日付 2005年5月19日
参加者 雨蛙、羊、ケロ、アカシア、むう、アサギ、ハマグリ、カーコ
テーマ 赤ちゃんと子ども

読んだ本:

『フラワー・ベイビー 』
アン・ファイン/著 墨川博子/訳   評論社   2003
FLOUR BABIES by Anne Fine, 1992
版元語録:フラワー・ベイビーを育て、しかも3週間育児日記をつける…。理科で押しつけられたクラスは不満の嵐。しかし、サイモンは世話をしながら考えます。


『クララをいれてみんなで6人 』
ペーター・ヘルトリング/著 佐々木田鶴子/訳   偕成社   1995
MIT CLARA SIND WIR SECHS by Peter Hartling, 1991
版元語録:父さんと母さんと、わたしたち兄妹一家に、もうひとり家族がふえることになった。そうしたら、お母さんに病気が発見され、赤ちゃんへの影響を心配して、みんなは悩んだり、いらいらしたり。日常のドラマをユーモラスに描く。


『となりのこども 』
岩瀬成子/作 網中いづる/画   理論社   2004

オビ語録:こどもの心の影と光。ありふれた日常の中に揺らめく小さなうずきやときめきを切りとる連作集。/どうして、あんな気持ちになったのだろう。


『フラワー・ベイビー』

アン・ファイン/著 墨川博子/訳
評論社
2003

アカシア:原書で読んでたんですけど、日本語版の表紙の絵を見てあれっと思いました。この脚の感じだと、幼い子ですよね。せいぜい小学校中学年までにしか思えない。主人公は何歳なんでしょう? アメリカ版の表紙には高校生くらいの男の子が出てます。プロジェクトのやり方や、子どもたちの態度や発言からすると、中学生くらいかな、と思えるんですけどね。導入の学校でみんながわいわい言ってるところとか、先生と生徒のやりとりとか、ただまじめに訳すと面白くなくなって、翻訳が難しいですね。フラワー・ベイビーのプロジェクトをやることになったいきさつとか、主人公が自分の父親のことを考えていくくだりとか、アン・ファインは語るのがうまいなあと感心しました。

ケロ:挿絵を描いたのが外国人ですが、英語版を描いた人が描いたんでしょうか?

アカシア:アメリカ版でもイギリス版でも、この絵は見たことなかったんですけど、日本にいる外国人に書いてもらったのかな?

ケロ:確かに、読んでいて主人公の年齢はよくわかりませんね。英語版でも、読んでいて年令設定がわからない感じがするんでしょうか。

アカシア:小学校低学年とか中学年で勉強が嫌いだったら、こんな作文は書けないんじゃないかな。それに、p112には、自分の父親が「今のサイモンよりほんの少し年上」だったと書いてありますよ。だとするとサイモンは、少なくとも中学生にはなってるんじゃないかしら。だから表紙には違和感を感じるんですね。

カーコ:p87に小学校のことが過去形で出てくるし、もう小学生ではないでしょう。

雨蛙:テンポがよくてとても面白かったけど、その分、訳にひっかかりました。中学生と高校生になる甥っ子たちはどう感じるのか、読ませてみたいですね。ただ、タイトルが「フラワー・ベイビー」のままでは、自分から手に取ることはないだろうな。主人公と同じくらいの男子生徒には、挿絵もかわいすぎる。主人公たちは、授業の内容などから、中学校3年生とか高校1年生くらいじゃないかな。そのわりにやっていることが幼いように思うけど。物語の最後、父親のことを自分で完結させるところは、性急でもったいない。まあ、男子生徒が読むにはいいかなと思いました。

ケロ:父親との関係を、自分の中で納得させるまでに、たしかにもう何段階かあってもいい と思いますね。

アサギ:プロットがとても上手にできてるけど、こういう作品って私は好みではないのね。自分が翻訳を仕事にしていてこういうのもなんだけれど、外国のお話と言う感じが強烈にする。日本の作品とテイストが違うからこそ、翻訳の意義があるのは事実なんだけど、それを考えに入れた上でも、こういう展開は好きじゃないなあと思いながら読んでました。書名は、何のことかまるでわかりませんでした。むろん、本文を読んで、なるほどこういうことなのか、と読者に思わせる効果もあるので、わからないからいけない、とは言い切れないけれど。翻訳はとてもひっかかりました。こんな言い方しないだろうと思ったところがいくつもあったし。それに、p94の「作文の字が間違っている」というところだけど、それなら、訳文にもその痕跡があったほうがいいと思いました。それからp59の5行目に「男の子に人形をあてがえば、すぐにふさぎこむ。女の子だったら、いったいどうなってしまうのだろう」ってあるけど、どういう意味?

