月: 2000年6月

2000年06月 テーマ:主人公は15歳

日付 2000年6月22日
参加者 愁童、ウォンバット、ねねこ、ひるね、オカリナ、
流、N、モモンガ、裕
テーマ 主人公は15歳

読んだ本:

(さらに…)

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陳丹燕『一人っ子たちのつぶやき』

一人っ子たちのつぶやき

愁童:まだ3分の1しか読めてないんだけど、中国のひとりっ子政策のことがよくわかった。でも、子どもに読ませる文学作品としては、おもしろくないね。「こういう体制にすれば、こうなるんですよ」っていう基本法則を見せられているみたい。

ひるね:私も途中で挫折。社会学的に読めば、おもしろいんでしょうけど。

オカリナ:私も2日前に入手したばかりで、全部は読めなかったんだけど、ショッキングだった。社会体制が変わると、人間ってこんなに変わっちゃうものなのね。中国って、あれだけの大勢の人がいるのにね。でも、この文章、ちょっと読みにくいね。この訳者は、もっと文章うまかったと思ったけど。

N:陳丹燕はラジオのDJをやってるんだけど、この本はリスナーの子どもたちが、番組あてに送った、親にも先生にも友人にもいえない悩みを綴った手紙をもとに、取材をしてまとめたものなの。実際の手紙そのものではなくて、それに手を加えてるから、正確にはノンフィクションではなくて、フィクションなんだけど。中国は外側からの報道しかされていない国だから、内側からの声がストレートに聞こえるこの本の登場は、とてもセンセーショナルだった。ここに出てくるのは、ものわかりがよすぎて、子どもらしくない、いい子たちばかり。彼らが、親の期待におしつぶされそうになってる姿が、浮かびあがってくる。

オカリナ:もう異星人かと思っちゃった。子どもと親との間には、絶対的な境界線があるんだよね。どうしてこんなふうになっちゃうのか、謎ですね。

:でも、今まで中国ではいじめってそんなに陰湿ではなかったのに、このごろでは陰湿になってきてるんですってよ。やっぱりストレスはものすごいんじゃない?

オカリナ:日本の子どもが、こんなに管理された環境におかれたら、すぐキレちゃうよね。ひと昔前にキレなかった人は、今アダルトチルドレンになってるって話だけど。

愁童:日本は戦争に負けたところでぷつっと切れてて、そこから50年でしょ。韓国や中国は、敗戦でとぎれることなく儒教の教えがずっと続いているから、子どもたちのストレスは、日本以上なんじゃないかな。

ひるね:あえてフィクションにしたというのは、社会的思惑かしら。

N:そういうわけではないと思う。作者がもともとルポライターだからじゃない?

:私は、これを出版した彼女に感動しました。中華民族のスケールの大きさが感じられる。今の時代に、こういう仕事をしようとするのがデカい。1冊の本として、子どもにどうのというのは、最初から度外視してるし、未完成だし、荒削りだけど、今の中国の真の姿を知りたいという人にはとても価値のある作品。読んでてつらくなっちゃうんだけど。

オカリナ:いろんな人の声を集めるというのは、ほかの国でもやってることだけど、やっぱり中国では、やりにくいのかな?

:それはあると思う。字の読めない人だっていっぱいいるわけだし。全中華民族が視野に入ってるって、スゴイことだよ。

ねねこ:やっぱりこれって、手紙100編くらいあったほうがいいのかな?

流&N:多すぎるよねー!

:文体が同じだから、飽きちゃう。

ねねこ:編集上のひと工夫が必要だったかもね。

:でも、中国って、一人きりの子どもをすごく大事にしてて親は肉も食べないっていうの、よくあるのよ、ほんとに。日本でも過保護にしてる親ってたくさんいるけど、それは個人が好きでやってるわけであって、中国は国家政策としてやってるんだからねえ。そういう事実を書いたってだけでも、やっぱりすごいことよね。

N:中国では日本に遅れること20年、今年はじめて金属バット事件がおきたの。1978年にはじまった「ひとりっ子政策」も、2003年にはやめるらしいし、これからどうなっちゃうんだろうね。高学歴の人ほど子どもが少ないしね。

