月: 2003年2月

2003年02月 テーマ:賞をとった本

日付 2003年2月27日
参加者 もぷしー、ウォンバット、きょん、アカシア、トチ、ペガサス、カーコ、ねむりねずみ、愁童、紙魚、ウェンディ
テーマ 賞をとった本

読んだ本:

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オーウェン・コルファー『アルテミス・ファウル』

アルテミス・ファウル〜妖精の身代金

愁童:これも、のれなかった。ゲーム本を読んでいるよう。主人公も最初の設定のまま何も変わらない。まさにゲームのキャラクター。一番感じたのは、あちらでも妖精がこんな形で書かれるようになっちゃったのかということ。でも、『真実の裏側』よりは、今の日本の子どもには受けるかもね。

もぷしー:ぜんぜんのれなかったです。装丁は好き。『はてしない物語』もそうだけど、本の表紙に本を再現しているのは、けっこうワクワクする。けれど、せっかく表紙に妖精の「ブック」を使っておきながら、物語の中でそのブックに立ち返るところがほとんどないので残念。キー・アイテムなのだから、ブックを読み解く興奮をもっと書いてくれるほうがいい。それに、読んでいても、どうしてもキャラクターの顔が見えてきませんでした。文章や行動から像がうかびあがってこない。だから、本が長く感じました。映画になると聞いたけど、文字で読むより、映画で見るほうがおもしろいものなのかな、と。あと、妖精の本というのは日本ではどういう受け止め方をされるのでしょう? この作品は、妖精が意外にもハイテクだったという設定に面白さがあると思うんですけど、妖精がこういうものだという既成概念がない日本の子どもが、それを楽しめるのかどうかが疑問だと思いました。

ウォンバット:私は古いタイプの人間なので、こういうのを味わうことが難しくてですね……。読むのも、苦しい戦いでした。読むことは読んだんですが、この場面がよかったというのはなくて、訳も「置き換え派」で読みにくかった。こういうお話って、「大人の干渉を受けない自由な子どもの気持ちよさ」があるんだろうけど、それがおもしろくてどんどん読めるというほどではなくって……。29ページ「きらめくマスカラ」は、マスカラをたっぷりつけた瞳がきらめいたんじゃないかと思うんですが。もしかして、ラメたぷりのマスカラなのかもしれないけど。そういうの、パーティでもなければつけないような気がするし、それともブロンドの睫毛に赤とかピンクとかのマスカラつけたりすると、きらめくのかな?

きょん:私も古い人間で、ぜんぜんおもしろくなかった。魅力を感じなかった。「悪のハリーポッター」と宣伝されても、主人公アルテミスがぜんぜん魅力的じゃない。有能とか、賢いとか、天才的とか書いてあるけど、言葉だけで、行動などで実証されていない。妖精が妖精なのに疑似人間社会みたいなのを作っているところも、魅力を感じない。これなら、なにも妖精である必要はないのではないでしょうか。それ以外のキャラクターも理解できない。トロールくらいかな、すんなり入ってきたの。納得いかなかった。訳が、テンポよく入ってくるけれど、だれが何を言っているのか、何をさしているのかがはっきりしなくてわかりにくい。妖精の書だって、アイテムとしては魅力なのに、どうなっちゃったのかよくわからない。このブックをめぐって事件が展開するのかと思ったのに、残念だった。

ペガサス:これだけ批判が出ると、私はすごく面白かったわと言いたい衝動にかられるけれど……。でも半分くらいまでは、ハリーポッターよりも面白いかなと思って読んだ。ハイテク化された妖精というのも面白いじゃないですか。半分くらいからは、雰囲気に飽きてしまって流し読み。やはり日本では妖精のイメージ自体が確立してないから、面白味も半減するということはあるでしょうね。でも、ところどころユーモアのある描写がよかった。満月の夜に何千人もの妖精が地上に出たがるから入国管理局は大忙しとか、秘密工作員をユーロディズニーの白雪姫と小人のところに送りこんでいるとかね。「紙に印刷した」ではなく、「A4の紙に印刷した」とか、「4倍に拡大した」とか具体的に書いてあるのは、思い描きやすいと思った。ハリーポッターの映画を思い浮かべつつ、これも映画になったらどうなるかとつい考えながら読んでいった。アルテミスは、最初は謎めいていたが、弱点が母親だとは陳腐。アルテミスの魅力が中途半端で、子どもの読者は、この主人公についていっていいのかどうか迷ってしまうと思う。また、ページの両側の妖精文字が、読むときにいつも目の隅にちらついて邪魔だった。