アカシア:私もここはひっかかったんだけど、翻訳者が意味を取り違えてるんじゃないかしら。男の子にも育児を分担させようとして、あるいは育児について学習してもらおうと思ってお人形をあたえても、すぐに考え込んだりふさぎこんだりするんなら、女の子たちも未来の家庭に希望がもてないわね、というふうな意味じゃないかな。アン・ファインの原文はなかなか難しくて、意味を深く読み取りながら訳さないと無理だと思うの。

アサギ:ほかにもこんなこと言わないよね、と思ったところがいろいろあったわ。p196の後ろから3行目なんかもそう。言いたいことはわかるけれど、様相なんていう言葉を子どもの本で使うかなあと思って。それはともかく、いいテーマだしプロットも良くできてるから、読後感想文は書きやすいわよね。ところで、父親との関係はこれで解決したのかしら? お父さんのことが吹っ切れたのはわかるけれど、なぜ吹っ切れたのかが良くわからない。 書き込みが足りないんじゃないかな。

アカシア:第一章や第二章で生徒たちが言い合ったり、先生とやりとりする場面なんだけど、話してる内容よりも、俗語でしゃべってるテンポみたいなところで読ませるわけですよね。それを日本語で普通に訳しても面白くならない。これが最初にあると、入り込めない子どもがたくさんいるかもしれないな。

アサギ:確かになかなかお話に入れなかったわね。

ハマグリ:カーネギー賞を取ったし、評判も高かったので、私はとても楽しみに読んだのに、あまり面白くなくてがっかりしちゃった。やっぱり最初の教室の様子が日本の子が読むことを考えると、もっと身近でそうそうこんな風と思えるようでないとだめだと思う。教室での会話が続くところもあまり面白くない。

アカシア:イギリスの子が読んだら面白いんだと思うけど。

ハマグリ:その良さが出てないよね。どうして小麦粉の袋を赤ちゃんとして愛情を注ぐようになるのか、という点もぴんとこなかった。発想が面白いし、主人公がこのプロジェクトによって変っていくというストーリーだけ聞くと面白そうと思うんだけれど、実際に読んでみると納得できるようには書かれていない。

アカシア:最初は「爆発」にひきつけられているのが、だんだんいろいろなことを考えるうちにいとおしくなってくるのよね。その微妙な心理の過程が原書ではうまいと思うけど、訳文では出てないのかもしれないな。

アサギ:頭で書いた作品という印象が抜けなかったですね。

ハマグリ:この本ではそういう良さがわからないからがっかりと言う感じ。こういうのを訳すのは本当に難しいと思うけれど、先生の言葉にしたって「よく見たまえ」「わたしにはわからん」なんて言わないし、会話の面白さは伝わってこない。この先生のキャラはきっともっと面白いのに、残念だと思いますね。話の流れが頭では理解できても楽しめなかったという感じなの。物語の世界にすっとはいれないのは、生徒たちの年齢がわからないせいもあると思う。この本つくりだと、せいぜい5、6年生くらいの感じで、中学生は手に取らない。最初のページにこのクラスが四−Cと書いてあるので、日本の読者はぜったに小学校4年生だと思って読むと思うのよね。4年生と思って読んでいくと、授業の内容がもっと上の感じだから、最初から何か居心地の悪い感じになってしまう。

アカシア:イギリス版は四−Cだけど、アメリカ版は教室番号八になってましたね。

ハマグリ:ともかく四と言う数字を出したら、日本の子は4年生と思ってしまうから、誤解を与えないように工夫してほしかった。

ケロ:勉強が苦手なサイモンが、とても難しい引用をしますよね。

ハマグリ:書名のフラワーは、普通はお花だと思ってしまいますよね。表紙に原綴が書いてあるけど日本の子どもは絶対に小麦粉だとはわからないでしょう。何かもっと斬新な意訳をしてもよかったんじゃないかしら。表紙の絵も内容よりも幼いし、本作りが中途半端ですね。