愁童:ひとりっ子が親になったときがコワイよ。

ねねこ:そうだよね。ひとりっ子が大人になって、どういう親になれるかっていうのが、この国にとってこれからの問題でしょうね。

(2000年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


藤野千夜『少年と少女のポルカ』

少年と少女のポルカ

モモンガ:「なるほど」と思うところも、「ウソでしょ」と思うところもあったけど、どんなことでも、あたかもなんでもないことのように描くこの書き方には、ちょっとはまっていきそうな魅力がありました。もちろん現実にはこんなにあたり前のようにはいかないだろう、というギャップが感じられるけれど、それはそれとして、この小説世界にはまって楽しみたい、という気分になる。でも、女の子らしさの描き方に違和感があるな。女性の作家だったら、こんなふうには書かないんじゃないかしら。 たとえば女になりたいヤマダが、タータンチェックのパジャマとか、赤い薔薇の花でそろえたカーテンとベッドカバーとかね、どうしてそうなっちゃうの?

ねねこ:だって、それはヤマダがそういう人だからよ。そういうふうにしたいのよ。

オカリナ:ヤマダのタイプの人って、過剰に「女性的」になりがちなんじゃない?

モモンガ:あ、そっか。ヤマダはそういう女になりたいわけね。でもそうじゃない女もいるわけであって、オトコがなりたいオンナと本当のオンナは違うわけで・・・えーっと、わけわかんなくなっちゃった。

ウォンバット:私は、この作品とても好き。今日のイチオシ。藤野さんと私って、きっと同じようなものを読んだり聴いたりして大きくなったんじゃないかと思うな。年も近いし。まず思い出したのは、吉田秋生の漫画『河よりも長くゆるやかに』(小学館PF ビッグコミックス)。この漫画大好きなんだけど、ここに流れてる空気と共通のものを感じました。いろいろ悩みや問題があることはあるんだけど、全体としては、たらたらとした楽しい高校生活っていう感じでね。藤野さんが、この漫画を読んでるに違いない! と思ったのは、登場人物の名前なんだけど『少年と少女のポルカ』と『河よりも長くゆるやかに』では、クボタトシヒコと能代季邦(トシクニ、トシちゃん)、ヤマダアキオと神田秋男、タニガワミユキと久保田深雪というふうに、かぶってる。それが偶然とは思えなかったんですね。あと大島弓子も好きだと思うな。「漫画の猫みたいだな」っていうのは、『綿の国星』のことじゃない? ヤマダは『つるばらつるばら』を思い出させるし、『午後の時間割』は、『秋日子かく語りき』とか『あまのかぐやま』を連想して、久しぶりに大島弓子、読み返しちゃった。で、私がとりわけいいなあと思うのは、「トシヒコは13歳のときに、自分がホモだということで悩まないと決めた」というところ。このふっきれ方がいい。社会の中で、自分が少数派になる局面っていろいろあるでしょ。とくに学校では、他者と違っていてはいけないことが多いから、少数派になってしまうと暮らしにくくなる。でもそれは価値観の違いであって、絶対的なものではないんだよね。そういうことで悩んでる子には、彼らの対処の仕方がとっても参考になると思うな。

愁童:ぼくは、どうも肌があわなかった。小説としてはおもしろいけど、共感はもてないね。やっぱり生活感がないのはダメと言われて育った世代だからね。知識人の大人が、今の子どもの風俗をうまく料理したという感じがしちゃって。『トゥインクル』と同根異種だと思うな。まあ、生活感がないのが今の生活といわれれば、それまでなんだけど。

ひるね:私も、この作品が今日のイチオシ。ゲイがでてくる物語っていろいろあるけど、身近な人がゲイでっていうパターンが多いでしょ、クレージー・バニラ』みたいに。主人公がゲイというのは、珍しいわね。事実から出発して背筋をのばして、つっぱりもせず、卑下もせず、淡々としてるとこがいいと思う。出来事に対して一直線に怒ったり、悩んだりしてなくて、ちょっとズレてる。そのズレ幅が、余裕というかユーモアになってる。まあ、現実には、学校はこんなに寛大じゃないと思うけど。ヤマダのお父さんが、女っぽくなってきたヤマダに「グロテスクだな」っていうんだけど、どんなカッコしてたって息子は息子なんだから、お父さんのとるべき態度はそれでいいんだよって応援したくなる。でも、ヤマダとかトシヒコみたいな人って、少なくないのよ。表面化してないだけで。彼らより、電車に乗れないミカコの方が深刻だと思うな。未来も全然明るくないものね。ミカコとトシヒコのつきあい方も、自然でこういうのもあるんだろうなと思った。『午後の時間割』もおもしろかったわ。

