月: 2000年7月

2000年07月 テーマ:文学を読もう

日付 2000年7月18日
参加者 ウンポコ、愁童、カーコ、ねねこ、ウォンバット、
ひるね、オカリナ、流、裕、H、ウーテ、モモンガ
テーマ 文学を読もう

読んだ本:

(さらに…)

Read More

フランチェスカ・リア・ブロック『“少女神”第9号』

“少女神”第9号

H:これ、初版限定プレミアム・バージョンは、刷色が7色に変化する特殊印刷。原書は、色刷じゃなくて、日本語版のみのサービスなんだよ。フランチェスカ・リア・ブロックは不思議な作家で、雰囲気で読ませるって感じだから、こういうのもいいかと思って……。でも、老人に、白内障の目にはきついと言われましたね。

ウォンバット:私は、好きな作品だった。今は亡き雑誌「オリーブ」の、創刊すぐのころの愛読者「オリーブ少女」たちが好きそうな感じ。「ノンノ」じゃなくて、80年代の「オリーブ」。ちょっと主流からずれたところのカッコよさというのかな。とくに印象的だったのは「マンハッタンのドラゴン」。

モモンガ:「全米ティーンに人気爆発」って書いてあるんだけど、音楽とか、今のアメリカの流行に詳しくないもので、味わいが薄れちゃったような気がして、その点ちょっと残念。女の子があっけらかんとしてるとこなんか、好きな感じだった。それにしても、まばゆい本ね。印刷もそうだけど、紙がすっごく光るの。

オカリナ:この本のつくり方は、おもしろかった。なんだかあっけらかんとしてて、熱がない感じ。今流行の踊りパラパラも、無表情で、のってないようでのってるっていうような、熱のない踊り方がいんでしょ。この本も、それにちょっと似た感じ。私はのれる話と、のれない話と、差があったんだけど、その差はどこから来るんだろ?

H:話のできの善し悪しにもよるからね。たしかに、ばらつきがあるかもしれない。今の若い子がかっこいいと思う文体って、あんまりきゃぴきゃぴじゃなくて、ちょっとおさえめな感じだと思うんだよね。だからそれを目指してるんだけど。あと、内容は実はちょっと古い。ややバブリーのり。

ひるね:花の名前とか、ハーブの名前とかたくさん出てくるところも、好き。名前の魅力、言葉の魅力というのかしら。刷色を変えてるのも、明るくてきらきらしてていいわね。マーブルチョコみたい。ストーリー性のあるものが、とくにおもしろかった。「マンハッタンのドラゴン」とかね。おとぎ話みたいで。

:とーっても好きな作品。カラーもお話も好き。私は著者と同い年だから、なおさらよくわかるんだと思う。好きなものに囲まれている女の子たちのことが、だんだん寂しく感じられちゃって……。まわりに好きなものをいっぱいおいて、好きなもので埋めつくしてるんだけど、そこにある寂しさっていうのかな。

H:ぼくも、最初の「トゥイーティー・スイートピー」は好きなんだけど、最後の「オルフェウス」は、つらくなっちゃうんだよな。

(2000年07月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


吉岡忍『月のナイフ』

月のナイフ

ねねこ:この短編集は、出来のいいのとそうでもないのがあるんだけど、あえて承知でこういう構成にしたのかなと思いました。吉岡忍の全体を見せたかったのかな。好きなものは好き、嫌なものは嫌で、それで結構! って姿勢なのかも。私が特によかったのは「鹿の男」と「子どもは敵だ」。東京国際ブックフェアのときに、オランダの生物学者が「子どもに学ぶことなんてない。動物を擬人化したり、子どもは純粋だなんて思い入れをもちすぎるのもおかしい」って言ったのが、とっても印象的で気持ちよかったんだけど、それを思い出した。「子ども=聖なるもの」というのは、幻想なんだっていうことを、あらためてつきつけられた感じ。子どもも、大人と同じようなずるさをもっていて、大人と同じようにこの世界で生きのびようとしてるのよね。吉岡忍の作品は、アジアや地球のレベルで考えようという、日本にとどまらないグローバルな視点をもとうとしているのが、日本の他の作家との違いかしら。でも、子どもはどうなのかな、こういう作品って。表題作の「月のナイフ」は、よくわからなかった。状況描写がわかりにくくて。あと、連環小説ということで、あえて最初に近未来小説の「旅の仲間」をもってきたのは、失敗だったかも。ここで挫折しちゃう読者もいるんじゃない?

