月: 2002年6月

2002年06月 テーマ:最近の短篇集

日付 2002年6月27日
参加者 ペガサス、アカシア、カーコ、紙魚、ももたろう
テーマ 最近の短篇集

読んだ本:

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小森香折『声が聞こえたで始まる七つのミステリー』

声が聞こえたで始まる七つのミステリー

ももたろう:割合、面白かったです。作者の工夫が見えるし、最後のどんでんがえしなんか、「やるなっ!」という感じでした。日本の子どもたちには、こういう作品が身近でいいのかな。でもそれなりに面白くは読めるけど、深い印象とか、とんと響くものはなかった。

ペガサス:最初、これはなんてアリス館ぽくない本だろうと思ったのね。装丁もそうだし、タイトルもおもしろそうだなと思わせる。短編集としてうまく作ってる。「声が聞こえた」でまとめているのがいい。たとえば、時間を変化させているものもあるし、空間をいかしているのもある。じつは犬だったとか、座敷わらしだとか、逆転が生じるものもある。それぞれちがう手法をとっているのは、変化があっておもしろい。文章が短いのも印象が残っていい。さっと読めるし、読み終わったあと、しゃれたものを読んだ感じがする。

紙魚:『人食い』とは対象的に、本づくりのイメージがきちんと伝わってくる本でした。だから、手にとって、とても気持ちよかった。なんだか新しい本づくりに挑戦しているという感じもして、編集者の意気ごみみたいなものが、熱く感じられました。テキストも、非常にていねい。迷子になることもないし、ちょっとわかりにくくなりそうな部分も、きちんと舵取りしてくれて、安心して、でもちょっとどきどきさせて、巧みにおもしろがらせてくれた本です。

アカシア:ぴっしりきまって、まとまって、しかもよくわかるという短編ばかり。読んで気持ちがいいわね。この作者の前の作品より、ずっといい。編集者の適切なアドバイスも、きっとあったんでしょうね。

カーコ:3冊のなかでは、いちばん本づくりというのを感じさせられる1冊でした。「七つのミステリー」という枠の中で、今の子どもの身近な状況で展開しながら、昔の日本の児童文学のようなべたべたした感じがなく、それぞれにおもしろく読めました。小学生のときに『学校の怪談』を読んでいた、こわい話が好きな子どもたちには、こういうちょっとこわそうな話っていいきっかけになるかも。題名にも、それぞれひとひねりあるんですよね。

ペガサス:編集者のアドバイスもあるんだろうけど、作者も読者を楽しませようとしているのが感じられたわ。いい本よね。

(2002年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


フィリッパ・ピアス『8つの物語』

8つの物語〜思い出の子どもたち

ペガサス:さすがピアスだけあって、情景もよくうかぶ。これば子どもを描いているんだけど、まわりの老人の方がとても印象的に残る。「ロープ」は入りにくかったし、描写によくわからないところがあった。部分的にうまいところもあるんだけど、3冊の中でいちばん印象がうすかった。

紙魚:ピアスの他の作品もそうですが、とってもていねいな印象をうけました。情景や感情の描写がたんねんに重ねられているので、物語のイメージがきちんと浮かびあがります。どの物語も、読み終わったあとに、ふしぎとあったかい心持ちになるというのも、すごい。きっと、ピアス自身が、子どもにも大人にも、そういう目線を持っているからなのでしょう。

ももたろう:子どもの頃の記憶を、大人になってもう一度堀り起こして書いた作品という感じがしました。書き方は子どもの視点なんだけど、何だか上から見下ろしている感じ。「チェンバレン夫人の里帰り」は、個人的に面白かったです、意外性もあったし。こういう作品を子どもはどういうふうに読むのかな。どちらかというと成長した人が、「あの時はこうだったよねえ」というイメージをもちながら読む作品なんじゃないかなあ。

アカシア:私は「ロープ」の子どもの気持ちもよくもわかって最初からひきこまれた。子どもの頃まわりの世界に対してもっていた感触がよみがえる短篇集。私は、けっこう生きづらい子ども時代を送ったんだけど、その頃こんな本があれば、もっと心を寄せて読むことができたのになあ、と思う。小学校の4年生とか5年生とかで、こういう本を読みたかったな。