オカリナ:私、作家について何も知らないで読んだから、最初女の人が書いてるのかと思って、きれいにまとめすぎてるなって思ったの。でも、実際にいろいろ体験してる人だったら、逆にどろどろしたところは書かないだろうなって、思い直した。生きにくい子って今たくさんいると思うけど、この作品の中の彼らはうまくかわしながら生きてるとこがおシャレで、心地よく読みました。悩むのをやめたってふっきれてるところからスタートしてるというか、どろどろ悩んでいるところを、わざと書いてないのよね。でも、『午後の時間割』の方は、同人誌に、載ってそうな作品ですね。

:私は、受け入れられないとこもある反面、すっごくわかるっていうとこもあった。でも、ある種反発があって、肯定的にはなれないな。『午後の時間割』の方が「わかるっ」という感じだったんだけど、高校生の頃の嫌だった自分を思い出してつらくなった。なんか葛藤があって。すごくかきまわされた感じ。わかりすぎる小道具が迫ってきちゃってね。

ねねこ:作りものといえば作りものなんだけど、私はなんだかとても励まされた。日本の文学って、正攻法で戦いすぎて、湿気るか、乾きすぎかのどちらかになりがちだけど、こういうやり方もあるんだなあと思った。おだやかなエールというのかな。あれっ作りすぎ? と思うことでも、許せちゃう潔さというか、性格の良さが感じられた。こまごましたことを具体的に書きこんでるんだけど、それで遊べる楽しさもあるし。小説が現実の乗り越え方を、提示している一つの例だと思った。

愁童:でも、べつに、これを小説でやる必要はなかったんじゃない?

ねねこ:これはこれで、漫画ではできない、小説ならではの空気感だと思うけどな。純文学の人が「これは風俗に流されてる」ってよくいうけど、この作品は、そんな風俗的なものでもないと思う。そもそも「風俗に流される」ってどういうことなのか、私はよくわからないんだけど。

モモンガ:ねね、みなさんおっしゃらなかったけど、「本校開闢以来の伝統」っていうところおかしくなかった? 私、げらげら笑っちゃった。

一同:私もー。

モモンガ:この作品、そういうユーモアもきいててとってもいいけど、タイトルはよくないわね。どうしてこんなタイトルにしたのかな。若い子は手にとりそうにないよね。

(2000年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


長崎夏海『トゥインクル』

トゥインクル

モモンガ:今回の読書会は、これといったテーマはなかったのよね。主人公が15歳前後っていうだけで。私、最初てっきりゲイがテーマなんだと勘違いしちゃったの。『少年と少女のポルカ』も『クレージー・バニラ』も、ゲイが出てくるから。でも、この本には出てこないから、私ったら、どこかにゲイが出てきたのに、気づかなかったのかしらと思ってよくよく見たんだけど、やっぱりなかった。

一同:わはははっ。(笑い)

モモンガ:この作品、ちょっとした感覚をとらえるのはうまいと思うけど、とくに「心に残ったこと」というのは、なかったんです。ボリュームも足りないし。なんか軽くて、ふわふわっとどこかへいっちゃいそう。今の子がいいそうなセリフとか、しぐさはちりばめられているんだけど・・・。

ウォンバット:私も読んだことは読んだんだけど・・・。無味無臭だった。

ねねこ:バニラの味もしなかったの?