アサギ:最後の2行、へんに大仰で違和感があったわ。

アカシア:著者のユーモアが、日本の読者には伝わってませんね。

ハマグリ:原書を読んだ方たちの印象からは、ユーモラスなところや、くすっと笑うところがたくさんあるようなのに、日本語ではそういう面白さは全く感じられない。がっかりな一冊でした。

むう:私も原書を読んで、この本はすごく面白いと思ったんですけどね。ほかのファインの本に比べても絶対に面白いんだけれど、それが訳には出ていないみたい。

ケロ:発想はすごいなあって思いました。小麦粉を赤ん坊に見立てることをやらされているうちに、自分がまさしくその赤ん坊だったらということに思い当たって、自分を投げだして出ていってしまった父親のことを考えるようになる、なんて、すごいですよね。でも、プロットがあって、あと肉付けがたりないという気がしました。サイモン像がとてもゆれて、どんな子なのか、よくわからなくなったりしたので。これは、翻訳の問題なのか、もともとの話を読んでもそう感じるのか、知りたいです。読んでいて、翻訳がへたなのでは? とは思いました。あとがきを見ると、はじめての翻訳とあったので、なれていないのかな? とも。
最後は、サイモンがどうやって納得したの? というところもわからない。p248あたりからサイモンが突然語っちゃうんですが、その内容がわからない。流れがぷつぷつ切れて。翻訳の問題なんでしょうか、原作の問題なんでしょうか。

アカシア:ここは、ばんばん投げたり蹴っ飛ばしたりしながら、ちょこっと考えている感じなんですよね。それがカタルシスになってもいる。でもこの訳だと大まじめになっちゃってるから伝わらないかも。

むう:原作を読んでの一番印象に残ったのは、いい子になりそうになって、いろいろ考えて、結局それをバーンと蹴っぽる爽快感だったんだけどなあ。

ハマグリ:そういう爽快感ってこの訳者は全く読み取っていないんじゃないかしら。あとがきを読んでも、まじめ一辺倒な感じ。何か違うんじゃないかっていうギャップがつきまとって、不満が残るんですよね。

:私はとても面白く読みました。訳でひっかかったところもあったけれど、ストーリーの面白さで引っ張られて、読み進めました。最初のところでは、小学校の高学年かなという印象でした。この小麦粉の袋のプロジェクトも へええ、こんなことをするんだ、と思って面白かった。学校でこういう内容をテーマの選ぶこと自体に、国民性の違いや、自由な発想力の底力のようなものを感じました。翻訳物を読むときの面白さは、そういう違いを知る楽しみがあると思う。

アカシア:こういうプロジェクト、むこうの学校では実際にやってるみたいよ。

:もうわくわくして読み進めると、フラワーベイビーを世話するうちに、出て行った父親の気持ちをたどり始め、さらにフラワーベイビーにこんなに愛着を持っちゃって。ゴミ箱行きから救い出したところで、この執着からどうやって解放されるんだろうって、どうなるのかなあと、はらはら。最後の小麦粉だらけになるもって行き方は爽快だった。父親の家出の原因が、ずっと気持ちの奥に沈んでいて、今回のフラワーベービーとの出会いで浮き上がってきて、自分の中で解決とはいかなかったけれど、そこでぐっと吹っ切るところに、子どものエネルギーを感じました。面白さで引っ張られて読んで、訳のおかしいところは皆さんから聞けるだろうと思って気にしませんでした。

カーコ:私はみなさんと同様、最初は文章につっかかって入りにくかったです。フラワーベイビーの研究にのめりこんでいくきっかけが勘違いというのが面白いですよね。勘違いとわかったときどうなるんだろうというドキドキと、父親へのこだわりというサイモンの内面の部分という二つの線で引っ張られて、真ん中まで読んで面白くなってきたところで時間切れでした。p14〜15に出てくる授業科目や、サッカーが部活動みたいなところからすると、主人公は小学生ではなさそうだけれど、それにしては幼稚。原作ではっきりわからないとしても、訳者が編集者と話して、主人公は何年生と決めて訳してくれればもっと読みやすかったのではないかしら。

