月: 2006年9月

2006年09月 テーマ:日常の中のこの世ならぬもの

日付 2006年9月26日
参加者 ミラボー、たんぽぽ、カーコ、ウグイス、アカシア、うさこ、(げた)
テーマ 日常の中のこの世ならぬもの

読んだ本:

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ジャン・マーク『バスにのらないひとたち』

バスにのらないひとたち

アカシア:私はジャン・マークの短編が好きなんです。日常の中のちょっとした裂け目をのぞきこんで不思議なお話を作るのが上手な作家ですよね。大人になって、雑事に追われているとつい見逃してしまいがちな感覚を、しっかり思い起こさせてくれます。この作品も、「大人の私」はおもしろく読みました。ただ、いくつかひっかかったところがあります。「通信」は、暗号のようなものがモールス信号だったことはわかったけど、具体的にはどうなっているのかよくわからなかった。後書きでもう少し説明してくれると、よかったですね。p181のトンネルと線路と歩道と車道の関係もうまくイメージできませんね。
「バスにのらない ひとたち」の話の原題はThey Wait。バスに乗らない人なら自分とはかかわらない感じですが、「待っている人」だと何を待っているのかわからなくてもっと怖い。文章の表記は、漢字とひらがなのバランスをもう少し考えると、もっと読みやすくなったと思います。p84あたりに日本語のイタリックが出てきますが、これ読みにくいですね。

ミラボー:私も「通信」はどうしてもわからなかった。今日ここで、わかった人に聞いて理解して帰ろうと思っていたんですが……。みなさんもわからなかったようで残念。個人的にイギリス文学でもケルト的な多神教の話は好きです。「かざられない写真」の話は、よくわかります。ぶきみな感じの話が多かったですね。

たんぽぽ:子どもたちは怖い話が好きなので、もっと子どもたちが楽しめる工夫がほしかった。読みにくかったです。

ウグイス:子どもだけにしか見えないものを描いて、なんとなくこわい雰囲気のある作品として、『キップをなくして』と共通のものがあると思ったんです。「バスにのらないひとたち」「お誕生日の女の子」などはわかりやすい話だけど、中には、情景がきちんと思い描けずに何回か繰り返して読まなければならないものもありました。もう少し工夫してほしかったわね。私も「バスにのらないひとたち」の原題がThey Wait なので、日本語から受ける感じとニュアンスが違うのではないかと思いました。p80でジェニーが最後に答える「バスにのらないひとたち」というところも、原著とは違ってくるのかも。
げた(メール):非常に読みにくかったです。内容的には高学年から中学生向きなのに比較的容易な漢字が平仮名になっていたりもするし。また、訳文から情景がイメージしづらかったですね。ですから、おもしろい本なのでしょうが、私にはその良さがわかりませんでした。日本の子どもにも、むずかしいのではありませんか?

(「子どもの本で言いたい放題」2006年9月の記録)


池澤夏樹『キップをなくして』

キップをなくして

うさこ:作者の、命をみる眼差しのあたたかさを感じた作品です。生きていることだけがすべてではない、魂の温もりというか、魂どうしの結びつきというか、そういうものを作品の中に感じました。キップをなくした子は駅から出られないという、一瞬ギョッとするような設定でうまく物語を展開させている。食事は駅の職員の食堂で、必要なものはキヨスクでただでもらえ、衣類は遺失物取扱から着替えを選ぶ。なんと、ここには子供用のパジャマもあり……と、一見突拍子もないことも、ついつい納得させられて物語を読み進めました。ステーション・キッズの仕事もなかなかユニークで、時に時間を止めるなどの魔法も使える。駅での集団生活も、社会的仕事をこなしながら夜はみんなで勉強と、すっかり「駅の子」社会を作り上げていましたね。そのなかにミンちゃんがいて、死んだら何も食べなくていいとか、なんで自分ばっかりと悔やんで向こうの世界へ旅立てないでいる……ミンちゃんの語ることばが実にリアルでした。ミンちゃんが旅立つために、と、おばあちゃんのお墓がある北海道までみんなで旅をして思い出を作ったあと、向こうの世界へ送る子どもたちの姿がすごく自然に描かれていました。