カーコ:私は読むには読んだんだけど、考えてみる前に、流さんに貸しちゃったので・・・えーと、どうだったっけ。あ、そうそう、私は自分の子どものこともあって、10歳くらいから14〜15歳って、どんなふうに成長していくものなのか、興味をもってるところなんだけど、この作品は、現代の子どもの抱えてる問題がたくさん出てきて、キーワードが目にとびこんでくるような感じ。生々しすぎて、今ひとつのれなかったんだった。ノンフィクションの作家がフィクションを書くと、こういうふうになるのかな。

H:好き嫌いが別れる作品でしょう。試みとしては、おもしろいと思うけどね。作者の気持ちもわかる・・・が、もう一歩先まで行ってほしかったって気もする。「月のナイフ」で、きらきら光ってキレイな先生の産毛が、幻想とまじっていく場面とか、あと、どっちも意味がなくて、どっちだかわからないようなことを書いたりしてるところ、こういうところは評価したいね。子どもの文学にこういうことを書くって、これまでになかったと思うから。子どもからは「自由な感じがした」って、手紙が来たりするんだけど。とくに好きだったのは「鹿の男」かな。でもなー、やっぱりハナにつくとこはあるんだよな。学級委員的な臭さっていうか、リーダー臭さ。誠実なのは、わかるんだけどね。世代的なズレを感じる。この作品、不統一な短編集って話がさっきあったけど、作者個人のこだわりがあって、最後のところにすべてが重なるようにできてるんだよ。まあ、最初の作品としては、いいんじゃないかな。

ウォンバット:私は、この作品は、読んでいやーな気持ちになっちゃって。問題意識はわかるんだけど、困った事態をつきつけるだけつきつけといて知らんぷりされちゃうみたいで、感じ悪かった。あとに残されたのは、どうにもならない無力感だけ。唯一好きだったのは「子どもは敵だ」。

H:ぼくも。

ウォンバット:ここにでてくる「言葉」っていうものの定義と、言葉のもつ危うさは共感をおぼえた。この作品は、おもしろかったな。

モモンガ:私も、最初の「旅の仲間」を読んで、こんなのがずっと続くのはつらいなと思ったんだけど、他はまた違ってた。こんなふうに、違った雰囲気のものが1冊になった短編集って、珍しいわね。やっぱり大人と子どもは違う。子どもは、自分の居場所を選べないし、自分が選んだわけではない場所に、ずうっといなくちゃいけないでしょ。閉塞感があるよね。そういうことを考えさせられたんだけど、子どもの目で読んでおもしろいと思える作品ではないかな。なるほどなーと思うところは、あったけど。この装丁は好き。

愁童:ぼくも「旅の仲間」は、拒絶反応。読むのがつらかった。なんだか、作為が目立っちゃって。もっとシャイであってもいいんじゃないの?「その日の嘘」は、タイトルが断罪してる。こんなの書いてどーするんだ?! 何をねらったんだか、よくわからん。ぼくの不登校ムードをくつがえすほどのパワーはなかったね。

オカリナ:私は、半分までしかまだ読めてません。実は、ここにくるまでの電車の中で読もうと思ってたんだけど、疲れて爆睡してしまいましてね・・・。

一同:(笑い)

オカリナ:私は吉岡さんと同世代のせいか、言いたいことがわかりすぎちゃう気がしたの。書いていることは世間的に見れば直球のスローガンじゃないんだろうけど、それでも言いたいことがあってそれに引きずられて書いてるっていう意味ではスローガンみたいに見えてきちゃう。誠実なのはわかるんだけど、もうちょっとセーブしたほうがよかったんじゃないかな?