アカシア:この妖精文字は、解読しようとする読者にとっては面白いんだと思うな。

カーコ:私ってファンタジーは苦手なんだなあ。入っていけませんでした。妖精のイメージがないから、パロディになっていても、きっとアイルランドの読者のように楽しめないのかと。また、主人公のアルテミスが、これだけの事件を経てもいっこうに成長していないので、充実感がありませんでした。ピカレスク小説って、主人公の成長はあまり問題にしないのかしら? 成長への期待って、いつも読者は持っていると思うのだけれど。

アカシア:私も面白くなかった。アルテミスが、妖精のお金を奪って何をしたいのかがわからない。たとえば宇宙を支配したいとかのモチーフがあるなら、もっと「悪のハリー・ポッター」らしくなるんでしょうけど、今のままでは中途半端。それに主人公は12歳の少年なのに、「時間が停止しているあいだは、やらんよ」(180ページ)なんて言うの。「やらんよ」なんて、おじさんしか使わない言葉でしょ? だからよけい魅力が感じられないのかも。妖精についてだけど、『指輪物語』などは、ちゃんとその妖精ごとの特徴だとか歴史だとかを踏まえて物語に登場させているでしょ。その下敷きがあってハイテクにするなら面白いと思うけど、ここでは、たとえばケンタウロスもケンタウロスである必要性がない。だからイメージが重層的にならなくて、つまんない。

ねむりねずみ:表紙でプルマンと同じ訳者だと知って憂鬱になり、読みはじめてもっと憂鬱になった。最初のところだって、大風呂敷を広げてもったいつけて、どんな面白い話が展開するのかと思うんだけど、肩すかしをくらわされる。ハリポタと同じで、ディテールでくすくすと笑わせるやり方がうまく使われているとは思ったし、ハイテクファンタジーもありだと思うんだけど、何しろ中身がなかった。

トチ:主人公の苗字のファウル(Fowl)は鳥という意味だけれど、発音の同じfoul(汚い、不正な、ゆがんだ)という意味をほのめかしているし、バトラーは執事という意味だし、原書にはそういった言葉の面白さも存分に盛り込んであるんでしょうね。そういう面白さを翻訳で伝えようとするのは、非常に難しいことだとは思うんだけど……でも、登場人物の口調の統一がとれてないので、読みにくくなかったですか? たとえば、13ページでベトナム人のグエンが「……あっしは知ってますぜ」って言うでしょう。その2,3行あとで「そ、そんなことするもんですか。ほら、見てくださいな」とやけにかわいらしい口調になっている。「あれ、これは誰が言っているんだっけ?」と、もう一度読み直してしまった。

ウォンバット:ずっと気になっていたことが一つあるんですけど、ホリーのことを助けようとする上司ルートには、ホリーへの愛があったんでしょうか?

一同:???