ウグイス:「キップはなくしてはいけないよ。なくしたら出られなくなるからね」という言葉は、子どもならだれでも親に言われたことがあると思います。本当になくしてしまったらどうなるんだろう? というところから始まるので、子どもはもちろん、そう言われた記憶のある大人も引き込まれてしまう。毎日大勢の人が駅に着いて、改札を出ていくけれど、それは皆キップを持っているから出られるわけですよね。駅というのは、どこか他の場所へ行くための通過点にすぎないのに、そこにとどまったらどういうことになるか、という話ですね。ところが、そこで生活するのは全く問題ない。食堂やトイレがあるし、仮眠室にはシャワーもあるし、着るものや日用品は期限切れの遺失物で間に合う。キオスクでは、お菓子を買おうと駅弁を買おうと全部タダ! 散髪も、本屋で本を買うのもタダ! 駅で働く人々はみな駅の子のことを知っていて、とてもやさしく接してくれる。子どもにとって、なんだか楽しい場所なんですね。しかも子どもだけの生活。絶対的な存在である駅長さんという人物が背後にいるけれど、子どもだけで考え、ルールを決めながら集団生活をする。年功序列的な構造ができていて、一つの社会が構成されている。しかも、大切な任務があり、きちんと自分のするべき仕事をこなしていく。うまくいかないときは、何と時間を止められる! 一人一人に責任もあり、子どもがいっぱしの大人のように暮らせるのは、子どもにとってとてもうれしいと思う。駅の子になれば、少し問題ありそうな子でもそれなりにきちんと受け入れられ、ちゃんと一人一人に居場所がある。そうやって、なんだか楽しい物語が進んでいくんだけど、あまり食べないミンちゃんが、「わたし死んでるの」という場面で、読者はドキッとさせられますね。ここから読者の読み方もがらっと変わり、なんとなくそうなのかなーと思っていたことが、「やっぱりそうだったんだ、この子たちは!」と思わせられる。
 そのあとは、ミンちゃんがぐっと表に出てきて、死後の世界の話という色が濃くなってくる。それからさらに局面が変わるのは、新入りの中学生が「キップをなくしても、清算券を買えば出られる」という、考えてみればあたりまえのことを言うとき。閉じ込められてるわけじゃない、出たければ出られる。そこで、自分はどうしたいのか、という問題をつきつけられる。そのあたりから、前半と雰囲気が変わってきますね。最初は、東京駅構内の細部の描写にリアリティがあり、ぐんぐん読み進んでいくんだけど、だんだんにちょっとした小さい疑問が積み重なってくる感じがしました。この子たちはどうして駅の子として選ばれたのか? 何らかの理由があって駅の子になるのでしょうが、何なのかはっきりしない。自分からキップを捨てる子もいるけど、どうしてなのかよくわからなかった。一生いるのではなくて、いつか出られるのだけど、出るきっかけも不明。親たちにはちゃんと連絡がいっているから心配していない、というけど、どういう連絡がいってるのか、疑問に思いました。

カーコ:私はこの作者が好きでいろいろ読んできたんだけど、この作品は全体に今ひとつ楽しんで読めなかったんですよね。自立した子どもの共同体という設定は、最初おもしろいと思ったんだけど。なぜおもしろくなかったのかな、と考えてみると、一つには、出てくる子どもたちが、全体にもののよくわかったいい子ばかり。みんな自分の役割を悟って、とても素直に行動するでしょう? 実際の子どもというのは、もっとハチャメチャなものだと思うんですよね。大人の見た子ども、という感じがしてしまって。また、最後に駅長さんが具体的な人として出てくるあたりでなんだかがっかりして、そのあと物語についていけなくなりました。グランマの語る死後の世界を、なるほどと読めるかどうかで、読後感が違ってくるんじゃないかしら。

たんぽぽ:キップをなくして出られなかったらどうしよう、家では心配してるだろうな、と思ったけれど、子どもたちはそんなことを考えずに暮らしているし、みんな、死んだ子かと思ったら、それも違っていた。後半は斜め読みになってしまいました。

ミラボー:作者は相当な鉄道ファンですね。設定も、青函連絡船があった時代ということが途中でわかります。鉄道好きな子に勧めてみたい。最後に子どもたちは家に帰りますが、そのあとどうなったんでしょう? 終わりが完結していないところが気になります。死生観や輪廻のことが出てきますが、p80に「生きているものが死ななければ、赤ん坊が生まれることもできなくなる」と書いてあるのを読んでドキッとさせられました。そうなのでしょうか?

