月: 2002年2月

2002年02月 テーマ:13歳

日付 2002年2月21日
参加者 愁童、ペガサス、ブラックペッパー、アサギ、トチ、ねむりねずみ、
羊、アカシア、杏、すあま、紙魚
テーマ 13歳

読んだ本:

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小池潤『海へ帰る日』

海へ帰る日

すあま:これはSFですが、アイディアがおもしろいという本。最後がどうなるのかが気になって読んで、最後いろいろ納得がいかなくなる。続編でも作ってくれなきゃ気がすまない。海に帰るってことについても、周囲の人の理解がありすぎる。ともかく不条理に思える部分が多すぎるんだけど、なぜか最後まで読んでしまった。

トチ:その最後が、なんとも苦しい。ずいぶん前に某社のベテラン編集者に、「君、作品がまとまらないからといって、警官を出しちゃいけないねえ」と、きつーく叱られたことがあったけど、そのときのことを思い出した。まだ作品として完成してないのでは?

紙魚:アイディアはおもしろかったんだけど、これこそ能天気な物語。細かいところがすべて、えーっそんな軽々しくていいのかな、と思うんだけど、最後まですらーっと読めてしまった。だいたい、いきなり海で生活しなくちゃいけないって言われて、これだけの不思議なことが起こったら、相当悩むと思うんだけど、あっさり家族も理解しちゃうし、最後には、なんとしてでも海に帰そう! なんてみんなで力を合わせちゃう。えっいいの? と思わずにはいられない。昔NHKでやっていた、SFのテレビドラマになんとなく似ていました。

ねむりねずみ:ぱーっと読めちゃうけど、それは最後が気になるから。途中で生まれた謎や、これってどうなっちゃうんだと思ったことにケリが付かないままのことがたくさんあって、それが気になった。研究所の正体とか、超能力を持った子たちが悪のりして大騒ぎになるところとかね。地球温暖化っていう大きな問題がテーマみたいな顔をしているけれど、なんかただの道具立てっていう感じで、ぐっとくるわけじゃない。全員が、どんと投げ出された運命にひたすら馴化していくっていう感じですね。

アカシア:私は変なドリンク1本で人間の体質が変わっちゃったっていいし、テレパシーが出てきたって、未来研究所が出てきたっていいじゃん、いいじゃん、エンターテイメントなんだもん、と読んでいったんだけど、最後はやっぱりお手軽すぎましたね。あと、アイデアがおもしろいんだから、もう少し細部のリアリティを大事にすればよかったのにね。

紙魚:それに、装丁がわかりにくかったな。物語のイメージが、装丁に着地してないと思う。

:この本、何かに似てるなって思ったんだけど、私も眉村卓さんの『なぞの転校生』のテレビドラマを思い出しました。あれ、大好きだったんですよね。

ペガサス:私は、この本こそノンフィクションかと思って読んでしまったので、変なことが起こりはじめるとき、ちょっとぞわぞわ感を味わえました。子どもたちの描写も細かく書いてあるのでらくに読んでいけたけど、途中から、なんなのこれ、なんでみんな止めないの? ねえなんとかしたら? っていう感じになってきた。あと、主人公の家族がいい家族で、お父さんや弟が理解をしてくれていいなと思っていたのに、なんで止めないのぉって感じ。

アカシア:でも、止めたらこの子は死んじゃうじゃない。

ペガサス:そうね。その設定自体が変なんだから、そのなかでやっていくしかないのね。写真家のお父さんから写真を教えてもらって、写真に興味をもっていくところなんかよかったんだけど、写真が結局なにも生きてこなかったのは残念。写真というのは現実を映すものなので、非現実的なできごとに反して、何か小道具としてもっと生かされるのかと期待したのに。