ウォンバット:うん、何の味も。感想は特にないので次の方どうぞ。

愁童:この作品、最初に読んだんだけど、この会に出ようとしたら、全然思い出せないんだよね。それで、あわててもう1度読み返したんだけど、2回読んだら、案外いいかなって思った。ここに出てくるような子たちって、たしかにいるしね。とくに印象に残っているのは「フォールディングナイフ」「電話BOX」「ノブ」。「フォールディングナイフ」の主人公タケルの家は、お父さんが別の女の人と暮らしていて、月に1度しか帰ってこないっていう、ほとんど崩壊した家庭なんだけど、お母さんはそういう現実を受けとめたくなくて、クリスマスにお父さんが買ってきたケーキを家族みんなで食べるってことに執着してる。タケルはそういう母にいたたまれないものを感じている。そしてそのつらい日をのりきろうと、自分のためのクリスマスプレゼントとしてナイフを買いにいったのに、ナイフは売り切れ。おまけに雨まで降ってくる。仕方なく雨宿りした公園で、3歳年上のリカコにばったり会うわけだけど、そこでの会話がいいんだな。リカコは、コンビニのおむすびを渡しながら、「悲しいときには飯を食え」っていうんだけど、それはタケルの母にいわれたことだっていうんだよ。1か月くらい前に、すごい迫力でそういってコロッケの包みをくれたって。あんな母がそんなことをいってたなんて、そしてリカコはその言葉に救われてたんだってことがわかって、タケルはハッとするんだよね。「電話BOX」も、最後に電話をかける少年の気持ちがとてもよく描けている。「ノブ」は芥川龍之介の『トロッコ』が出てくるんだけど、これなんか痛烈な国語教育批判だよね。この作品、日本児童文学者協会の賞をもらってるでしょ。昔、心象風景とか「そこはかとない感動」というものを徹底的に批判していた日本児童文学者協会が、こういう作品を賞に選ぶというのは、どういうことなんだろね? でも、こういうタイプの作品が児童文学に入ってくるのは、悪いことじゃないと思うんだけど、どうだろう? これはウンポコさんが好きそう。

ねねこ:そうでもない、みたいよ。

愁童:えっ、ダメなの? 意外だなあ。作者のあったかい視線が感じられていいと思うんだけど。まあ、でもちょっと迫力は足りないかもな。

ひるね:私はこの作品、ちょっと印象うすかったんだけど、今愁童さんの解説を聞いて、思い出したわ。

ウォンバット:私も愁童さんの解説聞いて、もう1度読みたくなった。

ひるね:スケッチで、全体をなんとなく示唆するというか、いろんなことの側面をスライスするような感じよね。それは伝統的な日本文学の手法だと思うんだけど。私、このところイギリスの短編をいろいろ読んでいるの。アン・ファイン、ジャクリーン・ウイルソン、メルヴィン・バージェス、ティム・ボーラーとかね。彼らの作品は何か決定的な出来事がおこるから、短編でも、読んだ後になにかしら強い印象が残る。日本の文学も、書きたいことをもう少しはっきり書いてもいいんじゃない? 心象風景ばっかりだと、こういうことを書いてなんになるのと思っちゃう。たとえば「電話BOX」で、老人が一人で食事をするのを見るのは悲しいっていう感覚なんかは、私もティーンエイジャーのとき、ほんとにそう思ったし、とてもよくわかるの。でもこの会話のカコの口調は、今の高校生のしゃべる言葉じゃないわね。「フォールディングナイフ」のリカコは、今の女の子の口調そのもので、とてもいいと思ったけど。やっぱり、2度読まないといけない作品なのよ。っていっても、10代の子は2回読まないと思うけどね。

愁童:中高生は、どうかなあ。でも、日本の小説はこういうのたくさんあるから、これが児童文学にあるっていうのは自然だと思うよ。

ねねこ:中高生が読むかしらねえ。特にこういうつくりでは。

ひるね:完成度にもよるでしょ。

ねねこ:こういうのって、教科書にはのりやすいと思うけど。

オカリナ:私も1か月くらい前にこの作品読んだんだけど、もう印象が薄くなってますね。最近そういうことも多いんだけど、『少年と少女のポルカ』のほうは、最初の方読んだら思い出したし、『クレージー・バニラ』は、ああ写真を撮る男の子の話だったなとよみがえってきたけど、この作品は表紙を見てもよく思い出せなかったの。でも、中学生のときだったら、私こういうの好きで読んだかもしれない。昔、清水眞砂子さんが、大江健三郎を引用して、文学には日常を異化するっていう意味もあるんだってこと言ってたの、思い出したな。この作品は、きわめて日本文学的な作り方をしてると思うんだけど、日本文学の構成って、私は俳句と同じだと思ってるの。心象風景を切り取ってつなげていくやり方だと思うのね。西洋の作品は、まず背骨を作って、そこに肉づけしていく方法で構成されてる。だから、日本の作品の独自性を無視して単純に批判することはできないと思ってるし、こういう日本的な作品もあっていいと思ってるんだけど、この本はどういう読者を想定してるのかな? 子どもの手の届くところにあるのかしら。