H:スローガンさえ気にしなければ、おもしろいところはあるんだけど、すけて見えちゃうんだよな。作為が消えきらないっていうかさ。吉岡さんには、問題意識そのものを疑えっていうところがあるんだよね。グロテスクなものの中にも美しいものがあるかもしれないっていうテーゼのたて方も、大人から見たらウザいよね。

オカリナ:酸性雨の影響を受けた湖の水は、その中で生きてる物がいないからとってもきれいに澄んでるっていうことなんかは、すでにあっちこっちで書かれてるわけだから、そんなに新しい視点とも思えなかったし。

愁童:「鹿の男」の描写力には、可能性を感じさせるものがあるけどね。

オカリナ:装丁とか、本の感じはいいよね。

ひるね:私も、だいたいみなさんと同じ。「旅の仲間」は別としても、他のはもう恥ずかしくて読めなかった。最初に意見ありきで、それを創作であらわそうとしてるみたい。それなら、ノンフィクションで書いたほうが、よかったんじゃないかしら。

H:吉岡さんは、「ノンフィクションとフィクションのあいだを書きたい」って言ってるんだよ。

ひるね:「月のナイフ」は表題作だし、書きたかった世界なのかなという感じはするけれど、残念ながら作品として熟していない。惜しい! ナイフに拒否反応をおこす大人を戯画化してるんだけど、突然男が川を流れてきたりして、ナンセンスっていうかシュールな方向にいっちゃって、ラストは、メルヘンの世界でセンチメンタル・・・。もっと書きこめば、おもしろい作品になったんじゃないかしら。これは子どものモノローグの形をとってるんだけど、どう見ても大人の語り口でしょ。違和感があるわね。これからも「ノンフィクションとフィクションのあいだ」をどんどん書いていってほしいけど。

カーコ:「あいだ」ねぇ・・・。

ねねこ:何か提示するものがなきゃ、書いちゃいけないの? 文学って、そういうものじゃないと思うけどな。

:私も、最初の「旅の仲間」は、息が苦しくなっちゃって、読むのがつらかった。自分が感じたことを書いたっていうのは、よーくわかったけど。

H:「旅の仲間」で、カマしてるんだよね。わかるか、わかんないか。メディアの臭みっていうのかさ、一般の人はこうなんじゃないかって設定した上で話してるって感じ。

:なんか、予定調和。私は、時事問題を書くってことに対するアレルギーもあってね。この作品、子どもはどう読むんだろ?

(2000年07月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ドナ・ジョー・ナポリ『逃れの森の魔女』

逃れの森の魔女

愁童:発言すべきこと、すぐには出てこないな。パロディでこういうのをつくるっていうのは、おもしろいかと思うけど、いまひとつ、のりきれなかったんだよね。

H:ぼくも、パロディのおもしろさっていうのはわかるんだけど、とくにそれを追いかけたくはなかったっていうかさぁ・・・。

ウォンバット:私も好きな感じではなかったな。なんかこう、ひたひたと迫りくる恐ろしさは強烈に感じたけど。

モモンガ:私はおもしろかった。パロディを抜きにしても、すっごくおもしろかった。ひとりの人間の中に、邪悪な心と崇高な心が日々せめぎあっているという状況を、とてもうまく描いている。最初に善き行いをするんだけど、それでうぬぼれちゃいけなかったのよね。崇高なものが邪悪に変わっていく過程を克明に描いていて、スリルがあった。描写にリアリティがあるでしょ。

愁童:そうそう、それだ! ぼくもモモンガさんと同じことを感じたんだよ。この作品は魔女と人間を切り離さず、両者をつなぐものをちゃんと踏まえたうえで魔女を描いている。そこにリアリティがあるところが、日本人作家の描く魔女との大きな違いだと思う。つねづね思ってることなんだけど、どうも日本の作家が描く魔女って、そういうことが抜け落ちちゃってるような気がするんだ。なぜ彼女が魔女にならなくてはいけなかったのか、どうしてあんなことをしてしまったのか・・・。この作品は、彼女の心が変化していく過程に、リアリティがある。人間と魔女がまったくの別ものというのではなくて、両者をつなぐ根っこの部分を、きちんとおさえてるんだよね。

モモンガ:たとえば、グレーテルが料理をするシーンの鍋つかみのエピソードなんて、まさに女性の作家ならではのリアリティ。あと、文体もおもしろいわね。短い文の積み重ねのような文体。もしかして原文は、詩みたいな感じなのかな。