ウォンバット:ならず者っぽい上司なのに、どうしてあそこまでして助けてやろうとするのか、わからなくて。そうだ、これは愛よ、愛にちがいないと思ってたんですけど。

アカシア:それはともかくとして、プロットだけで物語を構築していくと、キャラクターは破綻をきたしかねないのかも。

(2003年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


征矢清作 林明子絵『ガラスのうま』

ガラスのうま

ねむりねずみ:すごく安心して読めた。冒頭の「すぐりがうまれたとき……」の運び方はなるほどなあと思わされたし、日本語もいいし、とても気持ちよかった。ガラスのうまを走らせたくなって壊しちゃうとか、そういう大人とは違った子どもの世界、日常と不思議の世界が入り交じっているような子どもの世界が、なつかしい感じでした。すぐに手を出してつまみぐいするところなんかも、いかにも子どもだなって思ったし。表現としても、「じゅうじゅういうねぼけ声」とか、面白いところがいっぱいあった。ただ一つ気になったのは、ガラス山で、すぐりの体が半分ガラスから全部ガラスになったでしょう、あれに特別な意味があるのかと思ったんだけど、ちょっと肩すかしだった。火の玉がおどりまわるところも日常を別の観点から見てるんだなって思って面白かったし、最後に「どうして、ぼくがここにくるってわかったの?」「それは、すぐりのおかあさんだもの」というのが、幼年期にぴったりなんだなあと思いました。

アカシア:『卵と小麦粉、そしてマドレーヌ』と争ってこっちが賞をとったのは、なるほどなと思った。でも、ずいぶん前に読んだせいか、イメージが弱くなっちゃってる。ガラスの馬を追っていくというのが縦糸なんだろうけど、あっちの話、こっちの話とばらけてしまう感じがして。久しぶりに林さんの絵を見て、また、いいなあと思いました。

カーコ:ほかの2冊を読んでからこの作品を読んだから、美しい日本語だなとホッとした。言葉が形づくっていくイメージが美しくて。特に、かめに12杯水を汲むところで、星がかめの中にたまるというのが好きでした。異界に入って、いろんな試練をこなしていくところは、『千と千尋の神隠し』を思いださせました。勇気を持ってがんばったら、目的を果たせるというところが。ただ、美しいのだけれど、どこか印象が弱い感じがして、それはどうしてだろうと考えたけれど、理由はわからなかったんですよね。

ペガサス:この作品は、林さんのカットに助けられているなあ。本当に子どものしぐさをよくとらえていると思う。だからとても良さげな感じがするんだけれど、どうも物足りない。なぜかというと、この子のガラスの馬への思い入れが、最初にしっかりと書かれていないから。ここまですごい冒険をするんなら、もっとこの子と馬とのエピソードを書くなりして、馬に対する思い入れが納得できないといけないと思う。足を折るというのも、ただ落ちただけで、そこにドラマがないのが弱い。それから、疑問が一つ。ガラスやまのかあさんは、結局おかあさんだったのか。

きょん:強烈な印象があるわけではないけど、美しい文体と、その世界にひかれた。正統派の児童文学って感じですね。ガラスの馬が突然走り始めたりするのが唐突で、すこし不満だし、ねむりどり、ガラスやまというのが、ちょっと古いかな。でも、読み進めていきやすい。ガラスやまのかあさんが出てくるあたりから引き込まれる。ひかれたところは、文体が読者の想像力を刺激するようなところとか、擬音の使い方。「ぎしぎしきしんで、戸はあきました」とか「火にあぶられて、じりじりぶつぶついっていました」など、うまく表現していくのが魅力的。でも、こういう文体だと、体験も想像力も乏しい子には、かえって難しいのかなあ? すぐりが、ガラスやまで跡継ぎになってくれないかと言われたとき、すぐにお母さんの顔が浮かびますよね。子どもの心の中にある支えがお母さんなんだということは強く表現されているけど、ちょっと正統派(素直)すぎて、気恥ずかしい感じがした。こういう作品を読むとあらためて、子どもが感じる世界は、そんなに変わっていないのかなあと思いますね。

ウォンバット:すっと読めた。ガラスって美しいイメージなので、美しいイメージの物語世界がひろがっているけれど、よくも悪くもゴールデンパターンかな。会う人会う人が、すぐりに課題を与えて、「あれやれ」「これやれ」と上から言うのが、ちょっと嫌でした。あんまり楽しい気分になれなくて。最後のところは、「それは、すぐりのおかあさんだもの」よりも、「ガラスのうまは、うれしそうにすぐりをみました」に、ぐっときましたね。