カーコ:私も小さい頃読んだ日本の作家の作品は、出てくる子が妙に優等生的な気がして、だめだった。それで海外の作品にとびつくというところがあったかな。

アカシア:ピアスの短篇は、読み直すと、そのたびに味わいが深くなる。たぶんそれは、人間に対する作者のあったかさから来てるんだと思う。「夏の朝」なんかも、人生のある瞬間の感覚がちゃんと伝わってくる。おばあさんと子どものつながりも、ピアスのテーマの一つだと思うけど、彼女の書くおばあさんっていいよね。

カーコ:ひとりひとりの、その人だけが大切にしているものを描き出している気がしました。「まつぼっくり」のまつぼっくりも、「巣守りたまご」のネックレスも、ほかの人にはわからないけれど、その子にとっては特別な意味を持つとてもだいじなもの。「ナツメグ」の名前もそう。物とか物事がもつ個人的な意味が浮かび上がっていて、おもしろかった。「スポット」のおばあさんは、この話ばかりしてるんだろうなとか。

アカシア:「夏の朝」で、ニッキーがスモモの木の根元においたクレヨンを、難民の女の子が持ってってくれるでしょ。これがピアスなのよね。コルドンだったら、女の子はクレヨンを持っていかない。持っていかないってことで見えてくるものを書く。でも、ピアスは、人と人とがいろんな形でつながっていくということを書いてるんだよね。

ペガサス:そうね。主人公は、最初おじいちゃんちにいるのは気が進まないけど、3日間だけだから、つきあってやろうと思うわけじゃない。でも、物事がわかってくると、おじいちゃん、おばあちゃんへの態度がかわっていく。二人の会話とか物音が聞こえてくるというのをきちんと書いてて、伝わってくるよね。おばあちゃんが誕生日に何か買ってくれるといったから、とりあえず無難なクレヨンって言っておくわけじゃない。でも、それが最後ああいう形になってきいてくる。うまいよね。

アカシア:最後は、あのクレヨンだったらきっとすごい絵がかけるから、「そしたら『楽しいな』って思ってね!」って、ニッキーが女の子に心の中で呼びかけるのね。そこも、いいんだな。

ペガサス:この話の冒頭だったら、そうならなかったのよね。3日間を過ごしたからこそ、というのが、うまいよね。

カーコ:短編って、起承転結の妙で読ませる感じで、人物の描写については長編のようには深く切りこんでこないように思うんだけど、ピアスはそのへんが細かく描かれているなと思いました。コルドンは、はぐらかされてしまう感じだった。

ペガサス:コルドンは、読者に投げかけているとは思うけど。

ももたろう:ピアスのほうが、作者の中でテ−マや素材を消化して作品を書いてるのかなあ。

アカシア:というより、ピアスとコルドンでは、アプローチの仕方とか現実の切り取り方が違うんだと思う。

(2002年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


クラウス・コルドン『人食い』

人食い〜クラウス・コルドン短編集

アカシア:短いのも長いのも、書きこんだのもそうでないのも、いろんな話があるわね。子どもの人生の場面を切りとっていくという意味では、鋭い短編集。個別に言うと、「クラゲ」で、マヌエルがいじめられていて、インゴがそばからみていて悩むんだけど、最後ちょっと臭い台詞を言って仲良くなるところは、紋切り型のような気がしたな。「一輪車のピエロ」は、とってもよくできた、好きな話でしたね。最後の「クラスのできごと」は、「ひとのことは<みにくいアヒルの子>なんていうけどさ、子どものうちはみんなアヒルかもね」という言葉が、どういうニュアンスかわかりにくかった。訳は、全体として今の子どもの会話風にしたほうが面白くなったように思います。

紙魚:装丁からして、ちょっと入りにくい本でした。タイトルも、センセーショナルな『人食い』なんていうものだし。こうして読む機会がなければ、なかなか手にとらない本です。読んでみれと、どの話も暗い影がありながら、ふーむと心をゆらされる部分があったりして、なかなかよかったです。ただ、本のつくりが、こうも突き放した感じなので、もったいないと思いました。作家と読者がもっと近づく装丁だとよかったのに。タイトル、ハシラの入り方なんかも、かなり気になりました。

ペガサス:短編集としては好きな本。全体として共通カラーがあって、まとまった印象をうける。主人公の子どもたちが、親をなくしていたり、障害のある妹をかかえていたり、貧しかったり、彼らの日常は胸を痛めるのだけど、別の方向から光があたって、ささやかな幸せがもたらされるというのが描かれている。希望がもてるといったことを描いているのがよくて、それが全体のトーンにつながっているのかなと思った。