ウーテ:どうなのかしら。原文を読んでないからわからないけど・・・。でもこれ、散文は散文よね。

モモンガ:だけど、いわゆるふつうの文体とは、ちょっと違うでしょ。短い文で、たたみかけてくるような感じ。

:アンジェラ・カーターの『血染めの部屋』(富士川義之訳 筑摩書房)とか、マーガレット・アトウッドの『青ひげの卵』(小川芳範訳 筑摩書房)なんかもそうなんだけど、パロディって、もとの物語をフェミニズムで解体すると、よくわかるの。みんな法則的にぴったりあてはまる。AERAのムック「童話学がわかる」にも書いたけど、母性がネガティブなものに変えられていたって、歴史があるでしょ。産婆とか魔女とかね。この作品は地味だけど、母性の二面性がよく描けてると思う。子どもを慈しむ気持ちと、子どもを食べちゃうっていう面と。魔女は、グレーテルのかわいらしさに、このまま家族のように暮らしていきたいと思う反面、習性として、子どもたちを食べたいっていう欲求も、どうしようもない。そういう魔女の心のゆらぎが、とてもうまく描けてる。

ひるね:パロディとしてはうまくいってるし、よくできた作品。でも、予想された書き方ではあるのよね。私は、一読者として、この世界に入ってはいけなかった。ゲーム世代のファンタジーだからかな。今までのファンタジーは、現実の世界と空想の世界をつなぐ扉が、作家の工夫の見せどころで、空想の世界への入口をどうやって開くか、というのが問題だったでしょ。そして、そこがファンタジーの大きな魅力のひとつだったと思うのね。でも、ゲームは入口なんてなくて、キーを押すだけで、即その世界にワープしちゃってて、お約束のように悪魔とか、怪物が出てくるでしょ。旧世代に属する私には、どうもなじめない。アメリカは、こういうパロディが多いわよね。パロディのおもしろさって、読者にかかってると思うの。もとのお話が、どのくらい読者の血となり、肉となってるかというのが、おもしろさのポイントだから。翻訳本として出版するのは、キツイ面があるわね。

:おもしろくてさらっと読めたんだけど、愁童さんの裏返しパターンで、物語世界に入っていけなかった。うまくできてはいるんだけど……。世界観、自然観がはっきりしてるから、苦手。ひるねさんのいうように、日本でYAとして出版するにはキツイね。

ウーテ:ドイツでも、パロディってフェミニズム的傾向があるのよ。カール=ハインツ・マレの『
<子供>の発見〜グリム・メルヘンの世界』、『 <おとな>の発見〜続グリム・メルヘンの世界』(ともに小川真一訳みすず書房)も、フェミニズム的解釈解釈で、印象に残ってる。女の人の生命力のすごさっていうのかしら。子どもがふたりいる四人家族に、食べものがないって危機がおとずれたとき、母はどうするか? 両親が死んで、子どもだけが残されたら、子どもは生きていけないでしょ。でも、大人ふたりだったら、生きていけるからって、子どもを捨てるの。残酷なようだけど、それって理屈から言ったらちゃんと理にかなってるのよね。

(2000年07月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)


ベルンハルト・シュリンク『朗読者』

朗読者

ねねこ:これは、今とても話題になってる本よね。子どもの本ではないけど、少年が登場する物語ってことで、今回とりあげたわけだけど、しかけがうまくて、小説として実によくできてると思う。15歳の少年ミヒャエルと、36歳の女性ハンナの、ひとつの愛の形にとても感動しました。1度別れたふたりは思いもかけない場所、法廷で再会する。被告人と傍聴者のひとりとして。ミヒャエルは、ハンナを追いつめることなく、救うことができるのか、否か。そして、距離感を保ちながら、彼女を理解することができるのか、支えることができるのか……。難しい問題だよね。それと、文字の読み書きができないということは、ただ単に不便というだけではなく、人間としてたいへんな劣等感であり、屈辱であり、デメリットなんだっていうことを考えさせられた。同じテーマを扱った作品といえば『ロウフィールド館の惨劇』(ルース・レンデル著 小尾美佐訳 角川書店)もあったわね。これもまた、強烈な作品だった。

流&ひるね:そうそう。あれも強烈だったねー。

ねねこ:それにしても、刑務所に入ることを選ぶなんてね・・・。刑務所の中で文字をおぼえ、本を読みはじめてから、自分の犯した罪を含めて、自己の確認をしていくハンナの姿は、とても痛々しかった。最後のハンナの選択も、とてもよく理解できた。

