようなタイプの作品は日本では見かけない気がしました。タイトルのアーモンドは、扁桃体のことを差しますが、食べ物のアーモンドが上手く使われています。翻訳書も茶やオレンジが基調でどことなくアーモンドトーン。作者は映画関係ということで、視覚的にイメージしやすかったように思います。対比的に描かれるユンジェとゴニの緊張が終盤に向かって加速し、ちょっとドキドキしました。暴力シーンは苦手なので、つらいところもありましたが。ただ、ラストの母親のエピソードはやりすぎというか、快復の兆しぐらいで抑えてくれたほうが私の好みです。

ネズミ:入りづらかったです。感情を持たない主人公の1人称で書かれていますが、自分が幼かったときの出来事を、他人のせりふも再現しながら、3人称のように書いているのが、どうもしっくりこず、どうとらえていいかわからない感じでした。ゴニとの関係はおもしろく、こういう題材をとりあげることは、なるほどなあと思いましたが、かなり読者を選ぶ作品でしょうか。

西山:作者が映画畑の人だからということもあるのでしょうか、映画を観ているようでした。映画にすれば結構流血シーンの多い映画になるでしょうけれど、人は人との関係の中で変わるんだというところが作品の芯になっていると思うのでYAとして非常に好感を持って読みました。脳ってわからないから、身長が9センチ伸びたら「頭の中の地形図がかなり変わったんだと思う」(p198)というところや、「自分でも気付かないうちに僕の頭を追い抜いてしまった体が、夏に着る春のコートのように不必要でうっとうしく感じられた」(p199)といったところが、1年間で10センチぐらい軽く延びてしまう年頃の子どもにとって、とてもしっくりきます。おもしろいなと思ったところは、数々あるのですが、たとえば人の心がわからないから、根本的な問いを発する。「ほかの人と似てるって、どういうこと? 人はみんな違うのに、誰を基準にしてるの?」(p71)と、スマホとの対話アプリで質問しているところ、その行為自体が切ないのですが、ものすごくプリミティブな問いかけですよね。あと、p244で、テレビでとても不幸なニュースが流れていても、平気でチャンネルを変えたり、笑えるのはなぜかという疑問。これも、そもそも共感って何?という根源的な問いで、『弟の戦争』(ロバート・ウェストール/著 原田勝/訳 徳間書店)のフィギスの逆パターンなんだなと思いました。フィギスは異様に高い共感能力で憑依を招くわけですから。設定の奇抜さで目を引くということではなく、深く読める作品だと思います。あと、中学生くらいで共感をよぶんじゃないかと思いまして、p87の心ない質問に「別に何ともないよ」と答えてしまうところ、いかにも中学生のリアクションだと思いながら読みました。その直前、レンギョウの芽に日が当たるように枝の向きを変えてやる場面に、なんてやさしい!と思いました。感情が分かるとか、優しさって何?と考えさせる場面があちこちにあって、ハッとすることが多かったです。ゴニもいい子で、たとえばp142の最後のところで、「褒めてるんだ。商売上手だって」と。「ぼく」に分かるように説明を加えるなんて! 蝶を使った感情教育のところ、―あれ、対人間の暴力シーンより怖かったんですけど―そういうことを思いつくゴニが愛しい! ティーンエイジャーにいいなと思った作品でした。