むう:これって、私がはじめて読んだアン・ファインだったんです。原書で読んで、読み出したらとまらなくなって、ほとんどショックでした。それで、続けてアン・ファインのほかの作品を読んだんですが、たしかもともとがテレビ関係のライターをしていた人なので、ひじょうにテンポが速くてプロットを作るのも上手。職人芸的な意味でもじょうずな人だなと思いました。でもほかの作品は、じょうずさが勝っていて、この作品ほどすばらしいと思わなかった。原書は、表現が切り詰められているので、確かに翻訳は難しいと思います。途中でどんどんまじめになっていって、どうなるか、どうなるかと思ったら、最後の場面で、「ヘーンだ!」と真面目を蹴っぽる。そのぐーっと揺れる揺れ幅が大きくて、最後にすかっと爽快になるんです。でも今回原書と読み比べてみたら、大事なところで意味を誤解しているようだったり、言葉遣いに統一感がなかったり、会話が自然な感じがしなかったりで、読み進むのにとても引っかかった。!一番肝心なサイモンのタフさが伝わらないような形で紹介されたのは、とても残念です!

(「子どもの本で言いたい放題」2005年5月の記録)


『クララをいれてみんなで6人』

ペーター・ヘルトリング/著 佐々木田鶴子/訳
偕成社
1995

アカシア:取り上げられているのが普通の家庭で、子どもがすでに3人いるところに赤ちゃんが生まれるという設定。お父さんもお母さんも普通の感じで、そのあたりは好感がもてます。ただ、ヘルトリングの他の作品と比べて印象が薄いのは、フィリップに視点になったり、テレーゼの視点になったりと動いているからかもしれませんね。

雨蛙:ヘルトリングということで期待して読みはじめたんですが、物語の世界に入るのにわりと時間がかかりました。ごく普通の家庭の日常が淡々と描かれていくせいかもしれません。好きだけれど、ほかの作品と少し違うという印象。一番下のパウルが、視点がずれているのではと思うところがあったことと、おばちゃんが二人出てきて、そのままぱたっと出てこなくなったのが残念だったですね。障害を持って生まれるかもしれないという深刻な状況ですが、終わり方がさすがヘルトリング。家庭ものとしてよく描けています。ただ、クララのことではなく、それぞれの家族の描写が多く、起伏が少なくて子どもには読みにくい面があるかも。フィリップは、カメラ的な役割を背負いすぎているきらいがあると感じました。フィリップ自身の気持ちをもっと描いてほしかったし、お父さんは、その性格を考えるともっと違ったふうに子どもたちに写るのではと思えるところもありました。それだけ、ヘルトリング自身の思い入れが強い作品なのだと思うけど。

アサギ:ヘルトリング自体は好きだけれど、これはインパクトが弱いと思いました。でも、リアリティはある。すごく好きな表現があって、164ページ、2行目の「お父さんは、帰ってくるのがすごく上手だ!」というところ。私は個人的に自分の体験とダブるので、その意味では熱心に読んでしまったわ。最初にドイツでベビーシッターをした家が、この家族と似ていたので。

ハマグリ:ヘルトリングの作品は次々に読んでいましたが、『ヨーンじいちゃん』『ヒルベルという子がいた』など、とても印象的な作品がある中では、この本は印象はうすい。登場人物のだれかが主役ではないから、そうなるのでしょう。でも、5人の家族がそれぞれにいろんなことを考えながら、赤ちゃんを迎える、という雑多な感じが、逆にこの本の魅力だと思います。実際にクララが登場するのは本の最後の部分で、そこに至るまでの家族の気持ちが描かれ、まだ生まれていないけれど、クララは家族の一員だ、と意識していく過程が書けているので、少子化でお母さんのおなかが大きくなってくるのを体験する子どもが少なくなっている昨今、日本の子どもにも読んでほしいと思うな。