モモンガ:日本文学のよさっていうのはわかるけど、子どもにはおもしろくないかも。

ひるね:やっぱり完成度の問題じゃないかしら。こういうタイプの作品でも、おもしろいものはおもしろいのよ。乙骨淑子さんの『13歳の夏』なんて、すばらしかったわ。特に1章が。それから庄野潤三も、日常のこまごましたことばかり書いてるけど、私は、好きよ。おもしろいもの。完成度が高ければ、読めるのよ。この作品は、何が書きたかったのか、見えなさすぎなんじゃない?

:私はこの作品、最初、短編集だと思わなかったの。終わりがはっきりしないから、次に続いてるんだと思っちゃった。ま、それはいいとして、この挿絵でいいのかな? 特に75ページの絵。

オカリナ:雰囲気を出したかったんじゃないの? 人気のある絵描きさんだけど、この本にはあってなかったのかな。

:あと、内容と本の体裁があってないでしょ。ストーリーは中学生向けだけど、本のつくりは小学校高学年くらいの感じ。

ねねこ:推薦がとりやすいのよね、小学校高学年にしたほうが。販売的戦略かな?

:でも、だれが読むのかな? なんか私、そんなことばっかり気になっちゃって味わうところまでいかなかった。

:なんだかみなさん否定的だから、私がサポートしなきゃっていう気持ちになってるんだけど・・・。この作品は、意味もない現実を拾おうとしているんだと思うのね。となると、ひとつの大きな物語ではなくて、短編にする、寄せ集めるしかなかったんじゃないかな。言葉にならないことを、あえて言葉にしようとしてるのよ。つまんないことなんだけど、これが現実なわけでしょ。そして、若者は無感動だとか言われてるけど、本当はちょっとしたところで心が動いているのよね。そういう瞬間を集積して1冊にしたんだと思うの。特に「電話BOX」は、それがうまくいってるかな。忘れちゃうような作品かもしれないけど、こういうのもあっていいと思う。

モモンガ:意味のないことをすくいあげようとしたんじゃなくて、意味のない毎日だけど、そこに意味を見つけようとしてるんじゃない?

ねねこ:長崎夏海さんの作品って、これまではけっこう熱かったよね。常に、今の子どもたちを励ましたいと思ってる作家だから、クールに書いていても、思いにあふれていた。この作品は、そうしたプロセスを経た後、少しさめて、距離をおいたところで、今の子どもたちに共感を得られそうなシーンをスケッチしたっていう印象。今までの長編がクサくなりがちだったから、ワビサビの世界を描いたのかなあ。

愁童:子どもたちの「ぼくはここにいるよ」っていうのを代弁してる感じはあるよね。でも、日本児童文学者協会賞っていわれると、うん? という思いはあるな。

ねねこ:んー、いいんだけど、華がない。華がないから、1回読んだだけでは、よさがわかりにくいし、印象に残らない。

ひるね:やっぱり意味のないことを書くにしても、書き方があると思う。バージェスの短編でも、主人公がものすごく変わるわけでもないし、すごい事件がおこるわけでもないのに、とても魅力的っていう作品あるもの。それは、お父さんとお母さんが離婚することになって、いざお母さんが家を出ていくっていって、荷物を運び出したりしているときに、お父さんがもくもくと巨大な穴を掘りつづけるっていう話なんだけど(“Family Tree”という短編集の中の‘Coming Home’)。視覚的なことなのかしら。小川未明の作品なんかも、まさにその瞬間が目に浮かんでくるものね。

オカリナ:完成度の問題じゃない?「Little Star」でも、小さなほころびが気になるものね。だって幼稚園の子にむかって「おまえ」ってよびかけるのは、ヘンでしょ。なんか年齢不詳なしゃべり方してる。ラストも、これで終わっちゃうと思わなかったし。

(2000年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)