カピバラ:感情がないっていうのがどういうことか、なかなかすぐには理解できず、私も最初は違和感があったんですけど、次第に主人公の独特の世界に入り込んでいくという不思議な感じがあり、それがほかの本にはない体験でした。章の切れ目に、次を読まずにいられないような予告的な表現があるんですよね。p54で、母さんの顔にしわを見つけ、「母さんも、これからは歳をとっていくだけってことよ」と母さんが言いますが、そのあとに、「でも母さんの言ったことは間違っていた。運命は、母さんにそんな機会を与えなかった」と書いてあります。これはもう、母さんに何が起こるんだろうと、次を読まずにいられないじゃないですか。そういった予告的な表現が次へページをめくらせる効果を出していると思います。また、季節の変わり目を表す描写がとても美しく、記憶に残りました。例えばp151「季節の女王は五月だというけれど、僕の考えは少し違う。難しいのは、冬が春に変わることだ。凍った土がとけ、芽が出て、枯れた枝に色とりどりの花が咲き始めること。本当に大変なのはそっちのほうだ。夏は、ただ春の動力をもらって前に何歩か進むだけで来るのだ」 こういった美しい描写が節目ごとに書かれていて時の流れを伝えてくれます。また、章のはじめの絵のバックの色が変わったのには3章くらいで気づき、おもしろいなと思いました。これは原書にはなくて日本の装丁者の工夫なのかな。センスがいいですね。

さららん:1カ所だけ疑問に思ったところがありました。p65で「こうしてぼくは十七になった」と書いてあったけれど、p82で、アーモンドは高校に入学していますよね。17歳で入学なのでしょうか?

ルパン:数え年だからじゃないですか? 12月にうまれたときが1歳で、年が明けてすぐに2歳になるから、満年齢と2歳の差ができるのでは。

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エーデルワイス(メール参加):文学的に質の高い作品。児童書ではなく一般書の棚にありました。村上春樹、カズオ・イシグロのような印象を受けます。好きな作品としか感想がかけないのですが、この作者を今後も読みたいと思いました。

サンザシ(メール参加):とてもおもしろく読みました。ユンジェとゴニはどちらも怪物と呼ばれる人間で、足りないものを持っています。その2人が対立し、理解しようとし、友だちになっていきます。リアルであると同時にエンタテイニングで、先へ先へと読ませる力があります。しいてテーマを示すとするなら、愛による変化・成長といったところだと思いますが、フィクションだからこそ書ける作品かもしれません。文学が持つ力をひしひしと感じることができました。訳もとてもいいと思います。

(2020年01月の「子どもの本で言いたい放題」より)

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ソンジュの見た星〜路上で生きぬいた少年

リ・ソンジュ『ソンジュの見た星』表紙
『ソンジュの見た星〜路上で生きぬいた少年』
原題:EVERY FALLING STAR by Sungju Lee and Susan McClelland, 2016
リ・ソンジュ&スーザン・マクレランド/著 野沢佳織/訳
徳間書店
2019.05

<版元語録>1997年に平壌をはなれ、飢饉の起こった北朝鮮の社会のなか、路上で生きぬいた少年の記録。米国で話題になったノンフィクション。 11歳のとき、ソンジュはすべてを失った。軍の指揮官になる夢、学校の教育、家、そして両親…。きびしい飢饉のなか、ソンジュは年の近い6人の仲間と力を合わせ、市場で食べ物を盗み、ほかの浮浪児と縄張り争いをしながら、路上で生きていくことになった。仲間とのあいだには、しだいに強いきずなが生まれ…。

カピバラ:あまりにも過酷な状況に目を背けたくなるところがこれでもか、これでもかと続いていくんだけど、目を背けてはいけないという思いで読み進みました。実体験だとわかっているのでよけいにつらいけれど、主人公は、今は脱北してこの本を書けるようになったんだ、という事実を希望にして読みました。北朝鮮の状況を書いたものを読む機会は少ないので、関心もあったし、日本にも責任があるところがつらくもありました。政府によって洗脳されるおそろしさや、子どもたちがまず犠牲になるのは多くの国が経験していることだけれど、これがついこの間のことだということ、現在もどこまで状況が改善されているかわからないことに胸をつかれました。つらい中でも、おもしろいと思った点は、子どもたちが、子どもなりの知恵を働かせ、団結して1つの小さい社会を形作っていくところ。〇〇はぼくらの目だ、〇〇はぼくらの声だ、というように、それぞれの長所を生かした役割でお互いに認め合っていく。そしてそれが実の家族よりも強い絆になっていくところです。