カーコ:私はこの本、こんなに売れてるって知らなくて、図書館で予約しようとしたら88番目だったんで、びっくり! 結局、買って読んだんだけど、すごく好きな作品だった。全体の伏線の引き方、構成がすばらしい! 一息に読んじゃった。このふたりの関係は、いわゆる恋人同士というのとは少し違うと思うのね。ミヒャエルは、ハンナに恋愛感情を抱いていたけど、ハンナは恋愛という点ではどのくらいの感情をもっていたのか、ちょっとわからないから。ふたりの関係は、恋愛とはいえないかもしれない。でも、心の深い部分のつながりは、たしかに存在していて、人間と人間の関係の不思議を感じさせられた。こういう作品がベストセラーになるなんて、日本の読者も捨てたもんじゃないね。あと、戦後50年、戦争、ナチズム、ユダヤ迫害なんかが風化してきてる中で、こういう問題をつきつめようとするっていうのも、スゴイことだと思うな。

ウンポコ:ぼくは、今朝読み終わったところなんだけど、深く、重い感銘を受けたね。ここ数年で、いちばんショッキングな作品だった。ぼくはねー、いつでも主人公に自分を重ねあわせて読むタイプだから、最初の部分は、ちょっと受けつけないっていうか、好きじゃなかったの。ぼくが15歳の少年だったら、21歳も年上の女性なんて、どうしたって嫌だから。それで第1部はピンとこなくて、いやいやながら読んだんだよ。でも、第2部、第3部になると、謎だった部分、たとえばミヒャエルが学校に行きたくないっていったとき、どうしてハンナはあんなに怒ったのか・・・なんかが、だんだんわかってくる。おお、これはなんだ?! と激しく読書欲を刺激された。文学のすごさ、すばらしさを感じたね。ねえ、ナチスの側にいた人を描いた本って、ドイツにはたくさんあるの?

ウーテ:さあ、どうかしら。

ウンポコ:ここまで内面の深い部分をえぐりだしたものって、そうないんじゃない? こういう歴史の現実を、ぼくは重く受けとめた。ところでこの作品、訳がこなれてないね。何回読んでも、何をいっているのか理解できないところがあった。乱暴だし、逐語的訳文が多すぎるよ。もう1回くらい、訳し直す努力をしたら、よかったんじゃない?

ウォンバット:私も一息に読んじゃった。帰りの電車の中で読みはじめたんだけど、早く続きが知りたくて、家に着いても服も着替えず、お腹すいてたのに夕食も食べず、最後まで読んでしまいました。こんなに夢中になった本は、久しぶり。ハンナが文字が読めないっていうのは、ふたりが旅行にでかけたとき、ミヒャエルのメモがなくなってて、ハンナが激怒した……っていう場面で、すぐわかったの。これはテレビ「大草原の小さな家」のエドワーズおじさんだ! って。エドワーズおじさんって、とてもいい人で、インガルス一家の大切な友人なの。テレビでは、彼が主人公の回で、実は字が読めないんだということが露呈しちゃうって話があるのよ。あと、ハンナが出所目前に自殺してしまうっていうのも、やっぱりと思った。映画「ショーシャンクの空に」で、長いこと刑務所に入ってて、ようやく出所したのに自殺しちゃうおじいちゃんがいて、とても印象に残っていたから。でも、それ以外の部分は意外性があって、うーん読ませる! と、うなっちゃった。この、自分の内面をみつめて、どこまでも追いつめていく辛抱づよさ、ねばりづよさって、ドイツらしい感じ。それから、ミヒャエルは匂いにこだわっているでしょ。若いときの、身だしなみに気をくばり、いい匂いのするハンナと、年老いて、老人の匂いのするハンナとの違い。ドナ・ジョー・ナポリの『逃れの森の魔女』も、匂いに対するこだわりが感じられた。日本の作品には、匂いがこんなにはっきり出てくるものは少ないような気がして、日本とは違うなあと思った。

H:でも、日本人のほうが、匂いには敏感なんじゃないの? 今の若い子なんて、すごく匂いを気にするでしょ。

ウォンバット:それはそうだけど。でも「匂い」ってもののとらえ方が、日本と西洋は根本的に違うような気がする。何を「臭い」と思うかも違うしね。

モモンガ:私はこの作品、「こうなるだろう」と思ったようにはならなくて、予想を裏切る意外な展開の連続だった。はじめは、年の離れたふたりの関係に興味をもって読んでたのね。でも、それだけではなくて、謎解きの逆というのかしら。途中から、今までに書いてあった伏線を探りつつ読むっていうのかな。それが他にないおもしろさだと思った。意外な展開になるたびに、あそこが伏線だったの? っていうところを思い出しつつ考えるって感じ。こういう読ませ方は、新鮮だったな。この作品のテーマは、恋愛とはまた別に、ナチスの犯罪を若い人がどうとらえるかということだと思うんだけど、とても勉強になった。受け入れなくてはいけない部分と、許してはいけない部分との葛藤がよく描けている。それから恋愛については、ひとつの恋愛が一生に渡って影響を及ぼして、これほどまでに深く人生に関わっていくというのは、すごいことだと思うわ。でも、文章が難しいね。なんか難しげな言葉を使ってるから、3回くらい読んでも、わからないところがあった。そこが惜しい!