ブラックペッパー:いろいろと不思議が残る作品ですが、私は文体について、ちょっとひとこと。なんかオヤジ度の高い文体だなあと思ってしまって・・・。今ふうの言葉をたくさん使っているところが、ハナにつくというか、「がんばって使ってます」という空気を感じてしまった。しみや皺を隠そうとしてたくさんファンデーションを塗ったら、よけいに弱点が目立っちゃったというべきか。今ふうの言葉を使うのはいいんだけど、その一方で、同級生のことを「遠山少年」といったり、あとたぶん中学校では、代数っていわないと思うんだけど、「苦手の代数で」とか、今ふうでない言い回しがするっと出てくるから、そのギャップに「若ぶってるの?」と、だんだん疑いの眼差しが生まれてきちゃってね。たぶん作者は、独自の言語感覚をもってる人だと思うの。そこここにこだわりが感じられて、それはとてもよいことだと思うんだけど、私とはちょっと合わなかったみたい。たとえば「ワンショットグラス」は「ショットグラス」だと思うし、「高層アパート」もちょっと変。「マンション」って言葉、使いたくなかったのなと思ったけど、「高層」だったら、ふつう「アパート」とはいわないのでは・・・。「マンション」って言葉、私も好きではないから気持ちはわかるけど。
それから、雷太が超能力を使って、見知らぬおばさんにアイスを買わせる場面。まず、p80の14行目「おばさんはラウンジのまわりにある店の1つに、ゆっくりと進んでいった」とあるので、ふむ、ここはきっと対面方式で売っているソフトクリームかアイスクリームね、と思ったの。私のイメージとしては、ソフトクリーム。でも、p81の1行目「おばさんは両手に二本のアイスクリームを持ち、佑也たちのすわっている席のほうへ進んできた」とくるでしょ。2本のアイスクリーム? ということは、棒アイスだったの? と、私はちょっと迷う。私のなかでは、アイスの仲間で1本2本と数えるのは、棒アイスだけだから。棒アイスというのは対面方式で売っているのではなくて、まあ、対面方式で売っているところもなくはないけれど、その多くは、包装された状態でコンビニなどで売っているもののことね。コーンに、あっカップでもいいんだけど、その場でかぱっと入れて手渡される、対面方式売りのアイスの仲間だったら、ソフトクリームにしてもサーティワンにしても、私だったら「1こ2こ」とか「1つ2つ」と数える。1本2本とは数えない。そしてたぶん、ここは棒アイスではないはずなのね。この「アイスクリーム」は、p81の12行目「アイスの一本を佑也に渡し、自分のクリームをペロリとなめた」というところから推測すると、むきだしだったと思うし、それにp82の11行目に「アイスのコーン」とあって、コーンの上にのってるアイスということがはっきりするから。となると、棒アイスではなくて、ソフトクリームかアイスクリームだと思うんだけど、ソフトクリームだとしたら「アイス」とはあんまり言わないような気がするし、アイスクリームだとしたら「クリーム」とはあんまり言わないと思う。結局ソフトクリームなのかアイスクリームなのか、私にはわからない。もどかしい気持ち・・・。
まあ、ほんっとにささいなことなんだけど、こういうようなことって案外大事なのではないかと思うのね。こういうことの積み重ねで物語の雰囲気ってできていくと思うから。あと、超能力をもつ子どもたちが力を合わせて物体移動させたりするあたり、『アキラ』(大友克洋作 講談社)とイメージが重なりましたね。

アカシア:私はやっぱりリアリティの希薄さが気になりましたね。防犯カメラをつぶすところがあるけど、透視できるならカメラそのものを躍起になってつぶさなくても、後ろの線を切るとか、どっかのスイッチをオフにするとかでいいんじゃないか、とか。異常な現象について会ったこともない人に説明するのに、電話じゃ無理にきまってるじゃん、とか。近眼の人が眼鏡をかけていて、その目が他人が見て大きく見えるとかね。これ逆じゃないですか?

愁童:これを読んでね、コミックの世界にいる子どもたちに児童文学を広げていこうとする編集者の意欲を改めて感じました。着想は、すごくおもしろかった。でも文章でやる以上は、編集者がしっかりチェックしてほしいと思いましたね。たとえば、「地球温暖化の現象が顕著に始まって」とか「なにをいいはじまった」とか。「花火は極彩色」のルビを「ごくさいしょく」とつけているとか。『家なき鳥』の訳文とくらべて見劣りしちゃ悔しいじゃない。作家なんだから。