西山:何が衝撃的と言って、つい最近のことという事実です。読みだしたら止まりませんでした。p190の、子どものころの夢を語り合っている部分は、軍の指揮官という夢は、社会背景を映したその時のそこだからこその内容ですが、それを、「そんな夢を持ってたなんて、別の人生っていうか、ぼくじゃないだれかの人生みたいな気がするよ」というところがすごく切なかったです。(追記:エルサルバドルの内戦下を舞台とした映画「イノセント・ボイス 12歳の戦場」で屋根の上に逃れて星空を見ているシーンを不意に思い出しました。この映画、ものすごくつらい内容ですが、一見の価値あります。作者の境遇と言い『ソンジュ』と共通する部分が多いと今気づきました。)p261の「人間が別の人間に対してする最悪のこと」を「尊いものや、いいものや、純粋なものを信じられないようにすることじゃないかな」と語り合っているところも本当に胸にしみました。普遍性のある作品だと思いました。

ネズミ:ノンフィクションみたいなフィクション、と思って読んだのですが、ノンフィクションだったんですね。事実のすさまじさに圧倒されました。文学的な企みではなく、そこにある事実の重さが迫ってきて。主人公がどうなるか知りたくて、最後まで読まずにいられなかったけれど、凄惨な場面もあるので、子どもだと、怖くて途中で投げ出してしまう読者もいるかも。父親から教わった、小石を3つ使った戦術が主人公を何度も危機から救うというのが印象的で、映画「ライフ・イズ・ビューティフル」のかくれんぼを思い出しました。

まめじか: キム・イルソン主席の伝説や国の偉大さを信じこんでいた主人公は、しだいに自分の頭で考えるようになります。なんの疑問ももたずに命じられたとおりにするのが、権力者にとって都合のいい人間だという文章にハッとしました。一番ひどい仕打ちは、家や仕事や親を取りあげることではなくて、善なるものや希望を信じられないようにすることだというせりふは、人は何をよりどころにして生きるのか、何をもって最悪の時を乗りきるのかを考えさせます。北朝鮮には、メディアから得たイメージしかなかったのですが、p291の景色の描写はほんとうに美しいですね。主人公の移動した経路がわかりにくいので、地図があったらよかったです。

木の葉:今回、選書係だったのですが、翻訳ものは欧米、特に英語圏のものが圧倒的に多いので、できるだけアジアの作品をと、思いました。とはいえ、これは原書が英語ですが。北朝鮮の脱北者の体験を描いたもので、体制糾弾目的のものだったら、やめようと思っていましたが、読了後に取りあげることにしました。すでに意見として出ていますが、脱北が成功していることがわかっているので、ある意味では安心して読むことはできたのですが、それにしても、前半はきつかったです。ただ、読み進めるにつれて、子どもたちのギャングぶりにたくましさを感じて、ワルといってしまえばワルなのですが、生き抜く知恵と力を感じました。野沢さんが訳者あとがきで「朝鮮半島はアメリカとソ連によって南北に分断され、七十年以上たった今もふたつの国に分かれたままです。歴史は「現在」につながっています。もし、朝鮮半島が日本の植民地ではなく、ひとつの独立国だったならば、こんなことは起こらず、社会のしくみや人々の暮らしも今とはちがっていたかもしれないのです」(p372)と書いてます。読者にはここもしっかり読んでほしいと思いました。朝鮮半島が分断国家になったことに、日本が深く関与していることをちゃんと理解してほしいと思います。