アカシア:この作品は、まず設定がおもしろいですね。大人のいないところで子どもだけで段取りをして暮らしていくというのがおもしろい。カニグズバーグの『クローディアの秘密』(岩波書店)では子どもたちが美術館で暮らしますが、ここでは東京駅。そんなところでも暮らしていける、という発想がユニークです。駅のディテールもしっかりとらえて書いているところがいいですね。作者はインタビューで、イギリスの児童文学にあるような「行って帰る話」を書いた、と語っていますが、イギリスの児童文学は、帰ってからどうなったかも書かれているのに、この作品は、どうなったかが読者の想像にまかされています。大人の読者にはいいですが、小学生くらいだと大人よりもっと物語に入り込んで読みますから、疑問もあれこれ生まれてくるでしょうね。
 宇宙全体の大きな大きな心の中にいるコロッコたちが集まって新しい次の命をつくる、そしてコロッコは永遠に転生する、という考え方には、ひかれましたね。駅で暮らす子どもたちという意外性から物語が始まり、途中からミンちゃんの話になっていきます。ミンちゃんに関しては、読者も素直についていけて最後も安心しますが、他の子のことは書いてないのは、どうなんでしょう?

げた(メール参加):『キップをなくして』は身近なところに、非日常の世界を作り出して子どもたちを一時その中に引っ張りこむ話です。発想はおもしろいと思いましたが、読み終わって、子どもにとって「駅の子」になるということにどういう意味があるのか、と思いました。駅長さんや「死んだ子」を取り上げる中で「死」について作者の意見表明をしていますが、子どもはどういうふうに捉えるのでしょうか。なお、図書館ではこの本は一般書扱いになっています。

カーコ:一つわからなかったのは、この子たちが駅の子でいつづけた理由が釈然としないのに、最後に主人公は夏休み後、駅に戻るというでしょ? どれほどの動機があったんでしょうね。

アカシア:自分たちが果たしてきた役割を誰かが次の子たちに伝えなきゃいけないから、と書いてありましたよ。

カーコ:一人残らなければならないというのはわかるけど、なぜこの子がその一人になろうと思うのかしら?

アカシア:日常のリアルな世界との関連を考えていくと、なかなか難しいわね。

カーコ:ミンちゃん以外は、家族のことは全く書いていないし。

うさこ:キップをなくしたところで、もう魔法がかかっていると思ったので、私はあまり違和感はなかったけど。

アカシア:行って帰る話だと、帰ってみると現実の時間はストップしていたのがわかるとか、あるいは浦島太郎みたいに現実の世界でははるかに時間が進んでいたとか、とにかくファンタジー界と現実界では時間の流れ方が違うのが普通だけど、これは現実に学校に行く子どもたちを助けるところが出てくるので、現実世界と接点があり、そういう処理ができませんよね。子どもが読んだら、その間親たちや学校の仲間たちはどう納得していたんだろうか、とか、捜索願は出てなかったんだろうかとか、ひっかかるんじゃないかな?

(「子どもの本で言いたい放題」2006年9月の記録)


柴田勝茂『ふるさとは、夏』

ふるさとは、夏

ミラボー:アニミズムというか、あらゆるものに神様が宿っていて、その神様たちが楽しく活躍するという話は気に入りました。方言がきついので、入れているのはとってもいいですけど、読みにくいといえば読みにくい。だれが矢を射たのか、推理小説っぽく仕立てています。男の子と女の子のいる間に立つので、キューピットの矢かな、と最初から予想は立ちますが……。1990年の作品だけど、村の統合合併のことが話題になっていて、去年、今年あたりでもちょうど当てはまって、時代をとらえていると思います。

たんぽぽ:おもしろかったです。白羽の矢が立ってからあとも、短く感じました。方言が楽しくて、映画を見るような、おもしろさでした。

カーコ:とてもおもしろかったです。何の説明もなく方言が出てきて最初とまどったんですけど、これは読者が主人公のみち夫と同じ視線で読んでいけるようにわざとこうしているんだなあ、と途中で思いました。ほかの登場人物も神様も魅力的で、五尾村という世界がおもしろいんですね。矢のことを知りたいと思って読み進むんだけど、最後は、この世界を味わった満足感があるので、結末はどうでもいい感じがしました。物語が三人称で語られるからこそ、安心してひたりきれるのかも。p344の「おらちゃ、どっから来たがやろ。ほして、どこへ行くがやろ」というせりふが、生きることの不思議さを象徴しているようで心に残りました。