ケロ:『フラワー・ベイビー』のあとで読んだので、イメージが作りやすかった。なるほど、いろいろな人の目線で描かれているのは、あえて意図していたのかと思いました。パウルがすることや、ふりまわされてしまうところなど、本当にこんな感じだろうなあと思いますよね。ヘルトリングが自分の家族に近いものを描いているからこそのリアリティ。その中に、味がありますね。二人のおばさんの天然ボケぶりなど、まわりの人たちも味がある。いろいろな色を見せてもらったという印象。ふつう、この手の話だと、クララが生まれて色々あって…という話になると思うけど、生まれてくる前の話を描いていながら、クララに対するまなざしをちゃんと描いているところがすごいなあと思いました。

カーコ:他の本のほうが印象深いというのはあるけれど、何より登場人物が面白いし、日常生活の機微がとてもよくかけていると思いました。書きすぎず、不足もなく、読者が考える余地を残している。日常のごくあたりまえのことが文学になっているのに感動しました。たとえば33ページの3行目からの「こいつ」騒動。ここだけで、この家族のありようがよくわかる。揺れや迷いが出ていて、人物にふくらみがある。あと、組体裁や本を持った具合が、本の内容とあっていて気持ちがよかったです。シリーズ全体として、本作りがいいですね。でも今は、とかく新しいものばかりがもてはやされるので、埋もれてしまうのではないかと心配です。折に触れて、今の子どもに紹介していきたい作品です。

ハマグリ:ヘルトリングは大好きで、いろいろと読んでいます。『ぼくは松葉杖のおじさんと会った』などと比べると、なんとなくごちゃごちゃっとしていて印象が散漫だけれど、日常がとてもよく書けているのがいいなと思いました。ヘルトリングが書きたかったのは、家族に赤ちゃんが加わることによる一人の人の成長ではなく、赤ちゃんが加わることによる集団としての家族の変化なんだと思います。だから誰かひとりに視点を固定する形でなくなって、視点が移るので拡散もするのだけれど、そこが書きたかった作品なんじゃないかと思いました。ただ、訳については私もひっかかったところがありました。

アサギ:ヘルトリングは、原文がとても洗練されているので、訳は難しいの。ヘルトリングはもともと詩人なので、言葉が究極までそぎおとされているから。そのまま訳すとぶっきらぼうだし、かといって足していくと、原文の味がなくなってしまう。行間を読む作家ですね。ネストリンガーと対照的。ところで、このお父さんって、どんな感じがします? 88年に来日したとき、ヘルトリングの奥さんが、「彼には家族というものがわからない」と言っていたのを思い出しました。現実のヘルトリング家は、奥さんが支えていたのではないかしら。

むう:ヘルトリングさん自身、幼少期は家庭に恵まれなくて、今は暖かい家庭を築いているからこそ、こういうものを書きたいと思ったのかもしれませんね。幼少期の厳しかった現実からくる寂寥感やなにかが『松葉杖……』などの作品を生み出したとしたら、これはヘルトリングさんの今が生み出したのかな。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年5月の記録)


『となりのこども』

岩瀬成子/作 網中いづる/画
理論社
2004

アカシア:岩瀬さんは、すごく好きな作家なので、ファン心理で読んでしまいました。この文体が、私にはしっくりくるんですね。この作家特有の時間の切り取り方があって、それを読むと自分の子どものときのことを思いだします。ほかの作家では思い出さないのに。子どもの細かいところをよく観察しているからかな。子どもの姿を浮かび上がらせるのがうまいですねえ。短篇集なんだけど、読んでいくと、前に出た人があとで出てきたりして、同じ地域の話だとわかっておもしろかったし、子どものころは日常生活のすぐ向こうにファンタジーがあるという状態もよく書けています。あいうえお順に献立を考えるおばあちゃんとかおもしろい。「い」のつく料理を考えているうちに「家出」もかんがえついたのかな、とか。ただ、何歳くらいの子が主な読者層なんでしょう? 大人が読んで面白い作品かもしれませんね。