アンヌ:以前に、北朝鮮を渡った在日の女の子が出てくる小説を読んだことがあったので、悲惨な状況を覚悟して読みました。主人公が頭を使ってたくましく生きていく場面は格好がいいけれど、前にパンを恵んでくれたおばあさんからパンを盗む場面は読んでいてつらいし、収容所でも看守に乱暴される女の子たちとは違う。だから、生き抜くたくましさに感動するというより悲惨さを感じながら読み続けました。おじいさんとの再会と、その後の場面は天国のようにのどかで、ほっとしました。でも、おじいさんはこの後も生活が続けていけたのか心配です。韓国での扱いを見ると父親はかなりの機密を知っていた軍人だと思うので。身元がわからないようにするために、原文から削ったりした場面は多いのだろうとも思いました。例えばp308「その老人の横の貼り紙」といきなり出てきますが、何の貼り紙か全然状況がわからない。あとの方でどうもガラス瓶が置いてあったり自転車もあったりしたようなことがわかるけれど、情景描写の部分が変に抜けているように思ったのでそう感じました。

さららん:テレビのニュースに映る平壌の都会の人は幸せそうですよね。けれども農村は疲弊しているはずで、その関係がどうなっているのか想像できなかった。この本を読んでその空白部分が埋まりました。形はあっても稼働していない工場。山のリスまで捕まえて食べる生活。生活は限界を越えていても、父親が、次に母親が家を出て消えてしまっても、この主人公は自分を投げ出さない。盗みは日常茶飯事だし、ときには麻薬に手を出し、自暴自棄になって危ういところまでいきます。それでも仲間には公平で、強い正義感を持っています。ぎりぎりの生活の中でこそ、人としての品格が問われるのだと思いました。その点で、ホロコーストをテーマにした作品と共通するものを感じました。国外への脱出劇が、また実にリアルで印象深かったです。父さんの友だちと称する人を信じられるのかどうか。著者は最初は国境を越えて中国に行き、それから韓国に行き、そして今は脱北者の救済活動をしているということです。少年の日々を、長いスパンで克明に描いたものだからこそ、具体性があって読み応えがありましたが、このとき、あなたは本当はどう感じたの?と聞きたい部分はありました。人物の心の奥深くまで入りたかったです。

コアラ:これが最近の出来事というのがショックでした。1997年頃、北朝鮮が飢饉でひどい状態だというのはニュースで聞いた記憶がありますが、ここまでひどい状態だとは知りませんでした。一番印象に残ったのは、p103からの第9章の、母親がおばさんのところに食料をもらいに行くと行って、ソンジュが起きたら母親がいなくなっていたところ。父親がいなくなり、母親までいなくなって、どんなに悲しく心細かっただろうと思うと、本当に読んでいてつらくなりました。鍋におかゆがつくってあったというのも、もしかすると父親が帰ってきた時のために残しておいた食料だったかもしれず、最後に母親がそれを使い切って、ソンジュの食べるものを作ってあげたのかもしれないと思うと、子どもを残して行く母親の思いはどうだっただろうとか、読み終わってからもいろいろ考えてしまいました。少年たちがコッチェビ団を結成して生き延びていく様子も、胸が痛かったのですが、語弊がある言い方かもしれませんが、フィクションだったらおもしろく読めた部分かもしれません。それでもやはりノンフィクションだからこその凄みを感じました。途中で、少年たちは、強くなるために体を鍛えたりします。これは、日本の子どもたちにも通ずるというか、想像を絶する状況にあって、意外と健康的な普通の子どもたちのように思えて、ちょっとほっとした部分でもありました。北朝鮮のことを知る機会はほとんどないので、貴重な本だと思います。子どもに読んでほしい本だと思いました。

ハル:衝撃的でした。ああ、こういうことだったのか、と、長年の疑問や誤解がとけていく、本当に衝撃的な1冊でした。北朝鮮のこととなると、でたらめで、どこかおもしろおかしくなってしまっているニュースも多いように感じますが、その向こうにはこんなに苦しんでいる人々がいる。中盤は読み進めるのに勇気がいるような、つらい場面もありました。そして、こんなに過酷な環境なのに、ヨンボムのおばあさんは、日本の植民地時代に比べれば「まだまだ」(p141)だと言っています。私たちは日本人として、世界の中の一人として、一体何ができるんだろうと考えさせられます。