もぷしー:最初に読んだときは、急いで読んだせいもあって、イメージだけしか残りませんでした。でも、気になっていて、2度目を読み返す前に『もりのへなそうる』(渡辺茂男/作 福音館書店)を読みました。『もりのへなそうる』も、本来存在するはずのないものが、子どもの想像力を通して、あたかも存在するかのように描かれている世界。そう思って読み返すと、『ガラスのうま』の馬が突然動きだすというところについても、「子どもにはこう見えた」というのをシンプルに追っていくと、こうなるのかなと思えました。お母さんと子どもの結びつきが強いから、お母さんが読みたくなるお話。お母さんが幸せな気持ちで読めるから、子どもに読んであげたときに、いいお話になる。内容的に弱いようなところは、私も感じました。これは、子どもが「悪いこと(失敗)をしちゃった」と認識したとき、初めて自力で問題を解決しようとする、というお話でしょう。自分で問題を解決する中に、こわいこともあるし、やめたくなっちゃうときもあるんだけど、一つ一つ自分に課題を与えては、こなしていく。達成できたとき、最後に報告したい人、戻りたいところはお母さん。無理やり考えると、そんなところでしょうか。イメージとしてはきれいに読めたけれど、つっこんで考え出すと、火の玉はどうして二つだったんだろう(何を表しているのか)とかわからないことがあって、気持ちいいところには落ちつけませんでした。

愁童:今回の3冊の中では、これが一番透明感があって安心して読めた。ただ、ちょっと線が細い感じ。べつに目新しい作品ではないと思うけど、でもほっとする。若い人はどう読むのか、すごく関心があります。今の子が、どこまで読んでくれるか、この日本語として上品な、響きの良い文章を読んでくれるといいんだけど……。

紙魚:オーソドックスな幼年童話なんですよね。それも、自分の力で読み始めたばかりの、年齢の低い子どもたちへの物語。目の前の数珠を一粒ずつ追っていくと、いつのまにか、ぐるりとつながっていて、安定したまま、しぜんと物語を読み進めていくことができる。物語の先から、おいで、おいでと呼ばれるような、ていねいな物語はこびだと思いました。いきなり何か衝撃的な事件が起きて、物語が動いていくというような本が多いなかで、この本は、次の世界に行くまでの距離が短いので、本を読むことに慣れていない子どもでも、読みやすいのではないかしら。日本語も美しい。こういう本って、新作では案外出にくいので、野間賞の選考でも、幼年童話への評価という声があったようです。主人公のすぐりが、ガラスの馬を追って、ふしぎな世界へ入っていくのと同時に、読者も物語世界へすっと入っていくという、まさに物語の入口といった本でした。

愁童:『One Piece』(尾田栄一郎/作 集英社)や『クレヨンしんちゃん』(臼井儀人/作 双葉社)が大好きな子どもにも、作者の世界が通じてくれるといいんだけど……。文章はいいし、行間からにおい出てくるものもある。若い編集者はこういう本をどう考えているのでしょう。

紙魚:姪っ子(小一)に読ませても、さくさく読んでいましたね。

トチ:私もペガサスさんと同じように「なぜ、山のおかあさんがおかあさんになるのかな?」って思ったけれど、これは「ごっこ遊びの世界なんだ」と思ったら納得がいきました。「ごっこ遊び」ってこんな風にすうっと現実に戻ることがあるものね。たしかに完成度は高いし、美しい物語だと思うけれど、印象が薄いのは、善意にあふれていて、ワサビがきいていないから? 幼年童話にはワサビはいらないのかしら?「はかせ」が出てくるところあたりから、話の運びがちょっと苦しいかなと思いました。私の考える理想の幼年童話というのは、幼いころ読んだときは「楽しいな、面白いな」とだけ思って読んだ(あるいは聞いた)けれど、大人になって思い返したとき「ああ、こういうことだったのか」と感じられるようなものだと思うのだけれど、違うかしら?