アカシア:会話も月並みだし、だらだら続いていくしね。

愁童:翻訳ものの文章にひっかかるのは、ある意味当然だけど、作家の文章が翻訳家に負けちゃあシャクじゃない。昔は、『声に出して読みたい日本語』(斎藤孝作 草思社)みたいな文章は、たくさんあったよね。もうちょっといい日本語で書いてほしかったな。せっかくのおもしろいストーリーなんだから・・・。

アサギ:私は整合性って気になるんだけど、エンターテイメントはね、たとえば『旗本退屈男』なんか、洞窟に押し込められたときとは違う絢爛豪華な衣装を出てきたりするんだけど、気にならないのね。昔の映画っていい加減だったわよね。

トチ:いい加減さなんて気にならないほどのおもしろさっていうか、かえっていい加減さを楽しむってこともあるしね。

アカシア:そこまでおもしろがらせてくれれば、まあいいかってことになるんでしょうけど。

(2002年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


炎の秘密

:実話なので覚悟して読んだんですけど、ときどき文章にひっかかりました。『家なき鳥』と違って、宗教色がなかったのが意外。あんまり新鮮さはなかったけど、内容より、地雷とか社会的なことばかり気になってしまいました。『家なき鳥』ほど気持ちが入らなくて・・・。

ねむりねずみ:帯に実話とあって、本文の最初にもノンフィクションと書いてあるので、それに妙に足をひっぱられて、物語に入っていけませんでした。それにすごく邪魔されちゃって。アフリカのことはあまり知らないけれど、ピーター・ディッキンソンの人類創世の物語を読んだときのイメージと重なって、おもしろかった。鳥をいっぱい飼っているとか、イメージとしてとてもすてきなシーンがいろいろあるけど、それがひとつになってぐっと迫ってくるという感じにはならなかったな。

紙魚:冒頭、わりとイメージで押されてくるじゃないですか。なかなか、状況がつかめなくて、物語に入りにくかったんですね。たしかに、帯でノンフィクションという言葉が強く印象づけられるから、ちょっと動揺しちゃったのかな。それでもすぐに、わりとぐいぐいひっぱられて読みました。筋も気になるし、知らないこともいっぱい出てくるし。もちろん、少女の明るさとたくましさがいちばんでしたけど。驚いたのは、主人公と母親の関係があっさりしている点。一生懸命、義足で家までたどりついたのに。あー、きっと母娘で泣きながら抱き合うんだろうななんて思っていたら、わりとあっけない。その妙にクールなところが気になりました。

トチ:私はノンフィクションということを、全然意識せずに物語として読みました。『弟の戦争』(ロバート・ウェストール作 原田勝訳 徳間書店)もそうでしたけれど、これを書かなければという作者の熱い思いが痛いほど感じられて、胸を打ちました。登場人物のそれぞれの立場から書かれている点も、なかなかうまい手法だと思いました。

すあま:『家なき鳥』が読みやすいのは、話がうまくいくからじゃないかな。『炎の秘密』は、これでもかという状況が起きてくる。最初は、いつ地雷を踏むんだろうと気になります。踏んでからの足がなくなってしまった感じとか、お姉さんを亡くしたことへの罪悪感もうまく書けていました。たしかにノンフィクションだと、作品として悪いとは言えないということもある。でも女の子の心理描写を追って読めたし、読後感もよかったな。

アサギ:ヘニング・マンケルは、ドイツでもすごく人気のある推理作家。エンターテイメントの作家というイメージがあったんだけど、モザンビークの地雷の話なんで驚いちゃった。最近つらい話は苦手なので、最初いやだったんだけど、不思議と最後まで読んでしまいました。ソフィアは厳しい状況でもたくましく生きる子で、あとがき読んで、ああ他の子とはちがうオーラがある子だろうなと思いました。ただ、一気に読めたけれど、楽しい気分にはならなかったわね。でも、日本の子どもたちに読ませたい。『炎の秘密』っていうタイトルどおり、人間が原始的な生活をしていればしているほど、火って神秘的でよりどころとなると思うのね。モチーフとしてリアリティがあるじゃない! 『洞窟の女王』(ヘンリー・ライダー・ハガード作 大久保康雄訳 東京創元社)を読んだとき、アフリカの奥地に絶えない炎があってという冒険物語で、それは私にとって強烈なイメージだったのね。このモチーフは納得という感じだった。まあ、どっちかといえば『家なき鳥』のほうが好きだけど。