バーバラ・ワースパ『クレージー・バニラ』

クレージー・バニラ

モモンガ:とっても好きな本だった。子どもの気持ちがよく描けていると思う。どういうふうにいったらいいのかな・・・主人公タイラーは、友達がいなくて、家族に対しても、思ってることと違うようなことを、ついいってしまって、それがストレスになっちゃうような子なんだけど、そういう子の描き方がうまいよね。タイラーはミッツィと出会って、彼女のことが好きになっちゃうんだけど、人が突然だれかを好きになるっていう気持ちも、うまく表現してると思った。タイラーとミッツィだけでなく、ミッツィのお母さんとか登場人物はみんな、どこか破綻したところのある人たちなんだけど、どの人にも愛情をもった描き方がされてて、それぞれの人間性がよくわかる。だから、どの人にも人間的な興味がもてるのよね。あと、詩の使い方がうまい! ミッツィの好きなスティービー・スミスの詩。「ぼくはあなたたちが思っていたよりはるか沖まで流されていたのです。あれは手を振っていたのではなく、溺れて助けを求めていたのです」っていうの。この詩が、タイラーの気持ちをよく表していると思う。タイラーは、今の自分の状況はこの詩みたいだっていうんだけど、ミッツィに「きみは溺れてなんかいないよ。手を振っているのかもしれないけど、溺れているんじゃないわ」って励まされるのよね。お兄さんがゲイだって知ったときの家族の反応も、よくわかる感じ。『少年と少女のポルカ』のヤマダの家は、ちょっと嘘っぽいと思ったけど。ねえ、『クレージー・バニラ』って、タイラーにとってどういう意味をもっていると思う? とっても存在感があるタイトルだけど、タイラーって、こういうおもしろい名前がひらめくタイプじゃなさそう・・・。どうしてこのエピソードをもってきたのかしら?

ねねこ:「クレージー・バニラ」って、英語で何か特別な意味があるの?

オカリナ:別にないんじゃない? ただクレージーなバニラってだけで。

ウォンバット:私、いいタイトルだと思う。『クレージー・バニラ』。内容を知る前からいいなあと思ってたけど、アイスクリームの名前だって知ってからはもっと好きになった。とってもおいしそう。高校生のとき、サーティワンアイスをきわめた(毎月変わるアイスクリームの味と名前を常におさえてました)私には、わかるこのすばらしさが。バニラは地味だけど、なくてはならない基本の味。それにクレージーって過激な言葉がくっついて、ユニークな名前になってる。タイラーのいうとおり、ネーミングって、シンプルでインパクトがないといけないと思うんだけど、その両方をちゃんと満たしてる。コンテスト優勝まちがいなし!と思ってたのに、残念ね。さっき、登場人物がそれぞれよく描けてるって言ってたけど、私も賛成。とくにお兄さんの恋人のビンセント・ミラニーズがおもしろかった。3〜4年前かな、日本でもさかんに「ミニマム」っていいだしたの。ビンセントはインテリア・デザイナーでミニマリズムの旗手。倉庫をすばらしい住居につくりかえたって、ベタボメの雑誌記事をお兄さんが送ってくるんだけど、それってタイラーからしたら、がらんとした殺風景な部屋を、おおげさにほめたたえてるように見える。それで、タイラーは「ビンセントってのは、なんてヤなやつなんだ。世界一のいかさま師だ」って、怒って雑誌を捨てちゃうんだけど、たしかにミニマリズムって、いかさまと紙一重ってとこ、あるでしょ。だから、すっごくおかしかった。タイラーは、はじめからビンセントのことをよく思っていなくて嫌いになりたいんだけど、いざ会ってみたら、スキのないちゃんとした人だったもんだから、フクザツな心境・・・。とんでもないやつだったら、あきらめもつくのに。わかるわぁ、その気持ち。という感じで、細部も全体も好きな作品だった。でも、翻訳で1ヵ所気になるところがあったの。ミッツィがタイラーに向かって「きみ」っていうでしょ。二人が池で再会する場面で、「こんなところで何してるんだ」ってタイラーにいわれたミッツィが「きみの池なの?」って聞き返すんだけど、ヘンな感じ。そもそも今あんまり「きみ」っていわないでしょ。しかも「そっちこそ、なんなのよ!」っていうシチュエーションで、「きみ」は、使わないんじゃない?