アカシア:児童文学の向日性ってよく言われるけど、私は幼年童話には向日性やハッピーエンドが必要だと思ってるのね。年齢の高い子どもの作品は、また違うけど。小さい子どもにとっては、「ここはすてきなところだよ」「生きてていいんだよ」と、まわりの世界から言ってもらうことが、とても大事。小さいときにそういうメッセージを受け取ってないと、年齢が高くなったときに自分の足で外に向かって踏み出せない。だから、さっき気恥ずかしいという意見も出てきたし、ワサビが必要という意見もあったけど、私は「それは、すぐりのおかあさんだもの」と臆面もなく出てくるところが、いいんだと思う。これが必要なんだと思う。

トチ:フェアリーテールとかは、もっとこわいんじゃない?

アカシア:でも、昔話は象徴的なイメージを伝える語り口になっていて、怖いことも、具体的に描写してるわけじゃないですよね。

ウェンディ:遅れて来たので、まとめて感想を言います。『ガラスのうま』は、すらすら読めました。確かに完成度は高いし、こういうお母さんの書き方もあるなあと思いました。『アルテミス・ファウル』は、ぜんぜん子どもの作品とは思えなかった。中途半端というか、子どもにはわからない言葉や、大人しかわからないブラックユーモアがぽんと投げ出されていて、気になるところがたくさんあった。訴えたいことがたくさんあるんだと思うけど、羅列しても言いたいことは伝わらないのでは?

(2003年02月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ビヴァリー・ナイドゥー『真実の裏側』

真実の裏側

もぷしー:ずいぶん前に読んだので印象論ですが、一気に読めました。最近、もりあげよう、あきさせないようにしようと演出したファンタジー系の本ばかり読んでいたので、久しぶりに現実に基づいてしっかりかけているこの作品を、夢中になって読みました。主人公シャデーの感覚を通して物事が描かれていたのが臨場感があっていい。外から描写しようとすると、お母さんのことなどは感傷的な描写になると思う。でもこの作品では、シャデーが困ったときなどにお母さんの言葉を思い出す形でしか、お母さんは登場しない。そこが、めそめそしている暇もなく生き抜くことだけを考えているシャデーの心情を表す、すばらしい方法だと思いました。あとがきには、大人だけでなく本離れしている若者にも読んでほしいとありましたが、本離れしている若者には簡単には読めないかもしれませんね。ただ、自分の今持っているものを最大限に活用して生き抜こうとする強さと姿勢は、日本の子どもが読んでも共感できると思います。ナイジェリアの言葉がカタカナで書いてあって、意味がかっこに入っている。そこが、ちょっと作品のリズムを乱すようで気になりました。すべて日本語にしてしまってはいけないのでしょうか? 個人的に、152ページのお母さんの言葉「悲しみは貴重な宝物と同じ。本当の友人以外には見せないものよ」というのが、すごくいい言葉だと思いました。

ウォンバット:題材に圧倒されましたが、あんまりのめりこむことはできず、ちょっと……。イマ一つでした。よく知らない国のことだし題材は衝撃的だけど、物語としては『少女パレアナ』的な「私はこんなにいい子なのにどうして?! どうして?!」みたいなのが鼻についちゃって。ニュースキャスターに会えてしまったのも、ちょっとできすぎで、つくられた感じ。すぐ夢を見ちゃうのも、なんだかなあ……という感じで、お話の中に入れなかった。母の言葉も、いいなと思うのもありましたが、ゴチック体で出てくると教訓ぽくて。訳のことですけど、私はちょっと気が合わない感じ。堅いというのかな。『アルテミス・ファウル』の訳にも同じような傾向を感じたんですけれど、原文に忠実に一語一語きちんと対応させて訳してる感じ。私はそういうタイプの訳を、心の中で「置き換え派」と呼んでいるのですが、このお二人は「正統的置き換え派」かなと思いました。正確を期そうという誠実さは感じますが、たとえば原文に強調の言葉があるとき、それを「とても」とか「すごく」とかにしてしまうと不自然な感じになってしまうことがある。日本語では必ずしも「とても」や「すごく」を使わなくても、強調することはできるんじゃないかと思うんですね。