愁童:前回ちょっと孤独を感じ、今回は不登校ムードの愁童です。ひるねさんから電話をもらって、なんとか重い腰をあげてやってきました。さて、この作品、第1部は読みづらかった。バンホフ通りの描写なんて、さっぱりわからん。こんな日本語あるかよと思ったね。ハンナの心の揺れ動きは、胸に迫るね。こういう極端な状況設定って、うまいと思う反面、これでいいのかとも思う。前に、この会で『ナゲキバト』(ラリー・バークダル著 片岡しのぶ訳 あすなろ書房7)をとりあげたときのことを思い出した。ぼくはとてもいい作品だと思ったんだけど、あざとい設定にごまかされちゃいかん! と言われたコンプレックスが、未だに尾を引いているんでね。

:設定に無理があったり、あざとかったりする作品って、それがネックになっちゃうことが多いけど、テーマがしっかりしていれば、そういう障害やほころびなんて乗り越えちゃうっていうこと、あるよね。

ひるね:私は、我ながら頭がいいなと思ったんだけど、広告を見て、もうだいたいストーリーがわかっちゃったのね。この本、大々的に宣伝してるでしょ。「衝撃的な事実」っていうのも、ドイツの作品だから、きっとナチス関係だなと思ったし。文字が読めないっていうのも、気がついちゃった。広告を見ないで読んでたら、もっとおもしろかったんじゃないかと思う。あんまり内容がよくわかっちゃう宣伝も、罪よね。私は、前半のふたりがアパートで過ごすあたりなんか、古典を読んでるみたいな感じがして、好きだったな。後半で、雰囲気が一転するでしょ。その前半と後半のものすごいギャップが、また魅力的。古典的な描き方で、現代的なことを書いている。ダーっと惹きこまれて読んだというよりは、あーやっぱり……と思って読んだんだけどね。でもね、読み終わってから2〜3日たつうちに、なんだか感動が増してきたの。はっきり意味がわからなかったところは、皮膚の表面が風化して、古く汚い表面だけが、ぽろぽろとはがれ落ちるように消えていって、美しくなめらかな肌があらわれてくるように、感動的な部分だけがよみがえってきてね。こういう感覚、最近ではめずらしいことだったわ。あと、読み書きができないということに関して、日本人とヨーロッパ人は感覚が違うように思う。こうまでして、それを隠すなんて。

:ひねくれ者なので、売れてるものにはとりこまれないぞ! と思いながら読んだんだけど、やっぱり惹きこまれてしまいましたねー。私は、夫とともに、長いこと識字運動に関わってるので、こういう形で読み書きの問題を扱ったっていうことに、まず興味をもった。さっき「読み書きができないこと」に対する感覚が、日本とヨーロッパでは、違うんじゃないかって話があったけど、私は日本とヨーロッパの違いではないと思う。「文字が読めない」ということの深さというのかな。でも、文字が読めないということは、マイナスだけではないのよ。朗読を聴いているときの集中力なんかは、文字を読める人には真似できないものがある。だからプラスもマイナスも、両方もあると思うの。

オカリナ:この作品は子ども向けではなくて、はっきり大人向けの作品だと思う。私が13〜14歳のときに読んだとしても、深いところまではわからなかっただろうと思うから。子どもが出てくる大人のための本っておもしろいのが多いけど、この本もおもしろかったな。とくに惹きつけられたのは、ハンナの人物像。今、ノーブルに生きてる人って、少ないでしょ。ハンナは労働者階級で教養はなかったけど、生き方はたしかにノーブルだったと思うの。

ねねこ:15歳の少年が、36歳の女性に惹かれるというのは、どう?