ルパン:まさに衝撃でした。「路上で生きぬいた少年」というサブタイトルがついていますが、生き抜けなかった少年や少女、そしておとなもいたと思うとたまらない気持ちです。現実にはもっと悲惨な状況もあると思うし、政治によってこうも人生が変わってしまうかと思うと、それだけで戦慄をおぼえてしまいます。平壌にいれば資源が豊富でいいかというと、ソンジュの父のようにある日突然追放される恐怖と向き合って生きなければならない辛さもあるでしょうし。『九時の月』(デボラ・エリス著、もりうちすみこ訳、さ・え・ら書房)を読んだ時にも思いましたが、ある国に生まれただけで不幸になる、というようなことが21世紀になってもまだなくならないことが悲しいです。

サークルK:北朝鮮の文学ははじめて読みました。話題の映画「パラサイト 半地下の住人」(2019)を見たばかりなので、過酷な暮らしをしている人々の物語に入り込みやすかったです。映画では現代の貧困家庭と上級家族の対比が視覚化されていました。

マリンゴ: 知らなかったことが多すぎて、圧倒されました。物語の展開がシビアで凄まじくて、波乱万丈すぎますよね。もう終盤かしらとページ数を確認してみたとき、まだ全体の1/3までしか進んでいなくて、これからどうなるのー!と怯えました(笑)。北朝鮮の地方都市の普通の生活を描いたものを読んだことがなかったので、こんな大変な状況なのか、と、重い現実を感じました。敢えて言えば、序盤がやや読みづらいでしょうか。夢の話と現実が交差するせいかもしれません。あと、主人公はリーダーシップがあるのだということが途中、急にわかって驚きました。それまでは塩をなめ続けて体がふくれあがってしまうなど、トラブルの多くて、助けてもらう側の子かと思っていたので。そのあたりは、自分がリーダーシップがある、と早いうちから書き込むことに遠慮があったのかもしれませんね。ノンフィクションだけに。

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エーデルワイス(メール参加):実話なのですが、まさに生き抜くサバイバル。忘れないように付箋を付けながら読み勧めたら付箋だらけになりました。食べ物を探しに、父、母といなくなり、妹もさらわれ一人ぼっちになるところで宮沢賢治の『グスコーブドリの伝記』を思い出しました。それにしても子どもを大事にしない国家は滅びると思います。11歳で信じていたものが崩れ、何を信じて生きるのか自問していく苦悩が伝わってきました。韓国での差別を体験し、北朝鮮は韓国より劣っているという偏見を覆し、平和な南北統一を目指したいとの作者。その日が来るといいのですが。

サンザシ(メール参加):ノンフィクションだと思いますが、疑問点もありました。著者が、韓国や大韓民国を中国の一部だと思い込んでいたというのがわかりません。脚色なのでしょうか? また父も母も出ていったあと、著者は自分の家で寝泊まりせず野宿をしているうちに、ピンチプパリ(仲介業者)に家を売られてしまいますが、なぜ自分の家で寝泊まりしなかったのかがわかりませんでした。コッチェビのことは日本でも報道されて知っていましたが、これほどたくさんいたのは知りませんでした。サバイバルのための壮絶な苦労話が中心で、p216やp261後半のような洞察がもっとあるといいのに、と思いました。拉致被害者については日本人も知っていて憤慨していますが、プロローグにあるような朝鮮半島の歴史はほとんどの人が知らないのではないでしょうか。そういう意味では、この部分について書かれた文学がもっとあるといいですね。『1945 鉄原(チョロン)』や『あの夏のソウル』(イ ヒョン/著 影書房)は1945年からの時代を描いていると思いますが、もっといい翻訳で出さないと文学として読めないので残念です。

(2020年01月の「子どもの本で言いたい放題」より)

 

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