きょん:3冊の中では非常に興味深く読めたし、2人の子どもの心情表現が対照的で理解しやすかった。困難に立ち向かうときの子どもの態度や反応については、母親が目の前で殺されたといった異常事態だからというより、もっと普遍的なように感じました。まわりの人がずいぶん親切だったり、都合よくストーリーが運ぶな、と思うところはありましたが、現状を切り開くのは自分の力しかないんだというメッセージが感じられたのでよかった。お母さんの言葉は少し教訓的なところもありますが、一つ一つが心にひびいてくるいい言葉だったので、ぐっときました。シャデーがいい子すぎるんだけど、最後に爆発するところでほっとします。「出てって」と叫ぶところですね。この「いい子」というのは、長女にありがちな側面のように思います。弟が全然だめな分イライラしながらも、よけいにがんばっちゃうところは、いかにもそうだろうなあという感じ。お母さんが作ってくれた思い出の品物をなくしちゃうところでは少し悲しくなったけど、お父さんがオコとイヤオを持ってきてホッとしました。この作家のほかの作品も読みたくなりました。非常に好きでした。

アカシア:この本でゴチック体になっている部分は、とても強い印象で目にとびこんでくるけど、原書ではイタリック体で、そんなに強くない。

トチ:ゴチック体だと、看板みたいだものね。

アカシア:区別をつけつつ、ゴチックほど強くない書体があればいいんだけど、この辺が日本ではなかなかむずかしい。

ペガサス:まず筋立てがドラマチック。お母さんが殺害されるという、これ以上ないような悲劇がおこり、それを受け入れることもできないうちに事態はどんどん先へと進む。一難去ってまた一難で、自分ではどうしようもない運命に翻弄される子どもたちの行く末が心配で、先を読まずにいられない。筋立てで読者をひっぱっていく強さがあると思いました。そのような状況下で、自分を見失わない主人公の強さが感じられ、それを描くのに、テクニックとして夢や記憶の断片を織りまぜて、しっかりと心理描写をしている。また、子ども対大人の図式がはっきりしていて、子どもの子どもらしいところがよく書けている。次々知らない人に会っていくんだけど、自分なりのあだ名をつけたり、自分の敵なのか味方なのかを本能的に察知するなど、子どもらしい目が感じられました。また、常に自分が悪いんじゃないかと思って自分を責めたり、反省したりするところも、子どもらしい。12歳にしては子どもっぽくは感じられるんだけどね。
新鮮だったのは、西欧的ではない視点でロンドンの町の暮らしが描かれていたことですね。緑がない、汚い町の様子、非人間的な人々、学校で出会う女の子たちも醜悪に描かれている。それと対照的にナイジェリアの人々の豊かさを感じさせています。アフリカの人たちが、言葉や、お話を大切にする心も描かれている。主人公の中でも、自然や色が、大きなものとして存在している。また家族の強い結びつき、大家族の中の幸せが感じられ、それに対してイギリスの家庭は、グラハム婦人の家庭もどこかゆがんでいるようだし、子どもが出ていって二人だけになったロイおじさん夫婦もアフリカの家族とは対照的に描かれているように感じられましたね。
日本語版の装丁は、子どもにとっては手にとりやすい感じではない。もっと子ども向けに出してもいい本なのに。中学生くらいの子どもに読んでほしい。