愁童:ぼくは、地雷の話かよっていう思いがあったんだけど、こういうのを子どもに読ませることにどれほどの意味があるのかな。ただこの作家は頭がいいし、うまいとは思ったね。段落を短く切って、いろいろな場面を簡潔に描いていく。メッセージが押しつけがましくない。最後、女の子が『家なき鳥』と同じような展開で、しっかり生きていく。ただ、『炎の秘密』には、「痛みにたえるときに黒い顔でも青白く見える」というような表現が所々にあって、作者が白人だからこういう書き方をするのかなと、ちょっと引っかかった。『家なき鳥』は作者が女の子の中にいるっていうのがわかるんだけど、『炎の秘密』の方は、アフリカはたいへんだなあ、地雷なんか踏んじゃってたいへんだって、外から書いてるような感じがしたんだけど。

ブラックペッパー:今って、長野オリンピックの聖火ランナー、クリス・ムーン以来、坂本龍一も地雷ゼロキャンペーンみたいなことしたりして、ちょっとした地雷ブームだと思うんですよ。この本、なんて美しい表紙だろうと思いつつ手にとったんだけど、ああ地雷ブームもこんなところまで・・・と、ちらっと思っちゃった。でも、よく見たら作者はここの住民だったりして、とおーいとおーいところから理想だけを語っているのではないということがわかって、よこしまなこと考えてスマンって気持ちになりました。これを読むことは意義があるし、それでいてつらすぎないところもいいとは思うんですけど、今月の落ち込み気味の私の気分には合わなかったんです。

ペガサス:地雷の話とか、本当にあった話という先入観とかもたずに読んだんですね。そうしたらいきなりお父さんが死んじゃって、なんてかわいそうなんだろうと思っていたら、もっとすごいことがつぎつぎに起こって、まあなんてかわいそうなんだろうと思って読んだんですね。なんとかこの子に幸あれと、どんどん先を読まずにはいられない。次がどうなるのかなと。一人称でないのに、こんなに主人公に心をよせて読める本も珍しいわね。周りの人がソフィアをどう見ているかというふうに書かれていくので、ソフィアに心を寄せられたのかもしれない。先入観なく読むと、冒頭部分は何がなんだかわからなくて、2章から様子がわかってきた。1章は途中まで行ってから、もう1度読み直してやっと意味がわかりました。

:ソフィアが好きになったし、本も好きになった。地雷の話については、先入観もあったんですが、テロがあったり、イランの映画監督のインタビューを見たりして、自分は何も知らなすぎたなと思っていたので、興味をもって読めました。NHKのドキュメンタリーでアフリカの黒人の人たちの複雑な状況を知って、ショックを受けたことがあるんですが、私は、そのとき、日本とアフリカでは、あまりにも環境が違いすぎて、自分の身をそこに置いてみても、どういうふうに考えていいいかわからなかったんです。どこか外から見ているようで。この本を読んで、この少女の体験を通して、内から見ることができたような気がします。ソフィアの明るさ、前向きさ、内なる声に耳をすましながら一歩一歩歩いていく確かさとか、彼女の生きざまに心動かされた。自分がこういう状況だったらとても耐えられないだろうと思う。でも、現実のアフリカの状況は、もっと厳しいのだと思います。作者がアフリカ人ではないので、この話にどのくらいリアリティがあるのかは、本当のところはわからないとも思いますが。つくづく出会いが人生を救ってくれるんだなあと実感しました。学校に行きたいとか、家があったらいいなとか、今の日本では考えられないけど、憧れとか、ほしいという気持ちが達成されると、ものすごい健全な喜びが表現されているように思える。だからこそいろいろなことが当たり前になっている日本の子どもたちにも読んでほしい。外側から見てるより感じるところが多いんじゃないかな。白いドレスをシーツで作るところとか、部屋の中に鳥がいて、という場面もいいなあと思ったし。ファティマの家に泊めてもらった日の夜のシーンはたまらなくいいですね。縫い目の中に人生のすべてがあるというファティマの話、私も忘れない! と思ってしまいました。と、かなり入れ込んで私は読みました。