ウグイス:日本の児童文学らしい作品。この田舎は私の父の出身地と似ていて懐かしかった。子どもの頃、夏休みにひとりで田舎に長く滞在したことがあって、田んぼを抜けていくと川があって鎮守の森があってという風景を覚えています。バンニョモサといった呪文のような名前が出てきますが、村では近所同士苗字で呼ばずにその家のおじいさんの名前で「〜〜さ」と呼ぶ場合が多いんですね。この物語では主人公が田舎に行って、自分は誰も知らないのに、村の人々はみな自分のことを知っているという感じを受けますが、私も子どものとき同じような感じを味わいました。自分は初めて会う人ばかりなのに、村の人々は「〜〜さの何番目の息子の子」と知っていて、話しかけてくるんです。人間臭い神様が出てきますけど、村のおじいさん、おばあさんも、神様も、子どもにとっては同じようなものでしょう。生まれたときから見守ってくれる木とか、安心できる、ゆったりとした気持ちになる存在。会話が方言なのでとても雰囲気があって良いんですが、字で読むと読みづらく、子ども読むと苦労するかも。最後、主人公が家族のところに戻ったところも、自然な感じでいいですね。

アカシア:ファンタジーワールドをどこに作るか、ってことなんですけど、過去にさかのぼったり、まったく別の異世界をつくったりと、作家によっていろいろ苦労しています。この作品は、日本の現代で空間移動して、都会の子にとっては不思議な方言や風習が存在する「田舎」をファンタジーワールドにしてしまったところが、まずおもしろいですね。ブンガブンガキャー、ジンミョー、ゴロヨモサ、バンニョモサなど、神様や人の名前が片仮名で出てくると、それだけで不思議な感じがつくれる。神様がアロハシャツを着て温泉に出かけたりするのもおもしろいし、神様のくせに人間にたのんだりするのも意外。小林さんの挿絵もいいですね。方言の使い方も、わからないところは呪文のようにリズムを楽しんでいるうちに、だんだんわかってくるという状態をを主人公と一緒に体験できるので、これでいいのだと思います。
ただヒスイが、最初は引っ込み思案で、「きゃあ」と叫んで立ちすくんだり、みち夫にしがみついてふるえたりする場面があるかと思うと、後ろの方ではたいへん気丈な挑戦的で元気な女の子に描かれている。キャラクター設定に揺らぎがあるんですね。ひょっとすると、この男性作者の中に、憧れの女の子像と、児童文学としてはこう書かねば、という立て前とが乖離していて、こうなるのかな、と勘ぐってしまいました。白羽の矢をだれが射たのか、という謎で物語を引っ張りますが、村人たちは「神がかりしたり、ちょっと気がふれたりした村の者が射る」と考えているのに、神様たちは「人間ではなくて神様のだれかが射るのだ」と信じている。この辺があいまいなので、その後の犯人さがしもイメージがあいまいになっているのが残念。それから巻末に、この文庫版は1990年の福音館版の復刻で、別に加筆訂正したものが1996年にパロル舎から出ているとありますが、どんなふうに加筆訂正してあるのか知りたいと思いました。

うさこ:おもしろかったです。夏休みという限られた時間のなかで、行きたくなくて行った父親の故郷でおこる不思議な体験と空間と神様との出会いなど、設定は目新しくないですが、実にうまく書かれていて、物語のなかで十分に田舎の夏休みを体験できて楽しめました。暑い、汗、虫の声、ムシムシする風など、細部もうるさくないくらいに程良く描かれ、どっぷりと夏の舞台を満喫できた印象です。いろいろな神様がでてきて、それがどれもユニーク。明るくとぼけていて神秘的でない神様像もよかった。どちらかというとゲゲゲの鬼太郎の妖怪風なイメージだったけど。村の伝統行事、村独特の名称の付け方、人々の交わり方など物語の骨組がしっかりしていたのも、話にすんなり入れなじめた理由ではないでしょうか。この物語の山場は、「白羽の矢の犯人をあてる」シーンでしょうか。そこまでが、つまり神社ごもりの夜、白羽の矢をはなった犯人探しのところまでが、途中とっても長く感じられ、しかも方言の会話文を読み続けるのが少々辛かったかな……。

げた(メール紹介):ちょっと前の本ですが、うちの図書館では基本図書にしています。しかし、装丁などが古めかしいせいか、貸し出しはあまりないようです。私は今回初めて読んだのですが、意外に厚みのある構成と内容だなと思いました。家族、都会と田舎、色々な土着の神様たち、などいろいろ考えさせられる内容でした。白羽の矢は誰が?と推理仕立てになって、最後までひっぱってくれます。

(「子どもの本で言いたい放題」2006年9月の記録)