雨蛙:連作ということで、ひとつの地域の話として、つながりとまとまりがあるのが心地よかったですね。よくありそうなコミュニティの、よくいそうな子どもたちとおとなたちだと思ってしまう不思議な感覚がいい。「あたしは頭がヘンじゃありません」で、竹男くんが人形をもらう場面のように、この子いいなあと思ったり、「ねむの木の下で」で野良猫にえさをやるのがきっかけで友だちになったり、ほっとしたり共感できる場面が多いのもよかった。とても身近に感じながら読め、ついつい個人的な体験と比べてしまう。個人的に言えば、子どものころにすごした環境よりも、都会的な印象を受けた。たとえば、「夜の音」の少年たちとその親の関係とか。自分の体験をふりかえると、もっと大人と子どものつながりが強かったように思ったり。「二番目の子」で、女の子同士が遊んでいる、友達をとられてしまうのも、よく書けているなあと。しっくりくる話が多く読後感がよかった。

アサギ:「緑のカイ」という最初の話が好きになれなかったのだけれど、次からは全部おもしろかった。でも、私の子ども時代とオーバーラップするので、現代の子どもにわかるかな、という気はしました。「二番目の子」もリアリティがあってよかった。最後のほうに出てくるあずさちゃんの、へんにケチくさいところなんかも身に覚えがありましたね。ストーリーとしてぐいぐいっとくるのは、バイクの話。たいへんにいい作品だと思いました。

ハマグリ:最近この人の本を『アルマジロのしっぽ』『金色の象』と読んできたんだけど、『となりのこども』が一番面白かった。「緑のカイ」は、この年代の子どもが持っている未来への漠然とした不安とか、成長することへのとまどいを表現していると思う。第2話では、全く違う子どもたちが出てくるのに、最後にちょっと麻智のお母さんが登場し、第3話では、「あたし」って誰かと思ったらおばあさんで、第一話に出てきた竹男くんが出てきて、という構成もうまい。次はどんな話だろうという期待も出てくる。竹男くんは、おばあさんの家出をどこか面白がってる風で、あいうえお順の献立の「あ」という張り紙をさっさと自分で「い」に張り替えるとか、びん人形の世話をするとか、魅力的なキャラだと思った。この作品全体として、子どもって本当にいろんなことを考えているんだな、ということをよくわからせてくれる。児童文学によくある学校の話でもなく、家庭の話でもなく、子どもが一人でいるときに、子どもの頭の中にどんなことがあるのか。たとえば「夜の音」で、弟が、バイクの事件にかかわった兄のことを毎日とても心配しているけど、一方ではリコーダーで「庭の千草」がうまく吹けないということも描かれて、全く次元の違う悩みも、子どもの中では同一線上にある、といった感じをうまく書いていると思う。また、夕子と愛、麻智とあずさちゃんのように歳の離れた子との関係もうまく書けている。いろんな子どもが出てくるのだけれど、この子はこんなことを思いました、感じましたではなく、徹底的に子どもの行動で描いているところがいいですね。だから、今の子どもが読んでも共感するのでは。大人が楽しめる部分もあるけど、大人のいないところにいる子どもがよく書けているので、やはり子どもに読んでほしいな。

ケロ:挿絵の感じや、お話の内容から、すごく昔、というわけではないけど少し前の風景を描いているな、と感じました。自分の体験と重ね合わせて読むような感じ。今の中学生や高校生が、どんな感想を持って読むのかをきいてみたいです。気持ちとしては普遍なのだろうけれど。「子どものころ、こんなことなかった」みたいな話は、私は個人的にあまり好みではないんです。でも、確かに印象深いし、うまいなとは思います。短編連作というのは、本当に上手な人っていますよね。テーマでしっかりくくっている訳ではないけれど、全部を読むと、しっかりとしたある感情にみたされるという感じ。

:私も岩瀬成子さんファンなので、ファン心理で読みました。「緑のカイ」では、麻智や理沙がちょっと上の年令に感じられた。こういう気持ちになったよね、という気持ちのヒダをうまく切り取っていると思います。子どもは、大人がいないところで育つんだと、どっかで聞いたことがあるけど、これを読んでいて、その言葉を思い出しました。私も妹を邪魔にして、どうやってまこうかと苦心した思い出があって、感じがよくわかります。どの短編もおさまりがよくって気持ちの良い読後感でした。
*「あたしは頭が変では」のおばあさんの人形の名前など、細かいところがすごいとひとしきり盛り上がる。