アカシア:ナチとか、地雷の話って、何度も聞くと、あ、またかと思ってしまいがちだけど、この間、それについて学者の話を聞いたんですね。それによると、人間は嫌な情報はなるべく排除しようとする心理が無意識に働くんですって。だから、きちんと社会のこととか世界情勢のこととかを裏面まで含めて見ようとすれば、単なるイメージではなくて、きちんとした知の体系にして頭の中にインプットしていかなければならないって、その人は言ってたんですね。だからってわけでもないけど、私は、またか、と思わないで、敢えていろいろ考えてみようって思うことにしたの。この作品は、作者が舞台となっているモザンビークに住んでいるので、人々の心の動きもふくめて、かなり実像に近いかたちで書かれているんじゃないかしら。ただ北側の人が南側の人たちとまったく同じように暮らすというのは無理があると思うんですね。複雑な垣根がある。それから、挿絵なんだけど、現実が厳しいから夢のような絵にしたんだろうけど、たとえばp64の絵、ドレスっていっても、もう少しアフリカの文化を反映させてもよかったんじゃないかな。白いドレスなのに水色なのも気になる。私は、さっきアサギさんの話を聞くまでこの作家のこと何も知らなかったんだけど、エンタテイメント作家が書いた文章とは思えなかった。導入部も最初はわかりにくかったし、ごつごつしたイメージ。オビには「現実の物語」というところにノンフィクションとルビがふってあるけど、まったくの事実を書いているというよりは、実際に地雷の被害にあった少女をモデルとして書いてるってことよね。
子どもが地雷で足を失って義足をつける場合、成長に伴って義足も替えていかなければならないから、お金がないと大変なんですよね。主人公のソフィアは、13歳で一日中働くわけだから、ユニセフなんかで非難している「児童労働」の範疇に入るんだけど、自分で稼がないと新しい義足も買えない境遇。ソフィアが明るいのは救いだけど、これほど力のない子どもたちは、どうすればいいんでしょうね。

ねむりねずみ:フィクションなのに、これはノンフィクションって押されるのは、私はいやなのよね。

アカシア:現実をもとにしたフィクションだもんね。最初はソフィアの心象風景から入っていくわけだし。あとね、主人公がこの若さで仕立て屋さんになって自立するっていうところを考えても、ほんとにこの子はまれな一人なのよね。そこまでできない子もいっぱいいるんだってことも、考えていったほうがいいよね。

愁童:たとえば、ソフィアがシーツを盗んできて、すごく悩むじゃない。でも、シーツ盗まれたほうは気づいてもいないよね。この作者には、どっちかっていうと後者の目線を感じちゃう。『家なき鳥』は、肌の色の描写もないし、インド人の気分で読めたんだよね。でも『炎の秘密』は、どうしても白人の目線を感じちゃう。

アカシア:この作家はもともとスウェーデンの子どもたちに向けて書いているんだろうから、肌の色なんかまでイメージできるように意図的に表現してるんじゃないかな。私がかかわった本でも、黒人と白人が出てくる話があって、話の内容や名前から白人だとわかるはずと私が思っていた登場人物を、黒人だと思って読んでた読者がいたの。だから、少し詳しく説明しとかないと、わかりにくいってことも、あるのかも。

ペガサス:それは、日本人は、肌の色とか髪の色とか意識せずに読む癖がついているから。いちいち肌の色の描写など、ヒントが書いてないと、イメージを思い描くのは難しいと思う。

愁童:でも、だったら「黒い顔でも青白くなる」って書かなくちゃいけないの? ただ「青白くなる」じゃいけないの?

アカシア:これは「でも」っていう言い方がまずいのかも。翻訳の問題かもしれませんね。

(2002年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


グロリア・ウィーラン『家なき鳥』

家なき鳥

トチ:なによりテーマがおもしろいし、明るく、さわやかな感じがして、気持ちよく読めました。この明るさが『家なき鳥』のなによりの特徴だと思ったし、訳者後書きにもそう書いてある。角田光代さんが朝日新聞の書評で、この本の明るさは主人公の自尊心から来るものだといっていましたが、なるほどと思った。ただ、その明るさにある種の違和感を覚えたのも確か。時々、『大草原の小さな家』のローラが、インドに放り込まれたような感じさえして・・・インドの大地から立ち上ってくる匂いとか、湿気とか、熱気のようなものが、さわやかな風で吹き飛ばされてしまったような感じ。原文は、明るい散文詩のように書かれているのかしら。この本も、『炎の秘密』も、違う国の人が書いた異国の話。そういうものって、読むときにどうしても猜疑心を持ってしまうのよね。本当にその国のことが書けているの? なにかバイアスがかかっているんじゃないの? って。この本の場合、明るさがかえってマイナスになっているんじゃないのかな・・・っていう気がちょっとしました。