ウンポコ:ぼくはさっきもいったけど、ダメだね。嫌悪感がある。

ウーテ:この本、友人からストーリーを聞かされて、読む前からどんな話か知ってたの。しかけもわかってたから、正当に評価できないんだけど・・・。この作品がドイツで出版されたとき、むこうでも大評判だったのよ。 ミステリーっぽい大衆的なしかけと、純文学の幸せなミックスって感じよね。どっちもいいバランスで、大衆的なところもマイナスに働いてないのが、成功の秘密だと思う。ただね、さっきも話に出たけれど、訳があまりよくないわね。意味不明のところがある。これだけ内容がすばらしいんだから、訳がよければもっとよかったのにと思うと、残念ね。私の友人は、最後にハンナが死ぬ必然性が、どうしても理解できないっていってたけど、みなさんはどうかしら?

ねねこ:ハンナは刑務所の中で変わりはじめるでしょ。字をおぼえて、それで世の中に出ていくことを拒否する……。

愁童:ぼくは、自殺に説得力があったと思う。うまいと思った。

オカリナ:私は、そういう彼女なりの「オトシマエのつけ方」もふくめて、ハンナの生き方はノーブルだと思う。ねえ、ミヒャエルはテープを送るばっかりで、どうして彼女に会いにいかなかったと思う? 私は、具体的な愛情が年月を経て抽象的な、いわばより高次の愛情に変化したからだと思うんだけど。

ねねこ:ミヒャエルが自分を許せないって部分があったんじゃない? 児童文学じゃないっていってたけど、青年時代の愛がその後の人生におよぼす影響の大きさって考えたら、YAっていってもいいと思う。ミヒャエルは、葛藤の中でずっと生きてる。愛こそが、この作品を貫いているのよね。深いね。

ウンポコ:ミヒャエルは、青年時代に熟女から与えられた性の呪縛に、一生とらわれてるっていうふうに思えるけどな。だって、他の女性とどんな交際をしても、だめだったんだろ。ハンナの呪縛から逃れられないんだ。ハンナに手紙を出さないことが、せめてもの抵抗だったんじゃない? ハンナも歴史の波に翻弄されたけど、ミヒャエルもたいへんだったなって思うよ。同情するね。

オカリナ:最初は性の呪縛があっても、年月を経てふたりの関係そのものの質が変わって行くんだと思うけどな。

愁童:この本は、トンボの目玉みたいに、うまくできてるんだよねー。「なぜ手紙を出さなかったのですか」って、ミヒャエルにいうのは、ハンナじゃなくて、刑務所の所長なんだよ。本人には、そういうことを言わせない。それと、読み書きのできない自分を利用した国家権力を、ハンナが間接的に告発してるっていう面もあるんじゃないかな。

ひるね:エンターティメント的要素も、ちゃんとあるわね。グレアム・グリーンの『情事の終わり』って、とても好きなんだけど、あれに通じるようなものがある。

ウーテ:読み書きについてなんだけど、日本人だったらどうっていうことではなくて、識字率の高い国で、文字が読めない存在として生きるというのは、ものすごい重荷だと思うのよ。はじめてローマに行ったとき、首からガバンをさげてうろうろしてる若い人がいっぱいいたのね。何してるのかと思ったら、申請する書類を代筆するアルバイトのために、文字の書けない人がくるのを待ってるの。まあ、昔の話だけど、そういう商売が成り立つくらい、当時のイタリアには読み書きのできない人がたくさんいたし、それを隠してもいなかったわけよね。読み書きができないことを恥と思って、それを命と引き換えにするかどうかってことは、その国の教育程度とか、国民性によって違うと思う。やっぱり識字率の高いドイツや日本で暮らすのは、たいへんでしょうね。

愁童:それと、ぼくは、ハンナの遺した貯金の使い方がとてもうまいと思った。あの収容所の生き残りの人に、ハンナのお金を届けるなんてさ。彼女は「お金はいらないけど、缶だけもらいます」って言うでしょ。「私も昔、こういう缶をもってて」なんて話してさ、説得力があるね。

ウーテ:性の呪縛も、リアリティがあって、うまいわね。だってミヒャエルにとって、ハンナは便利な存在でもあったわけでしょう。15歳なんて、性的欲求の強いときにそばにいてくれて、いつでも自分のエゴを満足させてくれる、都合のいい存在でもあったわけだから。

ウンポコ:匂いから逃れられない、男性の生理が描いてあるんだ。呪縛かどうかはわからないけど、男性の作家でなければ描けない世界だと思うね。

(2000年07月の「子どもの本で言いたい放題」の記録)