アカシア:ただ、ピアスとはちがって、コルドンは、かなりつきはなしていると思うのよね。ピアスの短篇では、人間と人間の関係があったかく描かれているんだけど、「人食い」に登場する人間たちはどこかさみしいし、喪失感を訴えてくるような印象。

ペガサス:コルドンは、あったかいというよりは、別の方向から光があたるという感じ。児童文学のありきたりな子ども像というのではなく、あるところでは大人よりさめている。「飛んでみたいか?」なんて、お父さんのうえをいっちゃってるじゃない。大人より大人びているよね。「窓をあけて」も、今までよくあるパターンは、受け入れられなくて反発するというのがあるんだけど、あの子は、自分でのりこえて窓をあけたわけじゃない。

アカシア:アン・ファインなんかには、そういう子がよく出てくる。大人より一段上に立って状況を判断できるような子どもがね。今の社会って、大人が子どもっぽくなるのに比べて、子どもは早くから大人になることを強いられてるのかも。子どもは受難の時代だね。

カーコ:好きな作品じゃないんだけど、問題を投げかけてくれるタイプの作品だなと思いました。さまざまな切りとり方で、いろんな人生を見せてくれる。出てくる家族も、移民であったり孤児であったり、両親と子どもというような古典的な家族像にはあてはまらなくて、どこか社会から疎外されがちな人々が描かれていて。それぞれの短編の終わり方も、希望を持たせるような終わり方と救いのないものが半々。
ひとつ気づかされたのは名前のむずかしさ。ドイツ語の名前はなじみがないから、男か女かわからないまま途中まで読んで混乱してしまうことがあった。訳すときに、男の子か女の子かを最初にさりげなく示唆するようなことが必要かも。それに、ここに出てくる名前の中には、ドイツ人の読者が読めばパッとドイツ人じゃないなとか、ギリシャ系だなとかわかるのかもしれないけど、日本人にはわからないものも多い。そういう見えない意味や文化っていうのは、どうやって出せばいいんでしょうね。
訳のことをいえば、10歳の子が「父が」って言うのは違和感をおぼえました。全体として子どもが大人びている印象だった。それと文体についてですけど、現在形が続くのは意図的なのかな。原文で、過去のことを現在形で書いてあるからなのかもしれませんけど、この本では少しひっかかりました。

アカシア:原文が現在形で書かれているとすれば、そこには作者の意図があるんだろうから、やっぱりできるだけ現在形で訳したほうがいいんじゃないかな。

ももたろう:そもそも装丁から手に取りたくない感じ。子どもは、この『人食い』ってタイトルで読みたくなるのかな。きっと子どもが持つタイトルからの本への期待と、書かれているものは違ってしまうと思う。内容的には、子どもの不安定な気持ちの状態が細かく書かれている感じで、いろんな意味でばらばらっとした感触。イメージがつかみにくいですね。まるでモザイクみたいな印象でした。それに私たちの生活と匂いが違う。私は最初からとまどいがあった、これを子どもが読んだら、どこから入っていくのか読み込めないうちに終わってしまうのでは。表面的ではなくて内面的な子どもの姿が描かれていて、胸につんとくるようだった。そうそう、前から思ってたんですけど、短編って訳す時は訳者はどんな感じなんですか。

アカシア:短いから簡単ってわけじゃなくて、長編以上にちゃんと理解していないと訳せないんじゃない? 表面的に読んだだけじゃだめだしね。それから『人食い』っていう書名は、原書どおりなんだろうけど、ドイツ語ではもっとイメージがはっきりしてる言葉なんじゃないのかな。日本で「人さらい」って言えば、一定のイメージがあるみたいに。

ももたろう:そういえば、短編は出版社に売り込むのが、難しいですよね。

アカシア:でも今は朝の十分間読書なんかに使うのに便利だからって、需要があるんじゃない?

ペガサス:さ・え・ら書房といえば、『ミイラになったブタ』っていうとてもいいノンフィクションがあるけど、内容的には本当におもしろいのに装丁が硬い。さ・え・らは、装丁で損してる本が多いね。

ももたろう:装丁は大事ですよね。だいたいそこが最初の決め手だし。さ・え・らの「やさしい科学の本」のシリ−ズ、『カルメヤキはなぜふくらむ』の本とかは、おもしろかったんですけど……。やはり、さ・え・らは見た目が硬い本が多いですよね。

ペガサス:もうちょっと中学生が手にとるような装丁にすればよいのにね。

(2002年06月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)