アカシア:明るさがマイナスっていうのは?

トチ:こんなに明るくていいの、ちょっと能天気なんじゃないの・・・と、ついつい疑ってしまうということ。

紙魚:私はその明るいのがいいなあと思いました。どんな厳しい状況でも、子どもは楽しいこと、幸せなこと、遊びをみつけていく。その希望があって、先へ読み進められました。それにしても、この『家なき鳥』と『炎の秘密』って、似てますよね。内容も重なるし、装丁の感じも共通するところがある。どちらも地味なつくりだけど、物語を読み進めさせる力がありました。あと、『家なき鳥』は刺繍だし、『炎の秘密』は服づくり。「手に職」って、人が自立していくにはとっても大切だなあと、しみじみ思いました。

:インドの貧しい物語って、『女盗賊プーラン』(プーラン・デヴィ作 武者圭子訳 草思社)などを読んでいたので、その印象が強かったの。この本では、お嫁にいった義理の父親がコンピュータのせいで仕事を失うという場面になって、やっと現在の話なのかと気づいて、びっくり。明るさについていえば、はぐらかされたような気もしたけれど、この子のもっている楽天的なところは愉快。2冊を比べれば『家なき鳥』のほうが好き。

アカシア:大地の匂いや温度、湿度など、わっとたちのぼってくるところはあったと思うの。ただ、たとえばp14「熱風にふかれて竹林がさらさら音をたてる」という部分があるんだけど、「さらさら」っていう日本語だとなんだかさわやかな感じがしちゃうのよね。この本は、インターネットの書評など見ると、リリカルな作品として評価されているんだけど、そのリリカルな部分が、翻訳でももう少し伝わってくるとよかったな。ところで、カースト制の中で上の階級のブラフマンは掃除も自分ではしちゃいけないなんて聞いてたけど、この子はなんでもやってますね。能天気ということでいえば、フィリピンのごみの山で生きているる子どもの映画を見ても思ったけど、逆に楽天的にしてないと生き抜いていけないんじゃないかな。ただ、けなげな少女が懸命に努力するとそのうちに報われて幸せになるという、昔ながらの「小公女」的な話というふうにもとれるわね。

:どちらかというと、私は『炎の秘密』の方が好きでした。私はキルトなど好きで、『家なき鳥』で、主人公の刺繍の描写が出てくると、わあ見てみたいなあと思いました。とても生き生きしたすてきな絵柄が刺繍されているんでしょうね。この少女、手に職があって、本当によかったですね。話は、悲惨な状況がずっと続きますが、少女の明るさとしたたかさには救われました。前に『ぼくら20世紀の子どもたち』というロシアのドキュメンタリー映画で、ホームレスの子どもたちにインタビューしてるのを見たんですが、少年たちは、明るくて元気なんですね。盗みなんかも平気でやるししたたかさも持ってて。何を支えに生きているのか、と考えたことを思い出しましたね。だから、このあっけらかんとした明るさは、違和感なく読めたんですが、義理のお母さんのいじめの場面や、ラージと結婚するところとか、女の人が意地悪なのに男の人がよく描かれていたりするのは、どっかで聞いたことがある物語だなあと思い、少し気になりました。