ひるね:そうかしら。私、ちっともおかしいと思わなかった。女の子が、年下の男の子に対していう言葉だし、ミッツィはクルーカットで男みたいな格好をした子だから、ボーイッシュな雰囲気を醸し出す、うまい訳だなと思ったけど。

ウォンバット:そうかな。やっぱりここは「きみ」より「あんた」って気がするけどな。ここだけではないのよね、「きみ」っていうの。

ひるね:二人が仲よくなってからも、ミッツィは「きみ」っていってるわね。「ウッドラフ」ともいうけど。

ねねこ:「きみ」って、都会っぽい感じ。私、東京に出てきて、はじめて男の子に「きみ」って言われたとき、うっとりしちゃった。うわっ、おしゃれーと思って。うちの地元のほうでは、だれも言わないからね。でも、今の若い女の子が男の子に対しては、あんまり「きみ」って言わないかも。

愁童:ぼくたちの若いときには、女の子に「きみ」っていうの、普通だったけどねえ。

ねねこ:今でも、男の人が年下の男の人に対しては使うけどね。上司が部下に対して「きみ、きみ」とかさ。

ウォンバット:私たちは、茶化すときくらいしか使わないなあ。

ひるね:世代の違いかしら。

愁童:そうかもしれないね。ぼくは、この作品、青春のみずみずしさが感じられて、いい作品だと思うけど、ひっかかりというか、こういう場で話題にする切り口が見つからなくて。ちょっとクラシックすぎちゃうんだな・・・。でも、殺伐とした時代に、こういうお話はいいと思う。一貫して流れているのは「動物の写真を撮ること」。それが、二人をつないでいる。ミッツィがタイラーに「写真にあまりセンチメンタルな感情をもちこんじゃ、だめよ。動物のかわいらしい瞬間だけを選んで撮影しても、その本当の姿を撮影したことには、ならないんだから」って言うんだけど、なるほどと思ったな。とてもいい勉強になった。「クレージー・バニラ」は、すべてのきっかけであり、キーワードなんだよね。二人が出会ったのは、「クレージー・バニラ」がコンテストで落選したからだし、ミッツィは、はじめ「ひどい名前ね」なんていってたんだけど、彼女がこの街を出ていくことになって、さよならをいう場面では「『クレージー・バニラ』ってほんとはすごくいい名前だったよ」って言う。これは、ただ単にアイスクリームの名前のことを言ってるわけではなくて、暗に写真のことを言ってるんじゃない? 同じ動物写真を志す同志として、一緒にがんばろうよっていうエールがこめられた言葉だと思った。

ひるね:私も最後までおもしろく読めた。さわやかな物語。いろいろと問題はあっても、こんな楽しい夏休みを過ごせるなんて、若い人はいいわね。私にとって、この作品の魅力の99%は、野鳥の撮影に対する興味だったんだけど、とてもおもしろかったわ。ちょっと気にくわなかったのは、主人公タイラーがお金持ちのお坊ちゃまだっていう設定。自分は渦中にふみこんでいかないで、ただ外から眺めていて、「ぼくちゃんのことは、どうしてくれるんだよ!?」って言ってるだけみたいな感じがした。タイラー自身、成長はしてるけど、ダメージは受けてないわけだから。あとさっき、ゲイに対する家族の反応がよくわかるっていう話があったけど、私は反対に『少年と少女のポルカ』のヤマダ一家のほうがリアリティがあると思う。この作品のほうが嘘っぽい感じ。

オカリナ:これは、真実を知ったばかりの時期の話だから、『ポルカ』と一概には比べられないんじゃない? ヤマダは、もうずっと前からスカートはいちゃってたわけだから。でも、この作品では、ゲイのお兄さんの影が薄いね。それにしても、この兄とタイラーの会話の部分の訳は、不自然だと思わない? 映画の字幕みたい。「兄さんのこと、大好きだよ」「ぼくもだ。おまえみたいにいいやつはいないよ」なんて訳してる。内容は、よくも悪くもクラシックな作品だよね。

:私は動物が好きすぎて、深入りしすぎるというか、深い関係になりすぎちゃうようなところがあって……それは、ひとつの悩みなんだけど、この作品の「動物との距離のとりかた」は、そんな私に、とても参考になった。タイラーとゼッポの関係とかね。野鳥の撮影も、興味深かった。全体的にはおもしろいけど、まあクラシックな作品だと思う。形式もノーマルだし、先が読めちゃう。結末も「こうなるだろうなあ」と思ったら、やっぱり! だったし。あっさり味。1回読んで、「さわやかで、気持ちいい」作品ってことで、いいんじゃない?