カーコ:大体もう出尽くしていますが。読み進むうちに仕組みがわかって、ひきこまれていきました。居心地が悪くなるくらい、こういうことあった、あったという感じ。でも、ここに描かれている地域の人間関係は、どことなく一昔前と言う気がしました。今は、知らない人に声をかけられても話すなに始まって、親も学校も管理が厳しくなっているでしょう。ここの子どもたちは、もう少しゆるやか。スカートをはいてパンツを見せるというのも、今の子はしないんじゃないかしら。

アカシア:地方ではまだこういう情景があるんじゃないかな。著者も山口県に住んでいる人だし。

カーコ:そうかあ。ともかく、今の子が読んでどう思うかなあっていう気がしました。高校生の女の子くらいなら、おもしろがって読んでくれるかしら。理論社の本の中では、つくりからしても並製本の大衆路線と一線を画していますよね。とびっきり部数は出なくても、読む人は読んで大事にしてもらいたいという本かと思いました。

ハマグリ:最後の話でお母さんのケータイが出てくるから、そんなに昔の話じゃないのでは?

アサギ:おばあさんも別に昔のおばあさんではないし、昔の話のように感じるのは、全体の雰囲気だと思う。

:時代を超えた、人間の感情の普遍的な部分を書いてあるんじゃないかなって思います。

アサギ:年下のきょうだいを邪魔にするというのは、時代を超えてるわね。だからリアリティを失わない。

むう:今回のテーマを赤ちゃんにしようと思って日本の作家が書いた赤ちゃんものの読み物を探したのですが、見あたらなくて、枠を広げて兄弟も入れようということでこの本を選びました。みなさんがおっしゃったとおりで、この人は細部までとてもよく観察しているし、それを上手に表現していると思います。「あたしは頭がへんでは……」は、なんか高野文子の『絶対安全かみそり』に出てきた幼い女の子姿のおばあちゃんを彷彿とさせる感じで、それが妙に納得できて面白かったです。それぞれの作品に、不思議がすぐ隣にあってたゆたうようなところもあるあの年頃がうまくとらえられていて、こんなことがあったよね、という感じがするんですね。ゆらゆらっとしたところをじょうずに書いている。あと、どの作品も、終わり方が書き過ぎもせず、書き足りないこともなく、とてもうまいと思いました。

ハマグリ:「鹿」の終わり方はどうでした? 最後に出てくる白い鹿っていうのは、ちょっと唐突だと思わなかった?

アカシア:本としては、不思議な存在が出てくる「緑のカイ」で始まって、また最後に不思議な鹿が見えるという終わり方なんじゃないかな。フッと不思議なものが見えるような気がすることってあるじゃないですか。それと、二人の女の子の気持ちが「鹿」を同じように見るということで重なるところを書いているのでは?

ハマグリ:なるほど。さんざんいじわるな気持ちがふくれあがっていたのに、鹿を見るという一致した行為があったために、スッとまた仲良くなれたのね。「また遊ぼうね」って言葉が、素直に出てくるんだものね。それに対して、あずさちゃんが、「いいよ」って返事するのもなんかおかしいし、よく感じが出ている。

アカシア:子どもだけを乗せてる運転手さんが、「おたくら」と話しかけたり、「とうとうきゅうきゅう車がきましたっ」と小さな妹が言ったりするところなんか、定型をはずれたところにある真実をちゃんと書いている。p156から157にかけてのお母さんの心の変化も、短い描写でぴたっとおさえている。プロットばかりのネオファンタジーの対極にある作品ですよね。プロット偏重の作品ばかりを読んできた子どもには、逆にわからないかもしれませんね。こういうものをわかるのが大事なことなのに。アン・ファインも、こんなふうに訳してくれたら、よかったのにねえ。それにしても、ステレオタイプに甘んじる描写がないんですよね、この作家は。

ハマグリ:そう、ストーリー性がないから、あとで思い出そうとすると、こういう話というようには思い出せないのよ。でも、細部のリアリティや、味わいみたいのが残るの。

(「子どもの本で言いたい放題」2005年5月の記録)