ペガサス:昔の名作ものとパターンが一緒なのよね。貧しくて、継母にいじめられて辛い境遇、でも助けてくれる人もいて、最後はお金持ちのご婦人の援助を得て幸せになるという話。場所が違うから感じにくいけど、昔からのよくある話。でも、そういう物語っておもしろいから、スタイルとして確立されているのよね。私も、この子が明るくて、意地悪をされたお母さんに対しても、本当に憎むというのではなく、ちょっとでも親切な言葉をかけてもらえるとうれしいと思ったりする、子どもの素朴で健気なところがよく出ているところがいいと思った。今の日本の子どもたちは、逆恨みしたり、キレたりという部分が描かれることが多いじゃない! 表現については、マーカマラの描写で、枕をいくつもあわせたみたいにまるまるしていたというのが、子どもらしくてよかったな。

ブラックペッパー:私も、おもしろいことはおもしろかったんですけど、あんまり言うことはないっていう感じ・・・。ハッピーエンドでよかったねー、でも最後再婚するのは、つまるところ幸せとはそういうことかー、なんて思っちゃった。明るいし、能天気で、あっけらかんとしているところは、たしかに心地よいんだけど、実際は、初めて会った死にそうなだんなさんに、あんなふうにさっとやさしくできるのかな。私にはちょっと無理そう。

アカシア:それは環境が違うからじゃない。初めて会おうが病気だろうが、新しい家庭環境の中で生きていくしかないんだろうし、そう教えられてきてるんだろうからさ。

愁童:初めて会っても、相手に関心をもったりすることはあるんだと思うけどな。ぼくは自然に感じた。今回の3冊の中ではいちばんよかったですね。ホッとする読後感があった。最近の日本のものって、心のひだを掻き分けて顕微鏡で覗くみたいな、ややこしいのが多いじゃないですか。そういうのに比べるとホッとする。子どもに読ませる本て、波瀾万丈でハッピーエンドで単純なのが案外大事な要素じゃないかって、これ読んで改めて思いました。生きがいとかいうようなことじゃなくて、母親から教わった刺繍が生きていくバネになってるのも、ああ、いいなぁ、なんて思っちゃった。

:どうして女の人をしばる制度を男の人はつくるんだろうね。

アサギ:私はこの本、とっても好きでした。インドのことってあんまり知らないけど、まず、カルチャーショックという意味で、すごくおもしろかった。13歳で顔を知らずに結婚して、持参金がどうのこうのっていうのも、てっきり昔のことだと思ってたのね。途中で、現代のことだとわかって興味深かった。作品としても、明るさがいいなあと勇気づけられた。明るくて前向きに生きていく話って楽しい。翻訳も私は気にならなかったわ。結局『炎の秘密』もそうだけど、主人公が知的な要素に目覚めるっていう定石が昔からありますよね。『若草物語』とか『赤毛のアン』にしてもそう。女性の地位が低い国においては、そういう方向に向くのは自然。しかも、手に職、芸は身を助けるというのもリアリティがある。子どもが読んでも得るところがあると思う。文化が違えば、結婚というのも違ってくるはず。最後はハッピーエンドとはいっても、自分で愛した人との結婚だから、「なんだ結婚か」というお定まりとは違うと思う。p136でも、ラージが結婚を申し込んでも、仕事を続けたいからと主人公が迷う。「家がぴかぴかじゃなくても〜」っていうところも、新しいインドの行き方じゃないかしら。ただね、ラージが登場したとき、あまりにも描写がていねいだから、あっ、この人と結婚するんだって、私わかっちゃったのよ。それと、いじめるお義母さん。彼女に対して、弟のところにいってもうまくいっていないに違いないって思うところなんかもいい。彼女もひどいっていうより、気の毒って感じよね。

すあま:こういうのって、かわいそうな女の子として描くやり方もあるんだろうけど、主人公の描き方がからっとしているところが救われている。終わり方もハッピーエンド。本としては、図書館などでは、児童書としてではなく一般書として置くことを勧めているみたい。異文化だけれど、難しくないし、とても読みやすいのに。ヤングアダルトっぽい感じなのかな。

トチ:表紙の感じが大人っぽいからかしら。

ペガサス:小学校高学年くらいに向くものが少なくて、ヤングアダルトばかりになってしまうなかで、一見大人向きだけど、子どもも読めるっていうのはいいわよね。出版社が白水社だからということもあると思うけど、図書館で機械的に大人のほうに置かれるのは残念。

すあま:こういう本って、本屋さんとか図書館ではすぐに手にとりにくいから、書評とか紹介とかがないとね。

(2002年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)