トチ:出版社はどういう読者を想定して作っているのかしら。

アカシア:読者対象をしぼりきれてないのかな。題名も直訳風でかたい。これでは、大人にも子どもにも手に取ってもらえないんじゃないかと思うと、もったいないな。

カーコ:今回の3冊の中では、いちばんおもしろかった。視点を子どもに持ってくる手法が成功していると思いました。日本の子どもの現実とはかけはなれた題材を扱っていて、残酷な事件で始まるけれど、主人公の視点にひきつけることで、読者は世界に入っていける。フェミが心を閉ざしてしまうのにイライラしたけれど、それもこの年の姉弟の関係としてはリアルだと思った。シャデーがいい子すぎるという意見があったけれど、最後のほうに、自分のせいでお母さんは死んでしまったのではないかと思ったというところが出てくるじゃないですか。そこでストンと納得できた。伏線がきちんと引かれているんですね。子どもにわかるように書かれているのだから、子ども向けに出してほしかったです。
訳は気になるところがいろいろありました。たとえば、289ページのお父さんの手紙の中、「永い永い時をへだてて、言葉は剣よりも強いのだから」の「へだてて」は原文はどうなっているのだろうと思いましたね。

ねむりねずみ:acrossとなってるから、「超えて」って感じ?

アカシア:アマゾンなんかで見ると、原書は小学校高学年向きとか中学生向きなんて書いてあるけど、日本語版は読者をもっと上に想定してますよね。ルビも少ないし、訳も子ども向けならもっとしなやかにしてもいいと思いました。171ページに「ナイジェリア語」とあり、284ページに「ナイジェリア語の新聞」というのが出てきますが、ナイジェリア語というのはないから、ここはナイジェリアの言葉、ナイジェリアの新聞と訳してほしかった。
まわりの人が親切すぎるという意見が出てたたけど、イギリスは難民を保護するいろいろな手段があるので、そこはリアルなんじゃないのかな。子どもが子どもっぽいというのも、ナイジェリアの階層が上の人は親が権威を持っていて、保護されている状態の子ども時代が長いんだと思う。
イギリスには今外国から入ってきている子どもも多いから、そういうのがリアルタイムでどんどん作品に取り込まれてきているんですね。イギリス児童文学のダイナミズムは伝わってきますね。

ねむりねずみ:私は、うーんという感じ。一つは訳にひっかかって読みにくかったのと、話ができすぎていて、都合よく行き過ぎる。なんかきちんと始末がついていないのがいやでイライラした。お母さんが自分のせいで死んでしまったのでは、という罪悪感にしても、ちゃんと解決したのかどうかわからない。いじめにしても、現実はもっとエスカレートしていくものだと思うのだけれど、なんとなく消えてしまっている。こういう題材で書くのはたしかに大事なことだけど、これならアフリカの少年兵の話(Little Soldier)のほうがリアリティがあったと思う。

アカシア:バーナード・アシュリーの作品ですよね。慈善団体に保護された少年兵が、イギリスの家庭に引き取られるという設定で、その子が、イギリスの若いギャング同士の抗争に巻き込まれていく。

愁童:ぼくは、ウォンバットさんと同じ印象でのれなかった。お話の枠組みが、ああ、またかと言う感じ。飛行機で外国に亡命できる子どもを通じての体制批判。日本の子どもに通じるのかなぁ? この10歳の弟は、幼く書かれ過ぎている。目の前で母親が殺されたのに、同じ条件にある、たった3つしか年上でない姉のお荷物になるばかり。反骨のジャーナリストである父親の子にしてはリアリテイが感じられない。けなげな姉の引き立て役としてしか機能してない男の子。やだね。戦後は日本にも孤児がいっぱいいたけど、もっとたくましく生きてたよ。

アカシア:でも、まわりにもいっぱい同じような運命の子どもがいる時代ではないのに、突然目の前で自分の親が殺されるのだから、パニック状態で自閉的になるのはリアルなのでは? ナイジェリアの、賄賂が横行する社会を書くだけでジャーナリストが殺されるという状況は、日本では文化的なギャップがあるから理解しにくいかもしれませんね。イギリスでは、ナイジェリア政府に楯突いて死刑になったケン・サロウィワのことは大きく報道されたので、読者もそれとだぶらせて読むことができると思うんだけど、日本では難しいね。あとがきでもう少し詳しく説明してもよかったかもしれない。