ねねこ:私は、動物を撮る姿勢の違いに、ミッツィとタイラーの性格や生活の違いも感じられておもしろかった。動物をありのままに撮ろうとするミッツィと、できるだけ美しく撮ろうとするタイラーとの対比に、それまでの生き方や生い立ちまでをも連想させられた。

:青春文学の古典、サリンジャーや、ジョン・アーヴィングの流れをくんだ作品だと思う。大人になりきれない子どもが、客体ではなくて、主体となって登場して、自分のアイデンティティを探し求めるっていうタイプ。家族が、自分のアイデンティティを保証してくれなくなっちゃってるのよね。若者の孤独が色濃くあるところも、共通点。でもこの作品は、サリンジャーみたいに「出口がない」ところまでいってない。孤独をポジティブな方向にもっていっているから。孤独を野鳥の撮影に投影していて、それが、「出口」になってる。そこから「さわやか感」が、生まれているんだと思うんだけど。家族といえば、兄弟関係がリアルじゃないわね。感心しなかった。お兄さんは、いかにもプロットのために登場させられたって感じ。ミッツィのお母さんは、アン・ファインを彷彿させた。ほら、エコロジー推進運動をやってたりして、がんばる女性、自立する女性がたくさん登場するでしょ。自立した女の子の影響で、男の子も自立に向かうっていうのは、『青い図書カード』(ジェリー・スピネッリ著 菊島伊久子訳 偕成社)にもあったわね。ここに出てくるアイスクリームの名前って、ヘンなのばっかり。読者のだれもが「クレージー・バニラ」のほうがカッコいいってわかってるのに、「穴ぼこパイナップル」が当選しちゃうのが、現実なのよね。「クレージー・バニラ」が、ぴりっときいてると思ったわ。

ねねこ:「バニラ」は、家庭の象徴としての言葉なのかもしれないね。甘くておいしいけど次第に溶けていくアイスクリームのように、表面的にはうまくやっていたけど、どこかはかない家庭のイメージ。その家庭に内在するクレージーさを表しているのかなって思ったけど、考えすぎかな。こういうふうに家庭を扱うのは、アメリカ映画やアメリカ文学の典型っていう感じがする。安心して読めるんだけど、感動的というには、ちょっと足りないっていうか、またかっていうか・・・。

ひるね:バーバラ・ワースバって、日本ではこれしか翻訳されてないでしょ。他の作品はつまんないのかも。この本は一人称の視野が端正で、ほどよく整ってていいけれど、他はおもしろくなさそう。うますぎるもの。

愁童:『超・ハーモニー』(魚住直子著 講談社)と似てるよね、設定も。

モモンガ:私は「スタンドバイミー」を思い出した。ほら、語り手のお兄ちゃんが死んじゃうでしょ。大好きなお兄ちゃんがいなくなるっていうところなんかが、似てると思わない?

オカリナ:どうして、こういろいろ心配しちゃったりするのかなあ。英語圏の児童文学では、親がだらしないと、子どもが親みたいになっちゃって親子の関係が逆転するっていうとこ、あるよね。タイラーは、経済的に安定した家庭で育てられたからかな。

ひるね:自分は、問題から離れた安全なとこにいるのよね、タイラーは。

ねねこ:そういうタチというか、そういう性格にしたかったんじゃないの?

ひるね:タチもあると思うけど、そこが、主人公が泥沼にずぶずぶはまっていかないっていうところが、安心して読める秘訣なんじゃないかしら。

モモンガ:タイラーには居場所があるからね。それにしても、お金持ちの子が主人公っていうのは、新鮮だった。悩みを抱えた少年少女は、家庭が貧しかったりして、家庭に問題があることが多いでしょ。タイラーの家庭にも問題はあるけど、経済的にはリッチで恵まれてる。いじめっ子とか、敵役でお金持ちの子が登場することはあっても、主人公っていうのは、今まであんまりなかったよね。

(2000年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)